私の母、筒見礼奈は小さな薬局を経営する家の娘だった。千葉県の房総で地元に寄り添い、細々とだが家族で楽しくやっていた。しかし礼奈の母(つまり私にとっては祖母にあたる)が心臓病を患ったことが悲劇の始まりである。難しい手術が必要となり、その資金には莫大な金が必要だった。
家族は薬局を畳み、都内に引っ越して祖母を大きな病院に入院させる。祖父は朝から晩まで身を粉にして働き、入院資金と手術資金を稼いだ。礼奈も祖母の看病をしながら、夜はキャバクラで働いた。慣れない水商売の上に、同僚のキャバ嬢からは「客を奪った」とやっかみを受けることがあり、体力的にも精神的にも厳しかったそうだ。それでも母のためだと自分に言い聞かせ、毎晩笑顔を貼り付けて客の相手をしていた。
「君は何故ここで働いているんだ?」
礼奈の常連の一人に白雪という男がいた。羽振りが良く身につけているスーツも腕時計も何百万という高級品ばかりで、かなりの資産家だということが伺える。
「母が病気でお金が必要なんです」
礼奈が素直に答えると、少し考えた後白雪はこう言った。
「その資金、俺が払うというのはどうだ」
そう言われて礼奈は慌てて断った。
「そんなこと、お願いできるはずがありません」
「だったら君を買うというのはどうだろう」
この男、白雪正邦はあの白雪財閥の御曹司だった。早い話が自分の秘書になれという話だった。白雪は数分単位の過密スケジュールで動いており、何人も秘書を抱えている。その中の一人になれ、ということだった。母からすれば有難い話でしかなく、キャバクラを辞めて白雪の秘書となった。同時に礼奈は白雪の愛人となった。買うという本来の意味はこちらだった。
白雪には妻がおり、同じように資産家の令嬢でミスユニバースに選ばれるような完璧な美人だった。しかし所謂政略結婚で表向きはおしどり夫婦を演じていたが、実際はそうでもないらしい。母は白雪のその言葉を信じ、愛されているのは自分なのだという優越感に浸っていた。
やがて母は私を身籠った。しかしこの妊娠が母の人生を大きく狂わせることになる。母の懐妊を知り、白雪の両親は烈火の如く怒り狂う。この二人は白雪という家に誇りを持っており、由緒正しき白雪の血筋に庶民の血が入るなどあってはならないことだと激怒した。白雪家は母に莫大な手切金を渡し、身重の母を白雪家から追放した。
母が白雪家から追放されたということは、同時に祖母への援助も切られることになる。しばらくは何とかなったが急に容態が悪化し、祖母はその年に息を引き取った。その後祖父も過労で倒れ、祖母の後を追うように亡くなったという。
白雪正邦は母のことを助けようとはしなかった。生まれてきた私のことも認知しなかった。正邦にとって母との関係は一時的な遊びに過ぎず、不要になれば簡単に切り捨てられる程度のものだったのだ。母のことを愛してなどいなかった。母は最後の頼みとして、正邦に懇願した。
「どうか生まれてくるこの子のことだけでも我が子として愛していただけないでしょうか」
「何を言っているんだ。お前が勝手に身籠ったくせに」
「でも、あなたの子なんですよ!」
「それが?」
正邦は冷たく言い放つ。
「俺には家庭がある。それを壊してお前を選ぶメリットがあると思うか?」
関係を迫ったのは正邦の方だったのにすべての責任を放棄した。金だけ渡し、母のことを完全に見捨てたのである。両親を亡くした上に愛人には見捨てられ心身共にボロボロだった母だが、幼い私のために一生懸命生きた。母と二人、決して楽な暮らしではなかったが幸せだった。時折母は「流奈、苦労させてごめんね」と私に謝る。それでも私は幸せだった。母がいてくれるだけで充分だった。
私は少しでも母を支えようと家の手伝いは積極的にしていたし、勉強も誰よりも頑張った。母に負担をかけないように都立高校の進学を目指し、高校生になったらアルバイトを始めようとも思っている。
私が十四歳の時のことだ。とあるニュースが報道される。
『白雪財閥がA社とB社を買収すると発表しました』
白雪財閥が二社の製薬会社を買収し、更に事業を拡大するというニュースだった。新聞や週刊誌でも大きく報じられた。週刊誌では「令和のロイヤルファミリー」と見出しが出ており、白雪家について紹介されていた。
そこに紹介されていたのはまるで絵に描いたような幸せな家族だった。白雪正邦とその妻、そして一人娘が仲睦まじく写った写真が大きく載せられている。夫婦だけのツーショットもあり、その写真はどこから見てもお似合いの夫婦だった。正邦はインタビュー記事で次のように語っていた。
『どんな時でも家族には感謝しています。妻と娘が支えてくれるからこそ今の私はあるのです。家族と過ごす時間が一番の幸せです』
母はそのインタビュー記事を読み終わった直後、週刊誌をビリビリに破り捨てた。頭をガシガシと掻きむしり、悲鳴にも似た声で叫ぶ。
