祖父は言った。「白雪は遡ると皇族の血筋と繋がる。由緒正しい一族として誇りを持て」
 祖母は言った。「さゆりさん、あなたは生まれながらにして特別な存在なのです。白雪家の名に恥じることのない淑女におなりなさい」
 父は言った。「いついかなる時も完璧でいろ。他人に弱味は見せるな、常に堂々としてこそ白雪の人間だ」
 母は言った。「女は愛されることこそすべて。美しさこそ女の価値よ」
 幼少期から私に求められたのは、白雪に相応しい人間であり女性となること。私は子どもながらに家族の期待に応えようと頑張った。お勉強もお稽古も本当は退屈だったけれど、お父様とお母様に褒めてもらいたかったので一生懸命頑張った。
「見てください、お父様。百点を取りました」
「……さゆり、そんなものを見せるために起きていたのか?」
「えっ……はい」
「そんなもの取れて当然だろう。俺は疲れているからくだらんことに時間を使うな」
「……ごめんなさい」
 百点は当たり前、それだけのことで喜んではいけない。
「さゆり、次のパーティーにはこれを着て行きなさい」
「お母様、この前着たさくらんぼ柄のドレスはどうされたのですか?」
「ああ、あれはもう捨てたわ」
「えっ……」
「あんな子どもっぽくてダサいドレス着た娘連れてたら、私の品位が落ちるでしょ?」
「……そう、ですよね」
 お気に入りだったさくらんぼ柄のドレスよりも、母が用意したシルクのエレガントなドレスが正しい。
「さゆりお嬢様はまだ幼いのに既に立派なレディでいらっしゃる」
「流石はあの白雪財閥のご令嬢ですわ」
 私を取り巻く大人たちは皆口々に私を褒める、流石は白雪の娘だと。そうするとお父様もお母様も「さゆりは自慢の娘です」と言ってくださる。だから私は、やっぱりこれが正しいのだと安堵する。
 両親の望む「完璧」を追求しなくてはならない。完璧でなければ、私は捨てられる。白雪家の令嬢として正しい振る舞いができなければ、私は両親からは愛されない。幼いながらにそんな強迫観念を抱いていた。
 実際両親は私のことを我が子として可愛がり、愛しているわけではなかった。両親は政略結婚だった。父は白雪家に相応しい家柄で子どもが産める女なら誰でも良かったし、母は自分のステータス、品位を落とさず金を持っている男なら誰でも良かった。互いに利害が一致し、一人子どもができたらその時点で目的は達成されていた。父にとって私は白雪財閥を継ぐための器であり、母にとって私は自分を美しく着飾るためのアクセサリーなのだ。家では冷え切っていた家庭だけれど、外ではおしどり夫婦、仲の良い親子として振る舞っていた。その方が都合が良いからだ。
 そうした中で育ってきた私は、無意識にどう振る舞うのが正しいのか、目の前の人物が求めている理想像は何なのか察知して振る舞うようになっていた。そんな振る舞いは聖リリス女学院に入学してからもそうで、いつしか周囲の人たちは私のことを「聖女」と謳うようになった。
「ご機嫌よう、さゆりさま」
「さゆりさまは今日もお美しいですわ」
 醜い娘なんていらないと母に言われるから身なりには気を遣っているだけ。
「さゆりさまは成績優秀で弓道の腕前も素晴らしくて、完璧ですわ」
 この程度のことできて当然だと父に叱られてしまうから頑張っているだけ。
「さゆりさまは正に完璧な聖女ですわ」
 あなたたちがそう言うから、そのように振る舞おうとしているだけ。本当の私は、私ですらわからない。常に誰かの理想として生きることばかりを考えていたから、“私”が何をしたいのか自分でもわからない。
