桜の花びらが舞い散る春の朝、雪見家の広大な屋敷では、いつものように花凜の一日が始まった。
「お嬢様、今日も早いのですね」
台所で火を起こしていた花凜に、年老いた女中のお鈴が声をかける。
花凜は振り返ると、いつものように穏やかな微笑みを浮かべた。
「おはようございます、お鈴さん。今日は父上の好きな筍御飯を作ろうと思って」
「相変わらず花凜様はお優しい。玲香様も見習われれば良いのに」
お鈴の言葉に、花凜の表情がほんの少し曇る。
妹の玲香は、使用人たちの前では決して料理や掃除などの雑事に手を出さない。
陰陽師の修行に専念するため、というのが表向きの理由だったが、花凜にはそれが虚飾に過ぎないということがわかっていた。
玲香は、家事はすべて使用人に任せており、自分から汗水を流そうとはしないのだ。
「まあ、玲香は玲香なりに頑張っていると思いますよ」
花凜がそう言って苦笑いしたとき、廊下に軽やかな足音が響いた。
現れたのは、身だしなみをしっかりと整えた玲香。
紅色の着物に身を包み、丁寧に結い上げた髪には金のかんざしが煌めいている。
「姉上、おはようございます。今日も朝早くから家事をなさっているのですね」
玲香の声は蜜のように甘いが、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
「おはよう、玲香。今日の修行はどうするの?」
「父上から新しい術を教えていただく予定です。姉上も一緒にいかがですか?」
表面上は優しい提案だったが、花凜は玲香の真意を理解していた。
父の前で自分の優秀さを見せつけ、花凜の劣等感を煽る算段なのだ。
「お気遣いありがとう。でも私は家のことがありますから」
「そうですか。では、失礼いたします」
玲香が去った後、お鈴が小さくため息をついた。
「花凜様は本当にお優しすぎますよ。もっと、玲香様のように、したたかに生きたほうがよろしいのでは?」
花凜は何も答えず、静かに筍を刻み続けた。
母の形見である白いかんざしが、朝日を受けて淡く光っている。
その日の昼下がり、村から一人の農夫が駆け込んできた。
「雪見様! 大変でございます! 田んぼに化け物が出て、稲を全て枯らしてしまいました!」
屋敷の主である雪見厳山は眉をひそめた。
「化け物? 詳しく話せ」
「夜中に光る目をした巨大な猪のような獣が現れ、田んぼを荒らしております。普通の武器では歯が立ちません」
「妖怪の類か……」
厳山は立ち上がった。
「玲香、支度をせよ。退治に向かう」
「はい、父上」
玲香が嬉しそうに答える一方で、花凜は黙って茶を運んでいた。
「花凜も来い」
父の言葉に、花凜は驚いて顔を上げた。
「私も行ってよろしいのですか?」
「お前も雪見家の娘だ。いつまでも家事ばかりしているわけにはいかんだろ」
玲香の表情がわずかに強張る。花凜に対抗意識を燃やしているのだ。
しかし、すぐに微笑みを浮かべて言った。
「姉上もいらしてくださるなんて心強いですわね。でも、お怪我をなさらないよう、後ろでお待ちいただければ?」
「そうだな。花凜は支援に回れ」
花凜は静かに頷いた。
玲香は、この戦いを自分の手柄にしたいのだろう。
やれやれ、と花凜は思った。
夜が更けた頃、三人は問題の田へと向かった。
月明かりの下で、確かに巨大な猪のような妖怪が暴れ回っているのが見えた。
その体は不気味な青白い光を放ち、鋭い牙からは毒々しい涎が垂れていた。
「土遁の術!」
玲香が印を結ぶと、地面から土の柱が立ち上がり、妖怪の動きを封じようとする。
しかし、妖怪はその術をあっさりと破ると、玲香に向かって突進してきた。
「くっ!」
玲香が後ずさりした時、花凜が静かに前に出た。
「玲香、下がって」
花凜の手に、淡い白い光が宿る。
それは母から受け継いだ浄化の力だった。
「浄化の術・白雪の舞!」
花凜が印を結ぶと、無数の白い光の花びらが舞い踊り、妖怪を包み込んでいく。
妖怪は苦しげに咆哮を上げ、やがて光の中に消えていった。
「見事だ、花凜」
厳山が感心の声を上げたが、玲香は悔しそうに拳を握りしめていた。
翌朝、村人たちが雪見家にお礼に訪れた。
「玲香様のおかげで助かりました!」
「さすがは雪見家のお嬢様です!」
花凜は困惑した。
自分が妖怪を退治したはずのに、なぜ玲香が倒したことになっている。
これはいったい、どういうことなのだろう。
「いえいえ、私一人の力ではありません」
玲香が謙遜するように言う。
「父上のご指導と、姉上の支援があったからこそでございます」
その夜、花凜は一人で庭を歩いていた。
なぜ玲香が称賛されているのか、その理由を考えていると、生垣の向こうから玲香の声が聞こえてきた。
「今回はうまくいったわ。花凜の術を少し邪魔して、私が最後にとどめを刺したように見せたのよ」
もう一つの声が応えた。それは玲香が使役する式神の声だった。
「さすがは玲香様。でも、花凜様の実力も侮れませぬぞ」
「そうね。でも大丈夫。私にはまだまだ策があるから」
花凜は静かにその場を離れた。
真実を知った今も、彼女の心に恨みはなかった。
そこには、深い悲しみがあるだけだった。
季節は夏に移り、雪見家では霊力の査定が行われることになった。
これは一族の若者たちが集まり、それぞれの実力を披露する重要な年中行事だった。
「今年は特に注目されるだろう」
厳山が言う。
「玲香の成長ぶりが著しいからな」
花凜は黙って茶を注いでいたが、その手はわずかに震えていた。
昨夜、大切にしていた母の形見の白いかんざしが消えていたからだ。
「姉上、どうかなさいましたか? 顔色が悪いようですが」
玲香が心配そうに声をかけるも、目は笑っていた。
「い、いえ。何でもありません」
「そうですか。でも、今日は母上のかんざしをお付けになっていませんね。いつもお大事になさっているというのに」
厳山が眉をひそめる。
「かんざしがどうしたのだ?」
「実は……」
花凜が口を開きかけた時、玲香が割って入った。
「お忘れになったのですね。姉上は最近、物忘れが多くていらっしゃるから」
「そうか……」
厳山は失望したような表情を浮かべた。
「亡き妻の形見を粗末にするとは……」
花凜は何も言えなかった。
かんざしが自分の部屋から消えたことを告げれば、玲香が疑われるかもしれない。それを避けたかった。
霊力査定の日、雪見家の道場には一族の若者たちが集まっていた。
花凜も参加することになったが、朝から体調がすぐれなかった。
「花凜、大丈夫か?」
従兄である雪見蒼馬が、心配そうに声をかける。
「はい、少し疲れているだけです」
花凜は自分の霊力に異変を感じていた。
いつものように力が湧いてこないのだ。
「それでは、始めましょう」
査定官の合図で、まず玲香が術を披露した。
「炎舞の術!」
玲香の手から美しい炎の花が舞い上がり、道場を幻想的な光で照らす。
見事な技に、周囲から感嘆の声が上がった。
「素晴らしい! これほどの炎術を使えるとは」
次は花凜の番である。
彼女は得意とする浄化の術を使おうとしたが、今日は霊力が全く湧いてこない。
「あの……」
花凜が困惑していると、玲香が優しく声をかけた。
「姉上、お加減が悪いのでしたら、無理をなさらずに」
「いえ、大丈夫です」
花凜は必死に術を試みるも、わずかな光が指先に宿るだけで、すぐに消えてしまった。
「おかしいな……花凜の実力はこんなものではないはずだが」
厳山が首をかしげる中、査定は終了した。
