あっという間に放課後になり、一日が終わった。
 と言ってもこれから部活動見学が始まるのだけれど、わたしは病気のこともあり、お母さんに部活には入らないほうが良いと勧められているため、このまま帰宅する予定だ。
 何かあってからじゃ遅い。そのことはよく分かっているから。
 帰宅の準備を済ませて教室を出ようとすると、「こころちゃん!」という絵莉ちゃんの声がした。

 「こころちゃん、もしかしてもう部活見学行くの?」

 「ううん、わたしはもう帰ろうかと思って。高校では部活入らないって決めてたんだ」

 中学の頃、わたしは吹奏楽部に所属していた。
 けれどパニック障害が発覚してから、幽霊部員となり、終いには部活を辞めた。
 嫌な過去を思い出してしまい、わたしは頭のなかからその記憶を打ち消す。

 「そうなんだ。わたしね、中学のころも吹部だったから吹部に行こうかと思ってるんだ」

 「……え、吹奏楽……」

 ……わたしと、一緒だ。絵莉ちゃんには聞こえていなかったけれど、思わずそう呟いてしまった。
 確かに吹部は、絵莉ちゃんのイメージっぽいかも。
 そう思っていたら、絵莉ちゃんが突然わたしの肩をぎゅっと握った。

 「へ? え、絵莉ちゃん?」

 「お願い、こころちゃん。今日だけでもいいから、部活見学一緒に来てほしいの! ひとりだと心細くて」

 「……っ」

 わたしは言葉に詰まった。
 ……どうしよう。
 部活に入る気がない。それに遅くなるとお母さんにまた心配されてしまう。
 だけどこの頼みを断ったら、せっかくできた友達を失ってしまうかもしれない。きっと絵莉ちゃんは、わたしなんかよりも他にたくさん友達ができるだろうから。
 ……そしたらわたしは、またひとりぼっちになるーー。
 そう思い、わたしは頷くしかなかった。

 「本当に!? ありがとう、こころちゃん!」

 「……うん」

 「行こう!」

 吹部の部室は、ひとつ上の階の四階にあった。
 部室に近づくにつれ、さまざまな楽器の音色が耳に響く。
 ……あぁ、何だか懐かしいな。
 ほぼ一年と数ヶ月しか部活に参加しなかったけれど、改めてやっぱり吹部は青春だと思う。
 高校の吹部はどんな感じなんだろうか。

 「失礼します」

 そう言ってわたしと絵莉ちゃんが部室に足を踏み入れると、すぐにひとりの女性がわたしたちのもとに来てくれた。
 ……緑のリボン。ということは、三年生だ。
 わたしたち一年生のリボンは赤、二年生は青、三年生は緑と決まっている。

 「初めまして! 部長の中澤 里奈です! 新入生? 見学だよね?」

 「はい。一年の穂村絵莉です」

 「ま、真中こころです」

 絵莉ちゃんに続いて、わたしも名前を口にした。
 部長は「絵莉ちゃんと、こころちゃんね!」と言って笑顔を向けてくれた。

 「よろしくね。ふたりとも楽器はやったことある?」

 「はい。わたしは中学のとき、アルトサックスをやってました」

 アルトサクソフォン、略称アルトサックス。木管楽器で、目立つソロパートが多く、クラシックやジャズでの重要楽器だ。
 ……確かに、絵莉ちゃんはサックスっぽいなぁ。
 そう思っていると、部長から「こころちゃんは?」と聞かれた。

