真野が中央公園駅で降りると、大勢の人も同時に降りていく。駅構内にも「コーヒー&スイーツフェス」とおしゃれなフォントで描かれたポスターがいくつも貼ってある。そわついた足取りで歩く人波の中で、自分の期待も高まっていくのを感じる。

 待ち合わせ場所にしていた大きな時計塔の下を見ると、雷堂が既に来ていた。そわそわ落ち着かない様子の彼を見つけ、真野は慌てて駆け寄る。

「ごめん、もう来てたんだ」

「いや、……まだ時間になってないし。おれが勝手に早く来てただけで」

 慌てた雷堂は早口で言い訳した。真野はくすっと笑う。雷堂はぶっきらぼうに見えて、わりと感情が読みやすい。

 今日の彼は見慣れたジャージ姿ではなく、黒地に赤、黄、青と派手な色で文様が入ったシャツに、カーゴパンツを合わせている。どちらもサイズがやや大きめだが、それでもバイトのあとに会ったときの私服より、気合が入っているのが伝わってくる。

「昂生くん、今日はなんかおしゃれだね」

 真野が褒めると雷堂は照れくさそうに、足をぷらぷらさせた。足元はいつものスニーカーだ、と真野は少し微笑ましくなる。

「これは兄ちゃんの服です。おれがいつもスポーツウェアばっかり着てるから、ちょっとはマシなの着てけって無理やり押しつけられて。なるべく派手過ぎないのを選んだんだけど」

 照れ隠しなのだろう、雷堂はつっけんどんに説明する。真野が「よく似合ってる」と声を掛けると、嬉しさを隠せないように雷堂は笑った。

「そういえば、前にぼくに貸してくれたのはスポーツブランドの服だったよね?」

「あ、ああ……あれはそうですね、おれがいつも着てるやつです」

 フーディーのことを聞いただけで雷堂の顔は赤くなった。そんなに妙な質問はしていないはずだけどな、と真野は首を捻る。

「じゃあ、行きましょうか」

 雷堂は先に立って歩き始める。真野より少し背は低いが頼りがいのある背中だ。

 二、三歩歩いてから雷堂は振り返った。

「行かないんですか?」

 真野は微笑んでから駆け寄った。

「ごめん、行こう、行こう」


 

 
 野球場ほどの広さはあろうかという広場のぐるりにテントが張られ、大勢の人でごった返していた。人気の店舗には行列もできているみたいだ。雷堂は、真野の食べたいスイーツを聞いてはすぐにその店舗に案内してくれる。雷堂によればスイーツの種類によって相性の良いコーヒーも異なるそうで、解説を聞きながら真野はコーヒーとスイーツを楽しんでいる。執事のように甲斐甲斐しい雷堂の様子を、真野は新鮮な気持ちで眺めていた。

 真野と雷堂はベンチに座って三杯目のコーヒーを飲んでいる。一つずつのカップが小さめに設定されているとは言え、そろそろコーヒーに飽きてきた真野はちびちびと啜っている。一方、既に飲み終えた様子の雷堂は黙ってスマホをいじっている。つまらないのだろうか、と心配になった真野は尋ねた。

「ごめん、ぼくが飲み終えるの待たせちゃってるよね?」

 真野のことばに雷堂ははっとしたように顔を上げた。

「いや、違う。……ちょっとメモしてて」

「メモ?」とスマホを覗き込むと、雷堂は「まだ下書きだけど」と言いながらも真野の方に向けてくれる。そこには店舗の名称、飲んだコーヒーの銘柄、焙煎の方法、味の特徴などについて細かく記載されている。

「コーヒーのデータ?すごく丁寧に記録つけてるんだね」

 真野が大きく眉を上げながら尋ねると、雷堂は「今日だけじゃなくて一応コーヒーを飲んだらノートにまとめてんだけど」とさりげなく説明する。そんなに大したことではないと思っているようだ。