 そう、本当の私は空っぽなのだ。空っぽの器の中にたくさんの理想を詰め込み、何とか外見は良く見せられているけれど中身は何もない。だって、誰も私自身を求めていないから。私に求められるのは、白雪家の美しくて完璧な令嬢、学院のマドンナで完璧な聖女。そうじゃない私なんて誰も興味ない、誰も愛してくれない。そして私も人の愛し方を知らない。考えるより先に相手の求めている振る舞い、言葉を察知してしまうから自分の本心が何か自分でもわからない。だって私は、自分が嫌われないことに精一杯だったから。

 *

 そんな私が初めて好きになりたいと思った相手が、蘭華だった。蘭華とは白雪家のパーティーで出会い、以来一緒に遊ぶ仲になっていた。両親はいつも不在で独りぼっちだった私が初めてできたお友達だった。私のことを「さゆちゃん、さゆちゃん」と慕ってくれる蘭華がかわいかった。ある時、蘭華に訊ねたことがある。
「ねぇ蘭ちゃんはどんな私がいい?」
 私に対して何をしてもかわいいと言うから、蘭華が本当に求めている「さゆちゃん」は何だろうと思って訊ねてみた。すると蘭華は不思議そうに首を傾げる。
「どんな私、って? さゆちゃんはさゆちゃんでしょ」
「私に何をして欲しいとか、そういうのないの?」
「えっ。うーん……」
 蘭華は少し考えてからこう答えた。
「蘭華のこと好きでいて欲しい」
「え?」
「蘭華、さゆちゃんのこと大好きだから!」
 屈託なく笑った蘭華を見て驚いた。好きになって欲しい、って自分から言ってもいいことだったの?
「大好きよ、蘭ちゃんのこと」
「えへへ、嬉しい」
 本当に嬉しそうにはにかむ蘭華がとてもかわいかった。相変わらずあまりよくわかっていなかったけれど、それでも私なりに蘭華を好きになりたいと思っていた。彼女のことを愛したいと思った。
 残念ながらリリスに入って蘭華とは寮が分かれてしまったけれど、佳乃子と出会った。佳乃子はいつも独りぼっちで常に周りを気にしている子だった。そんな姿が自分に似ている、と思った。蘭華と出会う前はずっと独りぼっちで、常に周囲の顔色を窺ってしまう私と似ている。何となくそう感じていたので彼女と話してみたいと思っていたら、偶然彼女が屋上から飛び降りようとしているところを目撃してしまった。私は慌てて屋上に駆け上がり、佳乃子の腕を強く引っ張った。
「何故死なせてくださらないのですか?」
 助けた私に対し、佳乃子は大粒の涙を流しながら訊ねた。
「どうせ私のことなんか、誰も気に留めないのに……っ」
 泣きじゃくる佳乃子を見て、やっぱり私と似ていると思った。私もそう、誰かに嫌われるのが怖くて誰かの理想になろうとしている。そうじゃないと誰にも見向きもされないと思ってしまうから。
「そんなこと言わないで。あなたがいなくなったら私が悲しい」
 この言葉が本心だったかはわからない。
「私はあなたに生きていて欲しいし、友達になれたら嬉しいと思ってる」
 でもきっと、彼女にとっては必要な言葉だと思った。仮に嘘だとしても、嘘がその人の救いになることもある。……なんて、綺麗事よね。愛し方のわからない自分を正当化しようとしているだけの綺麗事だ。それでも佳乃子は涙を流してくれた。私はそんな彼女の傍にいてあげたいと思った。
 後から聞けば佳乃子の両親は自殺未遂をして昏睡状態にあると知り、尚のこと支えてあげたいと思った。心に大きな傷を負う彼女のことを私が守ってあげなければ。佳乃子と一緒にいるとそんな庇護欲に駆られる。だけど、蘭華はこれを良しとしなかった。
