*
相変わらず偽りの聖女を演じ続ける私に転機が訪れたのは、ある日渚に呼び出されたことがきっかけだった。渚とは同じ弓道部員として切磋琢磨していた仲であり、渚が黒薔薇副寮長になってからは幹部生としての交流も増えていた。けれど渚はどこかクールで、あまり他人に深入りしない。だから私も部活以外で話す機会は少なかったので、呼び出された時は驚いた。渚のおばあさまが亡くなり、忌引きで数日休んだ後のことだった。何だか渚はいつもより疲れた顔をしていた。
「さゆり、うちの話を聞いてくれる?」
そう言って話してくれた渚の話は、壮絶なものだった。姫宮家は代々女性が家を継ぎ繁栄させてきたことは知っていたけれど、未だに双子を忌み子としていたり男児を呪いだとしているだなんて。
「その呪われた双子の男が、私なんだ」
「えっ……どういうこと?」
更に告げられた真実は衝撃的で信じがたいものだった。
「私は本当は男なんだ。母は未だに私のことを亡くなった姉だと思い込んでいるけれど」
話してくれた渚の人生は、過酷すぎるものだった。実の母に愛されないばかりか、死んだ姉の身代わりにされている。未だに姉の死を受け入れることができず、渚は姉として生きるしかないだなんて。涙なしには聞けなかった。
「渚が……そんなにつらい思いをしていたなんて」
「もう慣れたと思っていたけど、まだ母の中に自分はいないんだと思って……」
「渚……」
思わず彼を抱きしめていた。渚はいつも冷静であまり感情の起伏を見せない。弓を射る時なんて特にクールで素敵だと下級生たちから大人気だ。そんな渚が、誰にも言えないつらい秘密を抱えていた。他人に深入りしないのも、自分の秘密を知られたくなかったからなのかもしれない。
「……さゆり、もう少しだけこのままでもいい?」
「ええ」
そうして私たちはしばらくの間抱きしめ合っていた。
「私もね、家族仲は良くないの」
「あんなに仲良さそうに見えるのに?」
「あれは取材用だから。本当は父も母も愛人がいるのよ」
渚が自分のことを話してくれたからなのか、私も自然と自分の家族の話をしていた。
「両親は政略結婚だったの。利害関係が一致しているから離婚せずに夫婦を続けているけれど、愛なんてどこにもない。私のこともそう、本当は愛してなんていないの」
「さゆり……寂しかった?」
そう聞かれて驚いた。
「寂しかったのかしら……」
そんな風に思ったこと、一度もない。いや、寂しいという気持ちを押し殺していただけかもしれない。本当はずっと寂しかった。
「私、寂しかった……」
「うん」
「お父様とお母様に、褒めてもらいたかっただけなの……」
「うん……」
渚に寄りかかっているからなのか、彼の心音が聞こえてくる。何故かその音を聞いていると心地よくて安心する。
「さゆりはいつも頑張ってるよ」
そう微笑みながら頭を撫でてくれた。私がずっと欲しかった言葉と、その手の大きさと温かさにドキッとした。こうして近づくと、渚の喉元が微かに出っ張っているのがわかる。こんなに綺麗な顔をしているけれど、本当に男の子なんだ――。
それから私たちは二人だけで逢瀬を重ねるようになった。渚と過ごす時間は今まで感じたことのない甘やかなものだった。一緒にいるだけで心がときめき、触れ合っているともっと触れたいという欲に駆られる。
「ねぇ、あなたの名前を教えて」
「名前?」
「渚はお姉さんの名前なのでしょう? あなたの本当の名前は?」
「……浬」
「浬。素敵な名前ね」
誰も知らない、私だけが知っている本当のあなた。
「浬、大好きよ」
「さゆり、愛してる」
だけど、本当は気づいている。浬が本当に欲しいものは私じゃない。浬が欲しいのは、自分の子を産んでくれる母体。もっと言えば女児を産んでくれる母体なのだ。何となくわかっていた、私に家の話を打ち明けてくれたのは私という器が欲しいのだということ。
それでも良かったの、それで浬という存在が救われるのなら――私は喜んでこの身を捧げたいと思った。偽りでもあなたがくれたときめきは私にとって心地よくて、この気持ちが恋だったらいいと本気で思ったから。それに彼は私と同じ、誰かの理想を生きている。彼の気持ちを理解してあげられるのは私しかいないと思ったから、彼の望む子を産みたい。姫宮浬として生きる道をつくってあげたいと思った。
