雷堂のフォームは日を追うごとに改善されている。踏切の角度を意識して跳躍することで、元の美しい跳躍が復活しつつある。
午後のやわらかい日差しに、ポールが反射して一瞬だけ煌めく。雷堂は魚が水面から跳ね上がるような勢いで、バーを越えて行った。
バーの近くで真野は練習を見守りながら須貝と話している。
「この分だとインカレでも実力を出せそうですね」と真野が言うと、須貝は満足そうに頷いた。
「そうだな、今年はやっと勝負ができるな」
しかし、須貝は「勝負」と言っただけで「優勝」という単語は使わなかった。真野は記者という仕事柄、相手のことばの選択の理由を敏感に感じ取った。
少しだけ声のトーンを落として遠慮がちに真野は尋ねる。
「もしかして須貝コーチの予想では昂生くんが優勝しない、と思ってたりするんですか?」
心配そうな真野を見て、須貝は豪快に笑った。
「もちろん大事な愛弟子だからな、優勝すればいいなとは思ってるよ。でもな、勝負はやってみないとわからねえところもある。陸上は相手を負かすよりも自分に打ち克つことの方が重要だ。自己ベストを出しても優勝できないときもあるし、逆にいまいちな記録でもうっかり優勝できちまうこともある。俺が雷堂に望むのは、優勝よりも自己ベストを出すことだな。きっとその経験は今後のあいつの陸上人生での糧になるに違いないさ」
「なるほど……それは大学卒業後も、昂生くんが陸上を続けていけるように、ということですね」
真野は感心しながらメモを取る。須貝は今だけではなく、もっと大局を見据えているのだ。
「あいつは大器晩成型だからな。このまま競技を終わらせるのはもったいないだろ」
雷堂への信頼と親愛を感じさせる須貝のことばを聞いて、真野は雷堂のコーチが須貝で良かったと改めて考える。雷堂が過去に好きだった相手だと考えると複雑だが、それでも雷堂が彼を好きになった理由は理解できてしまう。
懸命にメモを取る真野に、須貝は笑いかけた。
「真野さんにも、ありがとな」
唐突な感謝のことばに真野は驚いて顔を上げる。須貝に感謝されるようなことはしていないはずだが。
「何がですか?」
「傍にいるのが俺だけだったらフォームの崩れには気づかなかったかもしれないし、昨年みたいに追い詰めてまた怪我させてたかもしれない。真野さんが来てくれてあいつの精神面が安定してきたんだよ。本当に感謝してる」
もしかして須貝は、真野と雷堂が恋人未満友人以上の関係であることを勘づいているのだろうか。真野は戸惑いながらも「いえ、こちらこそ……」と頭を下げて表情を隠した。
「まあ、良い記者さんを呼び込めたっていうことを含めて、俺の手柄だけどな」と、最後は得意気に胸を張って須貝は笑った。全体的には良いことを言ってるのに、余計な一言を付け加えるのがこの須貝の欠点でもあり魅力でもある。真野はつい、くすりと笑う。
「行きまーす」と助走位置についた雷堂が声をかける。安全確認のためのルーティーンだ。須貝と真野は声を合わせて「はーい」と答える。
雷堂が走り出す。助走フォームに無駄な力みはない。踏み切る。角度を意識しすぎたせいか、わずかに後半の助走が詰まったかもしれない。ポールがしなり、雷堂の身体が宙を舞う。
「踏切の角度は悪くない。助走前半からストライドの調整を意識しておけよ」
須貝がフィードバックすると、雷堂が「はい」と力強く頷く。彼本来の跳躍フォームを取り戻していく予感に、真野は胸が熱くなる。
練習後、皆それぞれのタイミングで競技場から大学に戻る坂を上がっていく。雷堂と連れ立っている真野の間に割り込んできたのは朱山だった。雷堂は不機嫌そうに鼻の頭に皺を寄せるが、それを気にする男ではない。二人の間に挟まるのが自分の定位置とでも言うかのように我が物顔で幅を取っている。
「真野さん、この前の雷堂の部屋での取材上手くいったの?なんかあっという間に帰っちゃったみたいだけど」
単刀直入に切り出され、真野は説明に窮して宙を見上げた。西の空にはまだ夕陽の名残が残っている。
夕陽に背中を押されるように真野は無難に説明する。
「ええっと、取材自体はちょっと……だったんだけど、でも解決はしたし。昂生くんのフォームの改善点もわかったし、次も充実した記事が書けそう」
雷堂も黙って頷いている。
実はあの部屋での取材をきっかけに雷堂から告白をされる羽目になったのだが、そこまで言う必要ないだろう。
朱山はにやにやと笑った。
「へえー、良かったね。そういえば二人にちょっと面白い話があってね」
「なんだよ」
雷堂の相槌は面倒くさそうなのを隠そうともしていない。朱山は真ん丸の目をきらきらさせながら言った。
「ちょっと前なんだけど、帰りがけにたまたま見ちゃったんだ。駐車場にあった車の中でどうやらキスしてたっぽい人たちがいてさ」
そこまで言ってわざとらしくことばを止め、朱山は目を細めて雷堂と真野を交互に見てきた。
雷堂と真野はぎくりとして思わず足を止める。一瞬だけお互いの態度を探り合うように目を合わせた。朱山はそんな二人の様子を面白そうに見つめながら話を続ける。
「誰だろうってずっと気になってんの。顔は見えなかったんだけど車はちょっと見覚えある気がするんだよね。たぶん、真野さんの車じゃなかったかなー、なんて」
水色の軽だよ、と朱山はわざわざ囁き声で念押しする。
無邪気を装った朱山の戦略に真野は気づいた。そうでなければわざわざ雷堂と真野が二人でいるときを狙って尋ねてこないだろう。
……たぶん全部ばれているのだ。
困ったなあ、と思いながら雷堂の様子を窺うと、俯いてしまった彼の表情は影になっていたがどうやら眉をしかめているようだ。
「記者さんがキスを目撃されちゃうなんて、普通逆だよね?職業柄、恥ずかしいことなんじゃない?だいじょうぶ?」
真野は首を傾げながら「えっと……」とことばを探す。次のことばが見つかる前に雷堂が朱山との間に割り込んだ。真野を守るかのように立ちふさがった雷堂の背中はとても凛々しく見える。
「もういいって。今おれたちは微妙な時期なんだ。放っておいてくれ」
珍しく必死になる雷堂に朱山はこらえきれずに笑い出した。笑われた雷堂はぷりぷりと怒りながら一人で歩き出す。雷堂の背中に朱山は再び尋ねた。
「わかったわかった。真野さんのキスの相手は雷堂だったって認めるってことだね。いいじゃんいいじゃん。真野さんとのキス、良かった?」
なんてことを聞くんだ、と真野も内心泡を食うが、雷堂がどう答えるのかという興味もあった。
「ああ、良かったよ。悪いか」
雷堂はやけっぱち気味に答える。キスを見られていたのが恥ずかしいのだろう。
良かったんだって~、と朱山は真野に囁いてくる。真野はどういう顔をすればいいのかよくわからず、(良かったんだ……)と密かに心の中で噛みしめる。
