これは私たちが白百合でも黒薔薇でもなく、まだつぼみだった頃。
「蘭ちゃんは絶対にお医者さんになれる。きっと困ってる人を助ける立派なお医者さんになれるわ」
 無垢な天使の笑顔でそう言われ、私の心はときめいた。
「さゆちゃんが言うならお医者さんになる。さゆちゃんのこと、わたしが助けてあげる」
「うん、お願いね」
「約束ね」
「約束だよ」
 幼い小指を絡ませ合い、指切りげんまんした。時折思う、あの頃のように無邪気に笑い合えていた時間に戻れたらと。いつからか変わってしまった。二人の歩幅は同じだったはずなのに、どうして合わなくなってしまったのだろう。
 理由はわかっている、私があなたのことを――。

 *

 私、笠吹蘭華は医療事業を中心に展開する笠吹メディカルグループの長女として生まれた。業界でもかなりの大手で所謂上流階級であり、自分はお姫様なのだと本気で思っていた。欲しいものはすべて買い与えられ、フランス人の母は少女趣味だったのでフリフリのドレスをよく着せられていた。そんな幼少期を過ごしていたので自分をお姫様だと思っていても仕方ないと思う。

 だがそう思っていたのは小学一年生まで。わずか八歳で私は本物のお姫様に出会った。
「蘭華、紹介しよう。父さんが仕事でお世話になっている白雪さんのお嬢さん、さゆりちゃんだよ」
「しらゆきさゆりです」
 さゆりと初めて出会ったのは白雪財閥主催のパーティーに家族で出席した時だった。ピンクのワンピースドレスを着せられ、煌びやかなパーティー会場にウキウキしながら行ったらさゆりを紹介された。
 さゆりは純白のワンピースに純白のリボンで結いてツインテールにしていた。私のドレスの方がフリルやスパンコールで華やかだったのに、何故か装飾がないシンプルなさゆりのドレスの方がかわいく見えた。着ているさゆりがかわいいから、本物のお姫様だからだと八歳にして理解した。
「よろしくね、らんかちゃん」
「……よろしくね」
 だけど何故か悔しいとか羨ましいとかそういう気持ちにはならなかった。ただ目の前の美少女に見惚れた。この子と仲良くなりたい、友達になりたいと思った。
「さゆちゃん、あそぼ!」
 それから私はよくさゆりの家に遊びに行った。さゆりはいつも笑顔で出迎えてくれた。
「うん、あそびましょう」
「見てさゆちゃん、らんかもさゆちゃんとおんなじお洋服買ってもらったの」
「ほんとだ。おそろいね」
「おそろい!」
 さゆりは天使だった。優しくてかわいくて大好きだった。
「さゆちゃんのおうちは何してるの?」
「何って?」
「らんかのうちはね、お医者さんなの。パパもママもお医者さんなんだ」
「すごい!」
「さゆちゃんは?」
「んー、わたしはよくわからない。お父さまたちのお仕事、むつかしいから」
「そっかぁ」
 私とさゆりが仲良くしていることを父は大いに喜んだ。白雪財閥に取り入ることができるからだ。子どもの頃はよくわからなかったけれど、今ならわかる。さゆりの両親はほとんど家を不在にしており、いつ遊びに行ってもさゆりと使用人以外はいなかった。
「さゆちゃんは一人でさみしくないの?」
「一人じゃないもの。メイドさんたちがいるし」
「でも、パパとママはいないよ?」
「お父さまもお母さまもお仕事がいそがしいからしかたないの」
 そう言って笑うさゆりはいじらしい程にかわいかった。
「らんかはさゆちゃんといっしょだからね!」
「ありがとう、蘭ちゃん」
 私はさゆりが白雪財閥の娘だから一緒にいるんじゃない、さゆりのことが好きだから一緒にいたいのだ。このままずっと仲の良い友達でいたい。この頃の私はまだ純粋だった。

