記録会での雷堂の記録は5M20だった。シーズン初めの記録会なので自己ベストには届かないが雷堂本人も想定内ではある。これから徐々に調子を上げていけば問題はない。いつも練習で使っている競技場での記録会だったせいか、緊張は少なかった。

 競技を終えてテントに戻る途中の雷堂に、須貝コーチが声をかけた。彼の後ろには記者の腕章をつけた若い男性が控えている。

「雷堂、これからお前を密着取材してくれる記者の真野大地(だいち)さんだ」

「はぁ?聞いてませんけど」

 雷堂の鼻の付け根に皺が寄る。これは気に食わないときの彼のくせだ。彼の対応に慣れている須貝(すがい)は笑ってごまかす。

「そうだな、言うの忘れてた」

「須貝コーチはいっつも大事なことをおれに黙っておくの、やめてください」

「すまんすまん、忘れっぽいんだ。お前を軽んじてるわけじゃないさ」

 家族をとりなすような気安い謝罪だったが、雷堂は諦めに似た表情で腕を組む。

 雷堂の目が真野を捉えた。社会人にしてはややルーズな長めの髪だが、端正な顔だちのせいか清潔感がある。背は雷堂よりもやや高く姿勢が良かった。

 雷堂は何かを思い出すように目を細める。

(こいつ、どこかで……)

 雷堂は記憶を辿ろうとしたが、須貝が話を続けたので思い出す前に話は流れてしまう。

「これからインカレ優勝までの軌跡を真野さんが記事にしてくれるんだってよ。始終見張られてたら、プレッシャーに弱いお前の弱点克服にもなんだろ?」

「見張るなんて、そんな物騒なことしません。そばに付き添って、昂生くんを応援させてもらうだけですよ」

 真野は須貝の発言を温厚な微笑と共に修正する。柔らかい物腰で真野は片手を差し出しながら言った。

「今日初めて昂生くんの跳躍を見て、本当に綺麗でびっくりしちゃった。改めてぼくは決意したよ。良い記事を書いて昂生くんの跳躍の魅力を大勢の人に伝えなきゃ。きみはきっともっと有名になるべき選手だ」

 真野は初対面だというのに雷堂を下の名前で呼んできた。仕事柄、既に調べていたにしても、距離感が近すぎないか。記者にしては顔が良すぎることもあって、雷堂は得体の知れなさを感じた。

 警戒を解かない雷堂は値踏みするような目で握手を交わす。真野の手は柔らかかかった。

「昂生くんの手、マメがあるんだね。ポールを握ってるせい?」

 即座に尋ねてくる、その目敏さは記者としては優秀なのだろうが、これからずっとこの男が傍にいるのは面倒そうだな、と雷堂は考える。須貝コーチのせいで厄介ごとをしょい込んでしまった気がしてならない。





 記録会後の跳躍チームの打ち上げは、決まって須貝の義実家の居酒屋にて行われる。部員たちのほとんどは寮住まいだが、週末は食事提供がないため、ここでの家庭料理が試合で疲弊した彼らの貴重な栄養源となっている。こじんまりとした店内の奥にある座敷に跳躍チーム一同が通された。

「雷堂くん、材料並べておくから鍋に入れてってもらえる?」

 雑然と込み合っている店内で、須貝の妻、素子(もとこ)から気さくに頼まれる。手際よく鍋の下準備をこなしていく雷堂を、同年の朱山(あけやま)が「いつもの鍋奉行がお出ましでーす」と冷やかす。彼は円盤投(えんばんなげ)の選手だが「タダ飯あるところには朱山あり」で、いつも素知らぬ顔で別チームの打ち上げに参加してくるのだ。少し上を向いた鼻がお調子者の証だ。

「個人競技の陸上選手のチームワークは同じ釜の飯を食うことで補っていかなきゃな」という須貝の昭和がかった考え方により、打ち上げでは季節に関わらずいつも鍋が提供される。

 鍋奉行と揶揄される雷堂は名前の通りに忙しなく働き、野菜の火の通りや灰汁にも心を砕いて鍋が完成した。

「昂生くん、手際がいいね」と真野が驚いたように目を見張ると、耳聡く聞いていた朱山が
「率先して料理するタイプには見えないもんね」と失礼な相槌を打つ。

「前にここでバイトしてたんですよ、もう辞めたけど」

 雷堂はぶっきらぼうに説明をする。

「へぇ、コーチのご実家でバイト……かぁ。それってコーチに頼まれたからとか?」と真野はすかさず尋ねたが、丁度飲み物が運ばれてきて有耶無耶になり、雷堂はそのまま何も答えなかった。

