空に向かって息を吐くと、温かな吐息が白く舞った。今日も一段と寒い。こんな日の晩御飯は体が温まる鍋がいいかもしれない。そんなことを考えながら、真澄は雪が降りそうな曇った空を見上げた。
今日はバレンタイン当日。と言っても既に半日が過ぎ、そろそろ夕方が近付く頃だ。まだ間に合うと言わんばかりに、あらゆるお店が最後の売り出しに精を出す。相変わらず大層な賑わいだ。
「真澄くんは甘いもの好き?」
シンプルなワンポイントロゴの入ったキャップを被り、隣でそう聞いてきたのは遼だった。イケメンという自分の顔にコンプレックスを抱き、外で顔を晒すことに怯えていた彼だったが、先日の一件をきっかけに、顔を出して外を出歩けるようになった。
とはいえ、不安が全く無くなったわけではない。全てを晒すのには、まだ抵抗がある。そんなわけで、こうやって帽子で少し顔を隠しているのだ。それでもこれは大きな一歩だ。少しずつでいい。いつか周りを気にすることなく、笑って外を歩けるようになれたら嬉しい。彼の日常にそんな穏やかな日がきてくれたらと、真澄は心からそう思った。
「そうだなぁ、甘いものは結構好きなほうだよ。洋菓子、和菓子問わず何でも」
暖を求めてカフェへ入ると、店内は冷えた頬を包むような暖かさと、香ばしいコーヒー豆の香りが広がっていた。
「そっか、良かった」
良かった、とは何がだろう。にこにこと笑顔を向けている遼をちらりと目をやってから真澄はホットコーヒーを二つ注文した。
「真澄くん、実はね……」
そう言って遼はダウンジャケットから小箱を取り出した。手のひらサイズに納まる小さな青い箱。十字に掛けられた白いリボンがアクセントになって、可愛らしくもお洒落な装飾だ。遼はそれを真澄の前へと差し出した。
「え?」
「僕から真澄くんに。バレンタインのチョコ、受け取ってくれると嬉しいな」
頬を染めながら、はにかんだ笑顔を向ける遼。真澄は思いもしなかったサプライズプレゼントに思わず固まった。箱を見つめたまま動かないでいる彼に、遼は慌てて言葉を付け加えた。
「えっと、ほら!真澄くんにはいつも助けてもらってるし、何かお礼をしたいなと思って、それであの、えっと……」
義理チョコ、友チョコ、感謝チョコ、贈り方には様々な言い方がある。女性から女性へのチョコのプレゼントだってある。だったら男性から男性へのプレゼントがあったっていいのだ。
じわじわと、真澄の心が高揚感に包まれる。湧き上がる熱は、あっという間に顔を覆った。みっともないほどに緩んだ口元。手で隠しても、きっと隠しきれていなかっただろう。真澄は真っ赤に染まった頬を覆いながら遼に伝えた。
「うん……、ありがとう。すごく嬉しい……」
可愛くお洒落にあしらわれたその小さな箱が、まるでキラキラと輝く宝箱のように思えた。両手で大切そうに手に取ると、その様子に、遼もまた頬を緩めた。
「喜んでもらえて良かった」
「えへへ、びっくりしたよ。まさか俺が誰かからチョコを貰う日が来るなんてさ」
「そうなの?真澄くんが一個もチョコを貰ったことがないなんて信じられないよ。こんなに素敵な人なのに」
遼はさらりと言葉を贈る。不意打ちのそれは真澄にとっては爆弾のようなものだった。受け止める準備が追い付かず、胸の奥で爆発を繰り返す。収まりきっていない頬の赤みがまたたく間に広がっていく。忙しい熱の上昇に真澄の胸の中も大忙しだ。
「お待たせしました」
ホットコーヒーが運ばれてくると、真澄は待ってましたと言わんばかりにカップを口に運んだ。既に火照った体にホットコーヒーは熱すぎる。冷ますことを忘れて口にすると、真澄はその熱さに思わず飛び跳ねた。
そんな真澄の姿に遼がふっと笑う。テーブルにこぼれ落ちたコーヒーを拭きながら真澄もつられて笑い出す。
「あーあ、俺も遼くんにチョコ用意しとけばよかった」
「えっ、そ、そんな、僕はいいよ!それに僕、高校の時チョコ貰いすぎた反動で、あまり食べたいと思わなくなっちゃって……」
「そんな大量に貰ったの?」
