【序章】踵の痛い革靴
正直、気は乗らなかった。
賀集夏芽、十五歳。父親の転勤がきっかけで、東京都に引っ越しが決まった。夏芽としては、生まれ育った静岡の地での高校生活というのも悪くないと思ったし、積極的すぎると音に聞く都会の人間との交流で新しい人間関係を一から築かなければならないのだと考えると、少し憂鬱だった。夏芽は元来引っ込み思案で一人でも平気な性格である。
しかし、ごく一般的な家庭の一人息子として育てられてきた夏芽が、中学卒業後にいきなり一人暮らしというのも現実的でないことは事実だった。親戚の家に頼るのも悪い。話し合いの結果、夏芽は東京の私立校に編入することを決めた。そして、無事に編入試験もクリアしたのだった。
「……前髪、変じゃない、よね?」
目の前の自分は眉を下げながら、指で前髪を整えている。傍らには最近話題の男性モデルが表紙にありありと映されたファッション誌が置いてあり、そのモデルの髪型と今の夏芽の髪型はそっくりのスタイル……の、はずだ。多分。変じゃない、きっと。顔面のつくりの差はあるものの、今の夏芽だって髪型ではこのモデルや他の男子学生と比べても遜色ない。と、思いたい。
「なっちゃーん、朝ごはんー」
「あっ、はーい!」
母親に呼ばれ、洗面所からダイニングへと移動する。今日は白米を主食に焼き鮭と味噌汁とわかめサラダという、なんともスタンダードな朝食のようだ。三人分のグラスを置いた母が、席に座るよう促した後、訊ねてくる。
「今日はお弁当ないんだよね?」
「うん、入学式とガイダンスだけだよ。っていうかマ……じゃなくて、お母さん。その『なっちゃん』って呼び方、恥ずかしいからやめてって言ったでしょ。思わず返事しちゃったけどさ。他の親の前でとか、特に気をつけてよね」
「ふふ、そうだね。もう高校生だもんね」
母の対応は、まだなんだか子ども扱いをしているような言い方だが、あまり食ってかかるのも子どもっぽく思えたので、やめた。大人しく「いただきます」と朝食を採り始めると、今度は向かいに座る父が口を開く。
「夏芽、悪いな。いきなりこっちに転勤になってしまって」
「いいよ、僕も私立に入ることになっちゃったし。父さんこそ頑張ってよ」
夏芽の気が乗らなかったのは本当だが、父にとっては栄転で、家族にとってもそれは喜ばしいことでもある。折角編入するなら、と私立校を選択したのは夏芽だった。まあ、幼稚舎からエスカレーター式が採用されている学校に受かってしまったのは失敗だったかもしれないが、それも仕方のないこと。なんにせよ、新天地で人間関係を築かなければならないことに変わりはない。決して安くない費用を託してくれた両親に感謝こそすれ、謝罪されることなどない。そんな気持ちを込めて微笑みかけると、父も表情を和らげた。そして、父子のやり取りを見守っていた母に視線を遣る。
「母さん。夏芽の写真、頼むよ。記念すべき一日目なんだから」
「任せて。とびきり可愛い写真を撮ってみせる!」
アルバム作りが趣味の母の持つカメラは上等のものだ。きっと身体がカチコチの夏芽の様子までばっちり映してしまうだろう。
どんな学生生活が始まるのか。できれば穏やかに過ごしたいものだが。
そんなことを思いながら、夏芽はキャベツを食む。しゃくっ、と小気味よい音が響いた。
――私立翠清学園高等部。賀集家の新居から徒歩二十分のターミナル駅・八熊手駅から、三十分電車に揺られ翠清駅という所で下り、十分程歩いて高級住宅街を抜けた先に、その学園はある。校舎の様相は学費に見合い善美で、夏芽の通っていた中学校のそれとは月と鼈である。
入学式の立看板の横に立たされ、八分咲きの桜とともに撮影をされる。この瞬間は、少しだけ恥ずかしくなるから気は進まないが、夏芽はそこまで母に逆らえる性格はしていない。そもそも父に頼まれており、ただでさえ気合十分な母の迫力を前に、争う気など毛頭ないのだ。
「はい、可愛い。どう?」
見せられた画面に映っている自分は、今朝鏡で見たものとそう変わりはないものの、成長を見込んで僅かに大きいサイズの制服を着ている。着られている、感は否めないが。
「髪、変になってなくてよかった」
「ええ、髪?」
そこに触れるのはやめて、別の感想を口にした。春風が強く、折角セットした髪が崩れるのは格好悪いと心配していたのだ。だが特に問題はないようで良かった。
母とはここで別れ、先に教室に向かう。夏芽はA組、廊下から二列目、前から二番目の席を指定されている。教室に向かう足を進める度、ドクンドクンと心臓が大きく脈打つ。手汗がじわりと浮き上がる感覚に、自分の緊張をさとった。
(ここにいるのは、今までの僕を知らない人。だから、大丈夫。これから僕は、どんな高校生にもなれる)
深呼吸して、自己暗示をかける。もう一つ深呼吸をした後、覚悟を決めて教室の扉を開けた。
その瞬間、いくつかの視線を向けられたが、それらはすぐに失われた。男子も女子も、とっくにグループを形成しており、その中でのおしゃべりに夢中なのだ。仕方がない、仕方がない。
そう自分に言い聞かせながら目線を下ろし自分の席に向かうと、左側から声が上がった。
「おっ、オマエ、編入組のやつでしょ?」
「ひょいっ⁉」
「ひょい?」
つい間抜けな声が漏れてしまったが、教室に反響するほどではなかったようで安堵する。気を取り直して、声をかけてくれた男子に向き合う。三人組の中の一人が、興味を含んだ視線で夏芽を見ていた。夏芽より少し背が高く、顔立ちや居住まいから爽やかな印象を受ける男子だ。
「あっ、そ、そうです」
「やっぱね。オレ、剣持。剣持侑士。オマエの後ろの席ね」
「あ、後ろの……。えっと、僕、賀集、です。賀集夏芽」
「あー。あのカシューナッツって、オマエか」
「……好物は、甘納豆、です」
「ははっ、面白れーの」
ナッツって呼んでいい? と伺いを立てるように訊かれ、ぶんぶんと首を縦に振る。この剣持という生徒は、明るくて人懐っこくて、所作が犬っぽい男子だ。いきなり渾名で呼ばれるとは思わなんだが、話しかけてくれる人がいるのは嬉しいことだ。「なっちゃん」よりは恥ずかしくない。
剣持が続けて他の二人を紹介してくれる。
「こっちの涙黒子のあるのが広瀬で、こっちの顔が怖いのが山岡ね。好きなように呼んでよ」
「広瀬、歩です。よろしく」
「おい剣持、顔が怖いは余計だろ。……山岡潤一だ、よろしく、賀集」
「う、うん! よろしくお願いします」
広瀬は穏やかというか控え目な印象で、山岡は確かに精悍な顔つきをしており身体も逞しいが、見かけの通りの人物、というわけではないようだ。第一印象に過ぎないが、皆優しそうで良かったと、胸をなでおろす。もう手汗も止まった。
小さく呼吸して、夏芽は剣持に訊いた。
「あ、あの……剣持くん。さっき、カシューナッツって……」
「うん。オレたちはエスカレーターで学年上がってきてっから、先月配られた新名簿見て、『カシューナッツみたいな名前の編入生がくる』ってちょっと話題になったんだよね」
ちょっと話題になった――若干不安になる言い回しだ。浮いている、ということでなければいいが。
黙ってしまった夏芽を見て、すかさず山岡がフォローを入れる。
「心配するなよ、皆揶揄ってるわけじゃない。とっつきやすいってことだ」
「あ……うん。ありがとう、山岡くん」
「ふふ。僕、賀集くんのさっきの自己紹介、いいなと思ったよ」
「そそ。それにオレ、シンパシー感じたし」
「シンパシー?」
剣持に聞き返した夏芽だったが、それは教室の扉が開いた音によって遮られた。
「皆さん、席に着いて。ホームルームを始めます」
凛とした女性の声に、好き勝手に話していたクラスメイトたちは各々の席に戻る。広瀬と山岡を見送り、夏芽と剣持も前後で座った。教卓に出席簿を置いた女性の名前は、確か……。
「皆さん、ご入学おめでとうございます。今日から一年、このA組の担任になります。野村明里です」
そう、野村先生だ。クラスメイトの雰囲気から、彼女の着任は喜ばれているようだった。つり目と高い位置で結ばれた髪、そしてその口調は、野村がしっかりした性格であることを窺わせる。
「それじゃあ、入学式の資料を配りますので、この三点が入っているか確認してください」
――入学式中に犯罪組織が乱入……することはなく、式は恙なく終わった。保護者たちは先に帰ったり生徒を待ったり、それぞれ過ごしている。夏芽たち生徒は、教室でガイダンスだ。授業のカリキュラムを聞いた後は、いよいよ。
「では次に、クラス内で委員会と係を決めます」
野村の言葉にざわめく教室。夏芽もなんだかもぞもぞと居住まいを正してしまった。少なくとも一人一つ、委員会か係に必ず入らなければならないというのがルールだが、夏芽は決めかねていた。委員会のノウハウは把握していないので、できれば教科毎の係で安牌な仕事をしたいとは思うが、新参者の自分がいきなり何かに立候補するのは悪目立ちしてしまうだろうか。
夏芽が悶々と考えているうちに、黒板にすべての委員会と係の名称が書かれてしまった。
「まず推薦を訊いておきましょう。何か案はありますか」
「はーい! 東堂は保体係がいいと思いまーす!」
「さんせーい」
「オレも賛成ー」
いきなり手を挙げた男子生徒の提案に、男女何人もの生徒が賛成する。その勢いに、夏芽の肩が僅かに跳ねた。東堂、とは誰だっただろうか。
野村の表情が曇る。その視線は、夏芽の斜め後ろの方に向けられた。
「ええと、東堂さん。いいかしら?」
「――なんだ、お前らそんなに俺にシてほしいのかよ、保体係」
低く、どこか艶のある声が後ろから聞こえてきて、今度は夏芽の心臓が跳ねる。弾かれたように振り返ると、クラスの注目を一身に受けている男子生徒がいた。
ウルフカット、といっただろうか、夏芽には一生似合わなさそうな髪型をなんでもないことのように整えた、座っていてもわかる大柄な男子。山岡にも劣らない大きさだろうが、その顔立ちは山岡の厳ついイメージとは違って美しい。彼のあの柳眉とつりがちな切れ長の目で睨まれたら、それはそれで恐ろしそうだが。今はその薄いが形の良い唇が、愉悦を湛えていた。
「いっとけよ、東堂!」
「保体係といえば椿希でしょ!」
東堂……東堂椿希だ。思い出した。
他の生徒から口々に薦められる東堂は、明らかにクラスの中心人物として夏芽の目に映った。何故こうも推されているのか、理由はわからないが。数々の推薦を受けた東堂が、ひらひらと手を振った。
「しゃーねーな。ご期待には応えてやりますか」
「……わかりました。では、一人は東堂さんにお願いします」
「おー、東堂よろしくー」
「いえーい」
「皆さん、静かに。他に推薦は?」
それから、たまに静かになって、たまに騒いで、着々と委員と係が決められていったのだった。
「あー、終わった終わったー。お疲れー、ナッツ」
「ふふ。お疲れさま、剣持くん」
ぐっと背伸びをして、気の抜けた声を出す剣持に労いの言葉を返す。確かに初日で緊張したが、話されたカリキュラムは夏芽にとってやりがいがありそうなものだった。それに、このクラスでの夏芽の役割も決まった以上はやり遂げなければならない。
「どう? 園芸係、頑張れそ?」
「あ……うん。サボテンの世話なら家でよくやっているから」
夏芽は立候補のいなかった園芸係になった。一クラスで一つ、中庭にある花壇の世話をするのが係の仕事だ。夏芽の他に、新宮真帆という女生徒が係になっていた。
「サボテンて。ま、もう一人の子も良い子だから心配しなくていいよ。そーいやナッツは部活、もう決めてんの?」
部活。そうだ、部活も問題の一つだったと思い出す。首を横に振ると、ふうんと鼻を鳴らす剣持。夏芽と剣持の机に、山岡と広瀬が寄ってくる。どうやら山岡はテニス部で、広瀬は吹奏楽部らしい。今からでは運動部は厳しいだろうか。技術的にも、人間関係的にも。
「剣持くんは何部なの?」
「『名前は剣道部、実際は写真部。その名は剣持侑士!』、ってね。名前はカシューナッツでも、甘納豆好きなナッツと似てるだろ?」
「なるほど……」
シンパシーとはこれのことか、と合点がいった。テニス部、吹奏楽部、写真部のいずれかなら、少なくとも一人は話せる人がいて安心できる。
(ああ、そういえば)
そこで思い返したことがあり、夏芽はそれをそのまま訊ねてみることにした。
「さっき、やけに保健体育係に推されていた……東堂くん? って、一体……」
「あー、東堂はねえ。ま、色々あるんだよ」
「幼稚舎からずっとこの学園にいるね」
「あいつは今どの部にも所属していない」
三人から得た情報は深くはなかったが、この三人は保体係に彼を推してはいなかったと記憶している。そういうノリにのらない性格なのかもしれない。剣持がのらなかったのは少し意外だったが。
否、きっと夏芽も東堂のようなクラスの中心人物に関わることはないだろうから、これ以上知る必要もない。
これからの学生生活に思いを馳せながら、ふと時計を見るともうすぐ十二時に差し掛かるところだった。
「あ、ごめん、皆。お母さんと待ち合わせしてるから、もう行くね」
「そっか。じゃあまた明日、ナッツ」
また明日、と山岡と広瀬にも言われ、夏芽も元気よく挨拶を返す。教室を飛び出した夏芽の足取りは軽い。早くもよいクラスメイトに恵まれ、浮足立つ心地になるのは当然だった。
校舎の外には、カメラを確認している母の姿。夏芽は迷わず駆け寄った。
「お母さん、お待たせ」
「夏芽、お疲れ。写真一杯撮っちゃった」
「そんなに撮るものあったかなあ」
母と並んで、外食のための店を探しながら歩く。夏芽にはなんだかんだファミリーレストランがお気に入りだが、母はフレンチの気分のようだ。
「お友だちできた?」
「うん。三人も」
「へえ、順調な滑り出し」
順調、だろうか。そうだったらいいなと思う。張り切っていかなければ。
母に気づかれないように、その傍らで静かに意気込んだ夏芽だった。
【四月】ドキドキ、東堂くん!
「手伝ってくれてありがとう、賀集くん」
「ううん、僕も園芸係の一員なんだから、当たり前だよ」
一年A組の花壇の前で、賀集夏芽は新宮真帆にそう返答した。おさげ髪の少女は大人しく、夏芽と似たタイプで話しやすい。
「こういうのって、結構力仕事だから、女の子だけだと大変なこともあるよね」
「あはは。でも、賀集くんが一緒でよかった。でも、頑張りすぎないでね」
「うん、新宮さんこそ」
友人と約束があるという新宮を先に見送り、夏芽も腰を上げる。
新天地での新生活が始まってから、二週間が経った。少しずつ新しいルーティンが構築されていく時期だが、夏芽にとってこれがかなり大変なことだった。
新宮を始め女子と話すのは相当緊張する。今だって手汗を悟られないようにするのに必死になっていたのだ。多分、男の子と同じように接することができていたと思うけれど。いくら外見を変えてみようが、夏芽の性根が変わることはない。
ふっと息を吐いた直後、背の方に気配を感じた。
「ナッツ、こっち向いて」
「はい?」
言われるがまま振り向いて自然な笑顔を浮かべると、ぱしゃり。軽快な音が響いた。カメラを構えていたのは、夏芽の高校生活初めての友人、剣持侑士だった。
「お、イイ顔してくれんねー。撮られ慣れてる?」
「えっと、昔から両親がやたら撮るからさ」
「ふーん。なんかいいね、それ」
ニコッとこちらも自然な笑みを向けられる。剣持の笑顔は愛嬌があって好きだと、夏芽は思う。だから彼の言葉も、世辞ではなくて本心で言ってくれたと信じたい。
ところで、剣持はどうしてここにいるのだろう。
「オレは部活。学校にある素敵なものを撮って来るのが今月の課題だからさ」
「なるほど、写真部ってそうなんだ」
『素敵なもの』とは随分と曖昧なお題だが、写真部にしてみるとこのくらい抽象的なテーマが多いらしい。夏芽には両親や剣持たち写真部員ほど、撮りたいという衝動に駆られた事物に遭遇したことはないが、いずれ彼らの感覚もわかるだろうか。そんなことを思いながら、汚れた軍手を外す。
「ナッツは結局、部活どうすんの?」
「うん……まだ考え中、かな。とにかくこの生活に慣れるところからと思って」
「真面目だなー」
カメラを首に提げた剣持は、言いながら両手を頭の後ろにまわす。その表情が、一瞬にして強張ったことに、夏芽は少し戸惑った。
「真面目なのも良いと思うけどさ。あんまり張り切りすぎて倒れるなよ?」
「あ……、新宮さんにも似たようなこと言われたよ。僕ってそんなに危なっかしいかな?」
「んー……ま、そうだね」
「えっ」
ショックだ。自分の行動はクラスメイトにそう見えていたのか。だが、たとえ頑張りすぎるなと言われても、夏芽には不可能だ。ただでさえ夏芽は最近まで故郷で暮らしていて、しかもこの名門学校の編入生になった。多少頑張らなければ、ここでの生活にすぐ慣れることもできない。そのためなら無理など厭わないが、その姿が危なっかしいとなると――クラスメイトに気づかれないように行動しなければならない。
「ごめんね、余計な心配かけないようにするよ」
「いや……うん」
剣持の反応の意味がよくわからず、夏芽は内心首を傾げる。だが剣持には夏芽が理解していないことがわかってしまったのか、何とも言えない表情で黙ってしまった。どことなく気まずい空気が流れるのに耐えきれず、慌てて違うことを尋ねる。
「剣持くんはこの後どうするの?」
「オレはもう少し校内で撮影する。ナッツは?」
「えっと、今日はもう帰るよ」
そう告げると、剣持の表情が少し緩んだ。夏芽もそれに安堵する。
「そっか。じゃ、気を付けて」
「うん。また明日ね、剣持くん」
「また明日」
✻
カーテンの隙間から光が溢れている。翌朝、自室のベッドで目を覚ました夏芽だったが、どうにも起き上がるのが億劫に思えた。
(なんか身体が怠いな……。夜更かししちゃったからかな……?)
夏芽は考える。確かに昨晩は帰ってきてから夕飯を食べ、風呂から上がって以降ずっと授業の予習・復習をしていた。そして気がついたら時計はとっくに丑三つ時を示していて、慌てて布団に入ったのだ。だが目が冴えてしまって、目を閉じても数式や文章が瞼の裏をぐるぐると廻るから、結局いつ眠れたのかよく覚えていない。勉強しなければよかったとは思わないが、迂闊ではあった。今日こそ早めに寝ようと考えていたのに。このところずっとそうだ。
深い溜め息を吐くと同時、リビングの方から母の声が飛んできた。
「夏芽ー、早く準備しちゃってー」
「あ……はあい」
応える声は、自分でも間抜けなものに聞こえた。身体のだるさは誤魔化しようもないが、ずるずるとベッドを下りて、足を引きずりながら自室を出る。
顔を洗った、鏡の中の自分はどうにも冴えない。生えかけの鬚を剃った後、髪型をセットするのは気が進まなくて、寝癖を直す程度に留める。それから母の化粧品を借りて、血色がよくなるメイクをして、隈も消した。これで普段通りの顔に見える、はずだ。まだ頭はぼうっとしているが。
ダイニングに向かうと、母がいつもの調子で弁当箱を突き出してきた。
「おはよう、夏芽。はい、お弁当ね」
「おはよう。ありがとう」
それをカバンにしまってから、夏芽は椅子に座る。いただきますと手を合わせ、並べられた洋食の朝ごはんを、ちびちびと食べる。
父はもう仕事に出た。なるべく早い電車で混雑を避けたいらしい。母は在宅勤務なので食事の用意は基本母に任されている。夏芽も家事を手伝いたい、暮らしの術を学びたいと思うが、まだこの生活に慣れるまではそれも叶いそうにない。ああ、「僕はもう大丈夫だ」と言いたいのに。
「夏芽? どうしたの、具合悪い?」
「えっ?」
いつの間にか近くに来て顔を覗き込んでいた母の言葉に、夏芽の肩が跳ねる。夏芽は今具合が悪い、のだろうか。否、きっと寝不足なだけだ。
「いや、大丈夫だよ」
「そう? 最近遅くまで起きてるみたいだけど」
「……うん、まあ寝不足ではある、かも。でも、授業中は寝ないから!」
事実を打ち明けると、母は釈然としなさそうにしながらも、何かあったら連絡するようにと言ってきた。素直に頷き、食事を再開する。
それにしても、母に指摘されてしまうとは。学校で悟られないように、更に気をつけなければならない。決意を新たに、スクランブルエッグをかき込んだ。皿で隠したからか、それ以上母に追及されることはなかった。
通勤ラッシュに呑まれ、学校に着くころには足元が覚束なくなっていた。夏芽の故郷では、これほど人がごった返す電車などほとんどなかった。東京に比べればどこも可愛いものだろうが、あまり気分は良くない。それでも乗るしかないのだから、仕方ないのだけれど。
高等部一年の教室は昇降口からすぐそこなのに、それまでの一歩一歩が、今日はやけに遠く感じる。まだ着かないのだろうか。早く腰を落ち着けたい。というか、寝たい。
(いやいや、だめだ……寝たらだめなんだよ……)
そうだ、寝る間も惜しまなければ、遅れをとってしまう。心配させてしまう。睡魔を払うため首を横に振ったが、思ったより力が入らない。そして頭が重い。何故か、眼前が明るくなったり、暗くなったりする。
(あ……目、開けていられない、のか)
そう、自覚した。自覚してしまった途端。
夏芽の意識は遠のいた。
✻
温かな風が、カーテンと踊る音。馴染みのない、どこかツンとしたにおい。
夏芽の耳と鼻が、真っ先に周りの環境を訴えてくる。それからようやく夏芽の目が開かれ、その情報の出所を探る――
「お、目が覚めたかよ」
「⁉」
その前に、傍らから飛んできた低い声に、それはそれは大きく身体が跳ねた。その反応を勘違いされたのか、血管の浮き出た逞しい腕がこちらを制するように差し出される。
「あー、まだ身体起こさなくて良いって」
「と、東堂、くん……? どうして……」
夏芽のそばにいたのは、クラスメイトの東堂椿希だった。夏芽が一生することのないであろうミディアムウルフカットの髪型、長い睫毛に縁どられた鋭い目、薄いが形の良い唇、よく通った鼻筋、座っていてもわかる大柄な体躯――近くで見ると一層迫力がある。その雰囲気に委縮して、他の同級生たちのように気軽に、気楽に彼と話しにいけるほどの性格を、夏芽はしていなかった。
そう、この二週間、東堂との接点は無かったのだ。それなのに、何故東堂がこんな至近距離にいるのだろう。呆然とする夏芽の問いに、東堂の方は然して何でもないことのように答える。
「お前が廊下で倒れたっていうから、保健室運んで面倒見てたんだよ。俺、保体係だし」
「僕が倒れ……、えっ、僕が倒れた⁉」
俄かには信じられなかった。ここが保健室だということも、今まで寝ていたことも忘れ、大声が飛び出してくる。その声は若干掠れていた。
しかし重要なのはそこではない。廊下で倒れた、だって? それじゃあ、教室に着いてさえいないじゃないか。
「今何時⁉ もう一限始まって――」
「今は昼休みだ。十二時半」
「う、うそ……」
口では反射的にそう言ったものの、東堂の指差した先に掛けてある時計は、東堂の告げた通りの時刻を示していた。途端に力が抜ける。朝のホームルームにも参加できず、四時間もぐっすり眠ってしまったようだ。なんたる失態、なんたる絶望。また意識が遠くなってきそうである。
「ど、どうしよう、何やってるんだろう僕、こんな……授業にも出られないで……」
「仕方ないだろ。お前、三十八度だったぞ、体温」
「え?」
「発熱をほったらかしにしてたんだから、当然だって言ってんだ」
発熱。東堂の口からは、予想だにしていない言葉がぽんぽん飛び出してくる。混乱しっぱなしの思考をなんとか落ち着かせながら、夏芽は情報をまとめようと試みた。つまり、夏芽が今朝から感じていただるさは発熱に由来するもので、倒れたのも発熱が原因?
