真野はジャージを着て競技場に現れた。雷堂の所属する御暁山大学は貧乏な私立大学のくせに、大学から徒歩五分以内に公営の陸上競技場があるので、練習場所の確保に困らない。その恩恵に預かり、陸上部だけはある程度の強豪だ。

 アップやダッシュ練習をこなしたあと、ゴム製バーを使用して実際の跳躍練習に移る。須貝コーチは走幅跳(はしりはばとび)走高跳(はしりたかとび)、棒高跳の跳躍チームを順に回って、指導をしていく。競技人口の少ない棒高跳びを専門にしているのは雷堂と一年の清野(せいの)の二人だけだ。選手交互に跳躍をしながら、もう片方はバーの傍に待機して踏切板のどこに足をついたかを確認する役割をしている。

 雷堂が跳んだあと、丸刈りの清野が声を掛けてくる。ほっそりとした体型の清野はまるで修行僧のようにも見える。

「雷堂さん、踏切板越えてました」

「そうだな、助走のときに足がずれた」

「記者さんに見られて緊張してるんじゃないですか」

 清野は自分が後輩だという意識に欠けているのか平気で雷堂を揶揄ってくる。面倒な雷堂はふんっ、と鼻を鳴らすだけだ。清野と一緒にバーの傍で見守っていた真野は、罪のなさそうな顔でにこにこしながら尋ねた。

「そんなことくらいでは緊張しないよね?」

 雷堂はことばに詰まる。誰かにじっと観察されていると意識するだけで、心拍数があがって普段の力が出せないことは自覚している。それに何度も言うが、記者にしては無駄に凛とした真野の視線に捉えられると、まるで自分の心の奥底にある不安まで見透かされたような気分になってしまうのだ。コーチへの不純な気持ちや、整理しきれないプレッシャーを内に隠して、表面的に取り繕っている鎧がぽろぽろと剝がれていきそうだ。

 真野の質問に答えたのは、棒高跳スペースに悠々と歩いてきた須貝だった。

「いや、真野さんに見てもらうだけで、雷堂には良いメンタルトレーニングになってるよな。普段から見られることに慣れておけば、きっと大きな大会でも実力を発揮できるようになるさ」

 はい、と頷くのも癪なので、雷堂は返事代わりに唸っておく。

「昂生くんの跳躍はすごく綺麗だから、大きな大会になると余計にたくさんの人の目を引くのかもしれないね。注目されるプレッシャーさえも自分の力になるように取り込めるようになれるといいよねぇ」

 これだから素人は困る、と雷堂は考える。

「……わかったような口を利かれても」 
 
 雷堂は人見知りで、他者には警戒心が強い。初対面の須貝が大会で声を掛けて彼を引き抜けたのも、雷堂が知っているくらい有名な元棒高跳の選手だったからというのが大きな理由だ。ただの一般人であれば相手にしなかっただろう。
 
 真野はそんな雷堂の性質を知ってか知らずか、彼がそっけない口をきいてもあまり気にした様子は見られなかった。
 
 雷堂は清野と声を掛け合いながら跳躍の練習を続けている。

 一方の真野は須貝と連れ立って、練習を抜けていった。一体何の用事だろうか、と雷堂は怪訝な顔をしている。

「何か企んでますよね、あの記者さん」

 完全に面白がっている声音で、清野が雷堂に耳打ちしてくる。生意気なやつ、と思いながら雷堂は清野を睨む。



 

 午後六時を過ぎると日も暮れてくる。夏期は午後七時まで競技場自体は使用できるが、公費節減のためかライトアップはほとんどされないので、日暮れと共に部員たちは練習を終えていく。

 真野は競技場の管理棟の隅に、マットを敷いて雷堂を待っていた。

「マッサージさせてくれないかな」


 雷堂はその提案をぴしゃりと撥ねつけた。

「素人に触らせられるかよ」

 真野の手から逃れるように後ろに下がった雷堂は壁のようなものにぶつかった。須貝だった。

「もちろん、そうだな。陸上は己の身体のみで零コンマ何秒、数センチ単位の記録に挑んでいく競技だ。よって不用意に自分の身体にさわらせるんじゃねえ、という俺の教えを忠実に守ってるところは誉めてやろう」

