時は一時間前に遡る。
「……男の人だったんだね。ごめん、ずっと勘違いしてた。てっきり女性だとばかり……。女性にしては肩幅あるし、繋いでくれた手も細すぎないし、男性って言われたら確かにそうだね」
「……じゃあ、何で俺が女性だと思ったわけ?」
「声だよ」
予想はしていた。視界が悪い彼にとって判断材料はそれしかない。分かってはいた。それでも、いざ声で判断されたと知ると、過去の嫌な思い出を掘り返されたような気分になって気持ちが荒む。真澄は目元に影を落とすと、奥歯を噛みしめながら視線を背けた。
大人になってもなお、女声だと笑われるのか。心底自分の声が嫌になる。そんな思いが真澄の心を黒く覆う。
「とても綺麗で、澄んだ声をしているから」
「え……?」
次の瞬間、遼は盛大なくしゃみを出した。夜の寒空のもと、いつまでも冷たい風に晒された体はすっかり冷えきってしまったのだろう。彼は鼻を軽くすすって言った。
「こんな所で立ち話させちゃってごめんね。今日は本当にありがとう。それじゃあ、気を付けて帰ってね」
そう言いながら彼がドアを閉めようとした瞬間、真澄はハッとして咄嗟に体を動かした。勢いよく扉に足を挟んでドアを掴む。足元に視線を向けたまま真澄が言った。
「ちょっと待って」
遼は驚きのあまり、鳩が豆鉄砲を食ったようにポカンと口を開けて真澄を見た。
「さっきの依頼、引き受けても問題ないってことだよね?」
「えっ……、本当に、いいの?」
真澄は顔を上げると、口元をきゅっと上げ、しっかりと頷いて言った。
「男に二言はないよ」
その日は夜も深まっていたので、終電の前に真澄は一旦帰宅し、一泊だけの準備をして再び遼の部屋へ訪れたというわけだ。
「ねぇ、何でそんなにボロボロなの……?」
真澄が聞くと遼は、あはは、と軽く笑い「玄関開けるまでに三回すっ転んじゃって」と頭をかいて返した。
「えっ、大丈夫?怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫だよ。これくらい平気」
自分の家の中でさえ危険はいっぱいだ。真澄は一層思う。どうして彼はこれで「何とかなる」と言えたのだろうかと。
「とりあえず晩御飯まだだったし、来るついでにコンビニで色々買ってきたけど、良かった?」
「あ、そういえばそうだったね、ありがとう本田くん。そうだ、お金払うよ。いくら?」
「いいよ、これくらい。お腹空いたし先に食べちゃおう」
こたつを挟み、暖を取りながら廃棄前の半額サンドイッチを完食する。買ってきたお茶で一息つくと、真澄が本題に入った。
「さて、と。じゃあ決まり事を色々決めていこうか。まず、このマンション内のルール、ゴミ出しの日とか禁止事項なんかを教えて。その次に、この部屋のルール、掃除洗濯の頻度とか気を付けてほしいことがあったら教えてくれるかな。置いてある物や場所なんかはその時々で使いながら覚えていくつもり。あとは食費や生活用品代だよね。うーん、ここはやっぱり折半かなぁ。いつもどれくらいの頻度でどんなもの買ってる?」
ふと彼に視線を戻すと、遼は口を開けて呆然としていた。
「え、何どうしたの?」
「あっ、その、本田くん凄くしっかりしてるんだなぁって思って。今日、隣を歩いてくれた時もそうだったけど、本田くんって視野が広いというか、細かいことにも気が付くし、率先して物事を進めていくのが上手なんだね」
自分としては思ったことをただやっただけで、褒められるようなことをしたつもりはなかった。当たり前だと思っていたことを不意に褒められ、真澄は思わず頭をかいた。
「そう……かなぁ」
「僕にはとてもできないよ。だから、これは本田くんが持っている才能なんだよ」
「あー……と、もう一つ決まりごと追加!下の名前で呼び合おう!」
「えっ!」
「いいじゃん、苗字だと何だかよそよそしく聞こえるし、そうしようよ、遼くん」
「わ……!分かったよ。ま、真澄くん……!」
真澄はニカっと歯を見せて笑った。遼も控えめに笑って返すが、ふと、彼がそわそわと真澄の後ろを気にしているような気配がした。何だろう、と思った時だった。
「真澄くん、この部屋のルールなんだけど……後ろのカラーボックス、一番上の棚だけは絶対に開けないでくれるかな」
「カラーボックス?」