 *

 小学三年の時、父に我儘を言ってさゆりの通う聖リリス女学院初等部に転校させてもらった。さゆりを驚かせようとして黙っていたので、転校生として私が紹介された時は驚いていた。
「蘭ちゃんどうして?」
「えへへ、パパにおねがいしちゃった。今日から学校でもいっしょだよ」
「うれしい」
 さゆりが嬉しそうにはにかんでくれたことが私も嬉しかった。これでいつもさゆりと一緒にいられる、そう思っていたのだけれど。
「さゆりさん、ごきげんよう」
「ごきげんよう。さゆりさん、今度の日曜うちに遊びに来ませんか?」
「ずるいですわ。さゆりさん、うちに遊びにいらして」
 さゆりの周りには常に誰かがいる。クラスメイトはもちろん、別のクラスや上級生まで。理由はすぐにわかった、皆白雪財閥とお近づきになりたいのだ。きっと親にそう吹き込まれたに違いない。私はムカついてさゆりの腕を引っ張った。
「さゆちゃんはわたしと遊ぶのよ!」
 休み時間はさゆりを連れ出し、二人だけで学院のバラ園で過ごした。
「ありがとう、蘭ちゃん」
「ううん。はっきりいやだって言えばいいのに」
「そんなこと言えないわよ」
 優しいさゆりのことを私が守らねば。そう決意した。さゆりと一緒に過ごす時間は、いつも穏やかで温かくてホッと落ち着く。だけど時折私に微笑んでくれる度、どうしようもなく心臓が高鳴ってしまう時がある。この気持ちが何なのかはまだわからない。

 ある日、さゆりが熱を出して早退することになった。何だか朝からずっと赤い顔をしていると思ったら、やっぱり熱があった。保健室で眠るさゆりを迎えに来たのはメイドだった。
「あの、さゆちゃんのパパとママは?」
 さゆりの持ち物を整理するメイドに訊ねると、彼女は淡々と答えた。
「旦那様も奥様もお忙しいですから」
「そうですか……」
 私は学校が終わった後、すぐにさゆりのお見舞いに行った。さゆりは眠り姫のように静かに眠っていた。熱が上がったようでつらそうだった。何か手伝えることはないかとメイドに申し出ても「ありません」と突っぱねられてしまうので、ただ隣に寄り添って見つめていた。
「……ん」
「あ、おはよう。大丈夫、さゆちゃん?」
「蘭ちゃん……?」
「お見舞いに来たの。何にもできないけどね」
「……ううん、ありがとう」
 熱のせいか瞳が潤んでいるさゆりがいつも以上にかわいくてときめいた。薬が効いて楽になったさゆりとメイドが持ってきてくれたりんごを食べる。
「わたしがお医者さんになれたらさゆちゃんのこと助けられるのかなぁ」
 りんごを食べながら何気なくそう言うと、さゆりはぱあっと表情を明るくさせた。
「それ、とってもすてきだと思う!」
「え、でも、わたしがお医者さんになれるかな」
「なれるわよ」
 さゆりは真剣だった。
「蘭ちゃんは絶対にお医者さんになれる。きっと困ってる人を助ける立派なお医者さんになれるわ」
 無垢な天使の笑顔でそう言われ、私の心はときめいた。
「さゆちゃんが言うならお医者さんになる。さゆちゃんのこと、わたしが助けてあげる」
「うん、お願いね」
「約束ね」
「約束だよ」
 小指を絡ませ指切りげんまんした。さゆりがなれると言ってくれるなら、嫌いな勉強も頑張れる気がした。さゆりが応援してくれるなら何だってなれる気がする。私にとってさゆりは光そのものだった。