 雷堂がせっせと拵えた鍋を我先につつくのは朱山だ。大量の肉を一気にかっさらい、後輩たちからブーイングを受けている。面の皮の厚い朱山は平気な顔で「上手いタダ飯最高だぜ」と言いながら湯気を立てる具材を口に入れていく。

 須貝が「おいおい、俺の奥さんの店だから美味しいんだろうが」と軽口を叩くと、朱山も素直に「素子さんのおかげで美味しいお鍋食べられてまーす」と応じている。この二人は気性が似ているのだ。

 場が盛り上がる中、須貝は真野にビールを注ぐ。雷堂を含め二十歳を超える部員も多くいるが、選手には酒を吞ませないのが須貝のモットーなので、一緒に呑む相手ができてほくほくしている。雷堂は「また話が長くなりそうだ」と思いながらも黙っている。なんだかんだ言って選手に愛情深い須貝の話を聞くのは嫌ではない。

 須貝は隣にいる雷堂の頭に手を載せて、愛情を込めて軽く叩きながらしゃべり始める。

「この雷堂はさ、俺の秘蔵っ子なんだ。高三の関東大会で見つけてきたんだ。一目見た瞬間、俺の理想がここにいるって確信してな」

 真野も相槌を打つ。

「昂生くんの跳躍、綺麗ですもんね」

「こいつの筋肉は柔らかいんだよ。質が良い筋肉は力を入れていないときは焼き立てのパンみたいにふわふわなんだ、こんな風に」と言いながら、須貝は雷堂の二の腕をふにふにとさわる。

 雷堂は戸惑いながら腕を引こうするが、須貝に「褒めてんだから」と言われるとふてくされたような顔でじっとしている。

 雷堂は一体どんな表情をすればいいのかわからない。いつまでもさわっていてほしいような、でもやめてほしいような、むずむずする気持ちが胸の中でざわめいている。

 そんな雷堂の様子を見た真野は「昂生くんも須貝コーチには逆らえないんだね?」とにこにこしながら声をかける。

 雷堂はむっとした顔で言い返してきた。

「別にそんなことない、スけど」

「ほら、真野さんもさわってみろ」と須貝は声をかけるが、真野が手を伸ばす前に「もう終わりです」と雷堂は腕を引いた。

 酔いが回ってきた須貝は過去の出会いに耽っているようだ。

「試合が終わってすぐに『頼む、お前の面倒を見させてくれっ』って、土下座する勢いでスカウトしにいったんだ」

「初めはただの変質者かと思ったんですけど、よく見たら元全日本記録保持者の須貝選手だったから驚きました」

「インターハイでもさぞ活躍してくれるだろと思って観戦しにいったのに、こいつ緊張しすぎてファールしまくってな。去年のインカレも怪我で欠場しちまったし、今年こそ俺と一緒に全国獲るんだもんな!なぁ、雷堂!」

 いつのまにか須貝は雷堂の首に腕を回し、頬と頬を近づけるようにしながら同意を求めている。

「はぁ……まあ、そうですね」

 まるで頬ずりされるような距離に須貝の顔がある。彼の息からアルコールの匂いがする。

 須貝が雷堂に示しているのは教え子としての愛情と関心であることは自覚している。教え子として大事にされているというだけで満足しているはずなのに、時々こんな風に無自覚にさわられるのはたまらない。驚くくらい大きな音を立てて鳴る自分の心臓に気付かれまいと、雷堂は須貝の腕からすり抜ける。

 すっと距離をとった雷堂を見て、須貝は豪快に笑った。

「雷堂はクールなんだよ。のわりに、プレッシャーに弱いのがかわいいところだよな」

「コーチがすごく昂生くんをかわいがってるの、わかりました。せっかくの秘蔵っ子ですし、ぼくも気合入れて取材に励みますね」

 真野は両手で握りこぶしを作って力を込めた発声をしている。できるだけ関わりたくない雷堂は席を替わろうとするが「まぁだ、話は終わってないぞ」と須貝に服の裾を掴まれて引きとどめられる。 