結果は大方の予想通り、玲香が最高評価を受け、花凜は最低評価となった。
その夜、花凜は自分の部屋で一人、母の遺品を整理していると、箪笥の奥から小さな呪符を見つけた。
それは霊力を封じる、邪悪な術符だった。
「これは……」
花凜は愕然とした。
誰かが自分の霊力を封じるために、この呪符を仕込んだのだ。
翌日、隣家の橘家から信之介が訪れた。
彼は花凜の幼馴染であり、密かに想いを寄せている青年だ。
「花凜さん、昨日の査定のことを聞きました。花凜さんらしくないです。大丈夫ですか?」
「信之介さん……」
花凜が答えようとした時、玲香が現れた。
「まあ、橘様。いらっしゃいませ」
「玲香さん、こんにちは」
信之介は少し気まずそうに挨拶した。
「お姉様のお見舞いですか? お優しいのですね。でも、きっとお姉様は迷惑に思っていらっしゃるわ」
「え?」
「お姉様、橘様のことを『うっとうしい』っておっしゃっていましたもの。『いつまでも子供の頃の思い出にすがって』って」
花凜は顔を青くした。
「そ、そんなこと言ってません!」
「まあ、お姉様。隠さなくても……」
玲香の言葉に、信之介の表情が変わった。
「いやはや、そうでございましたか。それでは、失礼します」
信之介は立ち上がり、花凜を一瞥することもなく去っていった。
「信之介さん、待って!」
花凜が追いかけようとするも、玲香が腕を掴んできた。
「お姉様、みっともないですわ。女性から追いかけるなんて」
花凜は玲香を見つめた。
その瞳には、今まで見たことのない冷酷な光が宿っていた。
「玲香……なぜ、こんなことをするの?」
「私、何かいたしましたか?」
玲香は首をかしげたが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
その夜、花凜は庭で一人泣いていた。
母のかんざしを失い、霊力を封じられ、大切な人まで奪われて、彼女の心は深く傷ついていた。
「お嬢様……」
いつの間にか、お鈴が側に立っていた。
「お鈴さん……」
「お嬢様のお気持ち、分からないわけではありません。でも、きっといつか真実は明かされます」
「真実……」
「はい。嘘や偽りは、いつか必ず露見するものです。お嬢様は何も悪いことをしていらっしゃらない。だから、どうか希望を捨てないでください」
花凜は涙を拭いた。お鈴の言葉が、彼女の心に小さな灯りを灯した。
「……ありがとうございます」
「それから……」
お鈴は小さな包みを差し出した。
「これ、お部屋の床下から見つけました」
包みを開けると、中から母の白いかんざしが現れた。
「かんざし……」
「きっと、何かの間違いで落ちてしまったのでしょう」
お鈴は何も言わなかったが、花凜は理解した。
お鈴が玲香から取り戻してくれたのだろう。
「お鈴さん……」
「何も申しません。ただ、お嬢様にはお幸せでいていただきたい。それだけでございます」
花凜はかんざしを髪に挿した。
封じられていた霊力が少しずつ戻ってくるのを感じた。
秋が深まった頃、都から緊急の知らせが届いた。
手強い妖怪が出現し、近隣の村々を襲っているという。
朝廷からの正式な討伐令であった。
「これは大変な事態だ」
厳山が顔を曇らせる。
「相手は上級妖怪『鬼蜘蛛』。並の陰陽師では太刀打ちできん」
鬼蜘蛛は人間を食らう邪悪な妖怪で、巨大な蜘蛛の姿をしている。
その糸は刃物のように鋭く、毒を持っており、危険な相手である。
「父上、私も参ります」
玲香が名乗り出た。
「いや、玲香。お前はまだ若い。危険すぎる」
「でも、父上お一人では……」
厳山は考え込んだ。
確かに、鬼蜘蛛相手に一人で戦うのは無謀である。
「花凜も連れて行こう」
花凜は驚いた。
「私もですか?」
「ああ。三人なら何とかなるかもしれん。ただし、花凜は支援に徹しろ。前には出るな」
玲香の目が光った。
「そうですね。姉上は安全なところで待機していただきましょう」
準備を整えて出発の朝、玲香が花凜に護符を渡した。
「姉上、これをお持ちください。身を守る護符です」
「ありがとう、玲香」
花凜は素直に受け取ったが、護符から微かに邪悪な気を感じた。
しかし、妹の好意を邪険にすることはできなかった。
鬼蜘蛛が出現したのは、深い森の奥だった。
巨大な古木に囲まれた薄暗い空間で、不気味な銀色の糸が張り巡らされている。
「あそこだ」
厳山が指差す先に、人間の胴体ほどもある巨大な蜘蛛がいた。
赤い複眼が不気味に光り、鋭い牙からは毒液が垂れている。
「花凜は後方で待機しろ。玲香、私と共に前に出るぞ」
「はい」
戦いが始まった。
厳山の雷撃の術と玲香の炎術が鬼蜘蛛を攻撃するが、妖怪は素早い動きでそれらを避ける。
「しぶとい奴だ」
その時、鬼蜘蛛が大量の糸を放った。
糸は厳山と玲香を狙っているように見えたが、なぜか軌道が逸れて花凜の方向に向かう。
「花凜、危ない!」
厳山が叫んだが、花凜は動けなかった。
護符の影響で、体が鉛のように重くなっていたのだ。
「これは……」
花凜は護符を見下ろし、その正体を理解した。
これは身を守る護符ではなく、動きを封じる呪符なのだろう。
鋭い糸が花凜に迫ってくる。
そのとき、花凜の中で何かが覚醒した。
「もう……騙されない!」
花凜が叫ぶと、呪符が光と共に燃え上がった。
そして、彼女の体から強大な霊力が溢れ出す。
「浄化の術・千の白雪!」
花凜の手から無数の白い光球が放たれ、鬼蜘蛛を包み込んでいった。
そして、妖怪は苦悶の声を上げて消滅した。
「そ、そんな……」
玲香が呟いた。
花凜の真の実力を目の当たりにして、玲香は愕然としていた。
「花凜……お前、いつの間にこれほどの力を……」
厳山も驚いている。
「私も……よく分からないのです」
花凜は疲れ果て、膝をついた。
しかし、その表情は晴れやかだった。
帰り道、玲香は一人考えていた。
(姉上の力は私の想像以上……このままでは……)
玲香の心には、さらなる悪意が芽生えていた。
その夜、雪見家では鬼蜘蛛討伐の報告会が開かれた。
「今回も、私と玲香との連携が功を奏した」
厳山が説明する。
「花凜も最後に術を使ったが、それは私たちが妖怪を弱らせていたからこそ可能だった」
花凜は黙って聞いていた。
真実は違うが、それを主張する気にはなれなかった。
「玲香の成長ぶりは目覚ましい。将来が楽しみだ」
「ありがとうございます、父上」
玲香が深々と頭を下げる。
その時、彼女の袖から小さな物が落ちた。
それは花凜に渡した護符と酷似した呪符だった。
「これは……」
お鈴がそれを拾い上げる。
「あ、それは……」
玲香が慌てて手を伸ばしたが、時既に遅かった。
「動きを封じる呪符でございますね」
お鈴が静かに言った。
「なぜ玲香様がこのようなものを?」
一瞬、座の空気が凍りついた。
「そ、それは……研究用です」
玲香が取り繕う。
「呪符の仕組みを学ぶために……」
「そうか」
厳山は納得したようだった。
「向学心があるのは良いことだ」
しかし、花凜とお鈴は真実を理解していた。
冬の訪れと共に、雪見家に不穏な空気が漂い始めた。
玲香の行動がますます大胆になり、花凜への嫌がらせも執拗なものへとなっていった。
ある夜、花凜は庭の隅で不気味な光を見つけた。
それは玲香の部屋から漏れる異様な光だった。
「あれは……」
花凜が近づいてみると、玲香が禁じられた呪術の準備をしているのが見えた。
血で描かれた呪文陣、不気味な形の人形、そして……花凜の髪の毛。