 その後進級してクラスが変わっても私とさゆりは常に一緒だった。他の友達なんていらない、さゆりが一緒にいてくれるだけでよかった。さゆりがどう思っていたかはわからないけれど、少なくとも私との時間を楽しんでいてくれていたと思う。
「蘭華さんったらさゆりさんのこと独り占めしてばかり」
「これだから我儘なお嬢様は困りますわ」
 私たちのこと、特に私に対して陰口を叩く者はたくさんいた。悪く言われるのは常に私だ。そのことをさゆりは気にしたけれど、私にとってはどうでもいい。
「さゆり以外の人が言うことなんて聞くだけ無駄よ」
「もう……蘭華ったら」
 私にはさゆりさえいればいいの。ねぇ、さゆりもそう思ってくれてる? 私たち、お互いにお互いだけがいれば充分幸せだと思うの。
 時折思う、何故私たちは別々の人間なのだろう。さゆりの心臓の鼓動と私の鼓動が混ざり合って一つに溶け合うことはできないのだろうか。同化して一つの生命体になれたら永遠にさゆりと一緒にいられるのに――この気持ちが母親やおもちゃを取られたくない子どもじみた独占欲なのか、はたまた別の感情なのかわからなかった。この気持ちに名前を付けるには、私はまだまだ幼すぎた。

 *

 中等部に上がり、私たちは寮に入った。不幸なことに私は黒薔薇寮、さゆりは白百合寮に組み分けされた。私たちを引き離すなんて、私たちの仲を妬む者たちの陰謀としか思えない。クラスも異なり顔を合わせる機会が減ってしまった。
「さゆりに会いたい……」
 さゆりのいない日々はなんてつまらないのだろう。世界が灰色に染まって見える。何をするにも何か物足りないと思ったけれど、勉強だけは真面目にやった。医学部に入るには並大抵の学力では足りないからだ。さゆりとの約束を胸に、勉強に励んでいた。

 ある日、さゆりの姿を見つけた。久々に会えたことが嬉しくて声をかけたが、さゆりは私に気づかず行ってしまった。どこへ行くのだろうと追いかけてみると、さゆりはバラ園の中に入っていく。そこには一人の生徒がいた。バラ園の中にあるベンチに座り、俯いている。どうやら泣いているようでさゆりがその子に寄り添い、ハンカチを手渡していた。何だかわからないが、何となく話しかけられない雰囲気を感じてその場を立ち去った。
 さゆりが一人に対してあんな風に優しく寄り添う姿は初めて見た。あの子は一体何者なのだろう? 翌日もその子とさゆりが一緒にお昼を食べている姿を見かけた。私はたまらなくなって駆け出した。
「さゆり!」
「あら、蘭華」
 私に気づくとさゆりはニコッと微笑む。
「そちらの方は?」
「ああ、彼女は乙木佳乃子さん。今年から同じクラスになったの」
「そう、乙木さん……」
「初めましてっ、乙木佳乃子と申します」
 乙木佳乃子は慌てたようにペコッと頭を下げる。乙木さんは黒髪のショートカットで童顔だからかまだ小学生に見える。顔にはそばかすが目立ち、お世辞にも美人とは言えない顔だ。何故こんな地味な子がさゆりと一緒にいるの?
「こちらは笠吹蘭華さん。私の幼なじみなの」
「笠吹さんってあの……」
「ええ。あの、笠吹メディカルグループの娘ですけど、何か?」
「いえ……」
 乙木さんは明らかに萎縮していた。そうよ、もっと自分の身の程を知りなさい。さゆりに相応しいのはあなたじゃなく私なんだから。
「乙木さんはどちらの? 失礼だけど、お名前を存じ上げなくて」
「えっと、その……」
「佳乃子さんのお父さまは乙木家具という会社を経営してらっしゃるの。だけど色々あって白雪財閥が経営する白雪インテリアに吸収合併されることになったのよ」
「あら、つまりあなたはさゆりの腰巾着ってわけね」
 私の皮肉に乙木さんはただ俯く。さゆりが言った。
「蘭華、そんな言い方は良くないわ。私は佳乃子さんとお友達になれて嬉しいと思ってるのよ」
「友達? 友達になんてなれるわけないじゃない」
 私は心底イライラしていた。実家を白雪に買収された哀れな家の娘がさゆりと友達ごっこをしようとすることにも、彼女のことを友達だというさゆりにも。さゆりには私がいるじゃない。どうしてそんな子を構うのよ。
「……っ、帰るわ」
「待って蘭華!」
 私はさゆりを無視して立ち去った。いつだってさゆりの隣は私だけのものだったのに。あんな子に許すなんてさゆりはどうかしてる。