 須貝は、教え子雷堂の自慢話を散々しゃべりながらいつのまにか酔いつぶれてしまい、座布団を枕に寝てしまった。一方の真野は涼しい顔のまま杯を重ねている。

「こんなところで寝てしまって風邪ひいちゃわないかな?」

 真野はいびきをかく須貝を見やりながら、雷堂に話しかけてきた。

「いつものことなんで」と雷堂は応じながら、押し入れを開け、そこにあった掛布を須貝に掛けてやる。その手慣れた様子と優しい手つきを真野はじっと観察している。

 視線に気づいたのか雷堂が顔を上げたところで、真野は話題を変えた。

「来週から練習に密着させてもらうね。須貝コーチからはたくさん教えてもらったけど、跳躍の美しさの秘密、昂生くん本人からもいろいろ教えてもらえると嬉しいな」

 余裕のありそうな微笑みを浮かべてこちらを見る真野に、雷堂は少し戸惑った。

「別に秘密なんかねーし。ただ高く跳びたいと思って跳んでるだけだ」

「それでもあんなに綺麗に跳ぶ人、ぼくは初めて見たよ。誰にでもできることじゃないって」

「んなこと言っても……。ことばで説明できるようなもんでもないし」

 雷堂にとってはその身体の柔軟さ、空中での姿勢保持を可能にする筋力、生来のバランス感覚もすべて跳躍のために磨き抜いてきたものであって、別に隠すことでもなんでもないというのが本音である。ただ彼にはそれをことばにする言語能力が乏しいのと、会ったばかりの記者に説明してやるほどの義理もまだ感じておらず、真野には真意は伝わらなかった。

 とりつく島もない雷堂の態度だったが、真野のにこにこ顔は変わらない。取材相手に邪険にされることは慣れているのかもしれない。

「なんで笑ってんだよ」

 宣戦布告のように感じられる微笑みが不気味だ。雷堂は睨みながら尋ねた。

「ふふふ、別に」

「気味悪いな」

 雷堂は烏龍茶をぐいと飲み干す。

 会がお開きになっても須貝はまだ熟睡していた。打ち上げ途中で須貝が眠ってしまうのはよくあることだが、ここまで眠りが深いのは珍しい。

「ったく、コーチははしゃぎすぎだろ」と呆れたような顔で雷堂は言うが、本心ではそこまで呆れているわけではない。

 真野は「あのね、昂生くん」と秘密話でもするように声を潜めた。

「実は数日前に電話で初めて須貝コーチと話したときにね、昂生くんの取材をよろしく頼みますって誠心誠意お願いされちゃったんだ。だからたぶん、今日ぼくが来て、昂生くんの密着取材が始まったってことが嬉しかったんじゃないかな」

「え……」

 それは雷堂も予想もしていなかった。自分が思っているよりも、須貝は雷堂の記事を待ち望んでいるようだ。

「良い記事にしないとね、昂生くん」

 真野のにっこりとした顔を見ていると、もしかして既に彼の罠にはまってしまったのかもしれない、という予感がした。




 
 真野も「また明日」と朗らかに笑って、他の部員と共に店を去って行った。雷堂は一人残って、眠ったままの須貝に肩を貸し、店に隣接する義実家に運んでやる。半分寝たまま歩くのは須貝の得意技だ。

「ありがとうね、雷堂くん」

 隣に付き添う素子が礼を言ってくれる。

「いや、素子さんに力仕事させるわけにいかないですし」

 雷堂は須貝を担ぎながら、彼女の腹部をちらりと見た。エプロンで隠されてはいるが、その腹部はやわらかい曲線を描いている。雷堂は自分を揺るがす感情に呑み込まれないよう、さりげなく目を背けた。

「うちの親にも聞かせてやりたいわ~。妊婦なのにこき使ってくれるんだからさぁ」

 素子は愚痴るがそれほど深刻な声音ではない。家族経営の店でバイトしていた雷堂は彼女の家族の仲の良さを知っている。彼女の出産を皆が心待ちにしていることは間違いない。

「大変な時期におれもバイト辞めてすいません」

「そんな、雷堂くんが謝ることじゃないって~」

「競技中心の朝方生活に切り替えるため」という説明で、雷堂は数か月前に居酒屋バイトを辞めた。しかし本当は素子の妊娠がきっかけだった。須貝から愛された証を身に宿した彼女は、腹が膨らむたびに須貝からの愛を確信していくのだろう。赤子の父親になる男を想い続けているわけにもいかないと、気持ちに区切りをつけたのだ。

