最近仲良くなった葉という男は、晴に横顔ばかり向けている気がする。キラキラと音がしそうなほど輝いている瞳は、今は赤いチューリップにとまる黄色い蝶に夢中だ。金曜日の五限目の最中だからか、大学の中庭はやけに静かである。この中庭は葉の城だ。花壇の前に二人でしゃがみ込んで、一体どれほど時間が経っただろう。
「ねえ、葉くん」
 隣の彼の名前を呼ぶと、彼は小さな声で「うん」と答えた。その目は未だに蝶を捉えている。そんな葉にムズムズするのは、端的に言えば晴は葉と話がしたいのだ。特に用事があるわけでも無いけれど、くだらないことを話して楽しく笑っていたい。他の友人相手なら願う前に至極当然に叶う願いだろう。もしかしたら当たり前のことでありすぎて願いもしないことかもしれない。それが葉相手になると途端に難易度が高くなるのだから不思議だった。
「葉くん」
 もう一度呼びかけてみると今度は返事もない。この晴を蔑ろにするだなんて、随分といい度胸だ。自分で言うのもどうかと思うけれど、晴は昔から人間関係に苦労したことなどなかった。生きていれば男女問わず人が寄ってきて、晴はいつだって主人公だったのだ。それが葉の前では全く通用しないらしい。少し不貞腐れた気持ちになりながら膝の辺りで頬杖をつく。こんなに相手にされないならそろそろアルバイト先に向かおうか。まだシフトには早い気がするけれど、寂しい気持ちにさせた葉が悪い。一つ息を吐いて、立ちあがろうと足に力を入れる。
「晴」
 もう少しで立ち上がると思ったところで名前を呼ばれた。その声と共に晴を振り返った葉は、なぜだか嬉しそうに笑みを浮かべている。
「なに」
 晴は怒っているのだ。でもやっと晴を見てくれたことが嬉しいのも事実で、心の中に喜びと怒りが複雑に混在している。
「モンキチョウ、可愛いな」
 それはきっと黄色い蝶の名前なのだろう。晴は少しも虫が好きではないから、正確にはよくわからない。でも否定する気持ちにはなれずに、適当に頷いて見せた。それに対して葉はさらに嬉しそうに微笑む。
「晴と一緒にこうしていると、すごく楽しい」
 そこまで言われてしまえば、悪い気はしないというものだ。にやけそうになる頬を強引に引き締めて、「そう?」だなんて言ってみる。葉は丸い目を優しく緩めて「そうだよ」と応えた。
 それから葉は再び蝶を観察し始めてしまった。その横顔を、頬杖をついたままに眺める。まるで落とし穴にハマった気分だ。まんまとたらし込まれて、こうやって彼の隣から離れられない。晴はそんな自分に少し笑って、黄色い蝶が羽ばたくまでそのままでいてやるのだった。


 葉の髪は、葉特有の甘栗色をしている。きっと染めているわけでもないのだろう。話すようになってすぐの頃、話のタネに「いい髪色だね」と言ってみたら、「昔から太陽をいっぱい浴びたからかな」とほにゃほにゃ意味がわからないことを言っていた。今日も太陽をいっぱい浴びたのだろう甘栗色を一番後ろの席から眺める。ちょっと癖っ毛なところが彼らしい。
 学科が異なる葉とは、時たま基礎科目で講義が重なることがある。葉はだいたい所属する生物学科の友人と窓際の前の方の席で受講するため、後方の座席を好む晴が話しかける機会はほとんどなかった。友人に笑いかける横顔は若葉みたいだ。葉は今日みたいに木々が青々と綺麗な時期の生まれだろうか。少し考えてみるだけでも、葉という名前はなるほど随分と趣深い。
「また見てる」
 隣から聞こえてきた声に思わず体を跳ねさせた。反射で振り向くと、親友の真が目を細めて晴のことを見ている。
「……なんだよ」
「今、葉のこと見てたね」
 確かに見ていたから、図星すぎてきまりが悪い。「見てねえよ」と小さく言うと、「へえ、そうですか」と雑な相槌が言葉が返ってきた。
 この真という男は、端正で気が利いて、誰よりも誠実な男だ。でも葉のことになると途端に面倒な人間になる。それは多分、二人が幼馴染同士であるからなのだろう。葉を晴へ紹介したのは真であるくせに、やけに晴の行動に厳しいのだ。
「本当、葉のこと好きだね」
 揶揄うように言われると、つい反論したくなる。それでも否定的なことは言いたくなくて言葉に詰まった。
「俺は晴を心配してるんだよ」
「……心配?」
 唐突に始まった先の読めない話に、真の放った単語を繰り返す。
「そう。葉の高校時代までの異名、知らないだろ」
「異名って、何それ」
「その名も、イケメンホイホイ。意味わかるか」
 イケメンホイホイ、と口の中で呟いてみる。つまり、葉の周りにはイケメンが寄ってくるということだろうか。確かに葉は可愛らしいイメージだけれど、間違いなく男なのだ。中庭で蝶々を追いかける葉にイケメンが群がる様子を想像してみたら少し面白い。
「意味わかんない」
「わからないだろ。葉も本当は女の子に好かれたいらしいよ」
「そうだろうね」
 男という生き物ならば、当然可愛い女の子に好かれたいに決まっている。女の子は可愛い。晴を遊びに誘ってくれる子たちは、みんな欠かさずおしゃれをして、晴を立てて気持ち良くしてくれる。
「まあ、葉だって女の子にモテないわけではないけどさ」
「……」
 真の言葉は事実なのだろう。わかっているつもりでも納得がいかないことはある。葉は、朗らかで明るくて、穏やかだ。外見も爽やかで可愛らしい。虫や生物を変態的に愛しているというだけで、異性から好まれないわけではないことくらい理解できる。でも、妙に納得がいかない。なぜだかすごく嫌なのだ。全く面白くない。
 黙ったまま不貞腐れた晴を見て、真が自らの眉間を指差した。おそらく皺が寄っていることを晴に教えているのだろう。
「晴って面白いな」
「なにがだよ」
「お前、女の子が好きだろ?」
「はあ?」
「今日も南さんたちと遊ぶくせに」
「真も行くだろ」
「まあ、行くけど」
 そう白々しく返した親友に肩を竦めて、それから自然と葉の方を見た。それは本当に、なんとなく見てしまっただけなのだ。また真に何か言われると慌てて視線を逸らそうと思った時、友人に囲まれて楽しそうにしていた葉と目が合った気がした。その瞬間、パッと表情を明るくした彼の様子に、心がふわっと晴れやかになる。晴は嬉しそうに手を振る葉へ応えるために手を軽くあげた。でもそれとほぼ同時に不安になったのは、隣の真が慣れたように手を振ったからだ。葉は誰に手を振りたかったのだろう。真だけに向けてだとしたら恥ずかしすぎる。それでもあげかけた手を下げるわけにはいかないから、葉へ向けてひらりと手のひらを向けてみせた。
「晴が見過ぎたせいで気づいたね」
 面白そうにそう言った真の言葉は「ふん」と無視して、今度は緑が茂る中庭へと視線を向けるのだった。


 六月の雨はしつこいほどに空から降り注ぐ。晴は正面に見える大きな窓越しに外を眺めた。人生経験上からは梅雨なのだろうと推測できるけれど、ニュースも観ない上に新聞も読まないために本当のところはよくわからない。でもきっと、葉なら知っているのだろう。今が梅雨なのか、梅雨ではないのか。なんて名前の草花が生き生きと茂って、どのような種類の生き物が栄えるのか。葉の口からなら聞いてみたい気がする。でもあれほど自然が好きな男も、ここ最近は雨のせいか大学の中庭に姿を見せないのだ。講義では見かけても、たくさんの友人に囲まれている葉に話しかけるのはかなり戸惑われた。最後に会って話をしたのはちょうど先週の雨上がりの中庭でのことだ。顔まで泥で汚して、一生懸命に生き物を捕まえていた姿。そんな葉を正面から見下ろして、真っ直ぐに向けられた丸い目がなんとも。
「晴、何か良いことでも考えてる?」
 ふと隣からかかった声に慌てて顔を向ける。晴の顔を覗き込むように見ているのは親友の真だった。ううん、と首を軽く横に振ると、真は「へえ」と意味有り気な視線だけよこして、晴の肩をポンと軽く叩いた。
「仕事中ですからね」
「うん」
 適当に頷いたけれど少々きまりが悪い。アルバイト中であることを忘れていたのは事実だ。
 駅から少し離れた場所にあるこのアルバイト先は、煉瓦造りの凝った内装と洒落たメニューが有名なカフェである。十九時以降になれば酒類の提供もしていることから、正確にはカフェバーと言うのかもしれない。真と共にアルバイトを始めたのが昨年の六月ごろだったから、丸一年は働いていることになるだろう。複雑なカフェメニューや数多の酒類を覚えることには苦労したのの、真と一緒にシフトに入ることも多く、案外楽しく仕事ができている。
 今日のような日は雨だからこその憂鬱さはあれど、気分は少し楽だった。カウンター内で作業をしていても、フロアに出て接客をしていても、いつものように不躾な視線を感じない。店内の客はほとんどが雨宿り目的らしく、静かに過ごしてくれているのだ。普段は晴や真目当ての女性客が訪れることが多いため、接客に忙しいのが常だった。考え事ができるほどに静かなシフトというのは珍しい。
 でもこれ以上ぼんやりしている訳にはいかないだろう。今日はもう一つの仕事の打ち合わせもあるのだ。その仕事とは、幼い頃から続けているモデル業である。オーナーの厚意もあって、シフト終わりに店の一番隅の席を借りて打ち合わせをする予定なのだ。だからこそ、店の仕事も手を抜くわけにはいかない。
 表の仕事は落ち着いている今、普段手をつけられないバックヤードの掃除でもしようか。面倒だなと思いつつもそう決めて、真に伝えようとしたその時だった。カランカランと鳴ったドアベルと激しい雨音。きっとまた雨宿りだろうと思いながら入り口を見遣ると、ずぶ濡れの男が勢いよく駆け込んできたところだった。水分で髪が重くなって目元が伺えないけれど、多分同世代くらいだろう。
「葉?」
「え、葉くん?」
 真に一瞬遅れて、男が葉であると気がついた。薄暗い照明の店内ではわかりづらいものの、立ち姿は確かに葉だ。慌ててカウンターを抜け出して葉の元へ急ぐ。ずぶ濡れの彼は小刻みに震えているようだった。
「葉くん、大丈夫?」
 晴が声をかけると、葉は前髪を掻き上げてパチパチと大きな目を瞬かせた。
「寒すぎるね。晴、こんにちは」
 そんな挨拶に適当に頷きながら雨に濡れた肩に触れると、体は氷のように冷え切っている。 
「葉、どうしたの」
 その声と共に近寄ってきた真は、おそらくバックヤードから持ち出してきた大きな白いタオルで葉の頭を包んだ。わしゃわしゃとされるがままに拭われている様子はまるで犬みたいだ。なんだかムズムズソワソワするのは、晴も犬みたいな彼の頭を拭いてやりたいからかもしれない。
「真、ちょっと痛い」
「わがままだな。我慢しなよ」
 二人の関係性はいつもこうだ。面倒を見るのが当然な男と、面倒を見られるのが当然な男。その点、晴ときたらまだ葉の面倒を見るまでに認められていない気がする。
「中においで。ヒーターあるから」
 真が店内に促すと、葉は慌てたように首を横に振った。
「大丈夫。床濡れちゃうから」
「いいって。どうせ暇だし、掃除するから」
「いや、本当に。二人が働いてる店をちょっと見てみたいなって思っただけなんだ」
 二人が、ということは、真だけでなく晴のことも頭数に入っているらしい。なんだか途端に良い気分で「そうなの?」と尋ねてみると、葉は素直にこくりと頷いた。
「本屋を出た時は小降りだったんだけど、急に雨粒が大きくなってさ。明日は水たまりがたくさんできるだろうから、アメンボが喜ぶね」
「ふふ。うん、喜ぶね」
 アメンボが喜ぶと、葉も喜ぶ。それが晴としても嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。でも、真の細められた目と不意に視線がぶつかって、それとなく表情を取り繕った。
「本屋って、バイト?」
 真が晴から葉へと視線を移しながらそう尋ねた。
「そう」
「大変だった?」
「床が濡れるから、掃除がね」
「お腹は空いてない?」
「空いてる」
「今なら紅茶淹れてあげるけど。よければカレーも食べて行く?」
「……カレー」
「しかも、晴の奢り」
 突然出てきた自分の名前に「え?」と声が漏れたけれど、澄んだ大きな目を輝かせた葉を目の前にしたらなんでも良いかと思った。
 誰もいないカウンター席に葉を案内すると、当然のように真が紅茶を淹れ始めた。つまり、カレーを奢るのも用意するのも、この晴の仕事ということだ。黙ってバックヤードへと下がって、オーナーが朝のうちに仕込んでおいてくれたカレーをかき混ぜながら温める。葉はカレーが好きなのだろうか。もし好きなのだとしたら、この前女の子たちから教わったカレーの美味しい店に行こうと誘ってみようか。その様子をちょっと想像してみて、「うーん」と唸った。友人から遊びに誘われることはあっても誘うことは少ないからなのか、晴が葉を誘うところを想像してみると格好悪くて不自然な気がする。こんなの晴らしくない。そんな風に考えていたら、表の方から「晴?そろそろどう」と真の声が聞こえてきた。鍋の中がぶくぶくと煮立ってきたことを確認して、火を止める。ライスと熱々のカレーを大皿によそって、冷蔵庫を漁ってミニサラダ用に用意していた輪切りのゆで卵を勝手に傍へ飾った。
 店の方へと向かってカウンター席にいる葉の目の前にカレーライスを提供すると、大きな目が晴を捉えた。なんとなく動きを止めて、その瞳を覗き込む。
「晴、ありがとう」
「うん」
「この店のカレーは卵までのってるんだ」
 黄色が可愛いね、と同意を求められて、思わず眉の辺りを指先で掻いた。幸い、真は玄関の辺りでモップがけをしている。それを確認してから、晴はそっと葉へ顔を近づけた。
「葉くんにだけ、特別」
 葉は大きな目と共に口まで少し開けている。その様子が無防備で、あどけなくて、可愛い。そう思った瞬間に今までのあれこれがストンと腑に落ちた。葉は、すごく可愛い。そうか、可愛いのかと納得しながら笑いかける。すると葉は目をまん丸にしてから、今までで一番嬉しそうに笑った。