 須貝に両肩を後ろからがしっと掴まれる。雷堂を掴まえておくためだが、抱きしめられたかのような錯覚を起こした雷堂は慌てて距離を取る。一瞬で頬が熱くなってしまった。この顔を見られるわけにはいかない。

「じゃ、じゃあ無理ってことで、この話は終了ですね」

 須貝は後ずさりする雷堂の腰を捕まえてから「まあ大人しくしとけ」と言って、軽々とマットに転がした。体格的に不利な雷堂に逃れる術はない。

「真野さんにはさっきまで俺が付きっきりで指導したから」

 雷堂は眉をしかめた。

「二人きりで?真野さんに直接さわって指導したんスか」

 気分を損ねた雷堂の文句を須貝は笑い飛ばした。

「他にどうやって教えんだよ。俺仕込みだから真野さんはもう素人じゃねえぞ」

「そ、そんな屁理屈……」

 まだ雷堂は反論しようとするが、須貝は犬にするようにわしゃわしゃと頭を撫でながら彼の目を見た。

「正確にはマッサージでもなくてただ筋繊維に沿って撫でるだけだ。劇的な効果は出ないが筋肉を傷めることもない。でも毎日やれば筋疲労からの回復は早くなる。記者さんと親交を深めるのも良い記事のためには必要なことだ。お前に不利なことは何も起こらねえよ。な?それくらい辛抱できるだろ?」

 須貝は雷堂の密着記事に期待しており、真野に頭を下げていたことも雷堂は既に知っている。須貝が少し真剣な表情を見せたので、雷堂はふと視線を逸らした。

 観念しましたと息をついて靴を脱ぎ、うつぶせになる。教え子が言うことを聞いたので、須貝は機嫌良く競技場から去って行った。

 残された真野は「気を付けてさわるからね」と落ち着いて声をかける。雷堂が頷いたのを確認してから彼の脚にゆっくりとふれていく。足首を軽く回してから足首から膝に向かって撫でていく。ふくらはぎにふれたとき、真野は思わす大きな声を上げた。

「わぁ、やわらかい。須貝コーチの言っていた通りだね。本当に焼き立てのパンみたいにふわふわだ。かぶりつきたくなっちゃうね」

「……やるなよ」

「やらないよぉ」と、真野は柔らかく笑ったが、いまいち真野の笑顔の真意がまだ見通せない雷堂は警戒したままだ。急にマッサージを提案してきたり、一体何を考えているのか考えが読めない。

(かぶりつきたいとか……本気じゃないよな?)

 真野はまだゆるゆるとしゃべりながら、雷堂の筋肉を撫でている。

「脱力しているときはこんなにふわふわで、でも力を込めた瞬間一気に硬くなるんでしょ?」

「うん、まあ……ふっ」

 右脚だけ力を入れてやると雷堂のふくらはぎの中にリンゴが詰められたみたいに硬く盛り上がった。真野は思わず目を丸くする。引き締まった形の良い筋肉に目を引きつけられてしまう。

「う、……わぁ、硬いね、しかもこの筋……」

 真野は筋肉の盛り上がった部分を人差し指でなぞっていく。

「っ……や、めろ……って、くすぐったいんだよ」

 雷堂は横に転がって真野の指から逃げた。

「昂生くん、もしかしてくすぐったがり?かわいいところ、あるんだね」  

 揶揄ってくる真野に雷堂は慌てる。自分でも頬が赤くなるのがわかる。

「お前が……っ、あんな変なさわり方するから……だろ!?」

「ちゃんとやったはずなんだけどなぁ」

「変なさわりかたしただろっ」

 雷堂はマットの上で体育座りになった。真野は無理にマッサージを続けようとはせず、雷堂の隣に腰を寄せた。

「ちょっとリラックスしてもらったところで丁度良かった。今日撮った写真を確認してもらえるかな?」

 真野は雷堂にカメラのディスプレイを見せてきた。

「別に何を撮っても構わないって……」 

「一応了承もらわないと」と言いながら、真野は写真を次々に見せていく。

 一瞬を切り取られた自分の姿が映る。ポールを抱えたままバーを見つめるバストアップ、飛び上がる瞬間の全身ショット、もちろん逆U字型を描いた全身が宙に浮いている躍動感にあふれたショットもある。どの写真にも煌めきが宿っている。こんな写真は今までに見たことがない。雷堂は写っているのが自分だと信じられない気持ちで尋ねた。