二人も雷堂のあとをついて坂を上りきった。草が生い茂った裏のフェンスから大学の敷地内に入る。
朱山はまだ粘り強く質問を続けている。
「もっと真野さんといちゃいちゃしたいよね、雷堂?」
「したい」
雷堂はイライラしながらも朱山の質問には律儀に答えるところが妙におかしい。真野は知らず口元が緩んでしまう。
「ああ、でもそんな暇もないかもね。来週からはテスト週間だし、そのあとはもうインカレだもんね。雷堂忙しいじゃん」
完全に面白がっている朱山のことばに、雷堂ははっと気づいたようだった。
「そうか、テストか……」
「せめて必修だけは落とさないようにね。三年にもなって語学再履修はダルいよ」
大学生たちの会話を真野は微笑ましく見守っている。そういえば来週はもう七月になる。インカレまではあと一か月だ。
雷堂は少し考え込んだあと、真野に向かって一歩踏み出してきて言った。
「また夜に連絡する」
「うん」と頷いて真野は二人と別れ、車に向かった。「うん」と頷いただけなのに声が張りきりすぎてはいなかっただろうか。キスが良かったと言われた高揚感でなんだか足元がふわふわする気がする。
真野の後ろでは「ねえ、付き合ってんの?まだなの?」と朱山がまだ粘り強く尋ねている声が聞こえていた。あのしつこさだけは記者として見習いたい、と真野は思う。
次の週末、雷堂が跳躍用のスパイクを新調することになり、真野も取材として同行することになった。
寮から二駅のスポーツ専門ショップである。最寄り駅で待ち合わせると雷堂が既に来ていた。
(そういえばコーヒーのイベントに行ったときも先に昂生くんが来てたな)と真野は微笑ましく思い出しながら駆け寄る。
「今日はいつも通りのスポーティーな服装なんだね」と真野が声をかけると、雷堂もイベントでの服装を思い出したのだろう。照れくさそうに鼻を掻いた。
「取材だから写真も撮るだろ?普段のおれを知ってるやつに見られると恥ずかしいし」
人通りの多い商店街の中にやや年季の入ったスポーツ用品店があった。狭い店内に所せましと商品が並んでいるせいで、蛍光灯の光が遮られており、少々薄暗い。
「こんにちはー」とガラス戸を開けて、雷堂が入っていく。真野も後に続いた。
中にいた白髪頭の男性は雷堂を見ると「おお、昂ちゃんじゃないか」とすぐに顔をほころばせた。
「おっちゃん、今日はおれの取材してくれてる記者さんも一緒なんだけど、スパイク買ってるところを取材してもらってもいいっすか?」
おっちゃんと呼ばれた店主は目を細めて頷いた。
「コーチから聞いとるよ。それにしても密着取材だなんて昂ちゃんも出世したもんだなぁ。記者さんもよろしくね」
真野も温かい気持ちになりながら、頭を下げる。
店の奥から数種類のスパイクを持ってきて、店主は素材や重量の違いなどを熱心に説明してくれる。
「これまで使ってたのはこのモデルだったな?」
「はい、悪くなかったですけどね、軽いし」
「これは人工皮革なんだよ。インカレまで一か月だろ?天然の方が断然フィット感が違うぞ」
話し合いながら雷堂が試着する様子を真野はカメラを片手に要点をメモしていく。
雷堂が選んだ天然皮革のスパイクは、赤色しか在庫がないようだった。雷堂が金を払うのを見ていた真野は密かに息を呑む。真野の想定の倍くらいの値段だった。
(やっぱりスポーツってお金がかかるんだな。昂生くんのアルバイトの時給何時間分だろう……)
店主はお釣を渡すときに「おまけだよ」と言って飴玉を二つ手渡してきた。
店主に礼を言って店を出たあと、真野は素直な疑問を口にした。
「もっと色とかこだわるのかと思ってたけど……」
雷堂は可笑しそうに笑った。
「棒高なんて競技人口が少ないから、そもそもスパイクのバリエーションがないんだよ。跳躍用のスパイクを試し履きできる店もほとんどないから、あの店も続けられるようになるべく実店舗で買わないとさ。おっちゃんは年だしいつまで続けられるかわかんないけど」
そうか……と真野は納得する。自分ではマイナースポーツをした経験がない真野には新鮮な視点だ。店主との交流も記事に盛り込んだら、読みごたえがあるかもしれない、と真野は考える。
「お店の人とも仲良いんだね」と水を向けると、雷堂は少し笑った。
「兄ちゃんが陸上やってた頃からの知り合いだから、おれのこといつまでも小学生だと思ってる」
二人はもらった飴玉を舐めながら駅に向かって歩く。グレープ味は甘ったるくてなんだか懐かしい味がした。真野はふと思い出して尋ねる。
「そういえば、今日は喫茶店のバイトなかったの?先週もぼくがお店に行ったときも、いなかったよね?」
ふと気になった真野が尋ねると、雷堂は驚いたように真野の袖を引いた。
「え、真野さん、先週来てたの?事前に言っておいてくれたら会いに行ったのに」
(練習でほぼ毎日会ってるのに……)と思いながらも、こんなに素直に親愛を示してくれるとつい絆されてしまう。
真野は思わず「ごめんね」と謝る。
謝るな、という意味だろう、雷堂は首を振りながら言った。
「テスト前は勉強しろって、バイトさせてくれないんだよ。今度からはちゃんと事前に言ってほしい。おれも時間合わせて店に行くからさ」
絶対に会えるチャンスを逃したくない、という雷堂の気迫に、真野は思わず尋ねてしまった。
「そんな……に、ぼくに会いたいの?」
その問いを口にした瞬間、「まずった」と思った。これでは雷堂の攻勢パターンになってしまうのが見えている。せっかく自分でも公私の別をつけようと心掛けているのに。
それでも口にしてしまったことばを取り返せるわけもなく、真野は汗ばむ手をぎゅっと握りながら雷堂の返答を待った。
雷堂は「当たり前じゃん」と口を尖らせた。
「真野さん、デート誘っても来てくれないし。今日はスパイク買うから取材として一緒に来てくれたんでしょ」
実は雷堂からはあの告白以降何度かデートに誘われている。恋愛には慣れていなさそうなのに、いや、かえって慣れていないせいか、雷堂はぐいぐいと距離を縮めてこようとする。それでも大会前に気を散らしてほしくないし、正式な恋人になるまで記者と取材相手がデートをするのは不適切だろうと判断して、真野は断り続けているのである。
正攻法で誘っても二人きりで会ってもらえないからこそ、取材という口実をつけてスポーツショップに誘ったのは雷堂の奥の手だったのかもしれない。
こんなに明らかに好意を示されたのは久しぶりの経験だ。真野は少し戸惑いながらも、胸が熱くなる。
なぜ自分にそこまでの価値を見出してくれているのかはわからないが、試合前の雷堂が望むことであれば少々のことは叶えてあげても良いのではないだろうか。その方が記録にも良い影響が出るかも。と真野の気持ちは少しずつ揺らいでいる。
