そうして夕刻。
婚儀を終えお社を後にした私は、千賀高さまと共に帝都の一角にある広大なお屋敷に足を踏み入れた。
西洋建築を取り入れた二階建てのその家は、鉄製の飾り柵と綺麗に刈り揃えられた木々で囲われていた。なんて立派なお家だろうと、お上りさんのように目を瞬かせてしまう。
と、そこに強固な結界が仕掛けられていることに気づき、私は感嘆する。あやかしが入ってこないようにするための高位術式だった。流石は東雲家の方だ。
門扉から玄関口に続く長い石畳を歩く間、私は落ち着きなく庭先を見回した。
「すごいですね」
「ありがとうございます。庭師の腕がいいのでしょう。ああそうだ、今夜から貴女の家ですから、鍵を渡しておきますね。入ってはいけない部屋などはありませんから、ご自由にお過ごしください」
「ありがとうございます」
「それと、荷物は本当にこれひとつだけでしたか? もしかして遠慮されたんじゃ」
「いえ、本当にそのひとつだけです。申し訳ありません、運んでいただいてしまって……」
「いえいえ、これくらい」
私が持ち運んだ風呂敷包を持ち上げ、千賀高さまはなんてことはないというように微笑んだ。
中には着物が数枚と小物が少し入っているだけだった。妾の子である私に買い与えるものなどないと、義母が物を持つことを許してくれなかったからだ。
「さあ、どうぞ」
千賀高さまが西洋風の玄関扉を開く。
このお屋敷は東雲家の本家とはまた別に、千賀高さまが個人で所有されているのだそうだった。本家は帝都郊外に位置しているのだが、千賀高さまは仕事をやりやすくするため、こちらに住んでいらっしゃるのだとか。
「お帰りなさいませ、若さま」
「お式はどうでした?」
と、中から三十代半ば頃と思わしき女性と、私より少し年上くらいの軍服姿の男性に出迎えられる。ふたりともニコニコと笑っていて、千賀高さまの影になっていた私を興味深そうに覗き込んでくる。
「滞りなく」
ふたりにそう声をかけたあと、千賀高さまが私を振り返った。
「通いで料理や掃除をしてくださっている亜子さんと、部下で一等呪術師の佐武です。よく家に出入りしますので、覚えておいてください」
「は、はい。秋鈴……東雲小夜と申します。不束者ではございますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます」
言って頭を下げた私に、お女中ーー亜子さんと、呪術師の佐武さんが揃って頷いてくれる。
「ご丁寧ありがとうございます。こちらこそ若さまともども、どうぞ宜しくお頼みしますね」
「何か困ったことがあればおっしゃってください。俺、お祓いは得意なので」
「は、はい」
おふたりは東雲の一族ではないからか、予想していたような冷たい態度は取られなかった。けれどどんな風に接すればいいかわからず、戸惑ってしまう。そんな私の隣で、千賀高さまが言った。
「亜子さん、今夜はもう上がってくださって結構ですよ。佐武も」
「承知しました」
「じゃ、失礼します。小夜さん、明日からどうぞ宜しくお願いしますね」
ぺこりと頭を下げた亜子さんと佐武さんが、連れ立ってお屋敷を出て行った。
それから千賀高さまは、直々にお屋敷の中を案内してくださった。
シャンデリアの吊るされた西洋風のテーブルがある居間、清潔な香りのする檜のお風呂、使い勝手の良さそうな台所、他にもいくつか客間や書斎などがあって、目が回りそうなほど複雑な造りをしていた。
「無駄に広いでしょう。父が勝手に用意したんです。過保護ですよね」
「いえ、どのお部屋も素敵です」
けれどひとつ気になったことがあった。
「ここにも」
二階を案内されていた最中。
呟いた私に、千賀高さまが「ああ」と、足を止めた。
「仕事柄、どうしても必要なんです。……気になりますか?」
「いえ。ただこんな複雑な結界は見たことがなかったので」
また見かけた高度な結界に、私はつい、言葉をこぼしてしまったのだ。
お屋敷の中には、門扉を初め至る所にこうした魔除けが施してあった。
