春の訪れを告げる風が、静かに屋敷の庭を通り抜ける。
枝垂れ桜がはらり、はらりと花びらを落とし、石畳をやさしく彩っていく。
けれど、その美しさのなかで、少女はただひとり、土をかき出していた。

 「浅葱。そこ、まだ汚れてるわよ。ほら、もっと綺麗に拭きなさいな。神の使いがいらっしゃるのよ?」

甲高い声が庭先から降ってくる。
声の主は、絢爛な紅の振袖をまとった一人の少女。
朱鷺――朱鷺家の長女であり、この国で最も美しいと噂される娘。
漆黒の髪を結い上げ、紅を差したその面差しは、まさしく絵巻の中から抜け出たようであった。

だが、その麗しさの裏には、決して人には見せぬ棘が潜む。

 「……はい、姉さま」

浅葱は小さく返事をすると、手にした雑巾を再び石畳へと落とした。
爪の間は土で黒ずみ、膝はすでに何度も擦れている。
寒さに指がかじかんでいても、誰も彼女の手を気遣うことはない。

同じ家に生まれながら、立場は天と地ほどに違っていた。
浅葱は亡き先妻の子、朱鷺は現妻――継母の娘。
表向きこそ「姉妹」と呼ばれるが、実際の扱いはまるで奉公人だ。
いや、奉公人ですら名前を呼ばれるというのに、浅葱は時折「お前」「それ」とさえ呼ばれていた。

「ねえ、浅葱。どうしてそんな顔してるの? まさか自分が神の花嫁になれるなんて、これっぽっちも思ってないでしょうね」

くす、と朱鷺が唇を歪めて笑った。
その声に、浅葱の動きが一瞬だけ止まる。

「わたくしはね、この屋敷の希望なの。神の花嫁になれば、家は栄える。父上も母上も、きっともっと私を誇りに思うでしょうね。――その点、あなたはいいわね。期待もされてないし、裏切りようもないもの」

言葉は鋭い刃のように浅葱の胸を抉ったが、彼女は俯いたまま、何も言わなかった。
反論をすれば、また倍の罵りが返ってくる。
それを、十七年の中で嫌というほど学んできた。

だが、朱鷺は止まらない。
彼女の美しさと誇りは、他者を踏みつけることでしか確かめられないのだ。

「あなたが私の妹であるなんて、神様も随分、意地が悪い。けれど安心して。式の日には、あなたもきちんと連れていってあげるわ。……掃除女としてね」

浅葱はそれでも黙っていた。
冷たい石の感触が、指先を通して体に染みこむようだった。
空を見上げれば、桜の花びらが一枚、舞い降りてくる。
それが、彼女の髪にふわりと落ちた瞬間――なぜか、ひどく泣きたくなった。

けれど涙は落ちない。
ただ、胸の奥で何かが静かに疼いていた。
“どうして、私は生まれてきたのだろう”。
“誰かひとりでも、私を必要としてくれる人はいるのだろうか”。

その問いに答える者は、まだどこにもいない。
けれど、空の向こうには確かに、一人の男が近づいていた。
神に仕える者にして、花嫁を選ぶ使命を持つ、夜叉王――運命の使者が。

運命の歯車は、すでに静かに、音を立て始めていた。