だから妊娠したのも、私の意志だった。だって渡されたのがピルじゃないと知りながら飲んだのだから。
「ごめん、さゆり。その、どうするの?」
「浬はどうして欲しい?」
彼の目をじっと見つめて訊ねた。
「……産んで欲しい」
その言葉を聞いて安堵した。
「良かった。私も産みたいと思っていたから」
「さゆり……」
「大丈夫よ」
浬は罪悪感に苛まれているような表情をしていたけど、これは私が望んだことでもある。だから心配しないで。
「もしもし、理子? 久しぶりね。ええ、元気よ」
私は幼い頃からお世話になっているメイドの理子に電話をかけた。私を育ててくれたのはほぼ理子と言っても過言ではない、家族同然の存在だ。
「理子に大事な話があるの。こちらへ来てくれる?」
「お嬢様、大事なお話とは……」
「会って話すわ」
「承知いたしました」
しかし、リリスは外部の者が立ち入るために厳重な手続きを要する。理子が私の元にやって来たのは連絡してから二日後のことだった。最初は久々の再会を喜び、理子の近況を聞いたりと雑談をした。それからいよいよ本題に入った。
「実はね、お腹の中に赤ちゃんがいるの」
「え……っ」
理子は明らかに動揺していた。常にメイドとして堂々たる態度を崩さない、あの理子が。
「……本当なのですか?」
「ええ、本当よ」
私は浬に見せた妊娠検査薬を理子にも見せた。二本線がくっきりと出ているそれを見て、理子は息を呑む。
「ど、どうして……まさか、教師が……お嬢様をこのようなっ!」
「違う、相手は言えないけど私が望んだことなの」
「え……?」
「私が、彼の子を産みたいと思ったの」
「ど、どうして……」
理子は今にも倒れそうだった。そんな彼女の両手を握りしめて懇願する。
「お願い、理子。このことは誰にも言わないでほしいの」
「そんなこと、できません……」
「お願い、あなたにしか頼れないのよ」
一瞬理子の瞳が揺らいだのを見逃さなかった。
「お父様とお母様には言わないで」
「そ、そんな……」
両親に話せば絶対に堕ろせと言われる。私が卒業したら、お父様が白雪財閥に見合った男性と婚約させようとしていることは知っている。浬も家柄は申し分ないけれど、女性と偽っていた彼のことをどう思うか。きっと引き裂かれるに決まっている。
「私はもう、決めたの」
だから、この子のことは誰にも言わず一人で産む。理子を巻き込んでしまうのは申し訳ないけど、理子なら助けてくれると信じていた。
理子は考えた後、大きく息を吐いた。覚悟を決めた表情をしていた。
「……承知いたしました」
「ありがとう、理子」
「私の母は助産師です。事情を話して協力を仰ぎましょう」
「本当に! 助かるわ」
それから私は体調不良を理由に寮に引きこもるようになった。寮を出入りするのは理子だけで、私との取り次ぎはすべて理子が行った。私を心配して部屋を訪ねてくれる者はたくさんいた。特に透は熱心に通ってくれた。
「どうしてもさゆりお姉さまにお会いできないのですか?」
「申し訳ございません、誰も立ち入らせるなとお嬢様より申し付けられております」
「お姉さま、そんな……」
悲しそうな透の声を聞く度に胸が締め付けられた。だけど透だけには知られるわけにはいかない。
透と出会ったのは中等部の時だった。新入生だった透はいきなり私を訪ね、「妹にしてください」と直談判してきた。突然の申し出にとても驚いたが、透は真剣だった。だけど私は首を横に振った。
「ごめんなさい、私は妹はつくらないと決めているの」
「どうしてですか?」
「私はきっと求められるものを与えられる姉にはなれないと思うから」
蘭華とのことがあり、彼女の望む理想の姉であり続ける自信がなかった。
「申し出は嬉しかったわ、ありがとう」
けれど透は諦めなかった。
「では、高等部でさゆりさまがもし寮長になることがありましたら、その時は私を妹にしてください」
とんでもないことを言い出すものだと面食らった。
「寮長は後継者を選ぶため必ず妹を選びますでしょう? もしさゆりさまが寮長になられたら妹選びは避けて通れません。その時再度申し込みに参ります」
「あなた、面白いことを仰るのね」
思わず笑みが溢れていた。
「私が寮長になるかどうかもわからないのに?」
「なれます。さゆりさまならきっとなれますわ」
