雷堂はマットの中に倒れ込んだ瞬間、何かが吹っ切れたような気がした。初めて自分の理想通りに身体が動いたような気がする。

 はるか上のバーを見上げる。まったく揺れていない。5M40の跳躍は成功だ。沸き立つような歓声が薄い膜がかかったように遠くから聞こえてくる。

(やっと本当の勝負ができる)


 雷堂は初めて自分の実力を確信していた。すぐに順番が呼ばれ、5M50のバーに挑む。

 先ほどの跳躍での汗もまだ引いていない。身体の芯は熱いままだ。波がうねるような興奮を腹の底で抱えながら、雷堂は再び助走に入る。思った通りの軌道を描きながら身体はバーを越えて行く。

 雷堂はあっさりと自己ベストを更新した。

 跳躍をするたびに身体が軽くなっていく気さえする。どれだけ高くへでも跳んでいけそうだ。

 5M50のバーには失敗する選手が多いせいで、クリアした雷堂はしばらく順番は回ってこない。
 
 熱中症予防のために首筋に保冷剤を当ててから、荷物を探り再びファイルを取り出した。中には真野が書いてくれた「雷堂昂生 流星サマーソルト」と名前とキャッチフレーズが併記された紙が入っている。凛々しくて威厳のある真野の字を見ていると、自分の名前には特別な力が宿っているみたいにも感じられる。

 文字を見つめていると、頭の中に真野の声が蘇ってくる。雷堂の大好きな声だ。

「初めて昂生くんの跳躍を見たとき、流れ星みたいだなって思ったんだ。名前には雷様と太陽、キャッチフレーズには星のお守りがついてる。つまり昂生くんには天が味方してるってことだよ。すごく心強いよね」

 誰か別の人間が言ったことばだったら雷堂は気に留めもしなかっただろう。真野が本気で雷堂に向き合い、応援してくれたから刺さったことばだ。今となっては「名前からして天が味方してる」と真野が強引にこじつけてプラス評価をしてくれたことすら愛おしく感じる。雷堂を励ますためにさんざん頭を捻ってくれた証拠だ。

 これを言ってくれた日から雷堂にとって真野は特別な存在になった。いや、その前からだったかもしれないけど。
 
 棒高跳という競技に打ち込みながらも須貝コーチへの想いを持て余し、選手としても記録が出せずにいたときに目の前に現れたのが真野だった。最初は気さくに話しかけてくる真野をうさんくさいと思っていたのに、いつの間にか彼は雷堂の信頼を勝ち取り、すべてを受け入れてくれる存在になった。

(さっき跳躍前に真野さんの文字を見てから、余計なことが気にならなくなったな……貂島のこともどうでも良くなった)

 5M50で大勢の選手が脱落し、いつの間にか残っているのは雷堂と貂島だけになった。あとは5センチずつ上がるバーにどちらが先に離脱するかで優勝が決まる。

「相手のベストは5M55です」

 清野が声を張って伝えてくれるが、いまいち声量が小さいのに思わず笑ってしまった。

(……笑ってるな、おれ。信じられないくらい落ち着いてる)

 肩の力が抜けていることに雷堂は改めて気づいた。競技中なのにリラックスしている。今なら風向きもはっきり感じ取れるし、その風に揺れているバーのきしむ音さえ聞こえる。なんというか、周りがよく見えるのだ。

 スタンドを見やれば、清野の隣の須貝はもう何も言わずに2Lのペットボトルを片手で持ってごくごくと飲み干している。このあとは戦略もないから真っ向勝負で跳ぶしかねえよ、とでも言いたいんだろう。この二年の付き合いでわかる。

 兄はまるで腹痛に苦しむような表情で自分のTシャツを両手で握りしめている。雷堂本人よりも緊張しているのかもしれない。

 最後にスタンド下の真野を見る。握った手から白い紐が見える。お守りを握っているに違いない。目が合った。真野が書いてくれた紙だと気づくかなと思って、ファイルを動かしてひらひらと見せてみる。真野はきょとんとした顔をしている。かわいいなと思う。

