白のワイシャツに黒色のズボン姿。バイトの制服のままテーブルへやってきた真澄は、仕事着のエプロンを外しただけのシンプルな装いだった。
「お待たせ」
 手に持っていたコーヒーカップからは、ゆらゆらと白い湯気が立ち昇る。淹れたてのいい香りが漂った。
「その本、俺が前に面白いって勧めたやつだよね」
 テーブルの上に置かれたカバーの掛かった本。それは今日、真澄がレジで包んだものだ。遼は本をそっと撫でながら答えた。
「うん。面白くてあっという間に読んじゃった。他のシリーズも読んでみたいな」
 それを聞くと、真澄は目を輝かせて話に身を乗り出した。
「だったら海シリーズがお勧め!結構長い話なんだけどさ、伏線がたくさん散りばめられてて、解き明かしていくと堪らなくぞくぞくするから是非読んでみて!」
 真澄の食いつきに目をぱちくりとさせた後、遼は目元を細めて穏やかに返した。
「真澄くんは本当に色々な本を知ってるね」
「まぁ、唯一の趣味だからね。遼くんは本買うことってあまりないの?」
「買うけど、僕はオーディオブックが多いかな。長時間の読書は目に負担がかかっちゃうんだ。あと、かさばらなくて済むから、そこは助かってる」
「あー、それはある。俺、本買い過ぎて部屋が書庫みたいになってるんだよね」
「でも、やっぱりページを捲るこの感覚は捨てがたいよね。読み進めると、厚みがあった後ろのページが段々と薄くなっていって、終わりが近付いているのが分かると、より感情移入するっていうか」
「それ分かる!ページを捲る時のドキドキ感が堪らないんだよ!やっぱり本は紙媒体が一番いい!」
 前のめりになって話に花を咲かせる真澄に、遼は安堵したように微笑んだ。
「……よかった」
「え、何が?」
「少し、避けられてる気がして。真澄くん、昨日のことで怒ってたみたいだから」
「あ……それは……」
「僕、真澄くんにちゃんと謝りたいんだ。本当は、夕方、真澄くんが家に戻って来るまで待っていようと思ってたんだけど、どうしても早く会って話がしたくなって。そう思ったら居ても立っても居られなくて、気が付いたら真澄くんのバイト先まで来ちゃってた」
 遼はテーブルに置いていた自身の手を握り締め、うつむき加減で言葉にした。
「……僕、真澄くんにだけは嫌われたくないんだ」
 真澄は咄嗟に両手を振って落ち込む遼をなだめた。
「そんな!俺、遼くんのこと嫌いになんかならないよ!?」
「ほ、本当!?」
「うん」
 パッと顔を上げて安堵の表情を見せる遼。真澄は振っていた手をゆっくりと膝上に戻すと、視線を揺らめくコーヒーの湯気に移した。立ち昇る白い湯気を伏し目がちに眺めてぽつりと呟く。
「……ただ、少し悲しくなった」
「え?」
「話してたこと、全部、無かったことにされたみたいで……。そんなの、遼くんの体質なんだから仕方ないのにね。こっちこそ勝手にイライラしちゃってごめん。本当にもう怒ってないから安心して」
 このまま遼と変にギクシャクしたくはない。彼は何も覚えていないのだ。だったら、自分も忘れて本当に無かったことにすればいい。そうすれば何も考えなくて済むし、全部丸く収まる。真澄はそう思いながらコーヒーカップを手に取った。溜めていたものを吐息に混ぜてコーヒーに吹きかける。これで昨日のことは全て忘れよう。誓うように、ゆっくりとカップに口をつけた。
「僕、真澄くんと何を話したの?」
 真澄は反射的にコーヒーを吹き出した。
「何か、大切な話をしてたんだね?それを僕が忘れちゃって、真澄くんに悲しい思いをさせちゃったってとこだよね!?真澄くんは僕に何を話したの?僕は、真澄くんに何を言ったの!?」
「え、いやそれは……」
 ずいっと体を乗り出す遼に、真澄は思わず気圧された。
「教えて真澄くん!」
 せっかく無かったことにしようと思ったのに。遼の思わぬ食いつきに、真澄は視線を逸らしてたじろいだ。
「た、大したことじゃないって……」
「じゃあ何で目を逸らすの?大したことじゃないなら尚更言えるはずでしょ?」
