雷堂は新しいスパイクを履いて、練習を続けている。崩れていたフォームもほぼ完全に修正済みだ。インカレを一週間後に控え、練習量を減らして体調を整える期間になっている。ちなみに語学のテストも無事に合格点をとれたらしい。
須貝は「この分なら、あとは本番での精神状態をいつも通りに整えられれば問題ねえだろ」と大船に乗ったような態度だが、雷堂は性分なのか焦りが見られている。ついオーバーワークになりがちな彼を止めるのは真野の役目だ。
部内でも「雷堂に何かを依頼するときには真野を通してから」のルールが徹底されてきたようだ。この前などはマネージャー長から雷堂の分の合宿出欠シートをなぜか真野に渡された。
一応「これはインカレのあとでぼくはもう取材期間終わってるし、参加しないんだけど……」と伝えたのだが、「それでもいいです。雷堂の確認とって顧問に渡してください。真野さん通した方が話が早いんで」と言われてしまった。真野の近くにいた朱山は「完全にペア扱いだね」と笑っている。
「ペアじゃなくて、早くカップルになれるといいね」と彼が続いて言いかけたので、真野は慌てて朱山の口を塞ぐ。
「まだぼくたち微妙な関係だから揶揄わないでって言ったよね?」
朱山は驚いた顔をした。
「この前の週末、雷堂が寮に帰ってきたとき、すっごい浮かれてて鼻歌まで歌ってたよ。だから、もうくっついたのかと思ってたけど、違うの?」
この前の週末、ということは真野の部屋に雷堂が来たときのことだろう。
(そんなに嬉しかったのか、昂生くん……)と真野は、恥ずかしさと嬉しさでにやける口を隠そうとする。
「ち、違うんだよ、朱山くん。まだぼくたちはそういう関係じゃなくて。そういうのは、……インカレが終わってから、と思ってて」
朱山はぽんと手を叩いた。
「なるほどね。了解了解。あくまでも今の関係は記者と選手ってだけなんだね。妙に距離は近いし、取材と称してデートしたり、人目を盗んでキスする関係ではあるけどね」
朱山の言い方は真野の倫理観を妙にちくちくと刺激してくる。良くない関係だ……ということはわかっているけれど。
しょんぼりと肩を落とした真野を見て、朱山は驚く。
「ごめんて、そんなに真野さんが気にするとは思わなかったよ。そんなに難しい顔しないでさ、愛さえあればオールオッケーでしょ?」
現在二人の間に恋愛感情があったとしても、傍から見れば「社会人の記者が良いネタを掴むために手練手管を使って、初心な大学生をたぶらかした」と判断されるかもしれない。
口を滑らしてしまったと肩を落とす朱山に、「朱山くんは悪くないから気にしないで」と笑いかけたものの、真野の心は晴れないままだ。
練習後、真野は出社した。窓の外は暗いのに、室内は眩しいくらい煌々と電気が付いている。すれ違う社員と真野は挨拶を交わす。夜も更けているのに相変わらずここは人が多い。
編集長は真野に記事第二弾の校正書類を渡しながら尋ねてきた。
「スポーツ店での店主とのやりとりも、雷堂選手の素の顔が見えて良かったよ。いいネタ持ってこれたじゃん。細かい修正点は書いておいたからあとで確認しておいて」
「はい……」
煮えきらない真野の返事に、編集長はすぐに何かを察知したようだった。
「どうした?何か悩んでることでも?」
個人的な話なんです、と前置きをすると、敏腕編集長は真野の真剣な表情を見て何かを察したらしい。すぐにガラス張りのブースに移動して扉を閉めた。ここなら話の内容を他人に聞かれることはない。
真野は陸上専門誌に異動してすぐの頃、編集長から「取材対象との距離感を意識しろ」と指導を受けたことがある。グルメ雑誌担当のときは取材対象が料理だった。だから料理を褒めれば店長は喜んで、良い話が聞けた。
しかし、陸上専門誌の取材対象は選手だ。取材対象と親しくならなければ良い記事は書けないけれど、むやみに距離が近づいてしまえば客観性の低い記事になってしまう。真野は初めての密着取材で気合が入り過ぎてしまった結果、雷堂との距離が近づきすぎてしまったのかもしれない。
一連の説明を終えた真野は両手で頭を抱えた。
「取材対象と恋愛関係になるなんて普通に考えて記者失格ですよね……」
「まあそうだね。交際相手の記事を書くとなれば、偏りが出るだろうし。世間から『癒着』だと指摘されたら記事の信用性も揺らぐかもしれないな」
敏腕編集長の返事はやや冷たいが、正論だった。真野はうつむきながら、ぼそりと言う。
「ですよね。もうぼくは記者を辞めた方がいいでしょうか」
「それはちょっと議論が飛躍しすぎじゃないか?」
編集長が首を傾げると、真野はいきなり顔を上げて編集長の袖を掴んだ。
「ぼくが記事のために雷堂選手をたぶらかしたみたいですよね」と言いながら縋りつく真野を見て、あろうことか編集長は大きな口を開けて笑った。
「なんで笑うんです?」
編集長はまだ笑いが止まらないようで、指で涙を拭った。
「真野に人をたぶらかすことなんてできんのかい、と思ってね」
「……で、でき、……ないですかね?」
できる、と言うつもりだったが、言っているうちに不安になり、疑問形になった。真野は自分に色気があるとは全く思っていない。編集長はやっと少し真面目な顔に戻って言った。
「とにかく真野は記事のためにそんな手を使う人間じゃないだろう?自然に距離が近づいてお互いに好意を持ってしまうことは人間だからありうるよ。客観性のある記事が書けるのであれば、別に……お互い成人しているんだし交際しても問題ないのでは?」
「つまりぼくの記事の出来次第……ということですか」と、眉を寄せたままの真野を見て、編集長は片手で優雅にポニーテールを揺らした。
「清濁併せ呑むのが良い記者の資質でもある。私のパートナーも元取材先の息子だしな」
編集長が平然と言った一言に真野は目を丸くした。編集長が既婚だったというのも初めて知ったのだが。
「そうなんですか?」
編集長は真っ赤なルージュの唇でにやりと笑った。
「だから私は真野に偉そうな顔はできない。富豪の取材に行って親父さんに気に入られたせいで、すぐに息子との縁談話がやってきた。富豪の後ろ暗い過去にも容赦なく取材して記事を書いた姿勢が良かったらしい」
富豪との縁談、ですか。あっけにとられたままの真野の肩を叩きながら編集長は言った。
「記者としての倫理観は人それぞれだ……。富豪の息子との見合いをした夜、記者としての一線を越えたかもしれないと悩んだ私はきっと今の真野と似ている。真野も自分で道を選ぶんだな」
自分も編集長のように、悩む自分も受け入れて前に進むことができるだろうか、と思いながら真野は編集長に礼を言った。
インカレの日程は全三日間だ。真野は大会の前日から現地入りして、他の記者とも情報交換をしながら大会の様子を取材している。棒高跳が行われるのは大会二日目だ。雷堂は須貝らと共に、一日目の午後に到着予定で、開会式と閉会式には不参加だ。雷堂のように遠方からの参加者は式典に参加しないのは珍しくないらしい。大会全体の予定よりも自分の競技予定を優先して各個人の選手たちが行動するのを、個人競技らしいスタイルだなと真野は思う。
全国から選手が集結する大会は真野にとって初めての経験だ。強豪校は大学名の入ったカラフルな旗や横断幕を設置しており、応援団が入っているところもあるようだ。
