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『今日はお鍋なので、なるべく早く帰ってきてください』

今朝、小夜さんに言われた言葉を思い出して頬が緩む。「気持ち悪いですよ」と佐武が眉を顰めるのなんてこれっぽっちも気にはならなかった。

正午。違法な呪詛師がいるとの通報を受けた俺と佐武は、尋問を行うべく、容疑者の自宅に向かっていた。
その間も小夜さんの可愛らしい笑顔が眼裏から離れない。彼女は最近よく笑うようになってくれた。怯え尻尾を丸めていた猫がやっとすり寄ってきてくれたような幸福感を覚える。

「結婚っていいものだな」
「はあ? 親戚付き合いが面倒だとか言ってたじゃないですか」
「それはそれ。俺が未熟だっただけだよ」

あれ以来雪音さんとも会っていないし、年に数度、盆や正月などの行事だけ顔を合わせる程度なら問題ないことだと苦手意識を改める。
それよりも小夜さんとの結婚生活がうまくいっていることが、自分でも不思議なくらい心地よかった。相性がいいのだろうか。

思い、また頬が緩みそうになった瞬間だった。

「千賀高さま! ご無沙汰しております」
「……雪音さん」

往来の向かいから、派手な小袖姿の雪音さんが歩いてきた。そばには小間使いと思わしき男性が控えている。
雪音さんは小走りで俺のそばまでよると、その手を俺の胸に沿わせてきた。思わず身を引いてしまうが、雪音さんが怯む様子はない。

「奇遇ですね、お仕事中ですか?」
「はい、ここのところ忙しくて」

今日の香水の匂いがまた特にきつく、俺は早々に会話を切り上げようとした。しかしそこになんという偶然か、買い物中の小夜さんと亜子が通りかかる。

「……千賀高さま? それに、雪音……?」

小夜さんは亜子とともに夕飯の材料を揃えているところらしかった。麻の買い物籠からネギやキノコ、葉野菜が見え隠れしている。鍋だ……と思わず感動しかかる俺に、雪音さんの明るい声が浴びせられる。

「あらお姉さまも奇遇ね。お久しぶり。元気にしていた?」
「……え、ええ」
「全く、全然連絡を寄越してくれないんだもの。本当に冷たい人よね。あら? まあ、もしかして今夜はお鍋? 私も大好きなの。そうだ、よかったらお邪魔してもいいかしら? 久しぶりにお姉さまと話したいし、新居も見てみたいわ」

小夜さんが戸惑うように視線を泳がせる。
雪音さんどころか、俺や亜子すら見ようとせず、結婚式の日のように息を浅くしていた。

「小夜さん?」

どこか具合でも悪いのだろうか。
俺は咄嗟に彼女に歩み寄り、肩に手を添え、もう一方の手を小さな額にしっかりと当てた。熱はない。どころか、幾分下がっているようにも思える。背を屈めてよくよく見れば、顔色もひどく悪い。

「……俺の背中に乗ってください、帰りましょう。亜子さん、先生を呼んできてくれますか」
「わかりました」
「佐武、聞き込みはひとりで大丈夫だな? あとで俺もいく」
「任せてください」

さっと走り出した亜子さんと佐武を見送り、俺は抵抗する小夜さんを強引に背におぶった。

「落としはしませんけど、ちゃんと捕まっていてください」

小夜さんからの返事はない。本当に、いったいどうしてしまったのだろう。
訝しむ俺に、雪音さんが寄り添ってくる。

「お姉さまが心配です。お供しますわ」
「……ですが」
「ね、お姉さま。いいでしょう? お姉さまの好きな卵粥も作って差し上げたいし」

小夜さんは卵粥が好きなのか。知らなかった。

「わかりました。どうぞ」

それ以上雪音さんを拒むことができず、俺は小夜さんをおぶったまま屋敷に戻った。

雪音さんは屋敷につくなり「素敵!」と手を合わせてはしゃぎ出し、俺は流石に「静かにしてください」と願いでずにはいられなかった。

「ごめんなさい、あんまり立派なお屋敷なものだから驚いてしまって……でもお姉さまも水臭いわ。こんなにいい暮らしをしているのに、ちっとも呼んでくれないなんて。本当にいけずね」

姉妹特有の文句なのだろうか。
それにしても具合の悪い姉に対し、配慮に欠けている気がする。小夜はまだぐったりとしている。
卵粥を作ってもらったら早々に帰ってもらおう。
そう思ったのだが寝室で寝込む小夜に卵粥を届けたあとも雪音さんは中々帰ろうとはせず、屋敷中をみて周り、しまいには「お夕飯はまだなの?」と亜子に尋ねる始末だった。

「え、だって、今夜はお鍋なのでしょう? お姉さまがいないのは残念だけれど、材料を無駄にしていけないものね。いただきましょう。亜子さんだったかしら、早く準備してちょうだい。流石に泊まる訳にはいかないから」

我が物顔で居間に腰を下ろす雪音に、俺も亜子さんも呆然としてしまった。
亜子さんが「実は買い物の途中だったので、材料は揃っていません」と申し出ると、雪音さんは「あらまあ」と困ったような顔をしてようやく帰っていった。

「似てない姉妹でしたね」
「俺も思ってました」

亜子さんと顔を見合わせ、ため息をつく。楽しい夕食になるはずが、どっと疲れるだけの時間になってしまった。
医師の診察では、小夜さんに命の別条はなく、過労からくる眩暈のようなものでしょうとのことだった。

このところ『視る』訓練を続けていた疲れが溜まっていたのかもしれない。

俺は二階に上がり、夫婦の寝室ではなく、小夜さんに自室として使ってもらっている部屋に入った。

暗がりの中、ベッドの上で小夜さんが眠っていた。
俺はその脇に椅子を持ってきて座る。
顔色はだいぶ良くなっていた。

「……無理をさせてすみません」

そっと剥き出しのおでこを撫でると、小夜さんがくすぐったそうに目元を震わせた。可愛い。
雪音さんといた分の気疲れが緩和されていくようだった。

やっぱり俺には、親戚付き合いは向いていないのかもしれない。

でも、小夜さんとの縁は大事にしたい。

思いながら俺は小夜さんの寝顔を見守り続ける。もっと近づくにはどうしたらいいだろうと考えていた。