 雷堂はふと今なら、なぜ自分が「記録を出さねば」という圧を恐れていたのかがわかる気がした。記録のない自分は何者でもない、と自分の価値を認められなかったせいだ。
 
 記録を出しても出さなくても雷堂昂生はここにいる、と胸を張れるようになったのは真野のおかげだ。

(いつもの競技場にいるみたいに……おれはいつも通り跳ぶだけでいいんだ)

 雷堂は空を見上げる。熱い日差しが照りつける夏空だって、いつもの競技場と変わらない。

 



 5M55には競技順の早い貂島が先に挑戦する。彼は助走位置に行くのにわざわざ遠回りして雷堂の隣を通り、
「密着取材までされてんのに、優勝逃したらどうすんの?ヒサンだよね」と囁いてきた。が、正直もうどうでもいい。

 大きな声援を受けて貂島が跳躍する。身体の捻りが足りず、バーへのアプローチ角度が悪くなった。脚でバーを蹴飛ばす形になり、跳躍は失敗に終わった。

 雷堂は冷たいスポーツ飲料を一口だけ飲んでから立ち上がる。やっと跳べるぞと身体中の細胞がぴちぴちと飛び跳ねて喜んでいるのがわかる。

 雷堂が助走位置に立ったとき、「がんばれー」「行けるぞー」という声援が前の跳躍のときよりも大きい気がした。知らない声が混じっている。

(優勝が近くなってくると注目されんのかな……)と雷堂は頭のどこかでぼんやり考えるが、それももうどうでもいいことだ。

 雷堂は鼻から息を吸い、口からゆっくり出した。もう手が震えることも足がすくむこともない。

 だって、おれはよく知っている。この空が高いことを。どんなに高く跳んでも天には届かない。

 だからこそ跳ぶんだ、「雷堂昂生ここに在り」と宙に筆跡を記すために。

(おれはできる、おれはできる……)

 目を開いて、一番先に視界に捉えたのはバーだった。そしてその斜め向かいにいる真野も映す。

 真野とつながっているという確かな実感がある。真野の「跳んでほしい」という願いが伝わってくる。雷堂はその願いに「跳んでやる」という自分の意志を織り込んでいく。一つになった二人の気持ちを両掌で巻き付けるように、雷堂は強くポールを握った。ポールはじんわりと温かく感じる。

 バーを見上げた雷堂は、知らず口元を緩めた。

(もう怖いものなんてない。おれは一人で跳ぶんじゃない。真野さんと一緒に跳ぶんだ)

「行きまーす」と大声で叫んだ瞬間、ふわりと風が吹いた。雷堂に跳びにおいでと誘いをかけるように。

(――今だ)

 走り出す。力強く地面を蹴って進む。まるで水中の中にいるみたいに周囲はぼやけて見える。真野に何度も確認してもらいながら調整してきた踏切角はもう身体が覚えている。

(いつも通りの角度で――)

 踏切板のど真ん中にドンと突いた利き足の衝撃を感じたときにはもう宙にいた。大きく跳び上がった雷堂の身体をボックスに突き刺したポールが支える。ポールがたわんで雷堂は逆立ちの姿勢になったあと、柔らかく反発したポールが身体を宙に押し出していく。雷堂が自由になれる空への招待状だ。そこで初めて自分を後押してくれたポールから手を放す。

(ありがとう。あとは、おれ一人でやれる)

 宙に浮いてしまえば雷堂の独壇場だ。身体を捻って、バーを越えていく。重力さえも忘れてしまったように雷堂の身体は自在に動いた。ずっと浮かんでいられるような気さえした。