ユニフォームを身につけた選手たちが、次々に自分の力を見せていく。一瞬で勝負がつく競技もあれば、じりじりと時間をかけて競っていく競技もある。どの選手も力強く、目に強い光を帯びていた。己に勝つためにこの場に立っていることがわかる。午前中に開会式を終え、午後から競技が始まったが、その進行は速い。ひっきりなしにスタート開始を意味するファンファーレが聞こえるような気がする。フィールド競技もトラック競技も同時に行われるため、同じ雑誌社の記者たちと役割分担をしながら取材しているが、インタビューから競技結果のまとめなど目の回るような忙しさだ。
昼ご飯もろくに口に入れられないままに日はやや傾き、真野のスマートウォッチが震えた。どうやら雷堂たちが競技場に到着したらしい。同僚たちに断りを入れてから、真野は駐車場に向かった。
須貝の車はすぐに分かった。ルーフにポールの入ったキャリアを積んでいてミサイル搭載車のようになっているワゴン車だ。
「おつかれさまです」
「おうおう、ポール積んでの長距離移動はなかなか堪えたな」
数時間の運転を終えた須貝が肩を回しながら降りてきた。続いて雷堂と清野も姿を見せる。清野は今回付き添いとして雷堂のサポート役だ。
一昨日まで部活で会っていたのに、雷堂の顔を見るだけでなぜかほっとした。
「真野さん、どうした?疲れた顔してる」
雷堂はすぐに真野の傍に来た。
「取材が忙しくて。明日はずっと昂生くんの密着できるように、時間調整してもらったからその分他の日にしわ寄せがね……」
「あんま無理するなよ」
「無理はしてないよ」
雷堂は手を伸ばしかけては、指先で空をつかむような仕草をした。真野の手を取りたいが、コーチや清野の手前、遠慮しているらしい。
「さあ、競技場までポール運ばないと。雷堂さんと二人じゃきついんで、コーチも動いて下さいよ」と清野が声を掛ける。通常の大会では部員が協力して運搬しているのだが、今回インカレには雷堂だけしか参加しないため、人員が足らないのだ。
「ぼくも手伝うよ」と真野も申し出たが、雷堂は即座に言った。
「真野さんはいいよ。忙しいんだろ?」
雷堂たちも競技場を周って大会の雰囲気に慣れておく予定とのことだ。夜に再びホテルで落ち合うことにして、真野は仕事に戻る。
「またね」と雷堂に手を振ると、彼も小さく手を振り返してくれる。
初日最後の競技を見届け、優勝選手のインタビューを行った真野は、同僚たちと食事を摂りながら翌日以降の打ち合わせを行った。真野がやっとホテルにたどり着いたのは午後十時を過ぎてからだった。
真野は重たい脚を引きずりながら思う。
(試合前日の昂生くんたちの様子も記事に盛り込みたかったけど、ほとんど一緒にいられなかったな……)
しかし、まだ仕事は終わらない。須貝から「明日のスケジュールを打ち合わせたい」とメッセージが入っていたので、真野は彼の部屋に向かった。
「すいません、遅くなって……」と須貝の部屋に入ると、既に彼は寝間着に着替えていた。
「真野さん、忙しそうだな」
「本当は前日の意気込みインタビューを、昂生くんにも須貝コーチにもしたかったんですけど。すいません」
肩を落とす真野に、須貝は笑った。
「そんなのしない方がいい。俺はきっと調子に乗って言わなくていいことまで言っちまうし、雷堂は余計に緊張する。明日はいつも通り、普段の実力を出せればそれでいいんだ」
須貝の言うことは尤もだ。真野は何度か頷きながら今のことばは記事にしたいな、とメモを取る。
メモを取り出した真野を見て興が乗ったのか、須貝はことばを続けた。
「うちのカミさんもそろそろ出産だしな、雷堂もハッピー、素子もハッピー、ダブルハッピーの夏を願いたいものだな」
須貝のいつもの余計な一言がでたな、と思って、真野は笑顔で受け流す。
そのとき、真野のスマートウォッチが震えた。「そろそろ戻ってきた?」と雷堂からのメッセージが表示される。
須貝の前なので返信するわけにもいかず、画面を閉じようとしたが、「雷堂か?」と先に尋ねられてしまう。
顔には出すまいとするのに、どうしても頬が緩んでしまう。真野の様子には気づかない様子で、須貝はバッグの中から小さな包みを出しながら言った。
「ちょうどよかった。これから会うなら雷堂に渡しておいてほしい。おれとカミさんで買ってきたんだ」
袋の中のお守りを須貝は見せてきた。赤い刺繍で縁どられたそれは「大願成就」と書いてある。「必勝祈願」でなく「大願成就」を選んだ須貝の優しさを真野は感じ取る。そこにあるのは「必ず勝て」という激励ではなく、「大きな願いが叶いますように」という祈りだ。
真野は後ずさりして断った。
「こんな大切なもの、だめですよ。自分で渡してください」
須貝は真野の腕を持って託すように手渡してきた。
「真野さんから渡してくれ。そしたらおれとカミさんと真野さん、三人分の祈りが入った最強のお守りになるだろ?」
気軽に頼んできた口調だったのに、意外にも須貝は真剣な表情をしていた。もしかして呼び出された理由は打ち合わせではなく、このお守りを渡すことだったのだろうか。それ以上断りきれず、真野は頷いた。
連絡を入れると雷堂はすぐにロビーに降りてきた。まだ寝間着ではなくジャージを着ている。もしかしたら、ずっと真野の帰りを待っていてくれたのかもしれない。
「ごめんね、明日も早いのに夜遅く呼び出しちゃって」
「いいって。おれも真野さんの顔見たかったし」
雷堂は優しく笑った。
お互いの顔を見るだけで、なんだか気恥ずかしくなりじっとしていられない。真野の疲労で重たかった足も一気に軽くなり、自然にそわそわ動いてしまう。打ち合わせたわけではないが、二人揃ってホテルを出た。
月が出ている。昼間の熱気はやや収まり、虫の声が聞こえる。少し歩くと大きな河があり、遊歩道が設置されていた。川沿いのベンチに二人で座る。ゆったり流れているせいかほとんど水音はしなかった。
「真野さん、夕飯食べた?」
「うん、取材の打ち合わせしながらエネルギーを補充したって感じだけど。昂生くんは?」
「バイキングだった。けど、刺身もローストビーフも食うなって言われてさ」
「ふふ、明日の夕食はなんでも食べれるよ」
「まあね」
明日の話題になると雷堂は少し黙った。大会で結果を残せず、プレッシャーに弱いと言われ続けてきた彼が、やっとそれを克服しようとしている。それでもなお、明日の大会出場に不安は残るのだろう。
雷堂はそっと真野の手を握ってきた。思ったよりも彼の指先は冷えている。
「おれ、きっと跳べるよね」
「跳べるよ。いつもの通りにやればだいじょうぶ」
真野は思い出してポケットから包みを取り出した。
「これ、須貝コーチから。昂生くんのために買ってきたんだって。……その、奥さんと、一緒に」
雷堂はお守りを取り出すと、「へー」と物珍しそうに眺めた。雷堂が意外にもくすっと笑ったので、真野は驚く。
「遠慮がちな言い方して、おれに気を遣ってんの?今更コーチと奥さんの仲の良さ見せられてもなんとも思わないよ。……今おれが好きなのは真野さん。知ってるでしょ?」
にかっと笑って言いきる雷堂に、真野は何も言えなくなる。鼻の奥がつんとした気さえする。