たくさん貰ったのだろうと思ってはいたが、実際の量を聞いて驚いた。遼が言うには段ボール三箱は必要だったそうだ。もはや一生分の量ではなかろうか。毎年バレンタイン当日は親に軽トラで迎えに来てもらい、荷台に積んで帰っていたそうだ。それは羨ましいを通り越して、ちょっと気の毒に思えてくる。
「しかもうちの親、バレンタインだからって僕の誕生日ケーキまでチョコを選んで買ってきてさ、もう本当に参っちゃったよ」
「あははっ、それは災難だ。……ん?誕生日?」
はたと止まり、真澄は聞き返す。
「あ、僕バレンタインデーが誕生日なんだ。だからチョコ以外にもプレゼントやら何やら色々貰う物が多くて、結果的にかさばって段ボール三箱分になってたんだよ」
あはは、と頭をかきながら笑う遼に、真澄は身を乗り出して言った。
「そうじゃなくて!バレンタインが誕生日って、今日じゃん!遼くん今日誕生日だったの!?」
遼は思わぬ反応を示す真澄に驚きながら「うん」と返す。真澄は額に手を置いてゆっくり天井を仰いだ。そうして、背もたれに吸い込まれるように、よろよろと体を預けた。
「えー!遼くん言ってよー!俺プレゼント何にも用意してないよ!」
「プレゼントだなんて……!いいよいいよ!気にしないで真澄くん!」
遼はブンブンと両手を振って答えると、一呼吸置いて、その手をゆっくりおさめた。薄紅色の頬がふわりと緩む。伏し目になると、遼の長い睫毛が目元を艶やかに印象付けた。
「……それに、僕はもう、真澄くんから沢山のプレゼントを貰っているから」
「え?」
「嫌な顔一つせずに、この生活を一緒に送ってくれた。僕のこと真正面から見てくれて、僕の言葉を好きだと言ってくれた。僕のわがままを、いっぱい聞いてくれた。沢山お礼を言っても言い切れないほどだよ」
艶めいた瞳を細め、遼はほころんだ笑顔で真澄を見つめた。その美しくもあどけない表情は、真澄の心を掴んで離さない。繰り返し広がる熱と胸の音。その高鳴りが、真澄の中で一層加速していった。
カフェを出て、スーパーへ寄った頃には夕方の景色に変わっていた。
買い物袋を片手にさげ、二人は駅へと歩く。冬は日が落ちるのが本当に早い。辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「そうだ、遼くん今日で二十歳なんだし、お酒買って帰ろうよ!一緒に飲も!」
遼は、ぱあっと目を見開いて見せた。
「うん!真澄くんと一緒にお酒が飲めるなんて嬉しいな。僕、お酒のこと全然わからないんだけど、どんなのがお勧め?真澄くんは好きなお酒ある?」
「俺は大体ビールを飲むかな。あとはハイボールとか焼酎とか。遼くんはまずビールから飲んでみたらどうかな?遼くんがいける口だったら一緒に飲み比べとか――」
その時、歩いていた男性とすれ違いざまに肩がぶつかってしまった。真澄が咄嗟に謝罪の声をかけると、数人で歩いていたその男性は立ち止まり、振り返ると確かめるように真澄の名前を呼んだ。
「もしかして本田くん?」
「え?」
「ほら、俺だよ俺。中高一緒だったじゃん」
沢山のピアスで飾られた耳。派手な赤メッシュの髪に、白と黒であしらわれたパンクロックなファッション。こんな目立つ奴が居たら記憶に残らないはずがない。真澄は必死に記憶を辿るも、彼の姿に思い当たる節がない。
「あ、そっか。この姿見るの初めてだもんね。柴崎だよ。柴崎圭介」
真澄の記憶の中にある柴崎圭介という人物は、切り揃えられたストレートの黒髪に、黒縁眼鏡をかけた、控えめで大人しい目立たない生徒だった。学ランも首元までボタンを留め、いかにも真面目を描いたような姿だ。以前の彼からは、とても想像がつかない。その変わりっぷりに真澄は目を丸くした。
「うそ!?びっくりしたぁ!本当に柴崎くんなの?昔と全然違うから気付かなかったよ」
「大学デビューってやつ?驚くのも無理ないよね」
「なになにー?圭介のダチ?」
一緒に歩いていた友人たちが顔を出す。
「そう、地元の友達なんだ。実は彼、ちょっと凄い人なんだよ。中学の時、朗読で全国大会に出場した経験があるんだ」
真澄の胸がドクンと波打った。背筋が一気に凍りつく。脳裏に、あの黒歴史が蘇ってくる。
「朗読で全国大会?それってすごいの?」
「凄いんだよー!朗読の甲子園みたいなものなんだから。そういえば本田くん、あれ治ったの?」