 真野は驚く。

「そうなの?データ帳を作ってるんだ。ってことは、もしかして昂生くんはバリスタを目指してたりするの?」

 雷堂は首を傾げながら答える。真野の質問の意味がよくわからないらしい。

「いや、まだ将来のことは決めてないけど」 

 真野はもう一度尋ねる。

「アルバイトなのに、そんなに熱心にコーヒーのこと勉強してるってこと?」

 雷堂は何でもないことのように説明する。

「仕事は仕事だし。お客さんに聞かれたときにも、ちゃんとコーヒーのことわかるようになってたいから」

 さっきから驚くことばかりだ。アルバイトなのにこんなに真剣に取り組む人間がいるだろうか。真野だって学生アルバイトのときは言われたことだけをこなすだけで、職務内容を向上させるなんてことは考えたこともなかった。

(大学生の仕事に対する意識なんて、その程度だと思ってたけど……)

 真野は雷堂の腕を揺すった。

「昂生くん、それってすごいことだよ。なかなかできないよ」

 前のめりになる真野だが、雷堂はまだ納得できない様子だ。

「真野さんだって記者の仕事、真面目にやってんじゃん」

「やってるけど、それは社会人だからね。アルバイトのときはそんなに真剣にやった記憶ないよ」

 真野の説明に、雷堂は「そんなもんかな」というような顔で顎をさすっている。

 そういえば、雷堂は居酒屋バイトで培った経験で上手に鍋を作っていたし、喫茶店でも器用にラテアートを作っていた。部活もあって短時間しか従事していないアルバイトで、技術を確実に身に着けているのは真摯に仕事に向き合っている証だ。ぶっきらぼうな口調から誤解されやすいが、雷堂は意外と真面目で責任感の強い性質なのだ。真野に対してだって、棒高跳のルールや技術について面倒がらずに教えてくれるようになったのも彼の真面目さの表れだろう。

 以前から棒高跳にひたむきに取り組んでいる雷堂のことを真野は感心していて見ていた。そこにはどこか「よく頑張る良い子だね」という年少者を可愛がるような、上から目線があった。

 しかし雷堂のひたむきさは棒高跳だけに注がれるものではなく、彼が関わるものすべてに注がれていることを知った真野は胸の奥で小さな鈴のような音が鳴るのを感じた。雷堂は年下だが、大人びていて聡明な一面もある。自分は社会人で彼は大学生だからと勝手に兄のような感覚でいたのに、彼だって同じ地表に立つ一人の男性だったのだ。年齢だって五歳しか違わない。胸の奥の音は次第に大きくなり、じわんじわんと身体の中を震わせていく。

 真野は初めて見るような目で雷堂の顔を改めて見つめた。

 いつもより念入りにセットされている髪、鼻筋の通った凛々しい顔立ち。見つめ返してくる瞳は明るい日が射し込んでいるせいか、少し淡い色に見える。そして彼はポールを持たせれば、おそらくこのイベントに来ている人の中で一番空高く、一番美しい弧を描いて跳ぶことができる。

 途端に真野は心臓がどくんどくんと音を立てていることに気付く。

(もしかして、もしかしなくても……昂生くんて、すごく格好いい人なんじゃ)と思った瞬間、ばくんと心臓が跳ねあがった。さっきから身体の内側から鳴り響いていた音は自分の心臓の音だった。真野は息をするのも忘れている。

