「いらっしゃいませ。こちらのお席へどうぞ」
続々と入場する一般客。朗読家が名の知れた有名人なのもあってか、会場は予想以上に客が集まっていた。会場に訪れた店長も、この大勢の入場客の対応に追われていた。
「これは立ち見が出るな。本田くん、椅子まだ追加できそう?」
「はい!少し詰めてもらえたら入ると思いますので、追加分の椅子持ってきますね!」
真澄は急いで備品収納室へ向かった。折り畳み式の椅子ではないため、運ぶ際は椅子同士を重ねるしかない。真澄は四脚ほど重ねると両手で抱えて運び出した。
視界が遮られて少し前が見えづらいな。そう思いながら通路を抜けた時だった。突然、目の端に人影が映った。フロアへ繋がる階段をちょうど上がってきた客だ。衝突を避けるように真澄は足に急ブレーキをかけた。
「わっ……と、すみません!」
咄嗟に顔を見上げると、真澄はそこで完全に足が止まった。
視線の先には、頬を緩ませて「平気」と返す遼の姿があった。その笑顔に胸がチクリと痛み出す。
「あ……来てくれたんだ!ごめん、思った以上に客入りが多くてさ、いい席は案内できそうにないんだ」
「いいよ、僕、立ち見でも平気だから。他のお客さんを優先させてあげて」
「うん……」
今まで通り会話できているだろうか。不自然な顔をしていなかっただろうか。声のトーンは、足の速さは、視線はいつもどこにやっていただろう。今まで、どんなふうに接していただろう。『いつも通り』が思い出せなくて、真澄の視線は逃げるように足元へ落ちていった。遼の顔をちゃんと見ることができない。
「真澄くん、どうかした……?」
彼の手が真澄の肩にそっと触れる。その感触に、真澄は思わず体をビクリと反応させてしまった。
咄嗟に顔を上げたのが悪かった。彼は目を見開いて、面を食らったようにぽかんと口を開けてこちらを見ていた。
鼻の奥がツンと痛い。喉が段々詰まっていく。目頭が熱くなって、視界がじわじわと揺らめいていく。
笑いたければ笑えばいい。きっと、笑えるほどおかしな顔をしているだろう。恋だと自覚した瞬間に失恋しているのだ。頭の中はもうぐちゃぐちゃで、みっともない顔をしていたっておかしくない。
「ごめん、俺、急ぐから!」
真澄は顔を背け、遼の側を横切ると足早にその場から立ち去った。
会場へ戻り、運んできた椅子を下ろすと大分息が上がっていた。
「本田くんありがとう!そっち並べていってくれる?」
「わかりました!」
「あれ、本田くん大丈夫?顔赤いよ?」
「あ……、急いで運んで来たんで、多分そのせいです」
苦笑いを浮かべて、真澄はそう答えた。
その後も椅子を追加していったが、続々と来場者が増えていく。立ち見は免れない多さだ。それにしても、そろそろ会が始まる時間だというのに朗読家がまだ姿を見せていない。
探すように辺りを見回すと、ちょうど会場に足を運んできた遼の姿が見えた。遼も、真澄の姿に気付くと駆け足で向かってくる。
「真澄くん、さっきの……」
「ごめん、仕事中だから。えっと、席は出入り口の側になっちゃうんだけど……」
顔を見せまいと真澄はすぐさま彼の背中へ回った。軽く背を押して、彼を会場内へと促す。
その時だ。夏美が切迫した様子で息を切らしながら会場へやってきた。
「店長!」
夏美はただならぬ空気をまとい店長へ駆け寄る。何かお店でトラブルが起きたのだろうか。思わず真澄も聞き耳を立てた。
「今、お店に連絡が入って、朗読家の方がトンネルの事故渋滞に巻き込まれたそうなんです!」
「え!?」
真澄も駆け寄り、詳しい事情を一緒に聞いた。どうやらトンネル内で大きな事故が起こったようだ。幸い、朗読家が乗った高速バスは事故に巻き込まれることはなかったが、渋滞で足止めされたらしい。トンネル内は電波が繋がりにくく、連絡も今になってしまったそうだ。
「今、別ルートで向かっているそうなんですが、三時の到着は無理みたいです。早くても四時になるみたいで……どうしますか?」