雷堂がほんの少しふれるだけのキスをしてきた。急に頬が熱くなる。真野は唇を抑えて、上半身だけ距離を取った。
「だめだよ、まだ恋人じゃないのに」
「キスはいいってことになってたはずだよ」
「だめです」
はいはい、と真野の言うことを聞き流した雷堂だったが、再びお守りを真野の手に握らせた。
「やっぱりこれ、真野さんが持ってて」
「なんで?昂生くんのためのお守りなのに」
雷堂は照れくさそうに頭を掻いた。
「いつも通りにしたいから。いつもはお守りなんて持ってないし。それに、おれみたいな自分勝手な奴が神頼みするよりも、真野さんみたいなお人良しがお守りを握りしめてた方が、きっとカミサマも力貸してくれるんじゃないかなって思ってさ、だめ?」
だからその上目遣いには弱いんだってば……。
断りきれず、真野はお守りを握って頷いた。
二人は揃って夜空を見上げる。暗い夜空に星々が瞬いている。
「明日は、昂生くんっていう流星がみんなの願いを託されて、この大空を駆ける。君は美しい流星になるんだ。ぼくは確信してる」
星空を見ながら真野が言うと、雷堂は頬を掻いた。
「……うまくいくといいけど」
「だいじょうぶ」
真野は雷堂の頭を撫でた。視界に入った腕時計が示していたのは午後十一時だった。
真野は慌てて立ち上がる。
「昂生くんも、もうそろそろ寝ないと」
雷堂もゆっくりと立ち上がった。手をつないで帰ろうとする雷堂に、真野は「まだだめだって」と小声で言いながら避ける。手つなぎを諦めた雷堂が真野のシャツの裾を掴んでくるのはもう気づかないふりをした。
「真野さん、明日のおれ優勝するからさ、告白の台詞を考えておいた方がいいんじゃない?」
雷堂はそろそろ調子が戻ってきたようだ。真野も軽口で言い返す。
「優勝した格好いい昂生くんが告白してくれるんじゃないの?」
雷堂は笑ったあと、真野の後ろからぎゅっと羽交い絞めに抱きしめてきた。そして囁かれる。
「真野さん、もう一回キスだけしとかない?」
ほだされそうになりながらも、真野が身を捩るとするりと腕はほどけた。彼はまだ本気じゃない。
「だめ。無駄に勃たせてタンパク質を体外に出しちゃだめだよ。明日のためにエネルギー温存」
「真野さん、真面目な顔で何の心配してんの」と雷堂はけらけら笑いながら、真野の額をつついた。
ロビーに戻り、真野はもう一度「早く寝るんだよ」と言い諭す。二人は手を振って別れた。明日はとうとう勝負の日だ。
次の日は快晴だった。跳躍に大きな影響を及ぼす風もそれほど強くない。
二日目は朝九時から競技は開始されており、雷堂らが到着したときには既に競技場は賑わいを見せている。棒高跳は午後二時から開始予定だ。
御暁山大学は選手一人だけの参加なので、いつものようにテントやシートで居場所を設置することはない。解放感のあるスタンドの一角に荷物を置いて、待機場所とした。もちろん棒高跳の競技場所のすぐ目の前だ。
須貝は眩しそうに太陽を睨んだ。これから日が昇ってくればさらに威力を増すだろう。
「直射日光が避けられないのが難点だな。清野はずっと日傘もって雷堂についてやれよ。雷堂もアップしすぎないようにな。体力持ってかれちまうぞ」
須貝の指示に雷堂たちは大人しく返事をする。皆帽子を被っているが、じりじりと照りつける太陽に対抗する手段としてはあまりにも心許なかった。
「なあに、俺は去年大会に出してやれなかった分、頭下げて他のコーチに情報得てきたからな」と言って、須貝が開けたのが大きなクーラーボックスだった。中には凍らせたペットボトルや保冷剤などが山のように入っている。
「夏の大会は暑さとの戦いだ。雷堂はもちろん、応援のやつらも気にせずどんどん使え、いいな?」
須貝の準備の良さとその頼りがいのある態度に、皆の空気が和らいだ。雷堂も「ありがとうございます」と珍しく素直に礼を言っている。その様子を見て、真野も胸を熱くする。
競技場内のサブトラックに移動し、雷堂のアップが始まる。付き添いの清野も一緒にジョグやストレッチを行うので、真野は荷物番をしながら近くで見守っている。
清野と会話しながら身体を動かす雷堂に緊張した様子は見られない。
(いつもと同じ、いつもと同じだ、……だいじょうぶ)
普段の練習と同様に、少し流して走ったあとにドリル練習を行う。
真野も取材を始めるまで知らなかったのだが、跳躍選手は大抵の場合、競技開始まで実際に跳ぶことはない。理由は簡単でサブトラックはスペースが狭く、跳躍できる器具の設置がないからだ。招集がかかって競技開始までの間に試し跳びはできるがせいぜい数回だ。
そのためアップで重要なのはイメージトレーニングだ。跳ぶつもりになって、助走をして踏み切るところまで実際に身体を動かしてみる。雷堂も「行きまーす」と声を掛けて何度か助走練習に入っている。サブトラックは混んでいるので、譲り合いが必要なのだ。
飲み物を取りに雷堂が戻ってくる。清野はすぐに日傘を開いて雷堂に差し掛ける。真野が先ほど撮った写真の足元のアップを見せながら「踏切の角度、いつも通りだよ。良い感じ」と声をかけると、雷堂は水を飲みながら頷いた。
そのとき、真野の「取材」と書いてある腕章が目に入ったのだろうか、
「取材入ってんじゃん。あいつ誰?」
「知らねー。弱い奴に取材なんてしても意味ねーのにな」
蛍光黄色のユニフォームを着た選手が二人、聞こえよがしに言いながら通り過ぎて行った。真野は確か去年の優勝者だ、とぴんとくる。
雷堂のユニフォームを清野は引っ張っておく。もちろん彼が反論しにいくのを防ぐためだ。
こんな嫌味を受ける場面に遭遇したことのない真野はおろおろするが、清野が耳打ちする。
「前年度優勝者の貂島です。雷堂さんとは何回か大会で顔合わせてるから顔見知りなのに、わざとああいうこと言って、動揺させてくるんですよ。奴の作戦です」
「あんなの、気にすることないよ昂生くん」と真野は雷堂の背中を軽く叩きながら言う。
ところが、雷堂は「……言わせておけよ」と軽く鼻を鳴らしただけでペットボトルを飲み干した。あまり関心がないのだろうか。拍子抜けをしたように清野は雷堂のユニフォームから手を放す。再びアップに戻った雷堂だったが、ほんの少しだけ走りに迷いが混じったように真野には感じられた。
棒高跳の招集場所まで清野と真野はついていき、必要最低限の荷物を雷堂に渡してから須貝たちが待機しているスタンドに戻った。席には雷堂の兄も来ている。久しぶりに会う兄とも挨拶を交わし、真野も腰を下ろしたが早くも胸の奥が痛み始めている。
(昂生くんに、何か他に言うことがあったんじゃないのかな……)
雷堂の様子が少しおかしいことには気づいていたのに。別れ際に「応援してるからね」と言って送り出したが、正解ではなかったような気がじわじわとしてきている。
そわそわと腰を浮かせる真野の様子を見て、須貝は水を向けた。
「真野さん、記者パスがあるんだし、場内に降りてもいいんだぞ」
コーチや仲間は競技場内への立ち入りはできないが、パスがある真野はその限りではない。
「でも……」
一人でスタンドを抜けて競技場内に入ることでコーチたちを出し抜くようで申し訳ない気持ちや、皆で一緒に応援したい気持ちもある。さらに、競技場内にいる間は記者として振舞わねばならないため、雷堂の応援を声に出してすることはできない。どちらも一長一短だ。
