雷堂の部屋を訪れた日の深夜、真野は自室でインタビューを記事に起こしている。自分のメモを見直すと「母とは兄の喫茶店で会うこともある→仲は良さそう」、「実家は山奥?足腰が強い理由か→いつか取材できたら」などと書き込んである。雷堂の部屋で二人きりという状況に少し緊張していたが、彼の両親の話を初めて聞けたせいだろう、心なしか自分が書いた字もふわふわと浮かれているような気がする。
カチ、と乾いた音がして、ポットのお湯が沸いた。その音にびくっと肩が動いた瞬間、自分が力んでいたことに真野は気づいた。
自分が浮かれて書いたあの字の丸みが、今はやけに間抜けに思える。真野は立ち上がりキッチンでドリップコーヒーを探す。
今から思い返してみれば、雷堂はずっと須貝のことを意識しているそぶりを見せていた、と真野は考える。
最初に打ち上げに行ったときも須貝に二の腕をさわられた雷堂は、複雑な表情をしながらもふりほどくことはなかったし、寝入った須貝の面倒を見ていた。須貝が真野にマッサージのやり方を教えたと説明したときも「二人きりで?」と露骨に嫌な顔をしていたではないか。須貝が雷堂をからかうと、彼は面倒くさそうにそれでも少しだけ頬を赤らめて言い返していたことを思い出す。あれは好きな人にからかわれたときの顔だったのだ。
雷堂との距離が少しずつ近づいていき、てっきり両思いなのかもしれないと勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。雷堂が自分に優しくしてくれていたのは、担当記者への気遣いだったのだ。
真野はカップの上に乗せたドリップコーヒーにお湯を少しずつ注ぎながら考える。
(恥ずかしいことをしでかしてしまう前に気づいて良かった……)
練習後にわざわざ「もっと話したかったから」と雷堂が突然電話をかけてきてくれた声がふいに蘇ってくる。あの電話があってから「またかかってこないかな」と内心心待ちにしていた夜が確かにあった。しかし、彼とこれからも同じ時間を過ごせたらと思っていたのは自分だけだったってことだ。
注いだコーヒーに息を吹きかけて、一口飲んだ。
(……苦いな)
雷堂が兄の店で淹れてくれたカフェラテやイベントで一緒に飲んだコーヒーは美味しかったのに。一人で飲むコーヒーはこんなにも苦い。
明日も再び取材だ。真野はコーヒーカップを机に置く。少し力が入っていたようで、カップが机に当たった音が意外に大きく聞こえた。
ざわざわとしたフロアをつっきって進む。真野の所属する陸上専門誌のデスクはフロア奥にある。一番奥が編集長の席だ。彼女はいつも通り高い位置でポニーテールを結っており、きりりとしたスーツ姿だ。
真野の顔を見るなり、編集長から原稿の催促をされる。雷堂の部屋でのインタビューが不十分にしかできなかったので、記事するべきネタがまだ足りない。もう少し取材してから次の記事を書き上げると約束して真野は頭を下げた。
「情報を取って来れないということは本人との相性が悪いんじゃない?なんなら担当記者を替えるというのも手だけどね」とポニーテールを揺らしながら不敵に笑う敏腕編集長に、真野は慌てた。
「それはだめです」
咄嗟に出たのがその一言だった。真野は自分のことばを耳にした瞬間、
(そうだ、ぼくは昂生くんの担当を外れたくないんだ)とはっとした。
「なんで?気まずい関係では取材も続けにくいだろう?それとも距離が近すぎて冷静に取材対象を見られない感じかな?」
試すように言い募る編集長に真野は胸を張って言い返した。
「ぼくと昂生くんの相性は悪くないし、近すぎてもないです。昂生くんの跳躍の美しさ、素晴らしさを一番理解して記事にできるのはぼくだって信じてますから」
真野の返答は編集長の気に入ったようだった。彼女は真っ赤なルージュの唇でにやりと笑いながら「そう、じゃあ取材頑張っておいで」と真野を編集室から叩き出した。
真野は「ようし」と気合を入れて車のエンジンをふかしながら、雷堂の大学に到着した。すぐに競技場に向かい、雷堂を見つけた瞬間に声を掛けた。
「昂生くん、今日も頑張ろうね!」
いつになくテンションの高い真野を、雷堂はじっと見つめる。
「真野さん、体調なんともない?」
「えっ?」
「昨日ちょっと調子悪そうだったし、今日はなんかテンションおかしいし」
雷堂の目は気遣わしそうな様子だ。目の奥に優しさが湛えられているのを真野は読み取る。
(やっぱり優しいんだよなぁ……。これはぼくが勘違いしちゃったのも無理はないと思う)
心が揺れそうになるのを「これは社交辞令、これは社交辞令」と口の中で唱えることで、真野は必死で堪える。
「ありがとう、大丈夫だよ。ほら、昂生くんは跳躍に集中して、試合も近くなってきてるんだし」
やや強引に背中を押して練習場所に送り出す。雷堂は片眉を上げたものの、ちょうど須貝に呼ばれたこともありその場を離れた。雷堂と須貝が練習メニューについて話し合っているのを、真野は少し離れた場所で見守る。
(そうだ、このくらいの距離感が、記者と取材相手としては相応しいんだ、きっと)
須貝が冗談でも言ったのか、雷堂も屈託なく笑っている。ここまでは笑い声は聞こえないけれど、その一線が記者としての距離に相応しいのだろう。
(須貝コーチは既婚者だから、昂生くんの恋を応援するわけにはいかないけど、でも彼にはずっと笑っていて欲しいなあ……)と思いながらも、やっぱり笑い合う二人の姿を直視するのはみぞおちを抉られるような痛みを感じる。真野は目を逸らした。
ダッシュ練習や基本の動きを繰り返すドリル練習をこなしたあと、跳躍練習に入る。真野もいつものようにバーの近くで待機し、カメラを構える。
雷堂が助走をし、跳躍する。その度に真野は何度もシャッターを切る。次は清野の番だ。清野の跳躍でも真野はシャッターを切る。
夢中でファインダーを覗いていると、須貝から話しかけられた。
「真野さん、今日は清野のこともよく撮ってるけど、跳躍の比較でもすんの?」
その質問で真野はふと我に返った。取材対象ではない選手の撮影は許可されていない。
「あっ……そうですね。夢中になりすぎて余計な写真も撮ってました」
あとで消去しておきます、と真野は須貝に頭を下げる。
気を取り直して跳躍バーを見直すと、既に雷堂がマットから降りている。いつの間にか雷堂がラストの跳躍を終えてしまったのだ。
真野は慌てて雷堂に駆け寄る。
「ヤバい、見逃すなんて。あの、昂生くん、もう一回跳んでもらっても……」と早口で言いかけたが、はっと気づいて途中で口をつぐんだ。雷堂、清野、須貝が三様に怪訝そうな顔をしていることに気づいたからだ。
「なんでもないです。練習止めてすいません」と真野はへらっと笑いながら頭を掻く。他の三人は顔を見合わせている。
練習後のマッサージも真野はいつもと同じようにやっていたのだが、雷堂から「今日の真野さん、力が強くて痛いからもういい」とダメ出しをされてしまった。
寝そべるのをやめて、マットの上にあぐらをかいた雷堂は片手を出した。
「今日撮った写真、見てもいい?」
「うん、もちろん」
雷堂はカメラを渡し、隣に座る。雷堂が次々と写真を表示させていく……が、こちらを向いた雷堂はへの字口をしていた。不満がありそうだ。
「ほんの少しピントずれてない?あと、なんかいつもの真野さんの写真よりも迫力が足らないっていうか」
真野も慌てて写真を確認する。明らかなピンボケというわけではないが、記事に載せたいと思える出来の写真はほとんどなかった。
「え、……そうだね。シャッターのタイミングの問題かな」
ほんの少しだけシャッターを切るのが早かったのかもしれない。気持ちばかりが先走っているせいだ。
