「さあ、今日はこれが最後の一本だ。試合だと思って力を全部出しきって跳んでみろ」

 夕空の中、須貝が気軽に声をかけてきた。一見冗談のようだが、実はプレッシャーへの耐性練習だ。言わずもがな、雷堂はこの練習が好きではない。この一本にすべての力を込めて跳ぶというのは、そんなにたやすくはないのだ。

 プレッシャーをかけられると、助走のタイミングがずれてしまう。跳躍の角度を失敗することもある。雷堂はこの練習で思い通りの跳躍ができたことがない。

 須貝は励ますように雷堂の背を軽く叩く。

「雷堂はこの練習苦手だからなぁ。気合入れていけよ」

 気合を入れてどうにかなる問題でもないだろう、と鼻の頭に皺を寄せながらも「はい」と返事をする。
 

 一足先に清野は「最後の一回」というプレッシャーをものともせず、いつもと同じく飄々と跳躍していく。清野は飛びぬけて強い選手ではないが、修行僧のような外見からもわかるように精神がいつでも落ち着いていて本来の実力を発揮することができる。そのため降雨や向かい風といった、他の選手が記録を出しにくい不利な条件での試合の方が、上位に食い込みやすい妙な能力の持ち主だ。

 雷堂の順番が回ってくる。ため息をついた雷堂のTシャツを引っ張ったのは真野だった。そのまま内緒話のように口を寄せる。

「自分はできるって三回呟いてから跳んでみて」

 眉唾ものだ、と雷堂は顔をしかめる。

「例のメンタルなんちゃらかよ」

「まあ、やってみてよ。きっとうまくいくから」

 真野が自信を持って断言する。雷堂の跳躍の成功を信じる、その瞳の強さを見て雷堂も心を決めた。

 助走位置につき、高いバーを見据える。これが最後の一本だ、と思うと途端にそわそわしてくる。腹がそわついて、足がむずむずする。この焦燥感のまま跳んだらいつもと同じ、リズムのずれた跳躍になることは目に見えている。

 他に選択肢もなく、雷堂は目を閉じた。

(おれはできる、おれはできる、おれはできる……)

 心の中だけでは頼りなく感じ、軽く口を動かした。ことばと一緒に息が少しずつ身体の外に出ていく。一旦力が抜けた身体は何の抵抗もなく、新鮮な空気を存分に取り込んでいく。身体の中がクリアになる。視界が開けていく。
 準備ができた、と身体の隅々で細胞が応えている気がする。雷堂の目が真野を捉える。彼は少し微笑んで頷いた。

「行きます」

 雷堂はポールを持ち上げる。走り出す。踏切位置を確認して跳ぶ。腕で支える。身体を捻る。

 ぽすん、とマットに落ちた。見上げる。ゴムのバーは揺れていない。

「踏切もバーもだいじょうぶです」

 清野が声を掛けてくる。マットの傍まで来た須貝が感心したように言った。

「満点の跳躍じゃあねえが、プレッシャーかけられた状態でお前には珍しく失敗なく跳べたじゃねえか。今の感じ、覚えておけよ」

「……うス」

 須貝に褒められても実感はまだ湧かない。圧をかけられても落ち着いた気持ちで跳べたのは初めてだ。未だに信じられず夢の中にいるような気分だ。本当におれが跳んだのだろうか。

 マットから降りてポールを取りに行く。ポールを拭いていると、「綺麗なジャンプだったね」と横から真野が声を掛けてくる。

「あ、ああ……」

 これまでこの練習でいつも通りのジャンプができたことはなかったのに。

 真野はいとも簡単にイリュージョンのような魔法をかけてきた。それに気づいた瞬間、まるで真野の何気ないことばの端々にも煌めきが宿っているようにも聞こえ始める。「綺麗なジャンプだったね」という先ほどの真野のことばも何度も頭の中で反響していく。彼が雷堂にとっての新たな道しるべを与えてくれるような気がしてくる。

 動きを止めたままの雷堂の前で真野は手を振った。 

「昂生くん?」

「いや、なんか……まだ信じられないっていうか」

 真野は雷堂の肩を軽く叩いた。

「プレッシャーかけられても、注目を浴びてもいつも通りの綺麗なジャンプできたね。これが昂生くんの本当の実力なんだよ」

 真野が笑顔で断言するが、雷堂は真野のおかげであることを強く自覚している。 

 同じアドバイスを真野ではない別の誰かにされていたらここまで素直に聞けなかったかもしれない。雷堂の実力を一片たりとも疑うことのない瞳で、あの芯のある声音で、それでも押しつけがましくなく「やってみて」と耳元で言われたから、この結果になったのだと雷堂は思う。もし仮に須貝に同じことをされていたら、気恥ずかしくて「うるさいっスよ」とごまかしてしまっただろう。