 梅雨が明けたらしい。そう聞いたのはこの前同じ学科の女の子たちと遊んだ時だった。その言葉は葉から聞きたかったなと思いつつ、晴は「蝉が喜ぶね」と言った。女の子たちの反応はあまり覚えていない。ただただ、蝉が喜ぶと葉も喜ぶだろうなと思っていたのだ。学科一番の美人にボディタッチをされても、腕を組まれても、ずっとずっと上の空だった。
 大学の食堂の窓際は晴の特等席だ。大きな窓は中庭に面していて、花壇の一番近くの席が定位置である。金曜日の昼は特に気合を入れてこの場所を死守するのだ。なぜなら金曜日だけは、食堂と中庭でしか葉に会えないからだった。
「さすがに早いですね」
 そう揶揄うように言ったのは、四人がけテーブルの向かいにいつの間にか立っている真だ。彼のこういった態度には慣れたものだ。肩を竦めて、「まあね」とだけ言うと、真は「あれ、葉がいない」と中庭に視線を向けながら呟いた。金曜日の二限は空きコマらしい葉は、いつもは中庭にいるのだ。それなのに今の所姿が見えないことは晴も気になっていた。
「どこ行ったんだろ」
 着席しながら晴に聞いてくる真になんとなく苛ついてしまう。葉のことで真にわからないことは晴にもわからない。関係値で言ったら晴よりも真が上なことくらい、付き合いの長さが物語っている。でも勝手に苛ついているのも子供っぽい気がして、晴は首を傾げるだけにとどめた。
「晴くん、真くん」
 ふわりと香る甘いコロンの香り。女の子が好きそうな香りは、多分有名な雑誌とかに載っている代物なのだろう。そんなことを考えながら通路の方を見上げると、この前遊んだばかりの女の子たちが揃って立っていた。学科一番の美人である南が先頭に立って、その後ろに数人控えている。
「南さんたち、どうかした?」
「マイ」
「頑張れ、マイ」
 小さな声援と共に、後ろの方にいた可愛らしい女の子が押し出されて南の隣に並ぶ。
「あの、今日は天川くんは」
「え、葉?そのうち来ると思うよ」
 真が答えると、彼女は小さな声で「そうなんだ」と呟くように言った。
「ほら、マイ」
「う、うん。……実は」
 なんとなく嫌な予感がした瞬間、真と視線がぶつかる。
「実は、私、天川くんのことが、好きで」
「そういうことなの。だから二人も応援してくれない?」
 南の自信に満ちた声を聞きながら、葉のことが好きだという彼女を観察してみる。緩く巻かれた長い髪も、施されたメイクも、洗練された服装も、可愛いのかもしれないけれど個性には乏しい。葉にはふさわしくなさそうだ。
「まあ、無理かな」
「え、どうして?」
 晴の答えに、南が意外とでも言うように目を丸く見開いた。葉に好意を抱いているらしい彼女も、周りの取り巻きたちも、全員が予想していなかった返答らしい。
「いつもみたいに、みんなで遊ぶだけで良いんだけど」
「だから無理だよ。葉くん、好きな人いるし」
 これはまるっきり嘘だ。葉に好きな人がいるのかもいないのかも、実際にはわからない。でもどんなに好きな相手がいたとしても、きっと中庭の生き物には敵わないだろう。その考えは晴の心を救うのと同時に、激しいほど鋭く傷つけた。晴が心の痛みに息を詰まらせていると、晴に代わって目の前の真が「まあ、また今度ね」と彼女たちを笑顔で拒絶した。
 納得いかなそうなままに去っていく後ろ姿を見ていたら今度はムカムカしてくる。葉に近づこうだなんて、絶対に許せない。しかも一人で立ち向かう勇気も持たないだなんて、葉に好意を向ける資格すらない。彼女たちを見ていると気がおかしくなりそうで、晴は呼吸を荒くしながら今度は罪のない白色の机上を睨みつけた。
「晴、怒りすぎ」
 そう言った真を遠慮もせずに睨みつける。すると真は心外だと言うように目を瞬かせた。
「まあね、俺も面白くなかったけど」
「そうだろ」
「葉とマイちゃんを利用して、俺たちに近づきたいって見え見え」
 その考えはなかったけれど、言われてみればその通りかもしれない。そんなの余計に許せない。息が止まりそうになるほどに怒りが湧き上がる。
「それはそうとしても、そんなに怒るなんてどう言うこと?」
 真はいたって冷静に晴の目を覗き込んでくる。
「そりゃ、怒るだろ」
「晴、女の子好きじゃん」
 いつだか言われたことと同じ言葉なのに、否定したくて仕方がない。でもそれは男として健全ではない気がして、晴は必死に呼吸を整えて思考をクリアに近づけた。
「そりゃ、好きだよ」
「そうだろ?女の子の、どこが好き?」
「はあ?」
「ほら、どこが好きですか?」
 ふざけていると思ったのに、真は思いがけず真面目に晴のことを見ている。だから取り繕うように思考を巡らせた。
「女の子は、可愛いよ」
「うん。それで?」
「良い匂いがするし、優しい。それに、柔らかい」
「……柔らかい」
 復唱と共に若干軽蔑の眼差しを浴びて流石に慌ててしまう。親友にこの視線を向けられるのはショックだ。でも、これは序の口だった。
「やっぱり、晴ってすごく女の子が好きなんだな」
 心臓が信じられないくらい跳ねて、同時に隣を振り返る。そこには驚いたような、それでいて感心したような表情で、なぜだかふむふむと頷く葉が立っていた。
「え、いや……」
 言葉を詰まらせた晴に代わって、真がすかさず身を乗り出す。
「葉、これはたとえばの話」
「たとえば?」
「そう。たとえば、男は女の子のどこが好きなんだろうなって」
「なにそれ。変な話してるね」
 葉はそう言いながら、真の隣へと回り込んで椅子に緑色のリュックを置いた。いまだに心臓がバクバクしているけれど、同時にひどく心が傷ついている気がする。それは聞かれたくない話が聞かれたくない人に聞かれてしまったからなのか、それとも彼がいつもと同じく隣に座ってくれなかったからなのか。葉の優先順位は、いつだって晴より真が上なのだ。すでに真がなにやら冗談を言って、葉はケラケラと笑っている。今のやり取り全てにおいて葉の心は少しも反応しなかったのだと突きつけられて、それがさらにショックだった。
「二人とも、先にお昼買っておいでよ」
 真の提案に、鈍い動作で頷く。いつもだったらこの瞬間はすごく嬉しいのだ。葉と他愛もない話をして、葉のことをまた少し知って、その会話を何度も反芻する。でもそれに何の意味があるというのだろう。
 席を立って券売機に向かおうとすると自然と葉が隣に並んだ。いつもよりも少し近く感じる距離は、きっと晴の思い違いなのだろう。だって心はこんなにも遠く離れている。そう思ったのに、ふと背中に感じた温もりは、確認するよりも先に葉の手のひらだとわかった。思わず振り返って、少し低い位置にある綺麗な顔を見つめる。
「晴、大丈夫?」
「……え?」
「具合、悪い?」
 心から心配してくれているのだと晴にはわかった。だからこそ、フルフルと首を横に振る。勝手に気持ちを揺らして心配をかけるだなんて恥ずかしい。
「大丈夫だよ」
「そうなの?でも無理するなよ」
 ぽんぽんと優しく背中に触れられて、ゆっくりと温もりが離れていく。それが寂しいと思うのと同時に、葉が妙にイタズラな表情をしていることに気がついた。
「でもさ、晴は女の子にモテるんだから、辛いことなんてないはずなんだよ?」
「何それ」
 おどけて元気づけようとしているらしいその言葉に、思わず笑みがこぼれる。心が温かくなって、くすぐったいほどに可愛い。ところが葉は急に俯き、晴の腕をそっと掴んでから足を止めた。
「葉くん?」
 晴も自然と動きを止めて葉の顔を覗き込もうとした。
「でも、これだけは言わせてくれ」
 その言葉と共に、耳元にぐっと寄せられた唇。吐息が触れて、背中が震えた。
「俺だって、ちょっとくらいは、柔らかいはずだよ」
 息が止まった。見開いた目に、葉の笑顔が映る。イタズラが成功したかのような嬉しそうな顔に、可愛いと思う余裕なんてなかった。
 再び世界が動き出した時には、葉は目の前から消えていた。さっさと券売機の方へと去ってしまったことに気がついて、逃してたまるかと追いかける。そしてそのまま肩を抱いてみた。仲良くなってから数ヶ月は経っているけれど、こんな接触は初めてだ。晴は盛大にドキドキしている。至近距離で見る葉の横顔。キラキラな瞳は、今は虫ではなくメニュー表に夢中だ。困ったなと、素直に思った。どうしてこんなに無邪気な葉に惹かれてしまうのだろう。無邪気で、イタズラで、可愛くて、ちょっとくらいは柔らかいらしい。そんなの、どう考えたって。
「晴は何にするの?」
「葉くんは?」
「うーん。カレーか、カツ丼か」
 晴を見ようともしない葉の振る舞いには慣れている。寂しいのは確かだ。でも、それならどうにかして振り向かせたら良い。
「じゃあ、葉くんがカレーで、俺がカツ丼。一切れあげる」
 パッと振り返った葉は、満面の笑顔。それが向けられているのが晴だけだと思うと、この感覚が癖になりそうだ。
「いいの?ありがとう」
「いいえ」
 笑顔に応えるように渾身の微笑みを向けてみる。これで大抵の女の子は落ちるのだ。しかしそれに対して特別反応は見せず、葉は晴の腕から抜け出した。弾むような足取りで券売機へと向かっていく後ろ姿。まったく、困った生き物だ。晴は小さく溜息を漏らしつつもそんな葉のことが堪らなく好きで、そんな自分自身のことが割と好きだなと思えたのだ。


 騒々しく鳴いている蝉は夏を喜んでいるのだろうか。それとも、残り少ない命を嘆いているのだろうか。晴にはよくわからないけれど、とっとと彼に見つかってくれと思っていた。彼とは誰かと言ったら、もちろん葉だ。鳴き声はするのに姿が見えないという理由だけで、葉は蝉を探すために中庭の木々を大捜索している。晴には目もくれないまま、どれほど時間が経っただろう。七月末の真昼間は身体中の水分が蒸発しそうなほどの暑さだ。晴は唯一木陰になっているベンチに座りながら自分の身を案じ、ぬるくなったミネラルウォーターを一口飲んだ。でも流石に限界だ。葉にとってもこの暑さは良くないに決まっている。ほとんど保護者のような気持ちで、晴はベンチから立ち上がった。
「葉くん」
 それほど距離があるわけでもないのに、桜の大木を見上げる葉は少しも反応しない。晴は仕方なく木陰から抜け出して、葉に近づきながらもう一度「葉くん」と声をかけた。するとやっと彼の耳に届いたのか、葉はくるりと晴を振り返ってふわりと笑顔を浮かべる。
「晴、ずっといたの?」
「そうだよ。ずっといた」
 間近まで歩み寄ってみると、晴よりずっと涼しい顔をしていると思った葉は汗だくだった。汗が目に入ったようで葉がぎゅっと目を瞑る。ふと笑みが溢れたのは、その様子さえ可愛いと思ったからだ。瞼を擦ろとした手の甲を遮って、晴はズボンのポケットから取り出したハンカチで汗を拭ってやる。
「ふふ、子供みたい」
 晴が思わずそう言うと、葉は少し不貞腐れたように唇を突き出して「よく言われる」と言った。
「もうだめ。暑すぎるから、一緒に食堂行くよ」 
 そう伝えながら葉の背中に手を添える。Tシャツまでもぐっしょりと濡れているけれど、相手が葉だと思えば少しも嫌ではないのだ。
 中庭用の出入り口である食堂のガラス戸を開けると、冷たい空気がふわりと体を包んだ。そのことに安心すら覚える。
「あ、真」
 窓際にある四人がけのいつもの席に座った真が、晴たちに右手を挙げている。五限目のこの時間、こんなに涼しい場所から葉のことを眺めていたのだと思うと心底羨ましい。でも葉の一番近くを選んだのは自分自身であるために、文句も言えないのだ。
「真、蝉がいないんだよ」
「そうなんだ、不思議だね。こんなに鳴いているのに」
「そうだろ」
 葉はそう言いながら、真の対角線上の席に腰掛けた。つまり、晴に対して隣に座れと暗に示している。それだけで心が湧き立って、晴は嬉々として葉の隣の席を引いた。
「晴、葉のお守り、お疲れ」
 その言葉に、ちょっと吹き出しながらこくりと頷く。すると隣の葉が再びムッと唇を尖らせたことがわかった。
「葉、着替えは?」
「ないよ」
「サークル、どうするわけ?」
「今日は体育館でバスケだから、どうせ汗かくじゃん」
「ジャージは持ってきた?」
「この服で大丈夫でしょ」
 葉と真の所属するサークルは、週に何度かスポーツをするだけの賑やかなサークルだ。最近になって晴も入部を決めたため、三人でつるんでサークルに参加することが多い。今日もそのつもりだった。男女問わず元気すぎるところが気になるものの、悪意があるような人はおらず、そこそこ楽しくやれている。
「でも、その後バイトでしょ?」
 真の言葉に、確かにと考える。幸い晴自身はモデルの仕事の打ち合わせがあるために、念のため着替えを持ってきている。それを葉に貸してやったほうが良いだろうか。
「一旦帰ってシャワー浴びようかな」
「それがいいかも」
 すでに貸してやる気満々だったから、ちょっとがっかりだ。でもアルバイトの前に一度汗を流した方が葉にとっても良いだろう。
「本屋、忙しい?」
 気を取り直して晴が尋ねると、葉はきょとんとした顔で晴のことを見つめてきた。
「本屋?本屋じゃないよ」
「え?本屋だったじゃん」
「今日からカフェ」
「カフェ?」
 驚いて思わず声を上げた晴に対して、向かいに座る真は平然としている。
「ちゃんとメニュー予習した?」
「うん。みんな美味しそうだった」
「葉が美味しく作るんだよ」
「いや、待って待って。なんで葉くんのバイトが変わったこと、俺は知らないの?」
 晴が尋ねると、葉は再びきょとんとして「言ってなかった?」と首を傾げた。
「言ってないよ!」
 最近では毎日のように昼を一緒に過ごしている上に、サークルでも会っている。そこそこ同じ時間を過ごしているはずなのに、どうして真は知っていて晴が知らないのだろう。我ながら険しい顔をしている自覚がある晴に、真は軽く机を指先で叩いて、「駅前のさ」と言った。
「ほら、あそこ。駅前の、大きいカフェあるだろ」
「大きいって、あのチェーン店の?」
「そう、あそこだって」
「えぇっ!」
 晴の想像通りで良いのであれば、膨大なメニューとおしゃれな店内に客足が絶えず、働いている人間も若者ばかりで煌びやかなイメージがある店だ。よりにもよってと気が遠くなりながら、なんとか平静を装って咳払いをした。
「なんであそこなの?」
「葉、言っていい?」
 真の言葉に、葉がこくりと頷く。何か確認が必要な理由でもあるのだろうか。
「葉は、そろそろモテたいんだって」
「……はあ?」
 晴が声を上げて隣の葉を見ると、葉は当然といったように再びこくりと頷いた。
「モテたいですって先輩に相談したら、誘ってくれたんだ」
「先輩って誰」
「古川先輩」
 知らない名前に頭を抱えたくなるのを必死で耐える。知っている先輩でも困るけれど、晴が知らない先輩だなんて厄介にも程がある。なんてことをしてくれたのだろう。
「葉くんはモテてるよ」
 明るくて、優しくて、朗らかで、真っ白に可愛い。この久遠晴がそう思うくらいなのだから、葉を想う人間は男女問わず多いはずだ。何人か牽制してきた記憶もあるから確かである。ところが葉はそんな言葉では納得しないらしい。
「俺がモテてるわけないだろ。晴や真と比べてごらんよ」
「いや、俺も葉はモテると思うけどね」
「今日は蝉にも近づいてもらえなかった」
 葉が再び唇を尖らせた。何かが不満な時にするこの仕草が、今ではすごく心配になる。こんな可愛い姿を、もしかしたらこれからは不特定多数の人間が見ることになるのだ。真剣な顔や笑った顔、困った顔に焦った顔まで無自覚に披露すると思ったらあまりに恐ろしくて、体が冷えて震えてきた。
「葉くん、今からでもやめよう?」
「なんでだよ。バイトしたって俺がモテないって?」
「そうじゃないよ。モテすぎたらどうするの?」
「そのためにバイトするんだよ」
「変な奴がいたらどうするつもり?」
「俺は男だから、女の子を守ってあげないとね」
「ダメダメ!葉くん自身が一番大切だよ」
 半ば悲鳴をあげそうになりながら、この晴ともあろう男が必死で止めるのだ。それなのに当の本人は全く譲る気はないようで、決意のこもった真っ直ぐな瞳が眩しい。助けを求めるように真を見ても、呆れたように肩を竦めて首を横に振るだけだった。
 それから体育館でバスケットボールをしている間も、休憩中も、晴は葉を説得し続けた。
「葉くん、あのカフェは忙しそうだよ?恋なんてできないって」
「それはやってみて確かめる」
「カフェなんてたいしたことないよ」
「晴や真だってカフェで働いてるじゃん」
「葉くん、お願い。俺がお小遣いあげるから」
「子供扱いするなってば」
 プライドやら何やらを全て投げ捨て葉のことが大切なのだと精一杯伝えたのに、葉には全く伝わらなかった。
 サークル終わりになって、カフェで働くことを先輩たちへ報告しているその横顔を見つめる。こんな心配事さえなければその姿は可愛くてたまらないのに、今は不安と切なさで胸が痛んだ。
 渋々ながら葉と別れて打ち合わせ場所であるカフェバーへと向かう道中で、晴は隣を歩く真を恨めしく睨みつけた。真も真で、これからシフトらしい。本当は幼馴染の偵察に行ってこいと言いたいのに、それは叶わないのだ。八方塞がりな状況に、晴は大きく溜息をつきながら口を開いた。
「なんで早く教えてくれなかったわけ?」
「何が?」
「葉くんがカフェで働くって」
「いや、知らないとは思わなくてさ」
「葉くんが血迷ってるって相談してくれてもいいじゃん」
「だって血迷ってないもん。むしろ健全だよ」
 そういうことじゃないと言いたいのに、何を言ってものらりくらりと躱されそうで、晴はもう一度溜息をついた。その様子を見て流石に哀れに思ったのか、真が晴の顔を覗き込んでくる。
「まあ、晴が悪いよ」
 さらりと言われた言葉に絶句する。落ち込んでいる晴にかける言葉がそれなのか。信じられないと初めて親友に怒りそうになったところで、励ますようにポンポンと肩を叩かれた。
「モタモタしてるお前が悪い」
「……はあ?」
「だってずっと好きなんだろ」
 ストレートにそう言われて、言葉に詰まった。確かに、好きなのだと思う。本来女の子と遊ぶことが好きな晴が、誰の誘いにも乗らなくなったほどには。目があったら嬉しくて、横顔だってずっとみていたいほどには。でも、そんなに簡単ではないことは、当事者である晴が一番わかっているつもりだ。
「……俺も葉くんも男だよ」
 親友に向けて放った言葉が、晴自身の胸に突き刺さった。気にしているつもりもなかったけれど、それは何よりも高いハードルに思えた。今日の言動からもわかるように、葉だって晴なんかより女性に好かれたいに決まっている。
「まあ、悩むか。確かにね」
 やはり、親友の意見も同じなのだと思うと、余計に心が沈み込む。胸の奥がドロドロと蠢いて、苦しくてたまらない。そんな晴に気がついたのか、真がもう一度肩をポンと叩いた。
「でもさ、葉は晴の顔好きだと思うよ」
「え?」
「晴を見るとき、特別好きな生き物を見つけたみたいな顔してる」
「うそ」
「まあ、二度と言わないけど」
 思わず立ち止まった晴を置いて、真はスタスタと先に行ってしまう。今、重大なことを教えてくれたのではないだろうか。微笑んでも無視ばかりされるから、少しも有効ではないと思っていた晴の顔。葉のことならなんでも知っている真からして、この顔は十分に戦えるらしい。一気に活力が湧いて、心がふわりと軽くなった。
「真」
 なるべく大きな声で名前を呼ぶと、真が振り返りながら立ち止まった。
「なに?」
「本当、ありがとう」
 真は黙って晴を見つめてから、一度だけ小さく頷いた。
「俺にとったら大事な幼馴染なんだからな」
「わかってる」
「本当は晴みたいな遊び人、嫌なんだよ」
「もう遊んでねぇよ」
「知ってる。だからちょっとくらいは許してやろうと思ったの」
 真の元まで歩み寄ると、彼は呆れたように晴を見て少しだけ笑った。
「頑張れよ」
「うん、頑張るよ」
 らしくないことくらいわかっている。それでも大事な葉に、モテたいだなんて、モテていないだなんて、今後絶対に言わせたくない。そして何より、変な虫が少しだって寄りつかないように。晴は葉のために、自分のために、できることはなんでもするつもりで大きく息を吸い込んだ。