「参ったな……。さすがに客を一時間も待たせるわけにはいかないし、今さら中止を伝えるわけにも……」
「あ、じゃあ一階のカフェのサービス券を配布して、お客さんに一時間後また来ていただくようにお伝えするのはどうですか?」
夏美の提案に店長は難しい顔をして答える。
「この人数分のサービス券を今すぐ用意するのは無理だよ。結局お客さんを待たせることにもなってしまう。それに、設営設備をレンタルしているんだ。返却時間がある。時間をずらすことはできないよ」
開始時間は刻一刻と迫る。遼が心配そうにこちらを見つめていた。恐らく話していた声が所々耳に入ったのだろう。真澄はエプロンをぎゅっと握り締めた。
苦渋の末、中止が伝えられようとした、その時だった。
「待ってください」
真澄は店長を止めると、重く閉ざしていたその言葉を口にした。
「俺が、代役やります」
「え!?」
「確か、献本用に余分に置いてましたよね。それ使わせてください」
「本田くん、そんな急に代役なんて……!」
「朗読家の方が到着するまでの間だけです。それに昔、こういうの、よくやってたんで……大丈夫です。本、取ってきます」
遼の隣を横切ろうとした瞬間、真澄は腕を掴まれ足を止めた。
「待って真澄くん。今、代役って声がしたけど……もしかして、真澄くんが朗読するの?」
真澄は顔を向けずに答える。
「そうだよ」
「平気なの!?だって、真澄くんは――」
「大丈夫だよ。遼くんの前で朗読できたんだ。きっと、もう人前でだって読める」
無理矢理見せた笑顔。手は震え、不安で仕方がないと顔に書いてある。それでも真澄は遼の手を振り切って足を進めた。
大丈夫。大丈夫だ。落ち着かせるように、真澄は何度も心の中で繰り返す。
遼だって今では一人で歩けるのだ。一歩ずつ壁を乗り越えていっている。自分にだってできるはずだ。現に、遼の前ではできたのだ。それに、会場もあの時ほどの広さではない。人数だって、あの時に比べたら断然少ない。きっと乗り越えられる。
店長が開始の挨拶と同時に朗読家の遅れを伝えると、案の定、客からはざわめきが聞こえた。
緊張のせいなのか、真澄はずっと息苦しさが続いていた。客の前にセッティングされた二脚の椅子。そのうちの一脚には、これから朗読する本が静かに置かれている。真澄は一時も視線を逸らすことなく、その本をじっと見つめて、ごくりと喉を鳴らした。
「本田さん、大丈夫ですか……?」
夏美が声をかけるが、もはやその声は真澄には届いていなかった。
店長から合図が送られる。いよいよ出番だ。
ここから一歩踏み出したら一人だ。一人でやりきらなくてはならない。
本当にやれるのか。また同じことが起こるんじゃないのか。いや、やるんだ。大丈夫。行け。歩け。自分も一歩を踏み出すのだ。真澄は必死に自分の心に言い聞かせた。
会場へ足を踏み入れると、瞬時に体へ重圧が襲いかかった。先ほどと同じ空間だなんてとても思えない。足が重い。沼の中を歩いているようだ。体が鉛のようで自由に動けない。目が霞む。視界が狭くて距離が取りづらい。じわじわと首が締まっていくような息苦しさ。喉の奥がじんじんと熱くなる。耳元では、ずっと心臓の音が鳴っている。いや、これは心臓の音なのか。金切り声のような不快な音が真澄の中に響きわたる。
「真澄くん……」
大勢の客の前を歩く彼の様子を、遼は不安な面持ちで見守っていた。
真澄はようやく椅子に辿り着いて席に座るも、本を手に取ることすら精一杯だった。震える両手で本を掴む。うるさく鳴り続ける心臓の音と、耳障りな金切り音。そこに、客のざわめく声が加わった。
思わずその声に体が反応し、真澄の視線は会場内の客へと移された。向けられた幾多の視線。不安を込められた言葉。不服そうにこぼす呟き。怒りが含まれたぼやき。落胆の声。それらが全て合わさって一斉に真澄へと襲い掛かる。瞳孔が開き、真澄の呼吸は次第に上擦っていった。
