「じゃ、行こうか」
「うん」
玄関のドアが開くと、眩しい陽の光が飛び込んできた。青く広がる空。まだ冷たい風が吹き抜ける冬の午後。太陽の光がほんのりと頬を温める。ぼやけた視界。けれど、そこはこれまでとは異なる世界だ。今まで遮っていた影がなくなると、風景の色彩がそこら中に広がっていた。
下降するエレベーターの中、繋いだ遼の右手は小さく震えていた。肩が強張って、足もすくんでいる。この緊張と不安は、きっと真澄にも伝わっているだろう。階数が減っていくたび、逃げ出したい気持ちがじわじわと膨らんでいく。自ら進んで一歩を踏み出したいと、そう願ったのは自分自身なのに、カウントダウンのように切り替わっていくその点灯が遼の恐怖を一層掻きたてる。そんな彼の気持ちを察してか、真澄は繋いでいた手を強く握り返した。
――大丈夫、この手は絶対離さないから。
遼はふっと思い出す。そう言ってくれた真澄の声は、強く真っ直ぐで、まるで光のように澄んだ響きだった。
大丈夫、一人じゃない。今は、隣に彼がいる。遼はそう自分に言い聞かせ、応えるように彼もまたぎゅっと握り返した。
到着を知らせる音と共にエレベーターの扉が開く。二人は外へと足を踏み出した。
歩くのは行き慣れた道。なのに、何の変哲もないその道が今はとても怖い。人の顔はぼやけて見えない。けれど、すれ違う人々からは、振り向く空気とわずかな呼吸を確かに感じる。視線を浴びているのが痛いほど分かった。
呼吸が次第に上擦ってくる。視界の端に映る沢山の黒目。まるで子供が紙いっぱいに描いたらくがきのように、ぐるぐるとした大きな目がそこら中に浮いているようだった。唇が震え出し、恐怖で体が強張る。
――怖い、苦しい。嫌だ、見ないで。僕を見ないで!
その時、遠くで何かが聞こえた。一本の細い糸のような、小さな音。違う、これは声だ。耳に馴染んで入ってくる、この声は――。
「遼くん!」
「……真澄くん」
肩を上下に揺らし、我に返った遼は冷や汗で額を濡らしていた。
「顔色が悪いよ。戻ろうか?」
繋がれた手と真澄の声。そうだ、今は隣に彼がいる。彼が導いてくれている。そう思ったら、無重力だった遼の足元に段々と感覚が戻ってきた。
遼は深呼吸を一つして息を整えると首を横に振って答えた。
「ううん。もう少しだけ、お願い」
「分かった。じゃあ、行こう」
一歩、また一歩とゆっくり足を進める。しっかりと、けれど優しく繋がれた手のひら。不安を和らげる、温かくも清らかな包み込む声。歩調を合わせて、一歩ずつ歩みを進めていく。そうやって、自分はここにいる、側にいるのだと真澄は教えてくれる。
不思議だ、と遼は思った。怖くて堪らないはずなのに、隣に彼がいると思うだけで、大丈夫だと思える自分がいる。進む勇気が少しずつ湧いてくる。あの時、病院で感じた高揚感と似ている気がした。
そう思うと、どうしようもなく彼の顔が見たくなった。このぼやけた視界をこんなにも悔やむ日が来るなんて。遼は鳴り続ける胸の鼓動を強く感じた。
駅までの道を往復してマンションへ戻った二人。上昇するエレベーターの中、真澄は遼の具合を気にして声をかけたが、遼は頷くだけで黙ったままだった。八階に着いて玄関前まで行くと、そこで繋がれた手は解かれた。部屋へ上がろうとしたが、遼はその場に佇んで動こうとしない。
「遼くん?」
真澄が心配そうに窺う。彼が手を伸ばし、遼の体に触れようとしたその時だった。
遼は突然真澄を抱き締めた。
「え!?」
背中に回した手は真澄を包み込んで離さない。密着する体。服の擦れる音。真澄の呼吸音が変わったのを感じる。それでも、離したくないと思った。
「え、りょ、りょうくん!?ど、どどどうしたの!?」
突然のことで彼の言葉もカミカミだ。あからさまに驚いている様子が伝わる。けれど、どうしてもこのまま伝えたかった。
遼の口が小さく開く。
「……怖かった」
上擦ったその声はわずかに震えていた。抱き締めた腕に一層力が入る。
「でも、真澄くんが居てくれたおかげで、僕はこの姿で外を歩けた。ありがとう真澄くん。本当に、ありがとう……!」
一人ではきっと無理だっただろう。逃げてばかりで向き合おうともしなかった。今はまだ、ほんの小さな一歩にすぎない。けれど、この一歩は遼にとって何よりも大きな一歩に違いなかった。踏み出す勇気をくれた彼に感謝してもしきれない。
大粒の涙が遼の頬を伝う。小さく鼻をすする音。こぼれる嗚咽の声。緊張と不安から解放され、我慢していたものが外へと溢れていく。そんな遼の背中を真澄の手のひらがそっと撫でた。包み込むような、真澄の優しい温度が伝わってくる。
「よく頑張ったね」
温かく、澄み渡る彼の声。その声が、遼の胸に深く深く沁みわたっていった。