「え、あれって……?」
「ほら、いつからか大勢の人前で喋れなくなっちゃったでしょ?あがり症ってやつ?あれから朗読の活動もやってないの?」
手が震える。まるで、喉の奥をじわじわと絞めつけられていくようだ。その話題を出されると胸がぎりぎりと痛みだす。
何か言って話題を変えなければ。何か、言葉を。何でもいい、言葉を。何か言え。言え。言うんだ。そう頭で指示を出すのに、真澄の口からは声が一向に出ない。
声の出し方が、分からなくなっていた。
途端、何かが頭に被さった。目の前が急に真っ暗になり、前が見えない。
「すみません、そろそろいいですか。僕たち急いでいるんで」
遼の声だ。被さった布地からふわりと匂う同じシャンプーの香り。遼の帽子が真澄の頭をすっぽりと覆っていた。すると、眼前の視界がふっと元の景色へと戻った。遼は再び顔を隠すように帽子を被り直すと、合図するように真澄の手を軽く引いた。
「あ……、ごめん!俺もう行くから!」
二人は逃げるようにその場を離れた。あのまま居続けたら恐らく醜態をさらしていただろう。正直、遼のおかげで助かった。真澄はそう思いながら胸を撫で下ろした。
「真澄くん、大丈夫?」
「あ……うん、ありがとう遼くん。もう平気!あっ、ちょうど電車来たところみたいだよ。急いで乗ろう!」
真澄は電車に乗ってからというもの、遼に絶え間なく話題を振り続けた。まるで先ほどの出来事を忘れようとするかのように。
「――で、食べ合わせがあるように、お酒も飲み合わせっていうのがあって――」
「真澄くん」
玄関のドアを閉めると同時に、遼が真澄の話を遮った。彼は帽子を脱ぐと、ゆっくりと真澄に顔を近付けた。
「へ?」
遼の艶やかな瞳が真澄を真っ直ぐ見つめる。徐々に近付く遼の顔。心拍数がいきなり跳ね上がる。真澄はどう反応したらいいのか分からず、咄嗟に目を瞑った。すると、こつん、と小さな感触がおでこに響いた。
そろりと目を開けると、お互いのおでこが重なり合っていた。鼻がわずかに触れ合う。近い。これはいくら何でも近過ぎないだろうか。真澄は声を裏返しながら聞いた。
「りょ、遼……くん?」
彼の両手が真澄の頬を優しく包む。親指でそっと撫でられると、体がピクリと反応して、持っていた買い物袋がゆるりと手から滑り落ちた。
「僕、長い時間、外にいたから、ちょっと疲れちゃったみたい。ねぇ真澄くん、このまま一緒に深呼吸してくれないかな?」
「え?しん、こきゅ……?」
「はい、吸って。……吐いて。吸って。……吐いて。……真澄くん、ちゃんとやってる?ほら、もう一回」
言われるがまま、遼のタイミングに合わせて深呼吸を繰り返す。二度三度繰り返すと、重ねていたおでこがそっと離れた。穏やかな笑みが真澄に注がれる。
「落ち着いた?」
そう言われて、ようやく気付く。呼吸が、さっきよりもずっと楽になっている。恐らく、浅い呼吸をずっと繰り返していたのだろう。
「真澄くん、あの同級生と話してる時、手が震えてたから。その後もずっと喋り続けていたけど、いつもの落ち着いた声じゃなかったし、何だか辛そうだったから」
自分では全く気付かなかった。多分、無意識に体がこわばっていたのだ。
「あ……ありがとう遼くん」
遼のおかげで呼吸が楽になった。さっきもそうだ。遼の香りがした途端、遼の声が聞こえた途端、遼が傍にいると感じた途端に、声が出るようになった。体の力が抜けて、安心したのだ。
「あはは……カッコ悪いとこ見せちゃったな」
「カッコ悪くなんかないよ。それを言うなら、僕の方がよっぽどカッコ悪いところ沢山見せてる。その度に真澄くんに助けてもらってるしね」
遼は真澄の両手をそっと掬い上げた。指先から伝わる遼の体温。顔を上げると、真澄はその眼差しに思わずハッとした。彼の姿から、いつものあどけなさが感じられない。その穏やかな眼差しの中には、しなやかに佇む一本の樹のような、落ち着いた中に雄々しさを感じさせる雰囲気が漂っていた。今までの彼とは、どこか違って見える。
「だから真澄くんも、何か辛いことがあったら言って。僕も真澄くんの力になりたいから」