「真野さんの写真いつも良いのに、珍しいね」
真野は本当の理由を告げるわけにもいかず、得意の愛想笑いでごまかした。
「原稿がうまく書けなくて編集長に『このままじゃ担当記者替えるぞ』って脅されちゃったから、その焦りかな」
それを聞いて即座に雷堂は眉を寄せる。
「担当記者、替わるのはだめだ」
真剣な表情で見つめてくる雷堂の視線を真野は受けめることができない。気持ちが揺れてしまいそうだ。
「ふふ、ありがと。担当替えられないように早く帰って原稿書くね」
真野はさっと立ち上がった。後ろではまだ雷堂がこちらに視線をやっていることには気づきながらも、真野は一度も振り向くことはなかった。
競技場をあとにした真野は一人、大学の駐車場に停めておいた車に戻った。車の扉を閉めてエンジンをかける。密閉された空間に入ると少しだけほっとした。
社会人として責任は果たさなければと気合を入れて仕事をしたが、一日中、空まわりばかりしていた気がする。総じて取材はうまくいかなかった。
真野はハンドルに両腕を載せてもたれかかる。
(……人を好きになること自体が久しぶりすぎて、失恋からの立ち直り方もわからないな)
最後に恋人がいたのは二年ほど前だ。
しばらくぼうっとしていると窓ガラスを控えめに叩かれた。誰かと思えば雷堂だった。素早く帰り支度を整えたのだろう、既に私服に着替えていたせいか、一瞬知らない大学生にも見えた。
真野が慌ててドアを開けようとすると、それを制するようにしてから雷堂は助手席に乗り込んできた。相変わらず身のこなしが素早く、止める隙も無かった。
「どうしたの、何か用かな?」
「早く帰って原稿書くんじゃないの?」
落ち着いた声で雷堂から尋ねられると、真野は反応に困ってしまう。
「あ、ああ……そうだったね。だめだなぁ、時間は有効に使わないとね、ごめんごめん、すぐ帰るよ」と慌ててエンジンをかけたあと、「昂生くんは?このまま寮まで送って行けばいいのかな?」と上擦った声で確認する。
「真野さん、話がある」
真野と対照的に雷堂の声は低かった。その迫力に押され、真野は思わずキーを回した。ぶうん、と最後の息を吐くように車のエンジンが止まり、たちまち車内に沈黙が訪れる。緊張をはらんだ沈黙が、真野が纏っていた空元気の外面をはぎ取っていく。
日も落ちた大学の駐車場は、他に停まっている車は数台だけだ。等間隔に並んだ外灯の光に羽虫が舞っている。
「えっと……話って?」
ぼくには話すことはないよ、という言外の意向を込めて真野は尋ねる。下手に彼と話したら、失恋のぼろが出てしまいそうだ。
雷堂は横目で睨むようにしてきた。
「真野さんは昨日からずっと変だ」
そんなつもりはないのかもしれないが、元々の眼光が鋭い雷堂にそれをされると尋問されているような気になってくる。居心地の悪くなった真野はシートに座り直した。
「そんなこと、ないと思うけど」
「真野さんの様子が変なのって、おれの部屋に取材に来てからだよね?」
「それは、たまたまじゃないかな……?」
真野はハンドルをぎゅっと握りしめながら弁解する。自分でも言い訳が苦しいことはわかっている。
雷堂はリュックから陸上ノートを取り出した。元凶のようなそのノートを見た瞬間、真野の背筋はぐっと寒くなる。
「真野さん、おれの陸上ノート見ましたよね?中身も読んで、コーチの写真も見たでしょ?」
断罪するような雷堂のことばに、真野は息を呑んだ。こんなの、嘘でごまかせるわけない。
真野は腹を決めて頭を下げた。
「……勝手に見ちゃってごめん。記者としても友人としても許可をもらってから見るべきだったと反省してます」
雷堂は真野の額をぐいと上げた。片眉が上がっている。
(怒っているわけではなさそう……?)真野は雷堂の感情を読みきれない。
「謝らなくても別にいいって。真野さんに今更見られて困ることは書いてないし」
無造作に言った雷堂に、真野は首を傾げる。
ノートの中身を見られても構わない?雷堂は真野に須貝への片思いがばれても構わないと思っている、ということだろうか。
「えっと……?」
「よくわかんないけど、真野さんには隠す必要ないっていうか、そんな感じ」
両手を広げて肩をすくめる雷堂を、真野は改めて見つめる。隠すことはないと言うわりに、心の底は読ませてくれない。恋愛経験の少ない年下なのに謎を秘めた瞳をしている。
真野は回らない頭で必死で考えたあと、尋ねてみた。
「じゃあ、……あの、須貝コーチへの恋をぼくに打ち明けようとしてくれてたってこと、かな?」
雷堂は急に眼光をゆるめて笑った。
「鈍すぎだろ」
柔らかくなった雷堂の表情に、真野の目は引き付けられる。何か笑われるようなことをしただろうか。
「……どういうこと?」
(まさか……いや、もしかして)と考える真野を見つめる雷堂の視線は熱っぽかった。
雷堂は身を乗り出して言った。
「おれが好きなのは、真野さんだってこと」
雷堂の声音は柔らかかった。ぱちくりとまばたきする真野をじっと見つめている。まばたきの音さえも聞こえそうな沈黙の中、真野は唾を呑み込んだ。
(昂生くんがぼくのことを……好き?)
それは友人や仲間としてってことではなく、「恋愛」として……?
突然の告白に戸惑った真野だったが、じりじりと見つめてくる雷堂の目を見ればその意味するところはわかる。
「えっ……と」
慌てた真野はハンドルに手を押しつけてしまった。瞬間、ぷっと軽いクラクションが鳴る。
「何やってんの」と雷堂が笑う。その笑顔もいつもより柔らかい気がして真野は思わず目を奪われる。
「いや、あれ……おかしいな」
「緊張してんの?」
雷堂が覗き込むように顔を近づけてきた。だんだんと真野の視界に、雷堂の瞳が迫ってくる。
そんな近くで顔を見られたら困る。今はぽかんとした間抜けな顔しかできないのに。
「だって……昂生くんがぼくのこと……なんて思ってなかったし」
身体を縮こませながらぼそっと呟く真野に、雷堂は片眉を上げた。
「本当に?おれが好きでもない人に愛想振りまけるような人間じゃないことくらい知ってんじゃん。わざわざ練習のあとに電話かけるのも、休日に一緒に出掛けるのも、自分の部屋に入れたのも」
言いながら雷堂は再び顔を寄せてくる。吐息までもかかりそうなほど。そして鼻の頭がくっつきそうなところで止まった。
近い、近すぎる。
真野は雷堂の肩を跳ね返すように押そうと手を置いたが、力は入らない。雷堂は少しだけ顔を傾けると真野の耳に唇を寄せた。そして囁いてくる。
「全部、真野さんが好きだから。気づいてもおかしくないと思ってたけど」
耳にふれる吐息の熱さが身体の奥まで浸透していく。まるで雷堂自身が発火しているように傍に寄られると熱くなっていくのがわかる。
(耳が……熱い)
囁かれた耳を抑えながら、雷堂を見る。外灯を反射する彼の瞳も艶やかに潤んでいるのを見て、真野は息を呑む。
(そっか……昂生くんはずっとぼくに好きだって行動で伝えてくれてたのか)
ことばにされるまで雷堂の気持ちに気付けなかったのは、自らの記者としての倫理観が「これ以上雷堂のことを好きにならないように」とブレーキをかけていたせいかもしれない。
「真野さん……」
雷堂が真野の首に手を回してきた。練習後につけたのだろうか、近づいてくる彼の首あたりから制汗剤の爽やかな匂いがした。
周りには一人も歩いていない、静かな駐車場で好きな人と二人きりだ。
「昂生くん、ちょっと待って……」
流されそうになる自分に必死に理性でストップをかける。真野が言いかけると、首に手を回したままの雷堂はそれを遮った。