「雷堂さんって真野さんのアドバイスなら、素直に聞くんですね」とからかうような目をしながら、しかしどこか感心しているような口調で清野が言ってきた。雷堂が余計なことを言うなと反論しようとしたところで「お前ら二人は仲良しなんだもんな。俺はほっとしてるんだぜ、雷堂に陸上選手以外の友人ができたことをさ」と須貝から水を差された。

 ぐっさりと刺さりそうな須貝からのことばに対し、反射的な防御として、つい腹に力を入れてしまった。好きな人に別人との仲を揶揄されるなんて、傷つかないわけがない。

 しかし、思ったほどの鈍痛は響かなかった。拍子抜けした雷堂は内心首を捻りながら言い返した。

「真野さんは友人……じゃないと思いますけど」と言いながらも、雷堂は、真野との関係を正確に言い表すことばを思いつかずにいた。一方の真野は、
「昂生くんみたいな若い子の友人になんて、なれるかなぁ」といつも通り、少しずれたことを言いながら笑っていた。

 須貝は雷堂と真野が親交を深め、良い記事ができることを期待している。「二人は仲良しだもんな」という須貝の発言は文字通りの意味で、二人を揶揄したものではない。

 傷つかなかったのはそのせいだろうか。

 ……そういえば最近、須貝のことを考えながら眠りにつくことは減ったかもしれない。
 



 
 雷堂は自室の机に向かっている。本日の陸上ノートをつけ終わったあと、ベッド脇に片づけておいたリュックからペーパーを取り出した。これは今日の練習後に真野が渡してきたのだ。そこには「真野大地 25才 趣味はスイーツ巡り 特技は書道 苦手な食べ物はゴーヤ」から始まり、どこの高校大学を経て今の雑誌社に入社したのかという経歴や中学高校のときに好きだった遊びや教科などが細かく記載されている。履歴書かというくらい個人情報があふれ出しいて、ここまであけっぴろげに書く奴がいるだろうか、とツッコみたくなる。

 ちなみに履歴書よろしく、右上には無表情の証明写真が張り付けられている。真野は他人の写真を撮るのは得意なのに、撮られる側としてはこんな適当な写真しか用意できないらしい。雷堂は自分でも気づかないうちに頬が緩んでいた。

 真野は手渡してきたとき、
「互酬性の理論だよ。ぼくのことを教えたら、その分昂生くんのことも教えてもらえるかなって。誰にでも教えるわけじゃないよ。昂生くんだから、ぼくのことを知ってほしいってこと」と言って無邪気に笑っていた。

 本人の前では照れくさくてざっと目を通すことしかできなかったので、雷堂は改めて隅から隅まで読んでみる。別に真野に興味があるわけではない。――が、本人が「いつでも質問受け付けてるよ」と言ってきたのだから読まないのも失礼だろう。

 読み進めていくと、スポーツ観戦は元々好きだったから陸上専門誌の担当になれて嬉しかったこと、特技の書道は師範資格を持っていること、など今まで知らなかった真野の一面が明らかになっていく。

 雷堂は練習に付き添ってくれている真野しか見えていなかったが、当然だがそこには一人の人間としての背景が存在するのだ。

(そういえば草野球見ながらアイス食ったとき、あいつも楽しそうだったな……)と雷堂は思い返す。あのときは記者真野大地ではなく、プライベートな姿に一番近かったかもしれない。また一緒にどこかに出かける機会があれば、個人的な話ができるだろうか。

 雷堂は次に、見ないようにしていた質問を改めてじっくりと眺める。そして「交際相手なし 好きなタイプはお互いに尊敬しあえる人」と記載されている欄を指でなぞる。確かにバイト先の喫茶店に来るとき、彼はいつも一人だった。いつから恋人がいないのだろう。自分と同じように全く交際経験がないとは思えない。

(お互いに尊敬しあえる人なんて解釈の幅が広すぎて、なんの参考にもならねえ……)

 寮の薄い壁を通して、隣室の朱山のいびきが聞こえてくる。そろそろ寝ないと明日の練習に響くだろう。 

 真野のペーパーをどこにしまっておこうか悩む。陸上ノートに貼ろうかとも思ったが、A4サイズのペーパーはノートのサイズと合わない。クリアファイルに挟んで机の引き出しにしまっておいた。
 


 
 
 兄の喫茶店はあと一時間で開店だ。東向きの窓から斜めに差し込む太陽光がまだ柔らかいが少し雲が出ていた。雷堂たちは店内の掃除、コーヒー豆の計量とミルの準備など慌ただしく仕事をこなしていく。
 
