遼は幼い頃から外見を褒められることが多かった。両親、親戚、近所のおじさんやおばさん。商店街へ足を運ぶと、八百屋のおじさんやコロッケ店のおばあちゃん、花屋のお姉さんなど出会う人全員が全員、口を揃えてこう言うのだ。
「遼くんは、かっこいいね」
 田舎の町で育ち、一人っ子だった遼は両親を始め、周りの大人から、よくもてはやされていた。遼が笑顔で手を振ると、大人たちはとても喜んで手を振り返す。将来が楽しみだとか、俳優やアイドルになるかもしれないだとか、みんな好き好きに言っていた。当時まだ幼かった遼は、そんなふうに特別扱いされることが心地よかった。
 小学校に上がり、遼は同年代の友達が増えた。控えめな性格ではあるが、周りから声をかけられることが多い。中でも女子からの人気は高かった。
「ゆきちゃん、ほら今だよ!声かけなよ!」
「えー恥ずかしいよ。ムリだよぉ」
 陰で女子が話している声が聞こえる。誰とは言っていないが、十中八九、自分のことなのだろうと予想はついていた。チラリと声のする方に視線を向けると、その子たちと目が合った。
「キャー!今こっち見た!目合っちゃった!」
 女子は大抵恥ずかしがってあまり声をかけてこない。けれど、こうやって陰で黄色い声を上げては盛り上がっている。遼自身、女子に人気があることに悪い気持ちはしなかった。人気者だということがやはり嬉しかったのだ。
「遼くんサッカー行こう!」
「あ……うん!」
 運動は少し苦手だった。周りの男の子たちは足も速く、ボールのパス回しも上手い。しかし遼がボールを転がすと、足が絡まって思うようにパスが回らない。ボールはあらぬ方向へと飛んでいく。
「遼くんちゃんとパスしてよー!」
「ご、ごめん」
 ゲームも苦手だった。とあるゲームが流行った時があった。面白いからと友達に誘われ一緒にプレイしたが、タイミングを掴めず思うように操作ができなかった。
「何でこんな簡単なミッションができないの?」
「ごめん……」
 そのうち、遼は段々と遊びに誘われることが減っていった。
 オレンジ色の光が差し込む遼の部屋。少し開いた窓からは電車の音が遠くに聞こえる。ゆるやかになびく、淡い白色のカーテン。本を読んでいる時は、ゆっくりと自分のペースで時間が流れる。
 遼は一冊の童話を手に取った。ページを開き、指でなぞりながら一音一音読んでいく。その本が特別好きというわけではない。ただ、思い出に浸りたかったのだ。あの時、病院で聞いたあの子の声、あの美しく透き通った声を、もう一度聞きたい――そんな思いを抱きながら。
 あの子はどんなふうに読んでいただろうか。どこで区切って、どんな抑揚で読んでいただろう。一音一音忘れないように遼は思い出しながら読み返す。
 ふと、茜色の空を見上げて想いを馳せた。どこまでも続くこの空の下、あの子は今どこで何をしているのだろうかと。

 中学に上がるとクラスも増え、イケメンの子が入学してきたと、遼は一躍有名になった。自分から声をかけずとも自然と周りに人が寄ってくる。
 中学二年の時、初めて女子から告白された。
「え……?」
「もし良かったら、私と付き合ってくれませんか?」
 いざ告白されると頭は思考停止した。
 ――言葉が出ない。何を言えばいい。早く何か伝えなければ。
 必死に言葉を探すが、役に立たないその頭は何の言葉も思いつかない。そのうち彼女の頬には大粒の涙がこぼれ落ちた。そうして、ようやく出た言葉がこれだった。
「ごめん……」
 高校生になると遼の人気はさらに加速した。
 移動教室や休憩時間、下校時間も遼の周りは人だかりが絶えない。
「なぁ長谷川!昨日あれ見た?ウルトラジャッジ!」
「あ、あれね……」
「ちょっとー!長谷川くんがそんなつまんないバラエティ番組見るわけないでしょ!ねっ、長谷川くん!」
「えっと……」
「何だよ、昨日めちゃくちゃ面白かったんだぜ!オレ腹抱えてゲラゲラ笑ったわ!」
「うっさいなぁ、長谷川くんは藤井みたいな下品な笑い方しないっつの」
 その番組は遼も毎週楽しみにしていた。本当は好きなテレビや映画の話題で盛り上がって、ここが面白かった、あの場面は笑った、そんなふうに話がしたいと思っていた――けれど。
「長谷川くんはもっとスマートに笑うんだよ!イケメンなんだから!」
 ズシリと、重たい何かがのしかかった気がした。
「はーい席に着けー。この間のテスト返すぞ」
 生徒が口々にぼやきを漏らす。高校に入って勉強は一層難しくなった。返却された遼の解答用紙。そこには赤い斜線が多く散りばめられていた。主張するように書かれた四十六という赤い数字。
「今回の平均は五十八点だ。間違ったところ復習しておけよ」
 平均点以下。今回のテストは確かに難しかった。けれど、せめて平均点ぐらいは取れていると思っていた。
「げぇ、オレ平均点かよー。なぁ長谷川何点だった?もしかして百?」
 隣の席の友人に声をかけられ、遼は咄嗟に解答用紙を机に隠した。
「まさか。それはないよ……」
「けど、長谷川は見た目からして頭良さそうだし、結構いい点取ってんじゃね?」
 また、重しのような重圧が降りかかる。解答用紙を握り締めたその手が小さく震えた。
 イケメンだから完璧。イケメンだから優等生。イケメンだから何でも卒なくこなせる。まるで、そうでなければならないと言われているようだった。
 周りの視線が怖い――いつしか、遼はそう思うようになった。