「コーヒーイベント、楽しかったのおれだけじゃないだろ?おれが急に電話かけたときだって、真野さんすごく嬉しそうな声出してた」
「えっ、……そ、うだったっかな」
こちらに言い含めるように目を合わせて雷堂はしゃべる。いつもよりもゆったりとしたテンポと低い声は、彼の自信を感じさせる。
「コーチが好きだと勘違いして変な様子になってたのも、おれのこと気になってたからじゃないの?」
「……」
真野はもう反論できなかった。雷堂のことを好きになってしまったのは既に自覚している。
雷堂は言った。
「おれのこと、嫌じゃなければ付き合って。今は好きじゃなくてもいい。時間がかかってもおれのこと、好きにさせるから」
とうとう、真野は雷堂と目を合わせた。余裕のありそうな口ぶりとは裏腹に、瞳の奥が揺れているのがわかる。本当は雷堂も不安なのだ。
(そうだよね、プレッシャーには弱いはず……)
かわいいな、と思ってしまった。
その瞬間、気が緩んだのかもしれない。真野のガードが少し緩んだのを読んだ雷堂は即座にその唇に自分の唇を押しあてた。いつのまにか真野のうなじにも雷堂の手のひらがあり、しっかりとふれあえるように支えられている。
唇を離したあとに真野がおずおずと雷堂の顔を窺うと、彼も頬を赤らめていた。大分と緊張しているらしい。
「唇、やわらかい……」
思わず、と言ったように呟いた雷堂に真野の胸はきゅんと鳴った。車内の空気が少しずつ解けていく。
真野は自分の唇に彼の体温の方がまだ残っている気がして、自分のそれをそっと撫でる。
その仕草が名残惜しそうに見えたのだろうか。
「ねえ、もう一回いい?」と、雷堂は再び真野の首筋に手をやって顔を近づけてくる。
(だめだ、これ以上は)と動揺した真野が身じろぎをすると、ひんやりとしたシートベルトの金具が首筋に当たった。自分の身体も熱くなっていることに気付く。真野は狭い空間の中で身を捩って雷堂を押しやった。
「だ、だめだよ。ぼくはまだ何も答えてないし、キスするのは恋人になってからだよ」
このまま雰囲気に流されてしまいそうな自分の感情に真野はストップをかける。雷堂は「もう一回したかったのに」とかわいらしく唇を尖らせているが、ここは絆されてはいけない場面だろう。
真野はどうどう、と雷堂を自分のシートに押しやり、自分も座り直して息をついた。
「須貝コーチのことはただの勘違いではないよね?ノートにたくさん書いてあったじゃない」
「ああ」
雷堂は頷いた。外灯の灯りが瞳に煌めく。
「須貝コーチのことは昔好きだったんだ。今思い返せば、尊敬と愛着の方が強かったのかもと思うけど。でも夫婦の邪魔をしたいわけじゃなかったし、二人の赤ちゃんができたのをきっかけに諦めようって決めた」
「そうなんだ……」
「感情が思い通りになるわけじゃないから、揺れたりすることもあったけど、真野さんが来てからだよ。須貝コーチのことを良いコーチだって言っても胸が痛まなくなったのは」
雷堂の声は切なさを含みながらも湿度には乏しかった。もう須貝に気持ちを残していないのは本当のことなのだろう。
「そっか……」と言いながら真野は自分の声が少し上擦っていることに気付く。雷堂が過去に好きだった人の話を本人から聞いただけでこんなに動揺するなんておかしいが、それでも過去の恋であることにほっとしている自分もいた。
「その、ぼくのことはいつ、……から?」
真野は自分の声が緊張でかすれていることに気づいた。緊張からか咽喉が渇いているみたいだ。雷堂は柔らかく笑った。
「いつからかな。今年も記録が出せないかもしれないって不安でいっぱいだった毎日に、真野さんが寄り添ってくれて、いろんなことが変わっていった。兄の店のPOPを書いてくれたこと覚えてる?その真剣に取り組む姿勢が格好いいなって。たぶんそれが決め手」
「え、……そんなことで?」
真野にとっては自分をよく見せようとしたわけでもない、頼まれごとを引き受けただけのことだ。案外、人を好きになる瞬間なんてそんなものなのかもしれない。
「ノート見たならついでに引き出しも見ればよかったのに。おれ、真野さんが書いてくれた名前とキャッチフレーズの紙、大事にとってあるんだよ」
雷堂は真野のTシャツの裾を引っ張った。少し上目遣いに見てくる彼は構って欲しそうな仔犬にも見える。
(これはすごくかわいい……かもしれない)
真野は思わず息を呑む。
「ねえ、付き合おうよ、真野さん」
雷堂は再び顔を近づけてくる。どきどきして目が逸らせないまま、真野はキスを受けた。雷堂に見つめられると逃げられない。自分が既に雷堂に惚れていることを改めて自覚する。
しばらくぎゅっと唇を押し当てたあと、雷堂が離れていく。押しあてるだけの不器用なキスだ。キスに不慣れな雷堂のことが真野はますます愛おしくなる。
(本当はもう今すぐ抱きしめてしまいたいくらい、ぼくも昂生くんのことが好き……)
「昂生くん……」と真野が言いながら雷堂の背に腕を回しかけたとき、腕につけたスマートウォッチが震えた。編集長からのメールの通知だ。
慌てて腕を引くと同時に背筋が伸びる。編集長に見張られている気さえした。
(やっぱり取材が終わるまでは、……記者倫理に反する気がする)
真野は雷堂の肩に手をやり、そっと制した。
「インカレ優勝して取材が終わったら付き合うって約束はどうかな?」
それを聞いて雷堂はぷうと頬を膨らませた。
「なんで?」
記者倫理の話をしてもまだ学生の雷堂にはあまり納得を得られないだろう、と思った真野は機転を効かせた。
「それなら、さらに昂生くんのやる気出るでしょ?ぼくはプレッシャーを克服した格好いい昂生くんと付き合いたいな」
不満丸出しの顔をした雷堂だったが、「約束だよ」という念押しに真野が深く頷くのを見て、渋々同意した。
「じゃあ約束としてキスしとく」
「あ、昂生くん、だめだって……」
真野は避けようとしたが、細身だが筋肉質な雷堂の力には敵わない。いや、真野だって本気で抵抗する気もなかったのかもしれない。もう一度二人は暗い車内の中で不器用なキスを交わした。
真野は雷堂を寮まで車で送ると、彼は名残惜しそうな様子でしぶしぶ車から降りて行った。そのあと何か言いたそうに口を開けたが、雷堂は結局何も言わずに手を振った。
真野が自宅についてスマホを見ると雷堂からメッセージが来ていた。
「寝る前に毎日おやすみって送ってもいい?」と書いてある。
一瞬誰かと間違えて送られてきたのか、と二度見して雷堂からのメッセージであることを確かめる。先ほど言いかけたのはこれだったらしい。真野は思わず微笑んだ。
(……こんなに甘えてくるんだ)
あのツンケンしていた雷堂の初期の様子からは考えられない。真野はスマホを胸に押し付けながら天を仰いで呟く。
(このまま流されたらいつの間にか付き合っちゃいそうで怖いけど……でも)
「ダメって言え……るわけないよなぁ」
迷った末、真野は「いいよ、おやすみ」と返信した。その後も毎日おやすみのメッセージはくる。それが面倒だとも思わず、「かわいいな」と思ってしまう時点で真野もかなり絆されている。
競技場に行って練習に参加すれば、雷堂の態度はこれまでと変わらない。しかし遠くにいても、時々目が合うのがわかる。練習に励む雷堂がずっと真野を見ているわけでもないのに、なぜかタイミングが合うのだ。
二人きりのマッサージのとき、空気は少しだけ甘くなる。この前は真野が雷堂の脚を丁寧に撫でていると、
「真野さん、マッサージうまくなったね。気持ちよくって寝ちゃいそうになる」と雷堂がやわらかい口調で声を掛けてきた。
「寝てもいいよ」
「だめだよ、せっかく真野さんといるのに」
雷堂はより安心感を与えようと、マッサージの手を少しゆっくり動かすようにする。
