「……さん」
「……本田さん」
「本田さん!」
 その呼び声に真澄はハッと目を覚ます。テーブルに突っ伏していた体を起こし、声の主に顔を向けると、彼女は壁掛けの時計を指差していた。
「本田さん、もうすぐ休憩終わる時間ですよ」
「うわっ本当だ。なっちゃんありがと、着替えたらすぐ行く!」
 真澄はテーブルに置いていたエプロンを急いで手に取った。
 いつの間に寝てしまったのだろうか。休憩室は暖房がよく効いていて眠気に誘われやすい。そう思いながら、真澄は手慣れた手つきでエプロンを腰に巻きつける。
「珍しいですね、本田さんが時間ギリギリまで寝こけているなんて。もしかして、良い夢でも見ていたんですか?」
 白のワイシャツに黒のパンツ姿、同じお店の制服に同じエプロン姿。ボブの黒髪を揺らして期待の眼差しを向ける彼女に、真澄は苦笑いで返す。
「良い夢、ねぇ……」
「あ、そうだ本田さん、このあいだ追加発注した本届きましたよ。荷受室に置いてありますので後で運び出しお願いします」
「りょーかい!」
 なっちゃんこと、バイト仲間の野原夏美はテキパキと仕事をこなし、細かいことによく気が付くしっかり者だ。お互い本が好きで、真澄とは好きな本についてよく話をする。
 大学に入学して、生活費の足しにと思って始めた本屋のバイト。ここは仲間も店長も良い人ばかりで、本好きの真澄にとっても、とても働きやすい環境だ。
「お世話になります。荷物の受け取りお願いします」
 荷受室で在庫チェックをしていた手を止め、真澄は配達員の元へ駆け寄った。
「はーい!」
 サインを済ませ、ふと視界に入った外の景色を見上げる。吐息と混ざって舞い落ちる白い雪。
「うわぁ、今日冷えると思ったら雪降ってたのか」
 二月に入り、大学は春休みを迎えたばかりだった。春休みとは言うが、この調子だと花が芽吹き始める春の訪れはまだまだ先のようだ。
 夕方の接客のピークが過ぎて、棚の整理をしていると夏美に呼ばれた。
「本田さんすみません、ちょっと……」
 真澄は手を止め、手招きする彼女のあとについて行く。夏美は陳列棚の一角で足を止めると、天井ポスターを指差した。
「あそこ、片方剥がれてしまったみたいで、貼り直そうとしたんですが私じゃ背が届かなくて……」
 すぐそばに脚立が置いてある。それなりに高さのある脚立だが、小柄な夏美では、ぎりぎり手が届かなかったらしい。
「オッケー、俺が貼り直しとくよ」
「すみません、手を煩わせてしまって」
「いいよこれくらい。それに、結構高さもあるし危ないだろ。遠慮なく言ってよ、俺やるからさ」
「ありがとうございます」
 申し訳なさそうに夏美は何度もお辞儀をする。そんな彼女に真澄は「気にしないで」と明るい笑顔を返した。
「朗読会、もうすぐですね」
「えっ」
「ほら、このポスターの」
 店内に貼られている朗読会開催を知らせるポスター。陳列棚の幅を利用してしっかりと宣伝されている。ちょうど剥がれかけたその天井ポスターも同じものだった。
「あぁ……、そうだね」
「私、この朗読会イベントすごく楽しみにしているんです。朗読されるこの本、昔から大好きで――」
 その時、同期のパート店員が夏美のもとにやって来た。
「野原さん、在庫のことで確認したいことがあるんだけど、ちょっと荷受室に来てもらえないかな?」
「あ、はい!今行きます!」
 夏美は去り際にもう一度真澄に頭を下げた。真澄は応えるように手を軽く振ったあと、脚立に上ってポスターの貼り直し作業に取りかかった。
 彼女が言っていた朗読会イベントは真澄も半分楽しみにしていた。今回取り上げられる作品は真澄自身も好きでよく読んでいた。それに、朗読家も知名度の高い人だ。当日は店舗内に特設会場を設けて開催する、結構大がかりなイベントになっている。真澄もアイディア出しに少し関わっていて、このイベントを成功させたいという思いはあった。