「おれのこと、ちゃんと好きになってもらいたいのに、練習以外で会えなかったらそんなチャンスもないんだけど」
肩を落とした雷堂は撫でてもらうのを待つ仔犬みたいに見える。良くない兆候だ。
(少しだけ彼の希望を聞いてあげても、いいのかもしれない……)
迷いながら歩いていると駅に着いてしまった。雷堂は「このあとテスト勉強しようかと思ってて……」とぽつりと言う。「テスト勉強」というワードに雷堂がまだ学生であることを思い出し、真野は二、三歩後ずさった。やはり距離を取らなければ。しかし態度とは裏腹に朗らかな声で真野は応えた。
「そうだね、ぼくも家に帰って原稿書こうかな」
雷堂は思いきったように言った。
「真野さんち、行ってもいい?」
「え、ぼくの家?」
社会人の一人暮らしの家に大学生を連れ込んで二人きりになるのは……と二の足を踏む真野だったが、雷堂は諦めなかった。
「おれの部屋は見たのに?真野さんは見せてくれないんだ」
鼻の付け根に皺を寄せ始める雷堂を見ながら、真野は曖昧な返事をする。
「えっと、……うーん、そう、かもね」
「おれは昔からの知り合いの店にも行って、まだ『ちゃん』付けで子ども扱いされてるところまで見せたのに?兄の店でバイトしてることも見せたし、身内贔屓の恥ずかしい兄にも会わせたのに?」
取材対象であるから当然だということもできるのだが、雷堂の言うことにも一理あると思ってしまうのは、もう雷堂に自分の気持ちを握られてしまっているせいだろうか。
雷堂は怒っていると言うよりも、沈んだ様子で言った。
「真野さんはおれの秘密たくさん知ってるのに、おれは真野さんのこと、前にくれたペーパーの情報くらいしか知ってることないよ。もっと知りたいのに。互酬性の理論って教えてくれたじゃん」
雷堂の口から思いがけない単語が出てきた。以前真野が雷堂との心の距離を埋めるためにこじつけで持ち出した用語だ。
(互酬性の理論なんて単語、覚えててくれたんだ……)
雷堂のことばが胸に迫る。いつの日か自分が言った台詞が頭の中で蘇ってくる。
『昂生くんの秘密に迫るためには、まずはぼくも自己開示しなきゃね。ここは互酬性の理論だよ』
雷堂から情報を得るためにこじつけで提案した「互酬性の理論」がこんな形で自分で返ってくるとは思わなかった。さながら自分の仕掛けた罠にハマってしまった間抜けな猟師だ。
雷堂にそこまで言われて断れるはずもない。雷堂は意外と策略家のようだ。すでに逃げ道は塞がれてしまっている。
雷堂が部屋に来たとしても、年上である自分がきちんと線引きをしていればいいだろう。真野は観念するようにため息をついてから言った。
「いいよ、じゃあうちにおいで。でも真面目にテスト勉強をするんだよ」
雷堂は満足そうに頷いた。
雷堂を扉の前で待たせている間、真野は洗濯物の山をクローゼットに押し込み、キッチンの皿を流しにまとめて、ざっと水をかける。本当は掃除機もかけたかったが諦める。
「別に散らかってても構わないけど」と言いながら入って来た雷堂だったが、興味津々で部屋の中を見回している。
(そんなにじっくり見られるのに、片付けないわけにはいかないよ……)
真野には雷堂と違って片付けには大雑把な自覚がある。賢明な雷堂は部屋の様子には何も言及しなかった。
リビングの小卓に座ってもらう。雷堂は教科書とレジュメの束、ノートを出している。勉強道具の準備があるということは、家を出るときから真野の家に来る予定だったのだろうか、と真野は密かに驚く。
真野はノートパソコンを出して角を挟んで隣に座り、尋ねた。
「何の教科を勉強するの?」
「語学は必修だから」と言って、雷堂が見せてきたのは中国語のテキストだった。
「ああ、第二外国語がチャイ語なのか。ぼく、フラ語だったんだよね。難しかったなぁ」
「チャイ語って初めて聞くけど」
少し驚いた顔をする雷堂に真野は慌てる。チャイナのチャイ語、フランスのフラ語は真野が大学生の時は普通に使うことばだったが。
「そっか……最近の子は言わないんだね。ぼくもおっさんになっちゃったってことか」
頭を掻く真野に、雷堂は真剣な顔で言った。
「真野さんはおっさんじゃないし、変に年齢差を強調するようなこと言わないでほしい」
「ご、ごめんね」
雷堂と二人きりになると、真野は謝ってばかりいる気がする。感情のままに素直に行動する雷堂に対して、世間体や職業倫理を気にして自分の感情を押さえつけているからだろうか。
しばらくそれぞれの作業に没頭する。雷堂も静かに勉強に取り組んでいる。何かを危惧していたわけではないけど、と心の中で言い訳をしながら、真野は雷堂の様子にほっとする。真野もパソコンに向かい、先ほどのスポーツ店でのエピソードを盛り込んで原稿を書き始める。
二時間ほど経っただろうか、真野は記事の第一稿を書き上げた。いつの間にかカーテンから夕陽が射し込んでいる。少し顔を上げると、ちょうど正面に真剣な顔で勉強に取り組む雷堂の横顔がある。少し口を動かしているのは、発音を確認しながら書き取りをしているのだろうか。
(こんなに長時間、勉強するとは思わなかったな……やっぱり昂生くんって真面目なんだな)と真野は改めて感心する。確かに陸上練習のときのずば抜けた集中力が勉強に発揮されれば、単位取得も問題ないだろう。
脇目を振らずに勉強している雷堂の顔が、いつになく凛々しく見えて真野はぼうっと見つめている。競技に集中しているときの顔にも似ている。
(やっぱり好きな顔だな……)
これまで意識しないようにしていたが、雷堂の真剣な顔がどうやら自分の好みらしいと真野は改めて思う。だから彼が競技をしているときや、コーヒーのメモをとっていたときの顔を見てどきどきしたのだろう。
あまりにも見つめていたせいか、雷堂がとうとう顔を上げてこちらを見た。
「もう終わり?」
急に目が合って真野は途端に胸が高鳴る。慌てて距離を取ろうと、真野は立ち上がりながら言った。
「ちょっと休憩する?コーヒーでも淹れようか。昂生くんみたいに上手には淹れられないけど」
コーヒーを淹れている間に雷堂から「真野さん、記事読んでもいい?」と尋ねられ、「いいよー」と背中を向けたまま了承する。コーヒーを手に戻ると、雷堂はクッションを抱っこして待っていた。柔らかいものを抱きしめる雷堂はなんだか微笑ましい。
雷堂はクッションに顔を埋めながら言った。
「これ、真野さんの匂いがする」
なんてことを言うのか。クッションだってしばらく干してない。
「やめて、臭いでしょ?」
恥ずかしくなった真野は慌てて雷堂からクッションを奪おうとする。が、雷堂はクッションを離そうとしない。
「臭くないよ。良い匂いだって」