浅くて早い、上擦った荒い呼吸。息がまるでコントロールできていない。間違いなく、真澄は過呼吸になりかけていた。その姿を目にした遼は咄嗟に通路へ駆け出した。
店員側の出入り口スペースへ向かい、真澄の姿を捉えると遼はそのまま彼の元へ向かおうとした。
「ちょ、ちょっと、きみ!」
侵入しようとする遼の姿に、店長は慌てて声を出した。遼は彼の制止を振り切って、体が赴くまま会場内へ足を踏み入れた。
その瞬間、反動で遼の帽子が宙を舞った。露わになった素顔。しかし、遼は目もくれず無我夢中で真澄の元へと駆け出した。
息ができない。呼吸の仕方がわからない。目眩がする。視界が狭くなる。段々と目の前が暗くなっていく。意識が遠のいていく、この感じは……。
――あぁ、あの時と同じだ。
「真澄くん!」
肩を抱き寄せられ、促されるように胸元へ顔を預けると、規則正しい心音が真澄の耳に響いた。これは自分の音だろうか。でも、うるさくはない。穏やかで、安心する、心地のいい音。背中に回された手から、ほんのりと体温が伝わった。
真澄はゆっくりと顔を上げた。狭い視界の中、瞳に映し出された遼の素顔。
安堵と、悔しさと、悲しさと、恋しさ。真澄の内側から溢れ出す様々な感情。声を出そうと振り絞るが、呼吸は未だ正常に整わない。
ここでは駄目だ。遼はそう思い、真澄の背中を支えながら、その膝をすくい上げて抱き上げた。客の視線が一斉に遼へと向かう。遼は一瞬怯んだが、声を張って言葉を口にした。
「……十分!十分だけ時間をください!お願いします!」
そう言うと直ぐさま駆け出し、会場を飛び出した。走り去るその背中をポカンと見つめる店長。
「……だ、誰だったんだ、今のイケメン」
その隣には、心配そうな表情を浮かべて、小さくなっていく彼の背中を見つめる夏美がいた。
「あんなに苦しそうな本田さん、初めて見た……」
続々と入場する一般客。朗読家が名の知れた有名人なのもあってか、会場は予想以上に客が集まっていた。会場に訪れた店長も、この大勢の入場客の対応に追われていた。
「これは立ち見が出るな。本田くん、椅子まだ追加できそう?」
「はい!少し詰めてもらえたら入ると思いますので、追加分の椅子持ってきますね!」
真澄は急いで備品収納室へ向かった。折り畳み式の椅子ではないため、運ぶ際は椅子同士を重ねるしかない。真澄は四脚ほど重ねると両手で抱えて運び出した。
視界が遮られて少し前が見えづらいな。そう思いながら通路を抜けた時だった。突然、目の端に人影が映った。フロアへ繋がる階段をちょうど上がってきた客だ。衝突を避けるように真澄は足に急ブレーキをかけた。
「わっ……と、すみません!」
咄嗟に顔を見上げると、真澄はそこで完全に足が止まった。
視線の先には、頬を緩ませて「平気」と返す遼の姿があった。その笑顔に胸がチクリと痛み出す。
「あ……来てくれたんだ!ごめん、思った以上に客入りが多くてさ、いい席は案内できそうにないんだ」
「いいよ、僕、立ち見でも平気だから。他のお客さんを優先させてあげて」
「うん……」
今まで通り会話できているだろうか。不自然な顔をしていなかっただろうか。声のトーンは、足の速さは、視線はいつもどこにやっていただろう。今まで、どんなふうに接していただろう。『いつも通り』が思い出せなくて、真澄の視線は逃げるように足元へ落ちていった。遼の顔をちゃんと見ることができない。
「真澄くん、どうかした……?」
彼の手が真澄の肩にそっと触れる。その感触に、真澄は思わず体をビクリと反応させてしまった。
咄嗟に顔を上げたのが悪かった。彼は目を見開いて、面を食らったようにぽかんと口を開けてこちらを見ていた。
鼻の奥がツンと痛い。喉が段々詰まっていく。目頭が熱くなって、視界がじわじわと揺らめいていく。