「小夜さんも呪術を?」
千賀高さまに問われて、私はいいえと顔を左右に振る。
「少し齧った程度です。私は義妹や父のような才には恵まれなかったので」
「そうでしたか」
千賀高さまが思案するように顎に手を当てた。
その様子に、私ははっとする。
東雲家の傘下にーー千賀高さまの力になることが条件の結婚だったのに、呪術を齧った程度の人間を嫁がせたなどと、詐欺だと思われてしまっただろうか。
私は焦って口を開いた。
「だ、騙し討ちするようなことをしてしまい、申し訳ございません。ですが誠心誠意お仕えさせていただくつもりです……!」
突然の大声に、千賀高さまが驚いたように目を見開く。
外はもうすっかり暗くなっていて、窓から差し込む淡い月の光が千賀高さまの精悍なお顔を照らしていた。
「ありがとうございます。でも俺は別に、怒っているわけではありませんよ」
不安に揺らぐ私に、千賀高さまは穏やかに言った。
「ただ東雲の家は……特に俺はあやかしに狙われやすいので、小夜さんが心配になっただけです。……術やあやかしは視えるんですよね?」
「……は、はい。少しですが」
「それならよかった。全く視えない方もいらっしゃいますからね。一応護符を渡しておきます。何かあればこれを。大抵のあやかしは祓えます」
言って千賀高さまが懐から手のひら代の立派な護符を取り出す。
今日婚儀を執り行ったお社の名前が記された、霊験あらたかなお守りだった。
私はその深紫の面を見て悲鳴をあげそうになる。
「これ、とても高価なものでは」
「命には変えられません」
四人家族が一年は暮らしていけるほどの金額だと聞いたことがあって、私はこんなものを持ち歩きたくないと返そうとした。けれど千賀高さまは頑なに受け取ってくださらなかった。
「俺に誠心誠意仕えてくださるのでしょう? だったらこれくらいのお願いは聞いてください」
「……お願い」
私は途方に暮れつつも、無くさないようにしっかりと護符を小袖の隠しにしまいこんだ。
最後に連れて行かれたのは寝室だった。
広い室内はやはり西洋風で、部屋の隅に大人が三人は寝転べるだろう立派なベッドが置いてある。
そこに二つ並べられた枕を見て、私は千賀高さまと夫婦になったことを思い出した。ーーそういった知識は普通、母から娘へ口伝で受け継がれるものなのだそうだけれど、あいにく私は義母から何も教わっていなかった。ただ、夫婦が寝所を共にすることだけはわかっていた。具体的なことは何もわからないけれど、本能ゆえか、逃げ出したくなる。
「少し暑いですね」
千賀高さまが格子飾りのついた窓を開け、風を室内に取り入れた。
涼やかな夜の香りがした。
「緊張しますよね」
不意に囁かれ、私ははっと千賀高さまを見上げる。
千賀高さまは困ったような笑顔を浮かべていた。
「実は俺もです。父に言われて、急なことでしたから」
どうして思い至らなかったのだろう。
千賀高さまにとっても、これは意に沿わない結婚だったのだ。
私はぎゅっと拳を握りしめる。
せめて私が器量よしで、明るくて、雪音のように呪術の才能もあれば少しは役に立てたのだろうに。
私はここでも、いらない存在になってしまうのだろうか。
「小夜さん」
千賀高さまがゆっくりと近づいてくる。
目の前に立たれて、迷うように手を握られた。
思わずびくりとしてしまった私に、千賀高さまが手を離す。
「……今夜はお疲れでしょうから、もう休んでください」
「え」
「俺はこれから仕事があるので」
「これから?」
夜はすっかり更けてしまっている。
しかし千賀高さまは当たり前のように頷いた。
「ええ。むしろ夜こそ『彼ら』の時間ですから」
戸締りと火の始末はしっかりするようにと念を押され、私はひとり留守を預かることになった。
「……いってらっしゃいませ」
「はい。結婚式の当日に、申し訳ありません」
黒いマントを羽織った千賀高さまが、颯爽とお屋敷を後にする。
新しい生活は前途多難なのかもしれなかった。