 雷堂の身体がマットに吸い込まれたとき、上空のバーは風を楽しむように揺れるだけで落ちてこなかった。

 成功だ。
 
 瞬間的に真野の姿を探した。真野は手を叩いてぴょんぴょん飛び跳ねている。一瞬遅れて観客からの大きな歓声が上がった。
 
 今すぐ真野の元に駆け寄りたかったが、競技中だ。真野の方を向いて両手の拳でガッツポーズして見せると、観客が湧いた。

(真野さんに見せたつもりだったんだけどな……)と雷堂は思う。

 次は貂島の順だ。しかし彼の顔色は悪く、思った通り失敗した。そして三回目の跳躍でも、大きく揺れたバーは貂島の身体と共にマットに落ちた。

 その瞬間、雷堂の優勝が決まった。わあっとスタンドが湧き、大きな拍手が巻き起こった。スタンドから聞こえる野太い咆哮は兄だろうか、いやもしかしたら須貝かもしれない。雷堂が軽く応えて胸の位置まで片手を挙げると、ますます歓声は大きくなった。

「優勝者、雷堂昂生。記録は5M55」と場内アナウンスが響き渡り、競技終了が審判によって宣言された瞬間、雷堂は真野の元に駆け出した。真野は既に大きな目からぼろぼろと涙を流している。

 近くに寄った瞬間、雷堂は思わず噴き出した。

「なんで、真野さんが泣いてんの?」

「だって……もう……」真野は何か言っているがことばになっていない。それを見ていると、雷堂の腹の中からふつふつと煮えたぎるような真野への愛しさがあふれ出す。

(やっぱり、おれは……この人のことが大好きだ)

 こらえきれずに雷堂は両腕で真野の身体をぎゅっと抱きしめた。真野の身体も熱くなっている。一緒に戦っていた証だ。

 抱きしめられた真野は戸惑ったみたいだった。もういい加減慣れればいいのに。

「昂生くん……」

 雷堂は真野の耳元で囁いた。

「ねえ、おれは真野さんのこと、尊敬してるよ。おれのこと尊敬してくれる?」

 真野は驚いたような顔をした。想定外の質問だったらしい。

「う、うん、尊敬してるけど、でも……なんで?」

「だって、真野さんの好きなタイプは『尊敬しあえる人』でしょ?」

 雷堂が言った瞬間、真野の目からさらにぼろぼろと涙があふれ出した。

「昂生くん、そんなこと覚えてたの?」

「覚えてるに決まってんじゃん。こっちは真野さんに好きになってもらおうとずっと頑張ってきたのに」

「そんな……かわいすぎる……」

 真野は続いて、そんな健気な頑張り屋さん、だとか、ごにょごにょと言っているが涙声なのでほとんど聞き取れない。

 雷堂は言った。ずっと伝えたかった台詞を。

「真野さん、好きだよ。おれと付き合ってくれる?」

 雷堂が覗き込むようにすると、真野は泣きながら驚いた顔をした。

「まだ大会、終わってもないのに?」

 雷堂はさらに強く真野の身体を抱きしめる。

「もう十分待ったよ。真野さんとの約束通り、自己ベストも出したし、全国優勝もしたよ。真野さんの理想のタイプも満たした。そして明日には大会も終わる。ねえ、真野さんまだオッケーしないの?」

 真野がおおらかな笑顔で笑った瞬間、ぽろんと大きな涙がこぼれだす。もう泣いているのか笑っているのかわからない。

「うぅ……うん。ぼくも大好きだよ、昂生くん」

 真野がやっと抱きしめ返してくれる。雷堂の胸は熱くなる。

 これでやっと真野は雷堂の恋人となったのだ。

 雷堂は秘密を打ち明けるように真野の耳元で伝えた。

「今日跳べたのは真野さんがいてくれたからだ。でもね、跳ぶのがすごく楽しくて、勝ったら付き合えるって約束も競技中はあんまり意識していなかったみたい。真野さんの泣き顔見たら思い出した」