振り向いてカラーボックスを見やる。オープン二段と扉付き三段の、落ち着いた色味をした茶色いカラーボックスが置いてある。オープンスペースには本やCDが並べられていた。彼の言う一番上の棚、真澄はそこに視線を送った。一体何が入っているのだろうか。と、気になるが、誰しも見られたくないものの一つや二つくらいある。真澄は遼に向き直った。
「分かった、絶対に開けないよ」
「……ありがとう。それ以外は遠慮なく使ってくれて大丈夫だから」
先にお風呂を済ませた真澄はボストンバックから寝袋を取り出した。遼は家に人を呼んだことがないらしい。そもそも誰かを家に泊めることすら想定していなかったようだ。そのため、寝具も遼が使っているものしか置いていない。念のために持ってきた寝袋だったが、持ってきて正解だった。
「それにしても広いなぁこの部屋」
ベッドとこたつが置いてあっても十分広く感じる。遼の部屋は全体的に物が少なく、小ざっぱりとしていた。
「そうだ、明日の朝ご飯どうしよ。冷蔵庫の中に何かあるかな」
ちょうどその時、部屋のドアが開く音がした。遼がお風呂を済ませて戻ってきたようだ。真澄は振り向いて口を開いた。
「ねぇ、明日の朝ご飯なんだけど――」
しかしそこに立っていたのは見たことのないイケメン顔の青年だった。流れるような、美しい線を描いた切れ長の目元。吸い込まれるような漆黒の瞳。まばたきをすると細く長い睫毛がふわりと揺れた。目を奪われるとはこういうことなのだろうか。美しい程に整った顔立ちの青年は、髪から滴る雫を拭い真澄を見つめた。ただの水滴でさえイケメンにかかれば無条件に輝きを放つ。その眩しさに真澄は思わず言葉を漏らした。
「…………誰?」
「え?えっと……長谷川、遼です……」
「遼くん!?」
あまりのイケメンっぷりに驚きが隠せない。今まで、前髪で隠れていたせいで見えなかったが、その素顔はまばゆい程に美しかった。
「びっくりした……!遼くんすっごいイケメンじゃん!アイドルみたい。もっと顔出したらいいのに!」
しかし、遼は顔を曇らせて複雑な笑みを浮かべるだけだった。
「明日の朝ご飯のことだっけ。ちょっと待っててね」
そう言ってキッチンへと姿を消してしまった。
何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。一瞬陰りを見せたその表情が、何だか触れてはいけないことのように思えた。
「ちょうど食パンがあるから、明日の朝はこれでもいいかな?」
遼は一斤入った食パンの袋を片手に再び姿を現した。それを見た瞬間、真澄は口元をひくつかせて、それを指差した。
「遼くん……それ、いつ買った食パンなの……?」
「え……、えっ!?」
手にしていたその食パンとやらは、どう見ても闇のオーラをまとったダークマターだった。
黒い塊を何度も見直して、ようやくそれがカビだらけだと気付いた遼は、あたふたと慌てふためきその場を右往左往。そんな彼の姿を見て真澄は思わず「ふはっ」と吹き出した。
お腹を抱えて陽気に笑う真澄に、遼は更にうろたえ、しわじわと頬を赤く染めていく。見られたくない。そう言わんばかりに、彼は手で顔を覆い隠して言った。
「ご、ごめん!僕、抜けてるところあるし、不得意なことも多くて……!」
真澄は笑った拍子にこぼれた涙を拭いながら、不意に遼を見上げた。ところが、目に入ったのはどこか神妙な面持ちで話す遼の姿だった。
「きっと真澄くんを困らせることもいっぱい出てくると思うんだ。僕、ドジだし、ボーっとしてるし、カッコ悪いところ沢山あるから……」
「別にいいじゃん。不得意なことがあったって」
「え?」
真澄は笑いが収まると、一息ついて遼に視線を向けた。
「そりゃあ何でも完璧にできたらカッコいいけど、でもそんな人、きっとこの世界のどこにもいないよ。それに、完璧を求めてずっと背伸びしてると疲れちゃうじゃん。それよりもさ、ありのままの自分でいる方が疲れることもないし、ずっといいと思う。不得意なら不得意で、誰かに頼ればいいんだよ。それは全然カッコ悪いことじゃないんだからさ。ていうか、今はその為に俺がここにいるんだし、遠慮なく頼ってよ」
屈託のない真澄の言葉。遼の瞳から宝石のような眩い光が瞬いた。
次の瞬間、彼の手は真澄の両手へと伸びた。息つく暇もなく、ずいっと体が引き寄せられる。ふわりと香るシャンプーの芳しい匂い。乾ききっていない髪の毛先から、光を纏った雫が舞い散った。紅潮した頬。細く長い睫毛が揺れ動く。美しくきらめく彼の瞳が、真澄の至近距離に迫った。
「僕、実は好きなんだ!」
「へ!?」
「真澄くんの声が!」