真野はクッションを取り戻そうと腕を入れると、二人の膝と膝がふれるくらいの距離に近づく。
はっと顔を上げたら、すぐ鼻先に雷堂の顔があった。
ヤバい、このタイミングは。
よけようとしたが雷堂の素早さには敵わなかった。雷堂はしばらく唇を合わせたあと、顔を離してにこりと真野に笑いかけた。
「キス久しぶりだね」
キスが拙いせいだろうか、止めなければならないのにかわいさにほだされてついこちらも微笑んでしまう。
「記事読んだよ。おれのこと、めっちゃ褒めてくれてるね。真野さん、もうおれのこと好きなんじゃない?」
雷堂がクッションを抱きしめながら上目遣いで真野を見てくる。にやけそうになるのをマグカップで隠しながら、真野はコーヒーを啜り、答えた。
「ち、違うよ。読者が知りたい内容を、記者として記事にしてるだけ、だし」
真野の答えを聞いて雷堂は若干視線を下げた。
「そっか……。じゃあ真野さんちにおれが来たことも記事にすんの?」
「しないよ。それは、……読者に必要ない情報だし」
雷堂は途端に気分が良くなったらしい。再び真野の隣にぴったりとくっついてきた。
「じゃあ今の時間は――二人だけの秘密ってことだよな?」
雷堂が真野の首筋に指を添わせてくる。またキスをされる、と予感した真野は雷堂の唇を手のひらで抑えた。
「そんな、付き合ってないんだから……だめだよ。今日は勉強するって言ったじゃん」
雷堂は口を抑えられながらもごもごと反論する。
「もうかなり勉強したし、真野さんも記事書き終わった」
雷堂の言う通りだ。彼はやっぱり逃げ道を塞ぐのが上手い。
「じゃあ、そろそろお腹空かない?」
「空かない。キスする」
雷堂は真野の手を外し、床に押し倒してきた。
(まずい……)
雷堂は細身なのに、真野には押しのけることができない。雷堂は真野の頬をさわりながら言った。彼に見下ろされると興奮のせいか背筋がぞくぞくしてくる。
しかし、上に伸しかかった雷堂はそのまま動きを止めた。どうしたのだろうと見上げると、雷堂はゆっくりと言った。
「真野さんが本当に嫌ならしないよ」
「えっ……」
「おれのこと、嫌?」
端的に尋ねられて、真野はことばに詰まる。
雷堂のことは好きだが、それはまだ伝えていない。彼が大会を終えて、記者と取材対象の関係ではなくなってから言おうと思っていたが、逆に雷堂には不安を与えてしまっているのかもしれない。
真野が考えている間、雷堂はじっと見つめながらごく当たり前のように言ってきた。
「何度も言うけど、おれは真野さんのこと、好きだよ。すっごく好き」
(そんな若さ一直線で伝えてこられては……)
若さという刀の切れ味は鋭く、本来必要であった鎖までも断ち切ってしまう。
真野はとうとう両手で顔を覆いながら言ってしまった。
「ぼくも……昂生くんのことが、好き……」
「本当?」
目を真ん丸にして覗き込んでくる雷堂に、真野は何度も小さく頷く。恥ずかしすぎて顔を見せられない。
「手どけて。キスしたい」
雷堂の優しくもわがままが混じった声に、頬が火照る。そろそろと手を外し始めた瞬間に待ちきれなかった雷堂の唇が合わさってきた。
何度か短いキスを繰り返される。もどかしさと身体の内側から盛り上がってくる欲に真野は自分から雷堂の背に腕を回し、ぎゅっと力を入れた。雷堂も唇を合わせたままじっとしている。
一旦口を離すと、雷堂はふぅっと息を吐いた。もしかしてキスの間、息を止めていたのかもしれない。
「鼻で息したら……」と言いかけているうちに雷堂が再び唇を合わせてきた。雷堂の唇が真野の開いた唇を挟むようについばんでくる。口の中で雷堂の舌に唇の輪郭をなぞられる。
「ぁ、ん……」
ずっと待ち望んでいたキスだった。雷堂と深いキスがしたかったのだ。真野もいつの間にか舌を出して、雷堂の唇を舐めている。少し荒い息が混じっていく雷堂に、真野はますます興奮していく。
年上として、社会人としてこれ以上は続けてはいけない、と思うのに身体が言うことを聞かない。
「ん……ぁ」
柔らかい舌で口の中を擦られると、思わず息が漏れる。雷堂の舌を誘うように、真野の舌も踊るように動く。
「っぁ、きもち、い……真野さん」
雷堂は真野の首にまわした腕に力を入れた。雷堂の熱も上がっているのがわかる。真野は雷堂の髪を両手で抱えながら、より深い角度を求めてキスをする。
「あ、……昂、生くん……」
雷堂はぎゅうぎゅうと真野の身体を抱きしめてくる。太腿に硬い感触があり、真野は眉間に皺を寄せる。これ以上続けたら、境界を越えてしまう気がする。そろそろ離れなきゃと改めて思うが身体は動かない。ずっとこのまま溶け合ってしまってもいいと願っている自分がいる。
真野はつい雷堂の身体をさわりたくなるが、かろうじて頭を撫でるだけに留める。雷堂はくすぐったそうに笑って、顔を離した。
緊張がほどけたのか、真野の肩に顎を載せてふうと息をつく。
「キス、すごい……こんなに気持ちいいんだね、真野さん……」
無邪気に言う雷堂に、真野は苦笑する。雷堂は一体今日はどこまでするつもりで来たんだろう。既に自分のものも硬くなっているが、このまま行為を続けるわけにもいかない。
「これ以上はインカレが終わって付き合ってからね」
真野は起き上がりながら言う。雷堂は真野の乱れた髪を直してくれながら言った。
「でもこの分なら、優勝しなくても真野さん付き合ってくれるよね」
「いや、自己ベストくらいは出してもらわないとだめだよ」
二人は軽口を叩きながら笑った。窓の外はそろそろ暗くなっている。
雷堂はキスの感触を思い出しているのか、唇にふれながら言った。
「おれ、部屋に入ってからずっとドキドキしてた。真野さんいつもここで生活してるんだって。部屋中から真野さんの気配がするし。真野さんの素が見れたみたいで嬉しい」
「全然ドキドキしてそうなそぶりなかったのに」
真野が驚いて言うと、雷堂は得意そうに笑った。
「隠してた」
「昂生くんは何考えてんのかわからないところがあるからいいよね。ぼくなんかすぐ顔に出ちゃうけど」
真野のぼやきを聞いて、雷堂はすぐに彼の腰を抱きしめた。
「真野さんずっとドキドキしてたでしょ。わかってた」
そして挨拶代わりに軽いキスをする。彼の仕草の一つ一つが甘く、全身で好意を伝えてくる。真野は改めて雷堂のことが好きになっている。
真野には経験の乏しい雷堂に少し聞いておきたいことがあった。
「あの、……昂生くんは将来的にぼくらが付き合ったとき、どっち役をしたいとかって考えたことはあるのかな?その、抱きたい、とか抱かれたい、とかって……」
雷堂は途端に顔を真っ赤にした。
「あ、……えっと、おれ経験ないから、……よくわかんなくて。真野さんに色んなことを教えてほしい」
色んなことを教えてほしい?