夏芽の推察に、東堂が緩く首を横に振る。
「部分的には合ってるが、違うな。お前が発熱したのは、端的に言やあ、お前の頑張りすぎが原因だ」
「が、頑張りすぎ……?」
理由がピンと来ず首を傾げる。その様子を見た東堂は、極めて静かに、極めて淡々とした口調で補足してくれた。
「新学期や新年度が始まると、一定数いるんだよな。新しい環境に慣れなくて、体調を崩すやつとか、適応しようとして気張りすぎるやつ。お前は後者ってわけだ。ただでさえ、春は寒暖差だの花粉だので、体調が崩れやすい」
「……」
「激務でメンタルまでやられて、最悪電車に飛び込むなんてこともある。お前みたいに体調に出た方が、わかりやすくて処置もより適切にできる」
東堂の言葉は尤もだ。指摘の通り、夏芽は一刻も早く新しい環境に適応しようと努めていた。それが原因だと言われたとしても……。
「……でも、僕、皆より頑張らなきゃ。今頑張っておかないと、これからの生活が」
「これ以上頑張ったら、その『これからの生活』も無くなるかもしれねえけど?」
息を飲んだ。そこまで冷静に、率直に忠告されてしまうと、聞かざるを得ない。立ち止まってよく考えてみれば、これからの生活のために今心身を悪くするなんて、本末転倒もいいところである。どうして、そんな単純なことに気がつけなかったのだろう。
「お前の焦りが本物だった。本物だからこそ、盲目になってただけだ。そんで――」
ぐい、と。
一瞬、何が起きたかわからなかった。眼前に迫る美しい顔、片頬を包む大きな手。強制的に、吐息が混じり合いそうなほど、顔を合わせられたのだ。夏芽の身体に緊張が迸る。目の前の東堂の表情は、今までと全く変わらない。真剣な瞳がじっと夏芽のつまらない顔面を見つめて、口を開いた。
「お前、やっぱメイクで隈隠してるな。血色の悪さも」
「……っ!」
「他のやつの目は欺けても、俺は騙せねえから。覚えとけよ。またそれしたら、強制的にここ連れてきて寝かしつけてやるよ」
不敵に微笑まれて、夏芽は心臓がドキッと音を立てた、そんな錯覚に陥った。それを知ってか知らずか、それだけ言って離れた東堂は今まで座っていた回転椅子に再び腰を下ろす。まだドキドキはおさまらないが、夏芽はそれが悟られないように平静を装って東堂に言う。
「あの……東堂くん、ありがとう。すごいんだね、保健室の先生みたいだ」
「……別に、あのくらいは常識だろ」
「メイクで隠してるの、わかったのも?」
「……おー」
そうなのだろうか。確かにあんな、互いの呼吸がわかるほどの距離で凝視されてしまえば、メイクもバレてしまうかもしれないが、自分を診てくれたのは本心ですごいと思った。その辺の保体係も、東堂のように症状に詳しいのだろうか。
それにしても、今日は倒れて授業に出られなくなった代わりに、クラスメイトの知らない一面を知れたことは、不幸中の幸いと言えると思った。そうでなければ、遠くからの印象や噂だけで東堂の性格を決めつけたままでいるところだったのだ。
「優しいんだね。僕、誤解してたみたい。東堂くんって――」
「ソウイウ意味で遊び人って聞いてたから、か?」
びく、と身体が固まる。図星だ。剣持たち最初の友人以外のクラスメイトの会話からは、東堂のその手の話題が毎日のように聞こえてきた。しかしだからと言って女子生徒が東堂のことを悪く話していることもなく、不思議だったのだ。夏芽にとってその手の種類の人間は、チャラついていて人をいびるのが趣味、みたいな、関わりたくない相手に当てはまる。東堂もそうだった。というか、いつもクラスの中心にいるから、そもそも余所者の夏芽が関わり合いになれる相手ではない。そう決めつけて、話すことも無かったけれど。
だが、実際にこうして一対一で話してみると、存外話しやすく、そして優しい人だという印象を受けた。これが、所謂陽キャの距離感、なのだろうか。何にせよ、もっと怖い人だと思っていたが、そのイメージは取り払われた。
それを伝えようとしたが、夏芽の言葉は立ち上がった東堂によって遮られる。
「別にそれは嘘じゃねえ。お前も、あんま俺のこと信じない方がいいぜ?」
「え……?」
どういう意味、だろう。夏芽を見下ろす東堂の顔には陰が差していて、表情が上手く読み取れないが――
無言で見つめ合う二人。改めて聞き直そうと夏芽が口を開いた瞬間、しかし今度は勢いのよい扉の音で遮られてしまった。
「ナッツ! 起きた⁉ あ、起きてる!」
「剣持、静かに。ここは保健室だ」
「賀集くん、体調は大丈夫?」
保健室にわらわらとやって来たのは、剣持侑士、山岡潤一、広瀬歩のクラスメイト三人だった。心配をかけてしまったらしく声をかけようとしたが、その前に東堂がそばから離れ、入れ替わるように「じゃあな」と行ってしまった。先ほどの言葉の真意を聞きたかったが、今は諦めるしかないようである。そばに来てくれた三人に笑顔を向ける。
「寝たからかな、大分よくなったよ。ご心配おかけしました」
「ホントだよもー、倒れたって聞いてめっちゃ焦ったし」
「先生や東堂が診てくれたんだろう。どうだった」
「うん、知らない間に疲労が溜まってたみたい」
東堂が伝えてくれたことを簡潔に伝えると、三人は「やっぱり」と言いたげな顔をした。実際、言われた。心配させないよう頑張る姿を見せまいと決意したのに、この体たらく。自分が情けなく思えた。
「僕たちもいるんだから、これからは頼ってね」
「肝に銘じます……」
広瀬にまで穏やかに諭されてしまう。今回のことで懲りた。もう少し肩の重荷を下ろしてもいいのだろう。こうして支えてくれる人に、恵まれたのだから。
「あ……ねえ、東堂くんの連絡先って持ってる? メッセージでもお礼が言いたくて」
「クラスチャットから引き抜きでも良いと思うけど、後でアカウント送っておくよ」
剣持に感謝すると同時に、また扉が開いた。東堂が帰ってきてくれたのかと思ったが、違う。白衣を纏った五十代くらいの、品の良い女性。養護教諭の一人、鍋島佳代子先生だ。
「あらあ、起きたのね。体調はどうかしら」
「はい、かなり良くなりました」
「そう。でも、まだもう少し眠っていた方が良さそうねえ。担任の野村先生には伝えておくから、安心して休んでいきなさい」
「ありがとう、ございます」
授業に出られないということに一抹の罪悪感を覚えたが、それは自分のせいだからと折れる。するとそこで丁度チャイムが鳴る。昼休み終了まであと少しだ。
「オレら次教室移動だからもう行くな」
「もし五限とか、顔出せたら来いよ」
「でも無理は厳禁だからね」
「ありがとう、皆」
ベッドから友人たちを見送る。三人が扉を閉めた後、鍋島がこちらに向き直る。
「お昼は食べたのかしら?」
「あ……まだ、です」
「それなら、今食べてしまいなさい。眠るのにも体力がいるでしょう」
「はい……そうですね」
確かに、久々に空腹を覚えている気がする。それに、折角母が作ってくれた弁当だ。無駄にするわけにはいかない。のそのそとベッドから這い出た夏芽は、保健室の机を使わせてもらい、皆より遅い昼食を採ることにした。
弁当箱の中身はとうに冷たくなったはずなのに、なぜか温かく感じた。
結局たっぷり眠ってから早めに帰された夏芽は、無理をしたことを両親に叱られた。父には同時にこの生活を強いたことに関して謝られてしまったが、夏芽にとってそれが一番心に重く圧し掛かった。父の転勤が悪いなんてことは絶対にないのに。夏芽の頑張りすぎは、誰のためにもならなかったのだ。
風呂に入る前に剣持たちから今日の授業の内容を教えてもらった。それに従って教科書を軽く読んでいく。明日からはきちんと授業に参加しなれば。
(あ、そうだ。あとは……)
なんだか緊張してつい後回しにしてしまっていたが。教科書を閉じた夏芽は、自らのスマホを取り出した。チャットアプリを開けば、一番上に来るのは剣持とのトークルームで、そこには一つのアカウントが貼られている。名前は「東堂」――そう、東堂椿希の連絡先だ。
連絡先を送って貰ったのはいいものの、東堂に何と礼を言えばいいのか、考え続けて数時間が経過していた。保健室でも礼を言ったから、しつこいと思われてしまうだろうか。メッセージを送らなかったら送らなかったで、不快な思いをさせてしまうだろうか。そんな不安が、夏芽の指先を液晶から浮かせる。このまま悩んでいたら、また夜更かしコースになりそうだ。それではいけない。今日こそは早く眠らなければ。
よし、勇気を出して送ろう。
決意した夏芽は、何もやり取りのない東堂とのトークルームを開く。
(えっと……『賀集夏芽です。今日は本当にありがとうございました』……っと)
礼は簡潔に。くどいとは思われたくない。震えながら送信ボタンを押すと、ポコッと軽快な音とともにメッセージがトークルームに現れる。
これでよし、という気持ちと、送ってしまった、という気持ちが半分半分。画面を見ていられなくて、スマホを伏せた。現実から逃げるように、別のことを考える。東堂のアカウントのアイコンや背景が、初期設定のままであったのは少し意外だった。夏芽でさえアイコンはサボテンで、背景は富士山と桜の写真に設定しているのに。写真を撮りすぎて逆に何を設定したら良いのか決めかねている、とかだろうか。あり得る。だとしたら納得だ。
そんな考えは、ポコッという軽快な音に吹き飛ばされてしまった。スマホをひっくり返して見てみると、東堂とのトークルームを開いたままで。そこにメッセージが二つ返ってきていた。
『そんな何度も礼言われるようなことはしてねえけど』
『お大事に』
「……っ」
画面に表示された文字は無機質で、何も感じないはずなのに。どうしてか身体の芯からぶわりと熱くなった。そしてこれまたどうしてか、東堂に会いたくなった。
それ以上やり取りをすることが耐えられなくて、スマホの電源を落とし、ベッドに飛び込んだ。折角送信してすっきりした気分で眠れると思ったのに、今度は胸の高鳴りで眠れるか心配になってきた。でも、全く不愉快ではない。
(信じるなって言われたけど……教室でも話しかけたら、反応してくれるかな)
話してくれたらいいのに。そう願いながら目を閉じる。
「いい? 具合悪くなったらすぐに先生に言ってよ」
母に十分すぎるほど言い聞かせられた夏芽は、その翌朝も登校する。昨日たっぷり眠ったからか、昨日までの具合の悪さが嘘だったかのようだ。熱はまだ平常より僅かに高いが、それだけだ。両親と相談済みなので問題ない。
昨日は辿り着けなかった教室に、意気揚々と到着する。席にカバンを置いて、後ろの席の剣持と挨拶を交わす。
「ナッツ、今日は調子良いみたいだね」
「うん、バッチリ。あ、東堂くんのアカウントもありがとう」
「どういたしまして。礼は言えた?」
頷きを返す。一限の授業に必要なものを机に置いてから、教室を軽く見回してみるが、まだ東堂は来ていないようだ。夏芽がいつもより少し早く登校してしまったらしい。東堂が一人でいるタイミングなどあるかわからないが、それを見計らって声をかけてみよう。
「剣持くん、昨日の数学のこの問題なんだけど、聞いていい?」
「あー、おっけー。それはこの式を使って――」
この学校の生徒たちは皆優秀で、それは剣持も例外ではない。軽い口調とは裏腹に、剣持の教え方は丁寧でわかりやすい。山岡や広瀬もそうだ。皆が皆そういう調子であるから、夏芽も気が急いていたのだが……無理なく自分のペースでやると決めたのだ。もう焦らない。
十分程度昨日の授業のことを聞いていただろうか。俄かに教室が騒がしくなる。東堂、おはよう――そんな言葉が耳に飛び込んできて、反射的に扉の方を向いてしまった。
「はよ」
「おはよう、東堂くん」
「おーっす」
「椿希おはよー!」
相変わらずの人気だ。先ほど夏芽が教室に入ってきた時は大して反応しなかったクラスメイトたちが、東堂の登校には湧いている。それが現実だった。とはいえ、夏芽もまた東堂を待っていたうちの一人。視線で追ってしまうのも当然だ。
だが別の方向から夏芽への視線を感じる。ふっと振り返れば、頬杖をついてニマニマと笑っている剣持と目が合った。
「なーに、ナッツ。東堂のコト、気になっちゃったの?」
「えっ」
密やかな声で核心を突かれ、夏芽は固まる。気になっている、というのはそうだが、すぐに素直に認めるのは気恥ずかしさがあった。
「気になるなんて、そんなっ」
「別に隠さなくていいって。いや、隠せてもないけど。そっかあ、東堂ねえ」
「け、剣持くんっ」
隠せてない? 昨日までの頑張りすぎが剣持たちに見破られたように、そんなに自分はわかりやすいのか。それはそれで恥ずかしい。
剣持は夏芽が止めなくとも言いふらす気はないようで、だが愉快だと思っていることには違いないようだった。
「オレは後方腕組みで見守ってるから。相談くらいなら聞くよ?」
「ううう……お願い、します……」
そう言うしかなかった。恋愛初心者で、知り合ってから一日で、しかもその淡い想いを自覚したのは同性相手。手探りになるのは必至だ。相談できる友人がいるというのは実際ありがたい。
ちらりと東堂の方を見る。今日も今日とて何人もの男女に囲まれており、とても夏芽が入る隙があると思えない。
「東堂くんが一人の時ってある……?」
「そう考えると全然ないなー。ま、流石にトイレ行く時とかは一人だろうけど」
逆にそのタイミング以外、一人でいることがなさそうだというのは、夏芽にとっては驚きだ。流石自他ともに認める遊び人といったところか。人間、一人でいたい時間も少なからず必要だろうに、四六時中誰かといて疲れないのだろうかと思うのは、僻みに聞こえてしまうかもしれない。
「……でも、折角の一人の時間を、僕が妨害しちゃうのって、いいのかな……?」
「遠くから見るだけで満足なら、話しかけなくていいんじゃない?」
「よ、容赦ないね……」
だが的確だ。残念ながら、夏芽はそこまで健気ではない。東堂とお近づきになりたい。それ以降どうしたいなどは今考えることはできないが、それでも将来東堂にとって「クラスメイトにそんなやついたかもしれない」レベルの認知でいてほしくないとは思っている。少々肉食動物めいた言動をしなければ叶わないのなら、努力したい。
そう意気込んだ直後、「オレちょっとトイレ行ってくるわ」と声がした。東堂の声だ。剣持との会話が聞こえたのだろうかと一瞬ヒヤッとしたが、教室の騒がしさがあるためそれはないと冷静に指摘してくる友人。
「お誂え向きに一人になってくれたね、東堂」
「うん、僕も行ってくる!」
剣持に励まされ、教室を出た東堂を追う。廊下を曲がった所にある御手洗に向かう東堂の後ろから、思い切って呼んでみる。「東堂くん!」
振り返った東堂は、声をかけたのが夏芽だと知ると、意外だったのか僅かに目を見開いた。
「お前か。昨日の今日でどうした」
「え、えっと……東堂くんのおかげで元気になったよって、教えたくて」
「へえ。んじゃ、ちょっと診せてもらうけど?」
東堂が屈んで、その大きな手が夏芽の首の辺りに添えられる。昨日と同じように、至近距離に東堂の顔面が迫った。
(……ああ、この目だ……)
夏芽は思う。東堂が診察している時の、瞳。真剣で、光を集めて輝いて、どんな情報も逃さないというような瞳。それが、この世の何よりも素敵だと。視線が合うことはあまりなかったが、それでも夏芽はその瞳をずっと見つめていた。
少しして、東堂が離れた。
「平熱より高いが微熱よりは低い体温って感じか。隈もまだ完全には消えてねえな。けどまあ、確かに昨日よりは元気になってそうだな」
的確に今の夏芽の症状を言い当てる。この観察眼や知識があるからこそ、保体係に推薦されるのだろうか。夏芽なんかでは鏡を通して自分をじっくり見たとしても熱があるかなどわからないが。
「うん。メイクもしてないよ」
「見りゃわかるよ。けど油断すんな。一度体調を崩すと、その後も似た症状が出やすくなっから」
「えっ……それって、また悪くなったら、東堂くんが診てくれるの?」
思ったことが、ポロッと。本当にポロッとこぼれてしまって、発言した張本人である夏芽でさえそれに気がつくのが遅れた。
もしかして、もしかしなくても。自分は今、相当恥ずかしいことを口走ったのでは?
