雛森家は正義の一族。それが祖父の口癖だった。
祖父の雛森崇は警察庁長官から防衛省に転任し、その後防衛大臣となった。父は現在警視総監、年の離れた二人の兄も優秀な刑事である。更には長兄の嫁も警察官という警察一家なのだ。私も将来は警察官になり、女性初の警視総監になるという密かな野望を抱いていたりする。
警察一家というのは、時に知らなくていいことを知ってしまうことがある。私が中等部にいた頃、警察が学院に訪れていたことがあった。その中に次兄の姿を見つけたので、その日は寮に戻らず実家に帰って兄に訊ねた。兄は渋ったが、私がしつこく問い詰めるので「誰にも言うなよ」と前置きして話してくれた。
ある教師が生徒から集める寄付金を横領していたらしい。その教師は有名な政治家の娘であり、横領が暴露されると大変なスキャンダルになる。親が横領していた金額を全額支払うということで、大事にはしないでくれと学院に取引を持ちかけた。この政治家は衆議院選挙を控えており、娘の逮捕で選挙に影響が出ることを恐れたのだ。
学院側としても教師が横領していたというスキャンダルを暴露されては、リリスというブランドに傷がつく。双方利害が一致し、この件は闇に葬り去ることとなった。
「警察の捜査が本格的に入る前に互いがケリを付けたんだ。その教師は解雇されるらしいけど、何が正義だよ。結局世の中金なんだな」
兄はやるせない表情を浮かべていた。
その後突然諸事情で学院を去ることになった教師がいて、彼女が横領犯なのだと私は悟った。この時リリス女学院の黒い闇を垣間見た。
だからこそ、今回も揉み消される可能性がある。不都合なことは伏せ、霧の中に隠されてしまう恐れがある。そんなことは断じて許さない。さゆりお姉さまをこんな目に遭わせた犯人が野放しにされるかもしれないなんて、絶対にあってはならないことだ。
私は一歩ずつさゆりお姉さまに歩み寄る。変わり果てた姿だが、それでもお姉さまの美しさが損なわれることはない。鮮血に染まった痛々しい体と穏やかな表情がちぐはぐだった。
もう息をしていない。お姉さまが笑いかけてくれることはない。鈴の音を転がすような美しい声を聞くこともできない。悲しみ以上に激しい怒りが私の身を焦がす。許さない、絶対に許さない。
誰が私からさゆりお姉さまを奪ったの!
暴れだしたくなる気持ちを必死に抑え込み、深呼吸した。落ち着け、怒りに洗脳されてはいけない。私がすべきことは、お姉さまの命を奪った犯人を見つけ出すこと。白日のもとに真実を晒してみせる。
私は改めて四人に視線を向けた。乙木佳乃子、笠吹蘭華、姫宮渚、筒見流奈。この中にさゆりお姉さまを殺害した犯人がいる。絶対に見つけ出してみせる。
「……本気なの?」
か細い声で声をかけたのはそれまでずっと黙りこくっていた筒見さんだった。
「犯人を見つけ出すなんて」
「本気です」
私はきっぱりと言い切る。
「今日はほとんどの生徒が出払っていた。ここに駆け付けたのは私たちだけ。つまり――」
「この中に、犯人がいると言いたいの?」
筒見さんの言葉に頷く。全員の表情が一気に青ざめた。
「私は違う! 私じゃないわ!」
笠吹さんが金切り声をあげる。
「だってそんなこと、あり得ないじゃないっ」
「私だって違います! 私がさゆりさまを……そんなことできるはずが……あああ」
佳乃子さまは再び両手で顔を覆って泣きじゃくる。
「私も違うし、この中に犯人がいると疑いたくない。ねぇ透、本当に大人に知らせないの?」
やはり他の二人と比べて落ち着いている姫宮さまはじっと私の目を見つめる。
「知らせません。そんなことをしたら学院はこの事件を揉み消すかもしれません」
「揉み消すって、まさか」
「由緒ある学院で殺人事件が起きたなどと報道されたら、リリスの名に傷がつきます。最悪なかったことにするかもしれない。そんなことは許しません、絶対に犯人を見つけ出してみせます」
私の気迫に押されたのか、全員黙り込んでしまった。
しばらく沈黙が続いた後、意外にも筒見さんがスッと手を挙げる。