笑いたければ笑えばいい。きっと、笑えるほどおかしな顔をしているだろう。恋だと自覚した瞬間に失恋しているのだ。頭の中はもうぐちゃぐちゃで、みっともない顔をしていたっておかしくない。
「ごめん、俺、急ぐから!」
真澄は顔を背け、遼の側を横切ると足早にその場から立ち去った。
会場へ戻り、運んできた椅子を下ろすと大分息が上がっていた。
「本田くんありがとう!そっち並べていってくれる?」
「わかりました!」
「あれ、本田くん大丈夫?顔赤いよ?」
「あ……、急いで運んで来たんで、多分そのせいです」
苦笑いを浮かべて、真澄はそう答えた。
その後も椅子を追加していったが、続々と来場者が増えていく。立ち見は免れない多さだ。それにしても、そろそろ会が始まる時間だというのに朗読家がまだ姿を見せていない。
探すように辺りを見回すと、ちょうど会場に足を運んできた遼の姿が見えた。遼も、真澄の姿に気付くと駆け足で向かってくる。
「真澄くん、さっきの……」
「ごめん、仕事中だから。えっと、席は出入り口の側になっちゃうんだけど……」
顔を見せまいと真澄はすぐさま彼の背中へ回った。軽く背を押して、彼を会場内へと促す。
その時だ。夏美が切迫した様子で息を切らしながら会場へやってきた。
「店長!」
夏美はただならぬ空気をまとい店長へ駆け寄る。何かお店でトラブルが起きたのだろうか。思わず真澄も聞き耳を立てた。
「今、お店に連絡が入って、朗読家の方がトンネルの事故渋滞に巻き込まれたそうなんです!」
「え!?」
真澄も駆け寄り、詳しい事情を一緒に聞いた。どうやらトンネル内で大きな事故が起こったようだ。幸い、朗読家が乗った高速バスは事故に巻き込まれることはなかったが、渋滞で足止めされたらしい。トンネル内は電波が繋がりにくく、連絡も今になってしまったそうだ。
「今、別ルートで向かっているそうなんですが、三時の到着は無理みたいです。早くても四時になるみたいで……どうしますか?」
「参ったな……。さすがに客を一時間も待たせるわけにはいかないし、今さら中止を伝えるわけにも……」
「あ、じゃあ一階のカフェのサービス券を配布して、お客さんに一時間後また来ていただくようにお伝えするのはどうですか?」
夏美の提案に店長は難しい顔をして答える。
「この人数分のサービス券を今すぐ用意するのは無理だよ。結局お客さんを待たせることにもなってしまう。それに、設営設備をレンタルしているんだ。返却時間がある。時間をずらすことはできないよ」
開始時間は刻一刻と迫る。遼が心配そうにこちらを見つめていた。恐らく話していた声が所々耳に入ったのだろう。真澄はエプロンをぎゅっと握り締めた。
苦渋の末、中止が伝えられようとした、その時だった。
「待ってください」
真澄は店長を止めると、重く閉ざしていたその言葉を口にした。
「俺が、代役やります」
「え!?」
「確か、献本用に余分に置いてましたよね。それ使わせてください」
「本田くん、そんな急に代役なんて……!」
「朗読家の方が到着するまでの間だけです。それに昔、こういうの、よくやってたんで……大丈夫です。本、取ってきます」
遼の隣を横切ろうとした瞬間、真澄は腕を掴まれ足を止めた。
「待って真澄くん。今、代役って声がしたけど……もしかして、真澄くんが朗読するの?」
真澄は顔を向けずに答える。
「そうだよ」
「平気なの!?だって、真澄くんは――」
「大丈夫だよ。遼くんの前で朗読できたんだ。きっと、もう人前でだって読める」
無理矢理見せた笑顔。手は震え、不安で仕方がないと顔に書いてある。それでも真澄は遼の手を振り切って足を進めた。
大丈夫。大丈夫だ。落ち着かせるように、真澄は何度も心の中で繰り返す。
遼だって今では一人で歩けるのだ。一歩ずつ壁を乗り越えていっている。自分にだってできるはずだ。現に、遼の前ではできたのだ。それに、会場もあの時ほどの広さではない。人数だって、あの時に比べたら断然少ない。きっと乗り越えられる。
