(早川視点)
最近毎日のように告白されている矢沢を見ていると、だんだん気が滅入ってきた。
矢沢は断っているようだが、それもいつまで続くかわからない。前みたいに、急に付き合い出すかもしれない。
と、焦りを感じている自分にハッとし、言い聞かせる。

矢沢は幼馴染なんだ。これまでも、これからもずっとだ。と。

それでも、自分の気持ちは言うことを聞かず、モヤモヤとする感情が胸の中にうごめいている。

そんな葛藤を抱きながら廊下を歩いている俺に、女子が話しかけてきた。


「早川くん、土曜日遊びに行きませんか!」


矢沢のことでいっぱいいっぱいで、その女子に対するいい断り方も思いつかなかった。適当に断ってしまうと、後々痛い目に遭うということは、これまでの経験から断言できる。


「また今度ね」


いつもなら、こんな断り方はしないのだが、手っ取り早く角が立たないように断るのはこれが1番である。
女子はパァッと顔を明るくして、去っていった。
矢沢も、俺の知らないところで女子と遊んでいるのだろうか。
すぐにそういう思考になる自分が嫌になる。
それを振り払うように、俺は教室に入った。



ーーーー



その日の放課後。
俺は勉強会という名目で矢沢の家に来ていた。
もうすぐ定期テストがあるから勉強を教えて欲しい、ということで矢沢に誘われたのだ。
矢沢の家に来るのは久しぶりだ。
少し緊張しているのを気取らせないように口を開いた。


「千夏さんは?」
「あー、姉ちゃんは今日大学の飲み会で、多分遅くまで帰ってこないよ」


千夏さん、というのは矢沢のお姉さんだ。今大学3年生らしい。矢沢の女版、といったらわかるだろうか。いつも明るくて元気な印象だ。矢沢は千夏さんに尻に敷かれており、逆らえないようだ。


「先に俺の部屋行ってて。飲み物持ってくー」
「わかった」


矢沢の言葉に頷いて、階段を登る。
2階の1番左が矢沢の部屋だ。
ガチャ、とドアノブを回し部屋に入る。あちこちから矢沢の匂いがして落ち着かない。
矢沢が来ていないのに部屋に座るのは気が引けるし、荷物をどうしようかとオロオロしていると、マグカップを2つ持った矢沢が部屋に入ってきた。


「なにしてんのきょーちゃん。早く座りなよ」


俺の姿をみて笑う。なにか言い返したいのに、その笑顔にうまく言葉が出てこない。
少し迷った末に、部屋の真ん中にあるテーブルの横に腰掛けた。ちょうど、ベットが背もたれになった。
矢沢は俺の隣に座って、はい、とマグカップを1つ寄越した。
顔を近づけると、湯気とともに甘い香りが鼻をかすめた。


「ココアでよかった?」


矢沢の言葉に頷いた。ふーっと息を吹きかけ、ココアを冷ます。


「きょーちゃん、コーヒーとか苦いの飲めないもんなー」


そういって矢沢は自分の分のマグカップに口をつけた。
どうやら矢沢はコーヒーらしい。


「うるさい。別にそのぐらい飲める」


全くもって嘘だ。まだコーヒーの美味しさがよくわからない。


「じゃあ飲んでみる?」


矢沢はニヤッと笑って自分のマグカップを差し出した。
グッと口をつぐむ。大口を叩いた手前、断れない。
意を決して、矢沢のマグカップに口をつけた。
関節キスじゃ……とドキドキしたのも束の間、熱々な状態のコーヒーが舌を触った。


「あちっ」


思わず声が出る。コーヒーの苦味を感じる暇もなく、マグカップから口を外した。


「はは、猫みたい」


そんな状態の俺を見て矢沢が笑う。
恥ずかしくなって、じわじわと顔が熱くなる。


「うるさい!」


ゲシっと矢沢を小突いた。
「ごめんごめん」と軽くあしらわれる。
矢沢はずっとケラケラと笑っている。


「あー、ほんと。かわいいね、きょーちゃん」
「はあっ?」


かわいい、という言葉の意味が一瞬理解できず、フリーズしている間に、矢沢は俺の頭を撫でる。


「ちょ、ちょっと、やざわっ」


優しく撫でられて、どういう反応をしたらいいのかわからない。ただ、口でお気持ち程度の制止をするだけだ。
だからなのか、矢沢は一向に俺を撫でるのを止めなかった。口で制止するのも面倒になり、されるがままに、俺はそれを受け入れた。