「魂喰いの術……」
花凜は息を呑んだ。
それは相手の霊力を永久に奪う邪悪な術だった。
一族では使用を禁じられているものだ。
突然、お鈴の悲鳴が響いた。
花凜が振り返ると、お鈴が血を流して倒れていた。
「お鈴さん!」
花凜が駆け寄ると、お鈴は弱々しく手を伸ばした。
「今、助けます」
花凜が治癒の術をかけようとした時、玲香が現れた。
その手には呪いの短剣が握られていた。
「姉上……なぜここに?」
玲香の声は今までとは全く違っていた。
仮面を脱ぎ捨てた、真の玲香の声だった。
「玲香……お鈴さんに何をしたの?」
「見てはいけないものを見ていたからよ。まさか姉上まで来るなんて」
玲香は冷たく笑った。
「ああ。これで計画が狂ってしまったわ。本当は、姉上が眠っている間に術を完成させるつもりだったのに」
「なぜ……なぜそんなことを?」
「なぜって?」
玲香の瞳が燃えるような憎悪を宿した。
「父上は口では私を褒めているけど、心の底では姉上を愛しているんじゃないの? この前も、私だけじゃなく、姉上も連れて行った。それが我慢ならないの」
「そんな……」
「だから、姉上の霊力を奪い取る。そうすれば、私こそが雪見家の正統な後継者になれる」
玲香が短剣を振り上げた時、花凜は今までに見せたことのない顔を見せた。
「玲香、もう十分です」
花凜の声が、今まで聞いたことがないほど強く響く。
「あなたの我儘に付き合うのに疲れました。お鈴さんを傷つけたあなたを、絶対に許しません」
「何ですって?」
「今まで黙っていたのは、私の大切な妹だからです。でも、無実の人を傷つけたとなれば、血を分けた妹でも話は別です」
花凜の体から、強大な霊力が溢れ出す。
それは今まで隠していた彼女の真の力だった。
「……姉上がこれほどの力を?」
「霊力覚醒・真なる雪見の血」
花凜が印を結ぶと、屋敷全体が白い光に包まれた。
その光は、過去に起こった全ての出来事を映像として浮かび上がらせる。
光の中に、玲香の全ての悪行が映し出された。
盗んだかんざし、仕込まれた呪符、信之介への嘘、そして、今夜の魂喰いの術まで。
「これは……」
厳山や他の家族たちも光に気づいて集まってきた。
そして、彼らの目の前で真実が明かされた。
「玲香……これは一体……どういうことだ?」
厳山が震える声で問いかける。
「父上……これは……」
玲香は言い訳をしようとしたが、映像は彼女の嘘を全て暴いていた。
「玲香……おまえはずっと、私を騙していたのか?」
「違います! 私は……私は……」
しかし、弁解の余地はなかった。
魂喰いの術の道具、血まみれの短剣、倒れているお鈴、すべてが玲香の罪を物語っていた。
真実が明かされた後、雪見家は大きく変わった。
「玲香……いや、もはやお前は私の娘ではない」
厳山は怒りに震えていた。
「父上……お許しください。私は……私は……」
玲香が泣き崩れたが、もう遅かった。
「魂喰いの術は一族の禁忌。しかも、自分の私利私欲のために使おうとするなど……」
厳山は目を閉じて言った。
「お前を雪見家から追放する。そして、霊力を封印する」
「そんな……お父様!」
「お父様などと呼ぶな。お前はもはや他人である!」
厳山が印を結ぶと、玲香の霊力が封印された。
彼女はその場に崩れ落ちた。
「お父様……姉上……」
玲香は花凜にすがりついた。
「お許しください……私が間違っていました……」
花凜は玲香を見下ろした。
そこには、今まで見たことのない本当の涙があった。
しかし、花凜の心は既に決まっていた。
「玲香……いえ、あなたはもう、玲香ではありません」
花凜の声は静かだったが、確固とした意志を秘めていた。
「あなたは自分の行いの報いを受けなければなりません」
「そんな……」
「お鈴さんを傷つけた時点で、もう姉妹ではありません」
厳山が家人たちに命じた。
「この者を屋敷から追い出せ。二度と雪見家の敷地に足を踏み入れさせるな!」
「父上…………」
玲香は最後まで許しを乞うたが、誰も彼女を見ようとはしなかった。
やがて、彼女は夜の闇の中に消えていった。
翌日、お鈴の治療が終わると、花凜は父の前に呼ばれた。
「花凜……」
厳山は深々と頭を下げた。
「父上?」
「自分は間違っていた。花凜こそが、真の雪見家の後継者だ」
「父上……」
「花凜の優しさ、実力、すべてが母親そっくりだ。これまで、玲香の表面的な技巧に惑わされ、本当に大切なものを見失っていた」
厳山は花凜の手を取った。
「雪見家の当主の座を継いでくれ」
花凜は驚いた。
「私が……当主に?」
「そうだ。花凜以外にこの家を託せる人はいない」
その時、使用人たちが次々と現れた。
「花凜様に、これからもお仕えしとうございます」
「いつも私たちを大切にしてくださりありがとうございます」
「花凜様こそが、真の雪見家のお嬢様です」
使用人たちの言葉に、花凜は涙を流した。
「皆さん……」
「お嬢様」
お鈴が包帯を巻いた体で現れた。
「私たちはずっと、お嬢様の本当のお心を思っておりました。なのに、これまで力になれず、本当に申し訳ありませんでした」
「そんなことはありません。お鈴さん……お体は大丈夫ですか?」
「おかげさまで、この通り、だいぶ治ってまいりました。お嬢様の治癒の術のおかげでございます」
その日の夕方、思いがけない来客があった。橘信之介だった。
「花凜さん……」
「信之介さん」
「真実を知りました。玲香さんから聞いたあの言葉は嘘だったのですね」
花凜は頷いた。
「私……信じるべきでした。花凜さんがそんなことを言うはずがないのに」
「信之介さん……」
「改めて……お側においてください。花凜さんを守らせてください」
信之介は膝をつき、花凜に頭を下げた。
「お顔を上げてください」
花凜は優しく微笑んだ。
「私の方こそ、信之介様にお支えいただきたいと思っています」
二人は見つめ合い、そして静かに手を取り合った。
数日後、雪見家では新当主の就任式が行われた。
花凜は母の白いかんざしを髪に挿し、当主の証である霊剣を受け取った。
「雪見花凜、雪見家第十八代当主に就任いたします」
集まった一族や関係者から、温かい拍手が送られた。
「これからは、真の愛と正義に基づいて、雪見家を導いていきます」
花凜の言葉に、皆が深く頭を下げた。
それから数日後。
花凜は一人で村を歩いていたとき、見知らぬ老婆に出会った。
「ああ、なんと美しいお方」
「そんな、恐縮でございます」
「そのお姿だけではありませぬ。美しいのは、あなた様の心もです」
老婆は微笑んだ。
「長い試練を、よくぞ耐え抜かれました」
「試練……?」
「時には、人は苦しみを通してこそ、真の強さを身につけるものです。あなたはその試練を見事に乗り越えられた」
老婆は花凜の頭に手を置いた。
「これからも、その優しい心を忘れないでください」
そう言うと、老婆は光の中に消えていった。
春が来た。雪見家の庭には美しい桜が咲き誇り、新しい季節の始まりを告げていた。
花凜は当主として、公正で慈愛に満ちた統治を行っていた。
使用人たちは皆、心から彼女に仕える喜びを感じていた。
「お嬢様、今日も村から相談事が来ております」
お鈴が報告する。
「分かりました。すぐに対応いたします」
花凜は立ち上がる。
彼女の顔には、以前のような陰りはなく、自信に満ちた輝きがそこにあった。
「ところで、橘様からお手紙が届いております」
「信之介さんから?」