店長が開始の挨拶と同時に朗読家の遅れを伝えると、案の定、客からはざわめきが聞こえた。
緊張のせいなのか、真澄はずっと息苦しさが続いていた。客の前にセッティングされた二脚の椅子。そのうちの一脚には、これから朗読する本が静かに置かれている。真澄は一時も視線を逸らすことなく、その本をじっと見つめて、ごくりと喉を鳴らした。
「本田さん、大丈夫ですか……?」
夏美が声をかけるが、もはやその声は真澄には届いていなかった。
店長から合図が送られる。いよいよ出番だ。
ここから一歩踏み出したら一人だ。一人でやりきらなくてはならない。
本当にやれるのか。また同じことが起こるんじゃないのか。いや、やるんだ。大丈夫。行け。歩け。自分も一歩を踏み出すのだ。真澄は必死に自分の心に言い聞かせた。
会場へ足を踏み入れると、瞬時に体へ重圧が襲いかかった。先ほどと同じ空間だなんてとても思えない。足が重い。沼の中を歩いているようだ。体が鉛のようで自由に動けない。目が霞む。視界が狭くて距離が取りづらい。じわじわと首が締まっていくような息苦しさ。喉の奥がじんじんと熱くなる。耳元では、ずっと心臓の音が鳴っている。いや、これは心臓の音なのか。金切り声のような不快な音が真澄の中に響きわたる。
「真澄くん……」
大勢の客の前を歩く彼の様子を、遼は不安な面持ちで見守っていた。
真澄はようやく椅子に辿り着いて席に座るも、本を手に取ることすら精一杯だった。震える両手で本を掴む。うるさく鳴り続ける心臓の音と、耳障りな金切り音。そこに、客のざわめく声が加わった。
思わずその声に体が反応し、真澄の視線は会場内の客へと移された。向けられた幾多の視線。不安を込められた言葉。不服そうにこぼす呟き。怒りが含まれたぼやき。落胆の声。それらが全て合わさって一斉に真澄へと襲い掛かる。瞳孔が開き、真澄の呼吸は次第に上擦っていった。
浅くて早い、上擦った荒い呼吸。息がまるでコントロールできていない。間違いなく、真澄は過呼吸になりかけていた。その姿を目にした遼は咄嗟に通路へ駆け出した。
店員側の出入り口スペースへ向かい、真澄の姿を捉えると遼はそのまま彼の元へ向かおうとした。
「ちょ、ちょっと、きみ!」
侵入しようとする遼の姿に、店長は慌てて声を出した。遼は彼の制止を振り切って、体が赴くまま会場内へ足を踏み入れた。
その瞬間、反動で遼の帽子が宙を舞った。露わになった素顔。しかし、遼は目もくれず無我夢中で真澄の元へと駆け出した。
息ができない。呼吸の仕方がわからない。目眩がする。視界が狭くなる。段々と目の前が暗くなっていく。意識が遠のいていく、この感じは……。
――あぁ、あの時と同じだ。
「真澄くん!」
肩を抱き寄せられ、促されるように胸元へ顔を預けると、規則正しい心音が真澄の耳に響いた。これは自分の音だろうか。でも、うるさくはない。穏やかで、安心する、心地のいい音。背中に回された手から、ほんのりと体温が伝わった。
真澄はゆっくりと顔を上げた。狭い視界の中、瞳に映し出された遼の素顔。
安堵と、悔しさと、悲しさと、恋しさ。真澄の内側から溢れ出す様々な感情。声を出そうと振り絞るが、呼吸は未だ正常に整わない。
ここでは駄目だ。遼はそう思い、真澄の背中を支えながら、その膝をすくい上げて抱き上げた。客の視線が一斉に遼へと向かう。遼は一瞬怯んだが、声を張って言葉を口にした。
「……十分!十分だけ時間をください!お願いします!」
そう言うと直ぐさま駆け出し、会場を飛び出した。走り去るその背中をポカンと見つめる店長。
「……だ、誰だったんだ、今のイケメン」
その隣には、心配そうな表情を浮かべて、小さくなっていく彼の背中を見つめる夏美がいた。
「あんなに苦しそうな本田さん、初めて見た……」
