* * *
ある日の幹部の会合にさゆりお姉さまが欠席された。授業中突然吐き気に襲われ、そのまま保健室で休まれてから寮に戻ったのだそう。
私は心配でその日のうちにお見舞いに伺ったけれど、「透に移してしまうかもしれないから」と会ってくれなかった。
「きっと少し疲れが溜まっているだけだと思うの。心配しないでね」
さゆりお姉さまは女神の微笑みでそう仰ったけれど、それから体調は悪くなる一方だった。最初は体を気遣いながら登校されていたけれど、段々と寮に引きこもることが多くなった。
寂しくて心配で仕方なくて、私は何度もお姉さまのお部屋を訪ねた。でもさゆりお姉さまは会ってくださらない。
「ごめんなさい、だいぶ体調が良くないみたいで……起き上がるのもつらくて」
おつらいお姉さまの気持ちを考えたら、私が代わって差し上げたい。だけどお姉さまはきっと望んでおられないだろうから、私は私のできることをしようと思った。
「寮のことはよろしくね」
さゆりお姉さまに直接頼まれて断る理由などない。これは私に課せられた試練なのだと思い、さゆりお姉さまに会えない寂しさに浸るのではなく次期寮長として学院のために奔走した。
佳乃子さまに無理をしているのではないかと心配されたけれど、忙しいくらいがちょうどいい。だってその方が余計なことを考えずに済むから。何度訪ねてもお姉さまが会ってくださらず、悲しくて泣きそうにもなったけれどこれは乗り越えるべき壁なのだと何度も自分に言い聞かせた。
半年が過ぎても、お姉さまの体調は良くならなかった。それどころか、今は自室から全く出ていないらしい。白雪家のメイドが一人お姉さまの部屋を出入りして身の回りの世話をしているようだけれど、それ以外には誰もお姉さまと会っていないのだそう。
その間、学院は静かだった。
「どうか、さゆりさまのお身体が良くなりますように」
佳乃子さまは毎日マリア様に手を合わせ、さゆりお姉さまのご快復をお祈りしている。
「さゆりさんがいないと、張り合いがないわ」
笠吹さまはつまらなそうにぼやいている。いつもはお姉さまを敵視しているけれど、きっと本気で嫌っているわけではないのだろう。
姫宮さまは部活を引退し、部長を後輩に譲った。しかし引退した今も弓道場で弓を射る姿を何度か見かけている。
「なんだか落ち着かないんだ。いつもは隣にさゆりがいたのにね」
姫宮さまは寂しそうに苦笑していた。
筒見さんは元よりさゆりお姉さまとの接点が少なかったから、特に変わらない。だけど笠吹さまについているのではなく、一人になることが多くなった。きっと彼女も寮長になる準備を進めているということなのだろう。
他の生徒たちもお姿の見えないさゆりお姉さまを気にして、部屋を訪ねてくる者もいた。
「さゆりお姉さまは面会謝絶です。お帰りください」
私はそうやって訪ねてくる生徒を追い返していた。実際お姉さまは誰ともお会いになられないし、少しでもお姉さまの負担を減らそうと思った。
だけどお姉さま、妹の私にも会ってくださらないなんて。今頃どうしていらっしゃるのだろう。
*
この日は授業が午前中までで、午後からは課外授業となっていた。リリスの課外授業は他の学校のものとは違い、美術館を回ったりオペラを観劇したり芸術に触れるものだ。
だけど私は、さゆりお姉さまが気がかりだった。お姉さまはやはり自室に残るらしい。私はこっそり寮に残ることにした。
午前中で授業が終わり、十二時から食堂で昼食となる。昼食が終わってから、生徒たちは寮を退去することになる。十三時半には出発する時間となっており、多くの生徒が外出の準備をしていた。
その中で、二人の白百合寮生が困ったように花壇の茂みをかき分けていた。何かを探しているらしいことは一目瞭然だったので、声をかけた。
「どうかなさったの?」
「ああ、透さま……実は猫がどこかに行ってしまったのです」
困ったように眉を八の字に曲げて答えたのは、一年生だった。
「この近くにいる野良猫なんですが、私たち毎日エサをあげているんです。でも、今日は一度も姿を見ていなくて」
「もしかしてどこかで怪我をしたんじゃないかと、心配で……」
「まあ、そうなの。でも、そろそろ出ないといけない時間じゃなくて?」
「そうですよね……」
一年生二人は顔を見合わせ、不安そうに俯く。そんな二人の様子を見て私はひらめいた。
「それなら私がその猫を探しましょう」
「えっ、透さまが? でも透さまもこれから課外授業ですよね?」
「私は訳あって寮に残るつもりだったの。先生にも了承いただいているから大丈夫」
本当は嘘だが。
「それに生徒が困っているところを見過ごすわけにはいかない。私は寮長の妹ですもの」
「本当によろしいのですか?」
「ええ、任せて」
私が胸を張って見せると、一年生は嬉しそうにぱっと表情を明るくさせた。
