遼はトイレの個室へ駆け込み、ゆっくりと真澄を座らせた。真澄の体を前かがみに傾けると、遼は膝をついてそっと肩を支えた。
「真澄くん、お腹で息を吸って。ゆっくり、ゆっくり息を吐いて。そう、吐く方に意識して」
 真澄は遼の言葉通りに呼吸を繰り返した。すると、激しく上下していた肩の動きが段々と緩やかになり、次第に真澄の呼吸が落ち着いていった。ようやく過呼吸が治まったようだ。
「ごめん……」
 遼の服をぎゅうっと握り締め、真澄は顔を伏せたまま言葉を漏らした。
「俺、今すっごくカッコ悪いよな。すげぇみっともない……」
 自嘲めいた声。寄り添う遼の傍らで、背中を丸くする真澄の姿がとても小さく見えた。
「真澄くん……」
「……あの日からさ、俺、遼くんの手を引いて歩くのが当たり前になってたんだ。最初は、視界がぼやけた遼くんの為にって、そう思ってやってた。俺が遼くんの傍に居てあげなきゃって」
 重力に従って真澄の頭が次第に沈んでいく。
「顔を見られるのが怖いって知った時は、勝手にトラウマに踏み込んで悪いことをしたかもって思った。でも、遼くんは自分と向き合う強さがあって、前に進もうとする勇気を持ってて、隣でその姿を見た時は、遼くんのこと心から凄いと思ったよ。応援したいって、力になりたいって思ってた。でも、いつの間にか遼くんは、俺の手なんかなくても一人で前へ進めるようになってて、俺はもう必要ないんだって思ったら……取り残されたような、置いて行かれたような気持ちになって、俺も向き合って進まなきゃって、焦ったんだ……」
 震える手、震える声、真澄の声が次第にか細くなっていく。
「本当は怖いのに、全然平気じゃないのに、虚勢張って結局この有り様。ほんと、ざまぁない……」
「真澄くん」
 遼は真澄の肩に手を添え、そっと体を起こした。覇気を失った真澄は、沈痛な面持ちで表情に影を落としている。遼の顔を見ることすらできなかった。
「もういい……」
「え……?」
「人前に立つだけでこれだ。本なんて読めるはずがない。戻って店長に頭下げてくる」
 どこか投げやりなその言葉に、遼の胸がざわついた。このまま戻ったらいけない気がする。遼はそう思い、立ち上がろうとした彼を止めた。
「そんなの真澄くんらしくない」
「……何だよ、俺らしくないって」
「真澄くんは、やるって決めたらやり通そうとする、納得するまで向き合おうとするじゃないか!こんな、途中で投げ出すようなことはしない!」
 真澄は反射的に反論の眼差しを遼に向けた。
「遼くんだって、さっき見ただろ俺の姿を!俺は遼くんみたいに一人で歩ける強さなんかないんだよ!」
「僕は!僕は……真澄くんが思っているほど強くなんかない」
 掴んでいた手に力が入る。遼は真っ直ぐ真澄を見据えた。
「真澄くんが、臆病な僕に自分自身と向き合うきっかけをくれたんだ。真澄くんが居てくれたから、僕はまたこうやって、ありのままの姿で外を歩けるようになったんだよ」
 沢山の引き出しを開けるように、今までの思い出が次々と蘇る。本屋で出会ったあの日から、手を差し伸べてくれたのは、いつも真澄だった。手を握って引っ張ってくれたのも、声で、言葉で導いてくれたのも、ずっと傍に居てくれたのも、紛れもなく目の前にいる彼なのだ。
「コンタクトのことを明かした時、真澄くんは嘘をついていた僕を軽蔑するどころか、もう一度手を差し伸べてくれた。見放すことをしなかった」
 遼は掴んでいた手を離すと、真澄の両手をそっと掬い上げた。まるでガラス細工に触れるように優しく手を重ねる。
「だから僕も、真澄くんを見放したりなんかしないよ。ねぇ真澄くん、だから一緒に――」
 真澄は目を伏せると俯いて力なく首を横に振った。
「無理だよ……。怖いんだ。手が震えて、息が苦しくなって、また同じことが起きたらと思うと、怖くて歩けない。俺はもう、あの場所には戻れない……」
 悔しさが声色に滲む。思い出されるのは、かつて広がっていたあの光景、あの場所。
 紡がれた言葉を、一音一音を掬い上げ、彩りを乗せ、温かさを加え、優しさと美しさを声に乗せて観客に届けた。そんな、眩しくて心地の良かったあの場所にはもう戻れない。戻ろうとすると、心が、体が、拒絶するように悲鳴を上げて叫び出す。
「ねぇ真澄くん。僕は一人で歩いているわけじゃないんだ」
 真澄は、うなだれていた首を頼りなく上げた。遼と目を合わせると、彼は穏やかな眼差しで続けた。
「いつもね、心の中に真澄くんがいるんだ。優しい澄んだ声で、行こうって笑顔で手を差し伸べてくれる。真澄くんは僕がどんなに転んでも、どんなに泣いても、どんなにみっともない姿をさらしても、変わらない笑顔でこの手をとってくれた。どんな時も僕の隣を歩いてくれた」
 瞳を閉じ、真澄と共に過ごしてきた時間を脳裏に映し出す。かけがえのない大切な時間。どの時間も、美しく尊いものばかり。遼の瞳が、確かな意思を乗せて、ゆっくりと開かれる。
「だから、今度は僕の番」
 一切の揺るぎがない、強く、凛とした眼差し。その瞳に感化されるように、真澄の瞳も次第に見開いていく。
「今度は僕が、この手で真澄くんを導くよ」
 遼の言葉が、真っ直ぐ、そして深く真澄の胸の中へ響き渡る。水面に波紋が広がるように、心が色を取り戻していく。真澄の瞳に一筋の光が差し込んだ。熱いものが込み上げて、視界がゆらゆらと揺らめく。やがて溢れ出した大粒の涙は、真澄の頬を何度も伝い光に溶けていった。
「僕が傍にいる。だから、行こう。一緒に」
 優しく抱き締められたその腕、その手、その声から、遼の温もりが全身に広がって伝わる。胸の中から溢れ出る想い。心いっぱいに満たされていくのが分かる。
 遼が好きだ。大好きだ。たとえこの恋が叶わなくても、今日この日だけは、彼の傍に寄り添うことを許してほしい。
 差し伸べられた遼の手。真澄はその手を重ねると静かに立ち上がった。導かれるように、そして一歩を踏み出した。