「ぼくは昂生くんが安心してくれるの嬉しいよ」
真野が言うと雷堂は少しむっとしたようだった。
「安心もしてるけど、でもどきどきもしてる。……だって、真野さんがおれの脚、さわってんだよ?」
真野は動揺して手を止めた。
「へ、変な言い方しないでよ。真面目にマッサージしてるだけだよ?」
雷堂は起き上がって、近づいてきた。
「わかってる。ただのマッサージでも意識しちゃうんだよ。おれ、真野さんのこと好きだから」
「え、っ……」
そんなに何度も告白されると、こちらも心の準備ができていない。戸惑っている間に頬を捕まえられて、キスをされそうになる。真野は慌てて距離を取る。
「キスはだめだって」
「なんで」
「付き合ってないから。ほら、マッサージ途中だよ?」
真野がマットを指さすと、雷堂は「ちぇー」と言いながらも再び寝転ぶ。
この前などは「ねえ、真野さん。脚だけじゃなくてさ、もっと他のところマッサージしてみる?」と雷堂が色っぽく身体をくねらせながら囁やいてくる夢を見て、真野は冷や汗をかいて跳び起きたこともあった。
心臓がばくんばくんと音を立てている。なんて夢を見てしまったんだろう。
起き抜けの頭をぶんぶん振って(昂生くんはそんなこと言わない!)と否定したが、だんだん雷堂の勢いに流されてきているのが夢にも現れているんだろうか。
毎日おやすみの挨拶を送り合って、二人だけの秘密を共有している。
(まだ付き合っていないのに、……付き合ってるみたいだ)
曖昧な関係は居心地が良くて、同時に怖さもある。でも一番怖いのは欲に負けそうな自分だ。真野は一人、ため息をつく。
インカレまではあと一か月だ。優勝して正式に付き合うんだ、という目標を密かに立てた雷堂は気合いを入れているが、気持ちとは裏腹に記録の伸びは良くない。須貝は「焦んなよー」と声をかけ、雷堂は頷いているが休憩も挟むことなく何度も跳躍を続けるその背中には焦りが滲み出ている。雷堂は跳躍の度にタイミングや角度がイメージ通りにはならないらしく、何度も首を傾げている。
真野はいつも通り撮影をしながら練習を観察している。技術的なアドバイスができるわけではないので、見守るしかできない自分がもどかしい。
とうとう須貝から強制的に休憩を取らされた雷堂は肩で息をついている。跳び続けたせいじゃなくて焦っているためだろう。雷堂の背中はいつもより硬く見える。真野がさりげなくそばに寄ると、彼は愚痴をこぼしてきた。
「インカレが近づいてきてるのに全然うまくいかねえ」
「全然ってことはないよ。全く跳べてないわけじゃないし」
なるべくプラスの面にも目を向けて欲しいと言ってみるが、雷堂の顔は晴れない。
「でも、優勝できないとおれには意味がない……だろ?」
「真野さん付き合ってくれないだろ?」という言外の確認に、真野は眉を寄せる。
(優勝しなくても付き合うよって言いたくなっちゃうな……)
二人が悶々とした気持ちで黙っていると、一緒に休憩していた清野が口を挟んだ。
「あのさあ、真野さんてずっと雷堂さんの跳躍を撮影してたんだから、そのデータ見返してみたら?並べて見れば調子良い時と今とのフォームの違いがわかるんじゃないの?」
流石にいつも冷静な清野の視点は客観的だ。
真野と雷堂は思わず目を合わせる。そして二人同時に「それだ!」と声を弾ませた。二人から礼を言われても、清野は冷静な表情のまま「気づかない方がどうかしてる」と呟いている。
大きな画面で確認した方がわかりやすいだろうと、真野は持参したノートパソコンで写真を時系列順にいくつか表示していく。真野と雷堂は額を寄せながら見比べ、その後ろから清野と須貝も画面を覗きこんでいる。
「助走、踏切、空中姿勢のそれぞれの瞬間を見比べやすいように並び直してもらえるか?」
「はい、わかりました」
須貝の提案を受け、真野は画面の表示を調整する。調子の良かったときと現状の助走の姿勢、踏切のフォーム、空中姿勢のバランスが一目で見比べられるようになった。
雷堂は目を見開いて小さく呟いた。
「……今更だけど、よくこんなに撮影してあるな。同じ角度からの撮影も多いから比較しやすいし」
「選手に密着取材するときは、同じ位置、同じ角度からの撮影は必須って叩きこまれてるからね」
真野は嬉しそうに笑う。あまり出さないようにしているのに、ふとした瞬間に二人の間の空気がほころんでしまう。
その空気に気付いているのかわからないが、清野は冷静に写真を見比べながら言った。
「あまり変わったところは見られないかもしれませんね」
雷堂も慌てて顔を引き締めた。
「問題があるとすれば踏切のときだろうなと思ってたけど、変わってるところもなさそうだな……」
「相変わらず空中姿勢は綺麗で、言うことないしなぁ」
須貝も腕を組んで唸っている。
「ぱっと見ただけでわかるような違いじゃないのかも。ほんの少しの違いで……あっもしかして」
真野はあることを思いつき、写真に補助線を入れた。そうすることで踏切の角度がはっきりと確認できるようになる。真野は画面を指さす。
「ねえ、これを見て。調子の良いときの跳躍は踏切角がどれも20度前後なのに、最近の跳躍は22度から23度だよ。ほんの少しだけど角度が高い」
数度の違いなど大した変化ではない、と笑い飛ばされるかもしれないと思ったが、ところが三者とも深く頷いている。
「気が逸って高く跳び出しがちになるってのはありそうな話だ。感覚ではわかりづらいけど、画像だと一目瞭然だな」と須貝は顎をさすりながら納得している。
「23度は高すぎだね。助走のスピードが消されちゃうよ」と清野も額を掻いた。
雷堂はと見ると、口元に手を当てたまま黙っていた。自覚なくフォームが崩れていたことにショックを受けているのだろうか。
声をかけるのも気が引けるので、真野は黙って様子を見守っている。
とうとう雷堂が口を開いた。
「真野さん」
「何?」
「ありがとな……」
隣り合っていた右手を雷堂に握られた。思ってもいなかった反応に真野は息を呑む。
「そんな……」
「たぶん、ずっと……陸上始めたときからおれが大きな大会で力出せてなかったの、これが原因だと思う。高く跳ぶって意識が強くなって踏切のフォームが崩れてたんだ。なんか、やっと……解決の糸口が見つかったっていうか……本当にありがとう」
雷堂は真野の手をぎゅっと握りしめながら、感情を噛みしめるようにぼそぼそとしゃべった。雷堂の心からの感謝に真野の胸も熱くなる。思ってもいなかった場面で、自分の取材が雷堂のパフォーマンスの改善に貢献できたのだ。真野も誇らしさと嬉しさを込めて、雷堂の手の上から自分の左手を重ねた。
「いつも昂生くんのこと見てるから。役立って良かった」
真野が落ち着いた声音で言った一言に雷堂は深く頷いた。
空気を読んだ須貝は清野を連れてその場を一旦、離れて練習に戻る。引っ張られた清野はやや不満そうだ。
「あのまま放っておいていいんですか?」
須貝は鷹揚に笑う。
「ほっとけ。気が済むまで感動させてやれ」
「やっと改善点を掴んだところなんだから、すぐ新しいフォームを試した方が……」
清野は清野で一年先輩の雷堂のことを心配している。今年こそ自己ベストを出して優勝してほしいと願っているのだ。須貝は清野の背中をばしばしと叩きながら言った。
「あいつの長年の悩みだった、大会での不調の原因がやっとわかったんだ。それも自分のことを深く理解してくれる相棒のおかげでさ。今くらい感謝の余韻に浸らせてやれよ。あいつは改善点さえわかれば、試合までにフォームの修正はきっちり仕上げてくるさ」
背中をさすりながら清野が言う。
