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 私は鏡の前に立ち、リボンを結ぶ。曲がっていない、よれてもいない、大丈夫。胸には金色の百合のバッジが光っている。
 あの事件が起きてから学院もようやく落ち着き、日常が戻りつつあった。穏やかな日常に戻ったということは、事件のことが薄れつつあるということだ。あんなにショッキングな事件があってもいつしか風化していく。
 いや、風化などさせない。この百合のバッジに誓い、私はさゆりお姉さまが生きた証を絶対に忘れない。
「見守っていてください、お姉さま」
 優しく微笑むお姉さまの写真に向かって呟いた。時計を見るとまだ時間がありそうなので、スピーチの内容を再確認しようとPCを立ち上げる。何度も読み返して校正に校正を重ねたけれど、まだ気になってしまう。さゆりお姉さまから寮長を引き継いで初めてのスピーチだもの、下手なスピーチはできない。
 原稿はWordで書いていたので、印刷して持っていかなければならない。今から直したら印刷し直さないといけないのに、やっぱり見直すと細かな言い回しだとか気になってしまう。流石にそこまでの時間はないだろうし、印刷済みの原稿に赤を入れて直そうと思った。
 私のペン立てには自分のペンの他に密かに現場から持ち去った、さゆりお姉さまのペンも入っている。事件には関係ないし、一本か二本くらいと思って持ち去ってしまった。少しでもお姉さまを近くに感じていたかったから。
 原稿に赤を入れながら思う。きっとお姉さまなら、「透なら大丈夫よ」って微笑んでくださるかしら。「失敗してもいいのよ」って勇気付けてくださるかしら。そう考えながらまた、お姉さまのいない空虚さに胸を痛めることになる。
 私はお姉さまの写真を見つめる。私が憧れ、信じ崇めていたお姉さまは完璧ではなかった。普通に恋をして愛に溺れていた一人の少女だった。それでもお姉さまはたくさんの愛情を注ぎ、優しさで包み込んでくださった。なのに私は何も返すことができなかった。
「透お姉さま」
 コンコンとドアがノックされる。私はハッとして、背筋を伸ばした。
「そろそろお時間ですよ」
「今行く」
 先日姉妹の契りを結んだ妹が呼びに来てくれた。まだ私がお姉さまなんて慣れないけれど、彼女のことはじっくり育てていきたい。お姉さまが私に与えてくださったものを、今度は私が妹に与えてあげたいと思っている。
 私はPCをシャットダウンする前にあるフォルダを開く。フォルダの中にはたくさんの写真が保存されている。そのどれもがさゆりお姉さまの写真だ。中等部の頃の初々しいお姉さまの姿もあって、とても懐かしい。これはお姉さまが寮長として初めて登壇された時の写真。私もお姉さまのように堂々としたスピーチができるだろうか。
「見ていてくださいね、さゆりお姉さま。透はお姉さまのような立派な寮長になります」
 視線がずれている写真ばかりが保存されたフォルダを閉じ、PCをシャットダウンした。私は再度鏡の前で身なりを整えてから、部屋を出る。
「お姉さま、大丈夫ですか?」
「もちろんよ」
「私も楽しみにしています」
「ええ、ちゃんと見ていて」
 彼女に向かってニッコリと微笑むと、頬を赤らめる。私は深呼吸をしてからスピーチ会場となる体育館へと向かった。穏やかに吹き抜ける風が、私たちの未来を後押ししてくれているように感じられた。


 fin.