 遼は一向に身を引いてくれそうにない。そろりと視線を戻すと、そこには、真っ直ぐで切実な瞳を向ける遼の姿があった。
「教えてほしいんだ、真澄くん」
 心臓の鼓動が波打つ。彼の真剣な眼差しが、真澄の心に一層訴えてくる。真澄は肩をすくめると、こうべを垂れて首元に手をやった。
 本当に聞きたいのはこっちの方だ。昨日、遼が言っていた『好き』という二文字は本当にファンや友達関係としての意味なのか。あの時、触れそうになった唇は偶然だったのか。それらを聞いたら、遼はどう答えるのだろう。
 結んだ唇にキュッと力が入る。心の奥に、あの箱を見付けてしまってから答え合わせをするのが怖かった。開けてしまったら、あの時のように砂になって消えてしまう気がして怖くなった。でも、その箱は避ければ避けるほど大きくなって、真澄には、もう見て見ぬふりなど出来なくなっていた。
 真澄は、つぐんでいた唇をゆっくりと開くと小さく深呼吸をした。
「……わかった、言うよ」
 その言葉を受けると、遼はようやく浮かせていた腰を落ち着かせた。
 膝上に戻した手をぎゅっと握り締める。真澄は唾を飲み込み、ひと呼吸置くと口を開いた。
「遼くんは、俺のこと、……好き?」
 その質問に彼はきょとんとしている。そして当然のように笑顔で返した。
「うん、好きだよ。真澄くんは僕にとってかけがえのない大切な人だから」
 ファンだって、友達だって、そういう存在になり得る。聞きたいのはそういう遠回しな言葉ではない。
「それはつまり、どういう意味で……?」
「どうって……」
 遼は照れながらも頬を緩ませて続けた。
「僕にとって真澄くんは特別な存在だよ。そうだな、つまり……」
 心臓の音が大太鼓のように反響する。手の震えが抑えられない。息が止まりそうだ。怖い。でも、聞きたい。遼は何て言う。ファンか、友達か、それとも――。
「大切な恩人、かな」
 その言葉を耳にした瞬間、真澄はゆっくりと首を垂れ、沈黙したまま動かなくなった。
「真澄くん……?」
「……昨日さ、この生活がもうすぐ終わるねって話をしたんだ」
 顔を上げると真澄は遼にパッと笑顔を向けた。
「遼くんはもう顔を出して歩けるし、今度は観光地とか人が多そうな場所にもチャレンジしようって話をしたんだよ。そしたら観光地はどこが良いかって話になって、すっごく盛り上がったのに、遼くん全部忘れちゃうんだもん」
「そうだったの?ごめんね、僕こんな酒癖があるなんて思わなくて……」
「いいよいいよ。それより、遼くん本当にすごいね。ついこの間まで顔隠していないと外歩けなかったくらいなのに、今じゃここまで一人で来ることができてる。もう俺が居る必要もないね。その帽子を取って歩ける日も近いかもよ」
「そう、かな」
 真澄は時計を見やると、そそくさと席を立ち、飲みかけのカップを手に取った。
「ごめん、俺もう仕事に戻る。そうだ、三時からここの六階で朗読会イベントやるんだけど、参加費無料だし遼くんも良かったら聞きに来なよ。俺、客入れ誘導係だから、来てくれたら一番いい席案内するよ」
「えぇ、いいのそれ?」
「友達の特権ってやつだよ」
 真澄はニッと口角を上げ、ピースを見せる。「じゃあ」と告げて真澄は休憩室へ戻っていった。
 しんとした薄暗い休憩室。誰もいなくて良かったと、そう思ったら微かに口角が上がった。電気も点けないまま扉を閉め、そのまま背を預けると真澄はしゃがみ込んでうなだれた。
「何、期待してんだ俺……」
 大切な恩人。噓偽りのない遼の素直な言葉。この上ない賛辞の言葉だ。なのに今は、その言葉が真澄の胸を苦しいほどに締め付ける。
 心の中にあるそれは、結局パンドラの箱だったのだ。こんな思いをするのなら開けなければよかった。けれど、もう遅い。知ってしまった、分かってしまった。この気持ちに、気付きたくなかった。
 真澄はうずくまり、シャツがぐしゃぐしゃになるのも構わず思い切り袖を握り締めた。頬を伝って落ちる涙が、静かに袖へと滲んでいった。