「どうしてあの子ばかり構うの? 白雪傘下の企業の娘なんてこの学院にたくさんいるじゃない」
 私が佳乃子ばかり構うのが気に入らなかったらしい。
「佳乃子さんは複雑な事情を抱えているの。今は彼女に寄り添ってあげたいのよ」
「複雑な事情って何?」
「それは話せないわ」
 流石にご両親が自殺未遂をして昏睡状態にあるなんて、第三者の口から言うことではないと思った。それに蘭華ならわかってくれると思った。これまでにも私が他の子と一緒にいると嫌な顔をしたけれど、根は優しいからきっとわかってくれる。そう思ったけれど、
「さゆり、騙されちゃダメよ。どうせ彼女はあなたが白雪財閥の娘だからいい顔してるだけなんだから」
「蘭華、どうしてそんな風に言うの?」
 思わずそう言ってしまった後、しまったと思った。今の言葉は間違いだった。蘭華の表情が歪んでいたけれど、必死に泣くまいと堪えている。
「だって……っ」
「ごめんね、蘭華。それでも今は彼女に寄り添ってあげたいの」
「なん、で……? さゆりは、私のこと好きじゃないの?」
「そんなわけないじゃない。大好きよ、蘭華のこと」
「だったらどうして私を選んでくれないの!?」
 ヒステリックに叫ぶ蘭華を見て、どうしたら伝わるだろうと考えた。私は蘭華を選ばなかったわけではない。蘭華のことも好きだし、一緒にいたいと思っている。でも佳乃子のことも放っておけない。
「選ぶとか選ばないとか、そういうことじゃないの」
「……っ、もういい」
「蘭華!」
 蘭華は走り去って行ってしまった。私はなんて声をかけてあげるのが正解だったのだろう。なんて言ってあげたら蘭華を傷つけずに済んだのだろう。
 それから蘭華は私を避けるようになってしまった。その分佳乃子と一緒にいることが多かったから、やっぱり私は蘭華より佳乃子を選んだということになるのだろうか。蘭華のことは多分好きなはずだけど、彼女の求めていたものではなかったようだ。人を愛することは難しいと、この時感じた。
「さゆりさんは、私なんかと一緒にいて良いのですか?」
 たまに佳乃子は遠慮がちに私に訊ねる。
「さゆりさんとお友達になりたい人は他にもたくさんいるのに……」
「私が佳乃子と一緒にいたいのよ」
 そう言うと佳乃子は心底嬉しそうに微笑んでくれるから安心する。ああ、今回は間違えていないと思えるから。佳乃子の前では理想の“私”でいよう。今度こそ間違えないように。
 その後話しかけてきた蘭華は、人が変わったようだった。
「ご機嫌よう、さゆりさん。白百合寮長の妹になったそうね。負けないわよ、私もいつか寮長になるんだから」
 私をさゆりさんと他人行儀で呼び、挑戦的な視線を向けてきた。その後蘭華は本当に当時の黒薔薇寮長の妹だった二年生と姉妹の契りを結んだ。順当にいけば蘭華は黒薔薇寮長となるだろう。
「またあなたが学年一位? でも物理と生物学は私の方が上ね」
「そうね、流石だわ」
「次こそ絶対私が勝つんだから」
 事あるごとに蘭華は私と張り合うようになっていた。そんな私たちを周囲はライバル同士と認識していた。私はそれでも良かった、形は変わっても蘭華との繋がりが消えたわけではなかったから。蘭華はどうかわからないけれど、私はずっと蘭華のことが好きだった。私にどんな憎まれ口を叩こうとも、真っ直ぐ向かってきてくれる蘭華が好き。この気持ちは、きっと嘘じゃないはず。私はあなたのこと、愛せているかしら――?

