夏美が言っていたことが本当だという確証はない。もし間違っていていたら。友達ですらいられなくなったら。そういう不安だって勿論ある。
けれど、それ以上に伝えたい。
心から好きになったこの気持ちを、ひた隠して無かったことになんかしたくない。好きになったことに後悔はしていない。だけど、もし、このまま伝えなかったら一生後悔する。ずっと、ここで時間が止まってしまう気がする。真澄はその思いを胸に走り続けた。
電車が駅へ到着する。早く遼に会いたい。真澄は逸る気持ちを抑えながらドアが開くのを待った。本屋から遼のマンションまで、こんなに長く感じるのは初めてだ。急いで改札を出て一目散にマンションへ駆け出す。エレベーターが八階へ着くと、開き切るよりも早く飛び出した。
心臓の音が一層大きくなる。切らした息を整えるよりも早く、鍵を取り玄関のドアを開けた。
「遼くん!」
暗く静まり返っている家の中。靴はある。部屋の中も温かい。寝てしまったのだろうか。
部屋の明かりを点けると、遼はベッドの端で布団にくるまって小さくなっていた。顔まですっぽりと被っているその姿は、まるで、雷を怖がる子供のようだった。
「ただいま。遼くん、どうしたの?そんな所で小さくなって」
「真澄くん……僕、真澄くんに伝えたいことがあるんだ」
胸が跳ね上がって鼓動が一層早くなる。頬に確かな熱を感じながら真澄も言葉にした。
「うん。俺も、遼くんに伝えたいことがある」
「……そう。じゃあ考えてること一緒なのかな」
「お、俺――」
「金輪際、僕と関わるのは、もうやめて」
「……え?」
今、遼は何と言っただろうか。聞き間違いではない。関わるなと、そう聞こえた。
「この家からも出て行ってほしい」
「なんで……」
背筋が途端に強張る。唇が震えて、真澄の口から出た声がわずかに掠れていた。
伝えようとしていたことを悟られたのだろうか。気持ち悪がられたのだろうか。もう、友達にも戻れなくなってしまったのだろうか。真澄の頭の中が段々と白んでいく。
「遼くん……」
真澄は恐る恐るベッドに上がり、顔を覗こうと、被っていた布団に手を伸ばした。しかし遼は体をビクリと反応させ、勢いよくその手を振り払った。
「ダメ!」
真澄は反動で体勢を崩し、ベッドの上に倒れ込んだ。
明らかな拒絶反応。嫌われた。完全に嫌われてしまった。遼は、既に気付いていたということなのだろうか。分かっていて、ずっと我慢していたということか。いつからだろう。好きかと問いかけたあの時だろうか。それなら、あの時かけてくれた言葉も、抱き締めてくれたことも、手を取って導いてくれたのも、全部、嘘偽りの気持ちでやったことだというのか。
そんな、まさか。
嘘じゃないと思いたい気持ちと、拒絶を受けた事実。真澄の思考がぐにゃりと混乱する。
「僕に触れちゃ駄目だ!真澄くんが危険な目に遭っちゃう!」
「……は?」
なぜ、そうなる。話が飛び過ぎていて真澄の思考は追い付かない。どうして遼に触れると危険な目に遭うのだろうか。真澄は肘を立て、上半身を起こすと遼の姿を見上げた。
被っていた布団がずるりと滑り落ち、遼の姿が露わになった。その目元は充血しており、鼻を赤くして、泣きはらした子供のような顔をしていた。
「どういうこと?意味がわからないよ。俺が危険な目に遭うって何?遼くんは、俺のことが気持ち悪くて、嫌いになったから出て行けって言ったんじゃないの……?」
「嫌いじゃないよ!嫌いなんかじゃない、気持ち悪いのは僕の方だ……!」
彼はうなだれて額に手を当てると肩を震わせた。真澄は体を起こし、その姿を心配するように遼の傍まで近寄った。
「何で遼くんが気持ち悪いのさ。全然そんなこと……」
肩に手を伸ばそうとした瞬間、過敏に反応した遼は真澄をベッドに強く押し倒した。遼の影が真澄に覆いかぶさる。
「何で僕が気持ち悪いかって……?」