「家族との時間が幸せ? 嘘つきっ! 奥さんのことなんか愛してないって言ってたくせに!」
母は立ち上がり、机の上に置いてあったものをひっくり返す。タンスから衣服を引っ張り出し、グシャグシャにして床にぶちまける。
「あなたの家庭の裏には私たち親子の犠牲があるのよ! 流奈もあなたの娘なのよ! それなのにっ、全部なかったことにするつもりなの!?」
母は辛抱強い人だった。どんな時でも笑顔を絶やさない強い人だと思っていた。だけど、本当はずっとしんどかったのだ。私の前では見せないように、気丈に振る舞っていただけだった。
「自分だけ幸せになろうとしないで! 流奈だって、流奈だって……っ」
張り詰めていた糸がプツンと切れたように、母は大声で泣きじゃくる。私はそんな母をただ抱きしめることしかできなかった。
「お母さん……っ」
それから母は変わった。毎日酒に溺れるようになった。少しでも白雪という文字を見ようものなら、癇癪を起こすようになってしまった。
「流奈、聖リリス女学院に行きなさい」
受験生になった時、突然母がそう言った。
「聖リリス女学院?」
「そうよ。ここにはね、白雪の娘がいるの」
私は思わず血の気が引くような思いがした。
「家柄や血筋が何なの? 同じ人間なのに偉ぶって見下しているあの家族は痛い目見ないとわからないのよ」
「でも、聖リリスの学費なんて――」
「そんなもの、どうにでもなるわ。まだ手をつけていない手切金だってある」
「……でも」
「リリスに行くのよ、流奈!」
母の気迫に私は押されてしまう。
「何があっても白雪の娘に負けてはダメ。あんな家の娘、蹴落としてでものし上がりなさい。いいわね、流奈」
母は何かに取り憑かれたようにそれしか言わなくなった。私は志望校を変えざるを得なくなり、聖リリス女学院を受験することにした。見事に合格すると、今度は母がとんでもないことを言い出す。
「流奈、白雪の娘に近づき白雪家を貶める情報を掴んでくるのよ」
「お母さん、何を言ってるの……?」
「だって不公平でしょう? 私はこんなに不幸な目に遭ったのにあの男は今ものうのうと生きている。同じ目に遭ってもらわないと」
私はゾッとしたし、とてもショックだった。私はお母さんと二人で幸せだったのに、お母さんはずっと不幸だと思っていたなんて。ショックだったし悲しかった。リリスが全寮制だったことはよかったかもしれない。今は少し母と距離を置きたいと思った。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。白百合寮の寮長、白雪さゆりです」
母を裏切って捨てた白雪正邦の一人娘、さゆりは正にすべてを持っていた。由緒正しき白雪家の直系にして後継者、誰もが見惚れる美貌、圧倒的なオーラにカリスマ性。私と半分血が繋がっているとは思えない程白雪さゆりは美しかった。さゆりの顔は週刊誌を見た時から知っていたが、写真で見るよりも遥かに美しい。裕福な家庭に生まれ、両親から寵愛を受けて育った愛娘。私の目にはそんな風に映った。
初めて生の白雪さゆりと対面した時、言葉にできない怒りと嫉妬を覚えた。母を捨てた男の娘、何も知らずに蝶よ花よと大切に育てられた娘、母のことを狂わせた元凶。
この女のせいで母は変わってしまった。実際の元凶がさゆりの父であると頭ではわかっていたが、心は既にさゆりへの憎しみに支配されていた。母の言うことに従うのではなく、自分の意志で白雪に復讐してやりたいと思った。
だが私はさゆりとは違う黒薔薇寮に組み分けされてしまった。寮が違う上にさゆりにはたくさんの信者がいる。その上私は外部からきた庶民でかなり浮いてしまっていた。なかなか近づきづらくどうしたものかと悩んでいた時、ある人物に声をかけられる。
「あなた、外部からリリスを受験してきたそうね。とても優秀だと噂がこちらにも届いているわよ」
彼女の名は笠吹蘭華。当時の黒薔薇寮長の妹だった。
「なかなか外部から来る人なんていないからあなたに興味があるの。話を聞かせてくれないかしら」
笠吹の名前は知っていた。医者の家系で医療事業を手広く行っており、大きな病院をいくつも経営している。白雪財閥にはやや劣るものの、大層なセレブであることに違いはなかった。
彼女が私に声をかけたのは、珍しい余所者の庶民に興味を抱いたお嬢様の好奇心なのだろう。だが私はこれをチャンスと思った。
「私で良ければ、喜んで」
リリスにはシスター制度がある。今は廃れつつあるが、寮長が自分の後継者となる妹を選ぶという伝統だけは今も守られていた。彼女はこのまま寮長になる。次期寮長の妹となれば、必然的に白百合寮長との接点ができるのではないだろうか。