 兄は新作のダージリンクッキーの生地を練りながら声を掛けてきた。

「昂生、取材は上手くいってるのか?」

 雷堂としては自分が取材している側ではないので、出来不出来はわからない。

「たぶん」

「ぶっきらぼうにしてないで、ちゃんとしゃべらないとだめだぞ」

「わかってるって」

 言葉少なな弟に、兄はため息をついた。

「昂生は誤解されがちだからなぁ。良い記事書いてくださいって、賄賂のケーキでも渡しておけば良かったなぁ。『生意気で態度悪すぎの棒高選手』とか書かれたらどうしよう」

 母ちゃん、泣いちまうぞ、と兄は呟きながらクッキーの型抜きを続けていく。

 雷堂は少しむきになったようだった。

「真野さんはちゃんとおれのこと見てくれてる。この前バイトしてるときも意外とお客さんへの対応が丁寧で安心したって言われたし、陸上以外のおれの様子もよく見てる。もちろん棒高のことも熱心に勉強して質問してくれるし。それに書道もすごく上手いらしい。意外とすごい人なんだよ」

 雷堂のことばに兄は少し驚いたように言った。

「そうかぁ。昂生も真野さんのこと、だいぶ気に入ってるみたいだな。珍しいじゃないか」

「……気に入ってるなんて言ってないけど」

 雷堂の反論に兄はにやにやしながら背中を叩いてきた。粉まみれの手なのでやめてほしい。

 兄はそれ以上何も言うつもりはなさそうなので、今度は雷堂が質問した。

「なあ、兄ちゃん。結婚する前、奥さんのことを最初に好きかもって自覚したのってどんなとき?」

 雷堂の頭の中では真野の話題とつながっている質問である。しかしこの質問で、兄が(そうか、昂生は真野さんが好きなんだな)と勝手に確信したことには気づいていない。

 兄は(陸上にしか興味のなかった昂生が、とうとう恋愛相談か……)と感慨めいた顔で、しかし真面目に答え始める。弟には幸せになってほしいのだ。

「これはあくまでも俺とせっちゃんの話だけど。まだ学生の頃みんなでキャンプに行ったとき、かまどに火が付かなかったんだ。そしたらせっちゃんが火を起こしてくれてさ。ひい婆ちゃんちの風呂が五右衛門風呂で慣れてたんだって。俺が感心したら、せっちゃんが『こんなことなんでもないよ』って笑ったんだよ。その顔がさ、ちょっと照れた感じですごくかわいくて。胸がきゅううっとして、時間が止まったみたいにさ。それが恋を自覚した瞬間だな」

 兄は昔を思い出しているのか、妙に目が潤んでいる。

 雷堂は眉間に皺を寄せながら考える。

 ……そんな瞬間は須貝のときにはなかったな。

「前からいいなと思ってたけど、何かの瞬間に足先から頭の天辺までどぼんと水に沈んじゃうみたいに、好きを自覚する瞬間がきっとあるんだよ。それがよく言う『恋に落ちる』ってことなんじゃないのか?」

 ゴリラのような体格だが、意外とロマンチック思考の兄は滔々と語った。

 雷堂には経験がないのでそういうものか、と思いながら頷いている。兄は優しく囁いた。

「真野さんと素敵な恋ができるといいな?」

 雷堂の頬は一瞬で赤くなった。急に心臓がどくんどくんと音を立て始める。

「お、おれは真野さんが相手だとは言ってないだろ?」

 すべてわかっているつもりの兄にはもう何も詮索する必要がない。反論する雷堂に構うことなく、

「あぁ、せっちゃんのこと話してたら会いたくなっちゃったなぁ。今日は朝から頭痛いって寝てるんだよね。早く店じまいしてせっちゃんの看病しに帰ろうっと」と晃一はさっとタオルで拭いただけの粉だらけの手でスマホを操作し、メッセージを打ち始めた。