ぱらぱらとこぼれ落ちてくる涙。その一滴が、真澄の頬に伝って流れ落ちた。遼は苦しそうに顔を歪め、けれど自嘲した笑みを浮かべて真澄に言った。
「僕、真澄くんのこと考えて欲情したんだ」
「え……」
「真澄くんの笑顔も心も声も体も、全部丸ごと独り占めしたい。抱き締めて、真澄くんの体全部に触れたい。そんなふうに思ってしまったんだ……!」
罪悪感を滲ませる遼の表情が、見開いた真澄の瞳に映った。
「分かったでしょ、こんな僕の傍にいるなんて危ないんだよ。真澄くんに何をしでかすか分からないんだ。僕は真澄くんを傷付けたくない。だから出て行って。僕の目の前から居なくなるのが、真澄くんにとっても、僕にとってもそれが一番賢明なんだ……!」
呆然として言葉が出ず固まっている真澄。そんな彼に遼は痺れを切らし、奥歯を噛みしめた。
「真澄くんが出て行かないなら僕が出て行く!」
遼はそう言って玄関へ駆け出した。
「は?えっ、ちょ……!」
咄嗟に体を起こし、真澄も慌ててその後を追う。玄関を飛び出すと、彼はちょうどエレベーターに乗り込もうとしているところだった。走って閉まるドアを止めようと手を伸ばしたが、タッチの差で間に合うことができなかった。急いでボタンを押すが、待っている余裕などない。
「あーっもう!」
踵を返し、真澄は非常階段へと向かった。一段ずつ降りてなんていられない。一段、二段飛ばして駆け降りる。バランスを崩して、こけそうになっても構いやしない。走れ。追い付け。彼に伝えなければならない。
一階へ着き、街灯の明かりを頼りに辺りを見回す。視界の端に辛うじて見えた彼の後ろ姿。その姿を捉えると、真澄は考えるよりも先に再び地面を蹴った。
彼が走る先に踏切が見える。ちょうど電車の通過を知らせる音が鳴りだし、夕闇に赤い点滅が光り出した。遮断機が遼の行く手を阻む。
遼の呼吸はすでに息絶え絶えだった。荒い息を整えようと膝に手をついたその時だった。
「遼くん!」
その声に驚いて遼は思わず振り向いた。咄嗟に左右を見回して、たまたま目に入った小道へ再び走り出す。しかし体力はほとんど限界に近付いていた。細い道を出て公園へ駆け込むが、徐々に距離を詰めて追いかけてきた真澄に、とうとうその手を掴まれてしまった。
「待って遼くん!」
「は、放して真澄くん!」
もみ合いの末、もつれた足に引っ掛かった遼は天を仰いで倒れ込んだ。
「うわぁ!」
逃すまいと、真澄は跨って遼の両肩を押さえ付けた。
お互い息が上がっていた。真澄は首を垂らしたまま動かない。彼の毛先が、呼吸とともに僅かに揺れる。逆光がその輪郭を淡く浮かび上がらせていた。遼は途切れる息の合間に小さく問いかけた。
「な……んで、追いかけて来るの。僕のことなんて……もう、放っといてくれたら、いいのに」
「何で?あんなこと言われて、放っておけるわけないだろ!むしろ追いかけるわ!」
「どうして……」
「言ったでしょ、俺も遼くんに伝えたいことがあるって」
公園の側を電車が走る。過ぎ去る一瞬の明かりに照らされて、真澄の顔が鮮明に浮かび上がった。紅潮した頬。白い息が空気に溶けていく。真澄は声を大にして、その言葉を遼に届けた。
「俺、遼くんのことが好き!」
遼の瞳が大きく見開いた。通過する電車の明かりが反射して、漆黒の瞳に瞬く星がいくつも流れる。
「言っとくけど、俺だって遼くんを独り占めしたいって思ってるんだからな!」
「へ?」
「俺、遼くんがこの先の未来、他の誰かと幸せそうに歩いている姿を想像したんだ。そしたら、胸がぎゅっと詰まって……心の底から嫌だって思ったんだ。だって、その隣は俺の場所だから……!誰にも譲りたくないって、そう思ったんだ!」
正面から浴びせられたその言葉に、遼の心が不意にうずく。込み上げる気持ちを必死に抑え込んで、遼は顔を背けながら伏し目がちに伝えた。
「真澄くん。ねぇ、分かって言ってる……?僕は真澄くんのことを、いやらしい目で見てしまったんだ。それがどういう意味か、本当に分かってるの?」