 明るくて落ち着いた店内に、おしゃれな店員たち。古川も一応、その一員である。古川は近くの大学の生物学科に通いながら、コーヒーが香るこのカフェで働くことが割と好きだった。毎日忙しいけれど、店員同士の仲も良く、客との交流も面白い。そんなアルバイト先に、今日から新入りがやってきた。彼の名前は天川葉。古川の大学の後輩で、虫や生き物が大好きな男子大学生だ。どうやら最近になってモテたい衝動に駆られたらしく、モテたいならとこのアルバイトに古川から誘ってみたのだった。恐らく、これまでのバイト先である本屋よりも格段に若者との交流があるに違いない。それに、真面目で明るくて一生懸命な葉なら、きっとこのカフェでも重宝されるだろうと思っていた。
 その予感は的中して、葉にとってアルバイト初日であるにも関わらず、彼は上手くやっている様だった。主に洗い物と清掃をリーダーから任されて、仕事を丁寧にこなしながら店内中の人間に愛想を振りまいている。
「古川があの子を紹介してくれて良かったよ」
 リーダーがコソッと声をかけてくるくらいには店員たちにも好感触らしい。紹介した身として多少は気にしていたために、その言葉に一安心だ。
 しかしながら、先ほどから葉が一向にカウンター内へ戻って来ないのだ。何か困ったことがあったら助けてやらないといけない。頼まれていたレジの仕事を片付けて、古川はカウンターの外に出た。すると客席の一番奥に、近隣高校の制服を着た女子高校生に囲まれている葉の姿を見つけた。一人に腕を掴まれている様子に、葉が困っていたらどうしようかと少し焦りながら歩み寄る。
「お兄さん、教えてよ」
「だから、教えられないって」
「じゃあ、その人何歳?」
「えぇ、……同じ年」
「えー!」
 ワッと騒がしくなったことに、葉が慌てて口元に人差し指を押し充てた。
「もう、この話はおしまい。みんな飲み終わったら早く帰るんだよ」
「私たちにもごゆっくりって言いなよ」
「じゃあ、ゆっくり飲んで、早く帰んな」
 素直に「はーい」と言った高校生たちに満足そうに頷いた葉が古川を振り返った。表情からしても、どうやらそんなに困ってもいなかったみたいだ。
「あ、先輩」
「悪いけど洗い物頼める?」
「はい」
 頷いた葉と一緒にバックヤードまで行くと、そこには洗い物がたまっているだけで誰もいなかった。それを良いことに、古川はシャツの袖を捲る葉の顔を覗き込む。
「先輩?」
「葉、さっき何話してたの?」
「さっきって、高校生たちとですか?」
「うん」
「いや、大した話じゃないです」
「ふーん」
 本当に大した話ではないのか、話したくないのか。気になってそのままの状態でいると、葉がちらりと古川を見て、「えっと、実は」と言った。
「うん」
「いや、恥ずかしいけど」
「なんだよ」
「好きな人の話です」
「……お前、好きな人いるの?」
 そんなの、意外にも程がある。葉といえば、人間よりも生き物が好きな特異な男だと思っていた。つまりは葉の中の順位づけを勝手に予測するとしたら、色恋なんて生物や生活の幾つも後に存在しているか、むしろ葉の中には存在していないとすら思っていたのだ。どうしてか動けなくてそのまま葉の顔を眺めていたら、葉は恥ずかしそうにくふっと笑った。
「でも多分、一生片想いですけど」
「そうなの?なに、彼氏持ちとか」
「うーん、どうかな。その辺は知らないけど、可愛いくて、良い匂いがして、それで柔らかい子が好みだって」
「その子、ふくよかな男が好きなの?」
「……よくわからないけど、つまり俺ではないってことです」
「へぇ」
 可愛くて、いい匂いがして、柔らかいだなんて、まるで女の子のことみたいだ。葉の好きな子は、女性のことが好きなのだろうか。そう考えて首を捻っていると、古川はある可能性にたどり着いた。別に、葉の好きな人が女性とは限らない。女性のことが好きな男性に恋をしている可能性だってあるのだ。なんだかデリカシーのない会話をしてしまったのではないかと頭を抱えたくなった。目の前の葉はすでに目を伏せて洗い物に一生懸命になっている。長いまつ毛につんとした鼻先、集中すると尖る口元が可愛いらしいなと、自然と思った。
「モテたいって言ってたけど、その子のことは諦めるの?」
「え?いや、そうですね。……できたら諦めたいですね」
「そうなんだ」
「だって」
「ん?」
「……すごく、すごく、素敵な子なので」
 そう言って古川を見て笑った顔は、少し泣きそうにも見えた。古川の胸がドクッと音を立てて、迷いながら「そっか」としか言えなかった。純粋に女の子にモテたいだけの無垢な後輩だと思っていたのに、可哀想で、可愛くて、なんだかちょっと儚い。ただの後輩に対してそんな風に思ったことが不思議だった。
 葉をバックヤードに置いてレジに戻り、考え事をしながら仕事をしていたら、あっという間に時刻は二十一時になった。閉店まであと一時間。そろそろ暇になってきた店内で出来ることを探していると、突然一人の若い男性が店に駆け込んできた。そのあまりの勢いに男性を振り返った女性店員たちが、揃いも揃って一斉に華やいだ。パーツが美しく配列された小さな顔に、すらりと長い手足。男性は古川のレジまでやってくると、古川へ向けて真剣な顔で「あの」と声をかけてきた。その美しさに多少怖気付きながらも「どうされましたか」と返すと、彼はカウンター内を覗き込みながら「天川葉くんは」と尋ねてきた。
「お友達ですか?」
「はい」
 怪しくは見えないけれど、なんとなく葉を呼びに行く気にはなれない。後輩のことは守ってやるのが先輩としての義務だ。
「もう帰りましたか?」
 黙っている古川に尋ねる彼の顔を見たことで、古川は急に思い出した。目の前の彼は、葉とよくつるんでいる男子学生の一人だ。葉と、その幼馴染の楠田真、それから目の前にいる久遠晴の三人は、学内でも有名だった。一緒にいるところを見るととにかく華やかな三人組で、その中でも晴はモデルをしていると噂で聞いたことがある。
 古川がそれを思い出しているうちに晴がレジの奥を覗き込んで、それからパッと顔を輝かせた。
「葉くん」
「え、晴?」
 他の店員に呼ばれてバックヤードから出てきたのだろう。葉が古川の方へ近づいてくる気配。それからすぐに隣に並んだ葉は、晴の顔を見上げて嬉しそうに笑った。
「晴、コーヒー飲みにきたの?」
「うん、それと葉くんの様子を見にね」
「心配性だな。たくさん洗い物して、晴の想像よりはちゃんと役に立ったと思うよ」
「そうじゃなくて、変なやつに絡まれたりしなかった?」
「うん。みんなと仲良くしてるつもり」
 ねえ、と同意を求められて、少し悩む。すると晴も古川へ視線を向けて、「そうなんですか?」と聞いてきた。まるで三者面談みたいだ。そう思いながら「そうだな」と返すと、葉は「ほら」と得意気に笑った。
「でも、女子高生に絡まれてたな」
「え?」
「恋バナしてたもんな」
 目の前の晴が綺麗な形の目をまん丸に見開いて、古川と葉を交互に見遣った。
「し、してないです!」
 葉は首をブンブンと横に振って、訴えかけるように古川を見上げてくる。ちょっと揶揄うつもりだったのに、さすが葉だ。反応が面白くて可愛い。葉の姿にニヤニヤしていると、「あの」とカウンター越しに声がかかった。それは確かに晴の声だったけれど、それまでとは異なるひどく冷たい声に、自然と背中が冷える。
「はい?」
 返事をしながらも、その無表情に本気で怯えてしまう。晴の瞳には、静かな青い炎が見えるようだ。
「恋バナって、どんな内容ですか」
「どんなって……」
「もし葉くんに恋人ができたら、俺はこの店を」
 その脅しにも似た言葉にパッと晴を振り返った葉は、レジ横の小さな隙間から晴の元へと駆け寄った。
「邪魔しないで。俺の心からの望みなんだから」
「少なくとも葉くんに恋人なんてできたら、俺は」
「じゃあ、晴が女の子を紹介してよ」
「無理、やだ。絶対」
「それなら、俺はずっとこのまま?」
「葉くんに好きな子がいないなら、今のままでいいじゃん」
 こんなに親しく見えるのに、晴は何も知らなそうだ。葉にはあれほどまっすぐに想う相手がいることも、その相手が男かもしれないことも、きっと知らないのだろう。出る幕ではないことくらいわかっている。それでも居ても立ってもいられない。
「葉にだって、好きな子くらい、いるんじゃないの」
「せ、先輩」
 唐突な古川の発言に、葉が怯えたように振り返った。そんな姿に、大丈夫と少し笑いかけて言葉を続ける。
「いや、俺も知らないけどね。葉は秘密主義だから、君に言ってないこともあるかもよ」
 一応、葉を助けようと言ってみたつもりだ。あんまり詮索したり深入りしたりしたら葉が可哀想だ。仲が良いのにも関わらず伝えていないことがあるということは、それなりの理由があるのだろう。例えば好きな相手が同性であれば、それも大きな理由の一つになるかもしれない。
「葉くん、俺に隠し事してるの?」
 晴が葉の顔を覗き込む。今にも触れ合うのではないかと思うその距離に、少しだけ心臓がドキリとなった。
「隠し事なんてしてないよ」
「本当?」
「……でも」
「うん」
「言えないことは、ちょっとはある」
「……そうなんだ」
 葉の言葉に、晴は分かりやすく気を落としたように見えた。
「でも、それは晴のために言わないって決めてることだけだよ」
「俺のため?」
「例えば、そうだな。同じ生物学科の子が晴のことを好きな話、とか」
「他の子の話ね」
「その子は自分に好かれたら晴が困ると思ってるんだ」
「困るって?」
「晴は可愛い女の子が好きじゃん。その子は、自分のことを可愛いとは思わないんだって」
 まあ、そんな子もいるかもしれない。晴ほどの男なら、好意を持った上で思いを告げてくる女の子なんて氷山の一角に過ぎないだろう。
「でも晴のおかげで毎日楽しいって言ってた」
 そこまで言うと、葉はポンポンと晴の肩を叩いた。
「モテすぎるのも大変だな。頼むからちょっと分けてよ」
「やだ、無理」
「晴」
「なに」
 少し不貞腐れた様子の晴が短く答えると、葉はカウンター上のメニュー表を指差した。
「来てくれたお礼に何か奢るよ」
「葉くんが作ってくれるの?」
「俺みたいな素人じゃなくて、そちらの先輩プロ店員の皆さんが」
 葉がそう言うと、ドリンクを作る係の女性アルバイトたちが嬉しそうに顔を見合わせた。対する晴はわかりやすく残念そうに「そっか」と眉尻を下げた。
「じゃあ、コーヒー」
「夜だけど、コーヒーでいいの?」
「うん」
「他は?ケーキとか、サンドウィッチもあるよ。あっ、ベーグルもある!」
 ベーグルに嬉しそうな顔をした葉に、悲しそうな顔をしていた晴が吹き出した。
「なんで葉くんまでお客さんみたいなの?」
 そんな晴に「へへっ」と笑う葉は、今日一番可愛いかもしれない。
 空いている店内とバイト仲間の計らいで、晴に提供するコーヒーは葉が淹れることになった。それを見守っていた晴は保護者みたいに喜んで、その姿に女性店員たちも嬉しそうにしていた。
 結局晴は閉店時間まで居座って、アルバイト終わりの葉を連れて颯爽と帰っていった。もしかしたら本当に保護者なのかもしれない。「葉くん、早く」「待ってってば」と言い合いながら帰っていく後ろ姿は、仲が良くて何よりだ。
「ねえ、古川くん」
 振り返ると、一緒にシフトに入っていたアルバイトの女子大生三人が葉たちを見送りながら、どこか浮ついた雰囲気だ。
「あの二人さ、怪しいよね」
「え?」
「気づかなかったの?そのうちくっつくんじゃない」
「少なくともあのイケメンは葉くんのことが大好きよ」
 今それぞれの口から教えられた話は、全部が三人の総意のようだ。一人ならまだしも、全員がそう思ったのならそこには信憑性が生まれてしまうだろう。古川はなんとなく複雑な気持ちになった。葉の好きな相手は晴なのだろうか。葉には心から想う相手と幸せになってほしい。もし晴がその相手ではないのだとしたら。
「俺、奪っちゃおうかな」
 冗談で言ってみると、三人も楽しそうに「何それ」「うける」「ちょと応援する」だなんて笑っている。
「まあ、でもさ。透くんがなんて言うかだよね」
「透って、どうして?」
 透とは、今日はシフトに入っていない近隣の美術大学に通う二年生だ。京極透という少々厳つい名前だけれど、常日頃から白馬に乗っている方がスタンダードに思えるほどに男前の優男なのだ。でも、葉に会ったこともないはずの透の名前がどうして出てくるのだろう。
「だって葉くんって、透くんの初恋相手みたいなんだもん」
「そうそう。虫が好きで、人間に興味のなさそうな可愛い男の子」
「幼稚園の時の話らしいけどね」
「ふーん」
 とりあえず適当に相槌を打っておく。古川としてはまだ、晴と葉が両思いかもしれないというところで止まっているのだ。透のことまで考えるには少し時間がかかるだろう。
 バイトリーダーに促されて、賑やかな女性陣と揃って店舗を後にする。なんだか色々と心が忙しい数時間だった。もう面倒だから葉に本命を聞きたいところだ。もし片思いの相手が晴でなくて葉に少しも靡きそうにない男だったら。その時はどうにかしようと本気で考えながら、古川は帰路につくのだった。


