「本田さん、最近何だか楽しそうですね」
「え、そう?」
 夕方のピークが過ぎた頃、真澄が陳列棚の整理をしていると夏美に声をかけられた。
「そうですよ。本田さんいつも元気で明るいですけど、ここ最近はいつも以上にイキイキしているというか、元気ハツラツというか。この間とは天と地ほどの差がありますよ」
 ひと悶着あったが、結局、遼との共同生活は新品の眼鏡が届くまで続けることになった。心の内を吐露したことで、遼にも変化が表れた。それまで遠慮がちだった彼の行動が少し積極的になったのだ。
 遼は以前にも増して、真澄の声について「いかに良い声か」ということを熱弁するようになった。これが熱狂的ファンというやつかと、彼の熱弁を耳にするたび真澄は身をもって感じるようになった。
 さらに、手を引いて歩く時も、家でくつろいでいる時も、遼の方から身を寄せてくることが多くなった。バイトに出かける時は玄関までお見送りをするほどだ。まるで大きな猫が傍にいるようである。そう思うと可笑しくなって、真澄は思わずふっと吹き出してしまった。
「えー!何ですか本田さん笑ったりして!もしかして、本田さん彼女ができたんですか!?」
「え!?」
 夏美のその言葉に思わず手が止まった。彼女とは、つまりお付き合いをしている女性という意味だ。まさかそんな単語が出てくるとは思わなかった。
「違う違う、そうじゃないよ」
「ふうん。てっきり私は本田さんに彼女ができたとばかり」
「えぇ、何でそう思うの?」
 苦笑して聞くと、夏美はどこか睨みつけるような上目遣いで口を尖らせて言った。
「女のカンです!」
 女のカン――その言葉を、真澄は帰路につきながらぼんやりと振り返る。
 彼女だなんて自分には縁がないものだと思っていた。大学へ入学して、文学について学んだり、友達と一緒に遊んだり飲みに行ったり、時には一人で好きな本を読みふけったりと、真澄は今まで、自分がやりたいと思ったことをやって、今もそうしているつもりだった。ただ、彼女を作りたいと思ったことが一度もなかった。
 そういえば――と、真澄は思い出した。大学の友達は、以前彼女ができたと言って嬉しそうに話をしていた。けれど、だからと言って自分も彼女が欲しいと思うことがなかった。女の子と交流がないわけではない。現に夏美やバイト先の女性店員と話をしたり、時々集まって飲みに行くこともある。しかし、女の子と友達以上の関係になるというイメージがいまいち湧かない。そういうふうに思う女性に未だ出会ったことがないのだ。
 ふと、真澄はショーウィンドウに映った自分の姿を見た。
 そもそも、こんな平凡な奴に女子から好かれる要素がどこにあるのだろう。もっとイケメンだったらイメージが出来るのだろうか。そう思った時、遼の姿が頭をよぎった。遼は背も高くてスラっとしている。顔もかなりのイケメンだ。まるでメディアに出ている俳優のようにかっこいい。きっと今までも女子からはモテモテで、隣に女の子がいない、なんてことは無かっただろう。そしてこれからも、社会に出て運命の女性に巡り合って、たった一人の大切な人と結ばれて隣を歩いていくのだろう。
 そう思った瞬間、胸に小さなモヤが差した。それが何なのか、ぼんやりとした感覚で正体が掴めない。
 きっと、夜更かしをしたせいだろう。真澄は首を軽く傾げると、それ以上考えることなく、いつものように遼の家へと足を運んだ。
「ただいま」
 玄関ドアを閉めると、部屋にいた遼がこちらを振り向いた様子がうかがえた。いかにも嬉しそうだ。彼の周りにお花が飛んでいるのが見える。
「真澄くんおかえ――」
 次の瞬間、ドタンと大きな音が真澄の耳に飛び込んで来た。
「遼くん!?今ものすごい音がしたけど大丈夫!?」
 慌てて靴を脱ぐと、真澄はうつ伏せで倒れている遼の傍へ駆け寄った。どうやら、こたつの電源コードに足を引っかけてしまったらしい。相変わらず、おっちょこちょいぶりは健在だ。遼がむくりと顔を上げた。
 切れ長の目が、露わになった目元から真澄を見上げる。先日の一件で、遼は少しだけ髪型を変えたのだ。前髪を横に流し、ヘアピンでサイドを留めて目元が見えるようにしている。目を見て話したいと言ったのは真澄のほうだが、いざ露わになると遼の表情はますます映えて、端麗な顔が一層まぶしく見えるようになった。
 目元をふにゃりと緩ませると遼は真澄に甘えるような視線を向けた。
「えへへ、真澄くんの声が聞こえたら、すぐにでも傍に行きたくなっちゃって。おかえり、真澄くん」
 向けられた無邪気な笑顔が、そっと胸をくすぐる。
 本当に猫みたいだ――そんなことを思いながら、真澄は遼の髪をふわりと撫でた。外気温ですっかり冷えてしまった指先。彼に触れると、じんわりと温かさが伝わってきて、どこかホッと心が落ち着いた。
 すると、遼の大きな手のひらが、そっと真澄の手を包み込んだ。重ねられた手と手。先ほどよりも、もっとずっと確かな体温を感じる。真澄の胸が、思わず大きく跳ね上がった。
「わぁ、真澄くんの手、冷たくなってる。早く温めなくちゃね」
 冷たいはずの頬が一気に沸騰したのを感じた。急上昇のその熱に、目の前の視界がくらくらしそうだった。
「あっ、あー!もうこんな時間だ!すぐに晩御飯作るね!」
 大袈裟な手振りでその手を離すと、真澄は着ていたコートを掛ける振りをして、わたわたとその場を離れた。
 彼のストレートな言葉は好きなのだが、最近は何だか威力が増しているように感じるのだ。以前は小恥ずかしい程度だったのだが、今は不意に出るその言葉が、まるで胸の中に入り込んで爆発を起こしているように思えた。
 ――顔が熱い。心臓の音がうるさい。一体、この現象は何なんだ。
 思わず避難してしまったキッチンで、真澄は一人、顔を覆う。ちらりと部屋に目を向けると、こたつで丸くなりながらテレビを見ている遼の姿があった。その穏やかな横顔に、頬がまたじんわりと熱を帯び始める。
 真澄は、訳のわからないこの気持ちをどうにかしようと、勢いよく包丁を握った。目の前の野菜にありったけぶつけ、大きな音を立てながらカレーを作り始めたのだった。