「あっ、あ、ごめん東堂くん! 今のは言葉の綾で! 別に進んで体調を悪くしようとか、そういうことじゃ――」
「お前、俺に診てほしいの?」
「え……?」
予想外のリアクションに、夏芽は意表を突かれぽかんとする。向かい合う東堂の表情は揶揄っているようでも嫌悪しているようでもなく、ただ凪いでいた。診てほしいというのは嘘ではないので、素直に頷く。
「う、うん」
「信じるなって言ったろ。そのうえで、なんでそんなこと思うわけ?」
「な、なんでって……えっと、東堂くんのこと、気になるから、かな……?」
「かな……?」ではなく、事実そうなのだが。それ以外に誤魔化しの言葉など咄嗟に出てくるはずもないので、つい言ってしまった。
東堂は何度か無言で瞬き思案する素振りを見せたが、やがて口角を上げた。
「そ、いーよ。また診てやってもいい」
「ほ、本当?」
「ただし、条件がある。俺にナニされても、文句言わねえってンならな」
「えっ……え?」
東堂の答えは夏芽を混乱させるには十分だった。また診てくれるというのは大変嬉しいが、何をされても、とはどういうことだろうか。診察以外にすることなどあるのだろうか。
(診察よりもすごいことをするってこと? し、診察よりすごいことって⁉)
体温が上がった気がする。ドキドキと心臓もうるさくなる。見上げた東堂は、夏芽の様子をじっと見つめていた。
「俺、気になるコトは全部脱がせて暴かねえと気が済まねえから。お前はどうだろうな?」
東堂が身を翻す。
「楽しみにしてるぜ、夏芽」
そう言い残して、東堂は夏芽の前から去った。夏芽はその場に立ち尽くしたまま、まだ動けないでいた。
「名前……呼んで、くれた」
呟いてから我に返った夏芽も、教室に戻ろうと振り向いた。
が。
「カシューくん、東堂のこと気になってるの⁉」
「二人はどういう関係なの⁉」
「あ、牧さん、と、新宮さん……⁉」
いつの間にか背後にいたクラスメイトの新宮と、彼女の友人の牧瑠璃子。彼女らにキラキラした瞳で迫られ、夏芽は悟った。廊下で東堂と話したのは迂闊だった、と。
「あの……東堂くんには内緒だよ?」
「も、勿論!」
「今東堂には特定の恋人いないっぽいけど、あいつ遊び人だからさー、前途多難かもよー? 頑張って!」
大人しい新宮とは対照的に、牧は明るく積極的な女子生徒だ。丁度夏芽と剣持のような関係だろうか。
そんな牧と、いつも控え目な新宮からグイグイ東堂のことを聞かれるのをはぐらかしながら、なんとか夏芽は自分の席に戻ってきた。行きより帰りが怖かった。
「おかえり、ナッツ。よく頑張ったぞ」
「あ、ありがとう……」
短時間で色々ありすぎたような感覚に、ぐったりする。取り敢えずもうすぐ始業の時間なので、報告は放課後ということにしてもらった。夏芽にも整理する時間が必要だ。
教室に戻ってきた東堂は、夏芽と話す前と全く変わらない調子だった。
「へえ、良かったじゃん。また診てもらえるんだ?」
放課後、帰り道で剣持と話す。山岡も広瀬も部活で、そもそも夏芽が東堂への気持ちをむやみに他人に知られたくないから、バレるまでは黙っていようと思っている。剣持や新宮たちの様子を見るに、いつまでもつかは不安なところだ。主に夏芽のせいで。
「でも、ナニされても文句言わないって、どういうことだろうね? 診察以外にすることあるのかな?」
「まあ東堂は……うん。多分良識はあるから大丈夫だよ」
聞いたところによると、東堂の成績は学年でもトップクラスなのだそうだ。剣持には何故か気まずそうな顔をされて話してはもらえないが、どの科目も満遍なく点数が採れるのだと。夏芽は体育ができないので羨ましい。
東堂の言う「ナニされても」の内容を考えこむ夏芽の隣で、剣持がいつになく神妙な顔をしていることに、夏芽は気がつかなかった。
「それよりさ、その後の――」
「え?」
何か言ったか、と振り返ったが、剣持は開いていた口を閉じ、曖昧に笑った。何かを言いかけていたのは明白だったが。
「あー、やっぱいいや。そういうのは自分で気づいた方がいい」
「? 名前呼びのこと? ちゃんと気づいたよ!」
ドン、という効果音がつきそうなほど胸を張った夏芽だが、剣持が言おうとしたのは残念ながらそこではない。
そこではないが、剣持はそれに乗ってやった。
「いきなり名前で呼んでくるとか、東堂もやるよねえ」
「ぼ、僕も東堂くんのこと名前で呼んだ方がいいのかな?」
「練習してみなよ」
促され、深呼吸をしてから、夏芽はその名を口に出してみる。
「つ、つ……つばきくん」
「ぎこちないよ、もっと自然に」
「椿希くん!」
思い切って大きく呼んでみたが、しっくりこない。椿希という名は素敵だと思うし、できれば呼びたいとも思うが、どうにもまだハードルが高い。初めての友人である剣持さえ「剣持くん」呼びの夏芽である。
「で、でもやっぱりまだちょっと馴れ馴れしい、かも?」
「ナッツのペースで近づいていけばいいよ」
「うん……でも今のところ診察しか接点がないからさ。って、駄目だね。またちょっと焦っちゃってる、僕」
頑張りたいと思うことほど、夢中で突っ走ってしまう性分なのだ。だがつい昨日、それで痛い目を見たので、立ち止まる癖をつけようと思った。
それに、東堂とのことで結果を出すのに急いでしまいたくはない。
「軽々しく遊びで付き合うっていうのは避けたいんだ」
「どうして?」
「僕……診察をしてくれる東堂くんの、真剣な瞳が……好き、だから」
今日東堂と向き合って、その想いが一番に輪郭をもった。あの真剣な瞳に見つめられていたい。自分を診てほしい。それだけじゃなく、いずれは自分を見てほしい。他の相手じゃなく、あの瞳で、賀集夏芽を見つめてほしい。
そう告げると、剣持は柔らかく笑った。
「なら、ひとまずは保体係の東堂くんと距離を詰めるって方向でいいんじゃない?」
「うん……うん、そうだね。僕、頑張るよ!」
ぐっとガッツポーズをしてみせる。勿論、適度に、自分のペースで頑張るという意味だ。
「来月は球技大会がある。東堂くんに振り向いてもらえるチャンスだ!」
「え? 球技大会?」
「そう!」
速足で剣持の前に回り込んだ夏芽は、自信満々に、朗らかな笑顔で宣言した。
「僕、壊滅的に運動のセンスがないから!」
――こうして、賀集夏芽と東堂椿希による、ホスピタリティに溢れた学園生活が始まるのであった。
【五月】ハッスル、東堂くん!
桃色はすっかり緑色に移り変わる。学生にとっては待ちに待ったイベントである大型連休も過ぎ去り、またいつも通りの学校生活が始まる。連休中、どこに行ったか、何をしたか、何ができなかったか――学生たちは誰も彼もがそんな話題で盛り上がっていた。
(風が爽やかなのは良いけど、何故かいつも僕に向かって虫がぶつかってくるんだよなあ)
しかも僕の服にくっついてる時もあって、恥ずかしいんだよね。世間の話題などどこ吹く風で、自分の考えたいことをどこまでも自由に考えているのが、賀集夏芽という人間である。
それに、夏芽にとって連休は誰かに話したくなるようなものではない。強いて言うなら家事の練習をしたくらいで、なんら特別なことはなかった。
友人である剣持侑士は旅行、山岡潤一と広瀬歩はそれぞれの部活の強化合宿と、充実した連休を過ごしていたそうである。
(彼は……どんな連休だったんだろう)
夏芽は手元の参考書から視線を外し、窓側の人だかりを盗み見る。あの人だかりの中心にいる人物は、夏芽の片思い相手である。
「ねえ、椿希? あと一日くらいあたしといてくれてもよかったんじゃない?」
「いや、悪いな。連休は予定がパンパンだったんで」
「東堂お前さ、ずっと起きてなかった?」
「めっちゃ写真アップしてたろ」
「ンだよ、律儀に全部イイネしてたくせに」
今日も今日とて、夏芽の想い人は人気だ。夏芽は一人、うんうんと頷いた。
東堂椿希。先月体調を崩し倒れた夏芽を気にかけ、面倒を見てくれた、高等部一年A組の保健体育係である。回復した夏芽は東堂に「また何かあったら診てやる」と言われて以来、彼との秘密の関係が始まったのだ。
始まったはずだったが。
倒れてから今この日に至るまで、夏芽は体調を崩すことも、怪我をすることもなかった。東堂から油断するなと言われていたから、気を配りすぎていたのかもしれない。とはいえわざと倒れて東堂の注意を引こうとするほど愚かでもない。これで良かったのだ。
いや、東堂と話せないのは残念だったと言わざるを得ないけれども。
「ナッツってホント、考えてることがわかりやすいよね」
「ゆ、侑士くん!」
いきなり話しかけられて驚いた。声の主は、席替えの籤引きで隣同士になった、剣持侑士である。今日はいつもより来るのが遅かった。何かあったのだろうかと思って様子を見ると、額に汗が輝いている。遅刻しそうで走ってきたのかもしれない。尋ねると、侑士はカラッとした笑顔を浮かべた。
「違う違う、山岡の練習に付き合ってたんだよ」
「潤一くんの練習って……テニス?」
「いや、バレーボール」
球技大会だろ、月末。
そう言われて、夏芽ははっとした。そうだ、今月最後の土曜日は、球技大会だ!
翠清学園高等部の球技大会は、男女がそれぞれ学年対抗で、バスケットボールもしくはバレーボールを選択し試合をする。どちらでも変わらないからと、夏芽はバレーに決めていたが。
「も、もう練習始めてるの……?」
「オレはバスケだからそっちの練習もしたいんだけどねー。山岡、今年も張り切ってるからさ」
席に座った侑士は、早く衣替えがしたいと制服をはためかせる。一方、無言でぷるぷる震える夏芽。俯いていた彼は、ぽつりと言葉を零した。
「ぼ、僕も」
「うん?」
「僕も、練習したい!」
ずいっと前のめりになって侑士に訴える。その訴えにぱちぱちと目を瞬かせた侑士はニヤッと笑った。
「そういうことなら、アイツに言ってみよう」
「賀集も練習に参加したい?」
放課後、体育館脇のコートにいた山岡潤一に、夏芽は侑士とともにその旨を告げた。すると潤一は目を逸らし、どこか気まずそうに口籠る。侑士も、そして夏芽自身も、潤一のその反応を当然だと思ったので、何も言わなかった。
「俺は構わないが……その……。ああ、まずは賀集の今のスキルを見せてくれないか」
「わかった!」
元気よく返事をして、バレーボール用のネットの向こう側へ走る。剣持にボールを投げた潤一はネットの傍らに立ち、夏芽に向かって言う。
「剣持のボールをレシーブしてみてくれ。体勢はわかるな?」
「はい!」
「いくよー、ナッツ」
夏芽が返しやすいようにか、侑士がアンダーハンドサーブでボールを飛ばしてくる。レシーブの構えをとった夏芽は、ボールが落ちてくる瞬間、思い切り腕を振った。
――が、空振り。
落ちてくるボールと構えた腕の位置がずれていたようだ。ボールが床にポンポンと跳ねる音が空しく響く。壁まで転がったボールを取りに行く夏芽。戻ってきて侑士にボールを投げ返そうとする前に、潤一が言う。
「……じゃあ、サーブはどうだ? 剣持側にボールをやれればいい」
「はい! いきます!」
サーブは、今侑士がやっていたアンダーハンドしか知らないが、あれを真似ればできるはずだ。左手のボールをトスして、右腕を振る――
ブン!
空気を揺るがす大きな音。これは決まっただろうと思った。……夏芽の手首が、ボールの芯を捉えられていたら、の話だが。
実際は自分でトスしたはずのボールの位置が掴めず、夏芽の腕が空気を切っただけだった。ボールは力なく地面を彷徨っている。
何とも言えない空気の中、最初に口を開いたのは潤一だった。
「……体力テストの時から思っていたが、賀集。やはりお前、運動のセンスがないな」
「山岡、歯に衣を着せなさいよ」
空かさずツッコミを入れる侑士。だが、潤一の指摘は客観的事実であり、それは夏芽もわかっていることだった。
体力テストとは四月に行われたものだが、まだ夏芽が倒れる前の、入学式から数日後のことである。ハンドボール投げでは明後日の方向へ投げた挙句男子どころか女子の平均の記録、持久走ではペース配分を間違え、反復横跳びでは足を捻った。何を隠そう、小学校の頃からこの有様なのだ。柔軟性や握力は平均的で、別に運動が嫌いというわけでもないのに、センスが壊滅的。記録をしてくれた広瀬歩には励まされたが、彼の方がずっと好成績だった。
「あの……ごめんなさい……」
「いや、別に謝らなくていい。現状を知るのは大切なことだ」
潤一は本心からそう言ってくれるものの、夏芽にとっては気後れする一因である。これならバスケットボールの方が良かっただろうか。否、どちらを選ぼうがどうせチームに貢献することはできなかったはずだ。バスケットボールにしたって、身長が平均より少し低い夏芽が全力でガードしようがレッサーパンダの威嚇程度にしか見えないし、ドリブルしていたはずのボールにアッパーを喰らったり、突き指したりした苦い経験もある。そう、どちらにしたって変わらないのだ。
「まず、上手くレシーブができるようになるのが優先だ。俺が教えるから――」
「で、でも、僕に構っていたら潤一くんの練習時間が無くなっちゃうよ」
潤一の提案は嬉しかったが、自分のセンスの無さを改めて思い知らされたために、今の夏芽では彼の妨げになってしまうと危惧してしまう。
「……聞いたよ。東堂くんに、勝ちたいんだよね?」
尋ねると、潤一は渋い顔をした。
ここに来る前、予め侑士から聞いていた。中学一年生の球技大会以来、潤一と東堂は二大巨頭として注目され、ライバル関係にあったと。中等部の球技大会はクラス対抗戦であり、三年連続で別のクラスだった二人は得点を争っていた。三度とも潤一のクラスが優勝したものの、二位の東堂のクラスの得点の差は極めて小さく、辛勝だといえた。
高等部に上がり今年からは同じチームとなるが、得点を競いたいと潤一は考えているだろうと、侑士が推察していた。
潤一は黙っていたが、渋い顔をやめて今度は困ったような、複雑な表情を浮かべる。
「だが……スポーツはチーム戦だろう。お前の出来が、学年の勝利に繋がるんだ」
夏芽は卑屈である。だから潤一がこうして懸命に説得しようとしてくれているのに、つまり今のままでは夏芽が足を引っ張る結果にしかならないと現実を突きつけられたかのように感じた。そして確かに潤一の言う通りだが、だからこそ彼に夏芽のペースと合わせる時間を設けさせるのは忍びないと。
膠着状態を破ったのは、やり取りを聞いていた侑士だった。
「取り敢えずさ、山岡の言うように、レシーブの構えからやってみようよ。ナッツのためなら、いくらでも練習付き合うよ、オレ」
「! そ、そうだ。一緒にやってみよう、賀集」
いつもの愛らしい笑顔で発せられた提案に、これ幸いと乗っかる潤一。そこまで言われてしまったら、流石の夏芽でも避けるわけにはいかない。
「う、うん。わかった」
とにかく夏芽も含めて全員が、夏芽の技量にこれ以上ガッカリしないように頑張らなければ。
二人に促され、夏芽は先ほどまで自分がいた位置に戻り、最終下校時刻のチャイムが鳴るまで、みっちり指導を受けたのだった。
「――というわけだからさ、明日から侑士くんと潤一くんと朝練するよ」
「そう。あの夏芽に付き合ってくれるなんて、大した子たちだね」
「う、うん。じゃあ、おやすみ」
帰宅した侑士は、靴を脱ぐなり風呂に入り汗を流し、夕食をたっぷり食べた。レシーブの構えと、少し練習をしただけだったのに、それだけで汗だくになってしまった。侑士も潤一も全く疲れてはいなさそうだったが。
早起きは苦ではない。夜早めに寝ればいいだけの話である。母への報告の後、自室に戻った夏芽が課題や予習復習をしていると、丁度終わる頃に、充電中のスマホからポコポコポコッと音がする。何らかのメッセージが連投されたらしい。
スマホを点けてみると送り主は侑士だった。トークルームを開いてみると、無防備な夏芽の目には刺激が強すぎる写真が送られてきていた!
「うわわわ、と、東堂くん⁉」
なんと、東堂の写真や動画のプレゼント。だが単なる画像ではなく。
『中等部の時オレが部活で撮ったやつ。参考にして』
そんなメッセージが添えられている。確かに、現在より少しだけ小さいように見える東堂が、レシーブしたり、トスをしたり、なんとジャンプサーブを決めている動画もあった。翠清学園ではこうしたイベント事に外部の写真屋を呼ぶだけでなく、写真部にも記録係を求めているそうだ。それで、侑士が撮った一部が、これ。
(すごい……! かっこよすぎる、東堂くん……!)
思わず目が潤むほど、夏芽は感激していた。侑士の撮影の腕もさることながら、東堂の所作の一瞬一瞬がパワーに溢れ、野生の獣のように見える。蟀谷に伝う輝く汗も、筋肉が盛り上がった逞しい腕も、診察の時とはまた違う真剣みを帯びた瞳も、彼の全てが夏芽を魅了してやまない。
だがそれと同時に、やるせなさも沸いた。
東堂に、夏芽でもやればできるというところを見せたかった。あわよくば褒めてもらえたら、なんて。そんな淡い願望があったからこそ、頑張りたかったのに。東堂自身がこれほどの技術を持っているのなら、夏芽がどれだけできるようになったところで、彼にしてみればまだまだひよっこでしかない。その程度で褒めてもらおうなぞ、虫が良すぎる話ではないだろうか……。
「いやいやいや、ここでやらなきゃクソ雑魚な僕を東堂くんに見せることになっちゃうんだから!」
浮かぶマイナス思考を、首を振って無理矢理遮る。どんなにひよっこだろうと、今の夏芽の無様な姿を東堂の前で披露するわけにはいかないのだ。東堂ほど格好良くはなくとも、彼の目に印象が悪く映るのは耐えられない。将来夏芽を思い返した時、「賀集夏芽? あー、あのバレー下手すぎのやつね(笑)」とか言われたら、夏芽の身体中の水分が外へ流出し干からびてしまうだろう。
その意志で、夏芽は眠るまでの間、東堂の写真と動画を見てプレーのイメージトレーニングをした。もとい、東堂に見惚れていた。
✻
翌朝。いつもより三十分ほど早く登校した夏芽は、着替えてから二人と約束していたコートに向かう。そこでは既に、侑士と潤一がバレーボールの練習をしていた。二人は夏芽に気がつくと、ボールを止めて寄ってくる。
「おはよう賀集」
「おはよー、ナッツ」
「潤一くん、侑士くん、おはよう。改めて、今日からよろしくお願いします」
念入りに準備運動を行ってから、潤一の昨日の復習をしようという提案に乗った。コートに立った夏芽は、レシーブの構えをとる。傍から見て、昨日より格段によくなっている。
「いいぞ、賀集。きちんと膝を曲げて腰を低くできている。手の握り方も正しい」
「えへへ」
弾んだ声色で褒められ、照れ笑いを浮かべる夏芽。昨日の練習と、そして東堂の写真をガン見した結果である。
「軽くレシーブできるかも見せてもらおう。剣持、頼めるか」
「おっけー」
向かいに立った侑士が合図をし、アンダーハンドサーブでボールを飛ばす。夏芽はそれをしっかり見て、ボールの落下位置に合わせて真正面から足を踏み込み。
「わっ、わ」
だがボールが当たったのは手首ではなく腕で、反射的に腕を反らし地面に落とさなければ危うく跳ね返ったボールとキスをするところだった。コロコロと転がったボールを、潤一が拾いあげ、夏芽に聞く。
「賀集、今どうすればよかったかわかるか?」
「えっと、腕じゃなくて手首の位置にボールが来るように踏み込まなきゃいけなかった」
「そうだ。自覚していられれば、後はそこを改善するだけで基本はバッチリだぞ」
「基本がバッチリ……!」
目を輝かせる。運動のセンスが壊滅的な夏芽にとって、その言葉は何よりも嬉しいものだった。
「ナッツ、すごいね。あれだけでここまで上達するなんて。愛の力ってやつ?」
「ゆ、侑士くん……!」
侑士の揶揄いの言葉は、潤一に突っ込まれることはなかった。きっと、きっかけが何であれ、夏芽のスキルが上達したことに関して感動しているのだろう。
揶揄われはしたが、侑士にも褒められた夏芽のやる気は十分だ。今日の練習メニューを聞くと、潤一が頷いた。
「それなら、そろそろ今日の練習に――」
「よっ、精が出るねえお三方」
突如飛び込んできた声に、三人が――主に夏芽が勢いよく振り返る。
「東堂……」
「東堂くん!」
体操着姿の東堂椿希。彼が何故かそこに立っていた。潤一が一歩前に出る。二人を見比べてみると、身長はあまり変わらないが、筋肉の付き方は潤一の方が頑健で、東堂の方が妖艶、という感想を抱く。例えるなら、潤一は熊で、東堂は狼。うん、なんだか両者それっぽい。
一人で納得している夏芽を他所に、屈強な友人が訊ねる。
「お前も練習か」
「おー。運動は積極的にヤらねえと、鈍っちまうからな」
クイ、と親指で隣の体育館を指し示す東堂。向こうではよく東堂と話している男子生徒たちや、運動部らしき女子生徒たちがそれぞれ練習をしている。この学園の生徒たちは、座学に於いても運動に於いても向上心に溢れ、競争力も高い。あの様子はその裏付けになるだろう。
「帰宅部マッチョが何か言ってるわ」
「お前も似たようなもんだろが」
侑士とちょっとしたやり取りをした東堂が目線を下げ、夏芽を見る。目が合って、夏芽の心臓がきゅんと跳ねた。
「夏芽、お前が潤一や侑士といるってのはちっと意外だが。ま、程々に頑張れよ」
「う、うん! ありがとう!」
東堂に直接応援してもらえた! 歓喜のまま礼を言うと、ふっと小さく笑った東堂は、体育館に向かっていった。その後ろ姿をじっと見送る夏芽を見て、潤一もなんとなく察してしまったが、恐らく夏芽は隠しているつもりなので、黙っていることにする。
「――じゃあ賀集、今日の練習を始めるぞ。レシーブの構えを意識して、ボールを返すことより高く上げることに専念するんだ」
「はい! 頑張ります!」
ウッキウキで返事をし最初のポジションで構える夏芽に、侑士は内心で「やっぱりわかりやすすぎるな」と思った。
✻
「つ、疲れたあ……」
べたあ、という効果音がつきそうなほどぐったりとした様子で、夏芽はベッドに飛び込んだ。
球技大会のために朝練を始め、一週間が経った。友人たちの根気強い指導と練習により、夏芽はなんとレシーブだけでなくアンダーハンドサーブまでできるようになった。否、サーブに関してはできるようになったというか、手首に当てて飛ばせるようになったというだけで、方向はとっ散らかっているという状況ではあるが。それにしても、最初期のあの無様さは鳴りを潜めている。これは夏芽にとって革命的なことだった。
何度も言うが、夏芽の運動センスは皆無だ。だというのに、一週間の練習でここまでまともにバレーボールの基本ができるようになったのだ。街中を走り回って、「これは本当にすごいことだ」と言いふらしたくなってしまうほど。なんともめでたいことである。ちなみにこの波に乗ってとやってみようとバスケットボ―ルに挑戦してみたが、危うく突き指しかけ、侑士に「今はやめときな」と宥められてしまった。
だがこの練習も、来週はほとんどできなくなる。何故ならば、来週は中間テストだからである。学業に専念できるように、テスト一週間前から朝・昼・放課後の活動は中止されるのだ。学園で許されるのはテスト勉強のみ。そして月曜から木曜までのテスト期間の後、金曜を挟んで土曜日が球技大会本番。つまり、学校でできる練習時間はもうほとんど残されていない。
夏芽もテスト期間はしっかり勉強をして良い点を採りたい。だがあまり身体を動かしていないと、折角掴んだバレーボールの感覚を忘れ、テスト明けには元のポンコツに戻って、東堂の前で醜態を曝す羽目になるだろう。それは絶対にいけない。友人たちの時間も無駄になる。
(とはいえ、どこで練習しよう……。この辺にスポーツセンターってあるのかな)
賀集家の新居は都市に近い住宅地で、マンションやアパートが多い。公園があってもボール遊びやスケートボードなどは禁止されている。こういう時、故郷の近所ならどこも開けていてボール遊びもし放題だったんだけどな、と惜しい気持ちになるのだが。
そうしていても仕方ない。どうにか解決策をと考えながらごろんと寝転がっていると、頭上のスマホからポコッと音がした。誰かからメッセージが送られてきたのだ。
表示された新着メッセージは単純なもので。
『明日か明後日ヒマ?』
それだけだった。
侑士だろうかと深く考えず、『出かける時間は作れるよ』と返す。するとすぐに返信がきて、『じゃ、日曜十時、翠丘山駅前で』と。夏芽はまたも深く考えず、了解の旨を伝えた。
日曜十時、翠丘山駅前。起き上がり、忘れないうちに手帳に書き込む。翠丘山駅は夏芽の家の最寄り駅・八熊手駅から電車で二十分の駅だ。基本的に侑士たち学園近くに家がある生徒と、夏芽のように電車通学の生徒との待ち合わせによく使われる。
ふとここで、誰との約束かを書き込むため、夏芽は今しがた自分がやり取りした相手の名前を見た。
『東堂』
「……え?」
――一体どういうことだろうか、これは。
自分はまさか今、東堂と会う約束をしたのか? しかも東堂側から誘われた? こんなことあり得るのだろうか? 東堂は何を考えている?