 七月とはいえども、夜の空気は昼間よりもずっと涼しい。葉はこっそり隣を見上げて、くふっと笑った。その瞬間にうっかり彼と目が合いそうになって、誤魔化して慌てて夜空を見上げてみる。輝いているのは、蛍みたいに小さな星々だ。月並みな言葉だけれど、隣の彼はあの星よりもずっと綺麗に輝いている。晴という名前の通り、きっとよく晴れた素晴らしい日に生まれたに違いない。葉にとって太陽であり、綺麗な青空でもある晴のことが、葉はずっと好きだった。
「星見てるの?」
 晴が葉に倣って星を見ながらそう尋ねてきた。本当は晴のことを見ていたわけだけれど、本当のことを言ったらきっと困るだろうから大人しく頷いておく。
 リーンリーンと鳴いているのは恐らくマツムシだ。きっとメスに向けて愛を叫んでいるのだろう。葉だって、素直に愛を口に出せたら良いのに。でもそうできないのは、きっと訪れる悪い結末が怖くて、大好きな晴を嫌な気持ちにさせたくもないからだった。
 仲良くなったのは今年の四月に入ってから。でも、幼馴染の真の隣にいる晴のことにはずっと前から気がついていた。初めてまじまじとその姿を見た時には、まるで世界一美しいとされるモルフォチョウのようだと感心したものだ。真と二人で並ぶと少女漫画の中に入り込んだかのようで、女の子が放っておかないのも頷けた。最初はそんな気持ちだったのに、いつの間にかずっと葉の隣にいてくれたら良いのにと思うようになったのだ。それはもしかしたら、六月のあの日が決定打になったのかもしれない。
 きっと晴は覚えていないだろう。六月の貴重な晴れ間、葉は大学の中庭で虫を捕まえていた。雨の後には雨の後にしか見られない生き物たちがいるのだ。だからぬかるむ地面にも負けず、虫籠の中をいっぱいにすることを目標に庭を駆け回っていた。
 気がつけば全身泥だらけで、まいったなと頬を掻いた。こんな姿になって、自習室に入れてもらえるだろうか。早々にレポートを書いて、虫たちを逃がしてやりたいのだ。
「葉くん」
 そう声が聞こえた瞬間に、ほとんど反射で振り返った。美しくてクールで、それからとびきり優しい晴のことは既に友人として好きだったから、声をかけてくれたことが純粋に嬉しかったのだ。でも外廊下の途中で佇む彼の隣には、綺麗な女の子が立っていた。ズキリと痛んだ胸が何を意味しているのか、その時はあまり考えなかった気がする。
 晴は彼女に手を振り、葉の正面まで駆け寄りながらクスリと笑った。その笑顔がなんとも言えず美しくて、葉はきゅっと目を細めた。晴がお日様みたいに眩しくて、泥だらけの自分自身との対比に居た堪れない気持ちになった。
「すごい、泥だらけ」
 葉の頬に手を添えて、晴が独り言のように呟いた。それからしきりに親指で頬を擦っているのは、もしかしたら泥を拭ってくれているのかもしれない。
「泥だらけも似合うね」
 それってどうなのかと思いつつも、顔に触れる手の優しさが嬉しくて、そのまま素直に受け入れ続ける。
「晴くん」
 その声にハッとして晴の肩口から外廊下の方を覗くと、晴と手を振って別れたはずだった女の子がまだそこに佇んでいた。
「晴、呼んでるよ」
 葉がそう言っても、晴は葉の顔を綺麗にすることに夢中なようで反応してくれない。
「晴」
 もう一度名前を呼ぶと、晴はやっと葉の目を覗き込んだ。
「葉くん」
「うん」
 女の子が呼んでるよ、と言いたかった。それなのに何も言えなかったのは、晴がもう一度優しく微笑んだからだ。雨上がりの中庭で、晴だけがキラキラと煌めいて見える。
「どうしてこんなに」
「え?」
 思わず聞き返したところで、晴の肩の向こうの女の子が中庭に足を踏み入れた姿が見えた。
「あ、危ないよ」
 あんなに高いヒールで中庭に入ったら、きっと転がって怪我をしてしまうだろう。葉は慌てて駆け寄ろうとした。でも、晴がそれを遮ったのだ。葉を置いて颯爽と女の子に近づくと、体を支えて外廊下のコンクリートへと促す。女の子は嬉しそうに笑って、葉のことをチラリと見ると晴の腕をギュッと組み取った。女の子のことが羨ましいと思ったのは生まれて初めてだった。葉だって、一瞬でいいからハイヒールが履いてみたいとも思った。でもハイヒールを履いたって、可愛くないと晴には助けてもらえないのかもしれない。晴が相手にする女の子は可愛くて、当たり前に良い匂いがするのだろう。くんくんと肩の辺りを嗅いでみる。これは多分、湿った草の匂いだ。可愛くないし、良い匂いもしない。絶望的だ。でも同時に思ったのは、絶望するほどには晴のことが好きなのだということだった。
 それから少し経ったある日、葉が想像した通りのことを晴が言っていた。女の子は可愛くて、いい匂いがして、優しくて、柔らかいところが好きだって、本人がそう言ったのだ。悔しくて、悲しくて、心がどうにかなってしまうかと思った。でも試しに言ってみたのだ。
「俺だって、ちょっとくらいは、柔らかいはずだよ」
 言ったところで晴からの反応は何もなかったから、成功か失敗でいったらきっと失敗だったのだろう。度々葉に向けられる「可愛い」という言葉も、きっと子供に対するものと同じだ。今日も中庭で蝉を探していただけで「子供みたい」と言われたのだ。子供に対する「可愛い」は恋愛にはつながらないことくらい、葉だって知っている。
「葉くん?」
 ハッと我に帰って隣を見ると、晴が心配そうに葉の顔を覗き込んでいた。晴は今日、葉のアルバイト先までわざわざ来てくれたのだ。きっと晴の仕事も忙しいのに、葉の仕事ぶりを心配してくれたに違いない。
「晴はさ」
「うん」
 話し始めてから、今から言おうとしていることは、本当に言っても良いことか考える。でも考えている最中に言葉が口から溢れてしまった。
「晴は、かっこいい」
 きっと言われ慣れたセリフだ。それでも晴は嬉しそうに笑って「ありがとう」と言った。
「俺、晴のこと大好き」
 ただの戯言に聞こえるだろう。でも、だからこそ言えたのだ。
「だから、絶対に好きな人と幸せになってね」
 そうでないと、葉が浮かばれない。溢れそうになるのは、涙か、本音か、そのどちらもか。それを必死に押し留めていたら、急に晴に左手を引かれた。そのまま立ち止まると、晴は真剣な顔で葉のことを見つめている。この顔はもしかしたら、少し怒っているのかもしれない。
「葉くん、俺のこと好きなの?」
「う、うん」
「それは、どんな好き?」
 どんなと言われたら、今すぐにでも抱きしめたい方の好きだ。晴に失礼だと思って真面目に考えたこともないけれど、本当は晴とキスがしてみたい。でもそんなこと、絶対に言えない。
「俺は、葉くんとならなんでもしたい」
「なんでも?」
「そう。その意味、考えてみてくれない?」
 その意味、その意味。葉となんでもしたいと思う意味。葉は思わず首を傾げた。人付き合いはなんとなくの感覚で行なっているから、すごく難しい問いだ。生き物を捕まえる方がよっぽど簡単で、人間という理性的動物のことはとても難しい。葉が必死になって考えていると、晴は厳しい表情を緩めてふわりと笑った。
「本当、可愛い」
 赤くなりそうな顔を必死で顰める。可愛いわけない。今提示されたのは、晴の中ではきっと優しい問いに違いない。それがわからないなんて、葉という人間は何か欠落しているのかもしれない。
「ゆっくり、ゆっくり。俺のことだけ見ていて」
 うわあ、と声を上げなかった自分を褒めてやりたい。それほどまでに、かっこよくて、美しくて、鳥肌が立った。今の、絶対映画にした方が良い。でもその映画のヒロインは絶対に葉ではないだろう。そう思うとすごく切ないから、結局は映画でなくてよかったのかもしれない。
 スッと左手を取られて、優しく繋がれる。もしかして迷子にでもなると思われているのだろうか。
「葉くんのアパートまで送ってあげる」
 やっぱりそうだ。また子供扱いされているのだと思うと悔しいのに、アパートまで一緒にいられると思うとどうしようもなく嬉しい。だから葉は晴にバレないくらいの強さで、その手をきゅっと握り返してみるのだった。


 全部だめだ。何も上手く描けない。八月の静かな学内が余計に気を滅入らせる。透は鉛筆を軽く放り投げて、大きな溜息をついた。デッサンすら上手く描けないなんて、美術を学ぶ資格がない。描けない苦しさは描いている間の苦悩よりも辛かった。少し考えて、机に転がった鉛筆を拾い上げる。どうせ一時間後にはアルバイトだ。今日はもうやめにしよう。誰もいない講義室で荷物をまとめると、透はアルバイト先へと向かうべく、ゆっくりと立ち上がった。
 大学内を歩いているといくつかの視線を感じる。人と関わるのは苦手な方ではないけれど、こんな気分の日はいささか面倒だ。「透くん」だなんてかかった可愛い声に微笑みと共に手を振りながら、大きなキャンパスバッグを肩に担いで颯爽と校門を後にした。
 アルバイト先であるカフェチェーン店には、どうやら先週から仲間が増えたらしい。
「ヨウタだか、ヨウヘイだか、そんな感じの名前だった気がするよ。古川がヨウって呼んでたから」
 バイトリーダーがそう教えてくれたのはちょっと前のことだった。ヨウと聞いた瞬間に心が弾んだのは、自分の馬鹿らしいところであり、可愛いところだ。忘れもしない、幼稚園で出会った初恋の相手がヨウだったのだ。あの頃は性別なんて二の次で、自分と同じ男である彼のことを一生懸命に想い、結婚まで考えていた気がする。透の引越しで年長になる頃にはお別れをした仲だけれど、彼のことは確かに特別だった。
 初恋だなんて、甘酸っぱくて鮮やかで最高の題材だ。大人になった彼でも想像してデッサンしてみようか。いや、それは少し気持ち悪いかもしれない。そんなことを考えながら、辿り着いたカフェの裏口から店舗内に入る。簡易的な男子用のロッカールームに入室すると、そこにはちょうどエプロンを身につけている同じ年くらいの男が透に背を向けていた。見たことがない後ろ姿に、彼こそ新入りのヨウタだかヨウヘイだかだと察した。
「お疲れ様です」
 後ろ手に扉を閉めながらそう声をかけると、白いシャツにエプロン姿の彼が振り返る。甘栗色の髪に、大きな目。認識した瞬間、心の奥に何かが引っかかった気がした。「あ、はじめまして。昨日から入った天川です」
 天川、と口の中で呟いた瞬間、体の奥がブルブルと震えて、息が止まる。記憶の中の彼は、確かにそんな名前だったはずだ。いや、まさか。そう思うのに、心が先に間違いないと確信する。白い肌は柔らかそうで、繋いだ手の感触まで鮮明に思い出せる。きっと、彼だ。
「京極、透です」
 気づいて欲しくて、わざとゆっくり慎重に名乗ると、彼の大きな目が溢れそうなほどに見開かれた。


 十数年ぶりの再会を果たした場所は、薄暗い男子ロッカールームだった。街中とか、学校とか、いくらでも再会のシチュエーションを想像したことはあったけれど、まさか本当に目の前に現れてくれるとは思いもしなかった。
 ヨウは葉と書くらしい。彼のことを気にしながら三時間ほど働いて、やっと余裕ができた二十時過ぎになって知った事実だ。本人には言わなかったけれど、可愛いらしくて、明るくて、元気な彼にぴったりな名前だと思った。老若男女誰にでもフラットに優しくて、彼がいるだけで場が明るくなる気がする。仕事にも慣れてくれば、もしかしたらファンがつくかもしれない。
「ねえ、葉ちゃん」
「ん?」
 熱心に洗い物をする彼の横で、綺麗になったマグカップを布巾で軽く拭いていく。なんとなく心が浮き足立って、いつもの仕事がより楽しく思えるのが不思議だ。
「久しぶりの僕、どう思った?」
 透の質問に、葉は「えー、そうだな」と言いながら考えているようだ。こんな面倒な質問も真っ直ぐ受け止めて、嫌な顔せずに答えてくれようとしているらしい。
「透くんは、もっとかっこよくなったね」
 葉の言葉に、ふと昔を思い出した。あの頃、女の子みたいに可愛いと言われ続けることが何よりも嫌だった。葉はそんなことまで覚えていないかもしれないけれど、それでも自然と透が傷つかない言葉を選んでくれているようで、そこがまた彼らしさに思える。
「でもあんまりかっこいいと、俺は悔しいけど」
「悔しいって、どうして?」
「だってモテるだろ?モテてる人は俺の敵なの」
 葉はおどけたようにそう言って、チラリと透を見て笑った。幼い頃と変わらず素直で、お茶目で、あの頃の自分は人を見る目が確かだったらしい。
「葉ちゃんって、本当に可愛い」
 自然と口をついて出た言葉に、透自身が驚いた。今年成人の男相手に可愛いと思うだなんて、透らしくもない。言われた張本人は「そうかも」だなんてふざけたように言って、もう一度楽しそうに笑顔を見せるだけだ。透の言葉が彼の心には少しも反響しないのだとわかると、無性に悔しいのはなぜだろう。
「葉!」
 唐突に、店の方から葉を呼ぶ声が聞こえてきた。葉は「はーい」と大きな声で返事をして、透に対しては「呼ばれちゃった」と小さく囁いた。
「やっておくから、行ってきて」
「悪い、ありがとう」
 葉を見送って、洗い物に手をつける。やっておくと言いながらも、葉がほとんど終わらせていたためにすぐに片付いた。タオルで手を拭って、マグカップを並べたカゴごと店のカウンターへと運び込む。自然と目に入ったのは、先輩の女性店員に教えられながらドリンクを作る葉の姿だ。マグカップを所定の場所へ並べながらも、その横顔を自然と見守ってしまう。作っているのはホットドリンクのようだ。マグカップにドリンクを注いで、そこにホイップをのせる。そして最後に手に取ったのはキャラメルソースだ。
「それでハート描いて」
 その声は、葉をカウンター越しに見守っている男性客からのようだった。自然と顔を顰めてしまったのは、仕方がないことだろう。
「え、ハート?」
 驚いた様子の葉に、男性客は嬉しそうに頷いた。葉の後ろに立つ先輩の女性店員は客を止めるでもなく、微笑ましそうにそのやり取りを眺めている。
「ハートなんて描けないかも」
「いいから、葉くんなりのハート描いて」
 随分と馴れ馴れしい客だ。何かあったら助けに入ろうと思う透の傍ら、葉は一生懸命にホイップの上にキャラメルソースをかけ始める。
「……はい、ハート」
 ハートが完成したのか、客にマグカップを提供しようとした葉に、見守っていた女性店員は「ちょっとソースが少ないかも」と言った。
「そうですか?でも、ハートが」
「じゃあ、僕が描きましょうか」
 居ても立っても居られずに話に割って入った瞬間、例の男性客と目があった。無表情でやけに美しい顔をしている客は、透や葉と同年代に見える。
「僕、絵を描くのは得意なので」
 ラテアートは得意だし、キャラメルソースを扱うくらい苦労しないはずだ。そう思いながら、葉が提供しようとしていたマグカップをチラリと見る。どんな角度からもハートには見えないグチャグチャなキャラメルソースに、どうしてか胸がキュンとなった。
「透くん、助かるよ」
 丸い目を緩めて安心したような面持ちの葉からそう言われると、なんだか透の気遣いが認められた気がして心が明るくなる。ところが、透が手をかけようとしたところで、マグカップは客が取り上げてしまった。そして拗ねたように「ありがたいけど、結構です」とだけ言うと、窓際の席へと不機嫌そうに去って行く。
「晴、どうしたんだろ。せっかく美大生の透くんがハート描いてくれるところだったのにね」
 窓際の席でドリンクの写真を撮っている彼を眺めながら、葉が残念そうに呟いた。
「葉くん、心配ならお友達のところに行っておいで」
「え、いいんですか?」
「どうせ暇だから、ちょっとならいいよ」
 パアッと顔を輝かせた葉は、透たちに会釈をするとカウンターから出て彼の元へとかけて行った。その背中は随分と楽しそうだ。
「はあ、本当大変だわ」
 女性店員がやれやれと首を横に振った。
「大変って?」
「あのお客さん、葉くんのお友達なんだけど、葉くんことがかなり好きなのよ」
 まあ、そうだろうなとは思う。だから透が口を出したら嫌そうな顔をしたのだ。それくらい透にもわかる。自然を装って窓際の客席を見ると、向かい合って座った彼らが楽しそうに笑いあっていた。
「葉くんが描いたハート、待ち受けにする」
「なんでだよ。あんまり可愛く描けなかったのに」
「可愛いよ。とっても」
「本当?じゃあ次はもっと上手に描けるように練習する。子供とかにも描いてあげたいから」
「子供なんて適当でいいんだよ。俺にだけにして」
 漏れ聞こえてくる会話は随分と仲が良さそうだ。
「いつくっつくのやら。葉くん次第ね」
「え?くっつくって」
 女性店員の言葉に唖然としながら、窓際の二人を見遣る。客の少ない店内では一際目立つ二人だ。葉が仕事に戻ろうと席を立つと、男が彼の右手をふと握る。
「待ってるから、頑張って」
「うん。ありがとう」
 軽く手を振り合って、葉が小走りで戻ってくる。その背中を見つめる強烈な視線がふと透を捉えた。真っ直ぐな威嚇に負けないように、透も彼を見つめ返す。彼が葉へ好意を向けていることはわかった。でも問題は、彼が葉にとっての何なのかということだ。再会初日にこんなことを気にするなんておかしいのかもしれない。でも、透にとって葉は大事な初恋相手であることには間違いないのだ。
「透くん、今日の売り上げデータ確認しておいてくれる」
 バイトリーダーからかかった声に、ようやく彼から視線を外した。本当は先に目を逸らしたくはなかったけれど、「はい」と返事をしてくるりと体を翻す。するといつの間にか至近距離にいた葉と目が合った。
「透くん、晴のこと知ってるの?」
「晴って、あの子?葉くんの友達の」
「そう。なんか今」
 何か言いかけた葉に被さるように、「透くん」とバイトリーダーに呼ばれてしまう。「すぐ行きます」と返事をしながらもう一度葉の顔を見下ろすと、彼はフルフルと首を横に振った。
「なんでもない。やっぱり二人ともかっこいいから」
「え?」
「気にしないで。呼ばれてるよ」
 そう言った葉は一見変わらない様子に見えたけれど、向けられた背中が寂しそうで、透はそれが気がかりだった。


