「本田さん、何か疲れてます?」
返品表にチェックを入れていると、バックヤードに入ってきた夏美が心配そうに尋ねてきた。
「えっ、俺、そんなふうに見える?」
「はい、本田さん最近出勤した時から既にぐったりしているので……バイトの掛け持ちでも始めたんですか?」
「あー……まぁ、そんなとこ。でも大丈夫、疲れているわけじゃないから」
遼と共同生活を送るようになって数日が経った。手がかかることは多くあるが、それを苦に感じることはない。真澄にとって、こういう慌ただしさは逆に楽しいとさえ思える。夏美が言うような肉体的疲労を感じているわけではないのだ。
そう、真澄を悩ませている原因は他にあった。
それは、ファミレスで朝ごはんを食べようと、遼と二人で出かけた時のことだ。
モーニングのメニューを眺め、注文内容を決めると、真澄は視界が悪い遼のために一つ一つメニューを読み上げた。遼はその言葉を一つ一つ丁寧に、掬い取るように耳をすませる。真澄には、まるで自分の声にうっとりと聞き惚れているようにも見えた。そんな遼に真澄が問いかけた。
「遼くんどれにする?」
遼は口元を緩ませ満ち足りたような声で答える。
「好き」
「……遼くん、聞いてた?」
「うん、しっかり聞いてたよ。真澄くんの声、大好き」
「聞いてないじゃん」
メニュー表で顔を覆い、染まる頬を隠す。そんなことをしなくても、きっと遼には見えていない。しかし、こちらの視界を一旦遮らなければ気持ちが落ち着かなかった。
あの発言以来、遼は事あるごとに真澄の声を「好き」と口にするようになった。真澄にとって、自分の声をこんなに多く好きと言われたことなどない。むしろ、初めてだ。
声変わりをして多少変化があったとしても、あの黒歴史のせいで自ら発せられる声に耳を塞ぎたくなることもあった。深く根付いた負の感情。否定された個性。切り離したくても切り離せない、体の一部。もっと違う声だったら良かったのに。黒歴史を思い出すたび、真澄はそんなふうに思ってばかりいた。その声を、遼は「好き」と言う。真澄にとって、それはあまりにも不慣れで、触れ慣れていない場所を撫でられるような、くすぐったい言葉だった。
メニュー表を盾に、遼の姿をこっそり見やる。頬を薄紅色に染めながら、真澄は余計、複雑な表情を浮かべるのだった。
「ただいま」
帰宅して玄関を開けると、部屋の中は暗いままだった。真澄は夕方から夜にかけてバイトがある。その間、遼一人で外を出歩くのは危険だからと、真澄が帰ってくるまでは部屋で過ごすようにしていた。それが二人で決めたルールだった。つまり、今、部屋の中には遼がいるはずなのだ。
けれど家の中は暗く、人の気配がない。真澄は慌てて部屋の中へ入った。
「遼くん!?」
明かりを点けると、こたつに突っ伏して静かに寝息を立てている遼の姿が目に入った。
「居た……」
よく見ると玄関には靴がちゃんと置いてある。エアコンも点いている。うっかり早とちりをしてしまったようだ。頬を掻いて、真澄はホッとしたように腰を下ろした。前髪からわずかに覗く遼の顔。そっと指を伸ばし、前髪に触れてみた。横に流すと隠れた目元が露わになる。
閉じられた瞳。スラリと伸びる長い睫毛。ライトの光に照らされ、目元に細く長い影が落ちる。
遼は相変わらず目元を隠して過ごしている。寝顔ですら、こんなにイケメンなのに勿体ない。顔を出すことが恥ずかしいのだろうか。そんなことを思いながら真澄は首を傾げた。
あまり深掘りするのは良くない。そう思いつつも、会話をする時はお互いの目を見て話したい。真澄は面と向かって話すタイプだ。こうやって隠されてしまうことに少し寂しさを感じるのは、きっと自分の性分のようなものなのだろう。真澄はその思いをそっと飲み込んで、目を伏せた。
「ん……真澄くん……?」
「あっ、ごめん起こしちゃった?」
遼はふにゃりと口元を緩ませた。その笑顔が、あまりに無防備で甘い。
「おかえり。ごめんね、僕いつの間にか寝てたみたい」
「ううん、いいよ。これからご飯作るから待ってて」
真澄は早速買ってきた食材で料理に取り掛かった。料理は特別得意というわけではないが、簡単なものくらいは作れる。とはいえ、分量はいつもテキトーだ。大概多く作り過ぎてしまう。だからかもしれない。真澄にとって一人分も二人分も、作るのにはそう大差はなかった。
料理を運ぼうと部屋へ入った瞬間、異様な光景が真澄の目に入った。そこには、開いた本を手に持ち、顔面にぴったりとくっつけて何やらブツブツと言葉を漏らしている遼がいた。一瞬、何かの儀式かと思い、つい身を引いてしまった。