「雷堂さんのこと、信頼してるんスね」
須貝は空を見上げる。真っ青な空に一直線、飛行機雲が伸びていく。遠く遠く、見えなくなるまで。須貝は言った。
「そうだな、最初に無名のあいつを見つけたのはこの俺だからな」
カチ、と乾いた音がして、ポットのお湯が沸いた。その音にびくっと肩が動いた瞬間、自分が力んでいたことに真野は気づいた。
自分が浮かれて書いたあの字の丸みが、今はやけに間抜けに思える。真野は立ち上がりキッチンでドリップコーヒーを探す。
今から思い返してみれば、雷堂はずっと須貝のことを意識しているそぶりを見せていた、と真野は考える。
最初に打ち上げに行ったときも須貝に二の腕をさわられた雷堂は、複雑な表情をしながらもふりほどくことはなかったし、寝入った須貝の面倒を見ていた。須貝が真野にマッサージのやり方を教えたと説明したときも「二人きりで?」と露骨に嫌な顔をしていたではないか。須貝が雷堂をからかうと、彼は面倒くさそうにそれでも少しだけ頬を赤らめて言い返していたことを思い出す。あれは好きな人にからかわれたときの顔だったのだ。
雷堂との距離が少しずつ近づいていき、てっきり両思いなのかもしれないと勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。雷堂が自分に優しくしてくれていたのは、担当記者への気遣いだったのだ。
真野はカップの上に乗せたドリップコーヒーにお湯を少しずつ注ぎながら考える。
(恥ずかしいことをしでかしてしまう前に気づいて良かった……)
練習後にわざわざ「もっと話したかったから」と雷堂が突然電話をかけてきてくれた声がふいに蘇ってくる。あの電話があってから「またかかってこないかな」と内心心待ちにしていた夜が確かにあった。しかし、彼とこれからも同じ時間を過ごせたらと思っていたのは自分だけだったってことだ。
注いだコーヒーに息を吹きかけて、一口飲んだ。
(……苦いな)
雷堂が兄の店で淹れてくれたカフェラテやイベントで一緒に飲んだコーヒーは美味しかったのに。一人で飲むコーヒーはこんなにも苦い。
明日も再び取材だ。真野はコーヒーカップを机に置く。少し力が入っていたようで、カップが机に当たった音が意外に大きく聞こえた。
ざわざわとしたフロアをつっきって進む。真野の所属する陸上専門誌のデスクはフロア奥にある。一番奥が編集長の席だ。彼女はいつも通り高い位置でポニーテールを結っており、きりりとしたスーツ姿だ。
真野の顔を見るなり、編集長から原稿の催促をされる。雷堂の部屋でのインタビューが不十分にしかできなかったので、記事するべきネタがまだ足りない。もう少し取材してから次の記事を書き上げると約束して真野は頭を下げた。
「情報を取って来れないということは本人との相性が悪いんじゃない?なんなら担当記者を替えるというのも手だけどね」とポニーテールを揺らしながら不敵に笑う敏腕編集長に、真野は慌てた。
「それはだめです」
咄嗟に出たのがその一言だった。真野は自分のことばを耳にした瞬間、
(そうだ、ぼくは昂生くんの担当を外れたくないんだ)とはっとした。
「なんで?気まずい関係では取材も続けにくいだろう?それとも距離が近すぎて冷静に取材対象を見られない感じかな?」
試すように言い募る編集長に真野は胸を張って言い返した。
「ぼくと昂生くんの相性は悪くないし、近すぎてもないです。昂生くんの跳躍の美しさ、素晴らしさを一番理解して記事にできるのはぼくだって信じてますから」
真野の返答は編集長の気に入ったようだった。彼女は真っ赤なルージュの唇でにやりと笑いながら「そう、じゃあ取材頑張っておいで」と真野を編集室から叩き出した。
真野は「ようし」と気合を入れて車のエンジンをふかしながら、雷堂の大学に到着した。すぐに競技場に向かい、雷堂を見つけた瞬間に声を掛けた。
「昂生くん、今日も頑張ろうね!」
いつになくテンションの高い真野を、雷堂はじっと見つめる。
「真野さん、体調なんともない?」
「えっ?」
「昨日ちょっと調子悪そうだったし、今日はなんかテンションおかしいし」
雷堂の目は気遣わしそうな様子だ。目の奥に優しさが湛えられているのを真野は読み取る。
(やっぱり優しいんだよなぁ……。これはぼくが勘違いしちゃったのも無理はないと思う)
心が揺れそうになるのを「これは社交辞令、これは社交辞令」と口の中で唱えることで、真野は必死で堪える。
「ありがとう、大丈夫だよ。ほら、昂生くんは跳躍に集中して、試合も近くなってきてるんだし」
やや強引に背中を押して練習場所に送り出す。雷堂は片眉を上げたものの、ちょうど須貝に呼ばれたこともありその場を離れた。雷堂と須貝が練習メニューについて話し合っているのを、真野は少し離れた場所で見守る。
(そうだ、このくらいの距離感が、記者と取材相手としては相応しいんだ、きっと)
須貝が冗談でも言ったのか、雷堂も屈託なく笑っている。ここまでは笑い声は聞こえないけれど、その一線が記者としての距離に相応しいのだろう。
(須貝コーチは既婚者だから、昂生くんの恋を応援するわけにはいかないけど、でも彼にはずっと笑っていて欲しいなあ……)と思いながらも、やっぱり笑い合う二人の姿を直視するのはみぞおちを抉られるような痛みを感じる。真野は目を逸らした。
ダッシュ練習や基本の動きを繰り返すドリル練習をこなしたあと、跳躍練習に入る。真野もいつものようにバーの近くで待機し、カメラを構える。
雷堂が助走をし、跳躍する。その度に真野は何度もシャッターを切る。次は清野の番だ。清野の跳躍でも真野はシャッターを切る。
夢中でファインダーを覗いていると、須貝から話しかけられた。
「真野さん、今日は清野のこともよく撮ってるけど、跳躍の比較でもすんの?」
その質問で真野はふと我に返った。取材対象ではない選手の撮影は許可されていない。
「あっ……そうですね。夢中になりすぎて余計な写真も撮ってました」
あとで消去しておきます、と真野は須貝に頭を下げる。
気を取り直して跳躍バーを見直すと、既に雷堂がマットから降りている。いつの間にか雷堂がラストの跳躍を終えてしまったのだ。
真野は慌てて雷堂に駆け寄る。
「ヤバい、見逃すなんて。あの、昂生くん、もう一回跳んでもらっても……」と早口で言いかけたが、はっと気づいて途中で口をつぐんだ。雷堂、清野、須貝が三様に怪訝そうな顔をしていることに気づいたからだ。
「なんでもないです。練習止めてすいません」と真野はへらっと笑いながら頭を掻く。他の三人は顔を見合わせている。
練習後のマッサージも真野はいつもと同じようにやっていたのだが、雷堂から「今日の真野さん、力が強くて痛いからもういい」とダメ出しをされてしまった。
寝そべるのをやめて、マットの上にあぐらをかいた雷堂は片手を出した。
「今日撮った写真、見てもいい?」
「うん、もちろん」
雷堂はカメラを渡し、隣に座る。雷堂が次々と写真を表示させていく……が、こちらを向いた雷堂はへの字口をしていた。不満がありそうだ。
「ほんの少しピントずれてない?あと、なんかいつもの真野さんの写真よりも迫力が足らないっていうか」
真野も慌てて写真を確認する。明らかなピンボケというわけではないが、記事に載せたいと思える出来の写真はほとんどなかった。
「え、……そうだね。シャッターのタイミングの問題かな」
ほんの少しだけシャッターを切るのが早かったのかもしれない。気持ちばかりが先走っているせいだ。
「真野さんの写真いつも良いのに、珍しいね」
真野は本当の理由を告げるわけにもいかず、得意の愛想笑いでごまかした。