混乱した頭のまま、夏芽はぼうっとしながら返信していた自分と東堂のやり取りをスクリーンショットし、侑士とのトークルームを開いた。そして、その写真とともに、『どうしよう、無意識に約束しちゃった』という文言を添え送信する。
返信がくるまでの間に、夏芽は、自室のクローゼットを開ける。東堂と並んでも見劣りしない服などあっただろうか。元の家から一緒に持ってきた、動きやすいカジュアルな服しかない。渋谷や池袋など、悠々と都会を闊歩できるようなかっこいい服など買おうと思わなかった。ああ、まさかこんなことになるなんて。
ポコッと着信音。侑士からだ。すぐにアプリを開く。
『いいじゃん。行ってきなよ、デート』
「でっ、で、で、でーと」
まだ付き合ってもいないのに、デートという表現をしていいんだろうか。でも、デート。逢引き。逢瀬。
宇宙を思い浮かべる猫のような状態になっている夏芽の耳に、ふとコール音が聞こえてきた。今度は確認する。侑士だ。応答ボタンを押すと、友人の声が機械越しに発せられた。
『やっほーナッツ。元気? 今日の練習、大分疲れてたけど』
「もう疲れなんて吹き飛んだよ……」
『ははっ、そうっぽいね』
からからと愉快そうに笑う侑士。ずっと夏芽の練習に付き合ってくれたというのに、相変わらず侑士には全く疲れている様子はない。潤一や東堂ほどの体躯ではなくとも、夏芽よりはずっと体力も根気もあるのだろう。尤も、今の東堂との会話のおかげで、夏芽の疲労が飛んでいったというのも事実だが。
侑士の声を聞いていくらか落ち着きを取り戻したので、一つ咳払いをし、友人に尋ねた。
「ほ、本当にデートなのかな? 二人きりで……?」
『うーん、念のため聞いてみれば?』
「うう……聞いてみる……」
夏芽は震える指で東堂に『それって二人きりなの?』と送る。文面だと落ち着いているように見えるが、実際の夏芽の心臓はバックバクである。返信がくるまでは取り敢えず画面を見ないようにして、侑士と会話を続けた。
「僕、全然かっこいい服持ってないよ、お出かけするなんて夢のまた夢だと思ってたし」
『あー、別にシンプルでいいんだよ、そういうのは。ナッツは頑張り過ぎると空回りするでしょ?』
「むむ……確かに……」
どれだけ服が格好良くとも、着ている夏芽は取り立てて言える特徴のない平凡な男子高校生である。そんな夏芽では、「さっき翠丘山にいたやつ、服に着られてて草」とか、「身の丈にあってなくてウケる。鏡見ろ」とか、全然知らない他人によって拡散されてしまうかもしれない。それよりは、年相応の、というかそれより若干幼いカジュアルな服装の方が目立たないだろうか。
最近はパーソナルカラーがどうとか、そんな話題があるのを夏芽は知っている。夏芽に似合いそうな色を侑士に尋ねようと思ったが、その前に着信音。東堂からの返信だ。頭の中で侑士に手を繋いでいてもらいながら、メッセージを見る。
『そうだけど』
『夏芽は怖い? オレと二人きり』
「怖くないよ!」
『え、何が?』
「あ、ごめん、東堂くんの返信の話……」
つい口に出してしまっていたらしい。メッセージの内容を伝えると、侑士はふうんと鼻を鳴らした。
『そのまま伝えてやりなよ。ナッツの気持ち』
「う、うん」
提案に乗り、熟考した夏芽は『怖いわけないよ。楽しみにしてる』と送った後、スタンプを送信する。夏芽はスタンプを買ったことはないので、スタンダードなものになってしまったが、まあいいだろう。
「侑士くん、ありがとう。僕、落ち着いて……は難しいけど、心持ち穏やかに日曜日を迎えられる気がするよ」
『ん。デート楽しんできて。おやすみ、ナッツ』
「おやすみなさい」
侑士との通話が終了すると同時に、東堂から『そっか』という返信がきて、ただそれだけだった。どういう感情なのか計りかねるが、とにかく夏芽が彼を怖いと思っていないことは恐らくわかってくれただろう。それならばそれでいい。
満足した夏芽は、スマホの電源を切りベッドに潜る。明日は一日中そわそわしながら過ごすことになるだろうが、せめて勉強をして精神統一を試みることに決め、眠りに就いた。
✻
(変じゃない……? 変じゃないよね?)
休日の翠丘山駅前は、八熊手駅や学園前の駅と同じくらいの人通りがある。遅れてはいけないと、駅前のベンチで待つこと三十分。出発前に散々家族に確認したが、自分の様相がおかしくはないか、何度も確認してしまう。
「待たせたか、夏芽」
「うひゃあ! 東堂くん!」
聞き覚えのある声が降ってきて、反射的に立ち上がる。待ち合わせ時間ぴったりに来た東堂は、Tシャツにショートパンツとシンプルな服装だったが、その短い布から伸びる美しい筋肉に、道行く人の熱烈な視線を感じる。夏芽も家にあった、似たような服を着てきたが、東堂のように注目されることは一生無いだろうと思った。
服装を見て思ったことといえば、もう一つあるのだが。
「お前も良い服装してンな、丁度」
「あ……うん。ねえ、もしかして今日って――」
夏芽の推測は当たっていたのだろう。東堂は得意げに口角を上げた。
「ご明察。……行くぞ」
駅前から五分歩いたところに、その建物はあった。キュッキュッという高い音に、ダンダンとボールが弾む音。公共のスポーツセンターだ。
「俺もお前と一回はヤりたかったんだよ」
バレーボール用のネットを準備している最中、東堂が言った。まさかそんなことを東堂に言ってもらえるとは思わなかった夏芽は、折角統一してきた精神を乱して慌ててしまう。
「で、でも僕、まだ全然できなくて! 東堂くん、僕の体力テストの結果知らないの⁉」
「過去のことだろ。今のお前の実力を見せてくれりゃあ良い」
ゲームに出てくる主人公の師匠のポジションのキャラクターが言いそうな台詞だ。実際、夏芽は侑士にもらった東堂の写真を見ながらトレーニングをしていたから師匠と言えなくもないのかもしれないが、こっそり参考にしているとは恥ずかしくて告白できそうにない。
こうして時間をとってくれるほど自分に価値があるのかと戸惑いが消えはしないが、それでも東堂の期待には応えたいと思った。夏芽だけ一足先に中間テストを受ける気分だ。
その緊張感を帯びたまま、コートの上で向かい合う。準備運動でほぐしたはずの身体が無意識に強張るが、東堂にその様子はない。
「あー、点とかは気にすんな。レシーブでラリーを続けるだけだ。あいつらとヤったろ?」
「う、うん」
ラリー。つい最近練習したばかりだ。最高記録は十回。夏芽のせいでそれ以上は続かなかった。だが、ここで東堂を落胆させるわけにはいかないと気合を入れる。夏芽はそういう性分なのだ。
ボールを持った東堂が、アンダーハンドサーブの姿勢をとる。彼ならもっと攻撃的なサーブもできるだろうに、そうしないのは初心者の夏芽を気遣ってのことだろう。侑士と同じ優しさを感じながら、夏芽もレシーブの構えをとる。
トン、と。東堂の手首に打たれたボールが、高く舞った。
「ぷはあー!」
冷えた息を吐く。朝練よりも長時間動いていた夏芽には、東堂が持ってきてくれていたドリンクが、砂漠のオアシスのように感じた。こちらも東堂が持ってきてくれていた吸水性抜群のタオルで、また蟀谷から伝う汗を拭う。
現在二人は角で休憩中である。夏芽がたまにおかしな方向にボールを返すせいで、東堂もそれなりに汗をかいているが、夏芽を責めるようなことは一つも言わなかった。
「東堂くん、このドリンクおいしいね!」
「そ? 口に合ったならよかったわ。俺が作ったんだけど」
「えっ!」
東堂は帰宅部のはずだが、スポーツ向けのドリンクの作り方まで知っているのかと目を見開く。流石保体係、と内心で拍手した。というか、東堂の手製だと知ってオアシスは海へと変わりそうなほど恵みのように感じる。
軽くボトルを傾けた東堂は、ふっと美しい唇を開いた。
「お前の動き、潤一や侑士のってより、俺のに似てる」
「えっ⁉」
「……いや、冗談」
先ほどから驚き続きの夏芽。冗談のトーンではなく、本当にそう思ったという声の調子だった気がする。夏芽はボールを追うことに必死だったが、東堂は夏芽の動きを見ていたのか? 東堂の動きを参考にしているのがわかるくらいに。彼はその時、どんな瞳をしていたのだろう。
東堂は夏芽に顔を向ける。びくっと肩を跳ねさせた夏芽だが、東堂から目を逸らさなかった。何か大切な話をされる、そんな空気を感じたから。
「夏芽。お前は俺のコト、気になるって言ったよな」
「うん……」
「それで、なんで俺じゃなく、あいつらに練習付き合ってもらってんだよ」
夏芽は一瞬きょとんとしてしまった。まるで、最初から自分に頼んでくれれば、とでも言いたげな雰囲気ではないか。否、それは流石に思い上がりだろうが。
理由など、今更隠すことでもない。それに誤魔化したところで夏芽の隠蔽スキルは無いためにすぐにバレるだろう。そう考えた夏芽は正直に打ち明けることにした。
「えっと……僕、東堂くんにかっこいいって思われたかったんだ」
「……は?」
「だっ、だから! 東堂くんの見てないところでいっぱい練習して、大会本番で成果を披露したかったの!」
言い切った途端、頬が熱くなる。羞恥で東堂の美しい顔を見ていられず俯いた。少しの間の後、東堂が言う。
「……それは、俺が気になるからこそ、か?」
「そ、そうだよ! す、す、すきなひと……に、良い所を見せたくて努力するっていうのは、きっと普通のこと、だよ」
好きな人、のところはもにょもにょ喋って有耶無耶にしようとしたが、恐らく全く通用しなかった。夏芽の視界にある逞しい右腕が動く。
「そっか……」
「……?」
顔を上げた夏芽は、目の前の光景に息を飲んだ。
「そういうモン、なのか……」
目を逸らし、右手で隠された口元。だが、ほとんど覆われた顔から覗くその頬は、今の夏芽と同じように――赤く、染まっていた。
その反応に目を奪われながら、夏芽の脳裏に過ったのは、先日の東堂の言葉。「お前が潤一や侑士といるってのは意外だが」という発言は、つまりそういうことか、と。
合点がいった夏芽の前で、はあと深く溜め息を吐く東堂。口元から手を離して再びこちらを見た東堂の顔からは、もう赤みが引いていた。
「……なら、悪いことしたな。お前の努力、無理矢理暴くような真似、して」
「そ、そんな! 謝るようなことじゃない! 僕、東堂くんとこうして一緒にいられてすごく嬉しいよ!」
なつめ、と小さく紡がれる名前。思わず身を乗り出したせいで、見開かれた目を縁どる睫毛の長さがわかるほどの距離に迫ってしまった。以前は彼から迫られるだけだったのに。
だがいい加減夏芽も頬の熱さを引かせなければいけない。これからもっと、頬だけではなく全身熱くなるのだから。
立ち上がった夏芽は、東堂の片手を両手で包む。夏芽の両手でも東堂の片手は包み切れずはみ出たが。
「ね、そろそろ練習再開しよう? 僕、今なら少しは東堂くんの練習相手に相応しくなれる気がするんだ」
「あ……ああ、わかった」
手を引こうが平凡な夏芽には東堂を動かすことができないので、東堂が存外すんなりと自主的に立ち上がってくれたことを有難く思いながら、二人はコートに戻り、ラリーを再開するのだった。
✻
中間テストの後、金曜日はテスト返却日だった。翠清学園に於ける、夏芽の初めてのテストだった。結果は――どれも取り立てて言う必要もない、至って平均的な点数だった。得意科目の現代文や古文、漢文でさえ、満点に限りなく近いともいえない結果だ。その代わり赤点もない。偏に、侑士たちに学園のテスト傾向を聞いていたおかげだろう。今回の出題のされ方も、次回以降のために参考にできる。ちなみに平均点は、いずれの科目も七十五点前後であった。
しかし、夏芽にはテスト結果に一喜一憂している暇はない。学生の課外活動が解禁されるテスト返却日の最終下校時刻は、普段より一時間早い。今から球技大会に向けて、追い込み練習だ。
「いやー、みんなやる気だねえ」
ぐっと背伸びをする侑士。その言葉の通り、前回よりの朝練の時よりずっと大勢の生徒が、体育館や講堂、グラウンドを使ってバスケットボールやバレーボールの練習をしている。夏芽たちと同じクラスの生徒や、他のクラス、他の学年の生徒も、皆瞳に闘志を燃やしている。
「だが怖気づくことはないぞ、賀集。お前の技術は、つい先日よりも格段に上がっている。自信をもて」
潤一の力強い言葉に、夏芽もしっかりと頷いてみせた。東堂と練習して以来、この二人と特訓をする機会は設けなかったが、その間もテスト勉強の合間を縫って、東堂の動画を見たり侑士に撮ってもらった練習中の自分の写真でフォームの確認をしたりして過ごしていた。どこまでも真面目な性分である。
夏芽は、今日の練習の内容を潤一に尋ねる。
「基本的にラリーを続けてもらうが、剣持にはたまにアタックを織り交ぜさせる。賀集はそれをレシーブでいなすんだ」
「アタックをレシーブで……」
なんだか最後に相応しい、実戦を想定した練習だ。夏芽が呟く前で、侑士はどこか不満げに潤一に言う。
「山岡ってたまに無茶振りするよね。オレ、バスケ選んでるんだけど。バレー得意なわけじゃないよ?」
「だからこそだ。上達した賀集の相手に、お前は丁度いい」
「あー、はいはい。褒め言葉として受け取っておきますよーだ」
自分で聞いたわりにその答えを雑に流した侑士は一度目を閉じ、そして夏芽に視線を寄越した。いつもと違う、戦闘意欲のちらつく瞳だ。
「それじゃあナッツ、最後の練習を始めようか」
「――はい、よろしくお願いします!」
✻
球技大会当日。この時期らしい好天に恵まれ、梅雨前の爽やかな風が緑と生徒たちの髪を揺らす。実行委員による選手宣誓は恙なく終わり、バスケットボールもバレーボールも、いくつかのゲームが既に行われ、ゲームセットの笛が鳴る。
メンバーに指示を出すキャプテンの声、応援する生徒の声、痛恨のミスを悔やむ声。様々な声がグラウンド中で交差する。試合を待つ女子生徒たちの中には、持参したらしいチェキで憧れの先輩と撮影をしたり、念入りに日焼け止めを塗ったりしている姿が見受けられる。保護者席の人々も子どもたちの雄姿を一目見ようと見守っている。夏芽の両親は残念ながらいない。せめて友人たちの御家族には挨拶をしようとしたが、今のところまだ誰とも話せていない。ランダムで決められたメンバーと対戦表で、夏芽だけがまだ一つも試合に出られておらず、彼らと同じタイミングで待機にならないのだ。
東堂のプレーを生で観ようとも思ったが、なんせ東堂椿希である。誰もが東堂のプレーを観ようと、こぞってコートに集まっていたため、断念せざるを得なかった。そう考えると、侑士が送ってきてくれた写真や動画には、より感心してしまう。夏芽ではあのように写真を撮れない。精々今のように、遠くで試合の進捗を耳に入れるくらいが関の山である。
「勝者、高等部一年!」
夏芽はその代わりに、少し離れた場所でこっそり侑士の試合を観ていた。その結果、剣持侑士という男子の実力に感動し、呆然と立ち尽くしてしまっていたのだ。
侑士はこのおよそ一カ月、ずっと夏芽の練習に付き合ってくれていた。選択していないバレーボールをする毎日のはずだった。それなのに、今のゲーム、侑士がほとんど得点を決めていた。これに話を限らなければ、中間テストも英語で満点を採っていた。
改めて、そんな実力と思いやりをもつ友人がいつもそばにいてくれることが、夏芽にはとても幸福なことに思えた。彼のおかげで、夏芽はこれからどんなことにも臨んでいけるような気がする。勉強も、運動も……そして恋愛も。
一ゲームを終えチームメンバーと健闘を称え合っていた侑士が、ふと夏芽に気がついた。夏芽は彼に労いの言葉をかけようと、口を開いたその時。
「ナッツ、危ない!」
「え……?」
ガンッ!
頭に衝撃を感じたと思った直後、夏芽の意識は遠のいた。
――後頭部がひんやりする。
「……起きたか、夏芽」
「ん……と、ど……くん……?」
ゆっくりと目を開くと、最初に見えたのは美しい顔だった。天使だろうか。否、彼は確かに美しいが、夏芽と同じ人間であるはずだ。
起き上がろうとすると、無理に身体を起こすなと逞しい腕で制される。これと似た光景を、夏芽はつい先月も体験したはずだが。そして、夏芽の意識が失われる前は、球技大会が行われていたはずだが。何故テントの下、東堂の傍らで寝ているのだろう。
「ぼく……どうして……しあい、は……?」
「……夏芽の出る予定だった試合は、もう終わった。侑士が代わりに出たよ」
「ゆ、しくんが……」
そうか、夏芽が倒れている間に、終わっていたのか。後で侑士にも謝罪と礼をしなければならない。結局最後の最後まで、夏芽のバレーボールに付き合わせてしまった。
だが、東堂はどうなのだろう。東堂や潤一は夏芽とは違って、複数のゲームに出場予定だった。夏芽が倒れる前までに、そのゲームは全て終わっていなかっただろう。
「とうどうくん、は……? いつから、僕を……?」
「俺のことはいい。お前の意識が戻って良かったよ」
患部は痛むか、と尋ねてくる東堂。体勢を考えるに、東堂が夏芽の後頭部にずっとタオルで包んだ冷却材を当てていてくれていたようだ。
だんだんと明確になってくる意識。それと同時に、夏芽の眦にじわりと熱が灯る。嗚呼、なんてことをしてしまったのだと。
「ごめ……っ、ごめんなさい、東堂くんっ……!」
「……っ」
熱は雫と変わり、頬を伝う。次第に溢れ出すそれを見て、東堂が息を詰めて瞠目した。対照的に、夏芽の口からは嗚咽交じりの声が漏れる。
「ぼく、僕っ、こんなつもりじゃ……! 東堂くんの、足を引っ張りたかったわけじゃなくてっ、かっこいいところ、見せたかったのに……!」
「ああ、わかってる。わかってるから……泣くな」
患部に響くだろ。静かに諭す声は耳に心地よいが、どれだけ頭が痛もうが、一度決壊したものが瞬く間に戻るわけではない。夏芽は敢えてかぶりを振って心中を吐露する。
「でも、でも……ッ、くやしいんだ、あんなに練習したのに……! 皆に支えてもらったのにっ」
「なあ、夏芽」
大袈裟に振っていた頭を、やんわりと止められる。瞑った目を開き、ぼやける視界で東堂を見上げた。よく見えないが、彼は今、あの瞳で夏芽を見つめてくれているようだった。その瞳のまま、東堂は口を開く。
「お前は今、呼吸をしている。脳が動いている。心臓が鼓動している。ちゃんと生きているんだ」
「……ぁ」
「球技大会は、今回が限りじゃねえ。来年も再来年もあるし、運動なんて時間がありゃいくらでもできる。生きてさえいれば、な」
夏芽より大きな親指が、至極優しい動きで、夏芽の涙を拭ってくれる。そのおかげで、夏芽の視界は晴れ、はっきりと東堂の顔が見えるようになった。視線が合うと、東堂の瞳からは先ほどの真剣みは薄れ、代わりに柔和な温もりを帯びる。
「それに、『またお前に何かあったら診てやる』って言ったのは俺だぜ? な、お前が気に病むことなんか、何一つねえだろ」
――ああ、やはり彼は天使かもしれない。
柄にもなく詩的な考えが夏芽の脳を支配する。よく医者や看護師を『白衣の天使』などと形容するが、そう表現したくなる気持ちがようやくわかった。今の彼は白衣を纏っていないけれど、彼はきっと、そう表現されるに相応しい人物だ。
夏芽は微笑む。ありったけの想いを伝えるために。
「ありがとう……本当に、ありがとう。東堂くん」
「おー」
「僕、天使の存在を信じられそうだよ」
「オイなんだよそれ、頭でも打ったのか? あ、打ったのか……。とにかく天使とか、洒落になンねえからあんま言うなよな」
東堂や養護教諭の鍋島たちが言うには、たん瘤にはなっているがそれ以上の怪我の可能性はないそうだ。ただし万が一もあるため病院で見てもらった方がいいと。夏芽は自分で後頭部を冷やしながら、自分の敷いていたレジャーシートに戻った。
「ナッツ! もう歩いて平気なの?」
真っ先に気がついてくれたのは侑士で、心配そうに駆け寄ってきてくれた。次いで他の友人たちも夏芽の復帰に胸をなでおろす。
「あの、侑士くん、潤一くんも、ごめんね。折角あんなに練習付き合ってくれたのに、結局迷惑をかけてしまって」
「何を言っている。ボールがぶつかる不運な事故だったんだ、賀集が謝る必要なんてない」
「うん。ナッツの仇はオレがバッチリとったから」
潤一が励ましの言葉をくれる横で、侑士はにっこりと笑う。嬉しかったが、その笑顔にどことなく怒りが滲んでいるように感じられたのは夏芽の気のせいだろうか。一体、夏芽の代わりに何点取ってくれたのか。
「ま、あとはオレら結果発表を待つだけだから。ナッツも今のうちに昼飯食べちゃいなよ」
「あ、うん。そうだね」
皆より遅れて昼食を採るのも、先月経験済みだが。今日は友人たちの戦いを聴かせてもらいながら握り飯を頬張った。具は夏芽の一番好きな梅干しだった。
――今年の翠清学園高等部優勝学年は、バスケットボール・バレーボールともに、高等部一年に決まった。沸き上がる一年生、悔しがりながらも惜しみのない拍手を送る音、皆の健闘を称える声。夕陽が照らすグラウンドに、明るい音が響き渡った。
「あーあ。それはそれとして、勿体なかったなあ」
ぐったりと机に突っ伏す夏芽。その頭にはタオルが巻かれている。冷却剤もタオルも、東堂の私物だ。
脱力する夏芽を、洗い物中の母が笑う。
「まさかあの夏芽が、しまいにはそんなこと言い出すなんてね。よっぽどバレーが好きになったの?」
「うん……座学と同じで、やればやるほど上達するのは楽しいよ。今回のことで、僕みたいな人間でも頑張ればそれなりにできるんだって、自信がついたから」
今度から個人的に何かトレーニングを始めてみようか。そう思えるくらいには、夏芽にとって今月の道程は強く印象に残った。
ただし、口惜しいことはもう一つある。
「東堂くんのプレー、生で観たかったし」
夏芽にボールをぶつけてしまった生徒からは散々謝られ、事故だとはわかっている夏芽でも、それを楽しみにしていたことは紛れもない事実だった。東堂からああ言われたし、恨みがましく思っているわけでもないが。
夏芽のぼやきに、洗濯物を畳んでいた父が反応する。
「東堂くんって?」
「夏芽のお友だち」
「へえ、じゃあ格好いいんだろうなあ」
『じゃあ』の意味がわからないが、その言葉には反論する気はない。紛れもなく東堂は格好良くて、そして優しい。今日はそれを改めて知ることができた。
皺を伸ばした真っ白なワイシャツを丁寧に畳んでいた父がそこで手を止め、穏やかに笑みながら夏芽に視線を向けた。
「でも夏芽、悪いことばかりじゃなかったんだろう?」
「ふふ、うん」
夏芽は手元のスマホを開く。
ホーム画面には、頭にタオルを巻いた夏芽と、隣に立った東堂の姿が映されていた。
【六月】ジメジメ、東堂くん!