「……何してんの?」
「あ、真澄くん。この小説読んでたんだ。大学の図書館で借りた本だから、そろそろ返却しなきゃと思って。でも文字がぼやけて中々読めなくて……」
そういえば、と真澄は思い出す。最初に部屋に入った時、遼が眠っている傍にその本が置いてあった。読みたい本があるのに、それが読めなくなるのは心苦しい。本が好きなら尚更だ。その原因を作ってしまったのは他でもない、眼鏡を破壊してしまった真澄自身だ。
真澄は申し訳なさそうに本へ視線を送り、小さく口を開いた――しかし。
「読もうか?」その言葉を出すには、あまりにも口が重たかった。メニュー表を読み上げるのとは訳が違う。この本は小説だ。声を出し、感情を乗せて物語を伝える。それは、朗読だ。
喉の奥に、粘り気をまとった熱が覆った。わずかに開いた口は直ぐに閉ざされ、真澄は唇をぎゅっと噛んだ。
そんな真澄の心境など露知らず、遼は名案を思いついたという様子で声を弾ませながら言った。
「そうだ、真澄くん!これ、僕に読んでくれないかな?」
「えっ!?」
「ダメかな……?真澄くんの声でこの小説が聞けたら、すごく幸せだと思ったんだ。考えただけでもドキドキする」
「お、大袈裟だよ、そんな……」
「本当なんだ!僕、真澄くんの声を聞くと、ざわざわしていた気持ちとか不安とか、そういう嫌なものが落ち着いていくんだ。だからこそ、真澄くんの声をもっと聞いていたいし、それが小説っていう形で聞けたらなおさら嬉しいって思う!」
「でも、俺は……」
あの日から、大勢の前で朗読をしようとすると息苦しさに襲われるようになった。酷い時はフラッシュバックを起こして、過呼吸に陥ったこともある。苦しい思いをするくらいなら――そう思い、真澄は人前で朗読することをやめた。けれど、今は状況が違う。沢山の観客、声、視線、空気、会場。襲いかかるようなその圧迫感はここには無い。
不安感と緊張感はどうしても拭えない。けれど、今ここにいるのは、真澄の声が好きだと言ってくれた、彼一人だけだ。
真澄は服の端をぎゅっと握ると、小さく深呼吸をして答えた。
「わかった、少しだけなら……」
遼は花を咲かせたように口を開き、手を口元に添えた。遼の頬がみるみる赤く染まっていく。わなわなと震える唇は「ありがとう」と言っているようだが、うまく言葉になっていなかった。やがて合掌ポーズをとり、しばらく拝まれてしまった。
彼の「声が好き」という言葉を疑っていたわけではない。声を貶された記憶が、あまりにも深く根差していたせいで、真澄自身がそれを受け入れられずにいたのだ。今、目の前に映るのは、心から嬉しそうに喜ぶ遼の姿。そんな彼を目の当たりにして、「好き」という言葉が、ようやく胸の奥にそっと降りてきたような気がして、静かに波打っていくのを感じた。
真澄は思わず、ふっと笑みがこぼれた。そうなって初めて、自分の頬が強張っていたことに気付いた。何年も遠ざけていた朗読。怖いという感情は勿論ある。けれど、先ほどまで感じていた喉の不快感は消えていた。真澄の中で、何かが小さく音を立てて変化した。
晩御飯を済ませると、真澄は遼とこたつを囲んで本を開いた。その本は真澄も過去に読んだことがある短編小説集だった。有名な賞を受賞した作品で、一風変わった教師が登場人物の様々な悩みを、変わった視点から解き放っていく痛快な物語である。
真澄が読み上げるのは最終章に入ったところからだ。パラパラとめくり、題名の書かれたページに辿り着く。自分の心臓が大きく鼓動しているのが分かる。本を掴む手に力が入った。その時、遼が声をかけた。
「真澄くん」
「えっ、あ、何?」
ほんのりと染まる頬が伺える。遼は少し顔を伏せて、躊躇いながら言葉にした。
「隣、行っていいかな……?真澄くんの声、もっと近くで聞きたい」
「へっ!?」
心臓の音が大きく波打った。自分の頬がじんわりと熱を帯びたのを感じる。遼の喋り方は控えめだが、口にするその言葉はいつもストレートだ。振る舞いや態度とは真逆で、不意打ちをつかれたような気持ちになってしまう。
「……うん。いいよ」
そう言って、真澄はこたつ布団を軽く掬い上げると遼のスペースを作った。先ほどまで座っていた場所に、ほんのりと温もりが残る。真澄の隣へ辿り着いた遼が、まるで猫のように背を丸くしてそこへ身を置いた。ふと、遼の肩が触れる。男二人が並べば、当然こたつの中は手狭になる。これは久しぶりに朗読する緊張感からなのか。心臓の波打つ音が早くなったように感じる。真澄は本に向けていた視線をこっそり遼へ逸らした。