遼はそっと真澄に視線を送った。好きという感情には色んな種類がある。一時の感情に流され勘違いをして、彼の人生を狂わせてはいけない。気付いてもらわないといけないのだ。その『好き』という感情が自分と同等の意味ではないということを。
すると、真澄は押さえ付けていた手をそっと離し、自分の両手を見つめて言った。
「……正直、欲情したって言われた時、びっくりした」
遼は解放された体をゆっくり動かした。真澄と同じ目線になると、その瞳に哀愁を浮かべながら静かに微笑んだ。
「……そうだよね。それが当然の反応だよ。真澄くんが言う、好きって感情は、親友のような一番の友達としての意味で、僕の感情とは違うんだ。あんなこと言ったけど、それでも真澄くんは僕を拒絶しないでいてくれた。それだけで僕は十分だ。だからもう……」
「違うよ遼くん!俺、嬉しかったんだ!」
「え……?」
「俺、今まで誰かと一緒にいても、恋愛小説を読んでも、愛とか恋とか、そういう好きって感情がよく分からなかったんだ。でも、遼くんと出会って、遼くんの言葉に一喜一憂したり、遼くんの行動一つで安心したり、胸が苦しくなったり、気付いたら遼くんのことばかり考えるようになってた」
蘇る、遼と過ごしてきた日々。平凡だった毎日に沢山の彩りが増えていった。その思い出を噛みしめるように、真澄は両手をぎゅっと握り締めた。
「今まで特定の誰かに、こんなふうに次々と感情が湧き出ることなんてなかった。こんなにも、自分の心を掻き乱されたのは初めてだったんだ」
湧き上がる想い。迷いのないその瞳で真澄は真っ直ぐ彼を見つめた。
「俺がびっくりしたのは自分自身に対してだよ!」
揺るぎない、確かな想いを込めた眼差し。熱のこもったその瞳で、真澄はありったけの想いを乗せて遼に伝えた。
「俺、遼くんに欲情したって言われた時、嬉しかった!そんなふうに思うくらい、俺は遼くんに本気の恋をしていたんだって気付いたんだ!」
その瞬間、遼の瞳が揺らめき光がほとばしった。唇がわずかに震え、吐息まじりの声が口から不意にこぼれた。
「……本当に、いいの?僕、真澄くんのこと好きになっても、いいの……?」
今にも泣き出しそうな、くしゃくしゃの顔。こればっかりはイケメン顔も台無しだ。彼の瞳にじんわりと溢れてくる大粒の光。真澄は遼の瞼を優しく撫で、人差し指でその涙をそっと拭った。
「いいに決まってるじゃん」
その言葉を受け止めると、遼の瞳からは、せき止めていたものが外れたように、溢れんばかりの涙がとめどなくこぼれ落ちていった。
抑え込んだ想いも、戸惑いも不安も、全部が涙となって流れ出ていく。真澄の声と言葉が、遼の全てを包み込んで解き放っていった。
真澄もそんな遼の姿を見つめ、安堵したように眉を下げた。すると、真澄は両手をめいっぱい空に伸ばし、そのまま体を倒して寝転がった。
「あーっ、疲れたー!」
「ま、真澄くん!?」
「安心したら気が抜けた」
そう言って真澄はへらへらと気の抜けた顔で笑った。
「そういや俺、昨日ほとんど寝てないんだった。そのうえバイトはフルで入ってたし、バイト中、遼くんのこと考え過ぎて頭ショートしそうだったし、泣いたし、朗読会であんなことあったし、ダッシュで帰ってやっと告白できると思ったら、今度は八階から駆け降りてまたダッシュ。そりゃ疲れるわ」
「お、お疲れ様でした……」
夜空を眺め、一呼吸置くと真澄は真面目な声で口にした。
「……俺、本当は昨日のこと嘘ついてたんだ」
「え?」
「お酒入った時、観光地の話で盛り上がったって言ったでしょ。本当はそんな話してないんだ」
「じゃあ、何を……」
「俺、お酒が入った遼くんに、多分……告白された」
「へ!?」
「あと多分……キス、されそうになった」
遼は爆発を起こしたかのように一瞬で顔を赤く染め上げた。口をパクパクと震わせて動揺している。