 葉の心はひどく落ち込んでいた。先程目撃したのは、確かに人と人が恋に落ちた瞬間だったと思う。そうでないとおかしいのだ。初対面と思われる二人があれほどまでに見つめ合うだなんて、何か理由がない限りはありえない。
 葉は昔からずっと、家族やら真やらに鈍感だなんだと揶揄われてきた。まったく、本当に鈍感だったのならどれほど良いか。好きな人が恋に落ちる瞬間に遭遇するだなんて、鋭敏であるにも程があるのではないだろうか。何度目かの大きな溜息はまるで無自覚だった。それに遅ればせながら気がついたのは、隣を歩く彼に腕を取られたからである。葉がアルバイトの日は決まって遊びに来て、一緒に帰ってくれる彼。自然に止まった足に、見上げた先にあるのは何よりも美しい顔だ。
「葉くん」
 そう呼ばれるたびに、最近では嬉しさよりも苦しさが上回る。真に対するように、もっと親しげに呼ばれてみたいと思うのはわがままだろうか。でもそんなことは少しも言えずに、「なに?」と首を傾げてみる。すると彼は眉尻をきゅうっと下げて、悲しそうな顔をした。本来、あまり喜怒哀楽を顔に出すタイプではなかったはずだ。でも最近の彼は少しわかりやすい。
「葉くん、どうかしたの?」
「……いや、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。アルバイトで何かあった?」
 グッと言葉に詰まった。でも本当のことは言えないから首を横に振る。すると今度は眉間に皺を寄せて、晴は「嘘つき」と言った。その声音は、多分すごく怒っている。
「葉くんの仕事中はそばにはいられないから、なにがあったのか気づけないんだ。なにが嫌だった?傷ついたの?俺はすごく心配だよ」
 真剣な眼差しに、思わず身が竦んでしまう。怒っているのに、こんなに正面から冷静に言葉を紡いでくれて、さすが葉が好きになった男なだけある。絶対に叶わない恋だけれど、晴を好きになってよかったと心から思った。
「晴はさ」
「うん」
「今までも好きな子いただろ」
「……好きな子?」
「恋に落ちるって、すごく難しいのに、簡単だよね。俺、知ってる」
「知ってるんだ」
「うん。俺だって、恋くらいしたことあるよ。彼女はいたことないけどね」
 葉にとっては、晴が初恋だ。生き物全般を含めて初恋を考えるとしたらその相手はアゲハチョウかダンゴムシだったかもしれないけれど、人間部門では晴が唯一葉を恋に落とした男だ。
「恋心には、正直に生きた方が良いよ」
 晴のような素敵な男の子が正真正銘の恋に落ちたというのなら、応援するしかない。葉の恋が叶うことなんてないと理解していてよかった。もし少しでも希望を抱いていたとしたら、今日も明日も明後日も、苦しくて苦しくて眠れなかったかもしれない。
「俺は、晴を応援するからね」
「応援……」
「それに、俺は透くんのこと」
 透だって、葉には大切な存在だ。幼かった頃、お別れの日の言葉が記憶が蘇る。
『僕は虫も蝶々もカエルも怖いけど、葉くんのためならたくさん捕まえるから、いつか僕を一番にしてね』
 葉は涙を堪えて大きく頷いた。同じ園服を来た同世代の中で大人っぽかった真が「今のプロポーズかな。頷いたということは、透くんと結婚するの?」と尋ねてきたところまでが、今では最高に面白い思い出だ。きっと透も真も覚えていないだろう。
「透くんのことが、なに?」
 冷たい晴の声に、現実に引き戻される。
「いや、透くんのことも、すごく好きだからさ」
 透に再会できたことは心からの喜びだ。立派に大学生になった彼は、まるで白馬の王子様みたいに成長していた。きっと女の子たちが放っておかないだろう。そしてこの晴でさえも、見事に恋に落とした。
「それを、俺の前で言うの?」
 さらに冷え切った声に晴を見上げると、信じられないほどの無表情で葉を見下ろしていた。
「いや、好きっていうのは、恋とは違うよ」
「どうだか」
「本当。だから、晴はなにも気にしなくて良いんだ」
「当たり前でしょ。気にするつもりなんてないよ」
 晴の言葉に、葉の心はガンッと衝撃を受けて最底に沈み込んだ。葉のことなんて実際どうだって良いのだろう。相手にもされていない上に、当然のように敵にも思われていない。そんなことわかっていたつもりなのに、こうして言葉にして突きつけられるとひどく苦しかった。それでも、晴は友人として葉の隣を歩いてくれる。優しくて不器用で、自分に正直なところまで全部が本当に美しい男だ。そんな彼は改めて真剣な眼差しで葉のことを見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「大学のことも、バイトのことも、それ以外のことも。困ったことがあったら絶対に俺に言って」
「……ありがとう」
 きっと晴が本当にこの言葉を送りたいのは透だろう。葉にはお見通しだ。でも、友人である葉にもその言葉をかけてくれる晴という男のことがやはり好きで、葉は落ち込んだ心を隠して晴に精一杯笑いかけるのだった。