その表情は陽だまりのような温かさを帯びていた。降りそそぐ柔らかな眼差しに、真澄の瞳は光をまとって揺らめいた。重く閉ざしていた記憶とともに、真澄の口がゆっくりと開かれていく。背中をそっと押されるように、心の内に仕舞い込んでいた思いが言葉になってこぼれていく。
「……さっきの、本当なんだ」
「え?」
「……俺、もう、昔みたいに朗読ができないんだ」
はっきりと、そう言葉にしてしまうと胸が潰れそうになる。当たり前のように持っていたものが、突然、砂のように指からこぼれ落ちていく――そんな絶望感が蘇ってきて、真澄は手のひらをぎゅっと握り締めた。
「……大勢の人前に立つと声が出なくなるんだ。中学の時、出場した朗読の全国大会で、俺、女みたいな声だって笑われてさ……。そのあと壇上に登った途端、息が苦しくなって、呼吸が変になって、俺はその場で倒れたんだ。よく覚えてないけど、そのとき向けられた大勢の視線が、凄く怖かったのだけは覚えてる」
真澄の声が微かに震え出した。
「それからなんだ。大好きだった朗読を披露するのが怖くなったのは」
読もうとしても声が出ない。息が上手くできなくなり、過呼吸を起こすようになった。そしてその現象は朗読の時のみならず、授業中にも及んだのだ。
席を立った瞬間、たった一文、教科書に書いてある文章を読み上げるだけなのに、声が出なくなった。どんなに口を動かしても、息を押し出そうとしても、声が出ない。手が震え、汗をかき、次第に呼吸が荒くなっていった。先生とクラスメートたちの視線は一気に真澄に集まった。その光景があの時の視線と重なり、真澄はフラッシュバックを起こして再び気絶したのだ。
「……でも、真澄くん、このあいだ僕に朗読してくれたよね?」
俯いたまま、真澄はこくりと頷く。
「あの時は、遼くんだったから」
「僕?」
「あんなことが起きてから、もう、人に読み聞かせをするようなことは、しないでおこうって、ずっと思ってた。読んでいる時の自分の声を聞くのも嫌だった。でも……」
顔を上げた真澄の目には光る粒が浮かんでいた。
「俺の声を好きだって言ってくれた遼くんなら、もしかしたら、読んでも怖くないかもしれないって思って……!」
遼は真澄の目元にそっと手を伸ばし、人差し指で優しく撫でた。
「僕に本を読んだ時、怖かった?」
真澄はふるふると首を横に振る。
「怖くなかった。怖くなかったよ」
胸が苦しい。先ほどのようにズキズキと痛むわけではない。胸の奥で何かが溢れそうになっている。この気持ちは何なのだろうか。無性に遼に触れたい。触れたくてたまらない。
遼の体温を、香りを、声を確かめたい。遼がここに居るのだと、肌で感じて確かめたい。そう思ったら躊躇いなど無くなっていた。真澄は気持ちが赴くまま遼の体に顔を埋めた。
涙が止まり、昂った感情が落ち着いた頃、真澄はようやく気付く。遼に、思いっきり抱き付いてしまったことに。じわじわと顔が熱くなり、真澄は我に返った。
「ご、ごごごめん何やってんだろ俺!もう大丈夫だから!ありがとう遼くん!」
咄嗟に体を離し、高速スピードで靴を脱ぐ。買い物袋を拾い上げると真澄はダッシュで部屋へ上がった。こたつの前でへたり込んで、芋虫のように丸くなる。そうして左胸に手をやった。まだ引かない顔の熱と心臓の爆音。必死に抑えようとするが、そう簡単に引いてはくれない。
「真澄く――」
遼の声が聞こえた途端、ドタンと倒れる音がした。玄関へ振り向くとそこには、すっ転んでいる遼の姿があった。慌てて駆け寄って見ると、なぜか遼の背中に帽子が乗っかっていた。どうやったらそんな所に帽子が乗っかるのだ。遼は「滑った」と眉をハの字にさせ、べそをかきそうな顔を向けていた。まさか帽子で足を滑らせたのか。その反動で帽子が舞い、背中へ乗っかったのか。何て器用な技だ。真澄は想像を巡らせると面白おかしくなり思わず吹き出した。
「えっ、えっ?」
「あははっ、遼くんって凄いや」
遼は一瞬で空気を変えてしまう。外見の美しい姿だけではない。遼の真っ直ぐな言葉、純粋な振る舞い、素直な感情。遼の醸し出す空気を傍で感じていると心地が良くなる。その手を取って一緒に歩きたくなるのだ。
