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京都に本家を構える姫宮一族には、古くからある呪いがある。それは男児が生まれないこと。旧華族の末裔で呉服屋を営んでいた姫宮家は、何故か男児に恵まれず長女が婿を取って代々家を守ってきた。元々迷信深い一族だったため、女児しか生まれない呪いはある時から誉れとなった。美しく聡明で健康的な女性こそ、姫宮を継ぐに相応しい後継者となるのだ。だから皆立派な婿を取って跡取りとなる女児を産むことに躍起になっていた。
とはいえ女系一族の姫宮にも男児が生まれることもある。しかし生まれて間もなくして死亡したり、男児を産んだ直後に母親が亡くなったりと不幸が続いた。またある時には男児が生まれた日に大きな地震が起こったり――いつしか姫宮に生まれた男は災いをもたらす存在と言われるようになる。男は姫宮にとって呪いなのだ。
私の母は三姉妹の長女であり、本家の跡取りとなるはずだった。しかし男女の双子を産んでしまったことにより、母の人生は一転する。迷信深いこの一族は、双子が忌み子と言われていたことを今も信じている。その上に男の子を産んでしまったのだから、当主であった祖母は信じられないと母を突き放した。祖母は自分の跡取りに次女を選び、母のことは本家から追い出した。
実家から追い出された母は姉ばかりを可愛がり、私のことは存在しないものと扱った。母の目に私は映っていない、母にとって私は呪いそのものだったから。
その分父は私に二人分以上の愛情を注いでくれた。いつも独りぼっちの私を優しく抱きしめてくれた。
「ごめんな……姫宮から離れれば、母さんは正気になるはずなんだ。もう少しだけ辛抱してくれ」
だが呪いからは逃れられなかった。六歳の時、父と姉が交通事故で亡くなった。運転していたのは高齢者でブレーキとアクセルを踏み間違え、父と姉に突っ込んでいったのだという。
母は私に駆け寄ってきた。初めて私の目を見て母はこう叫んだ。
「渚、渚! ああ、あなたが無事でよかった……っ。あの人が、お父さんが亡くなってしまったの……!」
渚は姉の名前だった。
「でも渚は無事でよかった。私のかわいい娘、あなたは私から離れないで」
母は私のことを姉だと思い込んでいた。私は何も言えず、泣き叫ぶ母に抱きしめられていた。最愛の父を失ったことも、母の目に自分が映らないことも悲しかった。声が枯れるまで泣き叫んだ。
母と私は東京に引っ越し、遠縁の姫宮家に身を寄せることになった。母は私を女の子として育てた。姉だと思い込んでいるのだから当然だが。
「髪は伸ばして綺麗に整えましょうね。女の子らしく」
元々顔つきが童顔だったからか、女の子の格好をしていると誰にも男だとは思われなかった。最初は親戚にも女だとばれておらず、男だと知られると驚愕された。姫宮本家と縁遠いため一般的な感覚を持つ親戚たちは、私のことを女として育てる母のことが理解できずに母を問い詰めた。
「渚ちゃんは男の子だろう? どうして女の子の格好をさせているんだ? 本人が望んでいるのか?」
母は平然と答えた。
「渚は私の娘です。あなたたちこそ何を言っているのですか?」
精神的病を患っていると考えた遠縁たちは、母を精神科病院に診せようとしたが母は激しく抵抗した。
「私は病気なんかじゃない! 渚は私の娘よ! 私から渚を奪わないで!」
母の精神が正常でないことは幼いながらに理解していた。男女の双子を産み、跡取りを奪われた日から母は狂ってしまっている。私なんかを産んだせいで。
「お母さん、心配しないで。渚はここにいるから」
「渚……!」
母に呪いをかけた私にできることは、娘として母の傍にいること。母が愛した姉・渚として生きることが母にしてあげられる唯一のことなのだ。この世界のどこにも“僕”がいなくても。