 八月の半ば、真は葉と一緒に地元に帰った。大学生の夏休みは長い。それでもアルバイトがあるために、帰省は二泊三日ほどだった。その間中、葉の様子がおかしいことには気がついていた。比較的いつもおかしい子だけれど、食いしん坊のくせに夏祭りに出かけてもずっとぼんやりしていたのだ。その様子を心配したのは真だけではなかった。
「葉、どうかしたの」
 夏祭りから帰って葉の家でくつろいでいたところで、葉の弟がそう話しかけてきたのだ。これは非常に珍しいことだった。幼い頃は真のこともよく慕っていてくれていたけれど、ここ数年は真が葉と一緒にいると良い顔をしないのだ。
「朔。やっぱりあの子、おかしいよね」
 天川家のリビングには、ソファに座る真と、その横に立つ朔の二人きりだ。葉は風呂にでも行っているのだろう。それでも一応こっそりと言葉を返すと、朔はぎゅっと顔を顰めた。
「葉になにがあったのか、知らないの?」
「まあね。そんなに心配なら直接聞いてみたら良いよ」
「ふん」
 朔はわかりやすくそっぽを向いて、リビンングから出て行ってしまった。今年高校二年になった朔は、多分まだ怒っている。昔から異様に葉のことが好きな子だったから、実家から遠く離れた大学に進学した葉のことを許していないのだ。それでも葉が話しかけたら嬉しそうに反応するのだから、二人の関係性については放っておいても大丈夫だろう。
 問題は、ここ最近様子のおかしい葉のことについてだけだ。葉が正気を取り戻したのは、夏祭りの途中で神社に立ち寄った際にトカゲを見つけた時だけだった。それ以外は基本的にぼんやりして、時々小さく溜息を漏らしている。
 だから地元から戻って数日後、夕方からアルバイトらしい葉の様子を見に行ってみようと真は思い立った。葉のことが心配だったこともあるし、葉の新しい職場の雰囲気もずっと気になってはいたのだ。せっかくなら夕食も兼ねてと出かけた先にいたのは、働く葉を窓際の席から眺め続ける晴だった。夏休み中も真自身のアルバイト先であるカフェバーではよく顔を合わせているけれど、いつ見ても相変わらず美しい男だ。その存在はキラキラと輝いていて、女性客のほとんどは晴に夢中なように見えた。
「晴」
「あっ、……ふん」
 そう言ってそっぽを向いた晴に、朔の姿が重なる。顔が良くて面倒な男に一途に愛されるのは、葉の得意分野なのだろう。
「なに怒ってるんだよ」
 そう聞きながらも、不機嫌の理由はわかっている。真が葉と一緒に地元に帰ったことに嫉妬しているのだ。ちょっと呆れながら、二人がけの向かいの席に着席する。微妙な沈黙は気にしない。気にしたところでただ面倒だからだ。そう思っていたところで、晴の視線がカウンターの方へ向けられたことに気がついた。
「……葉くん、最近どうかしたの」
 その視線を追ってみると、カウンターの中で客から注文をとっている葉がいる。大きな目で相手を見つめて、なにが面白かったのか客と一緒になって笑っている姿。こうしているといつもの葉に見えるけれど、接客を終えてバックヤードへと向かっていったその横顔は気落ちしているように見えた。
「やっぱり、おかしいよな」
「……あいつのせいかな」
 改めて晴の視線を辿ると、そこには綺麗な男が一人。バックヤードを振り返って、それから葉を追っていく姿が見えた。あの男が恐らく京極透だろう。確か年長になった頃くらいまで真と葉と同じ幼稚園に通っていて、葉にプロポーズまでした男だ。もしかしたら、あの時から既に葉の特殊体質は始まっていたのかもしれない。
「なんで透くんのせいだって思うわけ?」
「あいつが現れてから、なんか嫌だ」
「嫌だって言ってもね、そりゃ初恋だから」
「えっ!」
 珍しく目をまん丸にして驚いた様子の晴に、「知らなかった?」と聞いてみると、晴は眉間に皺を寄せて「どうせ知らなかったよ」と答えた。
「それは、葉くんの初恋ってこと?」
「いや、葉はどうだったかな。あの頃はダンゴムシと蝶々に夢中だったから」
「じゃあ、あいつの初恋相手が葉くんってことか」
 怪しいと思ったんだ、と呟いた晴に、少し笑えてくる。真からしたら、晴の容姿は誰よりも美しいと思う。クールぶっているものの、心根は誰よりも優しくて思いやりのある男だ。女癖が少々悪いところが玉に瑕だったからこそ、今の晴は前よりずっと魅力的に見えた。
 そしてあっという間に半月経ち、今日からは九月だ。大学生の身分だと月末までは夏休みを謳歌できるから、まだまだ降り注ぐ厳しい日差しにも耐えられるというものだ。楽しいバカンスというよりも、アルバイトに精を出す毎日。それは葉も、そして今、カフェバーのカウンター内でお盆にドリンクをのせている晴も同じである。土曜日の昼下がりはやたらと忙しい。
「真、次二番テーブルにアイスティーとホットコーヒー」
「はいよ」
 涼しい顔で店の奥の方にある卓にコーヒーを届けに行った晴は、多分すぐには帰って来られないだろう。あの席のマダムたちは晴のことがお気に入りなのだ。その帰りの動線にも晴狙いの女子大学生が二組ほどいる。ということは、今注文が入っている分は真が全て配膳しなければならないだろう。
 色々と考えながら仕事をこなしていると、新たな来客を知らせるドアベルが鳴り響いた。さっと入り口を見上げると、そこには葉と、見間違いでなければ透が立っている。珍しい来訪者に多少驚きながらも、真は葉と視線を合わせて「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「二人です」
「はい」
 店をぐるりと見渡す。テーブル席はすっかり埋まっていて、空いているのはカウンター席の端の二席だけだ。とりあえず空いていて良かったと思いながら席を手で示すと、葉はこくりと頷いて透と一緒にカウンターへ近づいてきた。
「真、忙しい時にごめんな」
「良いって。むしろ嬉しいよ」
「こちら、この前話してた京極透くん」
 葉の様子を見に行った時に遠目からは見ていたものの、近くで見ると王子様のような見た目にただ感心してしまう。昔から美少女のようだった記憶はあるけれど、あの子がこんな風に成長したのかと感慨深くなった。
 定型的な挨拶を交わして着席を促すと、透はさっと葉の椅子を引いて先に座らせた。
「透くんて、本当に王子様みたいだ」
「ふふ、そんなことないよ」
 二人のやり取りに胸がザワザワする。メニューを二冊渡したのに揃って一冊を覗き込む様子は、思っていたよりもずっと仲が良くなっている証拠だろう。
「僕はアイスティー。葉ちゃんは?」
「うーん、オレンジジュースかな」
「うん、いいね。可愛い」
 こんな二人の姿を晴が見たら失神してしまうのではないだろうか。思わず奥の席を確認すると、晴はまだマダムたちに捕まっているようだ。そのことに少し安心しつつ、早くメニューを決めてくれと願うばかりだ。
 たっぷり時間をかけてフードメニューまで注文を済ませると、葉と透は楽しそうに会話を始めた。爽やかで紳士的な透は、きっと女性にも大いにモテるのだろう。葉の意味のわからない生物論にも軽やかに笑って、誰がどう見ても好青年だ。
「葉ちゃんはカレー選んでたけど、好きなの?」
「うん。カレーには良い思い出があるんだ」
「へえ、どんな?」
「あ、いや。どんなだったかな」
「あはは!思い出したら教えてね」
 いつも以上におとぼけの葉にも上手く対応して、真が提供したアイスティーを飲む姿も様になっている。一方で葉をチラリと見てみると、自分のオレンジジュースと透のアイスティーを交互に見つめて、少し悲しそうな顔をしていた。
「葉、どうかした?」
 忙しいなりにも葉の様子が気になって尋ねてみる。すると葉は分かりやすく愛想笑いを浮かべて、「別に、大丈夫」と答えた。
 それからしばらくして、疲れた表情の晴がカウンターへ戻ってきた。もうあのマダムたちにはできる限り近づけさせない方が良いかもしれない。
「お疲れ、晴」
「長く空けてごめん」
「いい。お前はよく頑張った」
 少しおどけて返したら、晴はちょっと面白そうに笑った。ところが、その笑顔がすぐに固まってしまったのは、真の予想通りと言えばそうかもしれない。
「晴」
 そう晴へ声をかけた葉の表情は、嬉しさと、緊張と、よくわからない不安。真はそう読み取った。こんなに複雑な顔をする葉はかなり珍しい。
「ほら、透くんだよ」
 いきなり紹介された透は少し驚いたような顔をして、それから晴へぺこりと挨拶をした。晴も軽く会釈を返したけれど、なんとも不穏な空気だ。その空気を打ち壊したのは、二人を交互に見つめていた葉だ。なぜだか安心したような顔をして、「良かった」と小さく呟いた。
 それ以降、晴は普段以上にガムシャラに働いているように見えた。カウンターにいると二人の姿が目に入って気が散るのかもしれない。だんだん空いてきた店内に、葉たちにもテーブル席を案内してやろうかと考える。でもその思考が途切れたのは透の緊張したような声が聞こえてきたからだった。
「葉ちゃん、あのさ」
「ん?」
「実は今、スランプなんだ」
「スランプって、絵が描けないってこと?」
「そうなんだ。もうずっと」
「美大生も大変だ」
「うん、それでさ。……いや、もし嫌じゃなかったらなんだけど」
 言葉の続きが気になって、自分の動きで生じる音を最小限に抑える。本当は洗い物をしたいけれど、そんなことは二の次だ。
「本当、嫌じゃなかったらね、僕の絵のモデルになってくれないかな」
 デートの誘いや告白ではなかったことに一瞬安堵したものの、果たしてモデルという言葉に安心しきって良いのかともう一度耳をそばだてる。
「もちろんお礼もするよ。どうかな」
「俺がモデルって変じゃない?もっと良い生き物紹介するって」
「葉ちゃんがお勧めする生き物もきっと素敵だけど、僕は葉ちゃんが描きたいんだ」
 だめかな、と首を傾げる姿をこっそり眺めて、葉の様子を伺ってみる。葉は少し困った顔をしながらも、最終的にはゆっくりと頷いた。
「透くんが描いてくれるなら、俺も嬉しいけど」
「本当?」
「うん。でも、俺の何を描くの?顔?」
「顔も描きたいし、全身も描きたいけど、最終的には背中を描きたいなと思ってる」
「背中」
「そう、早ければ来週のこの時間」
「来週ならいいよ」
「……それで、もしかしたら上だけ、服は脱いでもらうかもしれない」
 真の心臓がドクリと鳴った瞬間だった。ガシャンッと衝撃的な音がして、慌てて音の発生源を探ってみる。それは葉たちの後ろにあるテーブル席からだった。どうやら晴がグラスを回収しようとして、うっかり取り落としたらしい。幸い客は帰った後だったために、被害は最小限だろう。急いで布巾を持って駆け寄りながら確かめてみると、グラスも割れてはいなかった。
「ごめん」
「うん、大丈夫?」
 真が尋ねると、晴はこくりと頷いた。二人でテーブルを片付けて、グラスや皿を引き上げる。一緒にカウンター内に戻ると、透は席を外しているようで葉だけが座っていた。先ほどの話はどうなったのだろうか。でも一応、客の会話について根掘り葉掘り聞くわけにもいかないだろう。
「大丈夫だった?怪我はない?」
 そう晴に話しかけた葉の顔がさっと青ざめた。何事かと思って様子を見ていると、しきりに晴の顔を覗き込んでいる。
「晴、気分でも悪いの?」
「……別に、大丈夫」
「本当に大丈夫?顔色が」
「グラス割りそうになって慌てただけ」
 珍しく葉のことは少しも見ずに、晴はそう言った。葉は納得いかなそうな顔をしているけれど、すぐに思い直したように表情を明るく取り繕ったようだった。今日の葉は忙しそうだ。自然界の生き物以外に対して、一生懸命に感情を動かしている。
「そうだ!透くんもきっと晴に会えて嬉しいと思うよ」
 つい先程形式的な挨拶をしていたように見えたけれど、晴と透は仲が良いのだろうか。仲良くなる瞬間なんてあっただろうかと考えながら晴へ視線を移した時、真は思わずギョッとしてしまった。晴が怒っている。しかも、史上最高潮にだ。これまで晴のことを散々揶揄ってきたけれど、こんなに怒りに震えている姿は初めて見た。
「透くんもカレーが好きみたい。ここのカレー、美味しいよね」
「……あのさ」
 地の底から這い上がってくるような晴の声に、葉がぴくりと体を震わせた。真は黙って二人を見守ることしかできない。
「な、なに」
「透くんとやらが、俺に会えて嬉しいって?」
「う、うん」
「俺に会えて嬉しいと思うなら、俺をモデルにするんじゃないの」
「え?……いや、それは」
「葉くんもちゃんと考えなよ。男の裸なんて、普通描かないでしょ」
 葉の目が見開かれて、晴のことを見つめる。一生懸命な眼差しは、どうしてかひどく傷ついているように見えた。
「……晴がそう思うのは」
「なに」
「俺だからなんじゃないの」
「なにそれ」
「そりゃさ、俺は可愛くもないし、良い匂いもしないよ。もしかしたら柔らかくもない」
「今そんな話してない」
「透くんだって、晴がいいに決まってるじゃん」
「はあ?」
 話の流れがよくわからなくて、真なりに必死に考える。葉へのモデルの依頼に対して晴が嫉妬していることはわかった。でも、葉にはそれがわかっていなさそうだ。それに、どうして葉まで怒っているのだろう。
 登場人物と相関図を脳内に思い浮かべて整理しているうちに、透がお手洗いの方から戻ってきた。そして微妙な空気を敏感に察知したらしく、すぐに葉に向けて「そろそろバイトに行こうか」と声をかけた。葉は俯いたまま、コクッと頷いた。
 真がレジに立って、一人ずつ会計を済ませる。その間葉は黙っていたけれど、最後に小さな声で呟いた。
「ごめん。全部俺が悪いね」 
 苦しそうなその表情に、今にも泣き出すのではないかと心配になった。でも葉は大きく息を吸い込むと、ニッと笑って「またね」と言った。透と店から出ていく後ろ姿を見送ってから、チラリと隣の晴へ視線を移す。
「どういうつもり」
「……」
「まあ、葉のことが好きなら怒りたくもなるか」
「……」
「なんかあの子、今日は特に変だった。まあ、いつも変だけどさ」
「……うん」
「あんなに複雑な葉、初めて見た気がする」
「本当、なに考えてるんだか」
「あのさ、これは俺の推理だから、なんの確証もないんだけど」
 いや、まさかと思いながら、続けてみる。
「葉、なんか勘違いしてない?」
「勘違い?」
「葉さ、晴が透くんのこと好きだって思ってない?」
「ありえないでしょ」
「いや、そうだよね。変なこと言って悪い」
 でも、葉は晴に一生懸命透のことをアピールしているように見えた。もし真の推理が正しいのだとしたら、色々とおかしくても辻褄は合う。
「葉くんは、あいつのことが好きなのかな」
「なんでそう思うの?」
「あんなに嬉しそうに人間のことを話す葉くん、初めてだもん」
 確かに、それはそうかもしれない。葉のことは大抵のことならわかってきたつもりだった。それなのに、二十年になる付き合いの中で今回が一番難しい。複雑すぎて、もう面倒だから後で葉に直接聞いてみよう。
 だんだんと落ち着いてきた店内は、これから夕飯時にかけて忙しくなるだろう。そろそろシフトの時間は終わりだけれど、後に続く人のためになるべく仕事を減らすまでが仕事だ。気持ちは晴れないながらも、真は持ち前の器用さでなんとか仕事に集中してみるのだった。


 隣を歩く葉は、ただただまっすぐに前だけを見ている。言葉を探しながらも軽率に話しかけるのは悪い気がして、透は困ったなと瞬きを繰り返した。もうすぐアルバイト先に着いてしまう。その前に、少しでもこの空気を打破するような話がしたかった。
「葉ちゃん」
 勇気を出して名前を呼ぶと、葉は思っていたよりも普通に「うん?」と透のことを振り返った。その顔を見ていたら、なんだか申し訳なくなってしまう。きっと透のせいであんな空気になったに違いないのだ。
「嫌なら断っていいからね。モデルの話」
「いや、やるよ」
「そう?なら嬉しいけど」
「透くんには悪いけどね。もうやる気満々」
「悪いって、頼んでるのは僕だよ」
「背中、ゴシゴシ洗ってケアしておくね」
 いつものようにおどけた風にそう言った葉は、なんとも複雑な表情で笑った。悲しいのか、辛いのか、そのどちらもか。この顔にさせたのは絶対に透ではないことだけは明確にわかる。きっと、あの男の影響だろう。
「葉ちゃんって、晴くんのことがすごく大切なんだね」
 大切で、とても好きなのだろう。葉は少し切なさを含んだ表情で頷いた。
「うん、晴は良い子だからね。優しくて、綺麗で、格好良くて、モルフォチョウみたい」
「そっか」
 モルフォチョウがおそらく蝶々であること以外よくわからないけれど、きっと美しくて、もしかしたらちょっと太々しいのかもしれない。
「晴は本当に素敵な子だよ。だから、俺は晴を応援してるんだ」
「ふーん、そうなんだ」
 応援とは一体なんだろう。何か応援されるようなことをしているのだろうか。透が考えていると、葉が透を見てふわりと笑った。
「もちろん透くんのことも、応援してる」
「僕のことも」
 葉の思考回路は謎だけれど、透のことも好きだと言ってくれているのだろう。それが嬉しくて「ありがとう」と言うと、葉は「絶対に幸せになってくれよ」と言った。自然界を愛する男は、発言一つとっても随分とスケールが大きい。
 それからアルバイトの時間になって忙しく仕事をこなす中でも、透は葉のことを気にかけるようにしていた。だからすぐに気がついたのだ。葉は十九時ごろから分かりやすくソワソワして、二十時には来客が来るたびに入り口を確認して、二十一時にはそっと肩を落とした。
「葉ちゃん、途中まで一緒に帰ろうか」
 ロッカールームで着替え終わった透が誘うと、葉は分かりやすく気を落としながらもぎこちなく笑みを浮かべてこくりと頷いた。閉店時間の二十二時になっても晴が訪れなかったのは初めてだった。 
 外の空気は涼しく澄んでいる。こっそりと隣を見ると、葉は少し先の地面を見て歩いていた。そらから少しの沈黙の後で、ゆっくりと口を開いたのは葉だった。
「ねえ、透くん」
「うん、なに」
「やっぱり、モデルの話さ、俺から晴に頼んであげようか」
「なんで晴くん?」
「だって、透くんは晴のことが」
 なんとなく嫌な予感がしたのと同時に、葉がパッと透のことを見上げた。
「え、そうだよね?あれ、透くんもそうだよね?」
「葉ちゃん、落ち着いて。どういうこと?」
「透くんは晴のことが好きなんでしょ」
「……僕が、晴くんを、好き」
 ありえないほどおかしな冗談に、思わず吹き出しそうになった。でも、真剣に戸惑っている様子の葉を前にして、決して笑ってはいけないと表情を引き締める。一体どんな思考回路をしたらそうなるのだろう。
「晴くんのことは、葉ちゃんの大事なお友達としか思ってないよ」
「そ、そうなの?」
 驚愕の表情の後に、絶望が滲む。そのことになんとなく傷つきながら、透は少しだけ葉に擦り寄った。
「僕の初恋は葉ちゃんだって、知ってるでしょ」
「それは、うん」
「僕は今だって、葉ちゃんが好きだよ」
「……えっ」
「でもあんまり構えないで良いんだ。葉ちゃんが一番幸せでいられたら、僕は嬉しいんだから」
 透の顔を驚いたように見つめる葉の腕を取り、足を止めてから向かい合った。透自身、自分の気持ちはよくわからない。でも、葉が透を選んで幸せを感じてくれたらどれほど嬉しいか。葉の一番は、それほど魅力的だった。
「葉ちゃんはあんまり考えすぎないで、僕のことだけを見ていたらいいよ」
「……えっと」
 戸惑う葉の腕を引いて、線の細いその体を抱きしめた。小さな頃はハグくらい自然としてた気がするけれど、こうして大人になってからすると無性にドキドキする。
「透くん」
 耳元で囁くように呼ばれた名前に心臓を跳ねさせた。
「なに」
「その、なんか、ありがとう」
「いいえ。僕は葉ちゃんが一番好きだからね」
 透がそう言うと、腕の中の体に力が入った気がした。その様子が可愛くて、透はさらに腕に力を入れてぎゅっと強く抱きしめてやるのだった。