 しかし、まだ社会に出てもおらず、未来ある大学生に社会人が手を出すわけにもいかないだろう。取材対象と恋愛関係になるなんて記者倫理にも反するし。

 顔を赤くしたり青くしたりしながら考え込む真野に、雷堂が声をかける。

「真野さん、何で黙ってんの?」

 真野は慌てて自分の顔の前で手を振る。

「ごめんごめん。昂生くんが将来どこに就職したとしても、その真面目さがあればどこでも重宝してもらえるよって、未来に思いを馳せてたよ」

 えへへ、と笑ってごまかすと、雷堂はやや気分を損ねたようだった。唇を少し尖らせている。

「その年上感出すの、やめてもらっていいですか。おれだって、もう成人してるんだけど」

 つい先ほど、雷堂は年下男子ではなくて一人の男性なのだ、と本気で実感したこともあって、真野は慌てて弁解する。

「昂生くんのことを年下扱いしてるわけじゃないよ。本気で『すごい人だな』って思ってる」

「じゃあ、おれのこと……ちょっとは尊敬してる?」

 少し瞼をさげながら試すように言った雷堂に、真野は何度も頷いた。

「してるしてる、尊敬してるよ」

 真野がそう言った途端、雷堂はにっかと笑う。雷堂の機嫌はあっという間に良くなった。

「そろそろ暑くなってきたし、冷たいスイーツでもどうですか?」

「そうだね。コーヒーはもう十分だけど、スイーツだけなら……」

 二人で立ち上がると、雷堂は公園の奥の方を指さした。

「テントからは離れるけど、奥には木立もあるんです。そっちなら日差しもマシかも」

 雷堂は真野の空になったコップを自然に受け取り、途中のごみ箱に捨ててくれる。日差しへの気遣いや、真野の好みのスイーツを事前に調べておいてくれたこと、これも彼の真面目さがさせるものなのだろう。

 きっと彼は、好きな人ができれば、全力でその人を大事にする。彼の真摯な眼差しの先にいる人に、自分がなれたら――どんなに幸せだろう。

 真野は自分の隣を歩く雷堂の横顔を見ながら、今の瞬間を噛みしめるように足を踏み出した。
 


 
 
 新緑はいつのまにか色を深めており、夏が始まる。

 雷堂は関東インカレなどの大会や記録会に予定通り出場し、順調に記録を伸ばしてきている。標準記録を突破したため八月の全日本インカレの出場資格も既に獲得済みだ。

 まだ今年は大きな大会に出場していないせいかもしれないが、これまでのように試合中に緊張してしまい実力を発揮できない場面は見られていない。

 雷堂に聞けば、ルーティーンとして跳躍の前に「おれはできる、おれはできる」という真野直伝のメンタルトレーニングを実施しているらしい。雷堂は「真野さんのおかげです」とくすぐったそうな顔で言ったあと、真面目な顔で真野の目を見つめてきた。真野は、可愛くて凛々しい雷堂のことをますます好ましく思うようになっている。

 果たして雷堂はプレッシャーに打ち克つことができるようになったのだろうか。真野は雷堂がいないところで須貝に尋ねてみた。

「真野さんに始終見られて他者の視線に慣れてきたのかもしれないが、まだわからねえな」と須貝も腕を組んでいた。

「やはり、本来の目標である全日本インカレが近づいてこないとメンタルトレーニングが効いているかどうかも判別しがたいってことですよね」

「まあな。でも真野さんが傍にいてくれるようになって、雷堂が調子上げてることは間違いねえから」

 これは真野を持ち上げるために言った須貝のお世辞かもしれない。そう思いながらも真野は

「昂生くんのためにぼくにできることがあれば、なんでもしますから。言ってくださいね!」と言って須貝とがっちり握手を交わした。選手を支えるためのチームだという自覚がいつの間にか真野にも湧いてきたようだ。

 いつものように練習に参加したあと、自宅に帰宅した真野がスマホを確認すると雷堂からの着信があった。珍しい。雷堂とは念のために連絡先を交換したものの、ほぼ毎日練習で顔を合わせているせいか、ほとんどスマホでやりとりすることはないのだ。

 迷うことなく真野はすぐに通話ボタンを押してかけ直す。雷堂はすぐに出た。

「真野さん?」

「昂生くん、何かあった?」

 電話の向こうの雷堂は少しためらっているようだった。返事を待ちながら真野は帰りがけに買ったコンビニ弁当をレンジに入れる。電子音が鳴ってレンジが動き出す。真野は話題を変えた。