「原稿がうまく書けなくて編集長に『このままじゃ担当記者替えるぞ』って脅されちゃったから、その焦りかな」
それを聞いて即座に雷堂は眉を寄せる。
「担当記者、替わるのはだめだ」
真剣な表情で見つめてくる雷堂の視線を真野は受けめることができない。気持ちが揺れてしまいそうだ。
「ふふ、ありがと。担当替えられないように早く帰って原稿書くね」
真野はさっと立ち上がった。後ろではまだ雷堂がこちらに視線をやっていることには気づきながらも、真野は一度も振り向くことはなかった。
競技場をあとにした真野は一人、大学の駐車場に停めておいた車に戻った。車の扉を閉めてエンジンをかける。密閉された空間に入ると少しだけほっとした。
社会人として責任は果たさなければと気合を入れて仕事をしたが、一日中、空まわりばかりしていた気がする。総じて取材はうまくいかなかった。
真野はハンドルに両腕を載せてもたれかかる。
(……人を好きになること自体が久しぶりすぎて、失恋からの立ち直り方もわからないな)
最後に恋人がいたのは二年ほど前だ。
しばらくぼうっとしていると窓ガラスを控えめに叩かれた。誰かと思えば雷堂だった。素早く帰り支度を整えたのだろう、既に私服に着替えていたせいか、一瞬知らない大学生にも見えた。
真野が慌ててドアを開けようとすると、それを制するようにしてから雷堂は助手席に乗り込んできた。相変わらず身のこなしが素早く、止める隙も無かった。
「どうしたの、何か用かな?」
「早く帰って原稿書くんじゃないの?」
落ち着いた声で雷堂から尋ねられると、真野は反応に困ってしまう。
「あ、ああ……そうだったね。だめだなぁ、時間は有効に使わないとね、ごめんごめん、すぐ帰るよ」と慌ててエンジンをかけたあと、「昂生くんは?このまま寮まで送って行けばいいのかな?」と上擦った声で確認する。
「真野さん、話がある」
真野と対照的に雷堂の声は低かった。その迫力に押され、真野は思わずキーを回した。ぶうん、と最後の息を吐くように車のエンジンが止まり、たちまち車内に沈黙が訪れる。緊張をはらんだ沈黙が、真野が纏っていた空元気の外面をはぎ取っていく。
日も落ちた大学の駐車場は、他に停まっている車は数台だけだ。等間隔に並んだ外灯の光に羽虫が舞っている。
「えっと……話って?」
ぼくには話すことはないよ、という言外の意向を込めて真野は尋ねる。下手に彼と話したら、失恋のぼろが出てしまいそうだ。
雷堂は横目で睨むようにしてきた。
「真野さんは昨日からずっと変だ」
そんなつもりはないのかもしれないが、元々の眼光が鋭い雷堂にそれをされると尋問されているような気になってくる。居心地の悪くなった真野はシートに座り直した。
「そんなこと、ないと思うけど」
「真野さんの様子が変なのって、おれの部屋に取材に来てからだよね?」
「それは、たまたまじゃないかな……?」
真野はハンドルをぎゅっと握りしめながら弁解する。自分でも言い訳が苦しいことはわかっている。
雷堂はリュックから陸上ノートを取り出した。元凶のようなそのノートを見た瞬間、真野の背筋はぐっと寒くなる。
「真野さん、おれの陸上ノート見ましたよね?中身も読んで、コーチの写真も見たでしょ?」
断罪するような雷堂のことばに、真野は息を呑んだ。こんなの、嘘でごまかせるわけない。
真野は腹を決めて頭を下げた。
「……勝手に見ちゃってごめん。記者としても友人としても許可をもらってから見るべきだったと反省してます」
雷堂は真野の額をぐいと上げた。片眉が上がっている。
(怒っているわけではなさそう……?)真野は雷堂の感情を読みきれない。
「謝らなくても別にいいって。真野さんに今更見られて困ることは書いてないし」
無造作に言った雷堂に、真野は首を傾げる。
ノートの中身を見られても構わない?雷堂は真野に須貝への片思いがばれても構わないと思っている、ということだろうか。
「えっと……?」
「よくわかんないけど、真野さんには隠す必要ないっていうか、そんな感じ」
両手を広げて肩をすくめる雷堂を、真野は改めて見つめる。隠すことはないと言うわりに、心の底は読ませてくれない。恋愛経験の少ない年下なのに謎を秘めた瞳をしている。
真野は回らない頭で必死で考えたあと、尋ねてみた。
「じゃあ、……あの、須貝コーチへの恋をぼくに打ち明けようとしてくれてたってこと、かな?」
雷堂は急に眼光をゆるめて笑った。
「鈍すぎだろ」
柔らかくなった雷堂の表情に、真野の目は引き付けられる。何か笑われるようなことをしただろうか。
「……どういうこと?」
(まさか……いや、もしかして)と考える真野を見つめる雷堂の視線は熱っぽかった。
雷堂は身を乗り出して言った。
「おれが好きなのは、真野さんだってこと」
雷堂の声音は柔らかかった。ぱちくりとまばたきする真野をじっと見つめている。まばたきの音さえも聞こえそうな沈黙の中、真野は唾を呑み込んだ。
(昂生くんがぼくのことを……好き?)
それは友人や仲間としてってことではなく、「恋愛」として……?
突然の告白に戸惑った真野だったが、じりじりと見つめてくる雷堂の目を見ればその意味するところはわかる。
「えっ……と」
慌てた真野はハンドルに手を押しつけてしまった。瞬間、ぷっと軽いクラクションが鳴る。
「何やってんの」と雷堂が笑う。その笑顔もいつもより柔らかい気がして真野は思わず目を奪われる。
「いや、あれ……おかしいな」
「緊張してんの?」
雷堂が覗き込むように顔を近づけてきた。だんだんと真野の視界に、雷堂の瞳が迫ってくる。
そんな近くで顔を見られたら困る。今はぽかんとした間抜けな顔しかできないのに。
「だって……昂生くんがぼくのこと……なんて思ってなかったし」
身体を縮こませながらぼそっと呟く真野に、雷堂は片眉を上げた。
「本当に?おれが好きでもない人に愛想振りまけるような人間じゃないことくらい知ってんじゃん。わざわざ練習のあとに電話かけるのも、休日に一緒に出掛けるのも、自分の部屋に入れたのも」
言いながら雷堂は再び顔を寄せてくる。吐息までもかかりそうなほど。そして鼻の頭がくっつきそうなところで止まった。
近い、近すぎる。
真野は雷堂の肩を跳ね返すように押そうと手を置いたが、力は入らない。雷堂は少しだけ顔を傾けると真野の耳に唇を寄せた。そして囁いてくる。
「全部、真野さんが好きだから。気づいてもおかしくないと思ってたけど」
耳にふれる吐息の熱さが身体の奥まで浸透していく。まるで雷堂自身が発火しているように傍に寄られると熱くなっていくのがわかる。
(耳が……熱い)
囁かれた耳を抑えながら、雷堂を見る。外灯を反射する彼の瞳も艶やかに潤んでいるのを見て、真野は息を呑む。
(そっか……昂生くんはずっとぼくに好きだって行動で伝えてくれてたのか)
ことばにされるまで雷堂の気持ちに気付けなかったのは、自らの記者としての倫理観が「これ以上雷堂のことを好きにならないように」とブレーキをかけていたせいかもしれない。
「真野さん……」
雷堂が真野の首に手を回してきた。練習後につけたのだろうか、近づいてくる彼の首あたりから制汗剤の爽やかな匂いがした。
周りには一人も歩いていない、静かな駐車場で好きな人と二人きりだ。
「昂生くん、ちょっと待って……」
流されそうになる自分に必死に理性でストップをかける。真野が言いかけると、首に手を回したままの雷堂はそれを遮った。
「コーヒーイベント、楽しかったのおれだけじゃないだろ?おれが急に電話かけたときだって、真野さんすごく嬉しそうな声出してた」
「えっ、……そ、うだったっかな」
こちらに言い含めるように目を合わせて雷堂はしゃべる。いつもよりもゆったりとしたテンポと低い声は、彼の自信を感じさせる。