(どっちの方が昂生くんにとってプラスになるだろうか……)
迷っている真野に清野は、「これ必要な情報かどうかわかんないですけど」と前置きをしてから言った。
「雷堂さん、昨日寝言で真野さんの名前呼んでましたよ」
思わず「え?」と聞き返した真野だったが、他二人には驚いた様子はない。
須貝は「寝言までとは大した信頼関係だ」となぜか納得した様子で頷いており、雷堂の兄も笑って頷いている。
まさか全員……ぼくらの関係に気付いているのか、もしかして。
頬が熱くなった。それでも恥ずかしさより、三人が温かく雷堂を見守ってくれていることへの感謝の方が強かった。
最後のとどめに雷堂の兄が改まった表情で頭を下げて言った。
「うちの弟をよろしくお願いしますね」
そして三人から競技場に送り出された真野は、棒高跳の競技場所に向かって駆け出していく。
(昂生くん……一緒に戦おう)
じりじりと照り付ける日差しの中、既に跳躍練習が始まっている。選手たちは順にバーを越えていく。
雷堂の番が回ってきた。深呼吸をする。数拍の停止。真野には雷堂の(おれはできる、おれはできる)という心の中の呟きが聞こえている。
「行きまーす」
雷堂が声を上げると、スタンドから仲間たちの「はーい」という掛け声が応えた。走り出す。若干身体の動きが硬いようにも見える。跳び上がった。空中姿勢は相変わらず美しい。雷堂がマットに着地した瞬間、スタンドから「ほうっ」とため息にも似た静かな歓声が漏れた。
美しい。しかし、本当の雷堂の跳躍はこんなものではないのだ。
「角度若干高めかもです」
清野からのフィードバックをスタンドから須貝が持ち前の声量で本人に伝える。
「雷堂、焦ってんな。もう少し浅めに跳ぶこと意識だ」
雷堂は「はい」と返事をして、待機場所に戻っていく。
実は清野はこの一か月、踏切の瞬間を撮影し、踏切角をリアルタイムで確認する練習を積んできた。大会本番でデータ担当として雷堂の力になりたいと自分から頼み込んできた彼の思いに応えるため、真野が撮影方法をしっかりと教え込んできた。まさか本番で自分が応援スタンドにいないことを想定していたわけではないが、準備しておいて良かったと真野は改めて考える。
審判が旗を振り、男子棒高跳が始まった。トラック競技は当然続いており、予期しないタイミングでファンファーレが鳴ることも、スタンドが沸くこともある。その中でフィールド競技者は集中力を保ってパフォーマンスをしなければならない。
最初のバーの高さは4M90だ。跳ぶかパスするかは選手自身が決める。同じ高さを三回ミスしたら終了だ。体力温存の戦略や心理戦も絡んでくる。
何人かが挑戦をする。雷堂は事前の打ち合わせ通り、5M30から跳び始めるようだ。先に成功した貂島が雷堂に何か話しかけている。また動揺させるようなことを言っているのかもしれない、と真野は気を揉む。
声を出して応援することができない真野は、お守りを握りしめながら祈るように頭の中で話しかける。
(昂生くん、あいつが話しかけてるのは君だけだよ。つまり君のことを一番警戒しているんだ。本当に実力がある選手なんだとわかっているからこそ、邪魔してくるんだ)
さあ、5M30の雷堂の最初の跳躍だ。
助走位置に立った雷堂はいつものルーティーンのあと、「行きます」と声を掛ける。真野も思わず拳を握った。
走り出す。跳ぶ。空中で少し身体が乱れる。腹部がバーに当たる。バーは落ちた。
(昂生くん……)
スタンドでは須貝が唸っている。次も同じ高さを跳ぶか、体力温存のためにより高い記録に挑むか。どちらかを選ばなければならない。
雷堂はとぼとぼとした足取りでスタンドに近寄ってくる。もう真野のほんのすぐ手前にまで来た。彼は初めてスタンド下の影にいる真野に気付いたようだった。
「そんなところにいたんだ。真野さんの声聞こえないなって思ってたら、そういうことか」
雷堂はほっとしたように笑った。真野の方が緊張して咽喉が詰まったようになっている。
「ちゃ、……ちゃんと傍にいるから」
雷堂は満足そうに頷いたあと、スタンドを見やった。
清野からは踏切角は修正できていると報告があり、兄からは「次だ次」と切り替えを提案されながら、雷堂は須貝とどの高さを選択するか作戦を立てる。話し合いが終わると、雷堂は真野に小さく手を振って競技場所に戻って行った。
雷堂は5M30を捨て、5M40を跳ぶことにしたようだ。しばらく順番が回ってこないので彼はユニフォームの上にジャージを着て、首に保冷剤を巻いている。そのまま雷堂を観察していると、彼は荷物からファイルを取り出し、それをしばらく眺めた。それからファイルを胸に抱きしめるようにしてフィールドに寝転がり、目を瞑ってじっとしている。詳細はわからないが、集中を保とうとしているようだ。
真野は額の汗を拭う。興奮と緊張と熱さで汗が止まらない。
バーの高さが5M40になった。競技者たちの数は半分以下になっている。
再び雷堂の番が巡ってきた。彼の表情は不思議と穏やかそうに見えた。足元から順に視線を上げてバーを見やった彼は、既に自分の描くべき軌道がはっきりとした線で見えているようだった。
雷堂の「行きまーす」の声にスタンドから「はーい」と答える声がする。仲間たち以外にも声を出す人が増えてきた。雷堂が跳ぶごとに観客たちが魅了されていくのを肌で感じる。
「はーい」と応えるその中でもひと際大きな声は雷堂の兄だ。何もできない自分が歯がゆくてせめて雷堂の気持ちを盛り立てたいんだろう。清野も雷堂のために写真を練習してきたし、須貝は全力で雷堂を優勝させようと張り切っている。そして現地には来れなかったが、朱山を始めとした陸上部の面々もネット配信で競技の様子を見守っている。真野の手が握りしめているせいだろうか、須貝から託されたお守りがじわじわと熱を帯びていく。
(ほら、応援の声が聞こえる?昂生くん。みんなが君に自分の夢を託しているんだ。まるで流れる星に願いをかけるように)
そして真野が心の中で答えた「はーい」という返事もきっと雷堂の耳には聞こえたはずだ。真野に聞こえるこの鼓動は雷堂の心音だ。二人はつながっているのだから。
真野はカメラを構える。美しい流星を捉えるために。
風がやむ。一瞬だけ世界が無音になった。
(今だ)と真野が思った瞬間、雷堂が走り出した。
真野は心の内で雷堂にことばをかけ続ける。
(美しい流星はみんなの夢を託されていることなんて、知らなくてもいい。君はただ美しい姿で空を駆けるだけでいいんだ)
雷堂は力強い助走のまま、宙に跳び上がる。空中での雷堂の身体はまるで流線形の生き物のようにしなやかに弧を描く。昼間の太陽に負けない輝きを放つ流星が空を横切っていく。美しい宙返りだ。時間がゆっくり流れていくかのような長い滞空時間のあと、彼の身体はマットにぽすんと吸い込まれた。
真野は夢中でシャッターを切ったあと、カメラを下ろしてバーを見上げた。
バーはまったく揺れていない。
「よしっ」「やったぜ、昂生」
須貝と雷堂の兄が野太い歓声を上げたのが聞こえた。真野も思わず叫んでしまいそうで、口に手を当てる。スタンドから拍手も聞こえる。雷堂の跳躍に魅了された観客たちからの喝采だ。