「ええええええ!?ぼ、僕は真澄くんに何てことを……!じゃあ僕、酔った勢いで真澄くんを求めていたってこと!?」
「お酒が入ると本心が表れるって言うしね」
「完全に無自覚でした……」
遼は恥ずかしいと言わんばかりに、真っ赤になったその顔を両手で覆った。そんな彼に真澄は続けた。
「あの時は、俺もまだ自分の気持ちがはっきり分かってなくて、頭の中もぐちゃぐちゃで混乱してたんだ。でも、今は、はっきり分かるよ。遼くんのことが好きだって」
真澄は愛おしそうに遼へ向けて微笑んだ。ほんのり赤く染まっている真澄の頬。全速力で走ったせいか、彼の額には、じんわりと汗が滲んでいた。胸の鼓動が、再び早さを増していった。
「……だったら、いいんだよね?」
遼の手が真澄の顔をまたいだ。とろけるような、甘く艶やかな遼の表情。熱のこもった視線を浴びると、真澄の瞳も次第にとろけていった。引き寄せられるように近付いていく唇。
あと数センチ、というところだった。
「っくしゅん!」
遼は思わず体を背け、二回目のくしゃみをした。その背中からズズっと鼻を鳴らしてすする音が聞こえる。
「ご、ごめん……」
苦笑して、眉を下げながら謝る彼の様子は、あどけなさが漂ういつも通りの姿だ。
くしゃみが出るのも仕方がない。遼はこの寒空の中、上着も羽織らず外に飛び出したのだ。このまま風邪を引かれても困る。
真澄は気が抜けた声で笑って言った。
「帰ろっか」
「うん」
上半身を起こして砂を払っていると、真澄の目の前にそっと手が差し出された。穏やかな眼差しと共に向けられた遼の手のひら。真澄はほころんだ笑みを頬に浮かべた。その手を重ね、真澄も立ち上がる。
外はまだ冬の空気に覆われている。ひんやりと冷たくも、曇りのない澄んだ空気。胸いっぱいに吸い込むと何だか心地がよかった。
暖かい春の訪れはまだまだ先だ。けれど、しっかりと繋がれたお互いの手のひらからは、温かく優しい温度が伝わる。その温もりを確かに感じながら、二人は同じ歩調で歩き出したのだった。
けれど、それ以上に伝えたい。
心から好きになったこの気持ちを、ひた隠して無かったことになんかしたくない。好きになったことに後悔はしていない。だけど、もし、このまま伝えなかったら一生後悔する。ずっと、ここで時間が止まってしまう気がする。真澄はその思いを胸に走り続けた。
電車が駅へ到着する。早く遼に会いたい。真澄は逸る気持ちを抑えながらドアが開くのを待った。本屋から遼のマンションまで、こんなに長く感じるのは初めてだ。急いで改札を出て一目散にマンションへ駆け出す。エレベーターが八階へ着くと、開き切るよりも早く飛び出した。
心臓の音が一層大きくなる。切らした息を整えるよりも早く、鍵を取り玄関のドアを開けた。
「遼くん!」
暗く静まり返っている家の中。靴はある。部屋の中も温かい。寝てしまったのだろうか。
部屋の明かりを点けると、遼はベッドの端で布団にくるまって小さくなっていた。顔まですっぽりと被っているその姿は、まるで、雷を怖がる子供のようだった。
「ただいま。遼くん、どうしたの?そんな所で小さくなって」
「真澄くん……僕、真澄くんに伝えたいことがあるんだ」
胸が跳ね上がって鼓動が一層早くなる。頬に確かな熱を感じながら真澄も言葉にした。
「うん。俺も、遼くんに伝えたいことがある」
「……そう。じゃあ考えてること一緒なのかな」
「お、俺――」
「金輪際、僕と関わるのは、もうやめて」
「……え?」
今、遼は何と言っただろうか。聞き間違いではない。関わるなと、そう聞こえた。
「この家からも出て行ってほしい」
「なんで……」
背筋が途端に強張る。唇が震えて、真澄の口から出た声がわずかに掠れていた。
伝えようとしていたことを悟られたのだろうか。気持ち悪がられたのだろうか。もう、友達にも戻れなくなってしまったのだろうか。真澄の頭の中が段々と白んでいく。