とくん、とまた胸が鳴った。そこには、子供のように無邪気な笑みを浮かべている遼の姿があった。嬉しそうに、心から笑っている――そう、思えた。
真澄は小さく息を吸った。朗読が、ゆっくりと始まる。
美しく紡がれた言葉が、真澄の声に乗って次々と遼の元へと届いていく。その声は澄んだ水のように透き通り、まるで、弾んだ雫が水面に波紋を広げるように一音一音、部屋の中へと響いていった。ふと視線を横へ向けると、遼は静かに聞き入っていた。心地よさそうに朗らかな笑みを浮かべている。その横顔に、真澄の胸がまた、とくんと小さく跳ねた。
本を読み切ると、真澄は込み上げてきた熱いものを目頭に感じて咄嗟に袖で拭った。読むことができた。その達成感に思わず吐息が漏れる。機会をくれた遼に感謝したい。そう思って彼に顔を向けた――その途端、真澄は思わずギョッとして潤んでいた涙も一気に引っ込んでしまった。
驚いたことに、彼は真澄以上にポロポロと泣いていたのだ。
「えっ、遼くんどうしたの!?」
「あっ……驚かせちゃってごめんね」
遼は慌てて涙を拭い取った。
「面白いお話だったね。ただ、それ以上に真澄くんの朗読を聞いていたら、涙が込み上げてきちゃって……」
「な、何で……?」
話自体は爽快感はあれど、号泣を誘うほどのものではない。本を読み上げるのは久しぶりなうえに、技術なんてあって無いような素人朗読だ。下手なのは承知のうえだったが、何がそんなに遼に刺さったのだろうか。真澄は疑問に思って首をかしげた。
すると、遼はごろんと体を後ろに倒し、仰向けに寝転んだ。
「真澄くんの声はね、綺麗な水のように澄んでいて、耳に優しく馴染むんだ。まるで自然の森の中を流れる美しいせせらぎのように。真澄くんの声を聞いていると心が洗われるような、そんな温かい気持ちになる」
寝転んだ拍子に、わずかに覗いた瞳。遼は真澄に視線を送り、朗らかな笑顔を向けて言った。
「こんなに綺麗な声をしている人を、僕は他に知らないよ。きっと神様が、真澄くんの為だけにくれた素敵な声なんだ」
記憶の片隅に、嫌な思い出と一緒に仕舞い込んでしまった、懐かしい風景を思い出した。昔、よく遊びに行っていた広い和風の家。縁側から見える小さな庭、風が吹くとさらさらと鳴る葉っぱの音色。そこには優しい笑顔を向けている祖母の姿があった。
『まーくんの声はなぁ、水のせせらぎみたいに綺麗で澄んだ声しちょる』
――あぁそうだ、だから俺は朗読が好きになったんだ。
気付いたら指が動いていた。真澄はゆっくりと、撫でるように遼の前髪をかき上げた。遼の顔が見たい――何故だか、無性にそう思ったからだ。露わになった遼の瞳。その瞳を覗き込むと、真澄の影が重なった。遼は額に添えられた手を重ねて握り、するりと頬まで滑らせた。木漏れ日が降り注ぐような穏やかな眼差し。遼の甘い声がふわりと漏れる。
「好きだよ」
遼は右手を伸ばすと誘うように真澄の頬に触れた。心臓の鼓動は一層速さを増していく。静かな部屋の中、心臓の音がひと際耳に鳴り響く。真っ直ぐ向けられた熱い視線。その漆黒の瞳に吸い込まれるように、真澄の体はゆっくりと遼の元へ近付いていった。
途端――空間を遮るように真澄のスマホの着信音が鳴り響いた。
真澄はハッとして、咄嗟にスマホを手に取ると急いで通話ボタンを押した。
――今、俺たち変な雰囲気になっていなかったか!?
バクバクとうるさく鳴る心臓の音。顔が熱くて堪らない。脳内処理が追い付かず、真澄は通話相手の話が頭に入っていなかった。
『おーい、まっすー聞いてる?』
「あっ、あーごめんごめん!何の話だっけ?」
『だからー、飲み会の話だって。今週の土曜日行こうって話してただろ』
「あ!そっか、それ今週かぁ。うーん……」
遼はそろりと起き上がると、電話をしている真澄の後ろ姿に視線を送った。しかし、その眼差しはすぐに落とされ、先ほどまで真澄に触れていた自分の手を見つめると静かに瞳を閉じた。
「うん、ごめんごめん。また今度な」
電話を切った真澄は、ばつが悪そうに振り向いた。
「いきなりごめんね、大学の友達から飲み会の話だった」
「……断ってたみたいだけど、行かないの?」
「うん、遼くんのこと一人にするわけにはいかないしさ」
真澄が苦笑して応えると、遼の口元がわずかに動き、きゅっと結ばれた。
「……ごめんね、僕のせいで、せっかくの飲み会の話ダメにしちゃって……」
「いいよ、気にしないで。飲み会なんていつでもできるんだからさ。さてと、そろそろお風呂入って寝ちゃおう」
「……うん」
遼はぽつりと小さく返事をした。
