トラブルは多々あったが、朗読会は何とか無事に終えることができた。しかし、朗読家が到着するまでのつもりが、結局、真澄は最初から最後まで一冊読み切ってしまった。
 申し訳ない気持ちで朗読家に頭を下げたが、逆に「良い朗読だった」と恐れ多くもお褒めの言葉をいただいてしまった。有名な朗読家からそんな言葉をもらえるなんて、滅多にあることじゃない。夢かと思ったが、つねった頬はちゃんと痛かった。
 その後、もう一度店長に頭を下げに行くと「結果的にお客さんに楽しんでもらえたから」と、同じく咎められることはなかった。
 同時に、遼のことを聞かれた。女性客から彼が誰なのかと聞かれたらしい。相変わらずイケメンの引力はすごい。けれど、遼は外見だけの男ではない。真澄はそれを知っている。
 この三週間、共に過ごして分かった。遼は繊細で、内気で、感受性豊かでよく泣く。けれど決して弱いわけではない。心の内に強さをちゃんと持っているのだ。
 手を引いて歩いてくれた、あの時の遼の背中が忘れられない。見上げた遼の背中は広くて逞しい、まさに勇ましい男の背中だった。遼は本当にかっこいい。真澄は心からそう思った。
 会場の撤去作業が終わったあと、仕事場に戻ると遼の姿はどこにも見当たらなかった。隣接するカフェにも姿はない。バイトを終え、更衣室に置いていたスマホを見ると、そこには『ごめん、今日は先に帰る。映画はまた今度にしたい。』とメッセージ文が入っていた。
 思い返すと昨日から今日にかけて色々なことがあって、真澄自身もこれから映画という気分にはなれなかった。帰ったら家でゆっくり過ごそう。遼にも、改めてきちんとお礼が言いたい。そう思いながらスマホを閉じた。
 私服に着替え、更衣室を出た真澄は、ふと休憩室から見える窓の景色を眺めた。夕日が沈んで辺りは夜の景色に移り変わろうとしていた。突然始まった共同生活だったが、遼と一緒に過ごす日も、あと残りわずかになる。残りの数日、遼とは、かけがえのない友達として一日一日を大切に過ごそう。この先、大人になって遼のことを思い出しても、ちゃんと楽しかった思い出となるように。真澄はそう心に決めた。
「友達、か……」
 窓に映った哀愁を帯びた笑み。真澄は頭を切り替えるように顔を上げ「よし、帰るか」と呟いて休憩室のドアを開けた。
「あれ?」
 廊下へ出ると、そこには真澄より先にバイトを終えたはずの夏美が壁に背を預けて立っていた。
「なっちゃん、どうしたの?何か忘れ物?」
 真澄に気が付くと、夏美は神妙な面持ちで真澄の元まで足を運んだ。
「あの、私、本田さんに聞きたいことがあるんです」
「聞きたいこと?」
「はい……。勘違いだったらごめんなさい。今日、朗読会で本田さんの隣に座っていたあの人って、もしかして本田さんの想い人ですか?」
 真澄の胸がどきりと跳ねる。答えを待つ夏美の目は真剣だった。真澄はほんのりと頬を染めると、一度目を逸らし頭を掻いた。
 夏美は細かいことによく気が付く。自分が気付いてさえいなかった遼への気持ちも彼女は見抜いていた。きっと今、嘘をついたところで彼女には隠し通せないだろう。それに、今の彼女は興味本位で聞いているような雰囲気ではない。他人に言いふらすようなこともしないだろう。
 真澄は観念したように「ふう」と一つ小さく息を吐いて夏美に顔を向け直した。穏やかに、そして諦めたように彼女に頷いた。
「うん、そうだよ。俺の好きな人。俺の片思い。でもよく分かったね」
「分かりますよ。本田さん、今日ずっとあの人のこと見てましたし、その時の顔、まるで恋する乙女のようでしたから」
「え、俺そんなに分かりやすい顔してたの?」
 思わず恥ずかしさで口元を隠した。照れたように肩をすくめ、苦笑いを浮かべたあと、真澄は少し目を伏せて静かな声で続けた。
「俺さ、なっちゃんに言われて、ようやく自分が恋してたことに気付いたんだ。でも、それで十分。想いを伝える気はないよ」
「そんな、どうしてですか!?」
「どうしてって……だって俺、もうフラれてるようなものだし」
「え?」
「俺のこと、どう思ってるか今日聞いたんだよ。そしたら、かけがえのない大切な人だって言われた」
「それって……!」
 真澄は首を横に振った。
「恩人だと思ってる、だってさ。恋愛対象として見られてないんだ。けど、それで良かったんだよ。この先、彼の元に魅力的な女の子が現れて、結婚して子供が生まれて幸せな家庭を持ってくれたら、俺はそれでいい」
「……本当にそう思っているんですか?」
「え?」
 夏美はコートの裾をぎゅっと握ると、訴えかけるような眼差しで真澄を見上げた。
「私は、あの人のこと全然知りません。でも、私、見たんです……!」
「見たって、何を?」
「私、朗読会の後に、あの人に会ったんです。彼が被っていた帽子、私が拾ったんで返さなきゃって思って。会が終わった後、すぐに彼を探しました。ようやく姿を見付けた時、後ろ姿に声をかけたんです」