「コーチが好きだと勘違いして変な様子になってたのも、おれのこと気になってたからじゃないの?」
「……」
真野はもう反論できなかった。雷堂のことを好きになってしまったのは既に自覚している。
雷堂は言った。
「おれのこと、嫌じゃなければ付き合って。今は好きじゃなくてもいい。時間がかかってもおれのこと、好きにさせるから」
とうとう、真野は雷堂と目を合わせた。余裕のありそうな口ぶりとは裏腹に、瞳の奥が揺れているのがわかる。本当は雷堂も不安なのだ。
(そうだよね、プレッシャーには弱いはず……)
かわいいな、と思ってしまった。
その瞬間、気が緩んだのかもしれない。真野のガードが少し緩んだのを読んだ雷堂は即座にその唇に自分の唇を押しあてた。いつのまにか真野のうなじにも雷堂の手のひらがあり、しっかりとふれあえるように支えられている。
唇を離したあとに真野がおずおずと雷堂の顔を窺うと、彼も頬を赤らめていた。大分と緊張しているらしい。
「唇、やわらかい……」
思わず、と言ったように呟いた雷堂に真野の胸はきゅんと鳴った。車内の空気が少しずつ解けていく。
真野は自分の唇に彼の体温の方がまだ残っている気がして、自分のそれをそっと撫でる。
その仕草が名残惜しそうに見えたのだろうか。
「ねえ、もう一回いい?」と、雷堂は再び真野の首筋に手をやって顔を近づけてくる。
(だめだ、これ以上は)と動揺した真野が身じろぎをすると、ひんやりとしたシートベルトの金具が首筋に当たった。自分の身体も熱くなっていることに気付く。真野は狭い空間の中で身を捩って雷堂を押しやった。
「だ、だめだよ。ぼくはまだ何も答えてないし、キスするのは恋人になってからだよ」
このまま雰囲気に流されてしまいそうな自分の感情に真野はストップをかける。雷堂は「もう一回したかったのに」とかわいらしく唇を尖らせているが、ここは絆されてはいけない場面だろう。
真野はどうどう、と雷堂を自分のシートに押しやり、自分も座り直して息をついた。
「須貝コーチのことはただの勘違いではないよね?ノートにたくさん書いてあったじゃない」
「ああ」
雷堂は頷いた。外灯の灯りが瞳に煌めく。
「須貝コーチのことは昔好きだったんだ。今思い返せば、尊敬と愛着の方が強かったのかもと思うけど。でも夫婦の邪魔をしたいわけじゃなかったし、二人の赤ちゃんができたのをきっかけに諦めようって決めた」
「そうなんだ……」
「感情が思い通りになるわけじゃないから、揺れたりすることもあったけど、真野さんが来てからだよ。須貝コーチのことを良いコーチだって言っても胸が痛まなくなったのは」
雷堂の声は切なさを含みながらも湿度には乏しかった。もう須貝に気持ちを残していないのは本当のことなのだろう。
「そっか……」と言いながら真野は自分の声が少し上擦っていることに気付く。雷堂が過去に好きだった人の話を本人から聞いただけでこんなに動揺するなんておかしいが、それでも過去の恋であることにほっとしている自分もいた。
「その、ぼくのことはいつ、……から?」
真野は自分の声が緊張でかすれていることに気づいた。緊張からか咽喉が渇いているみたいだ。雷堂は柔らかく笑った。
「いつからかな。今年も記録が出せないかもしれないって不安でいっぱいだった毎日に、真野さんが寄り添ってくれて、いろんなことが変わっていった。兄の店のPOPを書いてくれたこと覚えてる?その真剣に取り組む姿勢が格好いいなって。たぶんそれが決め手」
「え、……そんなことで?」
真野にとっては自分をよく見せようとしたわけでもない、頼まれごとを引き受けただけのことだ。案外、人を好きになる瞬間なんてそんなものなのかもしれない。
「ノート見たならついでに引き出しも見ればよかったのに。おれ、真野さんが書いてくれた名前とキャッチフレーズの紙、大事にとってあるんだよ」
雷堂は真野のTシャツの裾を引っ張った。少し上目遣いに見てくる彼は構って欲しそうな仔犬にも見える。
(これはすごくかわいい……かもしれない)
真野は思わず息を呑む。
「ねえ、付き合おうよ、真野さん」
雷堂は再び顔を近づけてくる。どきどきして目が逸らせないまま、真野はキスを受けた。雷堂に見つめられると逃げられない。自分が既に雷堂に惚れていることを改めて自覚する。
しばらくぎゅっと唇を押し当てたあと、雷堂が離れていく。押しあてるだけの不器用なキスだ。キスに不慣れな雷堂のことが真野はますます愛おしくなる。
(本当はもう今すぐ抱きしめてしまいたいくらい、ぼくも昂生くんのことが好き……)
「昂生くん……」と真野が言いながら雷堂の背に腕を回しかけたとき、腕につけたスマートウォッチが震えた。編集長からのメールの通知だ。
慌てて腕を引くと同時に背筋が伸びる。編集長に見張られている気さえした。
(やっぱり取材が終わるまでは、……記者倫理に反する気がする)
真野は雷堂の肩に手をやり、そっと制した。
「インカレ優勝して取材が終わったら付き合うって約束はどうかな?」
それを聞いて雷堂はぷうと頬を膨らませた。
「なんで?」
記者倫理の話をしてもまだ学生の雷堂にはあまり納得を得られないだろう、と思った真野は機転を効かせた。
「それなら、さらに昂生くんのやる気出るでしょ?ぼくはプレッシャーを克服した格好いい昂生くんと付き合いたいな」
不満丸出しの顔をした雷堂だったが、「約束だよ」という念押しに真野が深く頷くのを見て、渋々同意した。
「じゃあ約束としてキスしとく」
「あ、昂生くん、だめだって……」
真野は避けようとしたが、細身だが筋肉質な雷堂の力には敵わない。いや、真野だって本気で抵抗する気もなかったのかもしれない。もう一度二人は暗い車内の中で不器用なキスを交わした。
真野は雷堂を寮まで車で送ると、彼は名残惜しそうな様子でしぶしぶ車から降りて行った。そのあと何か言いたそうに口を開けたが、雷堂は結局何も言わずに手を振った。
真野が自宅についてスマホを見ると雷堂からメッセージが来ていた。
「寝る前に毎日おやすみって送ってもいい?」と書いてある。
一瞬誰かと間違えて送られてきたのか、と二度見して雷堂からのメッセージであることを確かめる。先ほど言いかけたのはこれだったらしい。真野は思わず微笑んだ。
(……こんなに甘えてくるんだ)
あのツンケンしていた雷堂の初期の様子からは考えられない。真野はスマホを胸に押し付けながら天を仰いで呟く。
(このまま流されたらいつの間にか付き合っちゃいそうで怖いけど……でも)
「ダメって言え……るわけないよなぁ」
迷った末、真野は「いいよ、おやすみ」と返信した。その後も毎日おやすみのメッセージはくる。それが面倒だとも思わず、「かわいいな」と思ってしまう時点で真野もかなり絆されている。
競技場に行って練習に参加すれば、雷堂の態度はこれまでと変わらない。しかし遠くにいても、時々目が合うのがわかる。練習に励む雷堂がずっと真野を見ているわけでもないのに、なぜかタイミングが合うのだ。
二人きりのマッサージのとき、空気は少しだけ甘くなる。この前は真野が雷堂の脚を丁寧に撫でていると、
「真野さん、マッサージうまくなったね。気持ちよくって寝ちゃいそうになる」と雷堂がやわらかい口調で声を掛けてきた。
「寝てもいいよ」
「だめだよ、せっかく真野さんといるのに」
雷堂はより安心感を与えようと、マッサージの手を少しゆっくり動かすようにする。
「ぼくは昂生くんが安心してくれるの嬉しいよ」
真野が言うと雷堂は少しむっとしたようだった。
「安心もしてるけど、でもどきどきもしてる。……だって、真野さんがおれの脚、さわってんだよ?」