「遼くん……」
真澄は恐る恐るベッドに上がり、顔を覗こうと、被っていた布団に手を伸ばした。しかし遼は体をビクリと反応させ、勢いよくその手を振り払った。
「ダメ!」
真澄は反動で体勢を崩し、ベッドの上に倒れ込んだ。
明らかな拒絶反応。嫌われた。完全に嫌われてしまった。遼は、既に気付いていたということなのだろうか。分かっていて、ずっと我慢していたということか。いつからだろう。好きかと問いかけたあの時だろうか。それなら、あの時かけてくれた言葉も、抱き締めてくれたことも、手を取って導いてくれたのも、全部、嘘偽りの気持ちでやったことだというのか。
そんな、まさか。
嘘じゃないと思いたい気持ちと、拒絶を受けた事実。真澄の思考がぐにゃりと混乱する。
「僕に触れちゃ駄目だ!真澄くんが危険な目に遭っちゃう!」
「……は?」
なぜ、そうなる。話が飛び過ぎていて真澄の思考は追い付かない。どうして遼に触れると危険な目に遭うのだろうか。真澄は肘を立て、上半身を起こすと遼の姿を見上げた。
被っていた布団がずるりと滑り落ち、遼の姿が露わになった。その目元は充血しており、鼻を赤くして、泣きはらした子供のような顔をしていた。
「どういうこと?意味がわからないよ。俺が危険な目に遭うって何?遼くんは、俺のことが気持ち悪くて、嫌いになったから出て行けって言ったんじゃないの……?」
「嫌いじゃないよ!嫌いなんかじゃない、気持ち悪いのは僕の方だ……!」
彼はうなだれて額に手を当てると肩を震わせた。真澄は体を起こし、その姿を心配するように遼の傍まで近寄った。
「何で遼くんが気持ち悪いのさ。全然そんなこと……」
肩に手を伸ばそうとした瞬間、過敏に反応した遼は真澄をベッドに強く押し倒した。遼の影が真澄に覆いかぶさる。
「何で僕が気持ち悪いかって……?」
ぱらぱらとこぼれ落ちてくる涙。その一滴が、真澄の頬に伝って流れ落ちた。遼は苦しそうに顔を歪め、けれど自嘲した笑みを浮かべて真澄に言った。
「僕、真澄くんのこと考えて欲情したんだ」
「え……」
「真澄くんの笑顔も心も声も体も、全部丸ごと独り占めしたい。抱き締めて、真澄くんの体全部に触れたい。そんなふうに思ってしまったんだ……!」
罪悪感を滲ませる遼の表情が、見開いた真澄の瞳に映った。
「分かったでしょ、こんな僕の傍にいるなんて危ないんだよ。真澄くんに何をしでかすか分からないんだ。僕は真澄くんを傷付けたくない。だから出て行って。僕の目の前から居なくなるのが、真澄くんにとっても、僕にとってもそれが一番賢明なんだ……!」
呆然として言葉が出ず固まっている真澄。そんな彼に遼は痺れを切らし、奥歯を噛みしめた。
「真澄くんが出て行かないなら僕が出て行く!」
遼はそう言って玄関へ駆け出した。
「は?えっ、ちょ……!」
咄嗟に体を起こし、真澄も慌ててその後を追う。玄関を飛び出すと、彼はちょうどエレベーターに乗り込もうとしているところだった。走って閉まるドアを止めようと手を伸ばしたが、タッチの差で間に合うことができなかった。急いでボタンを押すが、待っている余裕などない。
「あーっもう!」
踵を返し、真澄は非常階段へと向かった。一段ずつ降りてなんていられない。一段、二段飛ばして駆け降りる。バランスを崩して、こけそうになっても構いやしない。走れ。追い付け。彼に伝えなければならない。
一階へ着き、街灯の明かりを頼りに辺りを見回す。視界の端に辛うじて見えた彼の後ろ姿。その姿を捉えると、真澄は考えるよりも先に再び地面を蹴った。
彼が走る先に踏切が見える。ちょうど電車の通過を知らせる音が鳴りだし、夕闇に赤い点滅が光り出した。遮断機が遼の行く手を阻む。
遼の呼吸はすでに息絶え絶えだった。荒い息を整えようと膝に手をついたその時だった。
「遼くん!」