婚儀を終えお社を後にした私は、千賀高さまと共に帝都の一角にある広大なお屋敷に足を踏み入れた。
西洋建築を取り入れた二階建てのその家は、鉄製の飾り柵と綺麗に刈り揃えられた木々で囲われていた。なんて立派なお家だろうと、お上りさんのように目を瞬かせてしまう。
と、そこに強固な結界が仕掛けられていることに気づき、私は感嘆する。あやかしが入ってこないようにするための高位術式だった。流石は東雲家の方だ。
門扉から玄関口に続く長い石畳を歩く間、私は落ち着きなく庭先を見回した。
「すごいですね」
「ありがとうございます。庭師の腕がいいのでしょう。ああそうだ、今夜から貴女の家ですから、鍵を渡しておきますね。入ってはいけない部屋などはありませんから、ご自由にお過ごしください」
「ありがとうございます」
「それと、荷物は本当にこれひとつだけでしたか? もしかして遠慮されたんじゃ」
「いえ、本当にそのひとつだけです。申し訳ありません、運んでいただいてしまって……」
「いえいえ、これくらい」
私が持ち運んだ風呂敷包を持ち上げ、千賀高さまはなんてことはないというように微笑んだ。
中には着物が数枚と小物が少し入っているだけだった。妾の子である私に買い与えるものなどないと、義母が物を持つことを許してくれなかったからだ。
「さあ、どうぞ」
千賀高さまが西洋風の玄関扉を開く。
このお屋敷は東雲家の本家とはまた別に、千賀高さまが個人で所有されているのだそうだった。本家は帝都郊外に位置しているのだが、千賀高さまは仕事をやりやすくするため、こちらに住んでいらっしゃるのだとか。
「お帰りなさいませ、若さま」
「お式はどうでした?」
と、中から三十代半ば頃と思わしき女性と、私より少し年上くらいの軍服姿の男性に出迎えられる。ふたりともニコニコと笑っていて、千賀高さまの影になっていた私を興味深そうに覗き込んでくる。
「滞りなく」
ふたりにそう声をかけたあと、千賀高さまが私を振り返った。
「通いで料理や掃除をしてくださっている亜子さんと、部下で一等呪術師の佐武です。よく家に出入りしますので、覚えておいてください」
「は、はい。秋鈴……東雲小夜と申します。不束者ではございますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます」
言って頭を下げた私に、お女中ーー亜子さんと、呪術師の佐武さんが揃って頷いてくれる。
「ご丁寧ありがとうございます。こちらこそ若さまともども、どうぞ宜しくお頼みしますね」
「何か困ったことがあればおっしゃってください。俺、お祓いは得意なので」
「は、はい」
おふたりは東雲の一族ではないからか、予想していたような冷たい態度は取られなかった。けれどどんな風に接すればいいかわからず、戸惑ってしまう。そんな私の隣で、千賀高さまが言った。
「亜子さん、今夜はもう上がってくださって結構ですよ。佐武も」
「承知しました」
「じゃ、失礼します。小夜さん、明日からどうぞ宜しくお願いしますね」
ぺこりと頭を下げた亜子さんと佐武さんが、連れ立ってお屋敷を出て行った。
それから千賀高さまは、直々にお屋敷の中を案内してくださった。
シャンデリアの吊るされた西洋風のテーブルがある居間、清潔な香りのする檜のお風呂、使い勝手の良さそうな台所、他にもいくつか客間や書斎などがあって、目が回りそうなほど複雑な造りをしていた。
「無駄に広いでしょう。父が勝手に用意したんです。過保護ですよね」
「いえ、どのお部屋も素敵です」
けれどひとつ気になったことがあった。
「ここにも」
二階を案内されていた最中。
呟いた私に、千賀高さまが「ああ」と、足を止めた。
「仕事柄、どうしても必要なんです。……気になりますか?」
「いえ。ただこんな複雑な結界は見たことがなかったので」
また見かけた高度な結界に、私はつい、言葉をこぼしてしまったのだ。
お屋敷の中には、門扉を初め至る所にこうした魔除けが施してあった。