経験がない人間の発言は時にすさまじい威力を発する。真野は冷静さを保とうと眉間に手を当てながら言う。
「わかった。じゃあぼくがリードするし、抱いてもいいかな?」
雷堂は深く頷いたあと、ぱっと顔を上げた。
「真野さんにされて嫌なことなんかないよ。今試してみる?」
「やめなさいって。ほら、ご飯食べに行こう」
「おれ、まだ勃ってるから外出られないし」
「外出たらそのうち治まるよ」と、真野はやや強引に雷堂の手を引っ張り外に出た。あのまま二人きりでいたら再びキスを始めてしまいそうだったのだ。
午後のやわらかい日差しに、ポールが反射して一瞬だけ煌めく。雷堂は魚が水面から跳ね上がるような勢いで、バーを越えて行った。
バーの近くで真野は練習を見守りながら須貝と話している。
「この分だとインカレでも実力を出せそうですね」と真野が言うと、須貝は満足そうに頷いた。
「そうだな、今年はやっと勝負ができるな」
しかし、須貝は「勝負」と言っただけで「優勝」という単語は使わなかった。真野は記者という仕事柄、相手のことばの選択の理由を敏感に感じ取った。
少しだけ声のトーンを落として遠慮がちに真野は尋ねる。
「もしかして須貝コーチの予想では昂生くんが優勝しない、と思ってたりするんですか?」
心配そうな真野を見て、須貝は豪快に笑った。
「もちろん大事な愛弟子だからな、優勝すればいいなとは思ってるよ。でもな、勝負はやってみないとわからねえところもある。陸上は相手を負かすよりも自分に打ち克つことの方が重要だ。自己ベストを出しても優勝できないときもあるし、逆にいまいちな記録でもうっかり優勝できちまうこともある。俺が雷堂に望むのは、優勝よりも自己ベストを出すことだな。きっとその経験は今後のあいつの陸上人生での糧になるに違いないさ」
「なるほど……それは大学卒業後も、昂生くんが陸上を続けていけるように、ということですね」
真野は感心しながらメモを取る。須貝は今だけではなく、もっと大局を見据えているのだ。
「あいつは大器晩成型だからな。このまま競技を終わらせるのはもったいないだろ」
雷堂への信頼と親愛を感じさせる須貝のことばを聞いて、真野は雷堂のコーチが須貝で良かったと改めて考える。雷堂が過去に好きだった相手だと考えると複雑だが、それでも雷堂が彼を好きになった理由は理解できてしまう。
懸命にメモを取る真野に、須貝は笑いかけた。
「真野さんにも、ありがとな」
唐突な感謝のことばに真野は驚いて顔を上げる。須貝に感謝されるようなことはしていないはずだが。
「何がですか?」
「傍にいるのが俺だけだったらフォームの崩れには気づかなかったかもしれないし、昨年みたいに追い詰めてまた怪我させてたかもしれない。真野さんが来てくれてあいつの精神面が安定してきたんだよ。本当に感謝してる」
もしかして須貝は、真野と雷堂が恋人未満友人以上の関係であることを勘づいているのだろうか。真野は戸惑いながらも「いえ、こちらこそ……」と頭を下げて表情を隠した。
「まあ、良い記者さんを呼び込めたっていうことを含めて、俺の手柄だけどな」と、最後は得意気に胸を張って須貝は笑った。全体的には良いことを言ってるのに、余計な一言を付け加えるのがこの須貝の欠点でもあり魅力でもある。真野はつい、くすりと笑う。
「行きまーす」と助走位置についた雷堂が声をかける。安全確認のためのルーティーンだ。須貝と真野は声を合わせて「はーい」と答える。
雷堂が走り出す。助走フォームに無駄な力みはない。踏み切る。角度を意識しすぎたせいか、わずかに後半の助走が詰まったかもしれない。ポールがしなり、雷堂の身体が宙を舞う。
「踏切の角度は悪くない。助走前半からストライドの調整を意識しておけよ」
須貝がフィードバックすると、雷堂が「はい」と力強く頷く。彼本来の跳躍フォームを取り戻していく予感に、真野は胸が熱くなる。
練習後、皆それぞれのタイミングで競技場から大学に戻る坂を上がっていく。雷堂と連れ立っている真野の間に割り込んできたのは朱山だった。雷堂は不機嫌そうに鼻の頭に皺を寄せるが、それを気にする男ではない。二人の間に挟まるのが自分の定位置とでも言うかのように我が物顔で幅を取っている。
「真野さん、この前の雷堂の部屋での取材上手くいったの?なんかあっという間に帰っちゃったみたいだけど」
単刀直入に切り出され、真野は説明に窮して宙を見上げた。西の空にはまだ夕陽の名残が残っている。
夕陽に背中を押されるように真野は無難に説明する。
「ええっと、取材自体はちょっと……だったんだけど、でも解決はしたし。昂生くんのフォームの改善点もわかったし、次も充実した記事が書けそう」
雷堂も黙って頷いている。
実はあの部屋での取材をきっかけに雷堂から告白をされる羽目になったのだが、そこまで言う必要ないだろう。
朱山はにやにやと笑った。
「へえー、良かったね。そういえば二人にちょっと面白い話があってね」
「なんだよ」
雷堂の相槌は面倒くさそうなのを隠そうともしていない。朱山は真ん丸の目をきらきらさせながら言った。
「ちょっと前なんだけど、帰りがけにたまたま見ちゃったんだ。駐車場にあった車の中でどうやらキスしてたっぽい人たちがいてさ」
そこまで言ってわざとらしくことばを止め、朱山は目を細めて雷堂と真野を交互に見てきた。
雷堂と真野はぎくりとして思わず足を止める。一瞬だけお互いの態度を探り合うように目を合わせた。朱山はそんな二人の様子を面白そうに見つめながら話を続ける。
「誰だろうってずっと気になってんの。顔は見えなかったんだけど車はちょっと見覚えある気がするんだよね。たぶん、真野さんの車じゃなかったかなー、なんて」
水色の軽だよ、と朱山はわざわざ囁き声で念押しする。
無邪気を装った朱山の戦略に真野は気づいた。そうでなければわざわざ雷堂と真野が二人でいるときを狙って尋ねてこないだろう。
……たぶん全部ばれているのだ。
困ったなあ、と思いながら雷堂の様子を窺うと、俯いてしまった彼の表情は影になっていたがどうやら眉をしかめているようだ。
「記者さんがキスを目撃されちゃうなんて、普通逆だよね?職業柄、恥ずかしいことなんじゃない?だいじょうぶ?」
真野は首を傾げながら「えっと……」とことばを探す。次のことばが見つかる前に雷堂が朱山との間に割り込んだ。真野を守るかのように立ちふさがった雷堂の背中はとても凛々しく見える。
「もういいって。今おれたちは微妙な時期なんだ。放っておいてくれ」
珍しく必死になる雷堂に朱山はこらえきれずに笑い出した。笑われた雷堂はぷりぷりと怒りながら一人で歩き出す。雷堂の背中に朱山は再び尋ねた。
「わかったわかった。真野さんのキスの相手は雷堂だったって認めるってことだね。いいじゃんいいじゃん。真野さんとのキス、良かった?」
なんてことを聞くんだ、と真野も内心泡を食うが、雷堂がどう答えるのかという興味もあった。
「ああ、良かったよ。悪いか」