君は流星だ、と真野は初めて彼の跳躍を見たときと同じように呟く。
みんなの、そしてぼくだけの流星だ。
須貝は「この分なら、あとは本番での精神状態をいつも通りに整えられれば問題ねえだろ」と大船に乗ったような態度だが、雷堂は性分なのか焦りが見られている。ついオーバーワークになりがちな彼を止めるのは真野の役目だ。
部内でも「雷堂に何かを依頼するときには真野を通してから」のルールが徹底されてきたようだ。この前などはマネージャー長から雷堂の分の合宿出欠シートをなぜか真野に渡された。
一応「これはインカレのあとでぼくはもう取材期間終わってるし、参加しないんだけど……」と伝えたのだが、「それでもいいです。雷堂の確認とって顧問に渡してください。真野さん通した方が話が早いんで」と言われてしまった。真野の近くにいた朱山は「完全にペア扱いだね」と笑っている。
「ペアじゃなくて、早くカップルになれるといいね」と彼が続いて言いかけたので、真野は慌てて朱山の口を塞ぐ。
「まだぼくたち微妙な関係だから揶揄わないでって言ったよね?」
朱山は驚いた顔をした。
「この前の週末、雷堂が寮に帰ってきたとき、すっごい浮かれてて鼻歌まで歌ってたよ。だから、もうくっついたのかと思ってたけど、違うの?」
この前の週末、ということは真野の部屋に雷堂が来たときのことだろう。
(そんなに嬉しかったのか、昂生くん……)と真野は、恥ずかしさと嬉しさでにやける口を隠そうとする。
「ち、違うんだよ、朱山くん。まだぼくたちはそういう関係じゃなくて。そういうのは、……インカレが終わってから、と思ってて」
朱山はぽんと手を叩いた。
「なるほどね。了解了解。あくまでも今の関係は記者と選手ってだけなんだね。妙に距離は近いし、取材と称してデートしたり、人目を盗んでキスする関係ではあるけどね」
朱山の言い方は真野の倫理観を妙にちくちくと刺激してくる。良くない関係だ……ということはわかっているけれど。
しょんぼりと肩を落とした真野を見て、朱山は驚く。
「ごめんて、そんなに真野さんが気にするとは思わなかったよ。そんなに難しい顔しないでさ、愛さえあればオールオッケーでしょ?」
現在二人の間に恋愛感情があったとしても、傍から見れば「社会人の記者が良いネタを掴むために手練手管を使って、初心な大学生をたぶらかした」と判断されるかもしれない。
口を滑らしてしまったと肩を落とす朱山に、「朱山くんは悪くないから気にしないで」と笑いかけたものの、真野の心は晴れないままだ。
練習後、真野は出社した。窓の外は暗いのに、室内は眩しいくらい煌々と電気が付いている。すれ違う社員と真野は挨拶を交わす。夜も更けているのに相変わらずここは人が多い。
編集長は真野に記事第二弾の校正書類を渡しながら尋ねてきた。
「スポーツ店での店主とのやりとりも、雷堂選手の素の顔が見えて良かったよ。いいネタ持ってこれたじゃん。細かい修正点は書いておいたからあとで確認しておいて」
「はい……」
煮えきらない真野の返事に、編集長はすぐに何かを察知したようだった。
「どうした?何か悩んでることでも?」
個人的な話なんです、と前置きをすると、敏腕編集長は真野の真剣な表情を見て何かを察したらしい。すぐにガラス張りのブースに移動して扉を閉めた。ここなら話の内容を他人に聞かれることはない。
真野は陸上専門誌に異動してすぐの頃、編集長から「取材対象との距離感を意識しろ」と指導を受けたことがある。グルメ雑誌担当のときは取材対象が料理だった。だから料理を褒めれば店長は喜んで、良い話が聞けた。
しかし、陸上専門誌の取材対象は選手だ。取材対象と親しくならなければ良い記事は書けないけれど、むやみに距離が近づいてしまえば客観性の低い記事になってしまう。真野は初めての密着取材で気合が入り過ぎてしまった結果、雷堂との距離が近づきすぎてしまったのかもしれない。
一連の説明を終えた真野は両手で頭を抱えた。
「取材対象と恋愛関係になるなんて普通に考えて記者失格ですよね……」
「まあそうだね。交際相手の記事を書くとなれば、偏りが出るだろうし。世間から『癒着』だと指摘されたら記事の信用性も揺らぐかもしれないな」
敏腕編集長の返事はやや冷たいが、正論だった。真野はうつむきながら、ぼそりと言う。
「ですよね。もうぼくは記者を辞めた方がいいでしょうか」
「それはちょっと議論が飛躍しすぎじゃないか?」
編集長が首を傾げると、真野はいきなり顔を上げて編集長の袖を掴んだ。
「ぼくが記事のために雷堂選手をたぶらかしたみたいですよね」と言いながら縋りつく真野を見て、あろうことか編集長は大きな口を開けて笑った。
「なんで笑うんです?」
編集長はまだ笑いが止まらないようで、指で涙を拭った。
「真野に人をたぶらかすことなんてできんのかい、と思ってね」
「……で、でき、……ないですかね?」
できる、と言うつもりだったが、言っているうちに不安になり、疑問形になった。真野は自分に色気があるとは全く思っていない。編集長はやっと少し真面目な顔に戻って言った。
「とにかく真野は記事のためにそんな手を使う人間じゃないだろう?自然に距離が近づいてお互いに好意を持ってしまうことは人間だからありうるよ。客観性のある記事が書けるのであれば、別に……お互い成人しているんだし交際しても問題ないのでは?」
「つまりぼくの記事の出来次第……ということですか」と、眉を寄せたままの真野を見て、編集長は片手で優雅にポニーテールを揺らした。
「清濁併せ呑むのが良い記者の資質でもある。私のパートナーも元取材先の息子だしな」
編集長が平然と言った一言に真野は目を丸くした。編集長が既婚だったというのも初めて知ったのだが。
「そうなんですか?」
編集長は真っ赤なルージュの唇でにやりと笑った。
「だから私は真野に偉そうな顔はできない。富豪の取材に行って親父さんに気に入られたせいで、すぐに息子との縁談話がやってきた。富豪の後ろ暗い過去にも容赦なく取材して記事を書いた姿勢が良かったらしい」
富豪との縁談、ですか。あっけにとられたままの真野の肩を叩きながら編集長は言った。
「記者としての倫理観は人それぞれだ……。富豪の息子との見合いをした夜、記者としての一線を越えたかもしれないと悩んだ私はきっと今の真野と似ている。真野も自分で道を選ぶんだな」
自分も編集長のように、悩む自分も受け入れて前に進むことができるだろうか、と思いながら真野は編集長に礼を言った。
インカレの日程は全三日間だ。真野は大会の前日から現地入りして、他の記者とも情報交換をしながら大会の様子を取材している。棒高跳が行われるのは大会二日目だ。雷堂は須貝らと共に、一日目の午後に到着予定で、開会式と閉会式には不参加だ。雷堂のように遠方からの参加者は式典に参加しないのは珍しくないらしい。大会全体の予定よりも自分の競技予定を優先して各個人の選手たちが行動するのを、個人競技らしいスタイルだなと真野は思う。
全国から選手が集結する大会は真野にとって初めての経験だ。強豪校は大学名の入ったカラフルな旗や横断幕を設置しており、応援団が入っているところもあるようだ。
