春休み中の大学は、授業は無いが事務局や図書館は解放されている。今日は借りていた本を返却するため、二人は春休みの大学へと足を運んでいた。本は返却BOXへ投函するだけなので遼の用事はこれで終わりだ。
 ふと、真澄が館内をじっと見つめているのに気付いた。どうやら彼も借りたい本があったらしい。それを察した遼は、真澄の肩を軽く叩いて微笑みかけた。けれど、館内までついて行くのはさすがに悪い気がした。遼は入り口前のベンチを指して「ここで待ってる」と告げると、館内に入っていく真澄の後ろ姿を静かに見送った。
 空を仰ぎ、「はぁ」と息を吐く。冬の冷たい風が遼の頬を撫ぜた。先ほどまで繋いでいた右手には、ほのかに温もりが残っている。消えてしまうのが名残惜しくて、遼はコートのポケットにそっと右手を仕舞った。
 入学してからこの二年間、連絡を取り合うような友人はおろか、高校の友人とも、もう連絡を取っていない。人と関わるのはもうやめにしよう――遼は大学入学とともに、そう心に決めていた。何のしがらみも生まれない一人のほうがラクだと、そう思ったからだ。
 けれど、彼は違う。真澄は積極的に人と関わり、自分の力で輪を広げていく。自然と、そういうことができる。彼は彼の世界をいくつも持っているのだ。遼は流れる薄い雲を眺めながら考えに耽った。
 何よりも、今、一番強く感じていること――それは、自分が真澄の自由を奪っているということ。
 遼は唇をぎゅっと引き結んだ。
 自分の勝手なわがままで彼を縛り付けてはいけない。エゴを押し付けてはいけない。遼は繰り返し自分にそう言い聞かせた。
 思わず、ポケットに仕舞った手に力が入る。
 その時、後ろから名前を呼ぶ声と共に缶コーヒーが視界に入った。
「はい」
「あ……真澄くん」
「寒いのに待たせちゃったから」
「えっそんな、いいのに!ごめん払うよ、いくら!?」
 立ち上がって財布を取り出そうとした――その時、地面に小高い音がいくつも弾いた。バラバラと散らばっていく小銭。どうやら財布のチャックが全開だったらしい。慌てた遼はその拍子に財布もろとも地面へ落としてしまった。
「あっ、ご、ごめん!」
 咄嗟に屈むが、小銭は小さく、ぼやけた視界ではどこに何があるのかよく見えない。
「あー、いいよ遼くん。コート汚れちゃうし俺が拾うから」
「ごめん……」
 何もできない。そんな自分に不甲斐なさを感じ、遼は奥歯を噛みしめた。
「……ごめん、真澄くん」
「遼くんってさ、よく、ごめんって謝るよね。それ癖?」
 一つ一つ、散らばった小銭を拾い上げながら真澄が問いかけた。
「あ……えっと、……うん。ご、ごめん……」
「そっかぁ。癖って中々直らないよなぁ」
 真澄は小銭を全て拾うと、遼へ向き直った。
「癖を直せとは言わないけどさ、俺は謝られるよりも、ありがとうって言われる方が嬉しいな」
 小銭を財布へ戻すと、真澄は遼の手にそっと触れた。手のひらへ戻された財布と、重ねられた真澄の手。温かい温度がふわりと伝わる。
 遮る視界がじわじわと滲む。遼はぎゅっと唇を結んだ。胸の奥がズキズキと脈打つ。彼の善意を利用して自由を奪っておきながら――そんな自分に、感謝を言う資格なんてあるはずがない。
 握っていた財布に力がこもる。
「真澄くん、僕は――!」
「おーい真澄―!」
 途端、真澄を呼ぶ声が空気を遮った。
 真澄は思わずそちらへ振り向く。彼の友人なのだろう。数人、手を振りながら歩いて来るのがわかった。
「真澄も来てたんだ!なあなあ聞いてよ!って……何か邪魔した?」
 顔を背けて俯く遼の姿。その様子に真澄も心配そうに視線を送った。しかし、彼らの前で話を続けるのも気が咎められ、真澄は友人の方へ向き直ると話を聞き返した。
「あー……と、何?」
「このあいだ言ってたライブのチケット、姉貴のツテでゲットできたんよ!」
「えっ、マジで!?」
「マジマジ!二枚あるから真澄の席もあるぞ!日曜日みんなで行こうぜ!ほい、コレ真澄の分な」
 真澄は差し出されたチケットを受け取ろうとしたが、途中で手が止まった。真澄の頬に困った笑みが浮かぶ。そのチケットは、真澄が大好きなアーティストのライブイベントチケットだ。いつも倍率が高く、そう簡単に手に入る代物ではない。この機を逃すと今度いつ行けるのかも分からない。真澄自身、その貴重さは十分身に染みて分かっている。けれど、伸ばしたその手には迷いが生じていた。そんな真澄の背中を優しく押したのは、遼だった。
「行きなよ、真澄くん」
「でも、そしたら遼くんが……」
「一日くらい平気。好きなアーティストなんでしょ?行かないなんて勿体ないよ」