 それ以降もさゆりは佳乃子と一緒にいることが多かった。それが悔しくて憎らしくて仕方なかった。あまりにも我慢がならず、私はさゆりの部屋を直接訪ねた。
「どうしてあの子ばかり構うの? 白雪傘下の企業の娘なんてこの学院にたくさんいるじゃない」
「佳乃子さんは複雑な事情を抱えているの。今は彼女に寄り添ってあげたいのよ」
「複雑な事情って何?」
「それは話せないわ」
 何よ、それ。どうせ大したことないに決まってる。さゆりのことを独り占めしたいから、さゆりの同情を引こうとしているだけなんだわ。
「さゆり、騙されちゃダメよ。どうせ彼女はあなたが白雪財閥の娘だからいい顔してるだけなんだから」
 みんなが好きなのはさゆりの肩書きだけ。本当に望むものはさゆりの先にある白雪財閥という後ろ盾だ。本当の意味であなたのことを理解して愛してあげられるのは私だけなのよ。そう思っていたけれど――
「蘭華、どうしてそんな風に言うの?」
 さゆりは今まで見たことのないような哀しい瞳で私を見つめた。
「だって……っ」
「ごめんね、蘭華。それでも今は彼女に寄り添ってあげたいの」
「なん、で……?」
 さゆりは私よりその子を選ぶの? 私たちどんな時でも一緒じゃないの? 私はさゆりさえいてくれたら他に何もいらないのに。さゆりは違うの?
「……さゆりは、私のこと好きじゃないの?」
「そんなわけないじゃない。大好きよ、蘭華のこと」
「だったらどうして私を選んでくれないの!?」
「……選ぶとか選ばないとか、そういうことじゃないの」
「……っ」
 間違っているのは圧倒的に私だ。すぐに謝るべきだった。頭の片隅ではわかっていても、心は棘だらけだった。私にはさゆりだけなのに。さゆりにも私だけだと思って欲しいのに。天秤はゆらゆらと揺れて片方にだけ傾いたまま止まってしまった。私とさゆりの“好き”は違う。決定的に違うのだと、この時痛感させられた。
 だって、私はさゆりを愛している。さゆりが欲しい、私だけのさゆりでいて欲しいの。あなたが望むなら私のすべてを差し出してもいいと思えるし、私もあなたのすべてが欲しい。だけどそう思っているのは私だけ――。
 ようやくさゆりに対する思いの名前を知ったけれど、願わくば気づかないままでいたかった。一度気づいてしまった想いは止められない。どろどろとした醜い独占欲と嫉妬心が私の心を焼き尽くす。こんな感情を抱いていると知ったら、きっとさゆりは私から離れていってしまうだろう。

