萌黄の熱が下がった昼下がり。
真白と陸一郎の姿は見えずにホッとする。
屋敷の廊下ですれ違ったメイド達は、皆慌てて頭を下げた。
屋敷の裏の林を、二人で歩く。
初夜での悍ましい出来事は、海斗に話してはいない。
海斗も口に出したくないのだろうと察してくれる。
「この林が監獄のように見えました」
「そうですよね。結界石を解除することはできますが、どうか蔵を見てから決めていただけますか」
「はい」
身一つで逃げ出しても、その先の未来は暗い。
海斗はそれも気遣ってくれるのだ。
何からなにまで世話を焼いてくれる海斗。
どうしてこんなにも親切にしてくれるのか。
そして大きな古い蔵の前に着く。
確かに見た目は古くボロボロだ。
「でも……これは、わざと? わざとに朽ちているような加工と塗りをされているのですか?」
「さすが萌黄姉さん。そのとおりです」
「わっ……このナメクジの絵も本物みたいです」
「気持ち悪いでしょう? はは。萌黄姉さんがナメクジ嫌いだと知ったので消しておきましょう」
「いいえ、絵なら平気です」
なんでも萌黄を優先してくれる海斗。
彼が笑って、蔵の鍵を取り出す。
「いつか萌黄姉さんを自由にできるように頑張ります。だからしばらくは此処で我慢してもらえますか?」
扉を開いて、海斗が電灯を点けた。
「まぁ……! これは」
目の前に広がるのは、工房。
作業台に並べられた工具は磨き上げられ、本棚にはびっちりと魔道具に関する本。
キラキラと材料の鉱物が輝き、妙薬の瓶が並んでいる。
「ようこそ、俺の影工房へ。萌黄姉さん」
「す、素敵だわ……海斗さん、貴方はやっぱり……」
「はい。俺も魔道具技師であります……!」
工房と同じように、海斗の笑顔も輝く。
祓魔騎士だけではなく、魔道具技師でもある!
そんな文武両道の人を萌黄は見たことがなかった。
海斗と共に、工房へ入る。
「わぁ……! これは群青水晶の結晶! これは、芳賀神社の特別札! 貴重なペンペル草まで、すごいわ……!」
「萌黄姉さんならこの価値がわかってくれると思いました。どうですか一つ、作ってみますか?」
笑顔だった萌黄の顔が曇る。
「海斗さん、『俺も魔道具技師』と言ってくださいましたけど……私はもう祖父が亡くなった十歳の頃から……学ぶ事を禁じられておりまして……」
「存じております」
「もう十年も学んでおりません。学んでいたのも子供の頃、魔道具技師だなんて名乗れません」
「でも、魔道具錬成がお好きですよね?」
「それは、はい……!」
「此処では思い切り、学んで錬成して、開発して、論文書いて、やりたい放題ですよ」
海斗が両手を上げて、笑顔で言った。
萌黄の瞳が輝く、しかしまた曇る。
「い、いいのでしょうか」
「何か駄目ですか?」
「両親や真白や、陸一郎さんに……責められるかもしれません」
「そんなの俺が守ります。文句を言われる筋合いもない。これからは家柄だとか女性が家に尽くすとか、そんな時代じゃないんです。個人個人が声を上げて、一人一人が輝く時代なんですよ」
「一人一人が……」
「はい。だから、此処にいる限りは工房で、思い切り楽しみましょうよ」
「どうしてここまで……」
「どうしてって、憧れの『匠姫』と学べるんですよ。俺はすごく嬉しいのです」
『匠姫』
それは祖父に教えられ天才的な才能を見せた萌黄が皆に呼ばれた敬称だった。
「どうしてその名前を……私は貴方とお知り合いでしたか……?」
「……いえ、昔の話です。今日は萌黄姉さんの快気祝いと、俺の工房に匠姫をお招きできた記念に茶を用意したんです。さぁニ階が居住場所ですので、どうぞ」
階段を上がると、秘密基地のような部屋。
丸テーブルの上に綺麗に飾られた甘味とティーポット。
「まぁ、なんて素敵なんでしょう……!」
「喜んでもらえて嬉しいです。一部屋ですみませんが、こちらがベッドです」
丸テーブルの横にあるベッドは、可愛らしい海外製キルティングのベッドカバーがかけられている。
「可愛いです! こんなに素敵なお部屋を用意していただいて、なんと御礼を言ったらいいか」
ニ階の戸棚にも薬草や、瓶類が飾られて、三角屋根の天井からはユラユラと揺れる宇宙のモビールが揺れている。
「当然のことですよ。それではお茶を淹れましょうか」
「あ、では私が……」
二人でポットを持とうとして、二人の手が重なった。
「あっ……」
離そうとしたが、離せばポットが落ちてしまう。
また二人はポットを握り、手がしっかりと重なった。
萌黄の手を包む、温かい手。
「す、すみません。俺が手を離しますね」
「こちらこそ……すみません」
ゆっくりと海斗の手が離れる。
思えば、その手で何度も額の冷布巾を変えてもらったり、水を飲ませてもらったりしていた。
真白を追い返す際に、メイドが一人いると海斗は伝えていたが全て海斗が面倒を見てくれていたのだ。
それはメイドに恐怖心を持っている萌黄のためを思ってのこと。
萌黄の人生で、こんなにも誰かに優しくされたのは初めてだった。
「あの、お茶をお淹れいたします。台所の使い方を教えてくださいますか?」
「はい! 俺が作った竈で、飯も炊けます!」
そして奇妙な、夫とは別居をしながら義弟と過ごす影工房での生活が始まったのだった。