「…………はい?」
「……男の人だったんだね。ごめん、ずっと勘違いしてた。てっきり女性だとばかり……。女性にしては肩幅あるし、繋いでくれた手も細すぎないし、男性って言われたら確かにそうだね」
「……じゃあ、何で俺が女性だと思ったわけ?」
「声だよ」
予想はしていた。視界が悪い彼にとって判断材料はそれしかない。分かってはいた。それでも、いざ声で判断されたと知ると、過去の嫌な思い出を掘り返されたような気分になって気持ちが荒む。真澄は目元に影を落とすと、奥歯を噛みしめながら視線を背けた。
大人になってもなお、女声だと笑われるのか。心底自分の声が嫌になる。そんな思いが真澄の心を黒く覆う。
「とても綺麗で、澄んだ声をしているから」
「え……?」
次の瞬間、遼は盛大なくしゃみを出した。夜の寒空のもと、いつまでも冷たい風に晒された体はすっかり冷えきってしまったのだろう。彼は鼻を軽くすすって言った。
「こんな所で立ち話させちゃってごめんね。今日は本当にありがとう。それじゃあ、気を付けて帰ってね」
そう言いながら彼がドアを閉めようとした瞬間、真澄はハッとして咄嗟に体を動かした。勢いよく扉に足を挟んでドアを掴む。足元に視線を向けたまま真澄が言った。
「ちょっと待って」
遼は驚きのあまり、鳩が豆鉄砲を食ったようにポカンと口を開けて真澄を見た。
「さっきの依頼、引き受けても問題ないってことだよね?」
「えっ……、本当に、いいの?」
真澄は顔を上げると、口元をきゅっと上げ、しっかりと頷いて言った。
「男に二言はないよ」
その日は夜も深まっていたので、終電の前に真澄は一旦帰宅し、一泊だけの準備をして再び遼の部屋へ訪れたというわけだ。
「ねぇ、何でそんなにボロボロなの……?」
真澄が聞くと遼は、あはは、と軽く笑い「玄関開けるまでに三回すっ転んじゃって」と頭をかいて返した。
「えっ、大丈夫?怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫だよ。これくらい平気」
自分の家の中でさえ危険はいっぱいだ。真澄は一層思う。どうして彼はこれで「何とかなる」と言えたのだろうかと。
「とりあえず晩御飯まだだったし、来るついでにコンビニで色々買ってきたけど、良かった?」
「あ、そういえばそうだったね、ありがとう本田くん。そうだ、お金払うよ。いくら?」
「いいよ、これくらい。お腹空いたし先に食べちゃおう」
こたつを挟み、暖を取りながら廃棄前の半額サンドイッチを完食する。買ってきたお茶で一息つくと、真澄が本題に入った。
「さて、と。じゃあ決まり事を色々決めていこうか。まず、このマンション内のルール、ゴミ出しの日とか禁止事項なんかを教えて。その次に、この部屋のルール、掃除洗濯の頻度とか気を付けてほしいことがあったら教えてくれるかな。置いてある物や場所なんかはその時々で使いながら覚えていくつもり。あとは食費や生活用品代だよね。うーん、ここはやっぱり折半かなぁ。いつもどれくらいの頻度でどんなもの買ってる?」
ふと彼に視線を戻すと、遼は口を開けて呆然としていた。
「え、何どうしたの?」
「あっ、その、本田くん凄くしっかりしてるんだなぁって思って。今日、隣を歩いてくれた時もそうだったけど、本田くんって視野が広いというか、細かいことにも気が付くし、率先して物事を進めていくのが上手なんだね」
自分としては思ったことをただやっただけで、褒められるようなことをしたつもりはなかった。当たり前だと思っていたことを不意に褒められ、真澄は思わず頭をかいた。
「そう……かなぁ」
「僕にはとてもできないよ。だから、これは本田くんが持っている才能なんだよ」
「あー……と、もう一つ決まりごと追加!下の名前で呼び合おう!」
「えっ!」
「いいじゃん、苗字だと何だかよそよそしく聞こえるし、そうしようよ、遼くん」
「わ……!分かったよ。ま、真澄くん……!」
真澄はニカっと歯を見せて笑った。遼も控えめに笑って返すが、ふと、彼がそわそわと真澄の後ろを気にしているような気配がした。何だろう、と思った時だった。
「真澄くん、この部屋のルールなんだけど……後ろのカラーボックス、一番上の棚だけは絶対に開けないでくれるかな」
「カラーボックス?」
振り向いてカラーボックスを見やる。オープン二段と扉付き三段の、落ち着いた色味をした茶色いカラーボックスが置いてある。オープンスペースには本やCDが並べられていた。彼の言う一番上の棚、真澄はそこに視線を送った。一体何が入っているのだろうか。と、気になるが、誰しも見られたくないものの一つや二つくらいある。真澄は遼に向き直った。