 雷堂は兄に構わずに開店の札を下げに行く。




 
 その日の夕方、真野が再び店に訪れた。雷堂に気付くと微笑んでくれる。

「愛想よくするんだぞ。笑顔を忘れずにな」とまだ帰らずにいた兄がセコンド気取りで囁いてくる。兄に肘鉄を喰らわせて、雷堂は真野の注文を取りに行く。

「今日はここで少し原稿を書かせてもらおうと思うんだけど、長居させてもらってもだいじょうぶかな?」

 真野は店内を見渡しながら尋ねる。午後四時を過ぎた店内は空席が目立っている。他の客の迷惑にもならないだろう。雷堂は軽く了承して兄に伝える。

「早めに店じまいしてせっちゃんの看病に行こうと思ってたのに」と兄はぼそぼそと文句を言ってくる。

「おれが閉店作業しておくから、兄ちゃんはもういつあがってもいいよ」

 雷堂がなんでもないことのように言うと、兄は「おれにはわかっているぞ」と言いたげな顔でにやにやした。

「わかった。兄ちゃんに任せとけ。二人きりの時間作ってやるからな」とカウンターを出て真野の座っている席に向かっていく。

 雷堂が止める暇もなく、兄は
「真野さん、実はお願いがあるんですけどね」と話しかけている。先程雷堂から真野が達筆だと聞いたのを覚えていたらしく、あっという間に真野に今月限定メニューのPOP(ポップ)を描いてもらう話になっている。

「いつもは妻に描いてもらうんですけど、生憎体調崩してましてね。達筆の真野さんにお願いできたら、と。今日のお会計はこちらで持ちますし、昂生は助手としてそばに置いておきますので、好きなだけこき使ってやってくださいね」と立て板に水のように話す兄に、初めはきょとんとしていた真野だったが、ついにはお人好しな笑顔で頷いた。兄は「うまくやるんだぞ」と雷堂にウインクをしてから鼻歌混じりで帰っていった。





 原稿を書きながら真野は最後の客を見送ったあと、さっそうと腕まくりをして「さあ、始めようか」と雷堂に声をかけた。見るからに気合が入っている。机の上には兄が用意していったペンや色鉛筆、数種類の紙が置いてある。真野は自分のペンケースから筆ペンを取り出している。
 
 義姉が書いた先月のPOPを確認して「いつもはこんなかわいい感じなんだね……」と頷いてから、下書きだろうかいくつかの案を自分のノートに書き始めた。書くたびに真野は文字の大きさや配置を変えて様子を見ている。

「『ダージリンクッキー』は全部カタカナだし、『今月限定』は全部漢字だからバランスとるのが難しいね……」

 何度か書いて、文字の特徴を掴んだ様子の真野は呟いた。雷堂は言う。

「そんなに真面目に書かなくてもいいって。義姉(ねえ)さんが描いてくれない月は兄ちゃんが適当に描いてるし」

「お義姉さんが描いてくれない月もあるんだ?」

 真野の質問に雷堂は苦笑いして答える。

「あの夫婦はいつも喧嘩してんだ。すぐ仲直りするけどね」

「ふふ、喧嘩するほど仲が良いってことなのかな」

 他愛のない話をしているうちに、真野の前にはたくさんのサンプルが出来上がっている。いろいろな筆致や行数を変化させている。筆文字でこんなにバリエーションをつけて書くことができるのか、と雷堂は密かに舌を巻く。

「昂生くんはどれがいいと思う?」

 軽い調子で尋ねられるが、雷堂は眉を寄せる。雷堂には良し悪しを判断する基準がない。

「ええっと……好みでしかないですけど、これとこれ……ですかね」

 真野の表情を窺いながら二つほど指さすと、真野はなるほどと頷いた。

「少し文字の大きさに変化をつけた方が……」

 一人でぶつぶつ呟きながら考えていたかと思うと、真野は真剣な顔で雷堂を見た。

「昂生くんは閉店作業していて構わないよ。もう少しじっくり考えてみるね」

 雷堂が食器の後片付けや清掃作業、翌日の仕込みを終える間、真野は脇目もふらず作業に没頭していた。同じ空間で会話はしていないのに共に時を過ごしている感じが雷堂には不思議と心地よかった。

 窓の外を見ればいつのまにかしとしとと夜の雨が降り始めていた。雷堂は真野のために新しくコーヒーを淹れ、クッキーを添えて真野の机に置いた。それでも真野は顔を上げない。よほど集中しているようだ。

 集中している真野の横顔はすごく真剣だ。手元を見ると丁寧に文字の縁取りをしている。ただPOPを書いているだけなのにひと彫りひと彫り刻み込んでいく彫刻家のようにも見えた。

(なんでこんなに真剣に取り組んでくれるんだろう……)

