それは、遼が小学六年生の時だった。ちょうど冬休みで、遼は都会に住んでいる親戚の家に遊びに来ていた。その日は沢山お小遣いをもらい、心を弾ませながら自転車を走らせていた。田舎に比べ、都会には欲しいものが何でも揃っている。何を買おう。そう考えただけで遼の胸は膨らみ、一層ペダルを踏む力も増した。
 ふと空を見上げると、飛行機が飛んでいるのが見えた。青いキャンバスに白線を描くみたいに、どこまでも一直線に伸びていく。その迷いのない真っ直ぐな線が、とても美しく見えて思わず目で追った。
 途端――体全身にビリビリとした衝撃が走り、視界がぐるりと回転した。カーブに差しかかっていたことに気付かなかった遼は、自転車ごと縁石ブロックに引っ掛かり、反動で体が投げ出されたのだ。遼は落下した衝撃で頭を打ち付けてしまい、そのまま気を失った。
 その後、たまたま通りかかった車の運転手が出血して倒れている遼を見つけ、遼はすぐさま救急車で運ばれたのだった。沢山の検査を受けた結果、脳の異常も見つからず頭に数針縫うほどにとどまったのは不幸中の幸いだった。
 しかし、遼にとっては、とても幸いだなんて思えなかった。事故で瞼に怪我を負っていた遼は、入院中、ずっと真っ暗な世界の中で過ごすことを強いられていたのだ。
 医者にも親からも大丈夫だと伝えられていたが、それでも、小学生の遼にとって毎日暗闇の中で過ごす恐怖は耐えがたいものだった。もし、このまま目が見えなくなってしまったら――そんな不安な気持ちがぐるぐると遼の心の中に渦巻いていた。
 そんな時に出会ったのが真澄だったのだ。
 母親に手を引かれて入った病院の一室。そこは多目的ホールとして使用されていた場所だった。
「母さんが、僕を元気づけようとそこに連れて行ってくれたんだ。その日、その場所ではボランティアの朗読会が開かれていたんだよ」
 真澄は目を見開いた。
「ちょうど次のプログラムが始まるところだった。正直、その時の僕は不安でいっぱいいっぱいで、朗読を聞く気になんてならなかった。だけど、その第一声を耳にした瞬間、そんなことを忘れるくらい、僕は一気に心を奪われた」
 朗読席に座る一人の少年。ハードカバーで装丁された正方形の本を開くと、少年は穏やかな口調で、清らかなその声を部屋一面に届けた。
 それは遼にとって、凍えるような冬の寒さを、瞬時に暖かな春へと一変させたような、衝撃的な出会いだった。
「僕はその時、目に包帯を巻いていたから、その子の顔を見ることは出来なかった。どこの誰なのかも分からない。でも、僕はその子のことが忘れられなかった。もう一度会いたくて、もう一度その声が聞きたくて、あの日からずっと探していたんだ。そしてあの日、あの本屋で僕は出会った。忘れるはずもない、透き通るような綺麗で澄んだ声。僕はずっと君を探していたんだ、真澄くん」
 遼は真澄を真っ直ぐに見つめ、切なくも愛おしそうに笑みを浮かべた。
「あんまり綺麗な声だから、てっきり女の子だとばかり思っていたけどね。そりゃいくら探してもその『女の子』は見つけられないわけだよ。真澄くんと話をして、男の人だと知った時は驚いたけど、そんなの関係ない。僕はもう一度、君に出会えてとても嬉しかった。……とても嬉しくて、そして、欲が出てしまったんだ」
 遼は視線を落とすと、ぎゅっと目をつむった。声が、わずかに震えていた。
「ずっと、傍でこの声を聞いていたい、独り占めしたいって思ってしまった。それで、酷い近眼ということを口実に真澄くんをここに留めさせた。結局、僕がやっていたことは、傲慢なわがままで真澄くんを騙して拘束しているのと同じことだったんだ。そう思ったら、段々苦しくなってきて、僕は……」
「遼くん……」
 俯いたまま手を震わせる遼に、真澄が静かに声をかけた。
「事情は分かったよ。確かにコンタクトのことを隠されていたのはショックだった。けど、遼くんは一つ勘違いしてる。俺は拘束されてるなんて、そんなこと一度も思ったことないよ。そもそも眼鏡を壊したのは俺の責任だし、今までのことも、何か遼くんの手助けになればと思ってやったことなんだ。だから……」
「何も違わないよ!僕は真澄くんの良心につけ込んで君を利用したんだ!自分の私利私欲のために!」
「でも、遼くんはあのとき一度断ってた。それを押しのけてお願いしたのは俺の方だろ?遼くんが罪悪感を抱くことなんて一つもないよ」
「じゃあ何で友達の誘いを断るの!?僕が居るからでしょ!?僕の手がかからなければ真澄くんはもっと自由に好きなことができるのに、僕がドジでマヌケでノロマなせいで真澄くんは自由を奪われてるじゃないか!」