 今日は実家に泊めるから、ソファに寝かしてくれればいいと素子に言われ、雷堂は慎重に彼を下ろした。

「おーい、素子。そこにいるんだろ?」

 まだほとんど眠ったままの状態で須貝が宙に手を伸ばす。素子はその手を握ってやりながら「はいはい、お水持ってくるから待っててね」と声を掛けるが、須貝はその手を手繰り寄せて自分の胸に素子の頭を抱いた。須貝の顔は安心と至福に満ちていて、確かな愛情で二人がつながっていることがわかる。と同時に、自分には決してその感情を向けてはもらえないという事実が雷堂の胸に深く刺さる。

「水はいらねえから、しばらくここにいてくれよぉ」

 呂律もあやしいまま甘えてくる夫を素子は苦笑いする。

「やだもう、雷堂くんの前なのに。恥ずかしいなぁ、酔っ払いは困るね」

 最後の一言は雷堂に向けてのことばだった。

 雷堂は「そうですね。お邪魔のようですから失礼します」とそっけない声で返事をして早足で歩き去った。少し不自然だったかもしれない。

 雷堂の内には羨望と嫉妬を練り込んだ苦い飴玉に諦念の粉をまぶしたような気持ちがある。無理やり呑み込んでしまうしかないのだろうか、と飴玉を口に含んだま雷堂は途方に暮れる。賑やかな店内を通り抜けながら雷堂は自分の内側が冷えていくのを感じている。
 
 


 
 寮に戻った雷堂は自室の机にノートを広げた。今日の振りかえりをするためだ。

 大学入学後からつけ始めた「陸上ノート」はその日の練習内容や身体の調子、練習テーマや意識したフォームなど書き込んでいく、いわば陸上日記だ。一年以上書き溜めた結果、分厚いノートのページも残り少なくなった。

 今日の天候、記録を機械的に書いたあと、ペンが進まない。頭の中に先ほどの須貝が奥さんに甘えている様子が浮かんできて、どことなくもやもやするせいだ。須貝には気持ちを告げるつもりもないし、気づいてほしくもない。もう吹っ切ろうと思っているはずなのに。

 雷堂はノートを一旦閉じてから表紙を開く。最初のページには、「須貝コーチに勧められて書くことにする。コーチには身体の柔軟さとバネがお前の武器だと言われたので、そこを磨いていきたい。大学在籍中の目標は5M55㎝」と書いてある。

 そしてページの間に挟まれているのは須貝コーチの写真だ。朱山が「陸上部のインスタに#イケメンコーチってタグつけて上げるからさ」と軽口を叩いて撮影したもので、ポールを片手で持った須貝は日に焼けた顔で笑っている。少し長めの髪を一つにくくって、無精ひげをはやした彼は、どっしりとした体格もあって元投擲(とうてき)(やり投げや円盤投などの物を投げる競技)選手と間違われることも多い。それでも大きな体躯を悠然と使ってダイナミックな跳躍を行うジャンパーだったのだ。

(今は熊みたいだけどな)と思いながら雷堂は写真を見る。これはインスタの写真をこっそり印刷した代物だ。このノートには須貝からの指導は漏らさず書いているし、踏切りの角度を示した図解の横に小さく「今日須貝コーチは髪を切ってきていた」などと書いてある日もある。

雷堂は自分の書いた字をさわりながら心の中で呟いた。

(ずっと須貝コーチのことが好きだった……)

 高校のときはプレッシャーに弱いせいで、試合で実力が発揮できなかった。高校の顧問からは叱責されるばかりでお荷物扱いをされていた。そんな雷堂に「こんなに理想的な跳躍は初めて見た。どうか大学では俺に面倒を見させてほしい」と人好きのする顔で須貝が頼み込んできたのが高三の関東大会だった。

 その後出場したインターハイで「記録なし」になってしまったときも、「やっぱりお前はだめだな」と吐き捨てるように顧問が言ってきたのに対して、「この経験が絶対お前を強くするから」と励ましてくれたのが須貝だった。御暁山大学の入学式では、慣れないスーツで整列していたところを須貝に見つけられ即座に「やっと来たな。俺とお前で日本一になるんだぞ」と肩を抱かれた。雷堂にとって、家族以外で初めて自分のことを心から信頼してくれた大人だった。