その声に驚いて遼は思わず振り向いた。咄嗟に左右を見回して、たまたま目に入った小道へ再び走り出す。しかし体力はほとんど限界に近付いていた。細い道を出て公園へ駆け込むが、徐々に距離を詰めて追いかけてきた真澄に、とうとうその手を掴まれてしまった。
「待って遼くん!」
「は、放して真澄くん!」
もみ合いの末、もつれた足に引っ掛かった遼は天を仰いで倒れ込んだ。
「うわぁ!」
逃すまいと、真澄は跨って遼の両肩を押さえ付けた。
お互い息が上がっていた。真澄は首を垂らしたまま動かない。彼の毛先が、呼吸とともに僅かに揺れる。逆光がその輪郭を淡く浮かび上がらせていた。遼は途切れる息の合間に小さく問いかけた。
「な……んで、追いかけて来るの。僕のことなんて……もう、放っといてくれたら、いいのに」
「何で?あんなこと言われて、放っておけるわけないだろ!むしろ追いかけるわ!」
「どうして……」
「言ったでしょ、俺も遼くんに伝えたいことがあるって」
公園の側を電車が走る。過ぎ去る一瞬の明かりに照らされて、真澄の顔が鮮明に浮かび上がった。紅潮した頬。白い息が空気に溶けていく。真澄は声を大にして、その言葉を遼に届けた。
「俺、遼くんのことが好き!」
遼の瞳が大きく見開いた。通過する電車の明かりが反射して、漆黒の瞳に瞬く星がいくつも流れる。
「言っとくけど、俺だって遼くんを独り占めしたいって思ってるんだからな!」
「へ?」
「俺、遼くんがこの先の未来、他の誰かと幸せそうに歩いている姿を想像したんだ。そしたら、胸がぎゅっと詰まって……心の底から嫌だって思ったんだ。だって、その隣は俺の場所だから……!誰にも譲りたくないって、そう思ったんだ!」
正面から浴びせられたその言葉に、遼の心が不意にうずく。込み上げる気持ちを必死に抑え込んで、遼は顔を背けながら伏し目がちに伝えた。
「真澄くん。ねぇ、分かって言ってる……?僕は真澄くんのことを、いやらしい目で見てしまったんだ。それがどういう意味か、本当に分かってるの?」
遼はそっと真澄に視線を送った。好きという感情には色んな種類がある。一時の感情に流され勘違いをして、彼の人生を狂わせてはいけない。気付いてもらわないといけないのだ。その『好き』という感情が自分と同等の意味ではないということを。
すると、真澄は押さえ付けていた手をそっと離し、自分の両手を見つめて言った。
「……正直、欲情したって言われた時、びっくりした」
遼は解放された体をゆっくり動かした。真澄と同じ目線になると、その瞳に哀愁を浮かべながら静かに微笑んだ。
「……そうだよね。それが当然の反応だよ。真澄くんが言う、好きって感情は、親友のような一番の友達としての意味で、僕の感情とは違うんだ。あんなこと言ったけど、それでも真澄くんは僕を拒絶しないでいてくれた。それだけで僕は十分だ。だからもう……」
「違うよ遼くん!俺、嬉しかったんだ!」
「え……?」
「俺、今まで誰かと一緒にいても、恋愛小説を読んでも、愛とか恋とか、そういう好きって感情がよく分からなかったんだ。でも、遼くんと出会って、遼くんの言葉に一喜一憂したり、遼くんの行動一つで安心したり、胸が苦しくなったり、気付いたら遼くんのことばかり考えるようになってた」
蘇る、遼と過ごしてきた日々。平凡だった毎日に沢山の彩りが増えていった。その思い出を噛みしめるように、真澄は両手をぎゅっと握り締めた。
「今まで特定の誰かに、こんなふうに次々と感情が湧き出ることなんてなかった。こんなにも、自分の心を掻き乱されたのは初めてだったんだ」
湧き上がる想い。迷いのないその瞳で真澄は真っ直ぐ彼を見つめた。
「俺がびっくりしたのは自分自身に対してだよ!」
揺るぎない、確かな想いを込めた眼差し。熱のこもったその瞳で、真澄はありったけの想いを乗せて遼に伝えた。
「俺、遼くんに欲情したって言われた時、嬉しかった!そんなふうに思うくらい、俺は遼くんに本気の恋をしていたんだって気付いたんだ!」