私は笠吹蘭華に上手く取り入ることができ、妹になることができた。さゆりとはまた違った意味で目立ち生徒たちから支持を集める蘭華の妹になった途端、周りの見る目が変わった。「流奈さま、ご機嫌よう」と恭しく挨拶する者が増えてきた。この変わり身には呆れて軽蔑するしかなかったが、それでもいい。利用できるものはなんでも利用してやる。
何かとさゆりを敵視して突っかかる蘭華を隠れ蓑にして私は密かに準備を進めた。まずは学院での自分の地位の確保。姉を立て、どんな時も支える従順な妹を演じる。さゆりとは必要以上の交流はしない。あくまで一歩引き、黒薔薇寮長の妹というライン以上には踏み込まない。
「流奈は本当によく気がついてくれるわね」
「当然よ、私の妹なんだから」
「私なんてまだまだ……蘭華お姉さまの足元にも及びません」
「こういう謙虚なところも素敵でしょう?」
「ええ、本当に良い姉妹ね」
さゆりは私に対しても優しかった。だが、こうして微笑まれると馬鹿にされているような気持ちになる。目の前にいるのが血の繋がった妹とも知らず、なんて呑気なことだろう。今はそうやって呑気に笑っていればいい。
二年になってそろそろ動き出すことにした。この世に完璧な人間などいない、無敵のマドンナにも何か弱味があるはずだ。さゆりを聖女と崇める者たちの理想を打ち砕くスキャンダルを掴みたい。そう思ってさゆりの周辺に探りを入れようと、密かに白百合寮周辺を彷徨いていた時のこと。
「あれ? 流奈?」
「! 渚さま」
夜二十時過ぎに黒薔薇副寮長の姫宮渚と出くわした。
「どうしたの? こんな時間に」
「えっと、少し夜風に当たっていたんです」
内心冷や汗をかきながらニコッと笑みをつくる。
「でもここ、白百合寮の方だけど」
「少し散歩をしていたんですよ。渚さまこそこんな時間にどちらへ?」
「ちょっと部活のことで部員に相談があってね」
「そうですか」
ふと胸元を見ると、渚のセーラーのリボンが解けていた。
「失礼ですが渚さま、リボンが……」
結んで差し上げようとすると、彼女は慌てて制する。
「自分でやるよ。副寮長なのにみっともないね」
「いえ、そういうこともありますよ」
二人して笑いながら黒薔薇寮へ帰った。
それからしばらくして、さゆりが体調を崩して寮に引きこもるようになってしまった。どうやらだいぶ具合が悪いようで、白雪家からメイドが一人世話にしに来る程だった。
メイドが通りかかったのを見かけたので声をかけてみた。
「お疲れ様です。さゆりさまのお加減はいかがでしょうか」
「あなたは……?」
「申し遅れました、黒薔薇寮の筒見流奈です。さゆりさまにはいつもお世話になっております」
「あ、ああ……お疲れ様です」
メイドは突然話しかけてきた私に戸惑っていたが、幹部の一人だと察したのかやや警戒心を解いた。
「ずっとさゆりさまのお顔を拝見していないのでとても心配です」
「お気遣いありがとうございます。どうも吐き気がしてご体調が優れないようでなかなか寮長の仕事ができず、申し訳ないと仰っていました」
「とんでもございません。さゆりさま、もしかして大きなご病気でしょうか……?」
「いえ、そういうわけではございませんが……すみません、もう行きますね」
メイドはそそくさと立ち去ってしまった。直感で何かある、と思った。しかしメイドはガードが固く、口を割ろうとはしない。お見舞いも断っているらしく、誰にも会わないようにしているらしい。ますます何かあると踏み、私は寮長になるためお姉さまから自立したいと申し出て単独行動を許してもらうことにした。白百合寮の生徒にさりげなく聞き込みをして回り、さゆりについて何か知らないかと訊ねた。
「そういえば、この前寮でさゆりさまのお姿をお見かけしました」
一人の白百合寮生が言った。
「本当ですか?」
「ええ、久しぶりにお姿をお目にかかれて嬉しくて話しかけようと思ったのですが、すぐにお部屋に戻られてしまって。だけどその時なんだか違和感を感じたんです」
「違和感?」
「上手く言えないんですけど、少し雰囲気が変わられたような……大きめのストールをしていたからでしょうか」
「ストール? 首に巻いていたんですか?」
「いいえ。こう、お腹を隠すように羽織っていらっしゃいました」
「お腹を隠す……」
「ああ、そうだ、思い出しました。違和感の理由、今気づきました。こんなことを思うのはさゆりさまに失礼かもしれないのですけれど……」
「なんですか?」
他の方には言わないでくださいね、と前置きしてこっそりと教えてくれた。
「なんだかその、少し膨よかになられた気がするんです……」
その時、私の中である言葉が脳裏に浮かび上がった。まさか、もしかして――いや、これが本当ならば大スキャンダルだ。この事実を確かめなければ……!
幸いもうすぐ課外授業がある。生徒のほとんどが寮からいなくなるが、きっとさゆりは残るだろう。絶対に突き止めてやる。私は昂る気持ちを抑えられず、足速に白百合寮へと向かった――。