困惑する遼に真澄は手を差し伸べた。
「部屋に上がろう。今日は遼くんの誕生日のお祝いをしなくちゃね」
今日はバレンタイン当日。と言っても既に半日が過ぎ、そろそろ夕方が近付く頃だ。まだ間に合うと言わんばかりに、あらゆるお店が最後の売り出しに精を出す。相変わらず大層な賑わいだ。
「真澄くんは甘いもの好き?」
シンプルなワンポイントロゴの入ったキャップを被り、隣でそう聞いてきたのは遼だった。イケメンという自分の顔にコンプレックスを抱き、外で顔を晒すことに怯えていた彼だったが、先日の一件をきっかけに、顔を出して外を出歩けるようになった。
とはいえ、不安が全く無くなったわけではない。全てを晒すのには、まだ抵抗がある。そんなわけで、こうやって帽子で少し顔を隠しているのだ。それでもこれは大きな一歩だ。少しずつでいい。いつか周りを気にすることなく、笑って外を歩けるようになれたら嬉しい。彼の日常にそんな穏やかな日がきてくれたらと、真澄は心からそう思った。
「そうだなぁ、甘いものは結構好きなほうだよ。洋菓子、和菓子問わず何でも」
暖を求めてカフェへ入ると、店内は冷えた頬を包むような暖かさと、香ばしいコーヒー豆の香りが広がっていた。
「そっか、良かった」
良かった、とは何がだろう。にこにこと笑顔を向けている遼をちらりと目をやってから真澄はホットコーヒーを二つ注文した。
「真澄くん、実はね……」
そう言って遼はダウンジャケットから小箱を取り出した。手のひらサイズに納まる小さな青い箱。十字に掛けられた白いリボンがアクセントになって、可愛らしくもお洒落な装飾だ。遼はそれを真澄の前へと差し出した。
「え?」
「僕から真澄くんに。バレンタインのチョコ、受け取ってくれると嬉しいな」
頬を染めながら、はにかんだ笑顔を向ける遼。真澄は思いもしなかったサプライズプレゼントに思わず固まった。箱を見つめたまま動かないでいる彼に、遼は慌てて言葉を付け加えた。
「えっと、ほら!真澄くんにはいつも助けてもらってるし、何かお礼をしたいなと思って、それであの、えっと……」
義理チョコ、友チョコ、感謝チョコ、贈り方には様々な言い方がある。女性から女性へのチョコのプレゼントだってある。だったら男性から男性へのプレゼントがあったっていいのだ。
じわじわと、真澄の心が高揚感に包まれる。湧き上がる熱は、あっという間に顔を覆った。みっともないほどに緩んだ口元。手で隠しても、きっと隠しきれていなかっただろう。真澄は真っ赤に染まった頬を覆いながら遼に伝えた。
「うん……、ありがとう。すごく嬉しい……」
可愛くお洒落にあしらわれたその小さな箱が、まるでキラキラと輝く宝箱のように思えた。両手で大切そうに手に取ると、その様子に、遼もまた頬を緩めた。
「喜んでもらえて良かった」
「えへへ、びっくりしたよ。まさか俺が誰かからチョコを貰う日が来るなんてさ」
「そうなの?真澄くんが一個もチョコを貰ったことがないなんて信じられないよ。こんなに素敵な人なのに」
遼はさらりと言葉を贈る。不意打ちのそれは真澄にとっては爆弾のようなものだった。受け止める準備が追い付かず、胸の奥で爆発を繰り返す。収まりきっていない頬の赤みがまたたく間に広がっていく。忙しい熱の上昇に真澄の胸の中も大忙しだ。
「お待たせしました」
ホットコーヒーが運ばれてくると、真澄は待ってましたと言わんばかりにカップを口に運んだ。既に火照った体にホットコーヒーは熱すぎる。冷ますことを忘れて口にすると、真澄はその熱さに思わず飛び跳ねた。
そんな真澄の姿に遼がふっと笑う。テーブルにこぼれ落ちたコーヒーを拭きながら真澄もつられて笑い出す。
「あーあ、俺も遼くんにチョコ用意しとけばよかった」
「えっ、そ、そんな、僕はいいよ!それに僕、高校の時チョコ貰いすぎた反動で、あまり食べたいと思わなくなっちゃって……」
「そんな大量に貰ったの?」
たくさん貰ったのだろうと思ってはいたが、実際の量を聞いて驚いた。遼が言うには段ボール三箱は必要だったそうだ。もはや一生分の量ではなかろうか。毎年バレンタイン当日は親に軽トラで迎えに来てもらい、荷台に積んで帰っていたそうだ。それは羨ましいを通り越して、ちょっと気の毒に思えてくる。