雷堂はやけっぱち気味に答える。キスを見られていたのが恥ずかしいのだろう。
良かったんだって~、と朱山は真野に囁いてくる。真野はどういう顔をすればいいのかよくわからず、(良かったんだ……)と密かに心の中で噛みしめる。
二人も雷堂のあとをついて坂を上りきった。草が生い茂った裏のフェンスから大学の敷地内に入る。
朱山はまだ粘り強く質問を続けている。
「もっと真野さんといちゃいちゃしたいよね、雷堂?」
「したい」
雷堂はイライラしながらも朱山の質問には律儀に答えるところが妙におかしい。真野は知らず口元が緩んでしまう。
「ああ、でもそんな暇もないかもね。来週からはテスト週間だし、そのあとはもうインカレだもんね。雷堂忙しいじゃん」
完全に面白がっている朱山のことばに、雷堂ははっと気づいたようだった。
「そうか、テストか……」
「せめて必修だけは落とさないようにね。三年にもなって語学再履修はダルいよ」
大学生たちの会話を真野は微笑ましく見守っている。そういえば来週はもう七月になる。インカレまではあと一か月だ。
雷堂は少し考え込んだあと、真野に向かって一歩踏み出してきて言った。
「また夜に連絡する」
「うん」と頷いて真野は二人と別れ、車に向かった。「うん」と頷いただけなのに声が張りきりすぎてはいなかっただろうか。キスが良かったと言われた高揚感でなんだか足元がふわふわする気がする。
真野の後ろでは「ねえ、付き合ってんの?まだなの?」と朱山がまだ粘り強く尋ねている声が聞こえていた。あのしつこさだけは記者として見習いたい、と真野は思う。
次の週末、雷堂が跳躍用のスパイクを新調することになり、真野も取材として同行することになった。
寮から二駅のスポーツ専門ショップである。最寄り駅で待ち合わせると雷堂が既に来ていた。
(そういえばコーヒーのイベントに行ったときも先に昂生くんが来てたな)と真野は微笑ましく思い出しながら駆け寄る。
「今日はいつも通りのスポーティーな服装なんだね」と真野が声をかけると、雷堂もイベントでの服装を思い出したのだろう。照れくさそうに鼻を掻いた。
「取材だから写真も撮るだろ?普段のおれを知ってるやつに見られると恥ずかしいし」
人通りの多い商店街の中にやや年季の入ったスポーツ用品店があった。狭い店内に所せましと商品が並んでいるせいで、蛍光灯の光が遮られており、少々薄暗い。
「こんにちはー」とガラス戸を開けて、雷堂が入っていく。真野も後に続いた。
中にいた白髪頭の男性は雷堂を見ると「おお、昂ちゃんじゃないか」とすぐに顔をほころばせた。
「おっちゃん、今日はおれの取材してくれてる記者さんも一緒なんだけど、スパイク買ってるところを取材してもらってもいいっすか?」
おっちゃんと呼ばれた店主は目を細めて頷いた。
「コーチから聞いとるよ。それにしても密着取材だなんて昂ちゃんも出世したもんだなぁ。記者さんもよろしくね」
真野も温かい気持ちになりながら、頭を下げる。
店の奥から数種類のスパイクを持ってきて、店主は素材や重量の違いなどを熱心に説明してくれる。
「これまで使ってたのはこのモデルだったな?」
「はい、悪くなかったですけどね、軽いし」
「これは人工皮革なんだよ。インカレまで一か月だろ?天然の方が断然フィット感が違うぞ」
話し合いながら雷堂が試着する様子を真野はカメラを片手に要点をメモしていく。
雷堂が選んだ天然皮革のスパイクは、赤色しか在庫がないようだった。雷堂が金を払うのを見ていた真野は密かに息を呑む。真野の想定の倍くらいの値段だった。
(やっぱりスポーツってお金がかかるんだな。昂生くんのアルバイトの時給何時間分だろう……)
店主はお釣を渡すときに「おまけだよ」と言って飴玉を二つ手渡してきた。
店主に礼を言って店を出たあと、真野は素直な疑問を口にした。
「もっと色とかこだわるのかと思ってたけど……」
雷堂は可笑しそうに笑った。
「棒高なんて競技人口が少ないから、そもそもスパイクのバリエーションがないんだよ。跳躍用のスパイクを試し履きできる店もほとんどないから、あの店も続けられるようになるべく実店舗で買わないとさ。おっちゃんは年だしいつまで続けられるかわかんないけど」
そうか……と真野は納得する。自分ではマイナースポーツをした経験がない真野には新鮮な視点だ。店主との交流も記事に盛り込んだら、読みごたえがあるかもしれない、と真野は考える。
「お店の人とも仲良いんだね」と水を向けると、雷堂は少し笑った。
「兄ちゃんが陸上やってた頃からの知り合いだから、おれのこといつまでも小学生だと思ってる」
二人はもらった飴玉を舐めながら駅に向かって歩く。グレープ味は甘ったるくてなんだか懐かしい味がした。真野はふと思い出して尋ねる。
「そういえば、今日は喫茶店のバイトなかったの?先週もぼくがお店に行ったときも、いなかったよね?」
ふと気になった真野が尋ねると、雷堂は驚いたように真野の袖を引いた。
「え、真野さん、先週来てたの?事前に言っておいてくれたら会いに行ったのに」
(練習でほぼ毎日会ってるのに……)と思いながらも、こんなに素直に親愛を示してくれるとつい絆されてしまう。
真野は思わず「ごめんね」と謝る。
謝るな、という意味だろう、雷堂は首を振りながら言った。
「テスト前は勉強しろって、バイトさせてくれないんだよ。今度からはちゃんと事前に言ってほしい。おれも時間合わせて店に行くからさ」
絶対に会えるチャンスを逃したくない、という雷堂の気迫に、真野は思わず尋ねてしまった。
「そんな……に、ぼくに会いたいの?」
その問いを口にした瞬間、「まずった」と思った。これでは雷堂の攻勢パターンになってしまうのが見えている。せっかく自分でも公私の別をつけようと心掛けているのに。
それでも口にしてしまったことばを取り返せるわけもなく、真野は汗ばむ手をぎゅっと握りながら雷堂の返答を待った。
雷堂は「当たり前じゃん」と口を尖らせた。
「真野さん、デート誘っても来てくれないし。今日はスパイク買うから取材として一緒に来てくれたんでしょ」
実は雷堂からはあの告白以降何度かデートに誘われている。恋愛には慣れていなさそうなのに、いや、かえって慣れていないせいか、雷堂はぐいぐいと距離を縮めてこようとする。それでも大会前に気を散らしてほしくないし、正式な恋人になるまで記者と取材相手がデートをするのは不適切だろうと判断して、真野は断り続けているのである。
正攻法で誘っても二人きりで会ってもらえないからこそ、取材という口実をつけてスポーツショップに誘ったのは雷堂の奥の手だったのかもしれない。
こんなに明らかに好意を示されたのは久しぶりの経験だ。真野は少し戸惑いながらも、胸が熱くなる。
なぜ自分にそこまでの価値を見出してくれているのかはわからないが、試合前の雷堂が望むことであれば少々のことは叶えてあげても良いのではないだろうか。その方が記録にも良い影響が出るかも。と真野の気持ちは少しずつ揺らいでいる。