「昂生くんはもうご飯食べた?」

「あ、うん。今日はとんかつだった」

「いいなぁ。寮の食事って手作りだよね。羨ましいなぁ」

「真野さんは料理しないの?」

「うん。苦手なんだよね」

「そっか……」

 他愛もない話をしているうちに、レンジがピーっと音を出す。温まったらしい。

「ぼくはこれからコンビニ飯だよ」と弁当とそろそろと取り出しながら真野が言うと、雷堂は「じゃあ……」と電話を切ろうとした。

「待って、まだ用件を聞いてないよ」

 真野は引き留めるが、雷堂は「もう用事は済んだ」とやけにすっきりした声で言う。

「どういうこと?」

「今日の練習後、おれはコーチに呼び出されてたから真野さんのマッサージもしてもらえなかったし、いつもみたいにゆっくり話せなかっただろ?」

「そうだね」

「で、……真野さんともう少し話したいって思ったから電話した。そんだけ。声きけて良かった」

 雷堂の口調は特段甘くはなかった。ただ「話したかっただけ」でそれ以上特別な意味は含まれていないのかもしれない。

 でも雷堂のことばを聞いただけで、真野はぎゅっと心臓をつかまれたような気がする。

(……かわいい)

「昂生くん、ぼくも話せてよかった」真野は心からそう言って笑った。

 電話を切ったあと、真野は思わず小さく笑った。

(なんだよもう、かわいすぎるなぁ……)

 じわじわと込み上げてくる気持ちを持て余すように、ソファから立ち上がり、ふと気づけばベッドに飛び込んでいた。湯気を立てる弁当は後回しだ。

(昂生くん、かわいいな。取材対象であることはわかっているけど、でもやっぱり好きだ)

 頭の中で何度も雷堂の声が響いている。

「もう少し話したいって思ったから電話した、そんだけ」

 雷堂ももしかして同じ気持ちを持ってくれていると期待するのは考えすぎだろうか。でも雷堂のように無駄に愛想をふりまくことのない人間が真野に対してだけ甘えるような様子を見せるのはそれだけ特別な存在だと考えても良いのかもしれない。

 真野はとりとめもなく考え続ける。

(昂生くんがもし恋人になってくれたら……)

 その瞬間真野は恥ずかしさが頂点に達し、枕に顔をつっぷした。  



 

 三週間ほど前、真野は編集長の叱咤激励とともに渾身の筆致で第一回目の記事を書きあげた。その記事が掲載された雑誌が無事発行されたのだ。部活内でも皆読んでくれたようで、朱山からは「真野さんはてっきり雷堂の専属マネージャーに転職したのかと思ってたけど、ちゃんと記者としても仕事してたんだね」と妙なねぎらいを受けた。

 第二回の記事では雷堂の個人的な魅力により迫っていくため、編集長の提案で雷堂の自室での単独インタビューをすることになった。てっきり断られるかと思ったが、雷堂は「おれの部屋?何もないけどそれでいいなら」とすんなり了承してくれた。密着が始まったばかりの頃だったら考えられなかった反応で、感慨深い。

(昂生くんの部屋に二人きりになって、話を聞くなんて……)と真野は考えただけでドキドキしてくるが、記者としての信念を奮い立たせて「これは仕事だ、真面目にやれ」と自分に喝を入れて不埒な考えを追い払う。最近油断するとすぐに雷堂のことを考えてしまう気がする。

 じめじめとした曇天の昼下がり、真野は彼の寮を訪ねた。雷堂は講義の空きコマの時間帯で、インタビュー後にそのまま練習に参加することになっている。時間を伝えていたからか、雷堂は寮の出入り口で出迎えてくれた。寮の管理人に声を掛け、階段を上がって雷堂の部屋に向かう。一階に食堂や浴場が設置されていて、二階部分が居室になっているらしい。

「ここです」と雷堂は薄っぺらい扉を開ける。

 部屋は四畳半ほどの広さで、机と一体になったベッドに部屋の大部分が占領されていた。高架のベッドの下にクローゼットと小さな机が設置されている。綺麗に片づけられていて、ベッドの上の布団でさえもきちんと畳まれていた。

(意外と几帳面なんだな……)と思いながら真野は室内に入る。

「すいません、エアコンがあんまり効かなくて」

 ぶーんと低い音を立てているエアコンは見るからに年代ものだ。たぶんベッドや机と同じく部屋に備え付けのものなのだろう。
 
 それでも来客前に事前に部屋を冷やしておいてくれる雷堂の気遣いを真野は嬉しく思う。コーヒーイベントでも思っていたが、雷堂はぶっきらぼうな態度が目立つが、優しくて気配りのできる人なのだ。