「これが……おれ?」

 真野は雷堂の驚きに満足しているようだった。どうやら写真の腕には自信があるらしい。

「ぼくの腕も良いんだけど、でもこんなに美しく撮れたのはきみの跳躍がそれだけ美しかったってこと」

 雷堂はなにかを言いかけて、口を閉じた。胸の奥が誰かに掴まれたようにきゅっとなる。

 跳んでいる自分の姿がこれほどまでに美しく切り取られた瞬間を雷堂は初めて目の当たりにしたのだ。一瞬しか空中に描かれないその身体の美が、真野のカメラによって確かにそこに存在するものとして証明された。

 雷堂の鼓動は速くなっている。真野は熱意を込めたまなざしで雷堂に訴えた。 

「昂生くんの跳躍、すっごく綺麗だよ。昂生くんの強くて美しい跳躍をみんなに見てもらいたいって、ぼくは心から思ってるから取材をしてるんだ」

「でもお前がおれを選んだわけじゃなくて、誰か偉いやつに指示されて来ただけだろ?」

 雷堂の質問に真野は悪気なく笑った。

「上司の指示には逆らえないよね。でも初めて昂生くんの跳躍を見たとき、衝撃を受けてこれは絶対に広く伝えるべき選手だと確信したのも本当。実を言うとね、ぼくは先月に陸上競技雑誌に異動してきたばかりで密着取材は初めてなんだ。だから気合も入ってる」

 真野の視線はまっすぐで、ことばには真意が込められていた。あの素晴らしい写真を見せられたこともあり、雷堂は少し真野への見方を改めても良いのかと思いながらも、まだへの字口で生返事をしている。

「ふーん」

「陸上競技のことはまだ素人だけど、須貝コーチからもいろいろ教えてもらってるし」

 真野がポケットから取り出した小さなノートには事細かくメモが書かれていた。こんなメモを取っていたとは雷堂は気づいていなかった。メモを書き、写真も撮り、その上で練習を見ていた真野はさぞ忙しかったことだろう。雷堂が覗き込むと「跳躍は下半身と体幹が基礎。特に棒高は上半身の筋力も重要」などと書いてある。これは練習中に須貝がしゃべっていた内容だろう。

「須貝コーチは時々テキトーなこと言ってるから鵜呑みにしない方がいい」

 練習中にこまめにメモを取っている真野の姿を想像して、からかうように雷堂が言うと「そうなんだ」と真野は目を丸くしてから
「須貝コーチは時々適当なことを言うから注意」と書き込んだ。

 そんなことメモするなよ、と言おうとした雷堂だったが、そのメモの字の綺麗さに目を留めた。手早いメモ書きなのに字形がまったく崩れていない。

「お前の字、綺麗だな……」

「え?」

 雷堂が呟いたことばに真野が振り向いた。その振り向いた瞬間の顔が……綺麗で、雷堂は思わず息を呑んだ。

 動きを止めたままの雷堂に、真野は不思議な顔をしている。

「昂生くん、何か言った?」

 真野が雷堂の顔を覗きこむようにするので、雷堂は彼の肩を押しやった。雷堂には自分がなぜこんなに動揺しているのか理解ができない。

「違う、あの……字!字が、綺麗だなって。お前が熱心に取材してるってことは、ちょっと信じてやってもいいっていうだけだっ」

 雷堂の歩み寄るようなことばに、真野は彼の両手を握って感謝の意を示した。

「ぼくは昂生くんの足は引っ張らないって約束するし、昂生くんの密着記事、絶対良いものにするから!世界中の注目を引き付けるような昂生くんの記事を書いてみせるっ」

「お前の雑誌、世界で読めんの?」

「ふふふ、日本語版しかない」と真野は笑っている。

 とぼけたような反応で無邪気に笑う、その顔はずるい。だんだん逆らうのも面倒になってきた雷堂はもう一度マットに寝転んだ。

「マッサージ、してもいい」 


 