花凜は嬉しそうに手紙を受け取った。
信之介は現在、都で修行を積んでおり、やがて花凜と結ばれる予定であった。
手紙には、彼の修行の様子と、花凜への変わらぬ想いが綴られていた。
「来月には帰って参ります。その時は、改めて正式に結婚の申し込みをさせていただきたいと思います」
花凜は手紙を胸に抱いた。
「お嬢様、本当にお幸せそうですね」
「はい」
花凜は微笑んだ。
「今まで辛いこともたくさんありましたが、すべては今の幸せのためだったのかもしれません」
その時、門番が駆け込んできた。
「お嬢様! 大変です! 門の前に……」
花凜が急いで門に向かうと、そこには見覚えのある人影があった。
それは、やつれ果てた玲香だった。
「姉上……」
玲香は地面に膝をついていた。
かつての美しさは見る影もなく、髪は乱れ、着物は汚れていた。
「玲香……」
「お許しください……私が間違っていました……」
玲香の声は涙で震えていた。
「この数か月、私は地獄のような日々を送りました。霊力を失い、誰からも相手にされず、食べる物にも困って……」
「玲香……」
「でも、その中で気づいたのです。姉上がどれほど優しい方であったか……私がどれほど愚かだったか……」
玲香は額を地面につけた。
「もう一度……もう一度だけ、妹として受け入れていただけませんか?」
花凜は長い間、玲香を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「玲香……あなたは確かに多くの過ちを犯しました」
「はい……」
「でも、それを悔い改める気持ちがあるなら……」
花凜は手を差し伸べた。
「もう一度、やり直しましょう」
「姉上……」
玲香は涙を流しながら、花凜の手を取った。
「ただし」
花凜は厳しい表情を見せた。
「まずは、父上やお鈴さんに謝罪することが先でしょう。今度同じことをしたら、二度と許しませんよ」
「はい……分かっています」
花凜は玲香を立ち上がらせた。
「お帰りなさい、玲香」
「ただいま……姉上」
その日から、玲香は本当に変わった。
霊力を失った彼女は、今度は家事や使用人たちの手伝いに励んだ。
かつて軽蔑していた仕事を、今は心から感謝して行っていた。
「玲香様、今日もありがとうございます」
使用人たちも、少しずつ玲香を受け入れ始めていた。
「いえ、こちらこそ。皆さんのおかげで、私は本当の幸せを知ることができました」
ある日の夕暮れ、花凜と玲香は庭で茶を飲んでいた。
「姉上」
「何ですか」
「もし私が最初から素直だったら、私たちはもっと早く幸せになれたでしょうか」
花凜は考えた。
「分からない。でも、今の私たちは、きっと以前よりも強い絆で結ばれていると思う」
「強い絆……」
「苦しみを乗り越えたからこそ、本当の愛の意味が分かったのかもしれません」
玲香は頷いた。
「そうですね。私も、失ってから初めて、姉上の愛の深さを知りました」
二人は静かに微笑み合った。
翌月、信之介が都から帰ってきた。
そして、約束の通り花凜に結婚を申し込んだ。
「花凜さん、私と共に歩んでください」
「はい、喜んで」
結婚式は雪見家で盛大に行われた。
花凜は母の白いかんざしを髪に挿し、美しい白無垢に身を包んでいた。
「お姉様、本当にお美しいです」
玲香が心から祝福の言葉を述べる。
「ありがとう、玲香。あなたがいてくれて、私は幸せです」
式の最中、花凜は天を見上げた。きっと母も、この光景を見て微笑んでいることだろう。
「お母様、私は幸せです」
花凜の言葉が、春風に乗って天高く舞い上がっていった。
結婚式の後、花凜と信之介は新しい生活を始めた。
花凜は当主として、信之介は支える夫として、そして玲香は真の妹として、三人は協力して雪見家を繁栄させていった。
数年後、花凜と信之介の間に可愛い娘が生まれた。
その子は母譲りの白い髪と、優しい瞳を持っていた。
「この子の名前は『白雪』にしましょう」
花凜が提案すると、皆が賛成した。
「白雪……美しい名前ですね」
玲香が赤ん坊を抱いて言った。
「きっと、姉上、いや、お母様のように優しい子に育つでしょう」
「玲香……あなたも立派な叔母様になってくださいね」
「はい、お任せください」
赤ん坊を囲んで微笑む三人の姿は、まさに真の家族の姿だった。
春の夕暮れ、花凜は庭で白雪を抱いて散歩していた。桜の花びらが舞い散る中、彼女は過去を振り返った。
あの苦しかった日々も、すべては今の幸せのために必要だったのかもしれない。
人は試練を通してこそ、真の強さと愛を学ぶ。
「白雪、あなたも強く、優しい人になってくださいね」
花凜が娘に語りかけると、白雪は小さな手を伸ばして、母の頬に触れた。
その時、どこからか懐かしい声が聞こえた。
「花凜……」
振り返ると、亡き母の姿がぼんやりと見えた。
「お母様……」
「よく頑張りましたね。あなたは本当に立派に育ちました」
母の姿は淡い光に包まれていた。
「これで私も安心です。白雪をよろしくお願いします」
「はい、お母様」
母の姿が光の中に消えていく。
花凜は涙を流しながら、深く頭を下げた。
夜が更けて、花凜は信之介と共に寝室にいた。
「花凜、今日は何だか輝いて見えるよ」
「そうかしら?」
「きっと、すべてが報われた喜びが顔に出ているんだろうね」
花凜は信之介の胸に頭を預けた。
「本当に、今は幸せです」
「僕も同じ気持ちだよ」
信之介は花凜の髪を優しく撫でた。
「これからも、ずっと一緒にいよう」
「はい……ずっと」
静かな夜の中で、二人は幸せを噛みしめていた。
それから幾日が経ったある日。
遠く離れた山の中で、一人の女性が空を見上げていた。
それは、今では尼僧となった玲香であった。
彼女は雪見家を離れ、罪を償うために山寺で修行の日々を送ることにしたのだった。
「姉上……お幸せに」
玲香は心から祈った。
彼女もまた、長い償いの末に、ようやく真の平安を見つけつつあった。
時は流れ、白雪は美しい少女に成長した。
彼女は母譲りの優しさと、父譲りの強さを兼ね備えていた。
「お母様、私も陰陽師になりたいです」
十歳になった白雪が花凜に言った。
「そう……でも、力を使う時は、必ず人のためを思って使うのですよ」
「はい、分かりました」
白雪の瞳は、希望に満ちて輝いていた。
桜の花が再び咲く季節、花凜は庭で一人佇んでいた。
もう中年の女性となった彼女だったが、その美しさは以前にも増して輝いていた。
「お母様」
白雪が駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「今日、村の人たちが『花凜様は本当に慈悲深い方だ』って言ってました」
「そう……」
「私も、お母様のような人になりたいです」
花凜は娘を抱きしめた。
「白雪、あなたはもう十分に優しい子です。その心を大切にしてくださいね」
「はい」
母と娘が抱き合う姿を、信之介が遠くから見守っていた。彼の顔にも、深い満足感が浮かんでいた。
雪見家は、真の愛と正義の家となった。そして、その名声は都にまで響き、多くの人々が花凜の導きを求めて訪れるようになった。
かつて薄幸だった少女は、今や誰もが尊敬する立派な女性となっていた。そして、その幸せは、彼女が積み重ねてきた善行の報いだった。
夕日が雪見家の屋敷を照らす中、花凜は母の白いかんざしを手に取った。
それは今も、変わらず美しく輝いていた。
「お母様、私は幸せです」