「ううん、そんなに暑くないからだいじょうぶだよ」

 真野が答えると、
「雷堂~、うちわ貸してあげよっか?椅子ももう一つあった方が便利じゃない?」と、隣の部屋から聞き慣れた声がした。間髪を入れずに雷堂は「うるせえから、話に入ってくんなっ」と壁に向かって返事をしたあと、真野がいたことに気付いてばつの悪い顔になった。壁の向こうで「へいへい」とせせら笑っている声も聞こえる。

「すいません。壁も薄くて隣の部屋の会話、ほぼ丸聞こえで」

「隣の部屋、朱山くんなんだ?」

 雷堂は鼻に皺を寄せて頷く。部屋割りには文句があるようだ。

「この寮は陸上部ばっかです。別の部活のやつも数人いるけど、うちの大学は陸上以外しょぼいんで」

 雷堂が勧めてくれたので、真野は机の前の椅子に腰かける。雷堂は机に腰だけ預けて立っている。

 真野はメモをとりながら尋ねる。

「寮住まいだけどさ、昂生くんの実家って遠いの?お兄さんのお店はこの近くだけど」

 雷堂は隣市の名を挙げた。

「正直通おうと思えばいける距離だけど、家が山の中だから駅まで車で三十分かかるんだ。おれ、免許まだないし。兄の店が大学の近くなのは偶々で」

「実家には時々帰ってるの?」

「ああ、まあ。母さんとは兄の店で会ったりとかもするけど」

 真野は途端に職業病が出る。できる限り取材場所や対象を広げるのが記者のセオリーだ。

「御両親の取材ってだめかな。ご実家に伺うのが無理ならお兄さんのお店でお話伺うのでも良いんだけど」

 真野の提案に雷堂はぎょっとした顔をした。そんなに嫌だったのかな……、と真野は若干不安になる。

「おれの両親に真野さんが……会うんですか?」 

「うん。ご両親どちらかでも構わないし、もし可能ならっていう話なんだけど」

 踏み込みすぎただろうか、と真野が遠慮がちに念を押すと、「あー、いや……えっと、うーん」と雷堂には珍しく腕を組んで悩んでいる。

「真野さんを両親に会わせるのはちょっと緊張するな……」

 なぜ?と少し意外に思いながら真野は「緊張するの?」と尋ねる。

「あ、いや……もうちょっと時期が来たら、の方がよくないかな」

「時期?」

「おれと真野さんの関係が、もう少しはっきりしたら……というか」

 雷堂は顎を抑えながらぼそっと答えた。いつもよりも低いその声に真野は雷堂が一人の男であることを改めて自覚する。

(ぼくらの関係がはっきりしたらって、今の記者と選手の関係から変わるかもって意味だろうか?)

 少しだけ胸がそわそわする。

 雷堂の言ったことの意味を図りかねて真野は彼の表情を窺おうと視線を上げた。すると、雷堂も何かの勝負を挑むように、じっとこちらを見ていた。

 目が合った瞬間ばちんと音がしたような気がする。雷堂は初めからこんなに近い距離に立っていただろうか。まるで跳びかかる隙を窺う獣のように、熱を帯びた雷堂の視線を受けとめているだけでなぜか自分も緊張してくる。頬が熱くなってきた気がする。

「そ、そっか……」

 真野は目の前の机に視線を落とした。部屋の中には沈黙が満ちていく。

 先に場を外したのは雷堂の方だった。

「暑いし、冷たい飲み物でも取ってきますね……」と言って部屋を後にした。

 雷堂がいなくなって初めて息がつけるようになった気がする。真野は大きく深呼吸をする。と、改めて他人の部屋だなという匂いがした。雷堂の布団や干してあるユニフォームから漂ってくるんだろう。不快ではないが、妙にどきどきしてくる。

 そもそも二人で過ごすには部屋が狭すぎるのだ。こんな狭い部屋に二人きりでいたら妙な気分になってきてしまう。

 真野は改めてこじんまりとした部屋を見回す。ここで彼は毎晩寝起きしているのだと考えるだけで、寝起きの雷堂、課題をする雷堂、眠たそうな顔でベッドに入る雷堂、などまだ見たことのない雷堂の素の姿が頭の中にぽわぽわと浮かんでくる。かわいいだろうな……、と考えてから真野はぶんぶんと首を振る。