 日曜日は大会や記録会が入らなければ部活はオフだ。居酒屋バイトを辞めてから雷堂はオフの日曜日に限り、兄夫婦が営む喫茶店でアルバイトを始めた。雷堂がシフトに入ると、義姉が外で羽を伸ばせるので感謝されている。

 軽食も提供しているため週末になると昼食時はやや混雑する。客足が落ちついた午後二時半過ぎ、カランコロンというベルの音と共に店の扉を開けたのは真野だった。

「いらっしゃいませー」と雷堂と兄は揃えて声を掛ける。

 一人です、と言いかけたのだろうか、真野は人差し指を上げたポーズのまま動きを止めていた。予想よりも驚いているようなので、雷堂は心の中でにやりとしながら「お好きな席にどうぞ」と案内した。

(やっぱりそのうち、来るだろうと思ってたんだよな)

 この喫茶店が以前グルメ雑誌に掲載されたとき、担当記者が真野だった。真野は店を気に入り、その後もたびたび来店してくれていて、雷堂が接客したこともあったのだ。

 いつもはテーブル席につく真野だが、今日は店員と話すつもりなのかカウンターを選んだ。その間も「なんで?昂生くんが?この店でバイト?前からいたっけ?」と真野は質問攻めにしてくる。真野を落ち着かせるように椅子を引いて座らせてから、事情を説明した。

「お兄さん?珍しい苗字だし、もしかして親戚かなとは思ったけど……店長さんが昂生くんのお兄さんだったの?」

 真野は目を丸くしている。真野との関係で初めて優位になれた気がする雷堂は気分が良い。

 真野はまだ状況を把握できていないようで、珍しく早口になりながらしゃべっている。

「前にも昂生くんが接客してくれたことがあったの?ちゃんと顔見たら覚えてたと思うんだけど、ぼーっとしてたのかなぁ。この店は原稿書きあがったときのご褒美として来ることが多かったし」

 たしかに真野が来店するときはいつも疲れた顔をしていた、と雷堂は思い返す。

 真野は「それにしても」とことばを続ける。

「競技場で初めて会ったときに教えてくれても良かったのに。なんで今まで黙ってたの?」

 つんと唇を尖らせて抗議する真野のことを一瞬だけかわいいなと思った。それでも自分だけが真野のことを覚えていて癪だった、と説明する気にはなれず、雷堂は「別にいいだろ」とごまかした。

「たびたびご来店ありがとうございます。今は昂生に取材してくれてるみたいで、そちらも感謝しています」

 兄の晃一(こういち)がカウンターを隔てて挨拶をした。

 真野は兄に「お久しぶりです」と挨拶を返す。真野は改めて雷堂と兄の顔を見比べた。

「昂生くんが弟さんだったなんて、びっくりしました。けど、あまり……似てない、ですよね?」

 兄の晃一は雷堂よりも10㎝ほど背が高く、肩幅も広く、目鼻立ちも濃い。対して雷堂は一回り線が細く、細筆で描いたような顔立ちだ。晃一を一撃必殺の鉈に例えるなら、雷堂は細身のナイフで、薄いながらも油断のならない鋭さを秘めていた。 

「俺は父親似で、昂生は母親似なんですよ」と兄は説明する。

「お兄さんも棒高をやられてたんでしたっけ?」と真野が尋ねると「そうなんですよ」と晃一は前のめりで頷いた。

 そこから雷堂の棒高跳びの特徴、跳躍の美しさ、今まで試合で結果を出しきれていない無念さなどを本人以上に熱く語り出した。

「俺はパワーで跳ぶ系だったので、昂生みたいに天性のバネに恵まれた選手がすごく羨ましかったですよ。もう俺の現役時代の記録も軽々と抜かれちゃいましたけどね。去年は怪我に泣きましたけど、今年こそはインカレ優勝しますよぉ!」と兄はまるで自分のことのように胸を張った。