「私も協力します」
「流奈! あなたまで何を言い出すの!」
笠吹さまは信じられないと言わんばかりだった。
「蘭華お姉さま、私もこの中に犯人がいるとは思いたくないですし、お姉さまを疑いたくもありません。ですが、それ以上に真実が知りたいです」
筒見さんの瞳には決意が見えた。
「雛森さんが言うように揉み消されるかもしれないのだとしたら、それは絶対に阻止したい。お姉さまから寮長を継ぐ者として、見過ごすわけにはいきません」
「流奈……」
笠吹さまは筒見さんの勢いに気圧される。筒見さんは私に向き直った。
「そういうわけだから、私も協力する」
「……ありがとう」
「だけどこれだけは覚えておいて。この中に犯人がいるかもしれないというなら、それはあなたである可能性もあるということを」
「ええ、わかってる」
「わ、私もやります……!」
佳乃子さまが目を真っ赤に腫らして涙声になりながら、はっきりと言った。
「私も知りたい……何故さゆりさまがこんな目に遭わなければならないのか」
「ああ、もう! わかったわよっ」
グシャグシャと頭を掻きむしりながら、笠吹さまも立ち上がる。
「妹たちに遅れを取るわけにはいかないわ。笠吹蘭華の名にかけて犯人を見つけ出してやるわよ」
それから姫宮さまの方を見た。
「渚、あなたもやるでしょう?」
「もちろん、やるよ。正直まだ戸惑っているけど、私も真実が知りたい」
「決まりね」
全員の覚悟が決まった。自分を含め容疑者は五人。この中にきっと犯人がいる。聖女を殺め、悲しむフリをしている悪魔が――。
*
まずは遺体の確認と現場の状況整理。警察官ではない私は父や兄の受け売りでしかできないけれど、自分なりに注視してみようと思った。
改めて変わり果てたさゆりお姉さまに目を向ける。穏やかに眠っているようなのに、腹部には刃物が突き立てられぱっくりと開かれている。とても痛々しく、そして生々しい程大量の血で純白のセーラーもカーペットも真っ赤に染まっていた。血はカーペット以外にも飛び散っており、壁や机の脚にも血の跡が見える。
「普通に考えれば刺殺だと思うけど」
一点だけ、気になることがある。それはお姉さまの首にくっきりと残っている、首を絞められたような痕。
「腹部を刺された上に首まで絞められた?」
私はさゆりお姉さまの腹部の切り傷を更に注視した。
「この切り口、なんだか妙ね……」
死因が刺殺だとしたら全身を滅多刺しにするのが普通だとは思うが、この切り口は刺したという感じには見えない。傷があるのは腹部だけで胸から上や下半身に傷はない。この切り口は、腹を切り裂いて何かを取り出すために開いたような――そんな風に見える。
何かが脳内にちらつく。サイレンがチカチカと点滅し、何かを知らせようとしている。だがそこに行き着く前に姫宮さまの声が私を現実に引き戻した。
「凶器らしきものは見当たらないな」
姫宮さまは遺体の周囲を見回している。笠吹さまも頷いた。
「確かに首を絞められそうなものはないわね」
「それだけでなくナイフの類もありませんよ」
筒見さんも笠吹さんと一緒に部屋の中を調べていた。
部屋にはベッドの他に勉強机、本棚がある。机にはティーカップが二つ、すぐ近くにティーポットも置いてある。部屋は掃除が行き届いており、ほとんど埃がない。本棚には教科書等の教材や小説が綺麗に並べられていた。
そして、この部屋で異彩を放っているのはカーテンだろう。
「このカーテン、どうして切り取られているんでしょうか?」
同じことを疑問に思ったらしい筒見さんが口にする。
「一部分だけ切り裂かれたような」
「……少し血がついていますね」
切り取られたカーテンの先端には血のあとが見える。
「これで血を拭き取ったとか?」
「そうかもしれない」
私は敢えてこの場では何も言及しなかった。ぐるりと部屋を見回してから言う。
「争った形跡はありませんね」
「透さんすごいですね……警察の方みたい」
佳乃子さまは感心したように言った。