真野は動揺して手を止めた。
「へ、変な言い方しないでよ。真面目にマッサージしてるだけだよ?」
雷堂は起き上がって、近づいてきた。
「わかってる。ただのマッサージでも意識しちゃうんだよ。おれ、真野さんのこと好きだから」
「え、っ……」
そんなに何度も告白されると、こちらも心の準備ができていない。戸惑っている間に頬を捕まえられて、キスをされそうになる。真野は慌てて距離を取る。
「キスはだめだって」
「なんで」
「付き合ってないから。ほら、マッサージ途中だよ?」
真野がマットを指さすと、雷堂は「ちぇー」と言いながらも再び寝転ぶ。
この前などは「ねえ、真野さん。脚だけじゃなくてさ、もっと他のところマッサージしてみる?」と雷堂が色っぽく身体をくねらせながら囁やいてくる夢を見て、真野は冷や汗をかいて跳び起きたこともあった。
心臓がばくんばくんと音を立てている。なんて夢を見てしまったんだろう。
起き抜けの頭をぶんぶん振って(昂生くんはそんなこと言わない!)と否定したが、だんだん雷堂の勢いに流されてきているのが夢にも現れているんだろうか。
毎日おやすみの挨拶を送り合って、二人だけの秘密を共有している。
(まだ付き合っていないのに、……付き合ってるみたいだ)
曖昧な関係は居心地が良くて、同時に怖さもある。でも一番怖いのは欲に負けそうな自分だ。真野は一人、ため息をつく。
インカレまではあと一か月だ。優勝して正式に付き合うんだ、という目標を密かに立てた雷堂は気合いを入れているが、気持ちとは裏腹に記録の伸びは良くない。須貝は「焦んなよー」と声をかけ、雷堂は頷いているが休憩も挟むことなく何度も跳躍を続けるその背中には焦りが滲み出ている。雷堂は跳躍の度にタイミングや角度がイメージ通りにはならないらしく、何度も首を傾げている。
真野はいつも通り撮影をしながら練習を観察している。技術的なアドバイスができるわけではないので、見守るしかできない自分がもどかしい。
とうとう須貝から強制的に休憩を取らされた雷堂は肩で息をついている。跳び続けたせいじゃなくて焦っているためだろう。雷堂の背中はいつもより硬く見える。真野がさりげなくそばに寄ると、彼は愚痴をこぼしてきた。
「インカレが近づいてきてるのに全然うまくいかねえ」
「全然ってことはないよ。全く跳べてないわけじゃないし」
なるべくプラスの面にも目を向けて欲しいと言ってみるが、雷堂の顔は晴れない。
「でも、優勝できないとおれには意味がない……だろ?」
「真野さん付き合ってくれないだろ?」という言外の確認に、真野は眉を寄せる。
(優勝しなくても付き合うよって言いたくなっちゃうな……)
二人が悶々とした気持ちで黙っていると、一緒に休憩していた清野が口を挟んだ。
「あのさあ、真野さんてずっと雷堂さんの跳躍を撮影してたんだから、そのデータ見返してみたら?並べて見れば調子良い時と今とのフォームの違いがわかるんじゃないの?」
流石にいつも冷静な清野の視点は客観的だ。
真野と雷堂は思わず目を合わせる。そして二人同時に「それだ!」と声を弾ませた。二人から礼を言われても、清野は冷静な表情のまま「気づかない方がどうかしてる」と呟いている。
大きな画面で確認した方がわかりやすいだろうと、真野は持参したノートパソコンで写真を時系列順にいくつか表示していく。真野と雷堂は額を寄せながら見比べ、その後ろから清野と須貝も画面を覗きこんでいる。
「助走、踏切、空中姿勢のそれぞれの瞬間を見比べやすいように並び直してもらえるか?」
「はい、わかりました」
須貝の提案を受け、真野は画面の表示を調整する。調子の良かったときと現状の助走の姿勢、踏切のフォーム、空中姿勢のバランスが一目で見比べられるようになった。
雷堂は目を見開いて小さく呟いた。
「……今更だけど、よくこんなに撮影してあるな。同じ角度からの撮影も多いから比較しやすいし」
「選手に密着取材するときは、同じ位置、同じ角度からの撮影は必須って叩きこまれてるからね」
真野は嬉しそうに笑う。あまり出さないようにしているのに、ふとした瞬間に二人の間の空気がほころんでしまう。
その空気に気付いているのかわからないが、清野は冷静に写真を見比べながら言った。
「あまり変わったところは見られないかもしれませんね」
雷堂も慌てて顔を引き締めた。
「問題があるとすれば踏切のときだろうなと思ってたけど、変わってるところもなさそうだな……」
「相変わらず空中姿勢は綺麗で、言うことないしなぁ」
須貝も腕を組んで唸っている。
「ぱっと見ただけでわかるような違いじゃないのかも。ほんの少しの違いで……あっもしかして」
真野はあることを思いつき、写真に補助線を入れた。そうすることで踏切の角度がはっきりと確認できるようになる。真野は画面を指さす。
「ねえ、これを見て。調子の良いときの跳躍は踏切角がどれも20度前後なのに、最近の跳躍は22度から23度だよ。ほんの少しだけど角度が高い」
数度の違いなど大した変化ではない、と笑い飛ばされるかもしれないと思ったが、ところが三者とも深く頷いている。
「気が逸って高く跳び出しがちになるってのはありそうな話だ。感覚ではわかりづらいけど、画像だと一目瞭然だな」と須貝は顎をさすりながら納得している。
「23度は高すぎだね。助走のスピードが消されちゃうよ」と清野も額を掻いた。
雷堂はと見ると、口元に手を当てたまま黙っていた。自覚なくフォームが崩れていたことにショックを受けているのだろうか。
声をかけるのも気が引けるので、真野は黙って様子を見守っている。
とうとう雷堂が口を開いた。
「真野さん」
「何?」
「ありがとな……」
隣り合っていた右手を雷堂に握られた。思ってもいなかった反応に真野は息を呑む。
「そんな……」
「たぶん、ずっと……陸上始めたときからおれが大きな大会で力出せてなかったの、これが原因だと思う。高く跳ぶって意識が強くなって踏切のフォームが崩れてたんだ。なんか、やっと……解決の糸口が見つかったっていうか……本当にありがとう」
雷堂は真野の手をぎゅっと握りしめながら、感情を噛みしめるようにぼそぼそとしゃべった。雷堂の心からの感謝に真野の胸も熱くなる。思ってもいなかった場面で、自分の取材が雷堂のパフォーマンスの改善に貢献できたのだ。真野も誇らしさと嬉しさを込めて、雷堂の手の上から自分の左手を重ねた。
「いつも昂生くんのこと見てるから。役立って良かった」
真野が落ち着いた声音で言った一言に雷堂は深く頷いた。
空気を読んだ須貝は清野を連れてその場を一旦、離れて練習に戻る。引っ張られた清野はやや不満そうだ。
「あのまま放っておいていいんですか?」
須貝は鷹揚に笑う。
「ほっとけ。気が済むまで感動させてやれ」
「やっと改善点を掴んだところなんだから、すぐ新しいフォームを試した方が……」
清野は清野で一年先輩の雷堂のことを心配している。今年こそ自己ベストを出して優勝してほしいと願っているのだ。須貝は清野の背中をばしばしと叩きながら言った。
「あいつの長年の悩みだった、大会での不調の原因がやっとわかったんだ。それも自分のことを深く理解してくれる相棒のおかげでさ。今くらい感謝の余韻に浸らせてやれよ。あいつは改善点さえわかれば、試合までにフォームの修正はきっちり仕上げてくるさ」
背中をさすりながら清野が言う。
「雷堂さんのこと、信頼してるんスね」
須貝は空を見上げる。真っ青な空に一直線、飛行機雲が伸びていく。遠く遠く、見えなくなるまで。須貝は言った。
「そうだな、最初に無名のあいつを見つけたのはこの俺だからな」