「はいはい、もうわかったから」と雷堂は兄の身体の向きを強引に変えて、流し台に向かわせた。大柄な兄だが、雷堂のされるがままになっている。

「昂生くん、お兄さんからも期待されてるんだね」

 真野がさぐるような目をすると、雷堂は宙を見上げた。

「あいつはうざい……」

「自慢の弟なんだよ」

「知るか」

 真野が注文したのはチーズケーキとカフェラテだった。薫り高いエスプレッソに小鍋で温めたスチームドミルクを少しずつ注ぎ込んでいく。雷堂はシダ植物の葉のような模様のラテアートを描いていく。真野は手慣れた雷堂の手つきを、身を乗り出して食い入るように見つめてくる。正直、悪い気はしなかった。兄手製のチーズケーキと共に提供する。

「昂生くん、ラテアートすごいね」

「大したことない」

 真野の誉めことばを流すようにした雷堂に、真野は真面目な顔で言った。

「……ぼくにはできないよ。教えてもらっても無理だと思う」

 少しだけ顎を傾けて(そうなのか……?)と考えている雷堂に、真野は付け加えた。

「昂生くんは、棒高跳だってラテアートだってすごいのに、自分に自信がなさすぎるよ。メンタルトレーニングでも自己肯定感を上げるのが大事って言うでしょ?」

「メンタルトレーニング?」

「ぼくはスポーツ苦手だし、まだ棒高跳にも詳しくないけど、スポーツ観戦は好きで戦略や心理戦について調べたことがあるんだ。自信を持つためには、実力を卑下しちゃだめなんだ。口に出すことばは自己暗示にもなるから『自分には実力がある』って言い続けていればいつかそれが現実になる」

「……うーん」

 スポーツ選手でもない真野からの話はいまいち信用できない雷堂は唸っている。真野は確信を込めて断言した。 

「本当だよ。ぼくは記者だからわかる。ことばには力が宿ってるんだよ」

 真野はまっすぐに見つめてくる。信念が込められた眼差しの強さに雷堂は思わず頷かされてしまう。

(こいつにじっと見つめられると、なんだか反論しにくいんだよな……)

 真野はあっという間にケーキとカフェラテを平らげてしまった。真野に早く帰ってほしい気持ちと、もう少しここにいて話をしてほしい気持ちがせめぎあっている雷堂は、皿を片付けながらつい声をかけてしまった。 

「甘いもの好きなんだな」

 もちろん、真野は雷堂のことばを逃すはずもない。

「そうなんだよ。ぼく、陸上雑誌に来る前はグルメ雑誌の担当だったんだ。昂生くんはどんなスイーツが好き?」

「甘すぎるのはちょっと、でもまあ、フルーツ系なら……」

「美味しいジェラートのお店があるよ。この近くだし、バイトのあと一緒に行かない?」

 雷堂は眉をしかめる。

「お前さっきケーキ食っただろ?」

「甘いものは別腹だって言うでしょ?ほら、一緒に行こうよ」
 さっきのケーキが入っている場所は別腹ではないのか、と雷堂は思うが、真野には若干天然な発言が多いことには慣れてきた。

「行くわけないだろ、おれはバイト中だ」と断ったのだが、話を聞かれていたらしい兄には「昂生、早めに上がっていいぞ」と逃げ道を塞がれてしまった。雷堂はため息をついてからエプロンを外す。断ろうと思えばいくらでも理由をつけられるが、実のところそれほど面倒な気持ちでもなかった。






 真野が紹介してくれた店はジェラート専門店で、色とりどりのフルーツのジェラートケースがディスプレイされていた。雷堂はほんのりとした薄桃色が爽やかなピーチ味を選んでテイクアウトする。 
 紙カップ入りのジェラートを手に持って、河川敷の土手に座った。少し離れたところで、少年野球チームが試合をしている。