 その言葉に押され、真澄はようやくチケットを受け取った。相当行きたかったのだろう。真澄は弾んだ声を上げて嬉しさを噛みしめている。そんな彼の隣で、遼は静かに俯き、影を落としたまま佇んでいた。
 遼の様子が少しおかしくなったのは、その日からだった。真澄は彼に、図書館での様子について何度か尋ねたが、その度に曖昧な返答をされ別の話題に変えられてしまった。
 遼は家にこもることも多くなった。外で食べようと誘っても「僕のことはいいから、真澄くんは外で食べてきなよ」と断られてしまう。そんな彼の様子に、真澄の表情も次第に曇っていった。どこか距離を置かれている――そう感じているように。
 傍に居るはずなのに、二人は、まるで見えない壁で遮られているかのようだった。
 イベントを翌日に控えたその日、真澄がバイトから帰宅すると、家の中は静かで真っ暗になっていた。遼はすでにベッドに入って横になっている。背を向けて動く様子もない。真澄は心配そうな面持ちでそっと声をかけた。
「遼くん、体調悪いの?」
 反応はない。眠っているのだろうか、真澄はそう思いながら手を伸ばし、静かに彼の額に触れてみた。すると、遼の腕がその手を優しく振り払った。ぽつりと、小さな声が彼の背中からこぼれる。
「……ごめん、大丈夫。ちょっと疲れたから早く寝ようと思っただけ」
「そ……か」
 真澄は払われた手をきゅっと握ると、遼の背中を見つめ、躊躇いながら声をかけた。
「ねぇ、遼くん、俺――」
「明日」
 遼が真澄の言葉を遮って続けた。
「明日、ライブイベントでしょ。僕のことは気にしないで、楽しんで来てね」
「……うん」
 小さく返事をした真澄の声は、暗い部屋の中に静かに落ちて消えていった。
 真澄が参加するライブイベントは午前十時開始の部だ。会場は少し離れた場所にあるため、真澄は少し早めに家を出なければならなかった。身支度を済ませ、まだ布団にくるまって出てこない遼を見やると、真澄はベッドの傍にしゃがんで声をかけた。
「遼くん、俺、出掛けてくるね。帰ってくるのは、たぶん五時くらいになると思う。朝ご飯はテーブルに置いてあるから後で食べて。お昼ご飯はキッチンの方に置いといたから。食器は俺が帰ってから洗うね。流し台にそのまま置いといて大丈夫だから。……それじゃ、行ってくる」
 遼の返事は無かった。真澄は静かにその場を離れ、靴を履くと玄関扉を開けた。ドアノブを掴んだままもう一度部屋を見るが、視線の先は、しんとして静かなままだった。
 扉が閉まる音を確認すると、遼はようやく体を起こした。
 のそのそと壁伝いに、ゆっくりと洗面台へ足を運ぶ。顔を洗い、おぼつかない手元で蛇口を止め、手探りでタオルを手に取った。そして部屋へ戻ると遼はカラーボックスの前で足を止めた。
 オープン二段と扉付き三段の茶色いカラーボックス。遼はその一段目の扉をそっと開けた。中から長方形の小箱を一つ手に取り、再び洗面台へと向かう。小箱を開け、連なったパックを一つ、二つと切り離し蓋を開けると、鏡に顔を近づけた。液体に浸っていた柔らかいレンズを掬い、右目、左目へと付けて瞳になじませる。
 ゆっくりと開く両目。前髪で覆われた視界をかき上げると、目の前には、くっきりと映る自分の姿。鏡に映るその顔に、遼はふっと自嘲気味に笑いかけた。
「ひどい顔」
 大きな溜め息を吐き、遼はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
 ひどく心が痛む。本当は真澄に手を引いてもらわずとも、一人で生活を送れるのだ。眼鏡には劣るが、最初から三週間をしのぐ手はあった。けれど、それをずっと黙っていた。
 真澄の声をずっと聞いていたくて。傍に居て、ずっとその手を握っていたくて。
 最初は舞い上がり、満たされて嬉しい気持ちばかりが先行していた。名前を呼ばれるたびに胸の高鳴りは大きくなり、手を繋ぐたびに愛おしさが増していった。段々とその日々が、その時間が特別になって、独り占めしたくなっていったのだ。
 真澄は誰のものでもない――そう、わかっているのに。
「僕は最低だ……」
 胸が苦しい。真澄を騙していることへの罪悪感と、独り占めしたいという独占欲。離れがたいという未練。感情が入り混じり、遼の心の中はいつまでも葛藤が渦巻いていた。
 テレビを見ても、本を開いても、CDを聞いても何も頭に入ってこない。
 ベッドに寝転んで、真っ白な天井を眺める。聞こえるのは規則正しい時計の針の音だけ。余計、色々と考えてしまう。
 遼は起き上がり、窓の外を見つめた。青空が広がり太陽がさんさんと輝いている。晴れ晴れとした良い天気だった。遼の気持ちとはまるで真逆だ。
 騒がしい街中の方が気が紛れるかもしれない――遼はそう思い、重たい足で外へ出かけた。