透の自信に満ち溢れた真っ直ぐな瞳が眩しかった。彼女の言った通り、高等部に上がり次期寮長になった時は自分から透を妹に誘った。その時の嬉しそうな透の表情はとても可愛らしかった。
透はしっかりと自分というものを持っている。私に盲信的なところはあれど、自分なりの正義感を持っていてそれを貫く強さもある。いつか女性初の警視総監になるのだという夢を語ってくれた時は、とても輝いて見えた。他人の理想を生きる私とは違い、透はしっかりと自分の人生を生きている。それが私にとってどんなに眩しいことか。
きっと透は私なんかいなくても、私以上に立派な寮長になれるだろう。それでも「お姉さま」と慕ってくれる透が可愛くて、透の理想の姉でありたいと思った。だから透には幻滅されたくない。ほとんどの人が本当の私を知ったら幻滅すると思うけれど。
*
「さゆり、母に子どものことを打ち明けようと思う」
浬とはほとんど毎日会っていた。理子に浬のことは秘密だから、理子が帰った後にひっそりと密会している。
「どうせ僕が家を継ぐことはできないし、いい加減母に現実を見てもらおうと思う」
「待って、話すのはあなたが卒業してからにしましょう」
「どうして? 卒業を待っていたら間に合わない」
「渚のまま卒業してあげた方がお母さまのためじゃないかと思うの」
「どういうこと?」
「黙っていれば誰にもばれないわ。大事にしないためにも渚として卒業して、お母さまにも渚を卒業してもらうの」
リリスを卒業してしまえばもう渚として過ごす必要はない。あと数ヶ月のことだし無理にお母さまを刺激しない方が得策なんじゃないかと思った。
「それに多分私は卒業できないと思うから、浬にはきちんと卒業してもらいたい」
「さゆり……ごめん、さゆりにばかり負担をかけて僕は何もできない」
そう言って浬は私を抱きしめる。
「ううん、浬がいてくれるだけでいいの」
私は浬の背中に腕を回す。
「ねぇ浬、この子が無事に生まれて浬も卒業したらどこかに遊びに行きたいわ」
「どこかって?」
「どこでもいいの。私たち外でデートしたことないでしょ?」
「そうだね。お弁当作ってのんびりピクニックとか楽しそう」
「お弁当? 浬作れるの?」
「一応ね。あんまり上手くないけど」
「すごいわ!」
「じゃあ三人分頑張って作ろうかな」
三人分。そう言ってくれたことが嬉しくて、ぎゅっと腕にしがみついた。
浬とこうして一緒にいる時はすごく安心できるけれど、一人になると途端に不安に押し潰されそうになる。愛を知らない私が、生まれてくる子のことを愛せるのか。私は母親になれるのか。浬とずっと一緒にいたい気持ちは嘘じゃないし彼の子を産みたいと思った気持ちも嘘じゃないけど、日に日に膨らんでいくお腹を見ていると本当にこれで良かったのか考えてしまう。成人が十八歳に引き上げられたけれど、私たちはまだまだ子どもなのだ。
それに浬が本当に私を愛してくれているのか、実のところ今もわからない。何度「好きだよ」とか「愛してる」って囁かれて、その度にすごく幸せな気持ちになるのにその言葉を信じ切れていない自分がいる。浬が愛しているのは私じゃなく、お腹の子なんじゃないかって――そう思う気持ちが未だに消えない。そして私も浬のことを愛していると言ったことはない。こんな私が母親になってもいいのだろうか。こんな葛藤をし続けていても、もう後戻りはできないというのに。
*
私はいよいよ臨月を迎えた。お腹の子の性別はわからない。浬に赤ちゃんの性別について何か言われたことはない。女の子が産まれると信じているのだろうか。男の子だったらどうするのだろう。捨てられてしまうのだろうか――。こんなことを考えてしまうのは、マタニティブルーだからかもしれない。あまり気落ちしていると胎教に悪いだろうから気分転換したい。
そう思っていた時、ふと気になったのが佳乃子のことだった。佳乃子は元気にしているだろうか。ご両親の様子は大丈夫だろうか。佳乃子の傍にいたいと言ったのに、その約束は守れそうにない。
「佳乃子には、本当のことを話してみようかしら」
いずれはきちんと話すし卒業したら浬のことも話したいと思ってはいたけれど、黙って消えるより先に本当のことを話した方がいいのではないかと思った。何より佳乃子は親友だ。一人で抱え込むのがしんどくて、誰かに聞いてもらいたい気持ちもあった。これが大きな過ちだとはこの時は気づかなかった。