 あれ以来さゆりとは話していない。何度か私を見て話したそうにするさゆりを見かけたけれど、徹底的に彼女を避けた。だって、彼女の顔を見たらこの気持ちが溢れてしまいそうだから。私の独り善がりの身勝手な想いでさゆりを傷つけたくなかった。でもこの気持ちをどうすることもできなくて、それがとても苦しくて。もがき苦しんだ結果、私はさゆりへの好意を徹底的に押し殺すことにした。
「さゆりさん、ご機嫌よう」
 久々に私から挨拶をすると、さゆりは目を丸くしていた。一拍置いてから挨拶を返した。
「ご機嫌よう」
「白百合寮長の妹になったそうね。負けないわよ、私もいつか寮長になるんだから」
 他の生徒たちが見ている前で、堂々と宣戦布告をした。急に何事かとざわついていたが、敢えて人前で見せつけた。それから私はたまにさゆりと顔を合わせる度に挑戦的な言葉を浴びせた。
「蘭華さん、今日もさゆりさんに張り合っていますわ」
「本当にプライドの高いこと」
 周囲の者たちはいつしか私たちをライバル同士だと認識するようになった。間もなくして私は次期黒薔薇寮長と姉妹の契りを結び、白百合寮長の妹となったさゆりと同じ幹部の一人となった。
 急に態度を変えた私に対し、さゆりは何も言わなかった。ただ私に合わせてライバルごっこを続けてくれた。佳乃子とはそれからもずっと一緒だった。逆に私は姫宮渚という少女とつるむようになっていた。
「蘭華、食堂行かない?」
「いいわよ、渚」
 渚は噂好きのお嬢様たちとは違い、どこかクールで理知的な人物だった。席替えをしてたまたま席が隣同士になって話すようになったのだが、なかなかどうして彼女といるのは居心地が良い。
「今日の日替わりランチはビーフシチューだそうだよ」
「そう。でも私、今日は中華の気分なの」
「いいね、フカヒレ食べたくなってきた」
「ランチにフカヒレは重すぎるんじゃなくて?」
「弓道は体力と精神力を使うから蓄えておきたいんだよ」
「あらそうなの」
 渚はさゆりと同じ弓道部に所属しており、それなりにさゆりとはよく喋るらしい。だけどそのことを特に私に話してはこない。私がさゆりに突っかかる理由についても特に聞かない。察しているのかどうなのかわからないけれど、渚のそういう他人に干渉しないところは助かっていた。今までさゆりしかいらないと思っていた私にとって、自然と付き合える相手は貴重だった。
 渚と一緒にいると思う、これが普通の友達なんだろうなぁと。最初はさゆりとも友達になりたいと思っていたのに、いつからそれだけでは物足りなくなってしまったのだろう。口ではいくら憎まれ口を叩こうとも、さゆりへの想いが消えることはない。むしろ膨らんでいくばかり。佳乃子と二人で楽しそうに笑う姿を見ては、真っ黒い感情に押し潰されて苦しくなっていた。二年に上がれば透という妹ができる。透はとにかくさゆりを熱烈に慕っており、佳乃子以上にさゆりの隣を陣取るようになっていた。その姿を見る度に私の心がどんどんすり減っていく。
 いい加減叶わぬ恋に身を裂くのはやめて、自分も妹を探さなければ。そう思っていた時に出会ったのが流奈だった。彼女を初めて見た時、驚いた。どことなくさゆりに似ている、と思ったからだ。といってもさゆりとは全く違う雰囲気を纏っているし、高等部から入学した彼女はあらゆる意味で異色だった。だが私は流奈に興味を持った。
「ねぇ流奈、私の妹にならない?」
 今思えば、どことなくさゆりに似ている彼女を手元に置いておきたかったのかもしれない。流奈とさゆりは性格はまるで違う。ただ少しだけ容姿が似ている、それだけなのに。そんな邪な気持ちで妹を選んだことに最初こそ罪悪感を抱いたが、結果的に流奈を妹にして良かったと思った。とにかく流奈はよくできた妹だった。姉である私を常に立ててくれるし、先回りして色々やってくれる。おっとりした生粋のお嬢様たちとは違い、行動力があって頭も良い。佳乃子のことをさゆりの腰巾着と見下していたくせに、妹に普通の子を選ぶなんて我ながら矛盾している自覚はあった。どうしてこうも心とは矛盾してしまうものなのだろう。
 私がずっと変わらずに続けていることと言えば、医師になる勉強だけだ。これだけは腐らずに頑張ってきた。もはや医師になる夢だけが、私とさゆりを繋ぐ唯一の繋がりだった。

 *

 寮長選挙で見事当選した私は黒薔薇寮長となった。胸に輝く金色の寮長バッジは私にとって誇りだった。白百合の寮長バッジを持つさゆりと密かにお揃いだから――なんて未だに馬鹿げたことを考えてしまう程には、彼女への想いを募らせていた。それでも絶対にひた隠しにしてやるという覚悟だけは強かった。