私と母は姫宮の分家を出て、二人だけで暮らし始めた。それ以降母は落ち着いていて穏やかだった。母は私に対して優しかった。ずっとずっと優しかった。だけど、もし私が本当は男だと気づいてしまったら。本物の渚はもうこの世にはいないのだと気づいてしまったら――母はどうなるかわからない。だから私は、このまま母の望むように女として生きるしかなかった。
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母の望みで聖リリス女学院中等部に通い始めた。女性らしい振る舞いには慣れたとはいえ、思春期を迎えてどうしても体の変化と向き合わなければならなくなる。生粋のお嬢様たちが集うこの花園で自分は女としてやっていけるのか。
「まあビクビクしていても仕方ないか。なるべく堂々としていよう」
私は弓道部に入部した。他の運動部程男女の体格差が大きく出ることはないと思ったからだ。それに和服は体型を誤魔化しやすい。幸いにして喉仏がそんなに目立たない方だったので声も気をつけていれば大丈夫そうだ。
同じクラスになった笠吹蘭華とは仲良くなった。彼女はあの笠吹メディカルグループの令嬢で正に気高いお嬢様といった感じだが、話してみると案外話しやすかった。ハーフの彼女は他の生徒より背が高く、隣に並んでも違和感がないのが有難い。白百合寮の白雪さゆりとは何かありそうな雰囲気だったが、特に言及はしなかった。自分のことをあまり深く知られたくないから、他人と付き合う時も踏み込みすぎないことを心がけた。
そうして何とか上手く誤魔化して溶け込みつつ、女子校ライフを謳歌した。何人かから告白されたりラブレターをもらうこともあった。SNSのダイレクトメッセージから告白されたこともある。女子校だと本当にこんなことがあるのかと思いつつ、彼女たちは自分の本当の性別を知ったらどう思うのだろう。きっと汚らわしいと嫌悪感を示すに違いない。
何年女として過ごしても、自分の性自認が男であることには変わりない。母に言われてずっと伸ばしているこのロングヘアは短く切りたい。たまに見かける他校の野球部員の坊主頭を羨ましいと思うことすらある。本当はスカートなんて履きたくない。男として生きることは自分にとって困難なのだと自覚しながら、時折どうしても夢見てしまう。そしてどうしようもなく願ってしまう、母が息子として受け入れてくれることを。そんなことは叶わぬ夢でしかないのに。
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高等部に上がると、上級生から「私の妹にならないか」と誘われることが多くなった。二年になると今度は一年生から「私を妹にしてください」と申し込まれることが増える。リリスには奇妙な制度があるものだ。
「渚は妹を取らないの?」
そう聞く蘭華は最近妹を迎えたばかりだった。
「私はいいかな。一人で好きにやりたいしね」
「そう、残念ね。あなたの妹になりたい一年生は多いでしょうに」
「そういう蘭華は妹とどうなの?」
「流奈は優秀よ。さゆりの妹の透にも負けてないわ」
何かとさゆりと張り合いたがる蘭華は妹自慢もしたいようだ。確かに蘭華の妹・流奈はなかなか行動力のある子だった。ゴーイングマイウェイな蘭華との相性はピッタリのようだ。二人を見ていると自分の思うがままに行動できるところが羨ましい。
「蘭華は良い寮長になるね」
「当然よ。でも私一人じゃ足りないのよ」
蘭華がそんな風に言うとは意外だった。
「だから渚、あなたに副寮長になって欲しいの」
「私が?」
「ええ、あなたはいつも冷静で理知的だもの。渚がいてくれたら心強いわ」
蘭華はプライドが高いところもあるけれど、流奈にしても身内には甘いところがある。そして惜しみなく相手に愛情を注ぎ、信頼できるところは素直に尊敬していた。
「わかった、蘭華が寮長に当選したら副寮長に立候補するよ」
「あら私が当選しないと思ってるの?」
「まさか」
宣言通り蘭華は信任投票で過半数を獲得し、黒薔薇寮長に当選した。私も約束通り副寮長になった。他人とは一歩距離を置きたいと思っていた自分が幹部になるなんて、リリスに入学した当初は思ってもみなかった。