(だめだ、ここには取材するために来たんだから、しっかりしないと)

 少し落ち着いて室内を眺めてみると、机の上にノートが置いてあるのに気づいた。表紙には「陸上ノート」と書いてある。

(日記みたいにその日の跳躍を振り返るためのものかな……取材のために出しておいてくれたのかな)

 好奇心に負けて真野はノートを手に取った。中身を見るのは雷堂が戻ってくるのを待ってから、と頭ではわかっているのに、ついぺらっと表紙をめくってしまう。

 ノートには日にち、天候、練習時間、練習の内容、跳躍のときに気付いたことなどが細かくまとめてあった。日によっては図入りで自分の感覚や解説が書いてあることもある。

(毎日丁寧につけてるんだ……)

 雷堂の跳躍に対する真摯さに改めて感心しながら真野はノートを読み込んでいく。ページをめくっていくと、昨年の夏頃に急に記述が少なくなった。怪我でインカレに欠場した頃だろう。辛い、悔しい、という感情はどこにも記載されていなかった。ただひたすらに良い跳躍をするためのアイディアや、改善点などが記載されていく。真野はぎゅっと心臓を掴まれるような気持ちでいる。

 読み進めているうちに真野はあることに気付いた。

 最初は気のせいかと思っていたが、こう何度も出てくると看過しがたい。

(……須貝コーチに関する記載が多すぎる)

 もちろんコーチであるから、彼が指導した内容を書き留めておくことはおかしくない。しかし、「コーチの髪が短くなった。昨日散髪したらしい。もう少し長めの方がいい」、「コーチはスーパー銭湯が好きらしい。一緒に行きたい」というような記載は明らかに跳躍に関係ないだろう。……ということは。

 真野の中でぼやけていた考えが少しずつその輪郭をはっきりと定めていく。

 その瞬間、ひらりとノートから何かが落ちた。拾い上げてみるとコーチの写真だった。それがわかった瞬間、指先が小さく震えた。

(……やっぱり) 

 自分しか読まないノートに誰かの写真を挟んでおく理由、そんなもの一つしか思いつかない。

 ――昂生くんは須貝コーチのことが好きなのだ、と思い当たった途端、真野の指先からさあっと血の気が引いた。

 目の前がぐるぐる回っている気がする。どうすればいいのかわからない。急に迷路の中に放り出された気分だ。 

 真野は持っていたノートを胸に抱いて何度もまばたきをする。 

「真野さん?開けるよ」と雷堂がノックする。真野は慌てて写真を挟み、ノートを机の上に置いた。 

(……思ってるよりショックかもしれない……)

 部屋に戻ってきた雷堂に何と話しかけていいのかわからない。書いてきたメモを頼りに質問するが、どうにも身が入らない。雷堂の声がただ耳を通り過ぎていく。

「一応コーチの勧めで、大学に入ってから陸上ノートもつけ始めたんだけど」と言って、雷堂はごく平気な顔でノートを真野に見せようとする。

「それは、だめだよっ」

 慌てて真野が表紙を抑えるので、雷堂は怪訝な顔で真野を見た。

「なんで?」 

(そんなの見せちゃだめじゃないか。昂生くんの秘密の恋が書いてあるのに……)

 真野は早口で弁解する。

「それは個人的なノートだよね?プライベートすぎるからやめておこうか。他の質問いいかな?この部屋では何をして過ごすことが多いですか?」

 雷堂は片眉を上げた。

「真野さん、さっきと同じ質問してる。それはもう答えたよ」

 雷堂の指摘に真野は口に手をあてた。

「……ごめん」 

「別にいいけど、真野さん体調でも悪い?なんか今日は変だ」

 雷堂には言葉少なに頭を下げるだけでインタビューを切り上げた。中途半端に終わった取材に怪訝そうな顔をしている雷堂を封じるように、ドアを閉める。自分の感情に振り回されているのはわかっている。記者としてあるまじき失態だ。でもどうしようもなかった。