中間テストも球技大会も終わった六月。今月、学生にとって目白押しのイベントといえば一日校外学習くらいのものである。しかしそれも名前の通り一日限りの催しであり、それも上旬に、あっという間に終わってしまう。過ぎてしまえば、また普段通りの授業日が始まるだけである。四月や五月はなんだかんだイベントが立て続けにあり、たるむ暇などない。本当にたるみがちなのは、六月なのではないだろうか。
なにより、六月といえば、時期的には梅雨である。パラパラと降る雨、降っていなくともどんより曇る空を見て、明るい気分になれというのは無理があった。
賀集夏芽も、憂鬱な気分になっているうちの一人である。席替えで一番窓際の席になったため、嫌でも視界の端に雲か雫が見える。なので、もういっそ真正面から受け止めてやろうと、昼前なのに暗い街を眺めていた。
「なーに、ナッツ。外見てアンニュイな表情しちゃって。考え事?」
「侑士くん」
夏芽の友人の一人、剣持侑士とは今回席が少し離れてしまったが、こうして頻繁に夏芽に話しかけてきてくれる。彼の愛嬌ある笑顔は外が雨模様でも曇ることはなく、その明るさに夏芽の気分も少し晴れるようだ。
「うん、考え事っていうか、外で運動できなくて残念だなって」
「あー、ジョギング始めたんだっけ」
頷きを返す。夏芽は先月の球技大会以来、まずは基礎体力を上げようと、毎日ジョギングをすることに決めたのだ。とはいえまだまだ運動初心者の夏芽がいきなりゼロから始めるのは難易度が高い。そこで友人の一人である山岡潤一に相談したところ、嬉々として練習メニューを考えてくれたのだ。
「賀集が運動に積極的になってくれて、俺はとても感動している」
目を輝かせながら言ってくれた潤一。バレーボールの練習時と同様、なんだか我が子の成長を見守る父のような感想で、少しくすぐったかったけれど。
そして貰ったメニューの通りに身体づくりをしていたが、ジョギングに慣れつつあったところで、この時期になってしまった。潤一が既に雨天時の練習も考えてくれているとはいえ、夏芽としては折角なら外を走り回りたいものだ。
そう伝えると、侑士は相槌を打った。
「まーでも、雨なのに続けられてんじゃん? 偉いよ、ナッツ」
「えへへ、ありがとう」
「それにこのままいけば、夏休みには東堂くらいのマッチョになれるかもよ?」
東堂。不意に紡がれた名前に、夏芽の心臓が跳ねる。
東堂椿希。夏芽のクラスメイトで、保健体育係の男子生徒。黒髪ミディアムのウルフカット、切れ長の目、誰もを魅了する肉体美、隙の無い話術をもつ彼とは、平々凡々な容姿の夏芽では一生関わることは無いと思っていた。だが、四月に倒れた夏芽を看病してくれたり、五月には球技大会で夏芽が後頭部を怪我した際には、自分の試合を放棄してまで手当てをしてくれたりした。今ではすっかり夏芽の想い人である。
そして、そんな彼と同じくらい、夏芽がマッチョになったら。
「良いかも、それ」
「あ、そう?」
「うん。重い荷物とか、代わりに持ってあげたい」
「あ、そう……」
ナッツがそうしたいなら、それで。提案を肯定された夏芽はぐっと意気込む。これからも練習は怠らないでいよう。いつか必ず改めて、彼に格好良い夏芽の姿を見てもらいたい。
会話が一段落したところで丁度良く始業のチャイムが鳴り、侑士は自分の席に戻って行く。会話を弾ませていた他の生徒たちも、名残惜しそうにしつつも着席する。
その様子を見ていた夏芽だが、ふと違和感に気がついた。自分の隣席が空いている。友人である広瀬歩の姿がないのだ。
教室に入ってきた担任の野村明里が、朝礼の号をかけてから、「近くに来ていない人はいますか」と尋ねる。
「あ、あのっ、広瀬くんがいません……!」
夏芽が伝える前に、斜め後ろから声が飛ぶ。声の主は新宮真帆という女子生徒。夏芽と同じ、クラスの園芸係である。普段大人しい彼女が声を上げるなんて珍しいと頭の片隅で思いながら、夏芽も野村の言葉を待った。
「広瀬さんね。体調不良でお休みの連絡を貰っています」
え、と引き攣った声が聞こえる。他の生徒たちも、主に女子生徒がざわついた。その反応は然して気にならなかったが、彼が休みというのには気になった。
(歩くん、どうしたんだろう。すぐに良くなるといいけど)
歩の他に、欠席者はいなかった。だが、最近はこうした体調不良での欠席がちらほら出ていると、別のクラスからも情報が入っている。大抵は二、三日で学校に復帰しているようではあるものの、心配なものは心配だ。
帰ったら連絡してみようかと考えながら、一限の授業へと向かう。
外は今にも雨が降り出しそうだった。
梅雨の間も、園芸係に仕事はある。紫陽花は元気に色づき梅雨を知らせているし、ジニアの世話も仕事の一つだ。高温多湿を嫌う植物は、別の場所に移して面倒を見る。だが夏芽も新宮も、その仕事を苦とは思っていない。鮮やかな色彩は雨に映え、見ている者の心も軽くさせる。
「みんな元気そうでよかったね」
「うん、本当に」
仕事を終えた二人は、室内から窓越しに外の花を眺める。今咲く花のためにも、この後咲く花のためにも、観察は続けなければ。
夏芽がぼんやり花を見ていると、隣の新宮が夏芽を見上げる。
「ねえ、賀集くんは広瀬くんと仲が良いよね……?」
「え? あ、うん。よく話してくれるよ」
特に誤魔化す必要もないので、素直にそう答える。新宮はその答えに小さく微笑み、話を続けた。
「それで、その……広瀬くんから、好きな人の話って、聞く?」
「えっ、歩くんも好きな人がいるの?」
予想外の問いに、思わず質問を返してしまう。夏芽の反応で察したらしい新宮は眉を下げる。
「あ……やっぱり、聞いてないか」
「う、ごめん……。歩くんは自分からそういう話はしないし……だからといってその手の話題を振ると、僕の気持ちまで露呈しそうで」
「そっか……」
夏芽はこの通り、誤魔化すとか嘘を吐くとか、そういうことができない性格で、とにかく思っていることが言動に出やすいのである。初めて東堂椿希への気持ちの芽生えを悟る頃ですら、侑士に「別に隠せてない」と言われた。なんだったら球技大会の時、潤一にも察されていた。新宮や彼女の友人の牧瑠璃子にも、廊下で彼と話していたのを目撃されただけで夏芽の気持ちを知られている。ひょっとしたら、もう歩にもバレているかもしれないが。しかし、隠し事は下手であるものの、自ら周りに打ち明けたくはないのだ。複雑な心である。
そんな夏芽の心情を慮ったのか、新宮は頭を下げる。
「私もごめんね、突然変なこと聞いて」
「ああいや、変だなんて思ってないよ。こちらこそ、何か役に立てなかったみたいで申し訳ないというか」
慌ててフォローするが、彼女の眼鏡の奥の瞳は沈んだままだった。彼女の力になれず、しかも気まずい空気まで流れようとしている。
夏芽がそれをどうにかしようとする前に、新宮の方から声がかかった。
「わ、私、そろそろ行くね。瑠璃子の委員会も、そろそろ終わる頃だから」
「うん、わかった。バイバイ」
おさげ髪を揺らし去って行った彼女を見送り、夏芽も教室に戻り荷物を取ろうと身を翻す。
するとそこで、A組の教室に向かってくる足音が聞こえてきた。新宮が忘れ物でもしたのかと思ったが、違った。
「あ、お疲れ、ナッツ。園芸係の仕事終わったんだ?」
「侑士くん!」
現れたのは、もう見慣れた友人の姿だ。放課後のこの時間に何をしているのかと思ったら、そうだと思い当たる。
「そういえば今日、日直だったね」
「そ。途中までだけど一緒に帰る?」
「うん!」
電車で学校に通う夏芽より、侑士の方がずっと学園に近い場所に家がある。とはいえ学園最寄りの翠清駅前までは一緒に帰ることができる。嬉しい提案に乗っかり、帰り支度をしてともに学園を出た。雨は降っていない。この隙にと二人で帰路につく。
今なら、侑士と歩のことを話せるかもしれない。
「ねえ、歩くん、大丈夫かな?」
「広瀬? あー、うん。アイツ、あんま調子悪いとこ見せないもんねー」
いきなり恋愛のことに関して振るのは、流石に明け透けだ。まずはこの話題をと振ってみる。侑士のことだから、一見軽い言葉を発していても、きっと心の中では夏芽と同じように歩を案じていることだろう。そういう所をみせないという点では、侑士も大して人のことは言えないと思うが。
だがともかく、ワンクッションはこのくらいでいいだろうと、夏芽は聞きたかったことを聞く。
「侑士くんは、歩くんの恋愛事情ってどのくらい知ってるの?」
「は?」
……間違えたかもしれない。主に聞き方を。もしかしたら、タイミングも。
侑士は夏芽の問いに目を瞠り、そして息を吐いた。呆れられている。訂正しようにも遅いので、大人しく彼の言葉を待つ。夏芽がどれだけ妙ちくりんな言葉を発したとしても、必ず応えてくれると知っているから。それは今度も変わりない。
「全く。ナッツはホント、その手の話にニブチンなんだから」
「に、にぶちん」
「広瀬の異名はね、『フルートの王子様』だよ」
「へ?」
思いもよらない言葉が二連続で聞こえてきて、間抜けな声が漏れる。侑士はその反応を気にかけることなく、情報を補足していく。
「広瀬は小学生の頃からモテモテなの。優しくて穏やかで、動物と仲良し」
「そ、そうだったんだ……」
「中等部で吹奏楽部に入ってから、他学年にも知られるようになって、バレンタインはチョコを大量に貰ってるね。数は東堂に勝るとも劣らないよ」
「そ、そんなに⁉」
否、実際東堂椿希がどのくらいチョコを貰っているのか夏芽は知らないが、あの容姿にあの性格だから、きっと抱えきれないほどの数に違いない。そしてそれに勝るとも劣らないと言わしめる歩のモテモテ度。夏芽には想像もつかなかった。
そして今気がついたが、文武両道で人当たりの良い剣持侑士と、漢らしい格好良さをもつスポーツマンの山岡潤一、幼い頃からモテモテの王子様である広瀬歩――この三人が友人としていつもそばにいてくれるなんて、滅多に出会えない奇跡なのではなかろうか。夏芽の平凡さが際立ってしまっているような。しかも更に贅沢なことに、平凡な夏芽の想い人は非凡な男である。
「てか急にそんなこと聞いてどうしたの? 東堂から広瀬に乗り換えるつもり?」
「ま、まさか! 歩くんは大切な友だちだけど、僕の好きな人は椿希くんだけだよ!」
不意に尋ねられたことに、全力で訴える。確かに歩の恋愛事情を気にするなど、いかにもそれっぽいかもしれないが、誤解だ。あの瞳で見つめられた時から、夏芽は椿希の虜になって、沼から抜け出せない。
「知ってる」
生ぬるい風が吹き抜ける。
――意外にもあっさりと返され、夏芽の方が拍子抜けしてしまった。だがその眼差しはどこへ向けられているのか、その声はどうして普段よりワントーン低かったのか、それを推しはかろうとする前に、侑士の視線は夏芽に戻り、口元には普段と変わらぬ笑みがたたえられた。揶揄われただけかもしれない、今のは。
「誰かに相談されたんでしょ。広瀬に恋人がいるかとか、懸想中かとか」
「う、うん。でも僕、そういえば歩くんからそういう話聞いたことないなと思って」
「残念だけどオレも知らないよ。アイツに付き合ってる人がいるとかも、今まで聞いたことない」
夏芽は目を見開く。自分よりは確実に付き合いの長い侑士がそう言うのだから、信憑性に関しては心配していないが、だからこその反応である。モテるのに交際経験が無いとすれば、可能性は――。
黙って考えこもうとする夏芽を、侑士が呼ぶ。そのおかげで懊悩は阻止された。
「こーゆー時はさ、本人に聞くのが一番じゃない? ナッツにとってはさ」
ああ、彼の言う通りだ。逃げも隠れもしない――もとい、逃げも隠れもできない夏芽には、その方法が最も手っ取り早く、考えすぎずに済む。
しかしその前に、まず歩の体調の回復が優先である。恋愛の話の如何に関わらず、早く元気になってほしい。
そのために、夏芽は何ができるだろうか。
✻
「この時期の体調不良っつったら、まー大方水分の影響だわな」
「水分……?」
自分の席にどっかりと腰を落ち着けている東堂椿希。彼をこの放課後の教室に呼びだしたのは、賀集夏芽その人である。
昨日散々考えたが、看病の経験も知識もない夏芽が、歩のためにできることなど果たしてあるのかどうかという結論に至った。しかしだからと言って床に臥す友人を放置できるほど非情ではない。そこで彼の知識を借りようと思った。
が、いきなり発言にピンと来ない。きょとんとした夏芽の様子を見て説明を続ける。
「人間の身体の半分以上は水分でできているが、今の時期は一年の中でも多湿で、その水分の調節が難しい。水分過多が人体に与える影響が、大きく言やあ体調不良ってわけだ」
「なるほど……」
「具体的には倦怠感や食欲不振、胃腸運動機能の低下あたりがわかりやすいか」
納得した夏芽は頷いた。四月の夏芽も食欲がわかない時期があったが、それと似た症状と考えていいだろう。
そんな夏芽に、胡乱な眼差しを向けるクラスメイト。
「で? なんでンなこと聞くんだよ。お前が体調悪いってわけじゃなさそうだが」
「あ、うん。歩くん、昨日から休んでるでしょ? 看病、何かできないかなと思って」
「看病ねえ。お前、歩が好きになったのか?」
唐突な言葉に、夏芽は固まった。一瞬何を言われたのか理解できず、そしてそれを咀嚼して呑みこんでも、やはりわからなかった。口から滑り出てきたのは、「え?」という間抜けな声だった。
「看病したいって思うんだろ? それって、歩のことが気になるから、じゃねえの。……俺よりも」
――どうしてこうも、あらぬ誤解を生んでしまうのだろう。自分のコミュニケーション能力の無さにはほとほと呆れてしまう。だが呆れるよりも先に、自分の真意をきちんと伝えなければならない。自己嫌悪はやめて、想い人を見る。
「それは、歩くんは友だちだからだよ。友だちだから、早く治ってほしいし、どうにかしてあげたいと思う」
「じゃあ、俺は?」
「つ、椿希くんは……」
そうだ、この説明もしなくてはならないのだった。改めて口にするのも気恥ずかしいが、誤解させたままでいるのは嫌だ。だから、思わず彷徨いそうになった視線を意地で彼のものと結ばせる。
「好きな人、だよ。椿希くんがもしも病気になっちゃったら、僕がつきっきりでそばで看病したいよ。友だちでも好きな人でも、どちらも大切な人だから、苦しみは和らげてあげたいんだ」
「そ、そういうモン、なのか?」
「そういうモンだよ」
しっかりと首肯してみせると、納得したのか――もしかしたら納得していないかもしれないが、椿希はふうんと鼻を鳴らす。だがその目元が僅かに赤らんでいるのは、きっと気のせいではない。
だから今度は、夏芽の方から尋ねることにした。
「椿希くんこそ、どうなの?」
「お、俺?」
「そう。椿希くんはどうして、僕のことを診てくれるって約束、してくれたの?」
「そ、れは……」
いきなりの問いに、椿希の瞳が揺れた。珍しい反応だ。診察中は絶対に見せてくれない。視線を逸らしているのはきっと答えを出しあぐねているからだろうが、そんな新鮮な表情さえも愛おしい。
そっ、と一歩前に出ると、椿希の整った顔面がよく見える。もっとその表情を見ていたい。ふらついていた瞳が、ゆらりと夏芽を映す。
自分の想いが、彼の態度が、更に夏芽の顔を椿希へと近づけさせる――
「あー、お二人さん。主旨がずれてきてますよー」
「っ⁉」
背後に胡瓜を置かれた猫もかくや、夏芽は物凄い勢いで後ろに飛び上がった。ガタンと机が大きな音を立てる。第三者の声は、教室の後方に設置された棚の方から飛んできた。
夏芽の反応を見たその人物が、わざとらしく深い溜め息を吐く。
「ナッツってばひどーい。オレの存在忘れて盛り上がっちゃって」
「ご、ごごごごめん侑士くん! 忘れてたわけじゃなくて!」
「夏芽が見せつけるのスキなのかと思ってたが、違うのか?」
「ち、ちがうよ⁉ そんな趣味ないから! 本当に!」
侑士はここで夏芽と椿希が話し始めた時から、ずっと今と同じ位置にいた。それは夏芽が事前に頼んでいたからだ。だが侑士が夏芽の好きなように喋らせてくれており、完全に黙って話の成り行きを見守っていてくれていたので――実際、忘れていた。なんとも失礼な話である。反省しなくては。慌てた弁明も、二人にはあまり気にされていないようだ。
「じゃあなんで侑士も呼んでンだよ?」
「あ、うん。歩くんの看病、僕だけじゃ力不足かもしれないから、侑士くんにも手伝ってもらおうと思ってたんだ」
そうだった。今ここでするべきなのは椿希を問い詰めることではなく、歩の体調を回復させる術を知ることである。本当に反省しなくては。
夏芽から理由を聞いた椿希は、頭の後ろで手を組んだ。
「俺も別に詳しくはねえけど、食欲不振の時にも食べやすい料理は作ってやれるんじゃねえの?」
「料理って、おかゆとか?」
「それは主食な。おかずも作ってやらねえと」
「おやつは?」
「まー……お前が作りたいってンなら、そうしろ」
侑士はおやつを作れるのが嬉しいのか、輝かしい笑顔を浮かべる。夏芽は密かに尊敬した。自分にはそういったものを進んで作りたいという思いはなく、また体調不良の時の食事といえばおかゆか雑炊くらいしか思い浮かばない知識量だ。確かに主食だけ用意して看病した気になっているようではいけないだろう。