花凜の言葉は、静かな夕暮れの中に響いていた。
< 了 >
「お嬢様、今日も早いのですね」
台所で火を起こしていた花凜に、年老いた女中のお鈴が声をかける。
花凜は振り返ると、いつものように穏やかな微笑みを浮かべた。
「おはようございます、お鈴さん。今日は父上の好きな筍御飯を作ろうと思って」
「相変わらず花凜様はお優しい。玲香様も見習われれば良いのに」
お鈴の言葉に、花凜の表情がほんの少し曇る。
妹の玲香は、使用人たちの前では決して料理や掃除などの雑事に手を出さない。
陰陽師の修行に専念するため、というのが表向きの理由だったが、花凜にはそれが虚飾に過ぎないということがわかっていた。
玲香は、家事はすべて使用人に任せており、自分から汗水を流そうとはしないのだ。
「まあ、玲香は玲香なりに頑張っていると思いますよ」
花凜がそう言って苦笑いしたとき、廊下に軽やかな足音が響いた。
現れたのは、身だしなみをしっかりと整えた玲香。
紅色の着物に身を包み、丁寧に結い上げた髪には金のかんざしが煌めいている。
「姉上、おはようございます。今日も朝早くから家事をなさっているのですね」
玲香の声は蜜のように甘いが、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
「おはよう、玲香。今日の修行はどうするの?」
「父上から新しい術を教えていただく予定です。姉上も一緒にいかがですか?」
表面上は優しい提案だったが、花凜は玲香の真意を理解していた。
父の前で自分の優秀さを見せつけ、花凜の劣等感を煽る算段なのだ。
「お気遣いありがとう。でも私は家のことがありますから」
「そうですか。では、失礼いたします」
玲香が去った後、お鈴が小さくため息をついた。
「花凜様は本当にお優しすぎますよ。もっと、玲香様のように、したたかに生きたほうがよろしいのでは?」
花凜は何も答えず、静かに筍を刻み続けた。
母の形見である白いかんざしが、朝日を受けて淡く光っている。
その日の昼下がり、村から一人の農夫が駆け込んできた。
「雪見様! 大変でございます! 田んぼに化け物が出て、稲を全て枯らしてしまいました!」
屋敷の主である雪見厳山は眉をひそめた。
「化け物? 詳しく話せ」
「夜中に光る目をした巨大な猪のような獣が現れ、田んぼを荒らしております。普通の武器では歯が立ちません」
「妖怪の類か……」
厳山は立ち上がった。
「玲香、支度をせよ。退治に向かう」
「はい、父上」
玲香が嬉しそうに答える一方で、花凜は黙って茶を運んでいた。
「花凜も来い」
父の言葉に、花凜は驚いて顔を上げた。
「私も行ってよろしいのですか?」
「お前も雪見家の娘だ。いつまでも家事ばかりしているわけにはいかんだろ」
玲香の表情がわずかに強張る。花凜に対抗意識を燃やしているのだ。
しかし、すぐに微笑みを浮かべて言った。
「姉上もいらしてくださるなんて心強いですわね。でも、お怪我をなさらないよう、後ろでお待ちいただければ?」
「そうだな。花凜は支援に回れ」
花凜は静かに頷いた。
玲香は、この戦いを自分の手柄にしたいのだろう。
やれやれ、と花凜は思った。
夜が更けた頃、三人は問題の田へと向かった。
月明かりの下で、確かに巨大な猪のような妖怪が暴れ回っているのが見えた。
その体は不気味な青白い光を放ち、鋭い牙からは毒々しい涎が垂れていた。
「土遁の術!」
玲香が印を結ぶと、地面から土の柱が立ち上がり、妖怪の動きを封じようとする。
しかし、妖怪はその術をあっさりと破ると、玲香に向かって突進してきた。
「くっ!」
玲香が後ずさりした時、花凜が静かに前に出た。
「玲香、下がって」
花凜の手に、淡い白い光が宿る。
それは母から受け継いだ浄化の力だった。
「浄化の術・白雪の舞!」
花凜が印を結ぶと、無数の白い光の花びらが舞い踊り、妖怪を包み込んでいく。
妖怪は苦しげに咆哮を上げ、やがて光の中に消えていった。
「見事だ、花凜」
厳山が感心の声を上げたが、玲香は悔しそうに拳を握りしめていた。
翌朝、村人たちが雪見家にお礼に訪れた。
「玲香様のおかげで助かりました!」
「さすがは雪見家のお嬢様です!」
花凜は困惑した。
自分が妖怪を退治したはずのに、なぜ玲香が倒したことになっている。
これはいったい、どういうことなのだろう。
「いえいえ、私一人の力ではありません」
玲香が謙遜するように言う。
「父上のご指導と、姉上の支援があったからこそでございます」
その夜、花凜は一人で庭を歩いていた。
なぜ玲香が称賛されているのか、その理由を考えていると、生垣の向こうから玲香の声が聞こえてきた。
「今回はうまくいったわ。花凜の術を少し邪魔して、私が最後にとどめを刺したように見せたのよ」
もう一つの声が応えた。それは玲香が使役する式神の声だった。
「さすがは玲香様。でも、花凜様の実力も侮れませぬぞ」
「そうね。でも大丈夫。私にはまだまだ策があるから」
花凜は静かにその場を離れた。
真実を知った今も、彼女の心に恨みはなかった。
そこには、深い悲しみがあるだけだった。
季節は夏に移り、雪見家では霊力の査定が行われることになった。
これは一族の若者たちが集まり、それぞれの実力を披露する重要な年中行事だった。
「今年は特に注目されるだろう」
厳山が言う。
「玲香の成長ぶりが著しいからな」
花凜は黙って茶を注いでいたが、その手はわずかに震えていた。
昨夜、大切にしていた母の形見の白いかんざしが消えていたからだ。
「姉上、どうかなさいましたか? 顔色が悪いようですが」
玲香が心配そうに声をかけるも、目は笑っていた。
「い、いえ。何でもありません」
「そうですか。でも、今日は母上のかんざしをお付けになっていませんね。いつもお大事になさっているというのに」
厳山が眉をひそめる。
「かんざしがどうしたのだ?」
「実は……」
花凜が口を開きかけた時、玲香が割って入った。
「お忘れになったのですね。姉上は最近、物忘れが多くていらっしゃるから」
「そうか……」
厳山は失望したような表情を浮かべた。
「亡き妻の形見を粗末にするとは……」
花凜は何も言えなかった。
かんざしが自分の部屋から消えたことを告げれば、玲香が疑われるかもしれない。それを避けたかった。
霊力査定の日、雪見家の道場には一族の若者たちが集まっていた。
花凜も参加することになったが、朝から体調がすぐれなかった。
「花凜、大丈夫か?」
従兄である雪見蒼馬が、心配そうに声をかける。
「はい、少し疲れているだけです」
花凜は自分の霊力に異変を感じていた。
いつものように力が湧いてこないのだ。
「それでは、始めましょう」
査定官の合図で、まず玲香が術を披露した。
「炎舞の術!」
玲香の手から美しい炎の花が舞い上がり、道場を幻想的な光で照らす。
見事な技に、周囲から感嘆の声が上がった。
「素晴らしい! これほどの炎術を使えるとは」
次は花凜の番である。
彼女は得意とする浄化の術を使おうとしたが、今日は霊力が全く湧いてこない。
「あの……」
花凜が困惑していると、玲香が優しく声をかけた。
「姉上、お加減が悪いのでしたら、無理をなさらずに」
「いえ、大丈夫です」
花凜は必死に術を試みるも、わずかな光が指先に宿るだけで、すぐに消えてしまった。
「おかしいな……花凜の実力はこんなものではないはずだが」
厳山が首をかしげる中、査定は終了した。
結果は大方の予想通り、玲香が最高評価を受け、花凜は最低評価となった。