ユニフォームを身につけた選手たちが、次々に自分の力を見せていく。一瞬で勝負がつく競技もあれば、じりじりと時間をかけて競っていく競技もある。どの選手も力強く、目に強い光を帯びていた。己に勝つためにこの場に立っていることがわかる。午前中に開会式を終え、午後から競技が始まったが、その進行は速い。ひっきりなしにスタート開始を意味するファンファーレが聞こえるような気がする。フィールド競技もトラック競技も同時に行われるため、同じ雑誌社の記者たちと役割分担をしながら取材しているが、インタビューから競技結果のまとめなど目の回るような忙しさだ。
昼ご飯もろくに口に入れられないままに日はやや傾き、真野のスマートウォッチが震えた。どうやら雷堂たちが競技場に到着したらしい。同僚たちに断りを入れてから、真野は駐車場に向かった。
須貝の車はすぐに分かった。ルーフにポールの入ったキャリアを積んでいてミサイル搭載車のようになっているワゴン車だ。
「おつかれさまです」
「おうおう、ポール積んでの長距離移動はなかなか堪えたな」
数時間の運転を終えた須貝が肩を回しながら降りてきた。続いて雷堂と清野も姿を見せる。清野は今回付き添いとして雷堂のサポート役だ。
一昨日まで部活で会っていたのに、雷堂の顔を見るだけでなぜかほっとした。
「真野さん、どうした?疲れた顔してる」
雷堂はすぐに真野の傍に来た。
「取材が忙しくて。明日はずっと昂生くんの密着できるように、時間調整してもらったからその分他の日にしわ寄せがね……」
「あんま無理するなよ」
「無理はしてないよ」
雷堂は手を伸ばしかけては、指先で空をつかむような仕草をした。真野の手を取りたいが、コーチや清野の手前、遠慮しているらしい。
「さあ、競技場までポール運ばないと。雷堂さんと二人じゃきついんで、コーチも動いて下さいよ」と清野が声を掛ける。通常の大会では部員が協力して運搬しているのだが、今回インカレには雷堂だけしか参加しないため、人員が足らないのだ。
「ぼくも手伝うよ」と真野も申し出たが、雷堂は即座に言った。
「真野さんはいいよ。忙しいんだろ?」
雷堂たちも競技場を周って大会の雰囲気に慣れておく予定とのことだ。夜に再びホテルで落ち合うことにして、真野は仕事に戻る。
「またね」と雷堂に手を振ると、彼も小さく手を振り返してくれる。
初日最後の競技を見届け、優勝選手のインタビューを行った真野は、同僚たちと食事を摂りながら翌日以降の打ち合わせを行った。真野がやっとホテルにたどり着いたのは午後十時を過ぎてからだった。
真野は重たい脚を引きずりながら思う。
(試合前日の昂生くんたちの様子も記事に盛り込みたかったけど、ほとんど一緒にいられなかったな……)
しかし、まだ仕事は終わらない。須貝から「明日のスケジュールを打ち合わせたい」とメッセージが入っていたので、真野は彼の部屋に向かった。
「すいません、遅くなって……」と須貝の部屋に入ると、既に彼は寝間着に着替えていた。
「真野さん、忙しそうだな」
「本当は前日の意気込みインタビューを、昂生くんにも須貝コーチにもしたかったんですけど。すいません」
肩を落とす真野に、須貝は笑った。
「そんなのしない方がいい。俺はきっと調子に乗って言わなくていいことまで言っちまうし、雷堂は余計に緊張する。明日はいつも通り、普段の実力を出せればそれでいいんだ」
須貝の言うことは尤もだ。真野は何度か頷きながら今のことばは記事にしたいな、とメモを取る。
メモを取り出した真野を見て興が乗ったのか、須貝はことばを続けた。
「うちのカミさんもそろそろ出産だしな、雷堂もハッピー、素子もハッピー、ダブルハッピーの夏を願いたいものだな」
須貝のいつもの余計な一言がでたな、と思って、真野は笑顔で受け流す。
そのとき、真野のスマートウォッチが震えた。「そろそろ戻ってきた?」と雷堂からのメッセージが表示される。
須貝の前なので返信するわけにもいかず、画面を閉じようとしたが、「雷堂か?」と先に尋ねられてしまう。
顔には出すまいとするのに、どうしても頬が緩んでしまう。真野の様子には気づかない様子で、須貝はバッグの中から小さな包みを出しながら言った。
「ちょうどよかった。これから会うなら雷堂に渡しておいてほしい。おれとカミさんで買ってきたんだ」
袋の中のお守りを須貝は見せてきた。赤い刺繍で縁どられたそれは「大願成就」と書いてある。「必勝祈願」でなく「大願成就」を選んだ須貝の優しさを真野は感じ取る。そこにあるのは「必ず勝て」という激励ではなく、「大きな願いが叶いますように」という祈りだ。
真野は後ずさりして断った。
「こんな大切なもの、だめですよ。自分で渡してください」
須貝は真野の腕を持って託すように手渡してきた。
「真野さんから渡してくれ。そしたらおれとカミさんと真野さん、三人分の祈りが入った最強のお守りになるだろ?」
気軽に頼んできた口調だったのに、意外にも須貝は真剣な表情をしていた。もしかして呼び出された理由は打ち合わせではなく、このお守りを渡すことだったのだろうか。それ以上断りきれず、真野は頷いた。
連絡を入れると雷堂はすぐにロビーに降りてきた。まだ寝間着ではなくジャージを着ている。もしかしたら、ずっと真野の帰りを待っていてくれたのかもしれない。
「ごめんね、明日も早いのに夜遅く呼び出しちゃって」
「いいって。おれも真野さんの顔見たかったし」
雷堂は優しく笑った。
お互いの顔を見るだけで、なんだか気恥ずかしくなりじっとしていられない。真野の疲労で重たかった足も一気に軽くなり、自然にそわそわ動いてしまう。打ち合わせたわけではないが、二人揃ってホテルを出た。
月が出ている。昼間の熱気はやや収まり、虫の声が聞こえる。少し歩くと大きな河があり、遊歩道が設置されていた。川沿いのベンチに二人で座る。ゆったり流れているせいかほとんど水音はしなかった。
「真野さん、夕飯食べた?」
「うん、取材の打ち合わせしながらエネルギーを補充したって感じだけど。昂生くんは?」
「バイキングだった。けど、刺身もローストビーフも食うなって言われてさ」
「ふふ、明日の夕食はなんでも食べれるよ」
「まあね」
明日の話題になると雷堂は少し黙った。大会で結果を残せず、プレッシャーに弱いと言われ続けてきた彼が、やっとそれを克服しようとしている。それでもなお、明日の大会出場に不安は残るのだろう。
雷堂はそっと真野の手を握ってきた。思ったよりも彼の指先は冷えている。
「おれ、きっと跳べるよね」
「跳べるよ。いつもの通りにやればだいじょうぶ」
真野は思い出してポケットから包みを取り出した。
「これ、須貝コーチから。昂生くんのために買ってきたんだって。……その、奥さんと、一緒に」
雷堂はお守りを取り出すと、「へー」と物珍しそうに眺めた。雷堂が意外にもくすっと笑ったので、真野は驚く。
「遠慮がちな言い方して、おれに気を遣ってんの?今更コーチと奥さんの仲の良さ見せられてもなんとも思わないよ。……今おれが好きなのは真野さん。知ってるでしょ?」
にかっと笑って言いきる雷堂に、真野は何も言えなくなる。鼻の奥がつんとした気さえする。
雷堂がほんの少しふれるだけのキスをしてきた。急に頬が熱くなる。真野は唇を抑えて、上半身だけ距離を取った。
「だめだよ、まだ恋人じゃないのに」