 真野は雷堂のことばを頷きながら聞いていた。そして鼻をかんでから、やっと口を開いた。

「いいんだ、それで。だって雷堂くんは流星なんだから。好きに跳べばいいんだよ」

 真野の言うことは詩的過ぎてよくわからない。それでも雷堂は真野の隣にいるのが心地いい。たぶんこれが相性がいいということなのだ。

 二人が互いの存在を確かめ合うように抱き合ったままじっとしていると、上方から声がかかった。

「おい、雷堂っ。おれにもハグさせろっ。おれの愛弟子がっ、優勝したんだぞっ」

 おいおいと男泣きをしながら身体を乗り出してスタンドから飛び降りようとする須貝を清野が羽交い絞めにしている。

「雷堂さん、おめでとうございます。早急に戻ってきてください。そうじゃないと、このオッサン、抑えきれません」

 須貝の横から兄も身を乗り出して、こちらは言葉少なに言った。

「昂生、良かったな……」

「うん……ありがと」

 賑やかに喜ぶ御暁山大学の面々を尻目に、貂島ががっくりと肩を落として歩いていく。

 雷堂は真野に「少し待ってて」と声をかけると彼の傍に寄った。

「なんだよ、もう関係ないだろ」

 目を合わせずに去ろうとする貂島に雷堂は言った。 

「他の奴の足を引っ張るんじゃなくて、自分の跳躍に集中した方がいい。お前には実力があるんだし」

「う、うるせぇな……ちっ、覚えてろよ」

 貂島は捨て台詞だけ残して去っていた。

 真野と雷堂がスタンドに戻ろうとすると、競技場出入口のところで須貝たちが既に待ち構えていた。

「おい、雷堂。顔よく見せてみろ。泣いてんじゃないのか?」

 揶揄ってくるのは目を真っ赤にした須貝である。

「泣いてんのはコーチじゃないですか」

 雷堂が言った瞬間、「そうだよ、俺は……。ああ、良かった。本当に良かった。苦労させたな。やっと、お前を優勝させてやれた。今日は鍋を食いに行こうな」と再び須貝は号泣し、雷堂は彼に強く抱きしめられた。

「ちょ、……コーチ、苦しいし、刺身の方がいいです」

「苦しいそうですよ、コーチ。離してあげてください」

 清野が冷静な声で須貝に告げるが、彼の目も潤んでいる。兄はがしがしっと雷堂の頭を撫でたあと、真野に「本当にありがとうございました」と頭を下げてきた。真野も恐縮しながら礼を返している。 

 須貝の腕から逃れた雷堂は、定位置のように真野の隣に戻る。

「記者としての真野さんの密着は終わるけど、恋人としての真野さんはこれからも傍にいてくれるんだよね?」

 真野は「ずっと傍にいるよ」とまっすぐな声で答えた。その確かな約束に雷堂は胸が熱くなる。

 興奮と感嘆を抑えきれなくて、キスがしたいなと思う。皆が見ていたってかまわないだろう、だってもう恋人なんだから。

 真野の首筋に手を伸ばそうとしたところで、真野のスマホが鳴った。電話に出た真野は「ヤバい、そうでした。忘れてました!」と叫んだあと、すぐに切った。

 真野は雷堂の手を引っ張った。

「優勝者インタビューがあるんだって!記者たちが待ってるからすぐ連れてきてくれって怒られちゃった」

 須貝たちが泣き笑いのまま二人を送り出そうとすると、雷堂は唐突に宣言した。

「真野さんとおれ、恋人になったから」

 驚いて固まっている真野の手を引っ張って、雷堂は走り出した。

 残された三人は三者三様の反応だ。「男同士だよな?信頼しあう相棒だと思っていたけど、あれ?恋人って?」と混乱している須貝の横で「良かったなぁ、昂生。幸せになるんだぞ」と改めてじわじわ涙ぐんでいる兄がいる。清野は「やっとくっついたんですね」と安心したような表情をしている。
 
 少し焦った様子で真野は尋ねる。

「今言わなくても良かったんじゃない?」

「なんで?やっと恋人になれたのに。このあとの取材で全世界に向けて宣言してもおれは構わないけど」

 屈託のない表情で笑う雷堂に、真野は仕方ないな、と言う表情で笑った。

「昂生くん、優勝インタビューの最初の質問はぼくがしてもいいかな?他の記者に譲りたくないんだ」

「もちろん、流星の雷堂昂生様がなんでも答えてあげますよ」

 おどけて答える雷堂に真野はくすくすと笑った。二人の足取りは軽い。二人ならもっと高いところまで行ける――雷堂は、そう確信していた。