 さゆりはある時から体調を崩し、寮に引きこもるようになった。授業にも出ていないらしい。表向きは「さゆりさんったらどうなさったのかしらね」と何でもない風を装っていたが、本音は心配で仕方なかった。風邪を引くことはあっても、寮に引きこもる程重症だったことはなかったはずだ。白雪家からメイドが世話に来ており、他の生徒とは誰であっても会わなかった。佳乃子や透ですら面会を断っているようだ。
 メイドはさゆりが子どもの頃からずっと世話をしている人で、私も顔見知りだった。思い切って声をかけてみた。
「さゆりさんのお加減はいかが?」
「笠吹さま、ご無沙汰しております」
 メイドは私のことを覚えていた。
「さゆりさまは今人と会うことができるような状態ではなくて……申し訳ございません」
「どんな症状なの? うちには腕の良い名医がたくさんいるわ。父に直接診てもらうように頼んでも良くってよ」
「お心遣いありがとうございます。ですが、笠吹さまのお時間をいただくわけには参りません。医学部受験を控えていらっしゃると伺っております」
「そんなこと、大した時間じゃないわ」
「いえ、そのお気持ちだけで充分にございます」
 メイドは深々と頭を下げ、そのまま立ち去ってしまった。
 どうしてそこまで頑なに拒むのだろう。何か人に言えないことでもあるの? 本当はとても大きな病気を抱えているのではないだろうか。急に不安になったけど自分自身で否定した。本当に大病を患っているならすぐにでも入院しているはずだ。そうしないということは、少なくとも命に関わる病ではないということ。それならば何かを隠しているということなのだろうか?
「……それを知ったところで、私に何ができるというの?」
 さゆりから距離を置いたのは、私だ。それも理由も告げずに。勝手に怒っていきなり嫌な態度を取って、こんな私に心配されたところで迷惑なだけだ。どうせ今の私は医学部志望のただの女子高生。できることなんてたかが知れている。だけど私は、この時何もしなかったことを大きく後悔することになる。

 その日は午後から課外授業だったが、私は欠席を申し出ていた。受験勉強に集中したかったからだ。先生たちは当然了承してくれた。オペラや美術館なんていつでも行けるし、わざわざこんな時期に行く必要がない。
 誰もいない寮はとにかく静かだった。勉強したり実家から持ってきた医学書を読んだり、模範的な受験生らしく過ごしていた。やがて集中力が切れ、休憩でもしようかと部屋から出た。私はふと、さゆりはどうしているだろうかと考えた。
 きっと彼女も寮に残っているのだろう。もしかしたら今は私とさゆりの二人きりかもしれない。そう思うと昂る気持ちが抑えられない。
「……ほんの少しだけ、顔を見るだけよ」
 誰にしているのかわからない言い訳をしながら、私は白百合寮へと向かった。話しかけない、ただ顔を見るだけ。一目さゆりの美しい顔を見られるだけでいい。私に向かって微笑んでくれなくていいから、せめて遠目から見ることだけでも許して欲しい。何しろ半年もさゆりの顔を拝めていないのだから。
 そうして白百合寮のさゆりの部屋に近づいてみると、少しだけドアが開いていた。それを見たら衝動を抑えられなくなり、中に入ってしまった。
「さゆりさん……?」
 返事はない。もう少しだけ部屋に足を踏み入れてみて、白くて長い足が見えた。それを見た瞬間、「さゆりさんっ」と声をあげて部屋の奥へと入った。
「さっ、さゆり!?」
 さゆりは床の上で倒れていた。そしてその姿に驚愕した。彼女の腹は大きく膨らんでいたのだ。
「さゆり!」
 信じ難い光景に困惑しながらも、とにかく彼女を揺り起こそうと思った。しかしすぐに異変に気づく――脈がないのだ。
「うそ、でしょ……?」
 さゆりの首には何かで締められた痕がある。私は尻餅を着き、その場にへなへなとへたり込んだ。全身の力が抜け、指先が震えていた。
 嘘よ、嘘よ。これは何かの悪夢なんだわ。だってそうじゃないとおかしいじゃない――さゆりが死んでいるなんて。
 耳鳴りと頭痛がした。どくどくと心臓の音がはっきりと聞こえる。夢なら醒めて。お願いだから目を覚まして。急にハッとして、私はさゆりの胸に手を当て心臓マッサージを始めた。一縷の望みをかけて必死にマッサージを行った。だが、彼女の心臓が動き出すことはなかった。
「さゆり……っ」
 私がさゆりのことを助けるって約束したのに、私には何もできない。医師になったところであなたを助けることは不可能なんだ。
 どうして、どうして。この状況に対しても、自分の無力さに対しても「なんで?」という言葉しか出てこない。何度問いかけてもさゆりが目を覚ますことはないのに。
 視界が歪んで何も見えなくなりそうになったが、さゆりの膨らんだ腹が目についた。その時私の脳裏を駆け抜けるものがあった。その直後、机の上に果物ナイフがあることに気がついてしまう。私は震える手で果物ナイフを手に取った。自分の精神状態は正気ではなかったはずなのに、どこか頭は冷静だった。医学書で読んだ帝王切開の方法がフラッシュバックする。できる、できないを考えている余裕ではなかった。やるしかない、ただそれだけだった。
 私はさゆりの腹にナイフを突き立てた。この時のことを詳しく説明することはできない。ただ無我夢中だった。純白のセーラーが真っ赤に染まろうとも、どうでも良かった。どれだけの時間が過ぎたかはわからないが、やがてその場に産声が響く。男の赤ちゃんだった。その子は確かにこの世に生まれたことを証明する産声をあげたのだ。
「はあ……っ」
 私は最後の大仕事として、赤ん坊のへその緒を切った。母体から切り離し、いよいよこの子は一人の人間として生まれ落ちたのだ。だが裸のままでは体が冷えてしまうので、とりあえずカーテンを切り裂いて赤ん坊を包んだ。
「この子は、さゆりの子ども……」
 さゆりはいない、だけどこの子は生きている。さゆりの中に宿った命は確かにここに存在している。この子はさゆりの生まれ変わりとも言うべき存在なのではないだろうか。
「さゆり、さゆり……」
 誰よりもさゆりを愛していた。透にも佳乃子にもたまに渚にも嫉妬してしまうくらい、さゆりだけを愛していた。あなたのすべてが愛おしくて欲しくてたまらなくて――でもこんなに不毛な想いを抱き続けてもあなたが手に入るわけじゃないから、ずっと自分自身を押し殺していたの。だけどもうあなたはいない。あなたを救えなかった自分にできることは――、
「この子は、私が育てるわ」
 この子だけは、私が守り抜く。誰にも触れさせない、私が守る。この子は、私だけのもの。