「小夜さんも呪術を?」
千賀高さまに問われて、私はいいえと顔を左右に振る。
「少し齧った程度です。私は義妹や父のような才には恵まれなかったので」
「そうでしたか」
千賀高さまが思案するように顎に手を当てた。
その様子に、私ははっとする。
東雲家の傘下にーー千賀高さまの力になることが条件の結婚だったのに、呪術を齧った程度の人間を嫁がせたなどと、詐欺だと思われてしまっただろうか。
私は焦って口を開いた。
「だ、騙し討ちするようなことをしてしまい、申し訳ございません。ですが誠心誠意お仕えさせていただくつもりです……!」
突然の大声に、千賀高さまが驚いたように目を見開く。
外はもうすっかり暗くなっていて、窓から差し込む淡い月の光が千賀高さまの精悍なお顔を照らしていた。
「ありがとうございます。でも俺は別に、怒っているわけではありませんよ」
不安に揺らぐ私に、千賀高さまは穏やかに言った。
「ただ東雲の家は……特に俺はあやかしに狙われやすいので、小夜さんが心配になっただけです。……術やあやかしは視えるんですよね?」
「……は、はい。少しですが」
「それならよかった。全く視えない方もいらっしゃいますからね。一応護符を渡しておきます。何かあればこれを。大抵のあやかしは祓えます」
言って千賀高さまが懐から手のひら代の立派な護符を取り出す。
今日婚儀を執り行ったお社の名前が記された、霊験あらたかなお守りだった。
私はその深紫の面を見て悲鳴をあげそうになる。
「これ、とても高価なものでは」
「命には変えられません」
四人家族が一年は暮らしていけるほどの金額だと聞いたことがあって、私はこんなものを持ち歩きたくないと返そうとした。けれど千賀高さまは頑なに受け取ってくださらなかった。
「俺に誠心誠意仕えてくださるのでしょう? だったらこれくらいのお願いは聞いてください」
「……お願い」
私は途方に暮れつつも、無くさないようにしっかりと護符を小袖の隠しにしまいこんだ。
最後に連れて行かれたのは寝室だった。
広い室内はやはり西洋風で、部屋の隅に大人が三人は寝転べるだろう立派なベッドが置いてある。
そこに二つ並べられた枕を見て、私は千賀高さまと夫婦になったことを思い出した。ーーそういった知識は普通、母から娘へ口伝で受け継がれるものなのだそうだけれど、あいにく私は義母から何も教わっていなかった。ただ、夫婦が寝所を共にすることだけはわかっていた。具体的なことは何もわからないけれど、本能ゆえか、逃げ出したくなる。
「少し暑いですね」
千賀高さまが格子飾りのついた窓を開け、風を室内に取り入れた。
涼やかな夜の香りがした。
「緊張しますよね」
不意に囁かれ、私ははっと千賀高さまを見上げる。
千賀高さまは困ったような笑顔を浮かべていた。
「実は俺もです。父に言われて、急なことでしたから」
どうして思い至らなかったのだろう。
千賀高さまにとっても、これは意に沿わない結婚だったのだ。
私はぎゅっと拳を握りしめる。
せめて私が器量よしで、明るくて、雪音のように呪術の才能もあれば少しは役に立てたのだろうに。
私はここでも、いらない存在になってしまうのだろうか。
「小夜さん」
千賀高さまがゆっくりと近づいてくる。
目の前に立たれて、迷うように手を握られた。
思わずびくりとしてしまった私に、千賀高さまが手を離す。
「……今夜はお疲れでしょうから、もう休んでください」
「え」
「俺はこれから仕事があるので」
「これから?」
夜はすっかり更けてしまっている。
しかし千賀高さまは当たり前のように頷いた。
「ええ。むしろ夜こそ『彼ら』の時間ですから」
戸締りと火の始末はしっかりするようにと念を押され、私はひとり留守を預かることになった。
「……いってらっしゃいませ」
「はい。結婚式の当日に、申し訳ありません」
黒いマントを羽織った千賀高さまが、颯爽とお屋敷を後にする。
新しい生活は前途多難なのかもしれなかった。