「何だよ、それ……。大体、遼くんは何でそんなに卑屈なの!?いっつも謝ってばかりだし顔も前髪で隠してるし、俺はもっと目を見て話したいのに、そうやって隠されてると壁作られてるみたいで距離を感じるんだよ!」
「ならいっそこのままこの依頼を終わらせればいい!もう僕のことは放っといてよ!何でこんな取柄もない僕に構うんだよ!」
「あーもう!このわからず屋!」
 真澄は身を乗り出すと両手で遼の胸ぐらを掴み勢いよく引き寄せた。
「そんなの!遼くんと居る時間が誰よりも何よりも楽しいからに決まってるだろ!」
「……へ?」
「自由を奪われてる!?拘束されてる!?勝手に決めつけんな!俺はそんな気持ちで一緒に居たんじゃない!俺は自分で選択して自分の意思で遼くんの傍に居るんだ!」
 乱れた前髪から、遼の見開いた漆黒の瞳が覗く。
「確かに遼くんは、おっちょこちょいだし、ぼんやりしてるし、うっかりしてて失敗もめちゃくちゃするし不得意なこと沢山あるけど!」
 グサグサと刺さる言葉に、遼は思わず短い呻き声を発した。
「だけどっ、俺は遼くんの素直な言葉が大好きなんだ!裏表のない真っ直ぐなその言葉が、遼くんの傍に居たいって俺に思わせたんだ!俺の心動かしちゃったんだよ!それは遼くんにしか出来ない凄い所なんだよ!」
 遼の瞳に閃光のような光がいくつも瞬く。
 ずっとダメな自分が嫌いだった。何をやっても上手くいかない、欠点だらけの自分が恥ずかしくて怖かった。良い所なんて何もない。遼はいつもそう思っていた――けれど。
 ――俺は遼くんの素直な言葉が大好きなんだ!
 そんなふうに言われるなんて、思いもしなかったのだ。たった一つでも、好きだと、凄いと言ってもらえるものが、自分にもちゃんとある。遼はかすかに震える唇をぎゅっと噛みしめた。真澄の言葉が、遼の胸に深く深く響き渡っていく。
「……い」
「は?何!?」
「ぐ……ぐるじい……まずみぐん……」
 天を仰いで手をわなわなと震わせている遼の姿。真澄は「あっ」と声を漏らし、慌てて両手を離した。真澄は座り直すと、首元をさすっている遼を窺いつつ、咳ばらいを一つして続けた。
「……それに、俺は遼くんのおかげで自分の声質のこと、ちょっとずつ受け入れられるようになったんだ」
「え?どういうこと……?」
 そう問いかける遼に、真澄は少し困った顔で微笑を浮かべた。
「本当は俺、自分のこの声が嫌いだったんだよ。昔、冷やかしの言葉を受けて、それからずっと。でも、思い出したんだ。小さい頃、ばあちゃんが俺に言ってくれたこと。俺の声は綺麗な澄んだ声をしてる。神様が俺の為だけにくれたものなんだって。同じことを遼くんに言われた時は驚いたよ」
 真澄は姿勢を改めると真っ直ぐ遼を見据えた。
「だから、好きだって言ってくれたこの声で、俺はもう一度、遼くんの支えになりたいんだ。もう一度、遼くんの目になりたい。眼鏡が届く日まで、この依頼を、この生活をまだ続けさせてほしいんだ……!」
 しかし、そう言葉にした真澄の目元がわずかに伏せられた。コンタクトがあるということは、もう真澄が傍にいる必要がないということだ。用済みなのは真澄自身も分かっていた。わざわざコンタクトの使用を控えて、この生活を続けてほしいだなんて、そんなお願い断られるのが普通だ。
 しかし、遼からの返事が返って来ない。おずおすと視線を戻すと、真澄はその光景に肩を跳ねらせた。彼の目から滝のように涙が流れていたのだ。
「えっ!?遼くん、何で泣いて……!」
 遼はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、次から次へと溢れる涙を拭っていた。全く予想もしていなかった、真澄からの思いがけない言葉。緊張の糸が緩んだように、我慢していたものが涙になってこぼれていく。
「だって、僕……真澄くんに酷いことしたと思ってたから……絶対嫌われると思ってて……」
「そんな、嫌うわけないだろ」
 真澄は手を伸ばし遼の前髪を優しくかき上げた。涙で艶めく睫毛。潤んだ瞳が露わになる。親指を添え、瞼を優しく撫で上げた。
「ごめんね、真澄くん。僕いつもこんなんで、自分に自信がなくて……」
「もぉーまた謝る。そうじゃないでしょ。それに、さっきの返事、俺まだ聞いてないんだけど?」
 遼はその美しい瞳をふわりと緩ませ、喜びを頬に浮かべて言った。
「うん、ありがとう真澄くん。引き続き、お願いします!」
 その愛くるしくも端麗な笑顔に、真澄も花を咲かせたように声にした。
「こちらこそ!」