その夜、花凜は自分の部屋で一人、母の遺品を整理していると、箪笥の奥から小さな呪符を見つけた。
それは霊力を封じる、邪悪な術符だった。
「これは……」
花凜は愕然とした。
誰かが自分の霊力を封じるために、この呪符を仕込んだのだ。
翌日、隣家の橘家から信之介が訪れた。
彼は花凜の幼馴染であり、密かに想いを寄せている青年だ。
「花凜さん、昨日の査定のことを聞きました。花凜さんらしくないです。大丈夫ですか?」
「信之介さん……」
花凜が答えようとした時、玲香が現れた。
「まあ、橘様。いらっしゃいませ」
「玲香さん、こんにちは」
信之介は少し気まずそうに挨拶した。
「お姉様のお見舞いですか? お優しいのですね。でも、きっとお姉様は迷惑に思っていらっしゃるわ」
「え?」
「お姉様、橘様のことを『うっとうしい』っておっしゃっていましたもの。『いつまでも子供の頃の思い出にすがって』って」
花凜は顔を青くした。
「そ、そんなこと言ってません!」
「まあ、お姉様。隠さなくても……」
玲香の言葉に、信之介の表情が変わった。
「いやはや、そうでございましたか。それでは、失礼します」
信之介は立ち上がり、花凜を一瞥することもなく去っていった。
「信之介さん、待って!」
花凜が追いかけようとするも、玲香が腕を掴んできた。
「お姉様、みっともないですわ。女性から追いかけるなんて」
花凜は玲香を見つめた。
その瞳には、今まで見たことのない冷酷な光が宿っていた。
「玲香……なぜ、こんなことをするの?」
「私、何かいたしましたか?」
玲香は首をかしげたが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
その夜、花凜は庭で一人泣いていた。
母のかんざしを失い、霊力を封じられ、大切な人まで奪われて、彼女の心は深く傷ついていた。
「お嬢様……」
いつの間にか、お鈴が側に立っていた。
「お鈴さん……」
「お嬢様のお気持ち、分からないわけではありません。でも、きっといつか真実は明かされます」
「真実……」
「はい。嘘や偽りは、いつか必ず露見するものです。お嬢様は何も悪いことをしていらっしゃらない。だから、どうか希望を捨てないでください」
花凜は涙を拭いた。お鈴の言葉が、彼女の心に小さな灯りを灯した。
「……ありがとうございます」
「それから……」
お鈴は小さな包みを差し出した。
「これ、お部屋の床下から見つけました」
包みを開けると、中から母の白いかんざしが現れた。
「かんざし……」
「きっと、何かの間違いで落ちてしまったのでしょう」
お鈴は何も言わなかったが、花凜は理解した。
お鈴が玲香から取り戻してくれたのだろう。
「お鈴さん……」
「何も申しません。ただ、お嬢様にはお幸せでいていただきたい。それだけでございます」
花凜はかんざしを髪に挿した。
封じられていた霊力が少しずつ戻ってくるのを感じた。
秋が深まった頃、都から緊急の知らせが届いた。
手強い妖怪が出現し、近隣の村々を襲っているという。
朝廷からの正式な討伐令であった。
「これは大変な事態だ」
厳山が顔を曇らせる。
「相手は上級妖怪『鬼蜘蛛』。並の陰陽師では太刀打ちできん」
鬼蜘蛛は人間を食らう邪悪な妖怪で、巨大な蜘蛛の姿をしている。
その糸は刃物のように鋭く、毒を持っており、危険な相手である。
「父上、私も参ります」
玲香が名乗り出た。
「いや、玲香。お前はまだ若い。危険すぎる」
「でも、父上お一人では……」
厳山は考え込んだ。
確かに、鬼蜘蛛相手に一人で戦うのは無謀である。
「花凜も連れて行こう」
花凜は驚いた。
「私もですか?」
「ああ。三人なら何とかなるかもしれん。ただし、花凜は支援に徹しろ。前には出るな」
玲香の目が光った。
「そうですね。姉上は安全なところで待機していただきましょう」
準備を整えて出発の朝、玲香が花凜に護符を渡した。
「姉上、これをお持ちください。身を守る護符です」
「ありがとう、玲香」
花凜は素直に受け取ったが、護符から微かに邪悪な気を感じた。
しかし、妹の好意を邪険にすることはできなかった。
鬼蜘蛛が出現したのは、深い森の奥だった。
巨大な古木に囲まれた薄暗い空間で、不気味な銀色の糸が張り巡らされている。
「あそこだ」
厳山が指差す先に、人間の胴体ほどもある巨大な蜘蛛がいた。
赤い複眼が不気味に光り、鋭い牙からは毒液が垂れている。
「花凜は後方で待機しろ。玲香、私と共に前に出るぞ」
「はい」
戦いが始まった。
厳山の雷撃の術と玲香の炎術が鬼蜘蛛を攻撃するが、妖怪は素早い動きでそれらを避ける。
「しぶとい奴だ」
その時、鬼蜘蛛が大量の糸を放った。
糸は厳山と玲香を狙っているように見えたが、なぜか軌道が逸れて花凜の方向に向かう。
「花凜、危ない!」
厳山が叫んだが、花凜は動けなかった。
護符の影響で、体が鉛のように重くなっていたのだ。
「これは……」
花凜は護符を見下ろし、その正体を理解した。
これは身を守る護符ではなく、動きを封じる呪符なのだろう。
鋭い糸が花凜に迫ってくる。
そのとき、花凜の中で何かが覚醒した。
「もう……騙されない!」
花凜が叫ぶと、呪符が光と共に燃え上がった。
そして、彼女の体から強大な霊力が溢れ出す。
「浄化の術・千の白雪!」
花凜の手から無数の白い光球が放たれ、鬼蜘蛛を包み込んでいった。
そして、妖怪は苦悶の声を上げて消滅した。
「そ、そんな……」
玲香が呟いた。
花凜の真の実力を目の当たりにして、玲香は愕然としていた。
「花凜……お前、いつの間にこれほどの力を……」
厳山も驚いている。
「私も……よく分からないのです」
花凜は疲れ果て、膝をついた。
しかし、その表情は晴れやかだった。
帰り道、玲香は一人考えていた。
(姉上の力は私の想像以上……このままでは……)
玲香の心には、さらなる悪意が芽生えていた。
その夜、雪見家では鬼蜘蛛討伐の報告会が開かれた。
「今回も、私と玲香との連携が功を奏した」
厳山が説明する。
「花凜も最後に術を使ったが、それは私たちが妖怪を弱らせていたからこそ可能だった」
花凜は黙って聞いていた。
真実は違うが、それを主張する気にはなれなかった。
「玲香の成長ぶりは目覚ましい。将来が楽しみだ」
「ありがとうございます、父上」
玲香が深々と頭を下げる。
その時、彼女の袖から小さな物が落ちた。
それは花凜に渡した護符と酷似した呪符だった。
「これは……」
お鈴がそれを拾い上げる。
「あ、それは……」
玲香が慌てて手を伸ばしたが、時既に遅かった。
「動きを封じる呪符でございますね」
お鈴が静かに言った。
「なぜ玲香様がこのようなものを?」
一瞬、座の空気が凍りついた。
「そ、それは……研究用です」
玲香が取り繕う。
「呪符の仕組みを学ぶために……」
「そうか」
厳山は納得したようだった。
「向学心があるのは良いことだ」
しかし、花凜とお鈴は真実を理解していた。
冬の訪れと共に、雪見家に不穏な空気が漂い始めた。
玲香の行動がますます大胆になり、花凜への嫌がらせも執拗なものへとなっていった。
ある夜、花凜は庭の隅で不気味な光を見つけた。
それは玲香の部屋から漏れる異様な光だった。
「あれは……」
花凜が近づいてみると、玲香が禁じられた呪術の準備をしているのが見えた。
血で描かれた呪文陣、不気味な形の人形、そして……花凜の髪の毛。
「魂喰いの術……」