「渚は副寮長になったのね」
「まあね」
「これからは部活だけでなく、幹部会でも一緒ね」
さゆりは私に向かって優しく微笑む。全生徒憧れのマドンナに微笑まれると、流石にドキッとしてしまう。
「こちらでもよろしくね」
「こちらこそ」
さゆりは同じ弓道部に所属しているのでそれなりに話す方だった。袴姿で弓を構えるさゆりは、凛とした美しさがある。普段から何をしていても綺麗だが、弓を射る姿は普段とは違うしなやかな美しさが感じられる。私は彼女のそんな横顔を見ているのが密かに好きだった。
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「渚、姫宮本家に帰るわよ」
ある日、母から突然電話がかかってきた。どうやら本家の前当主である祖母が亡くなったらしい。私は母とともに通夜と葬儀に参列するため、久しぶりに京都に帰った。母のことを追い出した実家だが、流石にこの時ばかりは迎え入れられた。
通夜と葬儀はしめやかに行われたが、その後が地獄だった。現当主は次女の叔母だが、叔母には子どもがいない。三女の叔母は嫁入りして姫宮家を出たため家を継ぐ資格を放棄している。つまり、姫宮には次の跡取りがいないのだ。祖母の遺言には「姫宮の血を受け継ぐ女でなければ跡取りとは断じて認めず財産も渡さない」と書かれていたため、大荒れだった。そんな中で母がいった。
「跡取りは渚がなるべきよ」
これに対して叔母は憤慨した。
「今更何を言ってるの? 姉さんが本家に口出す資格なんてないわ」
「でも姫宮の血を受け継ぐ女子は渚しかいないのよ」
その場がシンと静まり返る。この場にいる全員が私のことを知っている。
「姉さん……まだそんなことを言ってるの? 渚は死んだじゃない!」
「馬鹿なこと言わないで! 渚は生きてる! 目の前にいるじゃないっ」
――ああ、やっぱりダメなんだ。
十年経ってもしかして大丈夫かもしれないと思ったこともあったが、甘かった。母は未だに姉の死を受け入れることができない。
「渚は生きてる! 私の娘よっ!」
「母さん」
私は母の手を握りしめた。
「帰ろう」
「渚……っ」
母はボロボロと涙をこぼし、泣きじゃくりながら私に抱きつく。何度も何度も「渚、渚」とうわ言のように呟きながら。
「すみません、母は連れて帰ります」
「お待ちなさい。あなた、本当にそれでいいの?」
叔母は私の目を真っ直ぐ見つめた。
「……いいんです」
私は力なく笑うしかなかった。私にはどうすることもできない。こんな母を一人にしておけるわけがないのだから、自分を殺すしかない。そうしないと私は存在できないのだから。
だがこれからどうすればいいのだろう。仮に私が姫宮を継ぐことになったとして、それは女として生きることの終わりとなる。何故なら、結局私の次の跡を継ぐ者がいないからだ。私には子を成すことは不可能なのだから。即ち母に現実を突きつけることになるのだが――今度こそ母の心は壊れてしまうかもしれない。
気が重くなりながら学院に復帰し、唐突に思いついた。自分が次の跡取りをつくれば良いのではないか? 私が誰かに子どもを産ませることは可能なのだ。しかもここは選りすぐりの令嬢たちが集う花園、相手など選び放題ではないか。
何とか体型を誤魔化してはきたものの、最近は自分の手を見る度に大きくて骨ばった手の甲は少女たちのものとは違うと感じさせられる。そろそろ限界だと思っていた。ならばせめて、母のために跡取りとなり得る女児をつくるしかない。我ながら酷い考えだという自覚はあったが、自分には時間がない。迷っている暇などないと思った。
「渚、どうしたの? 相談したいことがあるって」
私はその日、密かにさゆりを呼び出した。相手を決めるならさゆりしかいないと思った。由緒ある白雪財閥の一人娘にして、全生徒が憧れる完璧なマドンナ。誰よりも美しく不思議な魅力を持つさゆりなら、きっと姫宮に相応しい女児を産んでくれるに違いない――。