 しかし、もう半分は複雑な思いが真澄の胸に渦巻いて顔を覗かせていた。記憶の片隅に仕舞い込んでいた黒歴史を思い出したからだ。
 ――女みてぇな声。
 傷跡として記憶に残るその言葉が、いつまでも脳裏にこびりついて離れない。
「……好きでこの声になったわけじゃねぇよ」
 真澄は貼り直したポスターを眺めた。天井に吊るされた、目につきやすい大判のポスター。そこに書かれた「朗読会」の文字をなぞると、真澄は重い溜め息を吐いた。
「あー、やめやめ!ネガティブ思考終わり!」
 今は声変わりもして、昔ほど高い声というわけではない。両頬をバシンと叩き、真澄は気持ちを切り替えようとした。
 その時だ。脚立に掛けた足がつるりと滑った。バランスが崩れた真澄の体は徐々に重力に従って床へ向かう。
 咄嗟に空を掴むが成す術はない。宙を舞う真澄の視界はまるで走馬灯のようにゆっくりと流れていった。
 ――ヤバい!
 その落下先には、ちょうど一人の青年がいた。真澄の影がゆっくりと彼を覆っていく。見上げた青年は、思わず口を大きくかっぴらいた。
 ガシャン、と大きな音が店内に響いた。
「痛って……」
 そろりと目を開け、真澄はゆっくりと体を起こした。目下には、巻き込んで下敷きにしてしまった青年の姿。彼の表情は長い前髪のせいでよく見えない。意識はあるだろうか、けがを負わせてしまったのではないかと、真澄は焦って声をかけた。
「あのっ!大丈夫ですか!?」
「う……」
 青年は、のろりと体を起こした。動きはゆっくりだが、どうやら意識はあるようだ。真澄は一先ず胸をなでおろした。無造作に流れる青年の黒髪は、目元まで隠れていて顔を上げても表情があまり見えない。頭を押さえていた青年は急に動きを止めた。
「見えない……」
「へ……?」
 その言葉に思わず血の気が引く。
 真澄は先ほどの光景を思い返した。落下した瞬間、自分の手が彼の目に当たったのではないか。取り返しのつかない怪我を負わせたのではないか。そんなことが頭をよぎり、真澄は徐々に口をわななかせた。
「眼鏡……」
「え?」
「僕の眼鏡、落ちてませんか?」
 辺りを見回すと確かに眼鏡が落ちていた。いや、落ちていたというより、見るも無残な形に成り果てていたと言うほうが正しい。彼の眼鏡は倒れた脚立の下敷きとなり、バラバラに破壊されていた。
「す、すみません!眼鏡、あのっ……壊してしまいました!ちゃんと弁償しますので――」
 深々と頭を下げる真澄。そんな真澄を前に、青年はぽつりと呟いた。
「その声……」
「へ?」
「お客様!どうされましたか!?」
 騒ぎに気付いた店長が真澄たちの元へ駆け寄った。
「店長、すみません!実は……」
 真澄は事の顛末を話し、店長とともに再び頭を下げた。幸い、大きな怪我には至らず事なきを得たが、眼鏡を壊してしまったことだけは、どうにもならなかった。
「大変申し訳ありません。眼鏡の修理代はこちらで負担させていただきますので……」
「あっ、いえ!本当に気にしないでください。ちょうど新しいのを新調しようと考えていたところですし。お代も本当に結構ですから。それより……」
 青年は口元を緩ませると、無造作に流れる黒髪をふわりと揺らして真澄に顔を向けた。
「きみに怪我がなくて良かった」
 青年は「それじゃあ」と言って本屋を出ようとした。
 が、しかし。何だか動きが怪しい。
 距離感を掴めていないのか、手を伸ばし、おぼつかない足取りで歩みを進めていた。ほんの数メートル歩くだけなのに、幾度となく足を棚にぶつけている。
「ちょっ、ちょっと待って」
