あの後、筒見さんが警察に通報したことにより佳乃子さまの身柄は引き渡された。私たちは当然事情聴取を受けることになり、私は父に烈火の如く叱られた。右頬の痣は父に一発食らわされたものだ。この程度は覚悟していたので甘んじて受け入れた。
笠吹さまも身柄を拘束されることになった。彼女は遺体損壊の容疑で取り調べを受けることになるだろう。でも彼女のおかげで赤ん坊は無事に産まれた。これは一人の幼い命を救った大きな功績だと思う。
その赤ん坊はすぐに病院に運ばれた。命に別状はなく、ミルクも飲ませてもらって健やかに眠っているそうだ。それを聞いた姫宮さまは事情聴取で涙を流していたらしい。
学院の象徴的存在・白雪さゆりの死亡は生徒たちに大きな衝撃と深い悲しみを与えた。彼女を殺めた犯人が親友・乙木佳乃子だったことが更にショックを与えたことだろう。そしてこの事件をきっかけに、寮長と副寮長全員が学院を去ることになった。天に召されたさゆりお姉さまはもちろんのこと、逮捕されてしまった佳乃子さまと笠吹さま、自主退学した姫宮さま。特に笠吹さまの逮捕も姫宮さまの退学も他の生徒たちには知らされず、突然退学されたことに動揺と混乱を招いていた。
そんな生徒たちを前に、筒見さんは堂々と言った。
「蘭華お姉さまも渚さまも大切なご友人を亡くされ、深い悲しみを抱いておられます。今はそっとしてあげるべきでしょう」
筒見さんの言葉のおかげか、妙な噂が飛び交うことはなかった。私は筒見さんに訊ねた。
「あなたはお姉さまの秘密を暴きたかったはずなのに、どうして隠したの?」
そう、さゆりお姉さまが秘密裏に妊娠していたことは伏せられた。事件のことは大きく報道されたが、やはり被害者が妊娠していたという事実が報道されることはなかった。これは白雪家が握り潰した可能性があるけれど。
「生まれてきた子どもが私と同じような思いをして欲しくないと思ったの」
筒見さんは静かに答えた。
「私は確かにさゆりと白雪家を憎んでいた。復讐してやりたいと思っていた。でもあの子は何の罪もない。母親に抱かれることなく生まれたあの子には、私のような思いはして欲しくない」
そう言った彼女の表情は、何だか憑き物が落ちたように見えた。
「それに私の復讐なんて何の意味もないって気づいたから」
「そう」
「今はただお姉さまの帰りを待つだけよ」
筒見さんは目を伏せる。笠吹さまが連れて行かれる時、彼女は涙を流しながら笠吹さまを乗せたパトカーを見えなくなるまで見送っていた。
「ねぇ、笠吹さまの妹になったのはお姉さまに近づくためだったんでしょ?」
「最初はね。でも、本当にあの方のことを尊敬していたし、とても好きだったの」
筒見さんの目が赤くなる。
「あんなに傍にいたのに、私はお姉さまの気持ちを何も知らなかった……」
「……それは、私も同じ」
さゆりお姉さまのことが大好きで尊敬していた。お姉さまのことは何でも知っていると思っていたけれど、本当はお姉さまの毛ほども理解できていなかった。それが悔しくて悲しくてたまらない。しばらく二人の間に寂寥の静けさが漂っていた。
「この前ね、留置所までお姉さまに会いに行って来たの」
鼻を啜りながら筒見さんはいう。
「お元気だった?」
「ええ、意外にもお元気そうで安心した。色々話をしたけれど、お姉さまは私のことを心配してくださるの。私の気持ちに気づけなくてごめんなさいだとか、体は壊してないかとか……私のことばかり気にしてくださるの」
再び筒見さんの瞳に涙が溢れ出る。
「本当にお優しくて……」
「うん、流石は笠吹さまね」
私は彼女の背中をさする。
「そんなお姉さまが必死に救ったあの子を……あの子の未来を守りたいと思った」
筒見さんはずっと苦しんでいた。さゆりお姉さまを憎まずにはいられなくて、でも笠吹さまと出会って本当の姉妹のように絆を育み救われたのだと思う。
「蘭華お姉さまは渚さまのことを許すと言っていたわ」
「そうなの?」
「さゆりを穢した男を絶対に許さないと思っていただけに、相手が渚さまと知って複雑だったと思うけど――許すことにしたって」