 真野の得にはならないのに、頼まれたことには真剣に取り組む。そういう真野の誠実な態度に、雷堂は胸を熱くする。

 香しいコーヒーの香りに気付いたのか、真野が気づいて顔を上げた。集中ではりつめていた顔が雷堂を見た瞬間に一瞬で笑顔になる。

「わざわざ淹れてくれたの?ありがとう」

 墨がついてしまった右手で前髪をかき上げながら朗らかに笑う真野に、雷堂は胸がきゅううとしめつけられる。心臓に突き刺さるような雷鳴が雷堂の身体の中で鳴り響いた。

 慌てて窓の外を見るも穏やかな雨だ。雷が鳴り響く嵐は自分の中にある。
 
 これは――。

 轟きのあとに真野を見ると、なぜか彼のまわりが煌めいて見える。こんなに真野は格好いい男だっただろうか。

 ――これは、兄が言っていたやつだ。

 雷堂は確信した。

「……今、どぼんと落ちたかも」

 思わず口からこぼれ出てしまった。真野が聞き返すように見つめてくるが「なんでもないです」と雷堂はごまかす。

 どうしよう、真野がそばにいるだけなのに、急にどきどきしてきた。今までだって二人で話したことなんてたくさんあるのに。

 真野を見ると胸がつまったようにことばが出てこなくなる。

「あ、これがダージリンクッキー?」

 雷堂はうんうんと頷く。真野はクッキーをかじり、「美味しいね」と笑った。

 真野が書いてくれたPOPはクラフト紙にラフな筆致で大きく「ダージリンクッキー」と書いてある。上部には「今月限定」と細めの文字で書いてあり、星が散らしてあった。文字にはくすみカラーの暖系色が塗ってある。

 クッキーを食べながら真野は再び閃いたらしい。右下にささっとクッキーの絵を書き添えた。少しレトロで力の抜けた、おしゃれな手書きPOPが完成した。

「すごい……ですね。こんな格好いいPOP、この店に並んだことないですよ」

 雷堂は驚いていた。記者なのにデザインセンスまであるのか。心から満足している様子の雷堂を見て、真野はほっとしたようにコーヒーを啜った。

「良かった。お店のPOPなんて初めての経験だったし、緊張したよ」

「真野さん、本当にすごいですよ。字が上手いのは知ってたけど、習字の達筆っぽいのが書けるんだろうって思ってました。こんなにいろんな雰囲気の字が書けるんですね。POPはおしゃれ風の文字でしたけど、達筆の字も見てみたいです」

 雷堂の賛辞に真野は照れくさそうに笑った。

「達筆と言えるかわかんないけど、ちょっと書いてみるね」

 真野は自分のノートに「雷堂昂生」と筆ペンで記載した。とめ、はらいが凛々しく、威風堂々とした文字である。真野の手にかかった途端に、たちまち自分の名前が数段格上げされたような気さえする。

「すごい……」

 雷堂は息を呑む。

「本当の筆ならもうちょっとうまく書けるんだけど」と真野は少し残念そうにしている。

「十分すごいですよ」

 ありがとう、と答えた真野は次の瞬間、名前の横に「流星サマーソルト」と記載した。勢いがあって跳ねるような字体だ。

「流星サマーソルト?」と読み上げながら雷堂は首を傾げる。知らない単語である。

 真野はくすっと笑った。

「密着記事で発表する昂生くんのキャッチフレーズだよ。初めて昂生くんの跳躍を見たとき、流れ星みたいだって思ったんだ。美しい流星のサマーソルト(宙返り)

 雷堂は聞き慣れない単語に少し戸惑う。

「アイドルじゃないんだからさ……」

 尻込みする雷堂を遮って真野は再び言った。

「見て」

 真野は「雷堂昂生」の文字の中、「昂」を指さす。

「この字はさ『日が昇る』って意味だから、棒高跳の選手にぴったりの名前だよね。名前には雷様と太陽、キャッチフレーズには星のお守りがついてる。つまり昂生くんには天が味方してるってことだよ。すごく心強いよね」

 真野は力強く言いきって、同意を求めるように雷堂を見た。

 真野の結論はやや強引だったが、雷堂はふっと笑った。真野があらゆる手を尽くして雷堂に自信をつけさせようとしてくれているのがわかる。

 真野は雷堂の笑いを別の意味にとったらしかった。

「昂生くん本気にしてないね?昂生くんの跳躍は人々の願いを託される流れ星になるんだっていう期待を込めた、夢のあるキャッチフレーズなんだよ」

 真野は握りこぶしを作って力説した。その一生懸命な姿に、つい雷堂はふふっと笑ってしまう。愛おしいってこういう感情だろうか。

「このキャッチフレーズ考えつくのに、ぼくがどれだけ悩んだか知ってる?」

 わかっている。あのPOPを書くのにも真剣に取り組んでいた様子を見れば、真野が自分の仕事にどれだけの責任感を持って取り組んでいるかくらいわかる。それだけの時間とエネルギーを惜しみなく雷堂に注ぎ込んでくれているのだ。純粋な感謝を雷堂はひしひしと感じている。