「しかもうちの親、バレンタインだからって僕の誕生日ケーキまでチョコを選んで買ってきてさ、もう本当に参っちゃったよ」
「あははっ、それは災難だ。……ん?誕生日?」
はたと止まり、真澄は聞き返す。
「あ、僕バレンタインデーが誕生日なんだ。だからチョコ以外にもプレゼントやら何やら色々貰う物が多くて、結果的にかさばって段ボール三箱分になってたんだよ」
あはは、と頭をかきながら笑う遼に、真澄は身を乗り出して言った。
「そうじゃなくて!バレンタインが誕生日って、今日じゃん!遼くん今日誕生日だったの!?」
遼は思わぬ反応を示す真澄に驚きながら「うん」と返す。真澄は額に手を置いてゆっくり天井を仰いだ。そうして、背もたれに吸い込まれるように、よろよろと体を預けた。
「えー!遼くん言ってよー!俺プレゼント何にも用意してないよ!」
「プレゼントだなんて……!いいよいいよ!気にしないで真澄くん!」
遼はブンブンと両手を振って答えると、一呼吸置いて、その手をゆっくりおさめた。薄紅色の頬がふわりと緩む。伏し目になると、遼の長い睫毛が目元を艶やかに印象付けた。
「……それに、僕はもう、真澄くんから沢山のプレゼントを貰っているから」
「え?」
「嫌な顔一つせずに、この生活を一緒に送ってくれた。僕のこと真正面から見てくれて、僕の言葉を好きだと言ってくれた。僕のわがままを、いっぱい聞いてくれた。沢山お礼を言っても言い切れないほどだよ」
艶めいた瞳を細め、遼はほころんだ笑顔で真澄を見つめた。その美しくもあどけない表情は、真澄の心を掴んで離さない。繰り返し広がる熱と胸の音。その高鳴りが、真澄の中で一層加速していった。
カフェを出て、スーパーへ寄った頃には夕方の景色に変わっていた。
買い物袋を片手にさげ、二人は駅へと歩く。冬は日が落ちるのが本当に早い。辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「そうだ、遼くん今日で二十歳なんだし、お酒買って帰ろうよ!一緒に飲も!」
遼は、ぱあっと目を見開いて見せた。
「うん!真澄くんと一緒にお酒が飲めるなんて嬉しいな。僕、お酒のこと全然わからないんだけど、どんなのがお勧め?真澄くんは好きなお酒ある?」
「俺は大体ビールを飲むかな。あとはハイボールとか焼酎とか。遼くんはまずビールから飲んでみたらどうかな?遼くんがいける口だったら一緒に飲み比べとか――」
その時、歩いていた男性とすれ違いざまに肩がぶつかってしまった。真澄が咄嗟に謝罪の声をかけると、数人で歩いていたその男性は立ち止まり、振り返ると確かめるように真澄の名前を呼んだ。
「もしかして本田くん?」
「え?」
「ほら、俺だよ俺。中高一緒だったじゃん」
沢山のピアスで飾られた耳。派手な赤メッシュの髪に、白と黒であしらわれたパンクロックなファッション。こんな目立つ奴が居たら記憶に残らないはずがない。真澄は必死に記憶を辿るも、彼の姿に思い当たる節がない。
「あ、そっか。この姿見るの初めてだもんね。柴崎だよ。柴崎圭介」
真澄の記憶の中にある柴崎圭介という人物は、切り揃えられたストレートの黒髪に、黒縁眼鏡をかけた、控えめで大人しい目立たない生徒だった。学ランも首元までボタンを留め、いかにも真面目を描いたような姿だ。以前の彼からは、とても想像がつかない。その変わりっぷりに真澄は目を丸くした。
「うそ!?びっくりしたぁ!本当に柴崎くんなの?昔と全然違うから気付かなかったよ」
「大学デビューってやつ?驚くのも無理ないよね」
「なになにー?圭介のダチ?」
一緒に歩いていた友人たちが顔を出す。
「そう、地元の友達なんだ。実は彼、ちょっと凄い人なんだよ。中学の時、朗読で全国大会に出場した経験があるんだ」
真澄の胸がドクンと波打った。背筋が一気に凍りつく。脳裏に、あの黒歴史が蘇ってくる。
「朗読で全国大会?それってすごいの?」
「凄いんだよー!朗読の甲子園みたいなものなんだから。そういえば本田くん、あれ治ったの?」
「え、あれって……?」