「所詮は真似事です。ところで最初に見つけたのは佳乃子さまですか?」
「あ、はい。私です」
佳乃子さまはピンと背筋を伸ばす。
「部屋に鍵はかかっていましたか?」
「いえ、むしろ扉が少し開いていました。さゆりさん、とお呼びしたけれど返事がなくて。もしかして体調を崩されて倒れているのではないかと不安になって入ってみたら……この状況だったのです」
佳乃子さまは再び青ざめる。
「ねぇ、それよりはっきりさせた方がいいんじゃないかしら」
「何をです? 蘭華お姉さま」
「アリバイよ」
笠吹さまの言葉に緊張が走る。一瞬にしてピリッとした空気が漂う。
「だってそうでしょう? 本来この時間、寮にいるのはおかしいのよ。なのに五人も、いえさゆりさんを入れたら六人も寮に残っているなんて」
姫宮さまがコホン、と咳払いした。
「私はさゆりに話があるから時間を作って欲しいと言われていたんだ。部屋にこもりきりのさゆりが話があるなんてよっぽどのことだろうと思って、先生に言って課外授業は欠席させてもらった」
「話とは何ですか?」
「さあ……。弓道部関係のことじゃないかとは思っていたけど」
「それは何時頃ですか?」
「十四時半頃だったかな。でも不在のようだったから一度部屋に戻った。……今思えば、中にいたのかもしれないけれど」
そう言って姫宮さまは表情に影を落とす。
「それから佳乃子の悲鳴が聞こえるまでは自室にいたよ」
「それを証明できる人は?」
「いないかな……」
「わかりました、ありがとうございます。では次は私が話します」
この流れで話してしまおうと思い、私はそのまま話を続ける。
「私はさゆりお姉さまのことが心配で課外授業どころではないと思っていました。そうしたら白百合の一年生が迷い猫を探していたので、これを建前に寮に残ろうと思ったのです。しばらく学院の中を巡って猫を探していたのですが、その最中に筒見さんを見かけました」
すると一斉に視線が筒見さんに集まる。
「あの時白百合寮の方へ向かっていたように見えたけど、何をしていたの?」
「雛森さん、私を疑ってる?」
筒見さんの視線が明らかに鋭くなる。声色には不快感が滲んでいた。
「いえ、ただの確認よ」
筒見さんは納得いかないような仏頂面のまま答えた。
「白百合寮じゃなくて図書館に行こうとしていたの」
「図書館は黒薔薇寮の方にもあるのに?」
リリスには白百合寮の近くにある第一図書館と黒薔薇寮の近くにある第二図書館の二つがある。
「第二には欲しい本がなかったから。私はオペラや美術館に興味はないから、自室でゆっくり課題を仕上げようと思っていたのよ」
「ではずっと図書館にいたの?」
「そうね。それから悲鳴を聞きつけてやって来たというわけ」
「なるほど。ちなみに私は筒見さんを見かけた後、礼拝堂にいました。猫の声が聞こえて中で探していたんですが、同じく悲鳴を聞きつけて飛んできたという感じです」
礼拝堂で見たもののことは話さなかった。これは直感だけれど、多分あの子はこの事件に関係があるのではないかと思っている。だけどまだ確証はないから、ひとまず黙っておくことにした。
次に話し始めたのは笠吹さまだった。
「じゃあ次は私ね。私が課外授業に行かなかった理由は先日お父様と同じオペラを観劇したばかりだったから。同じものを観ても仕方ないでしょ? 次の幹部会の会議資料をまとめておきたかったしね」
「お姉さま、言ってくだされば私がやりましたのに」
「いいのよ、これは自分でまとめたかったから。とにかくずっと自室にいたわ」
「一度も部屋から出られなかったのですか?」
笠吹さまは頷く。
「ええ。その後ちょっと休憩しようと思って寮を出た時に佳乃子さんの悲鳴を聞いたわ」
「それは何時頃ですか?」
「寮を出たのは十五時くらいだったかしら」
「あっ」
急に何か思い出したように姫宮さまが声をあげる。
「そういえば、私がさゆりの部屋から戻る時佳乃子とすれ違ったよね?」
「えっ」
佳乃子さまの視線が一瞬泳いだ、ような気がした。