「わかってる。ありがとうございます。ほらもう遅いし、雨も降ってるから駅まで送っていくよ」

 真野は窓の外と時刻を確認して急に慌てだした。

「こんな時間か。遅くまで付き合わせてごめん。傘さえ貸してもらえれば一人で帰れるよ」
 
 雷堂は気分良く言った。もう少し一緒にいたいから。

「傘は一本しかない。だから送っていく」

(おれはこの人が好きだ……)

 穏やかに降り続く雨音が、雷堂の胸の高鳴りを包みこんでいく。

 



 ほぼ毎日、真野は陸上練習に通ってきている。マネージャーたちも真野のことを戦力だと見做し始めたらしく、用具の片づけやらドリンクの補充やらを気軽に頼んでいく。雷堂は思わず「あの人は仕事しに来てるんだから、こき使うなって」とマネージャー長に忠告してみたのだが、押し出しの強い彼は機嫌を損ねると仕事をしてくれなくなるので雷堂もあまり強気に出られない。真野本人は「だいじょうぶ。練習見させてもらってるんだからなんでもしなくちゃ」と平気な顔をしているものの、慣れない仕事をあまりてきぱきと片づけられていない。
 
 真野がジャグタンクを運ぶのに手間取っているのを見かねて、雷堂は立ち上がった。二人で持ち手を持ち、水場からフィールドに運ぶ。

「ありがとう、二人で持つとだいぶ楽になるね」

 ほっとしたように笑いかけてくる真野を見て、雷堂の胸はきゅん、と妙な音を立てる。やっぱり笑顔がかわいいな、と思ってついつられて笑いそうになるのをこらえている。

「真野さん一人に持たせるなんて」

 己の動揺をごまかすように雷堂は大げさに憤慨している。真野は首を傾げながら言った。

「力があると思われたんじゃないかな、上背はある方だし」

「それにしたって……。そういえば真野さんは毎日練習に来てるけど他の仕事は?」

「なるべく練習時間外に予定を入れるようにしてるから平気だよ。どうしても無理なときは来れない日もあると思うけど、練習って積み重ねが大事でしょ?毎日続けていくことが上達につながる。だからぼくも同じように毎日ここにいたいなって思ってる」

 真野が凛とした声で言いきると、やっぱり素敵だな、と雷堂は考えている。

 真野の考え方、仕事への姿勢が格好いいのだ。

 フィールド内にジャグタンクを設置すると「冷たいお茶だー」と言いながら部員たちが群がる。しかし真野が「待って」と、凛とした声で制した。真野は蛇口を操作して一杯目を注ぐと雷堂に手渡した。

「手伝ってくれた昂生くんが一番最初」

 コップを受けとった雷堂は礼を言う。お茶を飲むだけなのに、優しい顔の真野に見られたままだと緊張する。

「マネージャーの仕事なんて今まで手伝ったことないのにね。珍しいこともあるもんだ」と朱山がぼそっと呟き、同意するように何人かのマネージャーが頷いている。

 これ以上余計なことを言われては困るので、「そろそろ休憩終わりだぞ、種目別に分かれて練習だな」と言いながら真野を棒高跳スペースに連れていく。

 雷堂にさりげなく肩を押されている真野は振り向きざまに尋ねてくる。

「昂生くん、棒高跳の論文でわからないところがあったから聞いてもいいかな?」

「論文まで読んでんの?」

 雷堂が驚くと、真野は真剣な顔で言った。

「うちの雑誌の購読者層はほとんどが陸上関係者だから、専門的な知識も仕入れていかないと」

 雷堂が質問を促したので、真野は説明を始めた。

「跳躍角が低い方が記録が伸びるって書いてあるけど、踏切のときに上方よりも前方に跳んだ方がいいっててことだよね。高さを出したいのになんで低い角度で跳んだ方がいいのかがわかりにくくて」

 雷堂は打てば響くように説明した。

「簡単に言うと、低角度の方が助走を活かせるんだ」

 踏切角というのはどの方向に向かって跳びあがるかという跳躍の方向、つまり角度を意味している。上方に跳び上がれば助走速度を損なう割合が大きく、低い角度で助走速度を活かした方が結果として高い跳躍になるのだ。世界のトップ選手は15度から20度のことが多い。

 雷堂は真野が撮影した写真に書き込みを入れていく。

「おれの場合、跳躍角が20度から22度のことが多い。フォームを修正して、より低い角度にするのが今後の課題だな」

 真野は目を真ん丸にして手を打った。

「すごくわかりやすかったよ、昂生くんありがとう」

 肩を寄せ合って話している二人に、棒高跳の器具の準備をしている清野が「あのう」と声をかけた。

「雷堂さん、手伝ってください。これ以上一人で作業すんのは無理です」

 慌てて雷堂と真野もマットの運搬に加わった。清野は言う。

「雷堂さん、最初は真野さんに説明するの面倒くさそうだったのに、今はすごく親切に教えてるじゃないですか。変われば変わるもんですねぇ」

 朱山といい、清野といい、さっきからなんなんだ、と思いながら雷堂はむっとする。傍から見てわかるほどに自分の態度が変わっているとは思えない。

「おれが親切にしてるのがそんなに珍しいか」

「そうですね。でも短期間でそこまで雷堂さんの態度を変えた真野さんがすごいなって思ってますねー。これまでは須貝コーチの言うことしか聞かなかった猛獣を人間に変えてくれた、みたいな」