 真澄は青年の手を掴むと、右手を彼の目の前にかざし指を折り曲げた。
「あの、これ何本に見えますか?」
 指をじいっと見つめる青年。よく見えないのか、徐々に首を伸ばし距離を詰めていく。ようやく「あっ、二本ですね」と笑って答えた時には、青年の顔と指との距離は数センチほどしか離れていなかった。
 なんてことだ、彼はド近眼だ。真澄はその事実に確信を得て、思わず頭を抱えた。そして恐る恐る彼に声をかけた。
「あの……、これから帰宅されるんですか?」
「いえ、今から眼鏡を新調しに行こうかと」
 店内の歩行ですらこんな状態なのに、このまま一人で街中を歩くなんて危険もいいところだ。
 真澄は不安げな顔でお店の時計に目を向けた。バイトが終わる時間まで、まだ一時間以上もある。どうしようと思い悩んでいると、店長が肩をたたいた。
「今日はもう上がっていい。その代わり、彼を眼鏡屋さんに連れて行ってあげてくれ」
「分かりました……!すみません、ありがとうございます店長!」
 本屋に併設されているカフェのテーブル席。真澄は彼に、ここで待っていてほしいと伝えておいた。着替えを済ませてテーブル席へ急ぐと、青年は背を丸くして縮こまって座っていた。長身なのに何だか小さな動物のようだ。真澄は、そう思いながら彼の元へと急いだ。
「お待たせしました!じゃあ行きましょうか」
 その声に青年は肩を跳ねさせて顔を上げた。真澄は彼の目の前に手を差し出すが、どうやら気付いていないようだ。青年は勢いよく立ち上がると、テーブルの脚に引っ掛かって体をよろめかせた。
「だ、大丈夫ですか?危ないですから、俺の手つかんでください」
 そう言って真澄は再び彼の目の前に手を差し伸べた。青年は少し躊躇った様子を見せたが、おずおずと手を動かした。やはり距離感が掴めないのだろう。おぼつかないその手を、真澄はそっと掴んでやわらかく握った。
「あ、ありがとうございます。えっと……」
「あぁ、名前?本田。本田真澄」
「僕は長谷川遼(はせがわりょう)です。よろしくお願いします、本田さん」
 彼はそう言って少し俯くと、もともと前髪で見えなかった顔がマフラーにすっぽりと埋まってしまい、表情がほとんど見えなくなってしまった。
「歩くスピード、これで大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
 夕方から夜にかけて、街中を行き交う人は次第に増えていく。真澄は遼の手をしっかりと握りしめ、離れないように歩幅を合わせて歩みを進めた。雪は止んでいたが、冬の凍てつく空気は街を覆っている。寒空の中、手のひらから伝わる温もりが一層際立った。
「あの……本田さんはおいくつなんですか?」
「二十歳。大学二年生です。長谷川さんは?」
「僕も大学二年生。早生まれなので、まだ十九ですけど」
「えっ同い年!?背も高いし良いコート着てるから、てっきり年上かと……!」
「はは……よく、言われます」
「なんだ同い年だったのか。だったら敬語なんかつけなくていいよ、自分もそうするし。ねぇ、もしかして長谷川くんって芽和大学の学生?」
「はい……あっ、……うん。本田さんも?」
「そうだよ!芽和大の文学部専攻してる。長谷川くんは何学部?」
「僕は社会学部。本田さんは地元ここら辺なの?」
「地元は西部の方。県内だけど、通学するには時間がかかり過ぎるから今は一人暮らししてる」
「へぇ……そう、なんだ」
「あ、ここ歩道橋渡るよ。足元、気を付けてね。ゆっくりでいいから」
 遼が利用している眼鏡店は大型ショッピングモールの中にあるらしい。その商業施設なら真澄もよく利用していたので道案内も容易だった。
「えっと、四階フロアの……あった!」