その瞬間、遼の瞳が揺らめき光がほとばしった。唇がわずかに震え、吐息まじりの声が口から不意にこぼれた。
「……本当に、いいの?僕、真澄くんのこと好きになっても、いいの……?」
今にも泣き出しそうな、くしゃくしゃの顔。こればっかりはイケメン顔も台無しだ。彼の瞳にじんわりと溢れてくる大粒の光。真澄は遼の瞼を優しく撫で、人差し指でその涙をそっと拭った。
「いいに決まってるじゃん」
その言葉を受け止めると、遼の瞳からは、せき止めていたものが外れたように、溢れんばかりの涙がとめどなくこぼれ落ちていった。
抑え込んだ想いも、戸惑いも不安も、全部が涙となって流れ出ていく。真澄の声と言葉が、遼の全てを包み込んで解き放っていった。
真澄もそんな遼の姿を見つめ、安堵したように眉を下げた。すると、真澄は両手をめいっぱい空に伸ばし、そのまま体を倒して寝転がった。
「あーっ、疲れたー!」
「ま、真澄くん!?」
「安心したら気が抜けた」
そう言って真澄はへらへらと気の抜けた顔で笑った。
「そういや俺、昨日ほとんど寝てないんだった。そのうえバイトはフルで入ってたし、バイト中、遼くんのこと考え過ぎて頭ショートしそうだったし、泣いたし、朗読会であんなことあったし、ダッシュで帰ってやっと告白できると思ったら、今度は八階から駆け降りてまたダッシュ。そりゃ疲れるわ」
「お、お疲れ様でした……」
夜空を眺め、一呼吸置くと真澄は真面目な声で口にした。
「……俺、本当は昨日のこと嘘ついてたんだ」
「え?」
「お酒入った時、観光地の話で盛り上がったって言ったでしょ。本当はそんな話してないんだ」
「じゃあ、何を……」
「俺、お酒が入った遼くんに、多分……告白された」
「へ!?」
「あと多分……キス、されそうになった」
遼は爆発を起こしたかのように一瞬で顔を赤く染め上げた。口をパクパクと震わせて動揺している。
「ええええええ!?ぼ、僕は真澄くんに何てことを……!じゃあ僕、酔った勢いで真澄くんを求めていたってこと!?」
「お酒が入ると本心が表れるって言うしね」
「完全に無自覚でした……」
遼は恥ずかしいと言わんばかりに、真っ赤になったその顔を両手で覆った。そんな彼に真澄は続けた。
「あの時は、俺もまだ自分の気持ちがはっきり分かってなくて、頭の中もぐちゃぐちゃで混乱してたんだ。でも、今は、はっきり分かるよ。遼くんのことが好きだって」
真澄は愛おしそうに遼へ向けて微笑んだ。ほんのり赤く染まっている真澄の頬。全速力で走ったせいか、彼の額には、じんわりと汗が滲んでいた。胸の鼓動が、再び早さを増していった。
「……だったら、いいんだよね?」
遼の手が真澄の顔をまたいだ。とろけるような、甘く艶やかな遼の表情。熱のこもった視線を浴びると、真澄の瞳も次第にとろけていった。引き寄せられるように近付いていく唇。
あと数センチ、というところだった。
「っくしゅん!」
遼は思わず体を背け、二回目のくしゃみをした。その背中からズズっと鼻を鳴らしてすする音が聞こえる。
「ご、ごめん……」
苦笑して、眉を下げながら謝る彼の様子は、あどけなさが漂ういつも通りの姿だ。
くしゃみが出るのも仕方がない。遼はこの寒空の中、上着も羽織らず外に飛び出したのだ。このまま風邪を引かれても困る。
真澄は気が抜けた声で笑って言った。
「帰ろっか」
「うん」
上半身を起こして砂を払っていると、真澄の目の前にそっと手が差し出された。穏やかな眼差しと共に向けられた遼の手のひら。真澄はほころんだ笑みを頬に浮かべた。その手を重ね、真澄も立ち上がる。
外はまだ冬の空気に覆われている。ひんやりと冷たくも、曇りのない澄んだ空気。胸いっぱいに吸い込むと何だか心地がよかった。
暖かい春の訪れはまだまだ先だ。けれど、しっかりと繋がれたお互いの手のひらからは、温かく優しい温度が伝わる。その温もりを確かに感じながら、二人は同じ歩調で歩き出したのだった。