 言い返そうと思ったが、真野は「昂生くんが獣だったなんて。そんなことないよねぇ」とくすくす笑っている。その顔を見たら反論する気が失せた雷堂は「さあ、練習するぞ」と清野に声をかける。清野は目をぐるりと回して肩をすくめた。
 




 練習後、いつものように真野はマットを敷いて待っている。ぎこちなかったマッサージも毎日繰り返していると少しずつ様になってきている。当初はマッサージをして即解散していたのだが、今では二人で本日の練習の振り返りをしながらマッサージをする、こののんびりとした時間を雷堂も気に入っている。今日は「返すの遅くなってごめんね」と言ってマッサージ前に真野が袋を渡してきた。中には河川敷で貸した雷堂のフーディーが入っていた。
 
 早速体育座りになった雷堂の足首を真野がゆっくりと回していく。

 雷堂は今日絶対に真野をあるイベントに誘おうと決意していた。まずは真野の機嫌を窺うように先日の話題を持ち出す。

「真野さんが作ってくれたPOPすごく評判良いらしくて、兄も礼を言っていました」

 緊張しているせいか、雷堂は知らず敬語になっている。

「本当?嬉しいな」

 真野は喜んでいる。

「兄が調子に乗ってまた頼んできたら、今度は金取っていいと思う」

「ふふふ、ケーキ一個サービスの方が嬉しいかも」 

「伝えとく。あの、話は変わるけど、真野さんがくれたペーパーについて、ちょっと聞いてもいい?」

 真野は驚いたように手を止めた。

「うん、もちろん」

 雷堂は唾を呑み込んだ。こんなに緊張するなんておかしいのはわかってる。それなのに、ことばがうまく出てこない。

 恥ずかしくて俯きそうになるのをぐっとこらえて、雷堂は真野の目を見ながら尋ねた。

「あの、好きなタイプって『お互いに尊敬しあえる人』って書いてたけど、真野さんが尊敬する人ってどんな人……?」

 真野は微笑みを浮かべた。

「えっと、……自分の信念を持っている人かなぁ。付き合ってからも、お互いの価値観を尊重しあえるといいよね。一緒に生活したりすると、意見が合わないこともあるけど相手の考え方に寄り添うことを諦めないように……」

 やっぱり真野は恋愛経験をそれなりに積んでいるらしいし同棲経験もあるのかも、と雷堂は推し測る。が、不思議と胸が痛むことはなかった。 

「とはいえ、理想と現実は違ったりするよね」

 じっと聞いている雷堂を見て、真野は軽い冗談のように付け加えた。真剣に答えたのが恥ずかしくなったのかもしれない。

「そっか……」

 まだかみしめるように頷いている雷堂を見て、真野はこらえきれなくなったように、あははと笑い出した。雷堂は少しむっとする。からかわれたのだろうか。

「なんかおかしいかよ?」

 真野はすぐに謝罪した。

「ごめん、おかしくないよ。でも、あの紙を渡したとき昂生くんの反応薄かったし、すぐに捨てちゃったんだろうと思ってたから、今更そんな細かい質問してくるなんて。ちゃんと読んでくれてたんだなって思って、嬉しくなっちゃった」

 真野の中で雷堂はそんなに礼儀知らずな人間だと思われている、ということだろうか。これでは尊敬などしてもらえるはずもない。
 誤解をときたくて慌てた雷堂は勢いあまって真野の手を握ってしまう。自分の焦りに雷堂は戸惑いながらも言った。

「捨てるはずない。ちゃんとしまってある」

 真野の手は温かい。雷堂は自分の誠意がふれあう手を伝っていくことを願った。

 真野は手を握られることくらいには慣れているのか、動揺していない。それともやっと野生の獣を手懐けたような嬉しさでも感じているのだろうか。慈愛に満ちた瞳で尋ねてきた。