「まずレシピの考案からだ。歩にアレルギーはあったっけか……」
「それは無い。でもうってつけの好物ならある」
「そ、それは……?」
夏芽が尋ねると同時に、侑士が棚を離れつかつかと歩き出し、白のチョークを手に取った。その手が黒板に描いたのは、四角い物体。それだけ描いて、夏芽と椿希の方に振り返る。
「豆腐」
「と、豆腐……!」
思わず口を覆ってしまう。そういえば、歩の弁当にはいつも豆腐を使った一品があるし、食堂で食べるときは麻婆豆腐を頼んでいるし、浅草に本店をもつ老舗の甘味処『つぶら屋』ではおからドーナツを定期購入していると言っていた。何をどう考えても、広瀬歩は生粋の豆腐好きである。
「そりゃ良いな。メニューも考えやすいじゃねえか」
椿希もその情報にご満悦のようで、にやりと笑っている。そして大袈裟な動作で椅子から立ち上がると、侑士の横に並び、自らもチョークを手に取り『主食』『おかず』『デザート』と書いた。
「さてと、どうすっかね。あいつの身体を満足させてやるには――」
夏芽はメモ用紙の締めくくりに鉛筆の先を押し付け、机に置く。黒板に書かれた情報は、これで全部写し終えた。
「ああ、考えたら食べたくなってきたな。家で作ろっかなー」
お腹を擦る侑士の視線の先には、歩用にと考えたデザートの材料とレシピが書かれている。よほどデザートが好きらしい。否、もうすぐ最終下校時刻の十八時だから、単純に今空腹であるというだけなのかもしれないが。
夏芽は手元のメモの隣にある手帳を開きながら、先ほどまでのことを思い返す。
椿希は「俺も別に詳しくはない」と言っていたが、主に侑士がこういうのはどうだと一つ提案すると、椿希はそれならこの食材が適切だとか、こっちを買おうとか、何倍にもなってメニューを考案していっていた。球技大会の練習に誘ってくれた時に差し入れてもらったドリンクも、彼の手製だと言っていたので、彼は栄養にも造詣があるのだ。ますます惚れ直してしまう。
今も黒板消しを黒板に滑らせるというごくシンプルな作業をしている椿希の姿にも目を奪われそうになる……のをなんとか堪え、侑士に声をかける。
「それで、明日はどこに集合?」
「川蝉町駅前。近くにスーパーがあるから、そこで材料を調達して、広瀬の家に行く。もうアポはとってあるよ。キッチンも使わせてくれるって」
合点承知だ。川蝉町駅は学園の最寄り駅の一つ前。夏芽の家からは一時間ほどかかるが、友人のためならなんと言うことはない。
土曜日で休校である明日の予定を確認した三人は、手早く帰り支度を始め、学校を出る。あまり残っていると教師陣にご注意をいただくことになるのだ。徒歩通学の椿希と校門前で別れ、侑士とともに駅前まで歩く。その間も、二人は他愛のない話を続けた。
「侑士くんは歩くんの家、行ったことあるの?」
「オレも山岡も何回か。オレらにしてみればお互いに近所だからね」
「そうなんだ……良いなあ」
所詮編入生で余所者の夏芽には到底かなわない、彼等だけの繋がりもあるだろう。純粋に、羨ましいと思う。夏芽も幼稚園や小学校から中学まで一緒だった相手が何人かいるものの、こちらに越しても連絡をしてくれるような友人はいない。だがそれも仕方のないことだ。今更取り返しはつかないのだから。
隣からそんな思いの滲みを感じた侑士は、明るい笑みで精神的に寄り添うように言葉をかけた。
「オレたちも、ナッツの家行くよ? 東堂も連れてさ」
「へっ⁉ う、うん、ううん……?」
「どしたのその反応」
その意図も、その言葉自体も夏芽には心からありがたいものだったが、ひっかかる部分があったために微妙な相槌を返してしまった。これには侑士も困惑する。勿論友人を家に招くのは夏芽としても心躍るイベントだが……と、夏芽は頬を掻きながら今の反応に至った思考回路を説明してやる。
「いや、遊びに来てくれるのはとても嬉しいんだけど……その、両親と僕の趣味って似てるからさ」
「うん」
「椿希くんが僕の好きな人だって知ったら……それはもう気に入って、夜通しパーティーとかしそうで、恐ろしいっていうか」
「夜通しパーティー」
可笑しそうに侑士が噴き出す。夏芽も苦笑いを浮かべた。これで別に冗談のつもりでは言っていないのだが、まあ友人が笑ってくれたのでよしとしよう。もし招待が叶って、友人たちや椿希も夏芽の両親を好きになってくれたら嬉しいと思う。
そしていつか、侑士や潤一、椿希の家にも訪れてみたい。過ぎた時間は戻らないが、これから思い出を作っていきたいと、そう願う。
「明日、頑張ろうね、侑士くん」
「うん、世界一美味いおやつを広瀬に振舞ってやらないと」
✻
翌日。両親に見送られた夏芽は、元気いっぱい歩き、電車に乗る。時刻が変わるだけで土日でもきちんと運用してくれる交通網には、未だに感動と尊敬の意を覚えるものだ。いつも急行電車で学園まで行くが、それでは川蝉町駅では停車しないため、各駅停車で空いている席に座り、いつもより遅く移り行く景色を眺めながら到着を待つ。
川蝉町駅に降りるのは初めてだったが、改札の数は多くなく、待ち合わせ場所には迷わず辿り着けた。迷わなかった理由は、もう一つあるが。
「はよ、夏芽」
「おはよーナッツ」
駅前に立つ男二人が、最早他人の待ち合わせスポットにでもなっているのか――人だかりができていたのだ。ワイルドな美男と利発さの滲むイケメンが立っていれば、それは確かに待ち合わせスポットと化してしまうだろう。それも夏芽の登場で、終わってしまうけれど。
「二人とも、遅れてごめん!」
「いや、待ち合わせ時間前だよ? 東堂が時間前に来るのは意外だったけどね」
「別にいいだろーが」
椿希は五分丈でオーバーサイズのカットソーを着ているが、それでも布から伸びる逞しい腕は健在で、ピッチリとしたズボンは却って美しい筋肉を強調していた。侑士は柄物のリネン製のシャツだ。どちらも大変イケてる男子高校生である。ファッションの勉強もして前回の椿希との練習時よりはしっかりした格好をチョイスしたつもりだが、夏芽が見劣りしていないか心配だ。自分も歩の友人としてご家族に恥のない姿でいたいのだが。
「それじゃ、材料の調達と洒落込むか」
「おー!」
「スーパーはこっちね」
何はともあれ、『歩に元気になってもらおう』作戦の開始である。侑士の案内で近くのスーパーに向かった。効率を考えて、予め三人でそれぞれ購入するものを決めておき、自分の籠に入れレジに通す。各々が買うものは大体同じコーナーにある物で固めてあるので、材料が全部揃うまでにそう時間はかからなかった。
「お、俺が最後か。無事に買えたみてえだな」
スーパーの外で待っていた夏芽と侑士を見つけると、大きな袋を提げた椿希が出て来た。そんな彼の手元を夏芽がじっと見ているので、椿希は片眉を上げる。
「……どうした、夏芽? 俺もちゃんと全部買ったぜ?」
「えっ、あ、ううん! そうじゃなくて、その……」
「もしかして東堂もニブチンなの?」
「は? 俺はそんなんじゃねえけど」
恐らく侑士の言葉の意味を変な方向に勘違いしている椿希だが、もじもじとしている夏芽にそのやり取りは全く聞こえていない。
だが侑士も援護しようとしてくれていることはわかる。ここで決めなければ男が廃るというものだ。意思を示すように、勇気を出して声を上げた。
「っ、椿希くん! 僕、椿希くんの荷物持つよ!」
「あ? 別にいいよ、重くないし」
「そ、そっか……」
「ナッツのオトコゴコロを汲んでやりなよ……」
夏芽の試みは敢え無く失敗した。にべもない断りの台詞に、溜め息交じりにボソッと呟く侑士。明らかにテンションの下がった二人の様子を見てクエスチョンマークを浮かべた椿希は「よくわかんねえけど、歩ン家行くぞ」と歩き出す。本当によくわかっていない。夏芽のオトコゴコロと、侑士のフォローを。
「また機会はあるでしょ。置いてかれるよ」
落ち込む夏芽だが、侑士にそう励まされ頷き、歩き出した。椿希よりも筋肉ムキムキになったら、頼ってくれるかもしれない。それまでは筋トレを頑張ろうと、心に決めて。
スーパーの近くの交差点を過ぎると、閑静な住宅街が現れる。翠清学園周辺の住宅街と同様、一軒一軒が大きく広い庭を持っている。引っ越す前は賀集家も一軒家に棲んでいたが、この辺りの住宅ほど大きくは無かった。
十分も歩かなかったくらいで、『広瀬』と彫られた石の表札が現れた。例に漏れず豪華な住居である。侑士がインターホンを押すと、『はい』とくぐもった声が聞こえてきた。
「どうも。剣持です」
『ああ……どうぞ』
ガチャンと音がして、門が解錠された。煉瓦で整備された小道を通り、侑士の手が扉を開ける。
「なーん」
「うお」
その途端、予想外の声が聞こえてきて夏芽は固まる。その声の持ち主は侑士に飛びついた――もふもふの毛玉。侑士は目元をやわらげ、毛玉を撫でた。
「久しぶり、日光」
「なーん」
「お待ちしていました、皆さん」
その奥から、これまた聞いたことのない声がかかる。驚いてその姿を見ると、そこには歩の姿があった。……いつもより口調が丁寧だが。あと、いつもより小さいが。
「どうも、進くん。今日はよろしく」
「少しの間邪魔するわ」
「はい、東堂さん。そちらの方は――」
シンくん、と侑士に呼ばれた少年は、眼鏡越しにきょとっとした瞳で夏芽を見上げた。呆然としていた夏芽は我に返り、慌てて頭を下げる。
「も、申し遅れました! 僕、あ、わたくしは賀集夏芽といいます! 歩くん、じゃなくて、歩さんとは、いつも仲良くさせてもらっています!」
「ああ、あなたが賀集さん。兄からお話は伺っています。僕は歩の弟の進です」
兄弟。口の中で呟く。ふんわりとした髪質や目元の黒子、賢そうな雰囲気は兄弟でよく似ているようだ。聞けば翠清学園の中等部に通っているという。
侑士が飼い猫だというラガマフィンの日光を床に下ろすと、兄弟猫の月光がやって来て、どこかの部屋に行ってしまった。夏芽も撫でてみたかったが、今から料理をするから侑士も放したのだろう。用事が終わるまで我慢だ。
「キッチンはお好きに使ってください。何かあったら遠慮なく聞いてくださいね」
「ありがとう」
進は『シンの部屋』というプレートがかかった部屋に戻った。三人でキッチンに赴き、袋から材料を取り出した。
最新家電の揃えられたキッチンは清潔に保たれている。広々としており男子高校生三人が立っても狭さを感じない。手を洗ってエプロンをする――侑士のエプロンはシンプルな青いものだが、椿希は割烹着を着だした。二人ともよく似合っている。料理開始の音頭を取るのは椿希だ。
「じゃ、ぼちぼちやるか。役割の確認な。俺は主食」
「僕はおかず!」
「オレがデザートね」
「自分の作業が終わったら、他の料理の手伝いするってことで」
かくしてそれぞれが料理を始める。夏芽の担当はおかず。二種類頼まれているので、うまく同時進行をできるかどうかが鍵だ。
まず、食材を切る。ニンジン、ジャガイモ、絹さや、そして豆腐。それぞれの切り方に注意しながら、皮を剥き、筋を取り、レシピ通りに形を整える。ニンジンとジャガイモは一旦電子レンジで温め、そのうちに鍋とフライパンの用意をしておく。
「なんつーか、たまにはいいな、こういうの」
主食を作る椿希が、手を止めないまま呟いた。夏芽と侑士も自分の作業を止めなかったが、視線だけは彼の方に向ける。
「自分で作ってる時は思わねえけど、今は――なんか、楽しい。誰かのためって、明確な目的があるからかもな」
チン、と場違いな軽い音がする。電子レンジを開けて手で耐熱皿を包んで取り出した夏芽は、椿希に向けて微笑みかける。
「僕も楽しいよ。こうして並んで食事の準備をしていると、なんだか家族みたいで」
「……そう思うか?」
ようやく手を止め、椿希も夏芽を見た。どこか思い詰めたようなその表情を、少しでも解してあげられるよう、頷いてみせた。
「心から」
「――そっか」
それだけ言って、椿希は再び手元に視線を戻した。髪で隠れて顔は見えないが、こういう時は決まって彼は顔を赤らめているので、夏芽も覗きたい気持ちを抑えて自分の作業を再開する。
その二人のやり取りを、侑士は黙って眺めていた。
「よし、出来上がり!」
三十分もしないうちに全ての料理が出来上がった。かきたまにゅう麺、煮物、豆腐炒め、かぼちゃの金団。夏芽は目を輝かせ、その彩りに感激する。これで栄養価も高いのだから、良いことづくめだろう。
「豆腐の匂いがする」
「広瀬」
好物の匂いを嗅ぎつけたらしい歩が、タイミング良く現れた。彼は寝間着姿で、いつも制服をしっかりと着こなす姿とはギャップがある。両手で綿を包んだ時の感触のような、ふわりとした笑みは健在だが。
「皆、わざわざ来てくれてありがとう」
「いいえ。体調はどう?」
「うーん、まだあまり本調子ではないけど。でも皆が作ってくれたそれ、是非いただきたいな」
「おー。食えよ、歩」
テーブルに並んだ料理はつやつやと光る。いただきますと手を合わせた歩は、落ち着いた所作で食べ始めた。その様子を、固唾を飲んで見守る夏芽。暫くして、僅かに喉仏を上下させた歩がぽつり呟く。
「すごいな、これ。あまり食欲は無かったけど、これならずっと食べられるかも」
「よ、良かった……!」
「それを狙って作ったんだ、そうじゃなきゃ困るわ」
胸をなでおろす夏芽の隣で、椿希は得意げにしている。侑士も満面の笑みだ。
――一人分の献立をじっくりと堪能したらしい歩は、竹串を置いて手を合わせた。全ての皿が綺麗に空っぽになった状態で。
「ご馳走様でした。とても美味しかったよ」
「お粗末様でした」
「問題無さそうだな。他にもいくつかレシピ持ってきたから、治るまではそれ作ってもらえ。進たちの今日のおかずも一応作っておいたんで、冷蔵庫に入れた」
「そんなことまで……ありがとう、東堂」
椿希からレシピを受け取る歩。夏芽は椿希が歩のご家族の分の料理を作っていたのは知っているが、レシピについては初耳だったので内心驚いた。椿希はどこまでも他人のことを気遣える人なのだと、改めて実感した瞬間だった。
「じゃ、オレらは片づけしたら退散するから」
「猫と遊んでやってからまた寝ろ。ちっとでも身体は動かしとけよ」
「歩くん、早くよくなってね。また学校で会おう」
「何のお構いもできなくてごめん。また、月曜日に」
春の日に咲き誇る花畑を舞う蝶さながらの様子で、微笑みをたたえ自室に戻った歩。食事を採る前よりも、ずっと顔色がよくなっていたような気がした。
だがそこでちょっとした引っかかりを覚えた夏芽は、この場にいる相手にしか聞かれない程度の声量で椿希に尋ねる。
「椿希くん、歩くんの診察はしなくてよかったの?」
「あ? ま、大体は見てればわかるからな。この調子なら、明日には快復するだろ」
「ふーん?」
椿希の言葉を聞いて鼻を鳴らしたのは、何故か夏芽ではなく侑士だった。その反応に首を傾げる二人だったが、侑士は理由を答えることもなく、訳知り顔で洗い物をするだけだった。
✻
「本当に良かったよ、具合が良くなって」
「ふふ。賀集くんたちのおかげだよ」
月曜日。元気に登校してきた歩を迎えた夏芽は、放課後中庭へと彼を連れて来た。各クラスが手塩に掛けて育てている花々が、雨粒を飾りとし輝いている。日暮れまでの時間が延びており、頭上はまだ青空が広がっていた。
紫陽花に手を添えていた歩は、不意に背後の夏芽を振り返る。
「それで、僕に聞きたいことがあったんだよね?」
「えっ⁉ ど、どうしてそれを……?」
「ずっと物言いたげな顔をしていたから」
ぱっと自分の両頬を包む夏芽。物言いたげな顔――そんなにそれっぽい顔をしていただろうか。確かにいつ切り出そうかと心の中でタイミングを伺ってはいたが。しかしバレてしまっては仕方がない。病み上がりに申し訳が立たないとは思いつつ、夏芽は口を開いた。
「あのね、歩くんには好きな人がいるのかって、気にしている人がいて……」
「それは、賀集くんではないよね?」
「ぼ、僕じゃないよ! 勿論歩くんのことは、友だちとして大好きだけど!」
「うん、知ってるよ。ごめんね、揶揄っちゃって」
にっこりと微笑まれ、内心ヒヤッとする。もしかして、夏芽が誰かを、更に言えば東堂椿希を好きでいることが、歩にも悟られてしまっているのではなかろうか。
こっそり冷や汗をかく夏芽に、一呼吸置いた歩は言った。
「その子に伝えておいてくれるかな。もし僕のことを好きになってくれたなら、僕に直接言いにおいでって」
「え……? でも……」
「大丈夫。その子に、告白してくれたことを後悔させるような真似はしないから」
逡巡した夏芽だが、歩の言葉と意思の重みを感じ、最終的には黙って頷く。その反応を見届けた歩の、纏う雰囲気が変わった。
「気になることはさ、自分の目で、自分の耳で、確かめたいものだよね」
夏芽の脳裏に、似た言葉がリフレインする。東堂椿希の、あの言葉だ。
――俺、気になるコトは全部脱がせて暴かねえと気が済まねえから。お前はどうだろうな?
「君も、知っておくべきだよ。君の想う相手が、どんな人生を歩んできたか。どんな価値観を持っているか。君を、どう思っているか」
全てを知った時。君はその上で、相手を想い続けるのかな。
【七月】バチバチ、東堂くん!