 夏合宿の朝練では、寝ぐせがついたままの須貝コーチにこそっと呼ばれ「朝食前で力が出ないだろ」とバナナを手渡された。寝起きの須貝は少し目が腫れぼったくて、朝はこんな顔してるのかと思いながら、雷堂は須貝の広い背中に隠れてもそもそとバナナを食べた。さっさと食べきろうと、もぐもぐ懸命に口を動かす雷堂を見て、「猿みたいじゃないか」といたずらっ子みたいに須貝は笑った。その顔で笑いかけてくれるのがおれだけにだったらいいのに、と胸の奥がちりりと痛んだ。

 出会ったとき既に須貝は妻帯者であったし、人を好きになること自体が初めての雷堂は彼と交際する想像でさえ困難だった。須貝にふれられるとどうしようもなく胸が高鳴り、その部分は火傷したのかというくらい熱くなった。「足をこう振りだすんだ」と須貝は指導のために雷堂の脚を持ち上げているだけなのに、雷堂にとっては違う意味を持った。

 須貝が入り浸っている義実家でバイトも始めたが、奥さんの素子さんはさっぱりとした良い人で、嫌いにはなれなかった。須貝と素子さんの仲睦ましげな様子を見て、胸は疼くが何もできなかった。

 去年の全日本インカレを目前にした練習日、「ほどほどにしとけ」と須貝から止められていたにも関わらず、調子が思うように上がっていなかった雷堂は追い込み練習を行ってしまった。集中が切れた跳躍をしたせいで雷堂は足の指を骨折し、インカレへの出場は叶わなかった。

 病院の診察室を出た途端、「大事なときに怪我させちまったよなぁ。お前が焦ってたのは知ってたのに。縄で括りつけてでも俺が止めるべきだった」と須貝はぼろぼろと涙を流した。あまりにも泣くものだから、雷堂本人が思わず須貝の肩を撫でたくらいだ。雷堂にとっては大会に出られないことより、コーチの期待と信頼に応えられなかったことの方が辛かった。須貝は「ごめんな、ごめんな」と謝りながら、雷堂に腕を伸ばして抱きしめた。雷堂は人形のように抵抗することなく彼の腕の中にすっぽりと入った。須貝の腕の中は温かかった。そんな気分でも状況でもないのに、心の一部分だけが切り離されたように高揚してしまうのが自分でも嫌だった。たぶん一番好きだったのはこの頃だ。

 そして去年のクリスマス、須貝の義実家のバイトから帰宅するとき
「クリスマスなのに彼女とデートしないのか」と須貝にからかわれた。そう言う須貝だって義実家で手伝いをしているくせに。

 胸が疼くことに気付かないふりをして雷堂は言った。

「棒高ばっかりでそんなのいないの、知ってるじゃないですか」 

「へへへ、じゃあサンタはお前のところには来ないのか、かわいそうにな」

「コーチにだって来ないでしょ」

 雷堂の指摘に、須貝は意味ありげににやにやとした。

「お前には言っておこうかな」

 こんな顔をしている須貝はきっと良からぬことを企んでいる。雷堂は仕方なく尋ねる。

「何ですか」

 須貝は()()()()とした顔のまま、恥ずかしそうに鼻の下を擦りながら言った。

「実は、うちの素子に赤ん坊ができたんだ」

 もくもくとした白い息と共に出た須貝のことばは氷の矢のように雷堂の胸に突き刺さった。

 息を吸い込んで、意識的にゆっくりと吐き出した。だいじょうぶ、平静な声が出せるはず。

「……良かったですね」

 須貝は照れくさそうに頭を掻いた。

「まあ、待ちに待った子宝ってやつだからな。来年はあいつの出産で少しばたばたするかもしれないが、おれにとってはお前のインカレ優勝が最優先事項だから安心しろよ」

 雷堂の頭を撫でようとした須貝の手を避ける。須貝は少し驚いた顔をしている。いい気味だ。自分が拒否されるとは思っていなかったに違いない。

 雷堂は再び息を吸い込む。空気の冷たさがやけに身に染みた。

「だいじょうぶですよ。素子さんの方が大事に決まってるじゃないですか。おれは一人でもやれますから」

 何の希望もない気持ちにはケリをつける頃だと思って、雷堂はバイトを辞めた。今となっては須貝への気持ちが恋だったのかどうかもわからない。信頼と敬愛の入り混じったただの勘違いだったのかも。

 もう一度雷堂は須貝の写真を見つめてため息をつく。

(お気楽な顔しやがって……)

 写真をぐじゃぐじゃに丸めて捨てられたらいいのに、それもできない自分に一番腹が立つ。