「笠吹さまは本当にお優しくて強い方ね」
「そうよ。だから私は待つの。蘭華お姉さまのこと、ずっと待っているわ」
私は純粋に羨ましいと思った。お互いのことを信頼し合い、強い絆で結ばれた二人のことを。最初こそ筒見さんは目的を遂行する手段だったし、笠吹さまもまた筒見さんに愛する人の面影を求めていた。だけどいつしか姉妹としての深い絆を育んでいた。きっとこの絆はずっと続いていくものなのだろう。
「シスター制度なんて最初は馬鹿げてるって思ってたのにね」
「でもお姉さまがいるって素晴らしいことよ」
「そうね。流奈は妹は迎えないの? って聞かれたわ」
「妹か」
「ちゃんと決めなさいって怒られちゃった」
「こんな状況で私たちの妹になりたい一年生がいるのかしらね」
「同感」
私たちは顔を見合わせ、思わず笑った。
「……なんでこんな時に次期幹部会の役員選挙なんてやるのかしら」
「こんな時だからでしょ」
「そうよね。健闘を祈るわ――透」
不意に呼ばれて驚いたけれど、微笑み返した。
「こちらこそ。お互い頑張りましょう、流奈」
そうして私たちは互いの寮へと戻っていった。
*
「久しぶりだね、透」
学院の目の前で待っていたのは長かった黒髪をバッサリと切り、水色のシャツに白のスキニーを履いていた姫宮さまだった。こうしてみるとどこから見ても男性にしか見えない。
「ご無沙汰しています、姫宮さま」
「さまはやめてよ。もう先輩じゃないんだし」
「では、姫宮さん」
「うん」
姫宮さんは微笑む。
「ちょっと歩きながら話しませんか」
「透は大丈夫なの? 学院を出ても」
「少しくらい大丈夫です。上手くやります」
あの事件以降、学院は更に厳しくなって今は外出許可も出ない程だ。いい加減息苦しくて仕方なかったので少し散歩するくらい見逃して欲しい。
私たちは学院から出て並木通りを歩きながら話した。
「流奈は元気?」
「元気ですよ。今日は先生に呼び出されてどうしても抜けられなかったみたいですけど」
「そっか」
私たちは特に目を付けられているし、二人一緒に行動しない方が良いと今日は私だけとなった。
「母が施設に入ることになったんだ。カウンセリングを受けて少しずつ治療することになった」
「そうなんですか」
「蘭華が紹介してくれたんだ」
退学した姫宮さんは自身の母親にすべてを話したらしい。娘が突然男の姿となり、自分には子どもがいると打ち明けられた母親は発狂して大暴れしたそうだけど、姫宮さんは母と向き合うことから逃げなかった。笠吹さまの口添えもあり、笠吹メディカルグループが運営する施設に入ることになったそうだ。
「蘭華とはこの前会ってきた。お礼を言って、どうして母を助けてくれたのか聞いたら、目の前で苦しんでいる人を助けるのが医者でしょって……」
「笠吹さまらしいですね」
「僕のことを許してくれたのもあの子には父親が必要だからって。敵わないなぁって思ったよ」
「あの、この際聞いてもいいですか?」
「何が?」
「どうしてさゆりお姉さまだったのですか? 正直子どもを産ませるためなら笠吹さまでも相応しかったのでは? 家柄の良さはもちろん、同じ黒薔薇寮で会いに行くのは簡単だし」
「透……すごいこと聞くね」
「この際全部聞きたいと思ったので」
私はあっけらかんという。
「今更何を言われても傷つくことなんかないですよ」
「うーん、正直蘭華って選択肢はなかったな。何言ってんだって思われるかもしれないけど、蘭華とは友達でいたかった」
「要するにさゆりお姉さまの方が好みだったと」
「その言い方棘があるけど――まあそういうことだろうね」
意地悪な言い方をしてしまったが、笠吹さまと友人同士でいたかったというのも本心なのだろうと思った。あの方が慕われる理由は私も理解しているつもりだから。友人として仲が良かったからこそ、壊せないものがあったのだろう。
「これからどうするのですか?」
「白雪家に頼み込んでどうにか許しをもらえたから、僕が引き取ることになった」
「あの白雪家を説き伏せたのですか?」