「おれのこと、ちゃんと好きになってもらいたいのに、練習以外で会えなかったらそんなチャンスもないんだけど」
肩を落とした雷堂は撫でてもらうのを待つ仔犬みたいに見える。良くない兆候だ。
(少しだけ彼の希望を聞いてあげても、いいのかもしれない……)
迷いながら歩いていると駅に着いてしまった。雷堂は「このあとテスト勉強しようかと思ってて……」とぽつりと言う。「テスト勉強」というワードに雷堂がまだ学生であることを思い出し、真野は二、三歩後ずさった。やはり距離を取らなければ。しかし態度とは裏腹に朗らかな声で真野は応えた。
「そうだね、ぼくも家に帰って原稿書こうかな」
雷堂は思いきったように言った。
「真野さんち、行ってもいい?」
「え、ぼくの家?」
社会人の一人暮らしの家に大学生を連れ込んで二人きりになるのは……と二の足を踏む真野だったが、雷堂は諦めなかった。
「おれの部屋は見たのに?真野さんは見せてくれないんだ」
鼻の付け根に皺を寄せ始める雷堂を見ながら、真野は曖昧な返事をする。
「えっと、……うーん、そう、かもね」
「おれは昔からの知り合いの店にも行って、まだ『ちゃん』付けで子ども扱いされてるところまで見せたのに?兄の店でバイトしてることも見せたし、身内贔屓の恥ずかしい兄にも会わせたのに?」
取材対象であるから当然だということもできるのだが、雷堂の言うことにも一理あると思ってしまうのは、もう雷堂に自分の気持ちを握られてしまっているせいだろうか。
雷堂は怒っていると言うよりも、沈んだ様子で言った。
「真野さんはおれの秘密たくさん知ってるのに、おれは真野さんのこと、前にくれたペーパーの情報くらいしか知ってることないよ。もっと知りたいのに。互酬性の理論って教えてくれたじゃん」
雷堂の口から思いがけない単語が出てきた。以前真野が雷堂との心の距離を埋めるためにこじつけで持ち出した用語だ。
(互酬性の理論なんて単語、覚えててくれたんだ……)
雷堂のことばが胸に迫る。いつの日か自分が言った台詞が頭の中で蘇ってくる。
『昂生くんの秘密に迫るためには、まずはぼくも自己開示しなきゃね。ここは互酬性の理論だよ』
雷堂から情報を得るためにこじつけで提案した「互酬性の理論」がこんな形で自分で返ってくるとは思わなかった。さながら自分の仕掛けた罠にハマってしまった間抜けな猟師だ。
雷堂にそこまで言われて断れるはずもない。雷堂は意外と策略家のようだ。すでに逃げ道は塞がれてしまっている。
雷堂が部屋に来たとしても、年上である自分がきちんと線引きをしていればいいだろう。真野は観念するようにため息をついてから言った。
「いいよ、じゃあうちにおいで。でも真面目にテスト勉強をするんだよ」
雷堂は満足そうに頷いた。
雷堂を扉の前で待たせている間、真野は洗濯物の山をクローゼットに押し込み、キッチンの皿を流しにまとめて、ざっと水をかける。本当は掃除機もかけたかったが諦める。
「別に散らかってても構わないけど」と言いながら入って来た雷堂だったが、興味津々で部屋の中を見回している。
(そんなにじっくり見られるのに、片付けないわけにはいかないよ……)
真野には雷堂と違って片付けには大雑把な自覚がある。賢明な雷堂は部屋の様子には何も言及しなかった。
リビングの小卓に座ってもらう。雷堂は教科書とレジュメの束、ノートを出している。勉強道具の準備があるということは、家を出るときから真野の家に来る予定だったのだろうか、と真野は密かに驚く。
真野はノートパソコンを出して角を挟んで隣に座り、尋ねた。
「何の教科を勉強するの?」
「語学は必修だから」と言って、雷堂が見せてきたのは中国語のテキストだった。
「ああ、第二外国語がチャイ語なのか。ぼく、フラ語だったんだよね。難しかったなぁ」
「チャイ語って初めて聞くけど」
少し驚いた顔をする雷堂に真野は慌てる。チャイナのチャイ語、フランスのフラ語は真野が大学生の時は普通に使うことばだったが。
「そっか……最近の子は言わないんだね。ぼくもおっさんになっちゃったってことか」
頭を掻く真野に、雷堂は真剣な顔で言った。
「真野さんはおっさんじゃないし、変に年齢差を強調するようなこと言わないでほしい」
「ご、ごめんね」
雷堂と二人きりになると、真野は謝ってばかりいる気がする。感情のままに素直に行動する雷堂に対して、世間体や職業倫理を気にして自分の感情を押さえつけているからだろうか。
しばらくそれぞれの作業に没頭する。雷堂も静かに勉強に取り組んでいる。何かを危惧していたわけではないけど、と心の中で言い訳をしながら、真野は雷堂の様子にほっとする。真野もパソコンに向かい、先ほどのスポーツ店でのエピソードを盛り込んで原稿を書き始める。
二時間ほど経っただろうか、真野は記事の第一稿を書き上げた。いつの間にかカーテンから夕陽が射し込んでいる。少し顔を上げると、ちょうど正面に真剣な顔で勉強に取り組む雷堂の横顔がある。少し口を動かしているのは、発音を確認しながら書き取りをしているのだろうか。
(こんなに長時間、勉強するとは思わなかったな……やっぱり昂生くんって真面目なんだな)と真野は改めて感心する。確かに陸上練習のときのずば抜けた集中力が勉強に発揮されれば、単位取得も問題ないだろう。
脇目を振らずに勉強している雷堂の顔が、いつになく凛々しく見えて真野はぼうっと見つめている。競技に集中しているときの顔にも似ている。
(やっぱり好きな顔だな……)
これまで意識しないようにしていたが、雷堂の真剣な顔がどうやら自分の好みらしいと真野は改めて思う。だから彼が競技をしているときや、コーヒーのメモをとっていたときの顔を見てどきどきしたのだろう。
あまりにも見つめていたせいか、雷堂がとうとう顔を上げてこちらを見た。
「もう終わり?」
急に目が合って真野は途端に胸が高鳴る。慌てて距離を取ろうと、真野は立ち上がりながら言った。
「ちょっと休憩する?コーヒーでも淹れようか。昂生くんみたいに上手には淹れられないけど」
コーヒーを淹れている間に雷堂から「真野さん、記事読んでもいい?」と尋ねられ、「いいよー」と背中を向けたまま了承する。コーヒーを手に戻ると、雷堂はクッションを抱っこして待っていた。柔らかいものを抱きしめる雷堂はなんだか微笑ましい。
雷堂はクッションに顔を埋めながら言った。
「これ、真野さんの匂いがする」
なんてことを言うのか。クッションだってしばらく干してない。
「やめて、臭いでしょ?」
恥ずかしくなった真野は慌てて雷堂からクッションを奪おうとする。が、雷堂はクッションを離そうとしない。
「臭くないよ。良い匂いだって」
真野はクッションを取り戻そうと腕を入れると、二人の膝と膝がふれるくらいの距離に近づく。
はっと顔を上げたら、すぐ鼻先に雷堂の顔があった。
ヤバい、このタイミングは。
よけようとしたが雷堂の素早さには敵わなかった。雷堂はしばらく唇を合わせたあと、顔を離してにこりと真野に笑いかけた。