「あっ、ああ……保健室の帰りでしょうか」
「保健室?」
「はい、眩暈がしたから貧血の薬をもらいに行ってたんです。課外授業を欠席したのも体調が優れなかったからです」
「保健室に先生はいましたか?」
「いらっしゃらなくて……。薬は前にもいただいたことがありましたから、書き置きを残して薬をいただきました」
「そうですか。佳乃子さまがさゆりお姉さまの自室に行ったのは十六時頃ですよね?」
私はちらりと時計を見ながら訊ねる。現在時刻は十六時半を指していた。
「はい、そうだと思います」
「姫宮さまがお姉さまを尋ねたのが十四時半頃。その時に保健室から戻る途中の佳乃子さまとすれ違った。間違いありませんか?」
「は、はい」
「十六時までの間はどこで何を?」
「薬を飲んで部屋で休んでいました。薬の副作用で眠くなってしまい、一時間程寝ておりました。目が覚めたらだいぶ楽になっていました。それからふと思ったんです、さゆりさんも課外授業を欠席されていたなって。お加減はいかがかしらと気になり、お部屋を訪ねてみることにしたんです」
「そうしたら……あの惨状だったということですか」
「はい……」
佳乃子さまの瞳に再び涙が滲み出す。
「つまり誰もさゆりさんには会っていないのね」
笠吹さまが腕を組みながら思案顔を浮かべる。
「いつ襲われたのかしら」
「少なくとも午前中はご無事だったと思います」
そう言ったのは筒見さんだった。
「午前の授業が終わってからさゆりさまのメイドさんに会ったんです。お姉さまと一緒にいる時に何度か会っていましたから挨拶をしたんですけど、この日はもうお帰りになると仰っていました」
もしかしてメイドがいるかもしれないと思っていたが、どうやらそれはなさそうだ。
「その時さゆりさまのご様子はいかがですかと訊ねたら、今日は比較的お元気だと仰っていたのでその時は生きておられたと思います」
「なるほど。つまりさゆりが殺されたのは少なくとも午後。みんなが課外授業に向かった十三時以降ということかな」
姫宮さまが言う。
私は口元に指を当て、考え込む仕草をしてこれまでの流れを整理してみることにした。午前中の授業の間は恐らく生きていた。授業があったしここは間違いないだろう。犯行が起こったのは生徒や教師が出払った十三時半以降。十四時半頃に姫宮さまがお姉さまを訪ねたと言っていたが、恐らくその前に誰かと会っていた可能性がある。
何故ならティーカップが二つ置いてあったからだ。しかもあのティーカップはさゆりお姉さまが「大切な人と会う時に使うもの」だと仰っていたお気に入りのカップである。つまり会っていた人物は、さゆりお姉さまにとって親しい人物だったということになる。
それを踏まえると一番濃厚なのは佳乃子さまだ。姫宮さまがお姉さまの部屋から戻る時にすれ違っているし、保健室に行ったというのは嘘だった可能性がある。
いや、それならば姫宮さまもだ。会っていないと言っていたが、本当は会っていたのではないだろうか。相棒として弓道部でずっと切磋琢磨していた仲だし、あのカップを使っても何も不思議ではない。
笠吹さまと筒見さんは会っていないどころか部屋にも近づいていないということだったが、実際はどうだろう。笠吹さまはお姉さまを一方的に敵視していたが、お姉さまはそうでもなかった。むしろ何かと突っかかる笠吹さまとのやり取りを楽しんでいたように思える。
筒見さんはこの中で一番さゆりお姉さまと直接的な関わりが薄い。だが白百合寮の方の方に向かっていたところが気になる。彼女を見かけたのは十五時頃だった。明確な犯行時刻がわからない分、可能性はあると思う。
それに筒見さんが真っ先に捜査に賛同してくれたことが意外だった。次期寮長としての責任感と正義感からなのか、それとも別の目的があるのか。
全員のことが疑わしく思えてしまう。それと同時にこの場にいる四人全員がさゆりお姉さまの大切な人になるのかと思うと、煮え切らない思いがふつふつと沸き起こる。今はそんなことを考えている場合ではないというのに。