しばらくして、矢沢はパッと手を離した。
もう少し撫でて欲しかった、というのは言わないでおく。


「よし、勉強しよ」


矢沢のその一言で、今日は勉強会をしにきていたんだということを思い出す。
カバンから参考書とノートを取り出し、テーブルに置いた。
ちらりと隣の矢沢に目をやる。勉強を教えて欲しい、と言われたが、矢沢は成績が悪いわけではない。むしろ良い方だ。しかも俺は文系で矢沢は理系だ。俺に教わることなんてほとんどないように思う。


「矢沢、なんかわかんない問題でもあったの?」


俺がそう聞くと矢沢はふいっと目を逸らした。


「あー……いや、大丈夫」


どことなく、歯切れの悪い返事だった。
「そうなんだ」と頷き、それ以上は聞かなかった。
矢沢は気まぐれなところがある。今回もそんな感じだろう。

参考書とノートを開き、問題に取り掛かる。隣の矢沢も勉強を始めたようだ。
特になにも会話を交わすことなく、1時間が経った。
集中力も切れてきたので、飲みかけだったココアを飲み干し、ふぅーっと息を吐いた。
それを見ていたのか、矢沢もペンを置き、後ろにあるベットにもたれた。


「きょーちゃん、あのさ……」
「なに?」


どこか神妙な面持ちで矢沢が俺を見つめる。
矢沢は何か言いかけて、口をつぐんだ。


「矢沢?」


グッとうつむいた矢沢の顔をのぞき込む。
体調でも悪いのだろうか。
俺は熱を測ろうと矢沢に手を伸ばす。
その手をガシッと矢沢が掴んだ。


「恭弥」


真剣に名前を呼ばれて驚く。
いつも、きょーちゃん、としか呼ばないのに、急に名前で呼ばないで欲しい。心臓に悪い。

そんなことを呑気に考えてられたのも束の間、矢沢が俺に体重をかけてくる。
身長はあまり変わらないが、矢沢は陸上部で体を鍛えていることもあって、体重は大きく差がある。
筋肉もなにもついていない俺はいとも簡単に押し倒されてしまった。

ゆっくりと、矢沢の顔が迫ってくる。
慌ててもおかしくないこの状況に、心臓は暴れ回っているが、頭だけはなぜか冷静だった。
すぐに、状況は理解できた。

矢沢は、俺にキスするつもりだ。

そう自覚した途端、顔がぶわぁっと熱くなる。
矢沢の手が俺の頬に触れる。触れられた頬はこれでもかと言うほど熱を帯びていた。

矢沢が俺の目を見つめる。
その顔は、なぜか辛そうに見えた。


「…………いいの」


矢沢の口から溢れでたその言葉は、やけに苦しそうだった。
でも、その意味も、理由も、考えるほどの余裕は残っていなかった。
矢沢の言葉に頷くので精一杯だった。


チュッ、という水分を含んだ音が、重なった唇から生まれた。


一度だけだった。それが終わると、矢沢は体を起こし俺の上から退いた。
そして、何事もなかったように、勉強に戻った。

「なんでキスしたの」とか、「俺のこと好きなの」とか、何か言えたら良かったかもしれない。
でも、矢沢の苦しそうな表情にその言葉は口から出ることを拒んだ。
幼馴染から、別の関係へ変われるかもしれない、という俺の淡い期待がそこにはあった。

でも、矢沢も何も言わなかった。
それが答えだ。
キスまでしたのに、「好きだ」「付き合って」という言葉が出ないのは、それを矢沢が求めていないからだ。
幼馴染以上の関係を、矢沢は求めていない。

その事実に、どうしようもなく悲しくなる。

その気持ちを誤魔化すように、ペンを持った。
そこから1時間くらい勉強して、解散することになった。

玄関まで見送りに来た矢沢がヒラっと手を振った。


「じゃあね、きょーちゃん。また明日」
「……うん」


矢沢は何もなかったことにしたいのだろう。いつも通りの姿から察することができたのは、それだけだった。
それにまた、悲しくなった。

俺とのキスは、なかったことになる。
明日からはまた、いや、今からまた、普通の幼馴染に戻る。

それでいい。一緒にいられるなら、それでいい。

自分にそう言い聞かせることぐらいしかできなかった。