花凜は息を呑んだ。
それは相手の霊力を永久に奪う邪悪な術だった。
一族では使用を禁じられているものだ。
突然、お鈴の悲鳴が響いた。
花凜が振り返ると、お鈴が血を流して倒れていた。
「お鈴さん!」
花凜が駆け寄ると、お鈴は弱々しく手を伸ばした。
「今、助けます」
花凜が治癒の術をかけようとした時、玲香が現れた。
その手には呪いの短剣が握られていた。
「姉上……なぜここに?」
玲香の声は今までとは全く違っていた。
仮面を脱ぎ捨てた、真の玲香の声だった。
「玲香……お鈴さんに何をしたの?」
「見てはいけないものを見ていたからよ。まさか姉上まで来るなんて」
玲香は冷たく笑った。
「ああ。これで計画が狂ってしまったわ。本当は、姉上が眠っている間に術を完成させるつもりだったのに」
「なぜ……なぜそんなことを?」
「なぜって?」
玲香の瞳が燃えるような憎悪を宿した。
「父上は口では私を褒めているけど、心の底では姉上を愛しているんじゃないの? この前も、私だけじゃなく、姉上も連れて行った。それが我慢ならないの」
「そんな……」
「だから、姉上の霊力を奪い取る。そうすれば、私こそが雪見家の正統な後継者になれる」
玲香が短剣を振り上げた時、花凜は今までに見せたことのない顔を見せた。
「玲香、もう十分です」
花凜の声が、今まで聞いたことがないほど強く響く。
「あなたの我儘に付き合うのに疲れました。お鈴さんを傷つけたあなたを、絶対に許しません」
「何ですって?」
「今まで黙っていたのは、私の大切な妹だからです。でも、無実の人を傷つけたとなれば、血を分けた妹でも話は別です」
花凜の体から、強大な霊力が溢れ出す。
それは今まで隠していた彼女の真の力だった。
「……姉上がこれほどの力を?」
「霊力覚醒・真なる雪見の血」
花凜が印を結ぶと、屋敷全体が白い光に包まれた。
その光は、過去に起こった全ての出来事を映像として浮かび上がらせる。
光の中に、玲香の全ての悪行が映し出された。
盗んだかんざし、仕込まれた呪符、信之介への嘘、そして、今夜の魂喰いの術まで。
「これは……」
厳山や他の家族たちも光に気づいて集まってきた。
そして、彼らの目の前で真実が明かされた。
「玲香……これは一体……どういうことだ?」
厳山が震える声で問いかける。
「父上……これは……」
玲香は言い訳をしようとしたが、映像は彼女の嘘を全て暴いていた。
「玲香……おまえはずっと、私を騙していたのか?」
「違います! 私は……私は……」
しかし、弁解の余地はなかった。
魂喰いの術の道具、血まみれの短剣、倒れているお鈴、すべてが玲香の罪を物語っていた。
真実が明かされた後、雪見家は大きく変わった。
「玲香……いや、もはやお前は私の娘ではない」
厳山は怒りに震えていた。
「父上……お許しください。私は……私は……」
玲香が泣き崩れたが、もう遅かった。
「魂喰いの術は一族の禁忌。しかも、自分の私利私欲のために使おうとするなど……」
厳山は目を閉じて言った。
「お前を雪見家から追放する。そして、霊力を封印する」
「そんな……お父様!」
「お父様などと呼ぶな。お前はもはや他人である!」
厳山が印を結ぶと、玲香の霊力が封印された。
彼女はその場に崩れ落ちた。
「お父様……姉上……」
玲香は花凜にすがりついた。
「お許しください……私が間違っていました……」
花凜は玲香を見下ろした。
そこには、今まで見たことのない本当の涙があった。
しかし、花凜の心は既に決まっていた。
「玲香……いえ、あなたはもう、玲香ではありません」
花凜の声は静かだったが、確固とした意志を秘めていた。
「あなたは自分の行いの報いを受けなければなりません」
「そんな……」
「お鈴さんを傷つけた時点で、もう姉妹ではありません」
厳山が家人たちに命じた。
「この者を屋敷から追い出せ。二度と雪見家の敷地に足を踏み入れさせるな!」
「父上…………」
玲香は最後まで許しを乞うたが、誰も彼女を見ようとはしなかった。
やがて、彼女は夜の闇の中に消えていった。
翌日、お鈴の治療が終わると、花凜は父の前に呼ばれた。
「花凜……」
厳山は深々と頭を下げた。
「父上?」
「自分は間違っていた。花凜こそが、真の雪見家の後継者だ」
「父上……」
「花凜の優しさ、実力、すべてが母親そっくりだ。これまで、玲香の表面的な技巧に惑わされ、本当に大切なものを見失っていた」
厳山は花凜の手を取った。
「雪見家の当主の座を継いでくれ」
花凜は驚いた。
「私が……当主に?」
「そうだ。花凜以外にこの家を託せる人はいない」
その時、使用人たちが次々と現れた。
「花凜様に、これからもお仕えしとうございます」
「いつも私たちを大切にしてくださりありがとうございます」
「花凜様こそが、真の雪見家のお嬢様です」
使用人たちの言葉に、花凜は涙を流した。
「皆さん……」
「お嬢様」
お鈴が包帯を巻いた体で現れた。
「私たちはずっと、お嬢様の本当のお心を思っておりました。なのに、これまで力になれず、本当に申し訳ありませんでした」
「そんなことはありません。お鈴さん……お体は大丈夫ですか?」
「おかげさまで、この通り、だいぶ治ってまいりました。お嬢様の治癒の術のおかげでございます」
その日の夕方、思いがけない来客があった。橘信之介だった。
「花凜さん……」
「信之介さん」
「真実を知りました。玲香さんから聞いたあの言葉は嘘だったのですね」
花凜は頷いた。
「私……信じるべきでした。花凜さんがそんなことを言うはずがないのに」
「信之介さん……」
「改めて……お側においてください。花凜さんを守らせてください」
信之介は膝をつき、花凜に頭を下げた。
「お顔を上げてください」
花凜は優しく微笑んだ。
「私の方こそ、信之介様にお支えいただきたいと思っています」
二人は見つめ合い、そして静かに手を取り合った。
数日後、雪見家では新当主の就任式が行われた。
花凜は母の白いかんざしを髪に挿し、当主の証である霊剣を受け取った。
「雪見花凜、雪見家第十八代当主に就任いたします」
集まった一族や関係者から、温かい拍手が送られた。
「これからは、真の愛と正義に基づいて、雪見家を導いていきます」
花凜の言葉に、皆が深く頭を下げた。
それから数日後。
花凜は一人で村を歩いていたとき、見知らぬ老婆に出会った。
「ああ、なんと美しいお方」
「そんな、恐縮でございます」
「そのお姿だけではありませぬ。美しいのは、あなた様の心もです」
老婆は微笑んだ。
「長い試練を、よくぞ耐え抜かれました」
「試練……?」
「時には、人は苦しみを通してこそ、真の強さを身につけるものです。あなたはその試練を見事に乗り越えられた」
老婆は花凜の頭に手を置いた。
「これからも、その優しい心を忘れないでください」
そう言うと、老婆は光の中に消えていった。
春が来た。雪見家の庭には美しい桜が咲き誇り、新しい季節の始まりを告げていた。
花凜は当主として、公正で慈愛に満ちた統治を行っていた。
使用人たちは皆、心から彼女に仕える喜びを感じていた。
「お嬢様、今日も村から相談事が来ております」
お鈴が報告する。
「分かりました。すぐに対応いたします」
花凜は立ち上がる。
彼女の顔には、以前のような陰りはなく、自信に満ちた輝きがそこにあった。
「ところで、橘様からお手紙が届いております」
「信之介さんから?」
花凜は嬉しそうに手紙を受け取った。