「ありがとう。他に聞きたいことはある?」 

 ――今だ、絶対に誘おうと決めてきたやつ。

 雷堂は真野の手をぎゅっと握った勢いのまま、口を開いた。

「今週末にコーヒーのイベントがあるんですけど、あの、……一緒に行こ、……きませんか?」

 イベント?と首を傾げる真野に早口で説明する。

「野外フェスみたいにたくさんテントが並んでいろんなコーヒーが売ってて。スイーツもいろんな種類あるから真野さんもきっと楽しいと、……思う」

「うん、行こう」

 真野が笑顔で頷いた。返事を聞いた雷堂はもう座っていられずに、挨拶もそこそこに立ち去った。興奮と喜びで胸がいっぱいだ。爽やかな風が吹き抜けていく気さえする。

 立ち去り際に真野を振り返って見れば親愛の証のように小さく手を振ってくれた。気持ちが通じ合えた気がして雷堂の足取りは自然と軽くなり、気づけばスキップしていた。

 


 
 寮に戻って風呂と夕食を済ませ、自室に戻った雷堂は机の引き出しを開けた。一番上のファイルの中に、真野の個人情報が書かれたペーパー、そして真野が書いてくれた雷堂の名前とキャッチフレーズが書かれた紙が入っている。雷堂は二つの紙を見比べて真野を想う。

 好きな人のことを考えるだけで、くすぐったいような気分になるなんて今まで知らなかった。「交際相手なし 好きなタイプはお互いに尊敬しあえる人」と読み上げて、雷堂はもう一度決意を新たにする。

(おれは真野さんが尊敬できるような人間にならなければいけない)

 そして、「雷堂昂生 流星サマーソルト」と真野の達筆で書いた文字に目を移す。きっとこの字にふさわしい堂々たる選手になれれば、きっと尊敬を勝ち得るに違いない。真野さんに好きになってもらいたい。

 真野からもらった袋を開けて、フーディーを取り出した。広げてみると洗ってくれたらしく、匂いがいつもと違うのでまるで自分の服ではないような気さえする。雷堂は何度か瞬きをしたあと、扉に鍵をかけて窓にカーテンをした。一息ついて雷堂はその服に袖を通した。着用してみると柔軟剤の香りだろうか、より際立って感じられる。気のせいであることはわかっているが、真野がすぐ傍にいるような気がする。

 雷堂は目を閉じてベッドに横になる。どきどきする。肚の中が熱くなってくるのを感じる。鼻から深呼吸する。胸いっぱいに真野の匂いがする。

 真野が好きだと確信すると、突然不安も付きまとってくる。

(……でも試合で結果を出せなかったら?真野さんから呆れられたらどうしよう)

 雷堂は一旦深呼吸をする。不安になったときは真野が教えてくれたメンタルトレーニングだ。

「おれはできる、おれはできる」

 頭の中で何度か唱えてみると、そのたびに少しずつ鼓動が速くなっていく。

 少し自信がでてくるような気がする。

 雷堂は自分の決意も小さな声で呟いてみる。

「おれは真野さんが尊敬できる人になる」

 深呼吸すると、真野の匂いがする。いつのまにか腹部が熱を持っていく。手を当ててみると、前が硬くなっているのがわかった。どうしようもなくて雷堂は下着の中に手を入れ、自分で()()を擦った。息が荒くなっていく。

 熱い、熱い。

 そうだ、何でも言ってみればいい。自分の願いを。

「真野さんはおれのことが好き」

 頭の中に浮かんだことをそのまま呟くと、息がはあはあと出てくる。尿意に似た、放出したい感覚がじわじわと近づいてくる。

「真野さんはおれのことが好き」

 我慢できない……下腹が熱い。もう、出そうだ。

 耐性のない雷堂には堪えようもない。慌てて手のひらで抑えたが、下着にべとっとした液体がついてしまった。

 雷堂は性欲が薄いせいか、めったに自慰をすることはない。久しぶりの刺激に頭はぼんやりとしている。

 雷堂の寮は水回りが共用だ。ため息をついてから雷堂は下着を替えて、部屋の外に出る。乾かないうちに汚れを落としてしまわねば。

 部屋を出たところで朱山とすれ違った。途端に朱山は雷堂の顔を二度見してつかつかと寄ってくる。お節介おばさんのような顔で、人差し指を雷堂の顔に突きつけてきた。

「雷堂、そんな真っ赤な顔して外に出てきちゃだめだよ。目もうつろだし。もう少し落ち着くまで部屋にいとけって」

 朱山の忠告の意味がわからない雷堂は鼻に皺を寄せてつっかかる。

「お前は何が言いたいんだ」

「……ぽやぽやの顔してんじゃねぇよ。抜いたんだろ?部屋戻れって」

 朱山は雷堂の背を押す。「俺ってなんて面倒見の良い男だよ」と言いながら朱山は雷堂を無理やりに部屋に戻らせる。雷堂にはなんのことか事情がわからないでいる。