私は驚いた。さゆりお姉さまの子である以上、白雪の血を引くあの子を手放さないんじゃないかと思っていたから。
「あのメイドさんが味方してくれたんだ」
「理子さん、でしたっけ」
「父親と一緒の方が子どものためだからって」
メイドの理子さんはお姉さまの通夜も葬儀もずっと泣いていた。ご両親以上にお姉さまの死を悲しんでおられるように見えた。
「それがさゆりの願いでもあるだろうからって……渋々だったけど認めてもらえた」
「理子さんに感謝ですね」
「本当に彼女には感謝してもし尽くせない。この恩に報いるためにも誠心誠意育てるよ」
彼の横顔から覚悟が感じられた。
「さゆりと僕の子を守ると誓ったし、蘭華とも約束したから」
「これから大変ですね」
「でも、不思議と苦じゃないんだ」
姫宮さんは穏やかに微笑む。
「お金は必要だし母の面倒も見なきゃいけないし、一人で子どもを育てる大変さもわかってる。でも、やっと自分自身の人生を生きられるんだと思うと、すごく嬉しいんだ」
とても晴れやかな表情だったが、すぐに影を落とす。
「……隣にさゆりがいてくれたら、もっと良かったんだけどね」
「そうですね……」
この胸の奥がぽっかりと空いたような喪失感は、今後も消えることはないのだろう。それでも今生きている私たちは、さゆりお姉さまのいない世界でこれからも生きていくしかない。
「そういえば名前、どうするんですか?」
「名前ね……まだ迷ってて」
「決めてなかったんですか?」
「正直性別もわからなかったからさゆりと顔を見て決めようって話してて、ノープランだった」
「私が考えましょうか?」
「あまりに決まらなかったらお願いしようかな」
「任せてください」
私は大袈裟に胸を張る。
「それと、佳乃子のことだけど」
その名前が出ると少しだけ空気が張り詰める。
「昏睡状態にあったご両親が目を覚ましたらしい」
「えっ」
「これから治療を続けていけば退院できるって。会えないのが残念だね」
「そうですね……」
神様は残酷なことをするものだと思った。何年も昏睡状態にあってようやく目覚めたのに、親子の再会が叶うことはない。
「透は佳乃子のことどう思ってる?」
「許せないですよ」
私はきっぱりと言った。
「一生許せないと思います」
「……そうだね」
「でも、不幸になって欲しいとか地獄に堕ちて欲しいとは思いません。しっかり罪を償って生きるべきだと思います」
この罪と向き合い、背負って生きていくことが彼女の使命だと思う。
「……うん、僕もそう思う。佳乃子のしたことは許されないけど、罪を償って前を向いて欲しいなって思う」
「……はい」
お互い口には出さなかったが、何となく似たようなことを考えている気がした。さゆりお姉さまがそう願っているように思えてしまうのだ。犯した罪は消えないし、一生かけても償い切れる重さでもない。それでも前を向いて生きて欲しい、誰にでも人生はやり直せると――お姉さまならそう仰るような気がする。本当のお姉さまの気持ちはもう、永遠に知ることはないけれど。
「これ」
私は一通の手紙を差し出した。
「警察がさゆりお姉さまの部屋から発見したものです。引き出しの一番奥にあったそうですよ」
その封筒には美しい文字で「浬へ」と書かれていた。
「これをあなたに渡したかったんです」
「手紙……? ありがとう」
今日姫宮さんと会う一番の目的が果たされた。
「それじゃあ、私はそろそろ戻りますね」
「うん、ありがとう。流奈にもよろしく伝えて」
「はい。今度二人で会いに行きます」
「え、本当に?」
「赤ちゃんに、ですよ」
「ああ……うん、会ってやって」
ぐるりと学院の周りを一周したところで、私たちは別れた。彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
正直彼に対して複雑な思いを抱いているのは変わらない。彼もまた罪深いことを犯したと思う。それでも幼い命をお姉さまの分まで守り育てると誓った彼にも――生きていて欲しいと思う。
「さようなら……浬さん」
名前が決まったというメッセージと写真が届いたのは、翌日のことだった。