 真が葉を夕食に誘おうと思ったのは、ただただ葉が心配だったからだ。元々様子がおかしい子だけれど、真と晴のアルバイト先に現れた葉の挙動は、いくら思い返しても不審でしかなかった。それに真には解明したいこともある。葉の思考を読み取れないのは、幼馴染として許せないことなのだ。
 そして今、真は大学近くの居酒屋で葉と向かい合っていた。お互いに酒を嗜める歳になったことが感慨深い。でも、今日も大学の中庭で生き物観察に精を出していたらしい葉は白い肌をほんのり赤くしていて、そこは昔と変わらないと思うとどこか安心できた。
「日焼け止め、塗ってないな」
 真がじとりと葉を見ると、葉は慌てたように「背中は大丈夫だよ」と言った。唐突な背中という言葉に少し首を傾げてから、すぐにモデルの件を気にしているのかと思い至る。透がどんな絵を描くのか知らないけれど、きっとモデルが葉なら日に焼けていようがなんでもいいのではないだろうか。そう言おうと思って結局やめたのは、葉が変わらず気落ちしたような顔をしているからだった。こんな表情は珍しい。追いかけていた蝶々に逃げられたって楽しそうにしている子が、なにを考えているのだろう。
「葉?」
 それとなく名前を呼んでみると、葉も小さな声で「真」と言った。
「うん」
「俺、実は」
「うん、どうした」
「実は、好きな子がいるんだけど」
 心の中でだけ「わお!」と感嘆して、表面上は「そうなの、すげえ」とだけ言っておいた。でも本当にすごいことだ。幼い頃の葉は、葉に一途な思いを向け続けた透にも、ませた女の子にも見向きもしないで、一生懸命に生き物へ愛情を傾けていた。それは小学校から中学校、そして高校に上がっても同じだったのだ。その葉に好きな子ができたなんて、赤飯でも炊いた方が良いかもしれない。
「でも、その子の好きな子は、別にいるんだ」
「ふーん、そっか。そういうこともあるよね」
「うん」
「それで最近変なの?恋煩いなんだ」
「いや、違うと思う。俺は本気で、好きな子と、その好きな子が、結ばれてほしいんだ」
 純粋な思いに感心しながらも、慎重に言葉を選ぶ。
「でもそれは、葉が出る幕じゃないんじゃないの」
「……やっぱりそうだよな」
「もう面倒だから聞いちゃうけど、葉の好きな相手って晴?それとも透くん?」
 机の辺りを眺めていた葉の目が見開かれて、真を捉えた。どちらかは正解らしくて、少し気分が晴れる。
「俺に隠し事は無理だよ。だって俺は葉の幼馴染なんだから」
 隠し事なんて百年早い。きっと葉なりに好きな相手の詳細は言わないと決めていたことなのだろうけれど、真がじっとその丸い目を見つめると、葉は少し安心したように「それもそうか」と笑った。
「どちらにしても、葉は面食いだ」
「うん」
「そこに俺がいないことにはちょっと腹立つけど」
「うそうそ!俺に好かれたって困るくせに」
 そうやって笑い合っているうちに、酒と料理が運ばれてきた。葉は生き物と戯れることの次に食べることが好きだ。それなのに、いつものような目の輝きはまだ見られない。それでも乾杯をして、料理に手をつけ始めたら、段々と葉が纏う雰囲気が柔らかくなった。
「真、このタコのやつ、美味しい」
「うん、本当だね」
「そうだ、タコの背中ってどこだと思う?」
「考えたこともなかったな。あの頭みたいなところのあたりかな」
「実は、タコの背中は目がある側なんだよ」
「へえ、知らなかった。タコってなんだっけ、頭足類だっけ」
「そうそう。さすが真だな」
 葉は頬を赤くして、手をぱちぱちと叩いた。どうやらピーチサワーを少量飲んだだけでほろ酔い状態らしい。葉と長年一緒にいればある程度生き物の知識が勝手につくものだけれど、褒められて悪い気はしない。そう思っていたのに、拍手をやめた葉が急にしょぼんと沈んでしまって、真はその顔を慌てて覗き込んだ。
「今度はどうした?」
「晴ったらさ、あんなに良い男なのに不器用だと思わない?」
「え?……まあ、ちょっと不器用かもね」
 美しくてひたすらに優しいのに、クールぶっていてちょっと太々しい。その全部をひっくるめて、真は晴という親友のことが好きだ。でも、葉はその不器用さが気掛かりらしく、小さく息を吐き出した。
「そりゃさ、どうせ俺はなんの魅力もないですよ」
「なに、突然」
「男の裸なんて普通描かないって。そりゃ晴にとったら俺は普通の男かもしれないけどさ」
 この間のやり取りを思い出して、適当に頷いておく。あれは晴なりの嫉妬なのだろうと真にはわかったけれど、多分いまだに葉には通じていない。
「あれじゃあ、透くんに嫌われちゃうよ。ちゃんと透くんは違うよって伝えなきゃ」
 ぽつりと独り言のように行ったその言葉に、真の中では全てが繋がった気がした。やはり、葉は晴が透を好きだと思っているのだ。どうやったらそんな勘違いができるのかわからないけれど、そこが葉らしくて、いじらしくて、「そうだね」とだけ言っておいた。
 その後もちびちびと酒を飲みながら晴と透の話をする葉の姿を見て、真は考えた。きっと葉は傷ついたのだろう。「男の裸なんて普通描かない」という言葉は、主語が葉に代わって彼の心に突き刺さったに違いない。おそらく葉は晴のことが好きで、それなのに晴が透と結ばれることだけを必死で考えている。そう思い至った瞬間、真は思わず腕を伸ばして、健気な幼馴染の甘栗色の頭をポンポンと撫でた。本当に可愛い。葉はそれを素直に受け止めて、アルコールで潤んだ瞳で真を見上げながら唇を突き出した。
「真がなんとか言ってやってよ」
「俺がなんて言うのさ」
「好きなら好きって言いなって」
 確かに、晴に早く言うべきかもしれない。なんだか少し笑いそうになりながら、「葉が言ってやりな」と言おうとして、直前で思いとどまった。どんな形であれ、葉の一生懸命な気持ちを蔑ろにはできない。
「機会があれば言っておくよ」
「うん、絶対言っておいて」
 葉の勘違いと共に、夜は更けていく。真が全て種明かししてもいい。でもそうしなかったのは、真なりの粋な計らいのつもりだ。
「葉は、昔から良い子」
 すでにうとうとと船を漕ぎ始めた葉にこっそり囁いてみた。良い子だから、真は一生懸命に彼を守ってきたのだ。葉に恋人ができたら、真と葉の関係はどうなるのだろう。少し考えてから、たいして今と変わらないだろうと確信して、真はハイボールをグッと飲み干した。


 葉がいない世界は、まるで灰色だ。頭の中に浮かべたその表現は月並みで、葉という存在はもっともっと神聖なものだと謎の怒りが湧いて出た。もうちょっと国語を勉強するべきだっただろうか。どちらかといえば理系な自分に、晴は本気でガッカリした。
 本当は葉があいつとカフェバーへ遊びに来たあの日、葉のアルバイト先にも向かったのだ。当然、険悪になってしまった仲を取り戻したかった。それなのにモデル業の打ち合わせが長引いたために、駅方向へ向かった時には二十二時をすぎたところだった。そこで目撃したのは、道端で抱き合う葉と透の姿。頭に血が昇って、目の前が真っ赤になった。人間とは、本当にショックを受けるとなにもできないものだ。葉はあんなところで抱き合うほどに、あいつのことが好きなのだろうか。あの瞬間から早一週間、晴の思考一面を埋めるのはそのことばかりだ。
 時刻は十二時。確か、葉が透のモデルをするのは今日の十三時か、十四時ごろのはずだ。本来であれば気が気ではないところかもしれない。でもまだ普通に息ができているのには理由があった。
「見学に行こうかな。デッサンとか、すごく興味ある」
 三日前、そう言ったのは親友の真だ。真自身も心配なのか、それとも本当に絵画に興味があるのか、あの男のことはよくわからない。でも確かに、葉がモデルをする現場を見に行くと言っていたのだ。だから晴は安心して、今日もモデル業の撮影現場まで来ていた。メイクにヘアセットまでして、まだ九月だというのにすっかり冬仕様の服を着させられている。
「最近あんまり遊んでないんだって?」
 セットの入れ替えを待ちながらパイプ椅子に座ってスマートフォンを弄っていたら、隣に座っていた今日のペアの高瀬が尋ねてきた。彼女は派手な外見の割にさっぱりした性格をしており、何かと話しやすい。でもそんな彼女相手でも、今日はあまり会話をする気になれなかった。
「ねえ、聞いてるの?」
「うん」
 適当に返事をすると、ぐっと顔が近づいてくる。
「なに、本命でもできた?」
「さあね」
「でも今日は浮かない顔ね。これは好きな人を他の男に取られる人相よ」
「放っておいてください」
 本当に、放っておいてほしい。確かに、想い人がモデルをしようが、上半身裸になろうが、あいつと二人きりなわけではない。そこでなにが起こることもないだろう。でもこれは晴にとって非常にデリケートな話である。他人にズカズカと入り込んできて欲しくないのだ。その気持ちが通じたのか、高瀬は肩を竦めて晴から体を遠ざけた。それとほぼ同時のことだった。晴のスマートフォンが振動したと思ったら、画面には親友の名前が表示されている。晴は一応現場の様子を確かめてから、まだ余裕がありそうだと判断して通話ボタンをタップした。耳に押し当てるより先に『よお』と聞こえてきた声に、「うん、お疲れ」と返すと、『あのさ』と聞こえてくる。
『晴、今日やっぱり行かないけどいい?』
「行かないって?」
『葉のヌード現場』
「……えぇっ!」
 晴の大きな声に、隣の高瀬がビクリと体を震わせた。
『だって、ヌードだよ?よくよく考えたら気まずい』
「ヌードだから行くんだろ」
『いや、別にどうだっていい。葉がヌードをやろうが、そこで透くんに喰われようが』
「はあ!?」
『俺の好きな人じゃないもん』
 人でなしにも程があるだろう。抑えきれない憤りに思わず大声を出しそうになったところで、隣から袖を引かれた。高瀬が小さな声で「好きな人がヌードやるの?」と囁いてくる。他人から改めて言葉にされると余計に心臓に突き刺さった。そうだ、好きな人が、他の男の前で裸にされるのだ。グラグラと眩暈までしてきてきて、正気を保てるはずがなかった。
『もし行くなら教えておいてやるよ。美術大学の、二十三号教室に十四時だって』
「薄情者」
『それは晴だろ。葉が傷ついてるのに、気が付かないなんて』
「え、傷ついてるって?」
『じゃあ、俺忙しいから』
 晴の言葉を待たずに切れた通話に唖然とすることしかできない。葉はどうして傷ついているのだろう。気になって心がざわついて、今すぐに駆けつけて心を癒してやりたい。それなのに、これから撮影を急いで終わらせたとしても、十四時には間に合うはずがなかった。
 すぐにメッセージアプリをタップして、葉とのチャット画面を開いた。でも、八日前の「おやすみ」で締めくくられた画面に、何を送るべきなのかすらわからない。晴は大きく息を吐いて、思わず額に手をやった。その瞬間、背中を高瀬からパシリと叩かれて体が跳ね上がる。
「なんか面白そうね」
「はあ?冗談じゃ」
「さっさとこの撮影終わらせるわよ」
 小声で囁かれたその言葉に、途端に希望の光が差した気がした。ペアである彼女が協力してくれるのならこれ以上心強いことはない。
「その代わり、ヌードの後どうなったか教えなさいよ」
 絶対嫌だけれど、ひとまず頷いておく。すると彼女は鼻で笑って「適当な男ね」と言った。


 美術大学の校門の前で佇む透を遠目に見て、葉は覚悟を決めた。葉はこの一週間、葉なりに努力を惜しまなかった。真と居酒屋に行ったり、こっそりやけ食いもしたりしたけれど、普段やらない筋肉トレーニングをしてみたりもしたのだ。せっかく葉を描きたいと言ってくれた透のためならなんでもするつもりだった。葉が素晴らしい働きをしたら、もしかしたら透はもっと綺麗な被写体を描きたくなるかもしれない。そこで晴を押し出してみる。それが葉の作戦だった。
 でもこの作戦は多分、葉のエゴでしかない。なぜなら、透は葉を憎からず思ってくれているようなのだ。抱きしめてくれるくらいには好意があると、きちんと葉にもわかっている。透は温かくて良い匂いがして、彼の優しさが体から溢れているようだった。その上で葉は頑固だから、応援したいのは晴の恋ただ一つなのだ。それがゆくゆくは透の幸せにも繋がるに決まっている。
 呼吸を整えて、体を見下ろした。一応、脱ぎやすいように白い開襟シャツを選んできた。鏡の前で何度も確認した痩せっぽちな背中を見せるのは少し恥ずかしいけれど、透なら笑わずにいてくれるだろう。そろりと透に近づく。すると彼はすぐに葉に気がついて、ふわりと笑顔を浮かべてくれた。
「ごめん、お待たせ」
 笑顔に安心して、タッと走り寄った。真正面から見る透は相変わらず綺麗だ。
「気にしないで。僕が早く着きすぎたんだ」
 まるでデートのような文言に多少照れながら笑いかけると、透は嬉しそうに葉の手をとった。
「行こうか」
「うん」
 本当は真も見学に来ると言っていたのに、直前になって急用ができたらしく来られないことになった。人数は多い方が楽しいと思ったから非常に残念だ。
 幼稚園ぶりに透と手を繋いで、案外複雑な順路の末に辿り着いたのは、美術室のような独特な雰囲気の空間だった。並んだ水道場と、おそらく油絵の具の匂い。きっとこういった大学では普通の講義室なのだろう。葉がキョロキョロしているうちに、透は適当に机と椅子を片付けて、部屋の中央にぽつりと椅子を置いただけの空間を作った。
「夏休みはほとんど僕だけの部屋なんだ」
「ふーん」
「今日は誰も来ないから安心して。一応廊下側のカーテンは閉めるよ」
 透が一緒にいてくれるとはいえ、知らない空間は少し緊張する。男同士だから脱ぐことくらいは容易いものの、モデルというのは独特の緊張感があるものなのだなと思った。葉もたまに大学の中庭で捕まえた虫たちの絵をスケッチするけれど、これからはもっと声かけをして優しくしてやろう。
「じゃあ、そこに座ってくれる」
「うん」
 指示された椅子に腰掛けて、ふと窓の外を眺める。太陽が降り注ぐ外の世界は、明るくて眩しい。美術大学の敷地の一部であるそこは緑が豊かで、きっと都会の中に生息する生き物たちの憩いの場になっているのだろうと推察できた。
「あっ!」
 スケッチブックを用意している透の傍で大きな声をあげてしまったのは、窓の外を蝶々が飛んでいたからだ。遠くからでもわかる。あれはカラスアゲハだ。葉の大学ではあまり見かけない蝶が見られたことが嬉しくて、思わず一生懸命に目で追いかける。
「葉ちゃん、ちょっとそのまま止まって」
「え?」
「こっち向かないで。蝶々見ててね」
 すでに蝶々は視界からいなくなってしまった。それでも指示の通りに動きを止めて、蝶々が目の前にいたらと想像する。葉は昔から蝶々が好きだった。綺麗で、可憐で、とにかく可愛いからだ。そんな中でもいつか直に見てみたいと思っているのが、南アフリカに生息するモルフォチョウだ。世界一美しいのに、花の蜜よりも腐った果実が好きなちょっと変わった蝶々。図鑑と標本でしか見たことがないあの憧れの蝶が目の前にいたら、考えるだけで興奮しすぎておかしくなるかもしれない。そんな妄想をしながら過ごしていたら、「いいよ。動いて大丈夫」と声が掛かるまで一瞬だった。
「葉ちゃん、すごいね」
「何が?」
「すごく良い表情だから、三枚もスケッチできた」
「スランプ、克服できたの」
「うん。おかげさまで」
 それは何よりも喜ばしいことだ。もし葉が役に立てたのなら何よりも嬉しい。
「じゃあ、今日はここまで。疲れたでしょ」
「え、でも」
 服は脱がなくても良いのだろうか。不思議に思って自分の襟元に手をかけると、透が慌てたように席を立った。
「葉ちゃん、今日はもう良いよ」
「でも、俺脱ぐ気満々で来たよ」
「それはありがたいんだけど、でもなんか」
 そこで言葉を切って、透が葉の前まで近づいてくる。そして襟元のボタンにかけていた葉の手を両手でぎゅっと握った。
「やっぱり、悪い気がして」
「え、なんで?全然良いのに」
 本当に、透さえ良ければなんでも良いのだ。
「でもほら、僕は葉ちゃんのこと」
「モデルにしたいって思ってくれて嬉しいもん。俺の裸なんて需要ないのに」
 それは葉の本心からの言葉だった。卑下するつもりもないほどに、単なる事実としてそう口に出した。でも言葉が紡がれた瞬間、晴の言葉を思い出して胸が痛んだ。男の裸なんて、普通描かない。つまり晴としては葉の裸なんて、絵画に残すにも値しないということだろう。あれは葉のことも、透のことも、きっと傷つける言葉だった。でも晴の気持ちは理解してやらないといけない。あれは、透が晴を選ばなかった嫉妬に違いないのだ。
 そうやってぐるぐると思考を巡らせていた葉を現実世界に引き戻したのは、左の頬に添えられた温かな手のひらだった。そっと上を向かされると、視界に入ってきたのは綺麗な顔。あの晴が恋に落ちた顔だ。良いな、と思わずにはいられない。でもいつも穏やかなその顔は、今はひどく怒っているようだった。
「葉ちゃん、あんまりふざけたこと言うと怒るよ」
「え?」
 透の瞼がそっと閉じられて、右の頬に触れた柔らかな感触。思わず目を見開いて、宙を眺めることしかできない。そんな葉の視界に透が戻ってきて、しっかり目線が合わさると顔が一気に熱くなった。
「僕は葉ちゃんのことがすごく好きなんだよ」
 耳が痛いほどの静かな空気に、微かに聞こえるのは心臓の音だろうか。
「やっぱり、良いかな」
 首を傾けてお願いされていることが、上手く読み取れない。それでも透にされて嫌なことなんてないなと思って、次の瞬間に葉はゆっくりと頷いた。襟元からそっと手を避けられて、一番上のボタンに透の手がかかる。どうしてこんなに緊張するのだろう。ドクドクと感じる血流の音に頭がおかしくなりそうで、葉は両目をぎゅっと瞑った。その時だった。突然講義室の扉が勢いよく開く音。思わず目を開くと、カーテンが乱暴に捲られる。その光景を唖然と見つめていたら、透が葉の目の前で小さく溜息をついた。 
 カーテンをぐちゃぐちゃにして現れたのは。
「……晴」
 葉が口に出すと同時に頭に触れた温かさは、透の手。ふと見上げると、優しい表情をした透が小さく頷いた。走り寄ってくる音に改めて振り返ると、どうしてか必死な顔をした晴が葉だけを見つめている。
「……え?」
 思わずそう漏らしたのは、晴が透の方を全く見ないからだ。何かおかしい。晴は透に会いにきたのではないのだろうか。
「葉くん」
 名前を呼ばれるのと同時に、腕を引かれて椅子から立ち上がる。そしてその勢いのままに、ぎゅっと抱きしめられた。
「え、あれ?」
 我ながら間抜けな声が出た。縋るように透を見ると、彼はすでにスケッチブックに向き合っている。
「と、透くん。これは、違うんだ」
「葉ちゃん、ちょっと動かないでね。晴くんもそのままね」
「透くん!」
「こんなに面白い瞬間はなかなかないからね。僕が残しておいてあげる」
 晴はどうしたというのだろう。好きな人の前で、好きでもない男を抱きしめる意味。それが全くわからなくて、葉はただ混乱することしかできない。でもそのままの状態でしばらく経った頃だった。晴が葉にだけ聞こえるように、こう囁いた。
「俺は、葉くんが好き。誰よりも、大好きなんだよ」
 息が止まりそうになりながら、目を見開いた。思わず体を離してその美しい顔を見つめると、晴は今までで一番優しい顔で微笑んだ。
「だ、だって、透くんのことは?」
「ふん、ライバルでもねえよ」
「そこの二人、勝手に動かないでね」
 思いがけず厳しい透の声に、二人で目を見合わせた。それから再びぎゅっと抱きしめ合う。ドクドクと重なる鼓動は奇跡のようで、葉は一生懸命にその音に耳を澄ませるのだった。