信之介は現在、都で修行を積んでおり、やがて花凜と結ばれる予定であった。
手紙には、彼の修行の様子と、花凜への変わらぬ想いが綴られていた。
「来月には帰って参ります。その時は、改めて正式に結婚の申し込みをさせていただきたいと思います」
花凜は手紙を胸に抱いた。
「お嬢様、本当にお幸せそうですね」
「はい」
花凜は微笑んだ。
「今まで辛いこともたくさんありましたが、すべては今の幸せのためだったのかもしれません」
その時、門番が駆け込んできた。
「お嬢様! 大変です! 門の前に……」
花凜が急いで門に向かうと、そこには見覚えのある人影があった。
それは、やつれ果てた玲香だった。
「姉上……」
玲香は地面に膝をついていた。
かつての美しさは見る影もなく、髪は乱れ、着物は汚れていた。
「玲香……」
「お許しください……私が間違っていました……」
玲香の声は涙で震えていた。
「この数か月、私は地獄のような日々を送りました。霊力を失い、誰からも相手にされず、食べる物にも困って……」
「玲香……」
「でも、その中で気づいたのです。姉上がどれほど優しい方であったか……私がどれほど愚かだったか……」
玲香は額を地面につけた。
「もう一度……もう一度だけ、妹として受け入れていただけませんか?」
花凜は長い間、玲香を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「玲香……あなたは確かに多くの過ちを犯しました」
「はい……」
「でも、それを悔い改める気持ちがあるなら……」
花凜は手を差し伸べた。
「もう一度、やり直しましょう」
「姉上……」
玲香は涙を流しながら、花凜の手を取った。
「ただし」
花凜は厳しい表情を見せた。
「まずは、父上やお鈴さんに謝罪することが先でしょう。今度同じことをしたら、二度と許しませんよ」
「はい……分かっています」
花凜は玲香を立ち上がらせた。
「お帰りなさい、玲香」
「ただいま……姉上」
その日から、玲香は本当に変わった。
霊力を失った彼女は、今度は家事や使用人たちの手伝いに励んだ。
かつて軽蔑していた仕事を、今は心から感謝して行っていた。
「玲香様、今日もありがとうございます」
使用人たちも、少しずつ玲香を受け入れ始めていた。
「いえ、こちらこそ。皆さんのおかげで、私は本当の幸せを知ることができました」
ある日の夕暮れ、花凜と玲香は庭で茶を飲んでいた。
「姉上」
「何ですか」
「もし私が最初から素直だったら、私たちはもっと早く幸せになれたでしょうか」
花凜は考えた。
「分からない。でも、今の私たちは、きっと以前よりも強い絆で結ばれていると思う」
「強い絆……」
「苦しみを乗り越えたからこそ、本当の愛の意味が分かったのかもしれません」
玲香は頷いた。
「そうですね。私も、失ってから初めて、姉上の愛の深さを知りました」
二人は静かに微笑み合った。
翌月、信之介が都から帰ってきた。
そして、約束の通り花凜に結婚を申し込んだ。
「花凜さん、私と共に歩んでください」
「はい、喜んで」
結婚式は雪見家で盛大に行われた。
花凜は母の白いかんざしを髪に挿し、美しい白無垢に身を包んでいた。
「お姉様、本当にお美しいです」
玲香が心から祝福の言葉を述べる。
「ありがとう、玲香。あなたがいてくれて、私は幸せです」
式の最中、花凜は天を見上げた。きっと母も、この光景を見て微笑んでいることだろう。
「お母様、私は幸せです」
花凜の言葉が、春風に乗って天高く舞い上がっていった。
結婚式の後、花凜と信之介は新しい生活を始めた。
花凜は当主として、信之介は支える夫として、そして玲香は真の妹として、三人は協力して雪見家を繁栄させていった。
数年後、花凜と信之介の間に可愛い娘が生まれた。
その子は母譲りの白い髪と、優しい瞳を持っていた。
「この子の名前は『白雪』にしましょう」
花凜が提案すると、皆が賛成した。
「白雪……美しい名前ですね」
玲香が赤ん坊を抱いて言った。
「きっと、姉上、いや、お母様のように優しい子に育つでしょう」
「玲香……あなたも立派な叔母様になってくださいね」
「はい、お任せください」
赤ん坊を囲んで微笑む三人の姿は、まさに真の家族の姿だった。
春の夕暮れ、花凜は庭で白雪を抱いて散歩していた。桜の花びらが舞い散る中、彼女は過去を振り返った。
あの苦しかった日々も、すべては今の幸せのために必要だったのかもしれない。
人は試練を通してこそ、真の強さと愛を学ぶ。
「白雪、あなたも強く、優しい人になってくださいね」
花凜が娘に語りかけると、白雪は小さな手を伸ばして、母の頬に触れた。
その時、どこからか懐かしい声が聞こえた。
「花凜……」
振り返ると、亡き母の姿がぼんやりと見えた。
「お母様……」
「よく頑張りましたね。あなたは本当に立派に育ちました」
母の姿は淡い光に包まれていた。
「これで私も安心です。白雪をよろしくお願いします」
「はい、お母様」
母の姿が光の中に消えていく。
花凜は涙を流しながら、深く頭を下げた。
夜が更けて、花凜は信之介と共に寝室にいた。
「花凜、今日は何だか輝いて見えるよ」
「そうかしら?」
「きっと、すべてが報われた喜びが顔に出ているんだろうね」
花凜は信之介の胸に頭を預けた。
「本当に、今は幸せです」
「僕も同じ気持ちだよ」
信之介は花凜の髪を優しく撫でた。
「これからも、ずっと一緒にいよう」
「はい……ずっと」
静かな夜の中で、二人は幸せを噛みしめていた。
それから幾日が経ったある日。
遠く離れた山の中で、一人の女性が空を見上げていた。
それは、今では尼僧となった玲香であった。
彼女は雪見家を離れ、罪を償うために山寺で修行の日々を送ることにしたのだった。
「姉上……お幸せに」
玲香は心から祈った。
彼女もまた、長い償いの末に、ようやく真の平安を見つけつつあった。
時は流れ、白雪は美しい少女に成長した。
彼女は母譲りの優しさと、父譲りの強さを兼ね備えていた。
「お母様、私も陰陽師になりたいです」
十歳になった白雪が花凜に言った。
「そう……でも、力を使う時は、必ず人のためを思って使うのですよ」
「はい、分かりました」
白雪の瞳は、希望に満ちて輝いていた。
桜の花が再び咲く季節、花凜は庭で一人佇んでいた。
もう中年の女性となった彼女だったが、その美しさは以前にも増して輝いていた。
「お母様」
白雪が駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「今日、村の人たちが『花凜様は本当に慈悲深い方だ』って言ってました」
「そう……」
「私も、お母様のような人になりたいです」
花凜は娘を抱きしめた。
「白雪、あなたはもう十分に優しい子です。その心を大切にしてくださいね」
「はい」
母と娘が抱き合う姿を、信之介が遠くから見守っていた。彼の顔にも、深い満足感が浮かんでいた。
雪見家は、真の愛と正義の家となった。そして、その名声は都にまで響き、多くの人々が花凜の導きを求めて訪れるようになった。
かつて薄幸だった少女は、今や誰もが尊敬する立派な女性となっていた。そして、その幸せは、彼女が積み重ねてきた善行の報いだった。
夕日が雪見家の屋敷を照らす中、花凜は母の白いかんざしを手に取った。
それは今も、変わらず美しく輝いていた。
「お母様、私は幸せです」
花凜の言葉は、静かな夕暮れの中に響いていた。
< 了 >