 *

「紹介するわ、さゆりさん。筒見流奈、私の妹よ」
「ご機嫌よう、さゆりさま。蘭華お姉さまの妹となりました、筒見流奈と申します。よろしくお願いします」
 二年に進級し、蘭華は流奈という妹を迎えた。
「初めまして。よろしく、流奈さん」
「流奈はとても優秀なの。外部からリリスを受験してきただけあって、とても頭が良くて視野が広くてよく気がつく子なのよ」
 蘭華は鼻高々に妹を自慢していた。
「とんでもございません。尊敬するお姉さまのお力になりたいだけですわ」
「その上とても謙虚なの。素晴らしいでしょう?」
「ええ、本当に。私にも透という妹がいるの。同じ一年生同士仲良くしてくださると嬉しいわ」
「はい、もちろんです」
 流奈は一歩引いて姉を立てる従順な妹だった。しかし自分の意見を言うべきところは意見し、きちんと自分の意志を持っている少女だった。そんな流奈を蘭華はいたく気に入り、とても可愛がっていた。
 流奈はあまり私に直接話しかけてこない。幹部会で必要があれば話すこともあるが、事務的なこと以外は話しかけてこなかった。きっと蘭華に気を遣っているのだろうと、私も彼女との距離感には気をつけた。だけどある時、ふと気づいてしまう。流奈が私を見る視線に、時折憎悪のようなものが滲んでいることに。
 それに何故か、流奈のことを他人だと思えない瞬間があった。具体的な根拠はない、何故か何となくそう感じる瞬間が何度かあるのだ。私はこの違和感の正体が知りたくて、流奈のことを調べた。白雪の情報網を使えば造作もなかった、彼女の母親・筒見礼奈はかつて父の秘書だったのだ。そして、礼奈は後に秘書を解雇されていた。
 私はピンときて、お茶会を開いた。幹部同士の親睦を深めるお茶会で、いずれ幹部となる二人も是非とまだ一年生だった透と流奈も招いて美味しい紅茶とケーキを振る舞った。洗う手間を省くためとフォークと皿は使い捨てのものを用意した。
「使い捨て? こんなものがあるの?」
 蘭華は怪訝そうに言った。いつも高級な食器ばかり使っている蘭華には物珍しいのだろう。
「ええ、そうみたい。バラの花柄がかわいくて使ってみたかったの」
「お姉さまったら。お可愛らしい一面もあるのですね」
「ふふ、珍しくて思わずね」
 ――本当は、捨てずにさりげなく指紋や唾液を摂取するためだけれど。
 私は片付けるフリをしてさりげなく流奈の使っていたフォークと皿だけ回収した。実家に帰った時にこっそり父の部屋に忍び込んで髪の毛を拾い、DNA鑑定に出した。結果は思った通り、流奈の父親は私の父・白雪正邦だった。つまり流奈は私の腹違いの妹ということになる。
 父に愛人がいるのは何となく知っていたので、別にショックではなかった。むしろ母にも愛人がいる。あの二人は表向きだけおしどり夫婦を演じる仮面夫婦だから、互いに夫婦としての愛情はない。だから外で好き勝手遊んでいるうちに生まれたのが流奈というわけだ。
 きっと流奈は私を憎んでいる。父に捨てられた筒見母娘から見たら、幸せな家庭を築いている私たち親子が憎らしくて仕方ないのだろう。本当は円満な家庭なんて真っ赤な嘘なのに。もしかしたら流奈は復讐心を内に秘め、リリスに入学してきたのかもしれない。私を貶めたいと思っているかもしれない。
 だが流奈が腹違いでも自分の妹だと知った時、嬉しいと感じた。蘭華には兄と弟がいて、時折兄弟の話を聞く度に羨ましく思っていたからだ。透にも年の離れた兄が二人いるという。一人っ子だと思っていた自分に妹がいるとわかり、憎まれていたとしても流奈のことを愛したいと思った。
「……なんて言ったら、流奈はもっと怒るわよね」
 私のことを憎んでいたとしても、その憎しみすらも愛したいと思う。自分でも気が狂っている自覚はあるが、それだけ血の繋がりとは特別なものなのかしらと思った。だってお父様にもお母様にも愛されていなくても、私は愛したいし愛されたいと思うから。
 とはいえ流奈とはこれまで通り、一定の距離を保った交友を続けた。血縁関係を知ったのはこちらが勝手に調べたからだし、「私たち姉妹よね」と名乗り出たところで酷い嫌味にしかならない。流奈に何か目的があったとしても、それを暴くつもりもない。ただ遠目から見守っていたい。自分に対する復讐を見守るなんて馬鹿げた話だとは思うけれど。