 私は赤ん坊を抱きしめて部屋を飛び出した。誰にも見られないように、カーテンで包んで顔を隠す。今は誰もいないとは言え、万が一誰かに見られたら大変なことになる。
「……いや、ここにいるのは私だけじゃない……?」
 さゆりの命を奪った犯人がいる。この学院の中のどこかに犯人がまだ潜んでいる可能性がある。そして、さゆりが体調不良で寮に引きこもるようになった時期を考えれば妊娠が要因だと思うのは自然なこと。つまり、さゆりを孕ませた人物が犯人なのではないか? さゆりの妊娠を知っていた人物は限られるだろうし、犯人である可能性は高い。
「……許せない」
 さゆりを誑かしておきながら用済みになったと言わんばかりに殺すなんて、絶対に許せない。何よりさゆりを奪ったことが許せない。私が望んでも手に入れられなかったものを手にしていた者に対し、煮えたぎる程の怒りと嫉妬心を覚えた。

 私は自室に戻らず、礼拝堂に行った。前黒薔薇寮長である私のお姉さまから、マリア像の下には秘密の床下スペースがあると教えられたことがある。何故そんなところに収納スペースがあるのか誰も知らないが、ちょっとしたリリスの小ネタとして語り継がれているらしい。私は床下を開き、その中に赤ん坊を入れた。
「少しの間だけそこで待っていてね。マリア様が守ってくださるわ」
 一度この子を人目につかない場所に隠し、後で迎えに来ることにした。今はこの真っ赤に染まった制服をどうにかしなければ。血がべっとりとこびりついたナイフも。
 私は燃え上がる怒りを内に秘め、真っ赤に染まったそれらの処分に向かった――。