 モデルのような長身。質感の良い紺のチェスターコート。無造作に揺れる黒髪。間違いない、先ほどの彼だ。夏美は息を切らして遼へ駆け寄った。
「あの、待ってください!帽子を――」
 夏美は振り向いた彼の姿に思わず目を見開いた。彼の頬が火照ったように赤く染まっていたのだ。
「あの、大丈夫ですか?顔真っ赤ですけど……」
「あ、えっと、これはその……」
 先ほどの彼なのは間違いない。けれど何か様子がおかしい。
「あの、さっき本田さんの隣に座ってた方ですよね?何か、さっきと雰囲気が……」
 遼はそれを聞くと眉尻をさらに下げた。頬を染めていた赤みはじわじわと耳まで広がっていく。潤んだ瞳が揺れ、困惑している様子がさらに際立っていた。
 遼は咄嗟に帽子を受け取り「ありがとう」と一言伝えると、すぐさま帽子を被り足早にお店を出て行ってしまった。
「あの時の彼、本田さんと同じ顔してたんです」
「俺と、同じ顔……?」
「そうです。本当に恩人と思っているだけなら、あんな、焦がれるような苦しい表情しませんよ」
 それはつまり、遼も恋心を抱いているということなのだろうか。夏美の観察眼は鋭い。けれど彼女と遼は初対面だ。初めて会った人の心の内をドンピシャで当てるなんてことできるはずがない。
「勝手な憶測で本田さんを混乱させているのは承知しています。ただ、本田さんには後悔してほしくないんです」
「え?」
「十年後、二十年後その先もずっと、その気持ちを心に秘めたままでいるつもりですか?例えばあの人が他の誰かと結婚をして、式場でその姿を目にした時、本田さんは本当に踏ん切りが付きますか?本当に、伝えなかったこと後悔しないんですか?」
 遼が他の誰かとバージンロードを歩く。歩調を合わせてその隣を歩くのは、朗らかな笑顔を向けるのは自分ではない。自分はただ、その後ろ姿を傍観するだけしかできない。そう考えた途端、真澄は心底嫌だと思ってしまった。
 胸がぎゅっと詰まる。拳を握り、俯いて奥歯を噛みしめた。せっかく割り切ろうとしていたのに、心が、気持ちが揺らいでしまう。
「……なっちゃん、何でそこまで俺に口出ししてくるの?なっちゃんには関係ないことでしょ?」
「確かに私には関係のないことです。本田さんにとって、私はただのバイト仲間でしかありませんから」
 俯いてそう言葉にする夏美の手は、ぎゅっとスカートの袖を握り締めていた。
「なっちゃん……?」
「ここでバイトを始めて、本田さんのことずっと傍で見てきました。いつも明るくて優しくて気さくで、本田さんは誰にでも平等に接してくれました。いつも私に向けてくれる笑顔も、他のみんなと同じ、優しい笑顔です。でも、彼に向けた笑顔だけは全然違ったんですよ」
 彼はきっと気付いていない。今日一日、傍で真澄を見つめていた夏美の視線に。遼と楽しそうに、嬉しそうに、恥ずかしそうに話す真澄の姿。その口元を緩ませ、頬を薄紅色に染め上げ、愛おしく焦がれるように遼を目で追う真澄の姿。朗読後に見せた、大輪の花を咲かせたような溢れんばかりの愛情を込めた笑顔。
「私、あんなふうに笑う本田さん初めて見ました」
 夏美は唇をぎゅっと結ぶと、真澄を真っ直ぐ見つめて伝えた。
「あんな表情見せられたら、もう背中押すしかないじゃないですか!」
「え?なっちゃん、何を……」
「私だって、本田さんのことが大好きなんです!尊敬してやまない、大好きな先輩だから!だから本田さんの本気の恋を応援したいんです!」
 真澄は小さく息を吸った。彼女の真剣な眼差しに真澄の頬もじんわりと熱が帯びる。
「告白を躊躇う理由は何ですか!?男性同士だからですか!?あの人がそんな理由で本田さんと縁を切ろうって言うなら、その時は私があの人をぶん殴ってやります!」
「ぶ、ぶん殴るって、なっちゃん……」
「だから本田さん、伝えてください!好きだって想いを伝えることは何も悪いことなんてないんです!」
 強く向けられる、想いのこもった瞳。夏美がそんなふうに思っていたなんて全く気付かなかった。
「本田さん、今、気持ちを伝えるかどうか揺らいでいますよね?」
「……!」
 夏美はじりじりと詰め寄り、見上げてもう一度問いかける。
「揺らいでいますよね!?」
「う……」
 すると、彼女は店舗の出入り口へ向けて鋭い勢いで真っ直ぐ指を伸ばした。
「迷うくらいなら行く!」
「は、はいっ!」
 夏美の勢いに押され、真澄は思わず駆け出した。走り去るその後ろ姿を見つめる夏美。途端、真澄は足を緩め後ろを振り向いた。ほころんだ笑顔を彼女に向ける。
「ありがとう、なっちゃん!」
 そう伝えると、真澄は再び出入り口へ向かって走り出す。夏美は目を細めて、その姿が見えなくなるまで見送った。
「本当、男の人って鈍感なんだから……」