「長谷川くんのことが好きなの……!」
「え……?」
 放課後、突然廊下で呼び止められ、告白された。胸元まで伸びる、茶色いウェーブの髪をなびかせた女子生徒。髪色になじむ瞳はどんぐりのように丸く、瞬きをすると睫毛がふわりと揺れた。薄紅色に染まった頬。たった今、走ってきたその子の肩は上下に揺れている。小さな口元からは吐息が漏れていた。
 彼女のことは学校の誰もが知っている。容姿端麗で成績トップクラス。生徒会に所属していて人望も厚い。学校一の美少女だ。もちろん遼も彼女のことは知っていた。学内の美男美女だと話題に上がり、お似合いのカップルだと噂になったことがあるからだ。
「私、実はずっと長谷川くんのことが好きだったの」
 そんな彼女からの告白。これは見ものだと、その場にいた生徒たちも興味津々に遼の返答を待った。徐々に人だかりができ、その視線は遼と彼女に集中した。
 四方八方から向けられる視線に冷や汗が滲む。まるで、体中に穴が空きそうだった。それほど強く遼に突き刺さる。徐々に呼吸が苦しくなって、息が詰まっていく思いがした。
 目を逸らすと、遼は背筋を凍らせた。その瞳に映ったのは、一面真っ黒に渦巻いた目の数々。無責任に期待を膨らませた視線が、遼をぐるりと囲っていた。まるで檻の中に放り込まれたかのようだった。
 返答を急かすように、彼女が遼の手を握った。
「私と付き合ってください」
 脅迫めいたその空気に逆らうことができない。遼は首を垂れるように頷くしかなかった。
 美男美女カップルの誕生に学校中が湧き、遼は一躍有名人となった。
 だが、遼を覆っている重力は日に日に増していった。彼女に見合う男性にならなくては。格好悪いところを見せたら周りから何を言われるだろう。まさに嘲笑の的だ。それどころか、落胆や失望の声を浴びせられる――遼の頭の中はそんな不安でいっぱいだった。
 遼は一心不乱に苦手な勉強に取り組んだ。時には睡眠時間を削って、彼女のために流行りの服やお洒落な髪型も調べた。彼女の好きなアーティストや好きな映画、好きなこと好きな物、何でも応えられるように頭に叩き込んだ。
「何か、遼くんって思ってた人と違った」
「へ……?」
 うっかり床に散りばめてしまったポップコーンを拾っていると、針のように刺さる声が落ちてきた。
「私に合わせてばかりで、自分の好みもほとんど言わない。ずっと遠慮してるよね。いつもどこか落ち着きがないし、失敗が多くてその度に謝ってる。いい加減その謝罪文句も聞き飽きたよ」
 手が震える。彼女は今どんな顔をしているのだろうか。見るのが怖くて顔を上げられなかった。
「もっとしっかりしたカッコいい人かと思ったのに」
 努力をしたはずだった。嫌われないように、笑われないように、失望されないように。
 彼女は屈むと遼に顔を寄せた。
「それに、遼くん私に全然触れてこないじゃん。私に興味ないの?」
 遼はビクリと肩を震わせる。彼女と付き合い始めてから、遼は一度も自分から触れようとしたことがない。手を繋ぐのも、腕を組むのも全部彼女の方からだった。キスの一つもできなかった。そういうことをしたいと思えなかったのだ。
「カッコいいのは外見だけなんだね。もういいよ」
 途端、体が鉛のように重くなった。彼女はその場から去っていく。その後ろ姿を追うことも、見ることさえできない。遠ざかる足音だけが異様に耳に響く。
 遼は、しばらくその場から動くことができなかった。
 美男美女カップル破局の話題が広まるのに、そう時間はかからなかった。外見が良いというだけでスペックを持ち上げられ、勝手に理想を押し付けられる。本当の自分はそんなんじゃない。頭も悪いし足も遅い。運動も苦手だし手先も不器用。それでも期待に応えようと、遼は手探りで努力をしたつもりだった。けれど、結果は空回るばかりだった。

 茜色に染まる遼の部屋。机の上に置いていた雑誌や参考書を乱雑に掴むと、遼は腕をめいっぱい振り上げ払いのけた。床に叩きつけられ、散らばった本の数々。それらは彼女のために集めたものだった。彼女に喜んでもらうために。
 いや、違う。本当は、ただ怖かっただけだ。人の目が、視線が、周りからの評価が。完璧を求めれば求めるほど、自分の欠点が浮き彫りになる。どんなに努力をしても皆が思う理想の『長谷川遼』になることはできなかった。
 こんな顔に生まれてさえこなければ、余計な期待を背負わなくて済んだのに。こんなに息苦しい世界なら、いっそ消えてしまいたい――そんな思いが遼の胸を締めつけた。
 遼はうなだれ、奥歯を強く噛みしめる。握った拳は震え、まるで体中の血液が逆流するような嫌悪感に覆われた。
 その時、机の上からばらばらと本が崩れ落ちた。視線を落とすと、一冊の児童書が瞳に映った。いつしか記憶の片隅に仕舞っていた思い出が蘇る。小学生の時、入院中の病院で聞いたあの子の声。その声を忘れまいと何度も読み返した、あの記憶。
 不意に涙が溢れ出した。その本を拾い上げ大切に抱き締めると、遼はまるで小さな子供のように声を上げて大粒の涙を流した。
 そして遼は思った。外見で全てを判断されるのなら、いっそ顔を隠そうと。誰も知っている人がいない遠い場所へ行って、誰からも注目されることなく、静かに、ひっそりと生きて行こうと――。

 桜の花びらが春風に乗って舞う。黒縁の眼鏡をかけ、長く伸ばした前髪を揺らし、遼は大学の門をくぐると、行き交う人々の波に溶け込んでいった。