「ほら、いつからか大勢の人前で喋れなくなっちゃったでしょ?あがり症ってやつ?あれから朗読の活動もやってないの?」
手が震える。まるで、喉の奥をじわじわと絞めつけられていくようだ。その話題を出されると胸がぎりぎりと痛みだす。
何か言って話題を変えなければ。何か、言葉を。何でもいい、言葉を。何か言え。言え。言うんだ。そう頭で指示を出すのに、真澄の口からは声が一向に出ない。
声の出し方が、分からなくなっていた。
途端、何かが頭に被さった。目の前が急に真っ暗になり、前が見えない。
「すみません、そろそろいいですか。僕たち急いでいるんで」
遼の声だ。被さった布地からふわりと匂う同じシャンプーの香り。遼の帽子が真澄の頭をすっぽりと覆っていた。すると、眼前の視界がふっと元の景色へと戻った。遼は再び顔を隠すように帽子を被り直すと、合図するように真澄の手を軽く引いた。
「あ……、ごめん!俺もう行くから!」
二人は逃げるようにその場を離れた。あのまま居続けたら恐らく醜態をさらしていただろう。正直、遼のおかげで助かった。真澄はそう思いながら胸を撫で下ろした。
「真澄くん、大丈夫?」
「あ……うん、ありがとう遼くん。もう平気!あっ、ちょうど電車来たところみたいだよ。急いで乗ろう!」
真澄は電車に乗ってからというもの、遼に絶え間なく話題を振り続けた。まるで先ほどの出来事を忘れようとするかのように。
「――で、食べ合わせがあるように、お酒も飲み合わせっていうのがあって――」
「真澄くん」
玄関のドアを閉めると同時に、遼が真澄の話を遮った。彼は帽子を脱ぐと、ゆっくりと真澄に顔を近付けた。
「へ?」
遼の艶やかな瞳が真澄を真っ直ぐ見つめる。徐々に近付く遼の顔。心拍数がいきなり跳ね上がる。真澄はどう反応したらいいのか分からず、咄嗟に目を瞑った。すると、こつん、と小さな感触がおでこに響いた。
そろりと目を開けると、お互いのおでこが重なり合っていた。鼻がわずかに触れ合う。近い。これはいくら何でも近過ぎないだろうか。真澄は声を裏返しながら聞いた。
「りょ、遼……くん?」
彼の両手が真澄の頬を優しく包む。親指でそっと撫でられると、体がピクリと反応して、持っていた買い物袋がゆるりと手から滑り落ちた。
「僕、長い時間、外にいたから、ちょっと疲れちゃったみたい。ねぇ真澄くん、このまま一緒に深呼吸してくれないかな?」
「え?しん、こきゅ……?」
「はい、吸って。……吐いて。吸って。……吐いて。……真澄くん、ちゃんとやってる?ほら、もう一回」
言われるがまま、遼のタイミングに合わせて深呼吸を繰り返す。二度三度繰り返すと、重ねていたおでこがそっと離れた。穏やかな笑みが真澄に注がれる。
「落ち着いた?」
そう言われて、ようやく気付く。呼吸が、さっきよりもずっと楽になっている。恐らく、浅い呼吸をずっと繰り返していたのだろう。
「真澄くん、あの同級生と話してる時、手が震えてたから。その後もずっと喋り続けていたけど、いつもの落ち着いた声じゃなかったし、何だか辛そうだったから」
自分では全く気付かなかった。多分、無意識に体がこわばっていたのだ。
「あ……ありがとう遼くん」
遼のおかげで呼吸が楽になった。さっきもそうだ。遼の香りがした途端、遼の声が聞こえた途端、遼が傍にいると感じた途端に、声が出るようになった。体の力が抜けて、安心したのだ。
「あはは……カッコ悪いとこ見せちゃったな」
「カッコ悪くなんかないよ。それを言うなら、僕の方がよっぽどカッコ悪いところ沢山見せてる。その度に真澄くんに助けてもらってるしね」
遼は真澄の両手をそっと掬い上げた。指先から伝わる遼の体温。顔を上げると、真澄はその眼差しに思わずハッとした。彼の姿から、いつものあどけなさが感じられない。その穏やかな眼差しの中には、しなやかに佇む一本の樹のような、落ち着いた中に雄々しさを感じさせる雰囲気が漂っていた。今までの彼とは、どこか違って見える。
「だから真澄くんも、何か辛いことがあったら言って。僕も真澄くんの力になりたいから」