「ありがとうございます!」
二人は何度もお礼を言い、猫の特徴を細かく教えてくれた。まるまると太った三毛猫で尻尾が短いらしい。スマホで撮った写真も見せてくれた。
「本当にありがとうございます。よろしくお願いします」
こうして私は迷い猫探しという寮に残る大義名分を得たのだった。
十四時には皆出払ってしまい、ガランと静まり返っている。先生は何人か残っている人もいるが、ほとんどは引率のため生徒とともに出てしまっている。
こうして見ると、改めてこの学院の敷地の広さを感じた。
中等部、高等部合わせて校舎は東棟と西棟があり、寮も白百合寮と黒薔薇寮の二つの建物がある。
それとは別に体育館、倉庫やゴミを燃やすための焼却炉、そして学院の象徴でもある礼拝堂。そのどれもが静かな荘厳さを放っていた。私は猫を探しながら、学院中を歩き回る。学院内を歩いていると、お姉さまと過ごした日々が思い起こされる。
一緒にバラ園を散歩しながら話したこと、お姉さまのお部屋でお茶をしたこと、図書室で一緒に勉強したこと。そのどれもが私にとって大切な思い出だ。
ああ、早く会いたい……。
私は生徒手帳に挟んだ写真を取り出す。お姉さまと二人で撮影したものだ。お守りみたいにいつも肌身離さず持ち歩いている。猫を無事に見つけたら、少しだけお姉さまを訪ねてみようと思った。
「あら?」
私はふと、とある人影に目を奪われる。自分以外に誰もいないと思っていただけに、とても驚いた。
「筒見さん……?」
筒見さんは一人で院内を歩いていた。私は咄嗟に階段を駆け上がり、隠れながら様子を見守った。隠れる必要はなかったのかもしれないが、課外授業をサボっていると知られたくなかった。といってもここにいる時点で、彼女も似たようなものかもしれないけれど。
筒見さんは白百合寮の方へ向かっていった。黒薔薇寮であるはずなのに、何故白百合寮の方へ向かったのだろう。何となく気になったが、鉢合わせても気まずいだけだと思ってやめた。
それよりも自分の仕事を全うしなくては。生徒のために迷い猫を見つけたと聞いたら、さゆりお姉さまは褒めてくださるかしら。そう思うとより一層気合いが入る。
「あれ? 焼却炉が動いてる」
焼却炉の近くを通りかかってみたら、焼却炉が動いていたので驚いた。寮監がゴミを燃やした直後だったのだろうか? いつも決まった時間に焼却炉を使うので少し不思議に思いつつ、焼却炉の真下に何かが落ちていることに気がつく。何だろうと思って拾い上げると、燃え焦げた切れ端だった。
「何これ?」
焦げて真っ黒になっているが、端っこを見るに恐らく元の色は白だと思われる。これはもしかして、制服のリボンの切れ端だろうか? 何故そんなものが燃やされていたのだろう。
「――って、こんなことしてる場合じゃない。にゃんこ、にゃんこっと」
何となくそれをポケットに突っ込んで猫探しを再開する。礼拝堂の前を通りかかった時、アーンという甲高い子猫のような声が聞こえた。私はハッとして、すぐに礼拝堂の中に入った。中に入ると子猫の声はより一層大きくなる。逃げられないように忍び足になりながら、慎重に鳴き声が響く方へと近づいた。
どうやらマリア像の近くにいるらしい。そろそろとマリア像まで近づいてみたが、猫の姿はない。だが鳴き声は聞こえている。私は少し考え、ある推察をした。
このマリア像の下には、床下が外れて収納スペースが存在している。何故こんなところに床下収納があるのかわからないけれど、「神聖な場所にこそ秘密を隠したくなるものじゃない?」と微笑んださゆりお姉さまが美しかったのでそういうことだと思った。
どうしてそうなったかはわからないが、猫がこの辺りをウロウロしていた時何らかの弾みで床下に閉じ込められてしまったのではないだろうか? 大いにあり得ると思い、私はすぐに収納スペースを開いた。特に鍵などはないので、蓋を開ける要領で簡単に開けることができる。だが、そこにいたのは猫ではなかった。
「え…………?」
あまりの衝撃に思わず息を呑んだ。幻か、悪い夢でも見ているのではないかと思った。流石の私も理解するのに時間がかかる。いや、これは最早理解の範疇を超えている。
「ど、どうして……?」
床下にいたのは猫ではなかった。猫だと思っていた声は、なんと赤ん坊の鳴き声だったのだ。裸の赤ん坊がカーテンのような布に包まれ、頻りに産声をあげていた。
そう、恐らくそれは産声だ。この子は産まれて間もない、芽吹いたばかりの命なのである。恐る恐る布をめくると、まだへその緒がくっついていた。母体から切り離されたばかりだという証が、くっきりと残っている。
そして、その子は男の子だと示すものがついていた。マリア像の下から男の赤ん坊、それも産まれたばかりの新生児。
一体どういうことなの? マリア様が産み落としたイエス・キリストだとでもいうの?