梅雨が明けると、晴れの日が続く。入道雲が遠くに見えると、一気に夏の空気を感じるというものだ。蝉の声も響き、むわっとした空気にうんざりしている生徒も多いようであるが、賀集夏芽は夏が好きだ。産まれたのが夏だから、というのもあるかもしれないが、何より夏は思い出を作る絶好のチャンスが沢山あるのだ。
「ま、それも期末テストが終わってからだけどねー」
自分の席でぐっと背伸びをしながら現実を突きつけてくるのは、剣持侑士。この学園に編入してきた夏芽の、初めての友人である。苦笑を返す夏芽の横で、ふっと溜め息を吐くのは、こちらも友人の山岡潤一。
「テスト期間は少し憂鬱だ。部活動が一週間も禁止されてしまうからな」
「でも梅雨と違って今は晴天続きだから、外で自主練できる日も増えるんじゃない?」
真面目な理由で悩む潤一に尋ねるのは、もう一人の友人である広瀬歩だ。夏芽はこの約四カ月、彼等とよく一緒にいさせてもらった。叶うならば、夏休みもこの四人で遊びに行って思い出を作りたいものだと思う。
「確かにそうだが。広瀬、お前もやるか? お前は先月あまり運動できなかっただろう」
「うん。でも僕、もうすぐコンサートだから。そっちの練習もしたいんだよね」
「そうか、今年も多忙だな……」
歩の属する吹奏楽部のコンサートは来月の上旬に開催されるからと、夏芽たちは既に招待を受けている。潤一の口ぶりからするに、歩は中等部からずっと練習に精を出してきたのだろう。そんな彼の生演奏が聴けることを、夏芽は楽しみにしていた。
「でもオレたち、もう高校生じゃん? テスト前だってのに、こんなの渡されるしさー」
侑士が手元の紙をぺらりと振る。夏芽もそのプリントを見下ろした。――進路相談の提出用紙、である。この私立翠清学園は、エスカレーター式の学校で大学も併設されてはいるが、外部受験や就職を選択する生徒も少なからずいるのだ。それぞれの生徒の数を早期のうちにある程度把握したいという学校側の意図があり、高等部一年の夏休み中、進路相談が義務付けられていた。提出締め切りはテスト後の、土日を挟んだ終業式前日だが、もう既に提出している生徒もいるという。
「正直、僕はまだ内部進学とか外部受験とか、よくイメージできないな」
「ナッツはここ来たばっかだもんねー」
「参考になるかはわからないけど、僕はもう決めてるよ」
「歩くん、本当?」
すんなりと告げられ、目を見開く夏芽。夏芽が聞くと、歩は頷いた。
「僕は外部受験で、美術大学に通うんだ。芸術を極めて、表現の高みへ挑みたい」
「そっか、美大……」
言い淀むことのない様子に、確かな意志を感じて嘆息する。歩ならきっと、望む進路を進んでゆけるだろう。
机に肘をついた侑士は、歩から潤一へと視線を移した。
「それでいったら、山岡は体育大学に通うの?」
「あ……ああ、推薦で狙うつもりではいる。だが、個人的には内部進学で経済学を学びたいとも思うんだ」
「へえ、経済学部! なんだか意外かも」
「そうだな、まだ迷いはあるが。いずれにせよ、大学でも運動は続けるつもりだ」
夏芽はその言葉に納得する。潤一も進路をある程度定めているようだ。潤一は経済学部を目指せるくらいには座学の成績もよく、得意な運動一辺倒というわけではない。夏芽にはそういった器用なことは難しい。
残るは侑士だが、彼はどういう進路を考えているのか、あまり想像がつかない。
「侑士くんは?」
「オレ? オレは内部進学するつもりだけど、すぐ留学かなー」
「りゅ、留学⁉」
予想だにしていない言葉だった。侑士の言語学の成績は学年随一だという事は承知の上だが――そうか、留学か。聞けば、ヨーロッパのどこかの国に行く予定だという。イギリスならば九千キロメートルはある。あまりにも遠い距離だ。
「そんな捨てられた子犬みたいな顔しなくても。向こうに長居する気はないよ。それに、まだ先の事だからさ」
「う……うん」
わかってはいたが、三者三様の進路を示された夏芽は肩を落としてしまう。外部受験はもとより、内部進学をしたとしても、今のように毎日顔を合わせることはなくなるだろう。そのことを純粋に寂しく思うくらいには、夏芽はここでの高校生活と、友人たちの存在を宝物だと感じていた。
「あっ、山岡! まだ教室いたー!」
「ひ、広瀬くん……!」
するとそこで教室の扉が開き、クラスメイトの牧瑠璃子と新宮真帆が現れた。彼女たちに名を呼ばれた二人は、自らのカバンを手に取る。
「一緒に帰ろ!」
「ああ。悪いな、剣持、賀集。先に帰らせてもらう」
「広瀬くんも、か、か、……」
「うん、帰ろうか、新宮さん」
「皆の衆、バイバーイ」
侑士がひらひらと手を振る。帰りの挨拶をした四人は、教室を出て行った。その場に残されたのは、夏芽と侑士のみだ。祭が終わったかのような静けさは、本当にそうであれば余韻にも浸れたはずであったが、今この状況ではただ虚しいだけだった。
背もたれに上体を預けきった侑士が独りごちる。
「恋人と下校……青春だねー」
「……」
夏芽は無言にならざるを得なかった。
新宮は六月が終わる頃、歩が学校に復帰して少ししてから、歩に告白したという。そして受け入れられ、恋人になったそうだ。幸せそうに「応援してくれてありがとう」と笑っていた新宮の表情は印象的だった。彼女は今でも照れるらしいが、フォローする歩の瞳にも彼女への親愛が見て取れた。
潤一は、夏芽が全く気付いていない間に牧と付き合い始めていた。二人ともスポーツに造詣があり、真っ直ぐな性格であるところも似ている。
どちらのカップルも互いが互いを想い合う関係性だ。けれど……。
俯く夏芽に、侑士は声をかけた。
「あのさ、ナッツ。オレたちが違う道を行くにしたって――」
「ごめん、侑士くん。僕ももう帰る」
「え?」
だがその言葉を最後まで聞かず、自らのカバンを強盗のように手に取り教室を飛び出した。脇目もふらず走って廊下に差し掛かった時、壁を曲がりきったはずなのに、壁にぶつかる。
「うお、夏芽?」
「っ、椿希くん……」
「ちゃんと前見て歩けよ、危ねえだろ」
それは壁ではなく、夏芽のクラスメイトで想い人の、東堂椿希だった。椿希はいきなり飛び込んできた夏芽にそう言ったが、口調には怒りというより労りが滲んでいる。
大きな手が夏芽の頭を撫でた。普段ならばきっと嬉しいだけで終わるのだが、今はもう、それだけで片づけることはできない。
「椿希くんはどうするの」
「は?」
「もう決めてるの、進路」
「進路? あー……俺は――」
「そうだよね。もう決めてるよね。だって君の知識と技術は本物だもん、医者になるんでしょ?」
「それは……」
早口で聞く夏芽に、彼は目を逸らし言葉を濁している。彼は洞察力が高いから、夏芽の気持ちを察して、既に決めているものを言わないようにしているのかもしれない。
嗚呼、彼も夏芽から離れていくのか。嫌だ、それは。それだけは絶対に。――ならば。
「椿希くん、僕を抱いてよ」
「……は?」
「僕を君のものにして。君の唯一になりたいんだ、そうすればずっと――」
ずっと繋がっていられる。離れていても、「東堂椿希に抱いてもらった」という事実があるから、寂しくはない。だから、この身を、君のものにしてほしい。
きっと彼ならば、頷いてくれる。
「悪いけど、無理だ」
「……え?」
――頭にボールがぶつかった時よりも大きな衝撃が、身体中を迸った。
縋っていた身を放される。その手つきはひどく優しかったものの、同時にそれ以上は近づけさせないという固い意思も感じられた。目を見開き棒立ちになる夏芽を、彼は眉根を寄せて見下ろす。
「今のお前は抱けない。……少し頭を冷やせよ。それができるまでは俺に関わるな」
「え……とっ、東堂くん!」
去って行く彼は、夏芽の呼びかけに答えない。何度呼んでも、彼が立ち止まってくれることも、彼が振り返ってくれることも、夏芽を見てくれることも、なかった。
誰もいなくなった昇降口を前に、夏芽は膝から崩れ落ちた。拒絶、されてしまった。彼にも。
「ナッツ」
愕然とする夏芽を見かねたのか、後ろから静かに声をかけてくる友人。いつから見ていたのだろう。もう、どうでもいいけれど。
「……帰ろう。一旦落ち着かなきゃ」
差し伸べられた手をぼんやりと取り、ふらふらと立ち上がる。四月の自分とは全く違う意味で、覚束ない足取りで帰路についた夏芽であった。
✻
それからの一週間を、夏芽はどう過ごしたのだろうか。全く覚えていない。茫然自失の状態で、時々友人たちが案じて声をかけてくれていたけれど、きちんと対応できていたかも曖昧だ。進路相談のプリントも、当然真っ白のまま。
そんな状況で期末テストを受けたところで、まともに高得点を採れるはずがなかった。日頃の授業と予習復習のおかげで赤点を採ることはなかったものの、前回の中間試験よりは目に見えて点数が下がっていた。だがこの結果に関して、特に思うこともない。
「ナッツ、お疲れ。今日はもう帰る?」
テスト返却日、侑士に尋ねられたが、夏芽はそれを断った。今はもう少しここにいたい。そう伝えると、何か言いたげに侑士は眉を下げたが、最終的には「俺、予定あるから……じゃあ、また来週」と先に下校していった。潤一や歩も既にいない。きっと恋人と帰ったのだろう。
教室にいるのは夏芽と、東堂椿希とその友人たちである。皆、東堂のテスト結果について盛り上がっている。
「やー、流石東堂だわ。相変わらず保健満点」
「お前らも良い点採りてえなら、俺が教えてやるぜ?」
「ははっ、そりゃ勘弁だわ」
「ええ、私は椿希になら教えてほしいなー!」
「わたしもー!」
「別に構わねえよ。泣いても知らねえけどな」
きゃあきゃあと声を上げる女子生徒たちと、東堂の物言いを面白がる男子生徒たち。彼はまた、夏芽以外の誰かをその腕に抱き、あの瞳で見つめるのだろうか。そうして、遠く離れていくのだろうか。自席で盗み聞きをしている夏芽と、大勢に囲まれる彼の視線が合うことがないのは当然だ。けれど、もう無理だ。考えたくない。
ここにいたいと思っていたはずなのに、次の瞬間には居たたまれないと席を立った。残るんじゃなかった、と思った。ここにいたいと思うことは、ずっと一緒にいたいと思うことは、間違いなのだろうか。
間違いなのだろう。おかしいのは夏芽だ。皆、とっくに将来を見据えて歩き始めているのに。夏芽だけが「ここにいたいから」とその場で足踏みをしているだけ。
それを振り払いたくて、席を立ったはずなのに。足は思うように動いてくれない。本当に鬱陶しい。何もかも。
「アンタ、賀集夏芽よね?」
突如、知らない声が夏芽を呼ぶ。振り返って相手の姿を見たが、腕を組み仁王立ちする彼女のことは、誰だかわからなかった。
「……誰、ですか」
「メグっていえばわかる? B組の入倉恵」
メグ。イリクラメグミ。どちらの呼称も聞き覚えがない。首を横に振ると、呆れたように眉を顰めた。
「ああそう。椿希から聞いてないの」
ツバキ。その名に該当する人物は一人しかいない。だが彼は夏芽の前で他の生徒の話をすることはあまりなく、あったとしても侑士たち夏芽の友人三人のことくらいだ。つまり、やはり夏芽は彼女のことは全く知らないということである。入倉と名乗った彼女は、夏芽を睨めつけた。
「椿希の元カノ。言っておくけれど、アタシが一番彼女歴長かったから」
夏芽は僅かに瞠目した。彼女。東堂椿希の、元恋人。夏芽は全く知らなかったが、確かにあの容姿であの性格なら、そういう存在がいたっておかしくはないだろう。それも、彼女は彼に釣り合うくらいの美貌をもっている。正直、どうして別れたのかよくわからない。
「アンタ、椿希に気に入られてたんでしょう? で、どうして一人なワケ?」
「……あなたに関係ないですよね」
「はっ、別に関係なくはないけれど。でも知ってるわ。捨てられたんでしょう、椿希に」
捨てられた。そう言えなくもないのかもしれない。あの時、夏芽が何かを間違えて椿希を不快な気持ちにさせたのは疑いようもない事実だ。あれ以来、夏芽を見る度椿希は顔を顰めて背を向けてしまうのだから。
「ま、当然よね。アンタみたいな地味な男が、椿希をいつまでも惹きつけられるワケが無いもの」
「……でも、あなたも振られてるんですよね」
「……言うわね、アンタ。そうよ、皆そう。アイツも、いつもそう!」
キッと眉根を寄せる入倉の姿は、東堂に似合いの美人であるが故に恐ろしさを感じさせた。胸中に燻る黒煙を吐き出すような声は低く、重苦しい。
「興味が無くなったらもうそれで終わり。自分が満足したら終わり。東堂椿希はそういう人間なの」
興味。……興味? だが、彼があの時言ったのは――。
そう引っかかりを覚えつつも、そこを否定しても肯定しても面倒なことになりそうだったので、話を逸らすことにした。
「あなたは、いつから東堂くんと知り合いなんですか」
「そんなこと知りたいの? ……ふーん、アンタ、もしかしてまだ諦めたくないのね?」
これにも反応を示さないでいる。黙って彼女の答えを待っていると、入倉は意地の悪い笑みを浮かべた。
「まだ駄目よ。もう少しアンタの辛気臭い顔見て胸がすいたら、アイツのこと教えてあげてもいいわ」
それだけ言った入倉は、身を翻して去って行った。一体なんだというのだろう。どうして夏芽が彼女と東堂の付き合いの長さを聞いてしまったのかさえ、自分でもよくわからないけれど。
夏芽も彼女を見送ることなく、再び歩き出す。帰ったら進路相談のプリントを書かなくてはならない。――埋まるかどうかは別として。
✻
朝の陽ざしがカーテン越しに夏芽を呼び起こす。目を開くと同時に、土曜日になってしまったことを思い出す。昨日帰ってから机に向かって何時間も考えたのに、結局プリントには一文字とて増えなかった。今日と明日で考えなければならない。それでも、将来したいことや学びたいことなんて思いつかなかった。
何度繰り返しても変わらないことはわかっているが、朝食を採ったら、また机に向かわなければ。そう思ってベッドから起き上がった途端、スマホから着信音が響いてきた。名前をよく見ないまま、応答ボタンを押す。
「……はい」
『ナッツ、オレオレ。剣持でーす』
おはよ、と太陽にも負けない明るさで声が聞こえて来た。起き抜けの思いもよらぬ着信だったが、別に気分を害することはない。まるで詐欺電話のような軽さで話しかけられたたが、一体何の用だろうか。尋ねる前に、彼の方から用件を告げられる。
『あのさ、今日外出てこられる? 翠丘山まで』
「……僕、進路相談のプリント書かなきゃ」
『じゃーそれも持ってきていいから。十時に駅で待ち合わせね! また後で!』
言いたいことだけ言ったらしい侑士は、さっさと通話を切ってしまった。侑士からの着信画面が切り替わりディスプレイに表示された現在の時刻は六時。約束を取り付けられた時間に到着するには、九時までに家を出れば良いが。
プリントを持ってきてもいいと言われたし、唐突とはいえ無碍にするのも憚られる。夏芽は自室を出て、出発の支度を始めた。
「あれ、ナッツ早いねー、お待たせ」
約束の一時間前に翠丘山駅前の、日陰に入ったベンチでぼんやりとしていた夏芽の眼前に、友人の姿が現れた。気がついたらもう約束の十分前で、五十分近くもぼんやりとしていたのかと遅れて知る。侑士の服は、先月歩の家に行った時の服よりカジュアルで、動きやすそうな半袖シャツと薄手のパンツ、そして首から提げているのは――
「カメラ……」
「そ。オレの撮影、付き合ってくれる? そばで見ててくれるだけでいいから」
そういえば、写真部である彼の写真撮影に付き合うのは随分久しぶりのような気がする。こくりと頷くと、予想以上に強い力でぐいっと手を引かれた。
「そうと決まれば、レッツゴー!」
……やはり彼の笑顔は、夏の太陽にも負けていない。
翠丘山はその名の通り、自然に囲まれた大公園があることで知られている。休日の憩いの場として住民たちを始めとした人々に親しまれているのだ。今日も一足先に夏休みに突入した子どもたちやのんびりと散歩をする老人たちが見かけられた。
木陰にレジャーシートを敷いてくれた侑士が、ここで見守っていてと言う。夏芽は頷き座らせてもらう。侑士は微笑み、その辺りで蝉や植物を撮影し始めた。その光景を眺めつつ、夏芽は持参したバインダーを取り出し、進路相談のプリントと向き合う。外部受験か内部進学か、それさえも未だに決まらない。勉強したい学問も、大きな目標も浮かばない。
皆夏芽と同じように、将来の夢など決まっていないものと思っていた。けれど、少なくとも翠清学園の生徒たちはそうではなさそうだ。皆高い志を持ち、それぞれが努力を重ねてきている。編入生の夏芽とは、何もかも違うのだ。
「――オレね、留学するって言ったけどさ」
ふと、侑士が口を開いた。視線を彼の方に寄越すと、しゃがみながらカメラを構えて小鳥を見ている姿がある。
「その後のことは考えてないよ。そりゃ何かの言語学は専攻するけど、その後研究者になるかとか、就職するとか、専門学校行くとかは、全然考えてない」
「そ……そう、なの?」
「そうだよ。だって、まだわかんねーもん」
夏芽に顔を向けあっけらかんと笑う侑士に、夏芽はぽかんとしてしまう。一気に毒気を抜かれたような、そんな気がした。
間抜けな顔を曝す夏芽を気にせず、撮影を終えたらしい侑士は立ち上がる。それと同時に名も知れぬ小鳥も飛び去って行った。
「オレが留学するのは、世界を知るための手段の一つであって、目的じゃない。知らないことをこの目で発見できれば、新しい自分にも出会えると思うんだ」
歌うように告げる侑士の言葉は、夏芽が築いた壁をどんどん崩していくようだ。この壁は、夏芽が勝手に築いて、籠城するための分厚い壁だった。けれどそれも、友人の言葉で壊されて最早役に立たなくなってきている。
瓦礫の山にポツンと立った夏芽は、口から壁の欠片を零すように言った。
「僕……侑士くんの留学は、目的だと思ってた」
「駄目だよ、思い込みは。オレの話、ちゃんと聞いて?」
責めるような口調ではなく促すような口調だったが、夏芽の戒めとしては十分だった。壁が崩壊した今、彼等の言葉と夏芽の間を隔てる物は何もない。
「ナッツ。一体何が、ナッツの手と思考を止めさせてるの?」
穏やかな瞳が夏芽の顔を覗き込む。緩慢な瞬きをした夏芽は、侑士と視線を交えた。
「……僕、侑士くんが好き」
「……」
「潤一くんが好き。歩くんが好き。……東堂くんが、好き。ずっと一緒にいたいよ」
想いを吐露する夏芽を、黙って見つめる侑士。想いは言葉にするとやけに現実味を帯び、自分の感情を自覚させられる。嬉しいことも、寂しいことも。
「でも、皆僕を置いて行ってしまう。……ううん、そう思ってたけど」
夏芽はようやく、微笑みを浮かべられる。表情筋がまともに動くのは、一週間以上ぶりの気がする。
「いつか離れてしまうとしても、別れに怯えて、今一緒にいられる時間を放棄してしまってはいけないよね」
夏芽は、やはりまた間違えていた。悪癖だとわかっていたはずなのに、また一人で勝手に焦って、勝手に傷ついていた。全く学ばない夏芽を、友人は見捨てずに寄り添ってくれた。侑士とて、いつか夏芽たちと離れることはわかっているだろうに。夏芽とは正反対だ。羨ましくて、尊敬できる。この姿勢は、夏芽も見習うべきなのだ。
「僕……本当はね。夢ってほどじゃないけど、考えていることはあるんだ。皆に比べたら全然仕様も無くて、ちっぽけな夢な気がして……僕もついさっきまで、それを夢と気づかなかったみたいなんだ」
正直に打ち明けると、侑士は揶揄うこともなく、緩やかに首を振った。
「しょうもないなんて、あり得ないよ。そもそも夢なんて比較するものじゃないし、そんなもの決めろって急かされたって困るもんね」
「ふふ、そうだよね」
焦りと孤独感で決めつけてしまっていただけで、実は侑士もそう思っていたようだ。
決めつけていたことといえば、もう一つある。あの日、夏芽が傷つけてしまったうちの一人。
「僕、東堂くんと話さなくちゃ」
「そ。じゃ、明日にでも東堂ン家行きなよ。東堂も待ってるって」
待っている。そうなのだろうか。けれど、夏芽が冷静になった今なら、連絡を取ってもいいのかもしれない。チャットアプリで東堂に『明日話がしたいです』と打ち、スマホをしまった。いつ返信がくるかはわからないけれど、待っていたら心臓が破裂してしまいそうなので、今は考えないようにしよう。それに、侑士をほったらかしにはできない。
「ま、でも今日はオレのこと見守ってもらうからね、ナッツ」
「うん! 勿論!」
見守られているのは彼ではなく夏芽の方だというのに、彼はどこまでも思いやりのある人物だ。
侑士のカメラの被写体になったり、侑士が作って来てくれた軽食とおやつを堪能したり、カメラを借りて写真を撮らせてもらったりと、二人で夏の公園を満喫した。解散する頃には、夏芽の心はすっかり晴れていた。
✻
翌日も夏芽は外出する。定期券があるので、休日でも学園の最寄りである翠清駅まで向かうことに大きな問題はない。夏芽の精神状態と会う相手、行く場所によって夏芽のファッションは左右されるが、今日は昨日より余所行きの、どちらかといえばフォーマルな格好をしている。夏芽の持ちうる服の中では、という限定付きではあるが、これでも勝負服のつもりなのだ。
「東堂くん」
「――おー」
駅前で待っていた彼、東堂椿希は、今日の夏芽の約束の相手である。声をかけた夏芽を見ると、組んでいた腕を解き夏芽に向き合った。思えば、彼と視線が合ったのも一週間以上ぶりだが、数年顔を合わせていないような感覚もある。
「じゃ、行くか」
歩き出した東堂の広い背中を追う。東堂の家は学園のある北の方角へ十五分歩いた所にあった。家に着くまでに、二人の間に会話は無かった。今からしなければならないのは、歩きながらにする話ではないからだ。
東堂の住居はこの辺りにしては珍しいマンションで、周りの景観を崩さないよう階層はそう高くない。だがその外観やセキュリティシステムを見るに、明らかに高級であるということはわかる。知り合いが住んでいなければ、夏芽には一生縁の無さそうな建物だ。
五階の角部屋が東堂の家だと聞いている。慣れた手つきでオートロックを開けた東堂は、夏芽に入るよう促す。緊張しながら上がらせてもらうと、いくつかの扉が目に入ったが、案内されたのは正面のリビングだった。シックな家具が揃えられており、家電も歩の家と同じように最新のものが目立つ。冷房らしき器具は見当たらないが、室内は丁度良い涼しさに満ちていた。
どうやら現在この家に椿希の家族はいないらしい。両親ともに多忙な人らしく、家のことは椿希か雇っている手伝いの女性がしているという。その手伝いも平日二日の昼にしかここを訪れないため、大体いつも椿希が一人で使っているそうだ。寂しくないのだろうか。
勧められた革張りの二人掛けソファは反発力が少なく、妙な緊迫感を生み出す。ソファの前のローテーブルに、氷の入った麦茶を出すと、東堂は向かいにある背もたれのない一人掛けの椅子に座った。夏芽はそれを見て初めて、口を開くことができる。
「東堂くん。東堂くんの夢って、もしかして医者ではないの?」
単刀直入に尋ねると、東堂はゆっくりと瞬きをしてから、眉を下げて笑った。「お前にはわかっちまうよな」と。
「今は迷ってンだよ、正直。高等部に上がる前なら、医者一択だったんだけどな」
「……そうなんだ」
やはりそうだった。あの時東堂がはっきりしない様子だったのは、決まっていない夏芽を配慮してのことではなく、彼自身も進路に迷いがあったからだったのだ。
「ごめんなさい、勝手に決めつけて。僕、また焦って全然周りが見えてなかった」
「お前が焦ってるのはわかってたから、それはいい。それに、決めつけられることは慣れてっからな」
口調に重さは感じなかったが、諦めが滲んでいた。その言葉に思い当る節があり、不躾とは思いつつ尋ねてみる。