その表情は陽だまりのような温かさを帯びていた。降りそそぐ柔らかな眼差しに、真澄の瞳は光をまとって揺らめいた。重く閉ざしていた記憶とともに、真澄の口がゆっくりと開かれていく。背中をそっと押されるように、心の内に仕舞い込んでいた思いが言葉になってこぼれていく。
「……さっきの、本当なんだ」
「え?」
「……俺、もう、昔みたいに朗読ができないんだ」
はっきりと、そう言葉にしてしまうと胸が潰れそうになる。当たり前のように持っていたものが、突然、砂のように指からこぼれ落ちていく――そんな絶望感が蘇ってきて、真澄は手のひらをぎゅっと握り締めた。
「……大勢の人前に立つと声が出なくなるんだ。中学の時、出場した朗読の全国大会で、俺、女みたいな声だって笑われてさ……。そのあと壇上に登った途端、息が苦しくなって、呼吸が変になって、俺はその場で倒れたんだ。よく覚えてないけど、そのとき向けられた大勢の視線が、凄く怖かったのだけは覚えてる」
真澄の声が微かに震え出した。
「それからなんだ。大好きだった朗読を披露するのが怖くなったのは」
読もうとしても声が出ない。息が上手くできなくなり、過呼吸を起こすようになった。そしてその現象は朗読の時のみならず、授業中にも及んだのだ。
席を立った瞬間、たった一文、教科書に書いてある文章を読み上げるだけなのに、声が出なくなった。どんなに口を動かしても、息を押し出そうとしても、声が出ない。手が震え、汗をかき、次第に呼吸が荒くなっていった。先生とクラスメートたちの視線は一気に真澄に集まった。その光景があの時の視線と重なり、真澄はフラッシュバックを起こして再び気絶したのだ。
「……でも、真澄くん、このあいだ僕に朗読してくれたよね?」
俯いたまま、真澄はこくりと頷く。
「あの時は、遼くんだったから」
「僕?」
「あんなことが起きてから、もう、人に読み聞かせをするようなことは、しないでおこうって、ずっと思ってた。読んでいる時の自分の声を聞くのも嫌だった。でも……」
顔を上げた真澄の目には光る粒が浮かんでいた。
「俺の声を好きだって言ってくれた遼くんなら、もしかしたら、読んでも怖くないかもしれないって思って……!」
遼は真澄の目元にそっと手を伸ばし、人差し指で優しく撫でた。
「僕に本を読んだ時、怖かった?」
真澄はふるふると首を横に振る。
「怖くなかった。怖くなかったよ」
胸が苦しい。先ほどのようにズキズキと痛むわけではない。胸の奥で何かが溢れそうになっている。この気持ちは何なのだろうか。無性に遼に触れたい。触れたくてたまらない。
遼の体温を、香りを、声を確かめたい。遼がここに居るのだと、肌で感じて確かめたい。そう思ったら躊躇いなど無くなっていた。真澄は気持ちが赴くまま遼の体に顔を埋めた。
涙が止まり、昂った感情が落ち着いた頃、真澄はようやく気付く。遼に、思いっきり抱き付いてしまったことに。じわじわと顔が熱くなり、真澄は我に返った。
「ご、ごごごめん何やってんだろ俺!もう大丈夫だから!ありがとう遼くん!」
咄嗟に体を離し、高速スピードで靴を脱ぐ。買い物袋を拾い上げると真澄はダッシュで部屋へ上がった。こたつの前でへたり込んで、芋虫のように丸くなる。そうして左胸に手をやった。まだ引かない顔の熱と心臓の爆音。必死に抑えようとするが、そう簡単に引いてはくれない。
「真澄く――」
遼の声が聞こえた途端、ドタンと倒れる音がした。玄関へ振り向くとそこには、すっ転んでいる遼の姿があった。慌てて駆け寄って見ると、なぜか遼の背中に帽子が乗っかっていた。どうやったらそんな所に帽子が乗っかるのだ。遼は「滑った」と眉をハの字にさせ、べそをかきそうな顔を向けていた。まさか帽子で足を滑らせたのか。その反動で帽子が舞い、背中へ乗っかったのか。何て器用な技だ。真澄は想像を巡らせると面白おかしくなり思わず吹き出した。
「えっ、えっ?」
「あははっ、遼くんって凄いや」
遼は一瞬で空気を変えてしまう。外見の美しい姿だけではない。遼の真っ直ぐな言葉、純粋な振る舞い、素直な感情。遼の醸し出す空気を傍で感じていると心地が良くなる。その手を取って一緒に歩きたくなるのだ。
困惑する遼に真澄は手を差し伸べた。
「部屋に上がろう。今日は遼くんの誕生日のお祝いをしなくちゃね」