「先日はおばあさまのお葬式だったそうね。ご冥福をお祈りします」
「ありがとう。久々に祖母の家に行って、ちょっと気疲れしてしまったみたいで」
私はさゆりの肩に頭を寄せる。そんな私の頭をさゆりは優しく撫でた。
「わかるわ。悲しいけれど、少し息苦しい気持ち」
「さゆり……」
「お疲れ様、渚」
聖女のように微笑むさゆりを見て罪悪感で心が痛む。だがもう覚悟は決めた。
「さゆり、うちの話を聞いてくれる?」
私は姫宮の呪いの話をした。迷信深い一族で未だに双子は忌み子だとしており、更に男児は呪われているとされていること。自分がその呪われた男児だということ。
「えっ……どういうこと?」
「私は本当は男なんだ。母は未だに私のことを亡くなった姉だと思い込んでいるけれど」
私は自分の生い立ちを嘘偽りなく話した。さゆりはとても驚いていたが、黙って私の話を聞いてくれた。やがて大粒の涙を流す。
「渚が……そんなにつらい思いをしていたなんて」
「もう慣れたと思っていたけど、まだ母の中に自分はいないんだと思って……」
「渚……」
さゆりは私を抱きしめてくれた。この話をすれば同情してくれると思ったから話したが、いつの間にか自分の目にも涙が溢れていたことに驚いた。どうやら自分は、誰かに聞いてもらいたかったらしい。しばらく私たちは互いをきつく抱きしめ合っていた。
「私もね、家族仲は良くないの」
「あんなに仲良さそうに見えるのに?」
「あれは取材用だから。本当は父も母も愛人がいるのよ」
さゆりは寂しそうに笑う。その切ない笑顔が愛おしくてたまらなかった。
私たちが特別な関係になるまで時間はかからなかった。私は毎夜十八時過ぎに白百合寮のさゆりの部屋を訪れ、逢瀬を重ねるようになる。自分の身の上を話したのは、さゆりを口説き落とすのに有効的かつ男であることを受け入れてもらいやすいと思ったからだ。彼女に子を産んでもらうことが目的だったはずなのに、いつしか本気でさゆりを愛するようになっていた。
「ねぇ、あなたの名前を教えて」
「名前?」
「渚はお姉さんの名前なのでしょう? あなたの本当の名前は?」
「……浬」
「浬。素敵な名前ね」
それは父が名付けた名前。父だけが呼んでくれた名前だった。
「浬、大好きよ」
母が認めてくれなかった姫宮浬という存在を、さゆりは受け入れて愛してくれた。本当はずっと姉さんの代わりではなく、自分自身として生きたかった。自分は生きていてもいい、ここにいてもいいのだと誰かに言って欲しかった。
「さゆり、愛してる」
自分はずるい。最初は利用するつもりだったくせに、本気で彼女を愛してしまった。今は誰にもさゆりを奪われたくないと思っている。さゆりは由緒正しき白雪のたった一人の娘であり後継者だ。卒業したら白雪に相応しい婿を迎え入れることになるのだろう。本人から直接聞いたことはないが、もしかしたら既に婚約者がいるのかもしれない。
嫌だ、さゆりは僕のものだ。誰にも触れさせたくない、他の男にもこの学院にいる令嬢たちにも。初めは聖女と崇められる彼女を自分が穢していることに優越感すら覚えていたが、今はさゆりに触れる度に切なくて苦しくて壊してしまいたくなる。彼女を僕だけのものにするためには――。
*
その後、いつものようにさゆりの部屋を訪れると妊娠検査薬を見せられた。そこには二本線がくっきりと表示されていた。
「ピルは飲んだはずだけど、絶対ではないのね……」
その言葉に胸が痛む。ピルだと言って飲ませたものはただのビタミン剤だったから。
「ごめん、さゆり。その、どうするの?」
「浬はどうして欲しい?」
「……産んで欲しい」
自分の一方的な独占欲が暴走した結果、さゆりの意思も確認せずにこうなってしまったことを今更ながらに後悔した。なんて自分は愚かで最低なのだろうと思った。さゆりの顔が見られないでいると、彼女はそっと僕の手に触れる。
「良かった。私も産みたいと思っていたから」
「さゆり……」
「大丈夫よ」