 店舗の名前を見つけると、真澄は再び遼の手を引いて案内図通りにフロアを進んだ。
 真澄は普段、眼鏡屋には縁がない。つまり、真澄にとってはこれが初めての入店だ。眼鏡と言ったら正直地味なイメージが湧いていた。けれど、商品棚に並べられた沢山の眼鏡は色もデザインも様々で、想像していたよりもずっとお洒落だった。これは見ているだけでも楽しい。そう思いながら店内の眼鏡を眺めていると店員に声を掛けられた。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
 真澄が簡単に説明すると「そういうことでしたら」と、店員は二人をカウンターへ案内した。
 その後の会話は店員と遼で進められ、真澄は隣で話を聞いているだけだったが、どうやら眼鏡というのはフレームだけじゃなくレンズも種類が豊富らしい。選ぶのも大変そうだ、と真澄は思わず心の中でつぶやいた。
 視力検査も済ませ、フレームとレンズを決めた遼は購入手続きに進むため財布を取り出した。
「お待たせいたしました。ではお支払いについてですが、フレームとレンズ合わせて二万八千七百円になります」
「えッ!?」
 声を出したのは真澄だった。店内に響いたその声に、店員と遼は驚いた様子で真澄へ顔を向ける。
「あっ、いや……」
 まさか眼鏡がそんなに高価な物だとは思いもしなかったのだ。真澄は動揺を隠せないでいた。それも無理はない、何しろ真澄のバイト代半月分が飛んでいく額だ。
 真澄はこっそりと尋ねた。
「ねぇ長谷川くん、眼鏡ってこんなにするの……?」
「うん、大体こんなものだよ。僕の場合、目に負担がかかりやすいから特殊なレンズじゃないといけなくて、そのぶん少しレンズの値が張るんだ」
 何ということだ。つまり、約三万円の商品を一瞬で破壊してしまったということだ。しかも壊された本人が自腹で買い直しているというこの状況。
 とんでもないことをしてしまった。そう言わんばかりに、真澄は頭を抱えてその場にうずくまった。
「では、こちらの内容でメーカーに発注しますので、出来上がりは三週間後になります」
「三っ!?」
 再び驚きの声を上げる真澄。店員は苦笑いを浮かべていた。
「えっ、この場で眼鏡渡されるんじゃないんですか!?」
「即日可能な商品もございますが、今回ご注文いただいたレンズは完全受注生産品となりますので、お渡しまで少々お時間を頂戴しております」
「あはは、普段眼鏡を使うことがなかったら知らないよね。特殊な眼鏡ってそういうものなんだよ」
 三週間、そんなに長い間、彼はどうやって生活を送るつもりなのだろうか。ここに辿り着くのも普段の倍以上時間がかかった。しかも隣で手を引いた状態でだ。
 しかし、当の本人は大したことではないような口ぶり。恐らくこういう時の為に替えの眼鏡を持っているのだろう。少し心配ではあるが、今日をやり過ごせば問題はない。きっとそういうことなのだ。真澄はそう思うことにした。
 支払いを済ませ、二人は店を後にした。
「長谷川くん、お家どこらへん?もし良かったら家まで送るよ」
「えっ」
「あっ、ごめん、初対面で家まで行くのはさすがに図々しいよね。ただ、夜道は余計に視界が悪そうだし危ないと思ったから……。あっ、それとも家の人呼んで来てもらう?」
「……僕、一人暮らしだから家には誰もいないんだ」
 遼はマフラーの端をつまむと口元を隠し、顔を埋めて続けた。
「いいの……?」
「え?」
「まだ、一緒にいてくれるの?」
「うん、長谷川くんが嫌じゃなかったら」
 遼はぶんぶんと首を振る。嫌じゃない、というように。真澄はもう一度、手のひらを差し出した。躊躇いがちに伸ばされた遼の指先が、そっと触れる。その瞬間、真澄はふと気付いた。遼の手が、かすかに熱を帯びていた。