 シルバーウィークというものは、大学生にはほとんど無関係だ。でも接客業をしている場合はもろに打撃を受ける。真はカフェチェーン店のカウンター内を忙しく動き回る葉を眺めて、大変だなと他人事のように思った。
 葉のことがよく見える窓際の席は真が選んだわけではない。向かいに座る美しい男の、謂わば定位置なのだ。
「はあ、葉くん」
 そう彼が漏らすのは何度目だろう。流石にうるさいなと思っていたら、隣の席の綺麗な男がクスリと吹き出した。彼はスケッチブックを左手で支えて、右手で握った鉛筆でサラサラと何か描いている。少し覗き込むと、笑顔の葉と、憂いを帯びた晴の横顔が描かれていた。
「さすが透くん。上手いね」
「ありがとう。僕の力作、他にもあるんだけど見てくれる?」
「うん、見たい」
 真がそう答えると、葉のことばかりを見ていた晴がやっと真たちの方を見て「あの絵はダメだからね」と言った。
「なんで?僕の絵だよ」
「色までつけたらプレゼントしてくれるんでしょ。でも他の人には見せないでよ」
「ほぼ抽象画だから、誰が描かれてるかなんてわからないよ」
「それでもダメ。あの時の絵は俺が宝物にするの」
「わがままなモデルだな」
 透はそう言うと、スケッチブックを膝の上に置いてミルクティーを一口飲んだ。真から見て、透は葉のことが好きなのだと思う。でもそれを割り切っているのか、虎視眈々と時を待っているのか、晴が嬉しそうに葉を構っても顔色を変えずにいるのだ。
 最近では偶然が何度も重なったこともあり、四人で一緒に過ごすことがあった。今日は葉以外の三人はすでにバイト終わりで、十七時に仕事が終わる葉のことを待ち、揃って夕食に行こうかと話している。ついでに近所で催される秋祭りに顔を出せたら良い。祭りは先月葉と地元の夏祭りに行って以来だ。あの時、葉は多分片思いに苦しんで、色々血迷っていた。そこまで考えた時、ふと頭に浮かんだ顔に睨まれた気がした。
「あ、そういえば忘れてたな」
「何を?」
「朔に連絡しろって、葉に言うの」
「朔って?」
「葉の弟」
「弟いたの!?なんで俺知らないの?」
 いつかのように晴が驚愕の声をあげて、それを見た透が吹き出した。
「そうか。朔ちゃん、いくつになったんだろう」
「確か、高校二年だよ」
「そんなに大きくなったんだ」
 透の呟きとほぼ同時だった。真たちのテーブルの隣に、店のカウンターを隠すように誰かが立ちはだかる。あまりにも不審な様子に、その誰かをふと見上げてみた。
「……あっ、朔」
「え、朔ちゃん?」
 真が上た声に、透が驚きの声をあげる。晴はただ真顔だ。でもそこにいたのは、確かに葉の弟の朔だ。切れ長の目も、スラリと高い背も、葉とはまるで異なるのに、甘栗色の髪は確かに天川家を感じる。遺伝子とはすごいものだ。
「こんにちは」
 太々しい態度のくせに挨拶を欠かさないところがちょっと可愛らしい。テーブル席に座った三人で挨拶を返すと、そんなことはどうでもいいとでも言うように、「葉は?」と尋ねてきた。
「いや、それよりも、どうしてここに?」
「葉の様子を見にきたんだ」
 開襟シャツに黒のスラックスという高校生スタイルで、背中には黒いリュックを背負っている。学校に行くのと違わないこの出立ちで、バスに電車に新幹線を乗り継いできたというのだろうか。
「葉なら、まだ働いてるよ。あと三十分くらい」
「……真ちゃんも、ここで働いてるの?」
「いや、俺のバイト先は別だけど。でもこの子が一緒に働いてるよ」
 真が透を指し示すと、透はすっと席を立って朔にニコリと笑いかけた。
「こんにちは。葉ちゃんと同じ幼稚園だった、京極透です」
「……こんにちは。天川朔です」
 朔は透に挨拶を返してから、今度はちらりと晴を見た。無表情な晴に、まさかトンデモ発言をしないだろうなと不信感が募る。気がついたら晴の代わりに真が口を開いていた。
「こちらは葉と俺と同じ大学の久遠晴くん。よくつるんでるの」
 晴は真の言葉に不服そうな顔をしたけれど、余計なことは言わずに「よろしく」と言った。そんな晴を一瞥してから一応ぺこりと頭を下げるのは、朔なりの負けん気と敬意なのだろう。まだまだ素直なその姿に、思わず笑みが溢れた。
「朔、なんか飲むか」
「自分で買ってくる」
「ほら、葉がレジに出てきた。一緒に行ってみよう」
「だから、自分で行ける」
 不満そうな朔の肩を勝手に抱いてレジまで促してやる。朔の住む田舎にこんな立派な店はほとんどない。だから買い方も知らないだろうと思ったのだ。案の定、天井近くのメニュー表を一生懸命に見つめる横顔に、彼のプライドを守ってやらねばと気合を入れた。少しして順番が回ってきて、笑顔の葉が自然と朔を見上げる。その瞬間、まん丸に見開かれた目に、朔は嬉しそうに笑顔を浮かべた。まったく、クールぶってるくせにまだまだ子供だ。
「朔、どうしたの?な、なんでここに?」
「葉が心配かけるからだよ」
「俺が?え、どうやって来たの?」
「一人で来たに決まってるじゃん」
 得意気な朔をしばらく見つめてから、葉が真を見た。まったく、手のかかる兄弟だなと思いながら、「とりあえず注文しよう」と朔を促してみる。
「アイスコーヒー、一つ」
「サイズは?」
「一番でっかいやつ」
 朔の注文に、葉が心配そうに「冷えるから、せめて中くらいのにしな」と言った。
「そうそう。中くらいのも十分でっかいから。朔、一緒に何か食べるか?」
「いらないよ」
「あ、朔!チョコレートケーキあるよ?俺も好きなんだ」
「葉も?……じゃあ、それ一つ」
 きっと葉が自分の好みを覚えていてくれたことが嬉しかったのだろう。モゾモゾしながら答えた朔に、葉も満足そうにしている。会計は真が払った。多分葉の性格からして、あとで真に返金してくれるだろう。そういうところはきちんと兄貴らしいんだよなと思いつつ、真はこの先の波乱を案じて少しだけ気が遠くなった。



 葉を待つまでの間、朔は意外なことに透にすっかり懐いたようだった。
「葉ちゃんは小さい頃から朔ちゃんのことが好きだったね」
「そうだよ」
「二人とも、すごく似てる」
「うん。たまに言われる」
「もしよければ二人並んだ似顔絵を描いてあげるよ」
「本当?」
 一方で晴といえば、働いている葉の様子をいつも通り眺めているだけだ。朔に興味がないのか、あるけれど知らんぷりしているのか、真には上手く伺えない。真が三者を観察していたら、晴が徐に席を立った。それから店の端のコンディメントバーから何かを持って、テーブルに戻ってくる。そうして朔に差し出したのは、透明なガムシロップ三つだった。
「入れたら?」
 確かに、朔のグラスの中のアイスコーヒーは少しも減っていない。朔は昔から甘党だったなと思い出して、「そうだよ」と真も勧めてみた。ところが、朔は不服そうに唇を突き出して、何やら悩んでいるようだ。
「朔ちゃん、俺はコーヒー飲むと胃がもたれるんだ。ちょっと甘くした方がいいよ」
 透が最後にそう言うと、朔はこくりと頷いて、ガムシロップを一つずつ入れ始めた。高校二年生ってこんなに可愛いものだろうか。大人ぶりたい年頃なのだろうけれど、朔は見栄っ張りなんだか素直なんだかよくわからない。朔は最終的に三つ全部ガムシロップを入れてからアイスコーヒーを一口飲んで、少しホッとしたように表情を緩めた。
「ミルクを入れても美味しいから、今度試してみて」
「うん、今度やってみるよ」
 透との会話を聞きながら、確かにどうして晴はミルクを持ってこなかったのだろうと考えていたところで、壁の鳩時計が十七時を知らせた。同時に葉がバイト仲間に挨拶をして、カウンターから出てくる。その時、晴がサッと朔のガムシロップの空き容器を自らの空になったマグカップと一緒に回収して立ち上がった。いつもだったら嬉々として葉を待ち構えているのに、今日はそうしないらしい。
「みんな、待たせてごめん」
 まだエプロンをつけたままの葉は、朔の方を見て驚いたように目を丸くした。
「朔、コーヒー甘くしないで飲めるんだ」
「……うん」
 多少きまりが悪そうに頷いた朔に笑いそうになったけれど、なんとか我慢する。そうか、色が黒なら甘さを足していてもバレないのだ。晴は朔のプライドを守ってやったのか。
「葉、早く着替えておいでよ」
「うん。でも、今日は朔と家に帰ろうかなと思ってさ」
 真には兄弟がいないからわからないけれど、確かに弟が来たら気を遣ってこんな反応になるのかもしれない。
「でも葉は祭り楽しみにしてたじゃん。あとで朔と二人で行く?」
「俺たちは、朔ちゃんが一緒でも構わないよ。人数は多い方が楽しそう」
 透と二人でここまで言ったら、あとは晴と天川兄弟次第だ。ちょうど戻ってきた晴が「みんなで行こうよ」と言うと、朔も「うん、行きたい」と答えた。
 本当だったら真と透は頃合いを見て、祭りでは葉と晴を二人きりにしてやろうと目論んでいた。でも朔がいるのならそういう訳にはいかないだろう。せっかくなら全部五人で楽しもうかと透に目配せをすると、彼も同意らしく小さく頷いた。
 夕食は近くの居酒屋で軽く済ませた。葉の隣を陣取った朔はそれは嬉しそうで、べったりとくっついて離れなかった。晴は気にしていなさそうに見えたけれど、きっと面白くないのだろう。いつもに比べて葉へ話しかける回数が格段に少なかった。
 食後に向かった祭り会場でも、朔はことあるごとに葉に甘えて、とんだブラコンだと呆れを通り越して感心するほどだった。一方で、葉はしきりに真たちのことも気にかけて、仲介役に忙しそうだ。そんなに気を遣わなくてもいいのにと思いつつ、大学で見せる自由奔放な姿とのギャップに面白くなってくる。都会の祭りにはあまり生き物が見えないから、葉も我を忘れられないのだろう。
 そうやって普段と異なる葉を見守りながら祭りを楽しんでいたら、葉が「はあ!」と謎の奇声を上げた。これは何かに出会ったのだとわかってその様子を見ていると、葉は射的の屋台に釘付けになっている。
「オオサンショウウオだ」
 葉の興奮気味の声に「本当だ」と答えたのは、真と朔だ。透と晴は一体どの景品のことを言っているのかわからないようで、きょとんとしている。
「ほら、あの右端の大きいぬいぐるみ。誰も興味持ってないやつ」
 真が説明するとやっとわかったようで、二人が納得したように頷いた。
「葉くん。射的やってみようか」
 晴の言葉に目を輝かせながら頷いた葉を見て、晴は今日一番嬉しそうだ。なんだか良かったなと思って二人の後ろ姿を見つめる。もう少しで触れ合いそうな手がもどかしい。少し離れたところからその様子を見守っていたら、いつの間にか隣に並んでいた朔が「あのさ」と言った。
「どうした?」
「あの人、葉の何?」
 あの人とは、晴のことだろうとすぐにわかった。子供っぽいくせに敏いなと思いながら考える。まさか、真が全てをバラすわけにはいかない。
「何って」
 友達だと、言おうと思ったのだ。しかしそれに被せるように、透が「あの人はね」と言ったので、先を任せて口を閉じてみる。
「あの晴ってやつは、僕たちの敵だよ」
 朔の向こうにいる透をギョッとしながら見ると、朔も驚いたように透を凝視していた。発言した透はどうしてか涼しい顔をしている。
「いい、朔ちゃん。晴くんはね、優しくて、一途で、ちょっと太々しくて、すごくいい男なんだ」
 意外な言葉に驚いていると、朔が応えるように小さく頷いた。
「それは、最悪だ。敵すぎる」
「そうでしょ。だから、邪魔しに行こう」
「うん」
「ほら、真くんも。早くオオサンショウウオ捕まえよう」
 透に促されて面白がりながら頷くと、三人で葉と晴に駆け寄った。
 最終的に、オオサンショウウオは真が射止めた。多分、無欲の勝利だと思う。自分が獲ったものではないと遠慮がちな葉にぬいぐるみを押し付けると、葉は目をキラキラさせて「ありがとう」と言いながらオオサンショウウオを抱きしめた。
 次の日には、朔は大人しく帰って行った。すっかり元気になっていた葉に安心したのだろう。それでも別れ際に名残惜しそうな表情で葉を抱きしめると、晴と、なぜだか真まで睨みつけて、透には手を振り、最後まで生意気にバスに乗り込んでいった。
「行っちゃったね」
 透が呟くと、葉はこくりと頷いて、それから真たちを振り返った。
「本当にありがとう。弟が、世話になりました」
「いいって。楽しかったから」
 真が答えると、葉は心底ホッとしたようにもう一度「ありがとう」と言った。そんな葉を一番熱心に見つめていた晴が唐突に葉の手を掬い取ったのは、真も、もしかしたら透も予想していたことだ。
「葉くん、逃避行しよう」
「え、トウヒコウ?」
「逃避行でもデートでも、なんでも良いから行っておいで」
 真がそう言うと、隣の透も呆れたように口を開いた。
「葉ちゃんは夕方までに返してね。僕と一緒にバイトだから」
「知らないよ。葉くん、隣町の博物館行こう」
「博物館って、県立の?」
「蝶々の展示があるって」
「うん!それ絶対に行きたかったやつ」
 晴は興奮気味の葉を連れて、次にやってきたバスに飛び乗り、逃避行へと出掛けていった。とんだお騒がせカップルだなと思いつつ、透と一緒に適当に帰路に着く。
「透くんってさ、葉のこと」
 どう思っているのか聞こうとして、我ながら随分と野暮な質問だなと思った。だから急いで方向転換して、「生き物界で一番変態だと思ってる?」と聞いてみる。すると透はおかしそうに笑って「うん」と答えた。
「変態で、可愛くて、蝶々みたい。うっかり僕に捕まっちゃえば良いのにね」
 その言葉に、なんとなく蜘蛛の巣が思い浮かんだ。透はきっと、美しい糸を複雑に張り巡らせて、いつか葉を捕まえるつもりなのかもしれない。誰よりも爽やかなくせに、恐ろしい男だ。
「まあ、俺は葉が幸せならそれで良いんだ。だから、捕まえるなら幸せにしてやってね」
「もちろん」
 葉は晴をナントカという蝶に見立てるけれど、葉自身が蝶みたいな男だと思う。一生懸命に生きていて、気まぐれで、人の心をくすぐってやまない。そんな葉がどうか、心から好きな人とずっと一緒にいられると良い。幼馴染を逸脱した気持ちであることに気が付かないまま、真は夏の残る空を見上げてみるのだった。