「キスはいいってことになってたはずだよ」
「だめです」
はいはい、と真野の言うことを聞き流した雷堂だったが、再びお守りを真野の手に握らせた。
「やっぱりこれ、真野さんが持ってて」
「なんで?昂生くんのためのお守りなのに」
雷堂は照れくさそうに頭を掻いた。
「いつも通りにしたいから。いつもはお守りなんて持ってないし。それに、おれみたいな自分勝手な奴が神頼みするよりも、真野さんみたいなお人良しがお守りを握りしめてた方が、きっとカミサマも力貸してくれるんじゃないかなって思ってさ、だめ?」
だからその上目遣いには弱いんだってば……。
断りきれず、真野はお守りを握って頷いた。
二人は揃って夜空を見上げる。暗い夜空に星々が瞬いている。
「明日は、昂生くんっていう流星がみんなの願いを託されて、この大空を駆ける。君は美しい流星になるんだ。ぼくは確信してる」
星空を見ながら真野が言うと、雷堂は頬を掻いた。
「……うまくいくといいけど」
「だいじょうぶ」
真野は雷堂の頭を撫でた。視界に入った腕時計が示していたのは午後十一時だった。
真野は慌てて立ち上がる。
「昂生くんも、もうそろそろ寝ないと」
雷堂もゆっくりと立ち上がった。手をつないで帰ろうとする雷堂に、真野は「まだだめだって」と小声で言いながら避ける。手つなぎを諦めた雷堂が真野のシャツの裾を掴んでくるのはもう気づかないふりをした。
「真野さん、明日のおれ優勝するからさ、告白の台詞を考えておいた方がいいんじゃない?」
雷堂はそろそろ調子が戻ってきたようだ。真野も軽口で言い返す。
「優勝した格好いい昂生くんが告白してくれるんじゃないの?」
雷堂は笑ったあと、真野の後ろからぎゅっと羽交い絞めに抱きしめてきた。そして囁かれる。
「真野さん、もう一回キスだけしとかない?」
ほだされそうになりながらも、真野が身を捩るとするりと腕はほどけた。彼はまだ本気じゃない。
「だめ。無駄に勃たせてタンパク質を体外に出しちゃだめだよ。明日のためにエネルギー温存」
「真野さん、真面目な顔で何の心配してんの」と雷堂はけらけら笑いながら、真野の額をつついた。
ロビーに戻り、真野はもう一度「早く寝るんだよ」と言い諭す。二人は手を振って別れた。明日はとうとう勝負の日だ。
次の日は快晴だった。跳躍に大きな影響を及ぼす風もそれほど強くない。
二日目は朝九時から競技は開始されており、雷堂らが到着したときには既に競技場は賑わいを見せている。棒高跳は午後二時から開始予定だ。
御暁山大学は選手一人だけの参加なので、いつものようにテントやシートで居場所を設置することはない。解放感のあるスタンドの一角に荷物を置いて、待機場所とした。もちろん棒高跳の競技場所のすぐ目の前だ。
須貝は眩しそうに太陽を睨んだ。これから日が昇ってくればさらに威力を増すだろう。
「直射日光が避けられないのが難点だな。清野はずっと日傘もって雷堂についてやれよ。雷堂もアップしすぎないようにな。体力持ってかれちまうぞ」
須貝の指示に雷堂たちは大人しく返事をする。皆帽子を被っているが、じりじりと照りつける太陽に対抗する手段としてはあまりにも心許なかった。
「なあに、俺は去年大会に出してやれなかった分、頭下げて他のコーチに情報得てきたからな」と言って、須貝が開けたのが大きなクーラーボックスだった。中には凍らせたペットボトルや保冷剤などが山のように入っている。
「夏の大会は暑さとの戦いだ。雷堂はもちろん、応援のやつらも気にせずどんどん使え、いいな?」
須貝の準備の良さとその頼りがいのある態度に、皆の空気が和らいだ。雷堂も「ありがとうございます」と珍しく素直に礼を言っている。その様子を見て、真野も胸を熱くする。
競技場内のサブトラックに移動し、雷堂のアップが始まる。付き添いの清野も一緒にジョグやストレッチを行うので、真野は荷物番をしながら近くで見守っている。
清野と会話しながら身体を動かす雷堂に緊張した様子は見られない。
(いつもと同じ、いつもと同じだ、……だいじょうぶ)
普段の練習と同様に、少し流して走ったあとにドリル練習を行う。
真野も取材を始めるまで知らなかったのだが、跳躍選手は大抵の場合、競技開始まで実際に跳ぶことはない。理由は簡単でサブトラックはスペースが狭く、跳躍できる器具の設置がないからだ。招集がかかって競技開始までの間に試し跳びはできるがせいぜい数回だ。
そのためアップで重要なのはイメージトレーニングだ。跳ぶつもりになって、助走をして踏み切るところまで実際に身体を動かしてみる。雷堂も「行きまーす」と声を掛けて何度か助走練習に入っている。サブトラックは混んでいるので、譲り合いが必要なのだ。
飲み物を取りに雷堂が戻ってくる。清野はすぐに日傘を開いて雷堂に差し掛ける。真野が先ほど撮った写真の足元のアップを見せながら「踏切の角度、いつも通りだよ。良い感じ」と声をかけると、雷堂は水を飲みながら頷いた。
そのとき、真野の「取材」と書いてある腕章が目に入ったのだろうか、
「取材入ってんじゃん。あいつ誰?」
「知らねー。弱い奴に取材なんてしても意味ねーのにな」
蛍光黄色のユニフォームを着た選手が二人、聞こえよがしに言いながら通り過ぎて行った。真野は確か去年の優勝者だ、とぴんとくる。
雷堂のユニフォームを清野は引っ張っておく。もちろん彼が反論しにいくのを防ぐためだ。
こんな嫌味を受ける場面に遭遇したことのない真野はおろおろするが、清野が耳打ちする。
「前年度優勝者の貂島です。雷堂さんとは何回か大会で顔合わせてるから顔見知りなのに、わざとああいうこと言って、動揺させてくるんですよ。奴の作戦です」
「あんなの、気にすることないよ昂生くん」と真野は雷堂の背中を軽く叩きながら言う。
ところが、雷堂は「……言わせておけよ」と軽く鼻を鳴らしただけでペットボトルを飲み干した。あまり関心がないのだろうか。拍子抜けをしたように清野は雷堂のユニフォームから手を放す。再びアップに戻った雷堂だったが、ほんの少しだけ走りに迷いが混じったように真野には感じられた。
棒高跳の招集場所まで清野と真野はついていき、必要最低限の荷物を雷堂に渡してから須貝たちが待機しているスタンドに戻った。席には雷堂の兄も来ている。久しぶりに会う兄とも挨拶を交わし、真野も腰を下ろしたが早くも胸の奥が痛み始めている。
(昂生くんに、何か他に言うことがあったんじゃないのかな……)
雷堂の様子が少しおかしいことには気づいていたのに。別れ際に「応援してるからね」と言って送り出したが、正解ではなかったような気がじわじわとしてきている。
そわそわと腰を浮かせる真野の様子を見て、須貝は水を向けた。
「真野さん、記者パスがあるんだし、場内に降りてもいいんだぞ」
コーチや仲間は競技場内への立ち入りはできないが、パスがある真野はその限りではない。
「でも……」
一人でスタンドを抜けて競技場内に入ることでコーチたちを出し抜くようで申し訳ない気持ちや、皆で一緒に応援したい気持ちもある。さらに、競技場内にいる間は記者として振舞わねばならないため、雷堂の応援を声に出してすることはできない。どちらも一長一短だ。
(どっちの方が昂生くんにとってプラスになるだろうか……)