 「えっと……わたしは中学のときトランペットをやってました。でも訳あって、あんまり部活に行けなくて」

 理由は深く言わないようにしたけれど、絵莉ちゃんに何があったのか聞かれてしまうかもしれない。

 「えっ、こころちゃんも吹部だったの!?」

 「え……う、うん」

 「えぇ、言ってくれればいいのにー!」

 そう心配していたけれど、絵莉ちゃんはわたしが吹部に所属していたことに驚いていた。

 「あははっ、ふたりとも面白いね! 今日はパート練習してるから、ぜひ気になる楽器のところ見学してみて」

 「分かりました!」

 「は……はい!」

 パート練習とは、同じ楽器のメンバーだけで練習すること。
 ……どうしようかな。やっぱりせっかく見学に来たからにはトランペット見ようかな。

 「こころちゃんはトランペット? わたしはサックス見てくるね!」

 「うん、分かった。わたしはトランペット行くね」

 そう絵莉ちゃんに言うと、グイッと部長に手を引っ張られた。

 「……へ?」

 「そっか、こころちゃんトランペットか。あのね、わたしもトランペットなの。よろしくね」

 「え、そうだったんですか」

 部長がトランペットパートだったなんて。一気に親近感が湧いた。
 わたしは部長と一緒に、トランペットパートが練習している教室へ行くことにした。

 「愛良ちゃーん。新入生の見学だって! しかもトランペット!」

 「……はぁ、新入生。どうも」

 部長が“愛良”と呼ぶその人は、高い位置で結ぶポニーテールが目立つ、クールで凛とした感じの人だった。
 リボンの色は、青。ということは二年生だ。

 「真中こころちゃん。中学ではトランペットやってたんだって。こころちゃん、この子は二年の松嶋 愛良ちゃん」

 「は、初めまして。真中こころです」

 「……よろしく」

 返事が素っ気ないなと思ったその瞬間。
 松嶋先輩が吹いた、トランペットの音色が教室に響いた。
 まるで“自分の音を聴いて”と言っているように。
 ……すごい。この人、プロと同じくらい上手い。
 そう思っていたら、部長はトランペットで基礎練習の音階を吹いた。部長も綺麗な音をしているけれど、先ほどの松嶋先輩の音をわたしは忘れられなかった。

 「愛良ちゃんトランペット上手だよねー。小学校のときからやってたんだって。あたしは高校から始めたから全然敵わないんだ」

 「た、確かに松嶋先輩は上手だと思いました。でもわたしからしたら中澤部長も上手です」

 「本当に? ありがとう。ていうか普通に名前で先輩って呼んで」

 「分かりました。里奈、先輩」

 何だか先輩の名前を呼ぶという行為が中学校のとき以来で、こそばゆい気持ちになる。 

 「あ、そうだ。あたし顧問の先生に呼ばれてて、行かなくちゃいけないんだった。愛良ちゃん、後は頼むね」

 「はい」

 そう言って里奈先輩は教室を後にした。
 わたしと松嶋先輩の、ふたりきり。
 ……どうしよう。何か話しかけたほうがいいかな。
 そう思っていると、「ねぇ」と松嶋先輩に声を掛けられた。

 「ちょっと吹いてみて」

 「……え」

 「はい、マウスピース」

 わたしは強引にマウスピースとトランペットを渡されてしまった。
 ……吹くしか、ないよね。
 マウスピースを口につけて、息を大きく吸い、唇を震わせて音を出す。
 久しぶりに吹いたその音は、何だか清々しい音がした。

 「……ふーん。まぁまぁなんじゃない? 少なくとも中澤先輩よりは上手いかな」

 「えっ」

 松嶋先輩……いま、わたしのことを里奈先輩より上手いって言った?
 確かに、こんな上手い先輩に認められたことは素直に嬉しい。
 だけど、あんなふうに先輩のことを貶すなんて信じられなかった。

 「あんたいま、何で先輩のことを貶すんだろうって思ったでしょ」

 「……っ、い、いえ、そんなこと」

 「そりゃあ思うよね。でもあんたもあたしの立場になれば分かるよ。あたしは……中澤先輩のこと、嫌ってるんだ」

 そう言った松嶋先輩の瞳は、何だかわたしまで切なくなった。
 ……きっと何か理由があるんだ。
 そんな松嶋先輩のことを、少しだけかっこいいと思ってしまった。