「あっ……」

 萌黄の胸が激しく痛んだ。
 海斗は突き飛ばすことはせず、しっかり真白の肩を掴んで自分から離した。
 でも肩は掴んだまま、何かまだ話をしている様子だ。

「……海斗さん……」

 今まで真白の嘘で離れていった人達を、自分から追いかけた事はなかった。
 弁解したって信じてもらう事はないだろう。
 仕方がない、と諦めていた。
 一緒に真白に立ち向かってくれる人なんて、この世にいない……そう思っていた。

 でも、今……。

 胸が疼き、痛み……どうか真白を信じないでください……! そんな激しい想いが胸の中を巡っている。
 玄関の扉が閉まる音がして、階段を駆け上がってくる音が聞こえた。

「萌黄姉さん……姉さん?」

「あ……」

 溢れた涙を慌てて拭った。

「真白さんは追い返しました。大丈夫ですよ。安心してください」

「……真白を……信じないで……ください……」

 絞り出すような小さな声が出た。
 
「えっ」

 驚いた海斗の声。
 彼から続く言葉が怖い、そう思って顔を背けてしまう。

「萌黄姉さん。俺がそんな男に見えますか……?」

「……海斗さん」

「信じるわけないじゃないですか。あんな嘘をよく吐けるなぁと唖然としてしまいましたよ」

 海斗が萌黄の傍に寄り添う。

「萌黄姉さんがどういう御方かは、俺のほうがよく知っています」

「……海斗さん」

「萌黄姉さん、安心してください」

「……わ、私を信じてくださって、ありがとうございます」

「当然ですよ。だから萌黄姉さんも、俺を信じてくださいね」

 そう言いながら、優しく微笑んでくれた。

「……真白に、抱きつかれて……」
 
「男が全員ああいうことをされて、喜ぶと思われるのは困ります」

「……真白は、自分に触れられると男性は皆が喜ぶものだと言っておりました」

「俺は嫌ですよ。好きな女性以外に触れられるだなんて、寒気がしました」

「そ、そうですか……」

「はい」

 この前に抱き締められたのは、ただの慰めと励ましだ。
 姉と義弟としての……。そうですよね? と心が疼く。

「萌黄姉さん。座りましょう」

 そっと、手を繋がれて二人で丸テーブルの椅子に座る。
 向かい合って座っても、海斗と手を握りあったままだ。
 
「……少しこのままでもいいですか? ……俺も、突然だったので動揺もあって」

「は、はい……妹がご迷惑をおかけしてすみません」

 萌黄が優しく握り返すと、海斗はその手に左手も重ねて長く息を吐く。

「落ち着きます」

「は、はい……」

 さっきまで、傷ついていた心がドキドキし始める。
 
「……実は、先ほど真白さんに抱きつかれて思い出したのですが……」

「はい、一体何を……?」

「一年前に留学することが決まった時に、塾生の皆が送迎会をしてくれたんです。皆で酒を飲んで語り合っていたのですが、気付いたら彼女が隣にいて……俺は知らなかったのですが、塾生の中ではマドンナのような存在だったようです」
 
「真白は男性陣にとてもモテますからね……」

「女性はほとんどおりませんしね。それで……交際を申し込まれました」
 
「えっ……!」

 驚く萌黄の手を、海斗はまだ優しく包んだままだ。

「すぐにお断りしたのですが、かなりしつこく最後は暴言を吐かれました」

「まぁ……それは大変失礼なことを……申し訳ありません」

「萌黄姉さんが謝ることではありません。すっかり忘れていたので……先ほども、もしかしたら怒らせてしまったかもしれませんが……」

「……まさか……それで私と陸一郎さんを結婚させようと?」

「……まさか……それで兄と関係をもつだなんて、正気じゃない。偶然でしょう? 兄弟だから似ている部分もある……とか?」

「だといいのですが……相手は真白ですから……海斗さんに危険が及ばないといいのですが」

「俺は大丈夫ですよ。萌黄姉さんが心配な面もありますが、俺が必ず守ります」

「はい……ありがとうございます」

 しっかり握りあった手を見ると、少し恥ずかしくなってきた。
 
「萌黄姉さん。もう大丈夫です。ありがとうございました……ではお茶を淹れましょうか」

「はい……私は食器を片付けますね」

 ゆっくりと手が離れて、お茶を淹れながらドキドキしてお茶を飲んだ。
 椅子の距離が、少し近くなった気がする。
 
 真白が、海斗に好意を抱いていた。
 驚くべき事実だ。
 
 真白が落とそうとして、落ちなかった男はいない。
 真白が言っていた言葉だ。
 陸一郎も、きっと真白の美貌と妖艶さに落ちたに違いない。

 でも海斗は真白に告白されても、なびかなかった。
 安心して、ホッとした。
 
 でも……それは好きな人がいるから……?
 いや、恋人がいたっておかしくない。
 胸がまた痛くなる。
 
「萌黄姉さん……?」

「あっ……いいえ」

 海斗に見つめられて、慌てて微笑む。
 気付けば、海斗の事ばかり考えている。
 胸が痛くなったり、ドキドキしたり……。

 なんてことだろう。
 結婚してから……初めての恋をした。

 萌黄は自分の心に芽生えた感情に気付いたのだった。

 そして、その影で真白は……。

「許せない……! また萌黄のせいだ……! 絶対許さない……!」

 激しい怒りと熱情を燃やしていた。