迷っている真野に清野は、「これ必要な情報かどうかわかんないですけど」と前置きをしてから言った。
「雷堂さん、昨日寝言で真野さんの名前呼んでましたよ」
思わず「え?」と聞き返した真野だったが、他二人には驚いた様子はない。
須貝は「寝言までとは大した信頼関係だ」となぜか納得した様子で頷いており、雷堂の兄も笑って頷いている。
まさか全員……ぼくらの関係に気付いているのか、もしかして。
頬が熱くなった。それでも恥ずかしさより、三人が温かく雷堂を見守ってくれていることへの感謝の方が強かった。
最後のとどめに雷堂の兄が改まった表情で頭を下げて言った。
「うちの弟をよろしくお願いしますね」
そして三人から競技場に送り出された真野は、棒高跳の競技場所に向かって駆け出していく。
(昂生くん……一緒に戦おう)
じりじりと照り付ける日差しの中、既に跳躍練習が始まっている。選手たちは順にバーを越えていく。
雷堂の番が回ってきた。深呼吸をする。数拍の停止。真野には雷堂の(おれはできる、おれはできる)という心の中の呟きが聞こえている。
「行きまーす」
雷堂が声を上げると、スタンドから仲間たちの「はーい」という掛け声が応えた。走り出す。若干身体の動きが硬いようにも見える。跳び上がった。空中姿勢は相変わらず美しい。雷堂がマットに着地した瞬間、スタンドから「ほうっ」とため息にも似た静かな歓声が漏れた。
美しい。しかし、本当の雷堂の跳躍はこんなものではないのだ。
「角度若干高めかもです」
清野からのフィードバックをスタンドから須貝が持ち前の声量で本人に伝える。
「雷堂、焦ってんな。もう少し浅めに跳ぶこと意識だ」
雷堂は「はい」と返事をして、待機場所に戻っていく。
実は清野はこの一か月、踏切の瞬間を撮影し、踏切角をリアルタイムで確認する練習を積んできた。大会本番でデータ担当として雷堂の力になりたいと自分から頼み込んできた彼の思いに応えるため、真野が撮影方法をしっかりと教え込んできた。まさか本番で自分が応援スタンドにいないことを想定していたわけではないが、準備しておいて良かったと真野は改めて考える。
審判が旗を振り、男子棒高跳が始まった。トラック競技は当然続いており、予期しないタイミングでファンファーレが鳴ることも、スタンドが沸くこともある。その中でフィールド競技者は集中力を保ってパフォーマンスをしなければならない。
最初のバーの高さは4M90だ。跳ぶかパスするかは選手自身が決める。同じ高さを三回ミスしたら終了だ。体力温存の戦略や心理戦も絡んでくる。
何人かが挑戦をする。雷堂は事前の打ち合わせ通り、5M30から跳び始めるようだ。先に成功した貂島が雷堂に何か話しかけている。また動揺させるようなことを言っているのかもしれない、と真野は気を揉む。
声を出して応援することができない真野は、お守りを握りしめながら祈るように頭の中で話しかける。
(昂生くん、あいつが話しかけてるのは君だけだよ。つまり君のことを一番警戒しているんだ。本当に実力がある選手なんだとわかっているからこそ、邪魔してくるんだ)
さあ、5M30の雷堂の最初の跳躍だ。
助走位置に立った雷堂はいつものルーティーンのあと、「行きます」と声を掛ける。真野も思わず拳を握った。
走り出す。跳ぶ。空中で少し身体が乱れる。腹部がバーに当たる。バーは落ちた。
(昂生くん……)
スタンドでは須貝が唸っている。次も同じ高さを跳ぶか、体力温存のためにより高い記録に挑むか。どちらかを選ばなければならない。
雷堂はとぼとぼとした足取りでスタンドに近寄ってくる。もう真野のほんのすぐ手前にまで来た。彼は初めてスタンド下の影にいる真野に気付いたようだった。
「そんなところにいたんだ。真野さんの声聞こえないなって思ってたら、そういうことか」
雷堂はほっとしたように笑った。真野の方が緊張して咽喉が詰まったようになっている。
「ちゃ、……ちゃんと傍にいるから」
雷堂は満足そうに頷いたあと、スタンドを見やった。
清野からは踏切角は修正できていると報告があり、兄からは「次だ次」と切り替えを提案されながら、雷堂は須貝とどの高さを選択するか作戦を立てる。話し合いが終わると、雷堂は真野に小さく手を振って競技場所に戻って行った。
雷堂は5M30を捨て、5M40を跳ぶことにしたようだ。しばらく順番が回ってこないので彼はユニフォームの上にジャージを着て、首に保冷剤を巻いている。そのまま雷堂を観察していると、彼は荷物からファイルを取り出し、それをしばらく眺めた。それからファイルを胸に抱きしめるようにしてフィールドに寝転がり、目を瞑ってじっとしている。詳細はわからないが、集中を保とうとしているようだ。
真野は額の汗を拭う。興奮と緊張と熱さで汗が止まらない。
バーの高さが5M40になった。競技者たちの数は半分以下になっている。
再び雷堂の番が巡ってきた。彼の表情は不思議と穏やかそうに見えた。足元から順に視線を上げてバーを見やった彼は、既に自分の描くべき軌道がはっきりとした線で見えているようだった。
雷堂の「行きまーす」の声にスタンドから「はーい」と答える声がする。仲間たち以外にも声を出す人が増えてきた。雷堂が跳ぶごとに観客たちが魅了されていくのを肌で感じる。
「はーい」と応えるその中でもひと際大きな声は雷堂の兄だ。何もできない自分が歯がゆくてせめて雷堂の気持ちを盛り立てたいんだろう。清野も雷堂のために写真を練習してきたし、須貝は全力で雷堂を優勝させようと張り切っている。そして現地には来れなかったが、朱山を始めとした陸上部の面々もネット配信で競技の様子を見守っている。真野の手が握りしめているせいだろうか、須貝から託されたお守りがじわじわと熱を帯びていく。
(ほら、応援の声が聞こえる?昂生くん。みんなが君に自分の夢を託しているんだ。まるで流れる星に願いをかけるように)
そして真野が心の中で答えた「はーい」という返事もきっと雷堂の耳には聞こえたはずだ。真野に聞こえるこの鼓動は雷堂の心音だ。二人はつながっているのだから。
真野はカメラを構える。美しい流星を捉えるために。
風がやむ。一瞬だけ世界が無音になった。
(今だ)と真野が思った瞬間、雷堂が走り出した。
真野は心の内で雷堂にことばをかけ続ける。
(美しい流星はみんなの夢を託されていることなんて、知らなくてもいい。君はただ美しい姿で空を駆けるだけでいいんだ)
雷堂は力強い助走のまま、宙に跳び上がる。空中での雷堂の身体はまるで流線形の生き物のようにしなやかに弧を描く。昼間の太陽に負けない輝きを放つ流星が空を横切っていく。美しい宙返りだ。時間がゆっくり流れていくかのような長い滞空時間のあと、彼の身体はマットにぽすんと吸い込まれた。
真野は夢中でシャッターを切ったあと、カメラを下ろしてバーを見上げた。
バーはまったく揺れていない。
「よしっ」「やったぜ、昂生」
須貝と雷堂の兄が野太い歓声を上げたのが聞こえた。真野も思わず叫んでしまいそうで、口に手を当てる。スタンドから拍手も聞こえる。雷堂の跳躍に魅了された観客たちからの喝采だ。
君は流星だ、と真野は初めて彼の跳躍を見たときと同じように呟く。
みんなの、そしてぼくだけの流星だ。