微笑むさゆりを抱きしめた。自分の犯した罪を一生償うつもりで彼女とお腹の子を守ることを誓った。そして、母と向き合う覚悟も決めた。自分はもう母の望むようには生きられない。たとえ母を壊すことになってしまったとしても、これ以上自分を偽って生きることはできない。
さゆりは白雪家から一人メイドを呼んだ。幼少期からさゆりの世話をしてきた養母のような存在だという。そんな相手に妊娠したことは話したが、父親が誰なのかは明かさなかった。メイドは何度も尋ねたらしいが、頑なに口を割らなかった。私もメイドとの接触には気をつけた。透などはメイドの姿を見つけるとさゆりの様子を聞きたがったが、私はなるべく避けた。さゆりに会いに行く時もメイドや他の生徒と鉢合わせないように細心の注意を払った。
「両親には話した?」
「いずれは話すわ」
「まさか黙って産むつもり?」
「今話せば白雪の体裁を気にして堕ろせと言う可能性がある。どうせ私に興味ないんだし、事後報告でいいわよ」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、メイドの母親が助産師さんだから出産の時は助けてもらうつもり。彼女は信頼できるし、大丈夫よ」
そう言って笑うさゆりを強く抱きしめる。
「何かあったら言って。できる限りのことはするから」
「ありがとう」
「それから、さゆり」
「言わないで」
さゆりは言いかけた僕の唇に人差し指を当てた。
「これは私が自分で決めたことなの」
「さゆり……」
もしかしたらさゆりは、気づいていたのかもしれない。あの時渡したものがピルではなかったことに。本当はさゆりのことを利用しようとしていたことも、知っていたのかもしれない。
今は違う、本気でさゆりを愛している。あんな馬鹿なことを考えていた自分を殴り飛ばしたいくらいには後悔している。いや、後悔しているのは今もだ。本当にこれでいいのか、今もずっと迷いが消えない。だが結局男と知られることを恐れる自分が狡くて情けない。
「ちゃんと計算できてるかわからないから多分だけど、この子が産まれるのは卒業前になりそうなの」
さゆりのお腹はもう随分と膨らんでいた。
「卒業式には出られないかもしれないわね」
「その時は僕も出ない」
「ダメよ、浬はちゃんと卒業しなきゃ」
「でも、」
「渚としてちゃんと卒業して、お母さまに話すのはその後にするって言ったでしょう?」
「だけど卒業前に産まれるならもっと前に言うべきだよ。さゆりのご両親にも」
「ダメ、産まれてから」
何故かさゆりはそこだけは譲らなかった。
「きっとお母さまはあなたの卒業式を楽しみにされているわ。最後に晴れ姿を見せて、“渚”からは卒業してもらいましょう」
「……わかった」
その時、ドアの向こうから「さゆりお嬢様」という声が聞こえた。どうやらメイドが帰って来てしまったらしい。「ちょっと待って」とさゆりが返事をして、僕のことは窓から逃がしてくれた。
「明日は課外授業なのよね。あなたは行くの?」
「いや残るつもりだよ」
「じゃあ明日も会える?」
「うん、会いに行く」
「だったら十五時頃に来て」
「十五時? わかった」
「それからね」
さゆりが手招きするので顔を寄せると、耳元で囁いた。
「――ごめんね?」
えっ、と思ってさゆりの顔を見た。さゆりは何とも言えない微笑みを浮かべていた。
「どういうこと?」
「明日ちゃんと話すから」
さゆりがそう言うので仕方なくその日は帰った。それが最後に見たさゆりの姿だった。
翌日誰もいなくなっただろうことを確認し、白百合寮に向かった。十五時と言われていたのに三十分も早く来てしまったのは、さゆりの言っていたことがどうしても気になったからだ。さゆりの部屋のドアは少しだけ開いていた。「さゆり」と呼びかけてみたが返事がなかった。もしかして部屋から出ているのかもしれない。たまにストールを巻いて体型を隠して部屋から出ると言っていたので、今もそうなのだろうと思った。中には入らずに出直すことにした。そして佳乃子の悲鳴を聞きつけ、あの惨状を目撃したのだった――。