「分かった、絶対に開けないよ」
「……ありがとう。それ以外は遠慮なく使ってくれて大丈夫だから」
先にお風呂を済ませた真澄はボストンバックから寝袋を取り出した。遼は家に人を呼んだことがないらしい。そもそも誰かを家に泊めることすら想定していなかったようだ。そのため、寝具も遼が使っているものしか置いていない。念のために持ってきた寝袋だったが、持ってきて正解だった。
「それにしても広いなぁこの部屋」
ベッドとこたつが置いてあっても十分広く感じる。遼の部屋は全体的に物が少なく、小ざっぱりとしていた。
「そうだ、明日の朝ご飯どうしよ。冷蔵庫の中に何かあるかな」
ちょうどその時、部屋のドアが開く音がした。遼がお風呂を済ませて戻ってきたようだ。真澄は振り向いて口を開いた。
「ねぇ、明日の朝ご飯なんだけど――」
しかしそこに立っていたのは見たことのないイケメン顔の青年だった。流れるような、美しい線を描いた切れ長の目元。吸い込まれるような漆黒の瞳。まばたきをすると細く長い睫毛がふわりと揺れた。目を奪われるとはこういうことなのだろうか。美しい程に整った顔立ちの青年は、髪から滴る雫を拭い真澄を見つめた。ただの水滴でさえイケメンにかかれば無条件に輝きを放つ。その眩しさに真澄は思わず言葉を漏らした。
「…………誰?」
「え?えっと……長谷川、遼です……」
「遼くん!?」
あまりのイケメンっぷりに驚きが隠せない。今まで、前髪で隠れていたせいで見えなかったが、その素顔はまばゆい程に美しかった。
「びっくりした……!遼くんすっごいイケメンじゃん!アイドルみたい。もっと顔出したらいいのに!」
しかし、遼は顔を曇らせて複雑な笑みを浮かべるだけだった。
「明日の朝ご飯のことだっけ。ちょっと待っててね」
そう言ってキッチンへと姿を消してしまった。
何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。一瞬陰りを見せたその表情が、何だか触れてはいけないことのように思えた。
「ちょうど食パンがあるから、明日の朝はこれでもいいかな?」
遼は一斤入った食パンの袋を片手に再び姿を現した。それを見た瞬間、真澄は口元をひくつかせて、それを指差した。
「遼くん……それ、いつ買った食パンなの……?」
「え……、えっ!?」
手にしていたその食パンとやらは、どう見ても闇のオーラをまとったダークマターだった。
黒い塊を何度も見直して、ようやくそれがカビだらけだと気付いた遼は、あたふたと慌てふためきその場を右往左往。そんな彼の姿を見て真澄は思わず「ふはっ」と吹き出した。
お腹を抱えて陽気に笑う真澄に、遼は更にうろたえ、しわじわと頬を赤く染めていく。見られたくない。そう言わんばかりに、彼は手で顔を覆い隠して言った。
「ご、ごめん!僕、抜けてるところあるし、不得意なことも多くて……!」
真澄は笑った拍子にこぼれた涙を拭いながら、不意に遼を見上げた。ところが、目に入ったのはどこか神妙な面持ちで話す遼の姿だった。
「きっと真澄くんを困らせることもいっぱい出てくると思うんだ。僕、ドジだし、ボーっとしてるし、カッコ悪いところ沢山あるから……」
「別にいいじゃん。不得意なことがあったって」
「え?」
真澄は笑いが収まると、一息ついて遼に視線を向けた。
「そりゃあ何でも完璧にできたらカッコいいけど、でもそんな人、きっとこの世界のどこにもいないよ。それに、完璧を求めてずっと背伸びしてると疲れちゃうじゃん。それよりもさ、ありのままの自分でいる方が疲れることもないし、ずっといいと思う。不得意なら不得意で、誰かに頼ればいいんだよ。それは全然カッコ悪いことじゃないんだからさ。ていうか、今はその為に俺がここにいるんだし、遠慮なく頼ってよ」
屈託のない真澄の言葉。遼の瞳から宝石のような眩い光が瞬いた。
次の瞬間、彼の手は真澄の両手へと伸びた。息つく暇もなく、ずいっと体が引き寄せられる。ふわりと香るシャンプーの芳しい匂い。乾ききっていない髪の毛先から、光を纏った雫が舞い散った。紅潮した頬。細く長い睫毛が揺れ動く。美しくきらめく彼の瞳が、真澄の至近距離に迫った。
「僕、実は好きなんだ!」
「へ!?」
「真澄くんの声が!」
「…………はい?」