「うん」
玄関のドアが開くと、眩しい陽の光が飛び込んできた。青く広がる空。まだ冷たい風が吹き抜ける冬の午後。太陽の光がほんのりと頬を温める。ぼやけた視界。けれど、そこはこれまでとは異なる世界だ。今まで遮っていた影がなくなると、風景の色彩がそこら中に広がっていた。
下降するエレベーターの中、繋いだ遼の右手は小さく震えていた。肩が強張って、足もすくんでいる。この緊張と不安は、きっと真澄にも伝わっているだろう。階数が減っていくたび、逃げ出したい気持ちがじわじわと膨らんでいく。自ら進んで一歩を踏み出したいと、そう願ったのは自分自身なのに、カウントダウンのように切り替わっていくその点灯が遼の恐怖を一層掻きたてる。そんな彼の気持ちを察してか、真澄は繋いでいた手を強く握り返した。
――大丈夫、この手は絶対離さないから。
遼はふっと思い出す。そう言ってくれた真澄の声は、強く真っ直ぐで、まるで光のように澄んだ響きだった。
大丈夫、一人じゃない。今は、隣に彼がいる。遼はそう自分に言い聞かせ、応えるように彼もまたぎゅっと握り返した。
到着を知らせる音と共にエレベーターの扉が開く。二人は外へと足を踏み出した。
歩くのは行き慣れた道。なのに、何の変哲もないその道が今はとても怖い。人の顔はぼやけて見えない。けれど、すれ違う人々からは、振り向く空気とわずかな呼吸を確かに感じる。視線を浴びているのが痛いほど分かった。
呼吸が次第に上擦ってくる。視界の端に映る沢山の黒目。まるで子供が紙いっぱいに描いたらくがきのように、ぐるぐるとした大きな目がそこら中に浮いているようだった。唇が震え出し、恐怖で体が強張る。
――怖い、苦しい。嫌だ、見ないで。僕を見ないで!
その時、遠くで何かが聞こえた。一本の細い糸のような、小さな音。違う、これは声だ。耳に馴染んで入ってくる、この声は――。
「遼くん!」
「……真澄くん」
肩を上下に揺らし、我に返った遼は冷や汗で額を濡らしていた。
「顔色が悪いよ。戻ろうか?」
繋がれた手と真澄の声。そうだ、今は隣に彼がいる。彼が導いてくれている。そう思ったら、無重力だった遼の足元に段々と感覚が戻ってきた。
遼は深呼吸を一つして息を整えると首を横に振って答えた。
「ううん。もう少しだけ、お願い」
「分かった。じゃあ、行こう」
一歩、また一歩とゆっくり足を進める。しっかりと、けれど優しく繋がれた手のひら。不安を和らげる、温かくも清らかな包み込む声。歩調を合わせて、一歩ずつ歩みを進めていく。そうやって、自分はここにいる、側にいるのだと真澄は教えてくれる。
不思議だ、と遼は思った。怖くて堪らないはずなのに、隣に彼がいると思うだけで、大丈夫だと思える自分がいる。進む勇気が少しずつ湧いてくる。あの時、病院で感じた高揚感と似ている気がした。
そう思うと、どうしようもなく彼の顔が見たくなった。このぼやけた視界をこんなにも悔やむ日が来るなんて。遼は鳴り続ける胸の鼓動を強く感じた。
駅までの道を往復してマンションへ戻った二人。上昇するエレベーターの中、真澄は遼の具合を気にして声をかけたが、遼は頷くだけで黙ったままだった。八階に着いて玄関前まで行くと、そこで繋がれた手は解かれた。部屋へ上がろうとしたが、遼はその場に佇んで動こうとしない。
「遼くん?」
真澄が心配そうに窺う。彼が手を伸ばし、遼の体に触れようとしたその時だった。
遼は突然真澄を抱き締めた。
「え!?」
背中に回した手は真澄を包み込んで離さない。密着する体。服の擦れる音。真澄の呼吸音が変わったのを感じる。それでも、離したくないと思った。
「え、りょ、りょうくん!?ど、どどどうしたの!?」
突然のことで彼の言葉もカミカミだ。あからさまに驚いている様子が伝わる。けれど、どうしてもこのまま伝えたかった。
遼の口が小さく開く。
「……怖かった」
上擦ったその声はわずかに震えていた。抱き締めた腕に一層力が入る。
「でも、真澄くんが居てくれたおかげで、僕はこの姿で外を歩けた。ありがとう真澄くん。本当に、ありがとう……!」
一人ではきっと無理だっただろう。逃げてばかりで向き合おうともしなかった。今はまだ、ほんの小さな一歩にすぎない。けれど、この一歩は遼にとって何よりも大きな一歩に違いなかった。踏み出す勇気をくれた彼に感謝してもしきれない。
大粒の涙が遼の頬を伝う。小さく鼻をすする音。こぼれる嗚咽の声。緊張と不安から解放され、我慢していたものが外へと溢れていく。そんな遼の背中を真澄の手のひらがそっと撫でた。包み込むような、真澄の優しい温度が伝わってくる。
「よく頑張ったね」
温かく、澄み渡る彼の声。その声が、遼の胸に深く深く沁みわたっていった。