 雷堂は小さなスプーンでジェラートを口に運ぶ。舌の上で柔らかく溶けていく冷たさは爽やかだった。一瞬あとに甘い香りが鼻から抜けていく。

 満足そうな雷堂の顔を見て、真野は「美味しいでしょ?」と雷堂以上に満足気な顔をしている。

「まだ何にも言ってねーけど」

「そのくらい顔見ればわかるよ。最近のぼくはいっつも昂生くんのこと、見てるんだから」

 力強く言いきった真野に、雷堂の胸は知らずに疼く。もちろん取材のことを言っているのだとわかってはいるが、妙に落ち着かない気持ちになる。

「昂生くんは甘すぎるものは苦手だけど、果物は好き。特に好きなのは桃なんだね」と独り言を言いながら、真野はメモをとっている。

「そこまでメモする必要ないだろ」

 雷堂はそんなに重要な情報ではないだろうと指摘しただけのつもりだったが、真野は若干すまなさそうな顔になった。

「そっか、ごめん。昂生くんのこと、たくさん知りたくて書いちゃった。ストーカーみたいで気持ち悪かった?」

「いや、気持ち悪くはないけどさ……」

 雷堂が一旦ことばを切ると、真野は少しだけ眉毛を上げて続きを促してきた。普段なら口にしないような、まだぼやけた感情であっても、なぜか真野には「聞いてほしい」と思ってことばを続けてしまう。

 雷堂は呟いた。 

「真野さんのこと、おれは全然知らないんだけどな」

 真野はぱっと顔を上げた。その手があったか、とでも言うようにいきいきと雷堂の顔を覗きこんできた。

「そっかー、それはそうだ。昂生くんの秘密に迫るためには、まずはぼくも自己開示しなきゃね。ここは互酬性の理論だよ」

 また、難しいことをしゃべり始めたぞこいつは、と雷堂は警戒する。メンタルトレーニングだの互酬性だの、真野の頭の中には百科事典でも入っているのだろうか。陸上仲間と話すのとはかなり異なる会話のテンポ感である。

 ぴんときていない雷堂に、真野は丁寧に説明をする。

「ぼくが自分の秘密を昂生くんに話す。と、昂生くんはぼくに借りができるから、その借りを返すためには自分の同じくらいの価値の秘密をしゃべってくれる。お互いに貸し借りがないように与え合うっていう理論。モースの贈与論では情報じゃなくて、物品で説明されてたけど」

 雷堂には真野の説明が正しいのかどうかもよくわからないので、そんなものかと思うだけだ。

「そういうのって、本に書いてあるのか?」

「一応これでも記者だしね。本はよく読むよ。贈与論は大学のときに聞きかじった受け売りだけどね。昂生くんは経済学部でしょ?専攻はまだ?」

 真野から贈与論の話を聞いたせいだろうか、雷堂は知らず口を開いていた。

「おれは、……ただ須貝コーチに誘われてこの大学に棒高をしにきただけなんだ。必要な単位がとれればそれでいいと思ってあまり講義も真面目に聞いてない」
「単位は足りてる?」
 
 真野の尋ね方がお兄さんぶっているのが雷堂にとっては癪に障る。子ども扱いしやがって。

「……まぁ今のところは」

 雷堂は鼻に皺を寄せて答えてからジェラートを口に入れた。その清涼感ある甘さで苦みがほぐれる。

 カキンと乾いた金属音がする。赤いユニフォームのチームが大きなヒットを打ったみたいだ。見るともなしに雷堂はボールを追う少年たちを見つめている。

 真野は優しい声音で言った。

「川沿いでアイス食べながら少年野球見て、単位足りないかもーとか話してて、こうして見ると昂生くんもただの大学生みたいだね。実はポールさえあれば、あの川沿いの並木よりも高い位置にあるバーを跳んじゃう人なんだとは思えないよね」

「おれだって棒高ばっかりしてるわけじゃないし」と口では言ったものの、雷堂にとっても陸上選手ではない、ただの雷堂昂生として誰かと時間を共にすることは新鮮な経験だった。

「少し冷えたかも」

 真野は夕暮れの河を渡る風に身を縮めている。六月も近づいては来たが、日が傾くと気温はぐっと下がってくる。

「調子に乗ってダブルなんか食うからだ」と言いながらも、雷堂は自分のフーディーを脱いで真野に掛けてやった。

「だめだよ、昂生くんが風邪ひいちゃったらぼくは記者失格じゃないか」

「おれは走って帰るから。お前は走れないだろ」

 雷堂の鼓動はまだ走る前なのに少し速くなっている。その理由はまだ自分でもわからなかった。