そんな馬鹿げたことはあり得ない。目の前の赤子は正真正銘、人間の男の子なのだから。つまりはこの学院に、この子を産んだ母親がいるということなのだ。
いや、そんなことがあり得るの? でもこのへその緒が何よりの証拠だし、よく見れば布は赤黒く染まっている。
「……っ」
目眩と吐き気がしそうになった。意識を手放してしまいたいと思ったが、そうならなかったのは私の中の確かな正義感が「この子を救いたい」と囁いたから。医学の知識がない私でも、このままにしていたら赤子の命が危険に晒されるということはわかる。とにかく一刻も早くここから連れ出さなければ。
私は布に包めた新生児を抱きかかえ、とりあえず自分の部屋に連れて帰った。裸のままでは可哀想だと思ったので、カーテンの上からバスタオルと毛布で包み、なるべく体が冷えないようにした。とにかく誰か先生に知らせなければ。そう思った直後。
「きゃああああああああああ」
甲高い悲鳴が轟く。この声は……もしかして佳乃子さま?
何故佳乃子さまの声がするのだろうという疑問は、今は気にしている場合ではなかった。赤ん坊のことが気がかりではあったが、自分のベッドに寝かせて部屋を飛び出した。
キョロキョロと周囲を見渡しながら、悲鳴が聞こえた方角へと急ぐ。
その間誰ともすれ違うことはなかった。やはりほとんどの人間が出払っているのだと認識させられる。
「……っ!」
辿り着いた場所は、寮長室――つまりさゆりお姉さまの部屋だった。
ドクンドクン、と心臓がけたたましく鼓動する。
部屋のドアは開いている。覚束ない足で部屋の中に入ると、既に四人の人物がいた。
「あ……あ……」
腰を抜かしてへたり込み、震えている笠吹さま。
「ああああああっ」
床にへばりつき、大声で号泣する佳乃子さま。
「……」
一点を見つめ、呆然と立ち尽くす筒見さん。
「……そんな……」
両手を口元に当て、後ろによろめく姫宮さま。
四名の視線は同じものを見つめていた。
「……っ!」
視界にまず飛び込んできたのは、鮮烈な赤。激しく飛び散ったそれはカーペットを朱に染め上げていた。その中央で横たわる彼女から飛び散ったものだということは、一瞥しただけで嫌でも認識させられる。
下腹部あたりから大きく染め上げられ、無惨で凄惨としか言いようがない。それなのに、何故か彼女はどこまでも美しかった。長い睫毛は閉じられ、凍りついたような静謐な表情を湛えている。血の気のない真っ白い顔なのに、何故彼女はここまで美しいのだろう。
天に愛された聖女は命を散らした瞬間ですら美しいのか――目に焼き付いた光景から逃避するかのように、この現場に相応しくないことを考えてしまっていた。
「……さゆり、おねえさま……」
力ない声が口から漏れ出る。
信じられない、信じたくない。さゆりお姉さまが、死んでいる。
「さゆりさまあああああっ」
佳乃子さまの悲痛な絶叫が耳をつんざく。起き上がることができず、「うそよ、うそよ」と震えながらブツブツ呟き続ける笠吹さま。筒見さんはやはり放心状態で、立っているのがやっとという状態だった。
そんな中、比較的冷静な姫宮さまが震えながらも部屋から出て行こうとする。
「だ、誰か……大人を呼んで……」
「ダメ!」
思わず大声をあげて出て行こうとする姫宮さまを制した。私の声に驚き、ビクッと肩を震わせる姫宮さま。
「ダメです、誰にも知らせないでください」
「ど、どうして?」
「学院側はきっとこのことを揉み消すに違いありません」
「でも……」
「誰もここから出ないで。一歩も動かないで」
私の気迫に押されたのか、姫宮さまは口を噤んでその場に留まった。他の三名も元より動ける状態ではないが、私に従ってくれた。
「さゆりお姉さまをこんなお姿にした犯人は、私が必ず見つけ出します」
私は確信していた。ここに来るまでに誰にもすれ違わなかった。だがここへ来てみると、四人がいた。この寮にいたのは私を入れて五人。
つまり――、さゆりお姉さまの命を奪った犯人はこの中にいるということだ。