「キス久しぶりだね」
キスが拙いせいだろうか、止めなければならないのにかわいさにほだされてついこちらも微笑んでしまう。
「記事読んだよ。おれのこと、めっちゃ褒めてくれてるね。真野さん、もうおれのこと好きなんじゃない?」
雷堂がクッションを抱きしめながら上目遣いで真野を見てくる。にやけそうになるのをマグカップで隠しながら、真野はコーヒーを啜り、答えた。
「ち、違うよ。読者が知りたい内容を、記者として記事にしてるだけ、だし」
真野の答えを聞いて雷堂は若干視線を下げた。
「そっか……。じゃあ真野さんちにおれが来たことも記事にすんの?」
「しないよ。それは、……読者に必要ない情報だし」
雷堂は途端に気分が良くなったらしい。再び真野の隣にぴったりとくっついてきた。
「じゃあ今の時間は――二人だけの秘密ってことだよな?」
雷堂が真野の首筋に指を添わせてくる。またキスをされる、と予感した真野は雷堂の唇を手のひらで抑えた。
「そんな、付き合ってないんだから……だめだよ。今日は勉強するって言ったじゃん」
雷堂は口を抑えられながらもごもごと反論する。
「もうかなり勉強したし、真野さんも記事書き終わった」
雷堂の言う通りだ。彼はやっぱり逃げ道を塞ぐのが上手い。
「じゃあ、そろそろお腹空かない?」
「空かない。キスする」
雷堂は真野の手を外し、床に押し倒してきた。
(まずい……)
雷堂は細身なのに、真野には押しのけることができない。雷堂は真野の頬をさわりながら言った。彼に見下ろされると興奮のせいか背筋がぞくぞくしてくる。
しかし、上に伸しかかった雷堂はそのまま動きを止めた。どうしたのだろうと見上げると、雷堂はゆっくりと言った。
「真野さんが本当に嫌ならしないよ」
「えっ……」
「おれのこと、嫌?」
端的に尋ねられて、真野はことばに詰まる。
雷堂のことは好きだが、それはまだ伝えていない。彼が大会を終えて、記者と取材対象の関係ではなくなってから言おうと思っていたが、逆に雷堂には不安を与えてしまっているのかもしれない。
真野が考えている間、雷堂はじっと見つめながらごく当たり前のように言ってきた。
「何度も言うけど、おれは真野さんのこと、好きだよ。すっごく好き」
(そんな若さ一直線で伝えてこられては……)
若さという刀の切れ味は鋭く、本来必要であった鎖までも断ち切ってしまう。
真野はとうとう両手で顔を覆いながら言ってしまった。
「ぼくも……昂生くんのことが、好き……」
「本当?」
目を真ん丸にして覗き込んでくる雷堂に、真野は何度も小さく頷く。恥ずかしすぎて顔を見せられない。
「手どけて。キスしたい」
雷堂の優しくもわがままが混じった声に、頬が火照る。そろそろと手を外し始めた瞬間に待ちきれなかった雷堂の唇が合わさってきた。
何度か短いキスを繰り返される。もどかしさと身体の内側から盛り上がってくる欲に真野は自分から雷堂の背に腕を回し、ぎゅっと力を入れた。雷堂も唇を合わせたままじっとしている。
一旦口を離すと、雷堂はふぅっと息を吐いた。もしかしてキスの間、息を止めていたのかもしれない。
「鼻で息したら……」と言いかけているうちに雷堂が再び唇を合わせてきた。雷堂の唇が真野の開いた唇を挟むようについばんでくる。口の中で雷堂の舌に唇の輪郭をなぞられる。
「ぁ、ん……」
ずっと待ち望んでいたキスだった。雷堂と深いキスがしたかったのだ。真野もいつの間にか舌を出して、雷堂の唇を舐めている。少し荒い息が混じっていく雷堂に、真野はますます興奮していく。
年上として、社会人としてこれ以上は続けてはいけない、と思うのに身体が言うことを聞かない。
「ん……ぁ」
柔らかい舌で口の中を擦られると、思わず息が漏れる。雷堂の舌を誘うように、真野の舌も踊るように動く。
「っぁ、きもち、い……真野さん」
雷堂は真野の首にまわした腕に力を入れた。雷堂の熱も上がっているのがわかる。真野は雷堂の髪を両手で抱えながら、より深い角度を求めてキスをする。
「あ、……昂、生くん……」
雷堂はぎゅうぎゅうと真野の身体を抱きしめてくる。太腿に硬い感触があり、真野は眉間に皺を寄せる。これ以上続けたら、境界を越えてしまう気がする。そろそろ離れなきゃと改めて思うが身体は動かない。ずっとこのまま溶け合ってしまってもいいと願っている自分がいる。
真野はつい雷堂の身体をさわりたくなるが、かろうじて頭を撫でるだけに留める。雷堂はくすぐったそうに笑って、顔を離した。
緊張がほどけたのか、真野の肩に顎を載せてふうと息をつく。
「キス、すごい……こんなに気持ちいいんだね、真野さん……」
無邪気に言う雷堂に、真野は苦笑する。雷堂は一体今日はどこまでするつもりで来たんだろう。既に自分のものも硬くなっているが、このまま行為を続けるわけにもいかない。
「これ以上はインカレが終わって付き合ってからね」
真野は起き上がりながら言う。雷堂は真野の乱れた髪を直してくれながら言った。
「でもこの分なら、優勝しなくても真野さん付き合ってくれるよね」
「いや、自己ベストくらいは出してもらわないとだめだよ」
二人は軽口を叩きながら笑った。窓の外はそろそろ暗くなっている。
雷堂はキスの感触を思い出しているのか、唇にふれながら言った。
「おれ、部屋に入ってからずっとドキドキしてた。真野さんいつもここで生活してるんだって。部屋中から真野さんの気配がするし。真野さんの素が見れたみたいで嬉しい」
「全然ドキドキしてそうなそぶりなかったのに」
真野が驚いて言うと、雷堂は得意そうに笑った。
「隠してた」
「昂生くんは何考えてんのかわからないところがあるからいいよね。ぼくなんかすぐ顔に出ちゃうけど」
真野のぼやきを聞いて、雷堂はすぐに彼の腰を抱きしめた。
「真野さんずっとドキドキしてたでしょ。わかってた」
そして挨拶代わりに軽いキスをする。彼の仕草の一つ一つが甘く、全身で好意を伝えてくる。真野は改めて雷堂のことが好きになっている。
真野には経験の乏しい雷堂に少し聞いておきたいことがあった。
「あの、……昂生くんは将来的にぼくらが付き合ったとき、どっち役をしたいとかって考えたことはあるのかな?その、抱きたい、とか抱かれたい、とかって……」
雷堂は途端に顔を真っ赤にした。
「あ、……えっと、おれ経験ないから、……よくわかんなくて。真野さんに色んなことを教えてほしい」
色んなことを教えてほしい?
経験がない人間の発言は時にすさまじい威力を発する。真野は冷静さを保とうと眉間に手を当てながら言う。
「わかった。じゃあぼくがリードするし、抱いてもいいかな?」
雷堂は深く頷いたあと、ぱっと顔を上げた。
「真野さんにされて嫌なことなんかないよ。今試してみる?」
「やめなさいって。ほら、ご飯食べに行こう」
「おれ、まだ勃ってるから外出られないし」
「外出たらそのうち治まるよ」と、真野はやや強引に雷堂の手を引っ張り外に出た。あのまま二人きりでいたら再びキスを始めてしまいそうだったのだ。