私は佳乃子に手紙を認めた。その後もう一通手紙を書いた。理子に手紙を届けてもらうついでに買い物を頼んだので、その時間に浬と会った。やっぱり会っている時間は安心するし幸せだと思う。離れがたいと思う気持ちは、愛なのだろうか。
理子が戻って来てしまったので窓から浬を逃した。帰る直前、彼の耳元で「ごめんね」と囁く。浬は「どういうこと?」と訊ねたけれど私は微笑んだ。
誰にも秘密にするという約束だったのに破ろうとしていてごめんなさい。でもあなたの秘密は守るから許してね――。
「お嬢様、ただいま戻りました。どなたかいらっしゃったのですか?」
「お帰りなさい。いいえ、誰もいないわ」
「……本当に父親がどなたか話してくださらないのですか」
「ごめんね、理子」
理子には感謝している。それでもこの秘密だけは守り通したい。彼が無事に卒業するまでは。
それから翌日、十四時頃に佳乃子を呼び出した。理子には今日は調子が良いからたまには休んで欲しいと言って休日を与えた。
お気に入りのティーカップを用意し、理子が買ってきてくれた紅茶を淹れる。妊娠中はよくりんごを食べていたので、りんごも剥いて佳乃子を迎える準備を整えた。
「さゆりさん、佳乃子です」
「お入りになって」
佳乃子の声を聞くことも久しい。なんだか懐かしい気持ちになりながら佳乃子を迎え入れた。佳乃子はすぐに私の異変に気づいた。
「え……さゆりさん……?」
「驚かせてしまってごめんなさい。佳乃子には話しておきたいと思って。今、このお腹の中に赤ちゃんがいるの」
佳乃子は呆然としていた。驚いているし戸惑ってもいるのだろう。私は誠意を持って伝えようとした。けれど――、
「処女受胎なさったのですよね? さゆりさま」
「えっ」
「だってそうでしょう? それしか考えられません」
佳乃子の口から出た言葉に驚き、たじろいでしまう。
「……違うわ。このお腹の子は、私の大切な彼との子よ」
そう告げた瞬間、佳乃子の表情がみるみるうちに変わっていく。
「あり得ないっ!」
そう叫んだ時、私はまた“間違えた”のだと悟った。
「そんなのさゆりさまじゃない! 悪夢、これは悪夢なのよ……」
「佳乃子……」
「こんなの違う……さゆりさまじゃない」
ブルブルと震えながら、叫んだりブツブツ呟いたり。尋常じゃない様子の佳乃子を見て、自分自身に失望した。どうして私はいつも大事な時に間違えてしまうのだろう。佳乃子にとっての私は、清らかな聖女そのものだったのに――。
「佳乃子、ごめんね。私は、」
「いやあああああああっ」
その直後、私は佳乃子に首を絞められていた。必死にもがきながら息苦しさに身悶えるしかなかった。こんな状況なのに、私は佳乃子の理想を貫けなかったことを憂いていた。
ごめんなさい、私は聖女にはなれなかった。いえ、最初から聖女なんかじゃなかった。私はただの人間、他者の理想で塗り固められていただけの空っぽな人間なの。そして最期になって気づいてしまった、私が本当に望んでいたもの。それは白雪さゆりというただ一人の少女として、誰かに愛してもらいたかったということに。そして私も誰かのことを愛したかった。
私を聖女と崇め殺したい程愛してくれた佳乃子のことも、私のことを憎んでいた流奈のことも、求める愛を与えてあげられなかった蘭華のことも、心からお姉さまと慕ってくれた透のことも。そして女として浬のことを、母としてこの子のことを愛したかった。
「あいし、てる……」
苦しみながら呟いた言葉は、誰にも言えなかった言葉。「好き」とは言えても「愛してる」とは誰にも言えなかった。でも、こんなことになるならちゃんと言えば良かったな。自信がなくて言えなかったけど、生まれてくるこの子にはちゃんと伝えたいと思っていたのに。あなたのことを愛してるのよ、って直接伝えたかったな――……。
私はその場に崩れ落ちる。意識が遠のいていくのがわかった。ごめんね、上手に愛してあげられなくてごめんなさい。それでも私は愛していた。あなたたちと出会った花園を、この子を授かったこの花園を愛していた。それを直接伝えられなくてごめんなさい。
私は静かに目を閉じ、その生涯に幕を閉じた。