「初めて会った時に言ってたこと? 入倉さんのことも、関係してる?」
「入倉? ……あー、メグ……恵のことな。そういやあいつが発端だったか」
なるべく簡潔に話すから、聞いてくれるか。
こちらを窺うように聞かれ、しっかりと頷いてみせる。そもそも夏芽は、彼のことを彼自身の口から聞くために、ここにやって来たのだ。彼のことを知るまでは帰れない。
夏芽の反応に僅かに口角を緩めてから、東堂は話し始めた。
――俺、昔から人体に興味があったんだ。祖父母の家の蔵に、江戸時代の医学書みたいなのが結構あって、それを見るのが好きだった。別にウチが医者の家系って訳じゃなく、医者の知り合いから受けたってだけらしいけど。「ネットもないこんな昔から、人間は手探りで地道に不思議を解明しようとしてたんだ」って、感動しながら眺めてたよ。文字はあんま読めねえけど、ビジュアル画像が多かったから飽きずに見られたんだと思う。で、今現在人体の知識は、どれだけの情報が大勢に共有されてるんだって興味が湧いて、自分で調べ始めた。両親は、妙なモノに没頭し始めた俺になんとなく辞めるよう言ってきたけど、その内特に口を出してくることはなくなったよ。俺の熱量に委ねようとしたのか、もしくは引いたのかもしれない。ま、ウチはかなり放任主義なもんでな。
とにかくそうやって知識だけ蓄えてたから、中等部一年の時、保健のテストで満点採って一位だったんだよ、学年で一人だけ。ま、今回の期末までずっとそうなんだけど。
だけど中一の時のそれで、変態だの遊び人だの騒がれた。俺、見た目が良いだろ。自分で言うのもなんだけど、少なくとも客観的にはそうだったから、余計目立つようになって。
そのすぐ後、恵に付き合ってほしいって言われた。身体を好きにしていいって言われて、俺も馬鹿だったから特に考えねえで、初めて女の身体を触って、自分の知的好奇心を満たしてたんだ。
恵の身体が成長期を終えるあたりから、あいつを十分調べた俺は、別のサンプルをとるために『保健体育の成績が一番で遊び人の東堂椿希』に寄ってきた女をとっかえひっかえして、身体を調べてた。その様は……ま、他人から見たらまさに遊び人としか言えなくなったろうな。気づいたらもうそのレッテルはどうしようもなくなってたよ。女の方はどれも俺と遊ぶために近づいてきたやつらだから、別に後腐れとかはねえ……とは思うけど。今考えりゃあ不誠実だよな。
「俺は人体にしか興味が無くて、それ以外はほとんどどうでもいいから、追究しようとも思ってなかった。――夏芽、お前に出会うまではな」
「え……、僕……?」
東堂の話を黙って真剣に聞いていた夏芽は、突然自分の名前を呼ばれきょとんとする。東堂は頷き、じっと夏芽を見つめる。そうしてくれたのも久々で心が弾み、夏芽もその瞳を見つめ返す。すると、東堂はふっと柔らかく笑った。
「お前の目が好きだよ。俺を見つめてくれる目が、訴えている。お前の心が伝わってきて……初めてお前に見つめられた時、それを嬉しいと思った。それがなんでなのかは、まだあんまわかってねえけど。お前が気になって、知りたいと思ったのは本当だ」
夏芽はそこではたと気づく。東堂が夏芽の診察を請け負ってくれたのは、夏芽を知りたいと、夏芽から心を教えてもらいたいと、そう思ったからなのかもしれないと。それなのに、夏芽は。
「お前に抱かれたいって言われたのは……率直に言やあショックだったよ。身体的な接触が第一だった俺に、お前がこの数カ月、俺の知らなかった心を教えてくれたから」
身体と心は繋がっていること、どちらかだけでは人間が成り立たないこと。身体と心を通わせる喜びのこと。それらを文面上の理屈ではわかっていても、経験としては知らず、東堂もまだ勉強中だった。不用意なことを言って夏芽を傷つけたくなくて、距離を置かせてもらったと打ち明ける東堂。
その瞳は切実に輝き、眼差しは夏芽だけに注がれている。
「なあ、夏芽。今話した通り、俺は未熟で、お前が憔悴してる時に、寄り添うことができなかった。こんな俺に、またお前のこと、診させてくれるか」
「それは、僕が言うべきことだよ」
夏芽も彼に向かい合う。真摯な謝意と祈りを込めて。
「本当にごめんなさい、東堂くん。もう一度、僕にチャンスをくれませんか」
「……駄目だ」
「え……」
や、やはり駄目だっただろうか。あれほどひどいことをしておいて、もう一度やり直したいだなどと虫がよすぎると。
肩を落とす夏芽の耳に、笑ったような、微かな吐息が聞こえて来た。
「呼び方。そうじゃねえだろ」
「あっ……う、うん! 椿希くん、お願いします」
「――ああ。お前の心、待ってっから」
夏芽と椿希は微笑み合う。こうしてまた気持ちを新たに、二人の関係は次のステージへと向かい出すのだ。
少し他愛のない話を挟む。一週間ほど全く話していなかったので、椿希の身の回りのことを聞いた。といっても専ら期末テストについて多くの生徒に絡まれたというくらいだったが。テスト期間中も他の人間の診察はしなかったから安心しろと椿希に言われ、頬を染めながらも頷く。これからは心だけでなく身体のことも、夏芽が椿希に教えてあげたい。
カランと氷が落ちる音がする。椿希がグラスをテーブルに置いた。
「なあ、夏芽はもう進路、決まったのか?」
「全然確定じゃないけど、一応は。見る?」
「夏芽が良いなら」
カバンの中からプリントを取り出す夏芽。人に進んで見せられるほど立派な進路ではないけれど、これが今の夏芽の志望なのだ。これは夏芽が自分のことを椿希に知っていてほしくて見せるだけだ。夏芽からプリントを受け取った椿希は、上から下までさっと目を通して鼻を鳴らす。
「へえ、なるほどね」
「へ、変かな?」
「まさか。お前がしたいことなら、全力で応援するよ」
侑士にも応援すると言われた。夏芽の大切な人たちは、皆夏芽の夢を応援してくれる。それは決して「早く別れたい」というわけではなく、純粋な激励というだけ。変に深読みをして孤独を感じてしまうのは夏芽の悪い癖で、実際の彼等はずっと夏芽の味方でいてくれているのだ。
プリントをカバンに戻し、今度は椿希に尋ねる。
「椿希くんはどうするの? 迷ってるって言ってたけど」
「第二志望は翠清学園大学の医学部だけど、第一志望に行くには余所へ行かなきゃなんねえかな」
「そっか……」
現時点では、第一志望で内部進学を考えている友人は侑士だけのようだ。皆がそれぞれの道を行く寂しさはあるけれど、今は素直にそれを受け容れられる。
「ま、気楽にいこーぜ。高校生活、まだ二年半あるんだからな」
「うん、そうだね」
そうだ。高校生活はまだまだこれから続く。永遠には続けられないけれど、ずっと先の未来で振り返った時、「あんなことがあったね」と笑って話せれば、それでいいと思う。
そこでふと会話が途切れる。部屋には静寂が訪れ、夏芽は内心焦っていた。胸がドキドキとうるさくなっているのだ。ここに来てからずっとそうではあるのだけれど、この胸の高鳴りは、緊張と――期待、だろうか。そうだ。今この部屋には、夏芽と椿希、二人きりなのだ。しかも彼の家で。
意識すると、余計に恥ずかしくなってくる。まだ彼とは付き合ってもいないのに、好きな人だからこそ、どうしても二人きりだということを考えずにはいられない。
一人で悶えている夏芽に、不思議そうに尋ねる椿希。
「夏芽?」
「あ……うん、ど、どうしたの?」
「なんか顔赤いけど平気か?」
顔が赤い! どうしてこうも感情が表に出てしまうのだろうか。赤くなっている理由には心当たりしかないが、この好機は逃せない。
「えっと……早速だけど、診てくれる?」
「ああ、いいぜ」
腰を上げた椿希は、ソファの方に移動し夏芽の横に座る。いつものように、その大きな手が夏芽の首辺りに添えられ、セピアカラーの瞳が夏芽を映した。その眼差しを、夏芽はじっと見つめる。そう、この瞳が見たかったのだ。夏芽がその視線を堪能していることに気づいているのかいないのか、椿希は唸りながら診察をする。
「……んー、熱いな。心拍数も高い。熱中症か?」
「ねっちゅうしょう」
「部屋暑いか? あ、ちょっと待ってろ」
ソファから離れた椿希はキッチンの方へと向かった。彼が帰ってくるまでに、夏芽は陶然と診察の余韻に浸っていた。見惚れていた熱を熱中症だと解釈するだなんて、いかにも彼らしい。
そんなことを考えていると、首元にひんやりとした感覚が迫ってきた。
「冷凍フルーツと豆乳アイス。夏にはやっぱこれだよな」
「豆乳……」
「六月にアレ作ってから、豆腐料理に興味が湧いてな。自分で作ってみたんだ」
目を輝かせながら、平らな皿に盛りつけられたアイスを、小さじの銀のスプーンでいただく。豆乳らしい味わいが、夏芽の味蕾を甘やかに支配する。
「おいしい」
「そっか。お前が喜んでくれてよかったよ」
今度は歩たち友人と一緒に食べたい。そう伝えると、それも良いなと笑ってくれた。
「あー、そうだ。恵についてだけどよ――」
✻
月曜日。終業式の日ということで、皆が明日からの夏休みの話をしている。登校してきた夏芽も侑士たちとそういった話をしようと思ったが、その前に昇降口で話しかけられてしまった。
「アンタ、なんでそんな顔をしてるのかしら?」
「……入倉さん」
入倉恵は、相変わらず不機嫌そうに眉を顰めている。対する夏芽はごく平坦に彼女の名を呼んだ。入倉にとっては夏芽のそういう態度が気に食わないのか、更に渋面になって距離を詰めてくる。
「ねえ、椿希のこと知りたいんじゃないの?」
「彼のことは、彼の口から聞いたから」
テスト返却日に絡まれた時は、本人のいないところでだって、構わず彼のことを入倉から聞き出したかったというのは嘘ではない。けれどそれではきっと駄目だった。恐れず本人と向き合い自分の耳で聞くことに意義があると思う。それに、入倉の思惑通りになりたくはない。
吹っ切れた夏芽のはっきりとした様子に、入倉は俯く。その肩が震えており、怒らせてしまったかと様子を窺おうとした――が、何か呟きが聞こえてきて夏芽は黙った。
「……いもん」
「……え?」
「認めもん! アタシは椿希の初めての恋人なのに! アンタのことなんて認めない!」
顔を上げた入倉は、眦に涙を浮かべながら叫ぶ。予想外の言葉に面喰ってしまう。夏芽が何も言えないでいる間に、入倉は畳みかけた。
「絶対! 絶対椿希にはアタシの所に帰ってきてもらうんだから! アンタなんかに渡さないもん! 覚えてなさい、夏芽!」
「あっ……」
三下の捨て台詞のような言葉を吐き、入倉は走り去って行った。止める間もなくその後ろ姿を呆然と見送りながら、昨日椿希に頼まれたことを思い出す。
「しばらくあいつのノリに付き合ってやってくれねえか。嫌ならいいけどよ。多分そのうち俺よりずっと良いやつを見つけるだろうから」
――椿希はそう言っていたが、本当にそうなるのだろうか。椿希は勘違いしているようだが、どうも入倉の椿希への想いは、夏芽と同じく心を伴うもののように感じるけれど。つまり、椿希の顔や身体だけが、彼女を惹きつけているわけではないのではなかろうか。
(そもそも、椿希くんよりずっと良いやつなんて、そういない、もん)
去り際の入倉の口調が若干うつってしまった。だが、少なくとも夏芽と、或いは彼女にとってもそれは違いない。入倉が夏芽に覚悟を求めるというのなら、受けて立とう。夏芽とて椿希のことが好きだ。他の誰にも渡したくない。
拳を握ると同時、A組の教室の扉から、ひょこっと侑士が顔を出した。
「あ、ナッツ。早く教室おいで。夏休みの計画立てよ」
「侑士くん……うん!」
廊下に置かれた提出ボックスにプリントを入れる。そのプリントは文字で埋まっていた。
教室に向かいながら、思い出に残る夏への期待感に、夏芽は胸を躍らせた。
【八月】キラキラ、東堂くん!
真夏。燦然と輝く太陽に焼かれ額や首元を濡らしながら、人々は今日も外を往来する。学生たちにとっては待ちに待った季節だという者が多いだろう。梅雨の湿気とさめざめとした雨からの抑圧から解き放たれ、光に溢れた山や海へ出ることができるのだから。今日もどこかで、子どもたちの笑顔と声が弾けているに違いない。
尤も、今は未だその段階に至っていない者も、存在していることは事実であるが。
「そう。賀集さんは専門学校を第一志望として考えているんですね」
私立翠清学園高等部一年A組の担任、野村明里は、手元のプリントから顔を上げて、向かい合っている相手を見た。
賀集さんと呼ばれた男子生徒は、名前を夏芽という。今彼は、夏休み前に提出したプリントを元に、進路相談をしていた。
「はい、メイクアップアーティストを目指したいと思っています……今のところは」
「メイクが好きなんですか?」
「ええと……はい。やり方次第で演出したい人間になれるというのが面白くて……探求したいと」
今の夏芽に考えられる、あえかな夢。口にすると輪郭を帯びるような気がするが、まだまだ成長途中である。ただ、大学で多様な視点を学び、自分の糧としたいという気持ちもあるため、本当にまだ確実なことは言えない。
それでも姿勢を正し、自分の今の道を示すと、野村は目元を和らげた。
「そうですか。何か困ったことがあったら、また相談してください」
「は、はい、ありがとうございました」
夏芽はお辞儀をして席を立つ。夏芽が自分の進路を打ち明けた時、それを聴いてくれた人は誰も、夏芽の道を否定しなかった。野村だけでなく、両親も――教室の外で待っている人物もそうだ。
「お疲れ、ナッツ」
「侑士くん」
廊下に出た夏芽に声をかけたのは、剣持侑士。東京の地に引っ越してきた夏芽が、この学園で初めて友人になってくれた人物であり、今日この日に至るまで、ずっと夏芽に寄り添ってくれたかけがえのない相手。
「図書館で待っててよ。オレ、終わったら迎えに行くからさ」
「わかった。侑士くんも頑張って」
「オーケー」
ぱちんとウインクを決めた侑士は、A組の教室へと入って行った。
彼の言う通り、二階にある図書館へ向かった夏芽。夏休みにだけ就く臨時の司書が、夏芽の来館をちらりと視認してからパソコンへと視線を戻した。
侑士は夏芽と違い、第一志望の道を固めている。大学生になったら語学を専攻し、留学をするのだそうだ。侑士の語学の才能は夏芽たち友人のみならず学年中の皆の知る所であるから、きっと難なく留学をすることはできるだろう。けれど侑士の目的は留学そのものではなく、それによって自分の世界を広げることなのだそうだ。流石の志だと、夏芽は感激し――同時に自分の焦りを自覚した。そして夏芽も、自分の内にあった小さな灯に気がついたのである。
だからきっと、夏芽よりも早く面談を終えるだろう。借りてもいいが熱中するわけにはいかない。この場でサクッと読めるものと言えば、新聞に決まりだ。夏芽は新聞コーナーに行き、新聞各誌を捲ることにした。
(うーん、昨日の都内は熱中症で二百人が搬送されたのか……)
暑い日が続く都内で、その手の報道は毎日のように繰り返される。夏芽が子どもの頃は室内でもまだ冷房をつけなくともやっていけたが、この地ではそんなことを一日でもしてしまえば救急搬送コースである。ヒートアイランドの影響もあるだろう。
夏休みは都会から離れて暮らしたい。離れられなくとも、少しでも静かで涼やかな場所で過ごしたいものだ。
とはいえ、今のところ特に予定はない。夏芽には会いたい人がいるが、大胆にその人を誘う場所も特に思いつかない。海へ出かけて夏芽の面白くもない身体を想い人に見せつけたところで、相手はそこに興味はないだろう。この近くには山もないから、そこへ行くならちょっとした旅行だ。どちらかというと夏芽は山派である。
「ナッツ、お待たせ」
「侑士くん、おかえり」
夏芽が休暇中への過ごし方に思いを馳せつつ新聞を捲っていると、侑士が入ってきた。新聞を閉じてそう言うと、侑士はにっこりと愛嬌のある笑みを浮かべる。
「お、今の夫婦感あって良かった」
「ふふ、なあにそれ」
剣持侑士は、夏芽の初恋を最初に見抜いた人物であり、その相手が自分でないこともとうに理解している。それでもこうして戯れの言葉を放つのも、揶揄いのつもりであろう。勿論、こんなものでは夏芽の気分が害されはしないが。
キリが良ければ行こうと言われ、頷いた夏芽は友人とともに外へ出る。夏芽の差した日傘に入る侑士だが、二人だとちょっと狭くて、二人でまた笑った。
「ねえ、侑士くんは夏休みどうするんだっけ?」
「ちょっとナッツ、忘れちゃったの? 来週オレたちで海に行く予定だったでしょ?」
「あ……そうだった」
うっかりしていた。予定のことも、今この反応をしてしまったことも。オレたちというのは、夏芽と侑士、そして山岡潤一と広瀬歩の四人のことである。潤一と歩はそれぞれ部活がある中、合間を縫って予定を立ててくれている。
夏芽の反応に、侑士は胡乱な眼差しを向けた。
「東堂がいないからって、予定の印象薄く感じてたんじゃない?」
「う、そ、そんなことないよ! 確かに椿希くんにもいてほしい気持ちは無きにしも非ずだけども……!」
ナッツってば本当にわかりやすいんだから、と侑士は笑った。返す言葉もない。
東堂椿希。夏芽の想い人の同級生。一年A組の保健体育係を務めており、彼にもいつも助けられている。身体的な関わりに精通した彼に、心を注いで応えてもらうのが夏芽の現在の目標だ。夏芽と椿希が出会ってから、初めての長期休暇。この機会を是非ものにしたいところだが、私生活が謎の椿希が、今から夏芽と会う予定を作ってくれるだろうか。そんなことを考えていたら、海に誘うタイミングを逃していた。
すると、その時丁度侑士のスマホが震えだす。断りを入れた侑士が画面を見て、苦い顔をした。彼のそんな表情は珍しい。着信を切っても切ってもかかってくるので、出てやるように促すと、侑士は渋々通話を開始した。
「……はい」
『ちょっと、なんで何度も切るワケ⁉ 相変わらず優しくないやつ!』
「はいはい……」
液晶の聞こえて来た声に、夏芽は驚いた。だって彼女の声は――隣のクラスの入倉恵のものだ。多分恐らく。一体侑士に何の用事があるのだろう。
「で、用件は? 手短にどうぞ」
『アンタね……。まあいいわ。ねえ、来週アタシの別荘に来ない? プライベートビーチも、近々花火大会もあるの!』
「ら、来週……」
侑士と夏芽は顔を見合わせる。丁度自分たちが海に行く予定を立てていたが。即座の回答は避け、侑士が尋ねた。
「オレに電話をかけた理由は?」
『夏芽を連れてきなさい。賀集夏芽! アタシはもう椿希を呼んでるの』
「どういうつもりで?」
『アタシは決着をつけたいだけ。椿希と付き合うのが誰なのか』
彼女は相変わらずはっきりとした性格のようだ。まだ何とも返事ができずにいると、向こうの声が続く。
『まあ、来たくないなら構わない。アタシが椿希の身体も心ももらうから』
瞠目する夏芽。彼女ならば、宣言通りに自分の計画を遂行するだろう。その結果が、成功でも失敗でも。自分の知らない所で、椿希が誰かの恋人になるだなんて嫌だと思う。せめて見届けたい。その一心で、夏芽は侑士のスマホに伝わる声の大きさで――といっても、同じ日傘に入っているのでそう大きくはないが――言った。
「行くよ」
『……あら、いたの。受けて立つって潔くていいわね。楽しみにしてる』
夏芽が割り込んで発言したことに大して驚いていない様子だった。今日が二人の進路相談の日だと知っていたからかもしれないし、単純に夏芽と侑士の仲の良さを理解しているからかもしれない。
『ああそうだ、侑士、アンタは好きな相手を何人でも呼びなさい。アタシの別荘に入るだけならね』
「わかったよ。ナッツが決めたら仕方ない」
『そう。当日は迎えに行かせるけど、詳細は後日改めて送るわ。じゃあね』
彼女は引き際さえもあっさりとしたもので、侑士とのやり取りの通り用件を伝えるとさっさと通話を切ってしまった。やれやれと首を振りスマホをカバンにしまう侑士に、夏芽は眉を下げる。
「侑士くん、ごめん。勝手に決めてしまって。潤一くんと歩くんにも申し訳が立たないな」
「いいよ。アイツらも納得してくれるって」
そうだろうか。そうだと良いけれど。けれど侑士がそう言って笑顔を浮かべるから、きっとそうだと思える。
「入倉さんって、お金持ちだったっけ」
「日本十名家のうちの一つねー。そりゃプライベートビーチの一つや二つ……十や二十持ってるんじゃない」
そうだった。入倉の家は『日本十名家』という括りの一つに数えられる血筋だった。なんでも、かの藤原家の縁者の家系らしい。政界にも進出しており、彼女の兄は法学部に通っているそうで、将来を期待されていると。
出席番号で順当に数えるなら、入倉は昨日進路相談を終えていそうだ。彼女も兄や親族の後を追って政界に出るのだろうか。彼女も幼稚舎から上がってきた生徒であり、成績は優秀らしいから、問題ないだろう。勿論そのつもりがなくとも、彼女ならば望む道を切り拓ける力強さを持っている気がした。
「ライバルに立ち向かうんだね、ナッツ」
侑士が夏芽を見る瞳には、激励の情が宿っているようだ。自分の意志を伝えられるよう、しっかりと頷いてみせた。
「うん。僕も彼女も椿希くんを想っているけど、椿希くんの身体は一つしかないもん。いつかけりをつける必要はある。……椿希くんが誰を選ぼうと、椿希くんの自由だけど……僕を選んでほしいから」
侑士はにっこりと笑い、頷きを返す。今度も見守ってくれるようだ。なんと心強いことだろうか。
「入倉さんのアカウント、あげるよ。あっちもあんな態度だけど、ナッツのことはきちんとライバルとして見てくれてるみたいだし。来週の予定、聞いてあげて」
「うん、ありがとう、侑士くん」
入倉の連絡先を転送してくれた侑士と別れ、駅に入る。丁度到着した電車に揺られながら、夏芽は来週の予定に思いを馳せたのだった。
✻
賀集家の前に黒塗りのリムジンが着いた時、両親は驚いた様子だった。父には「夏芽も色んな人と友だちになったんだなあ」と、母には「あんまり心配はしていないけど、誰に対しても失礼のないようにね」と言われ、見送られながら、荷物を持ってリムジンに乗り込んだ。
ほどよく空調の効いた、広い車内。ふかふかのシートは夏芽の身体を柔らかく支え、ここに横たわっても問題なく眠れるのではないだろうか。流石にそこまでするほど夏芽の肝っ玉は据わっていないけれど。
「おはようございます、賀集夏芽さん」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
運転席からかかった声に、腰を浮かせた夏芽は折り目正しく挨拶する。夏芽が再び座ったことを確認してから、振動も無く車は発進した。
「逃げなかったのね、夏芽」
そう言葉をかけられ、夏芽は彼女の方を向く。そこには入倉恵だけでなく、侑士や潤一、歩の姿に、潤一の恋人である牧瑠璃子、歩の恋人の新宮真帆もおり――そして、東堂椿希も既に乗車していた。入倉の家から最も遠いのは夏芽の家だから、皆が揃っているのも納得はできるのだが。
「逃げないよ。よろしく、入倉さん。みんなも」
夏芽の挨拶に、皆が友好的に言葉を返してくれる。新宮も夏芽の参加を喜んでくれているし、牧も参加してくれた以上は今回の集まりに納得してくれたのだろう。勿論、男友だちも夏芽との対面を喜んでくれている。ありがたいことに、それは彼も同じだった。
「夏芽、久しぶりだな」
「うん、椿希くん」
夏芽を見て目尻を和らげる東堂椿希。二週間ほど会っていなかったが、椿希の存在の大きさに変化はない。逞しい身体も、黒髪ミディアムのウルフカットも、傷一つない肌も、変わらずそこにある。そして、切れ長の目から注がれる眼差しも、夏芽を受け容れてくれている。それが何よりも嬉しい。
「わかっているとは思うけど、これから向かうのは千葉県の南房総市よ。そこにアタシの別荘があるの」
夏芽は持ってきたプリントを取り出す。入倉から送られた――いうなれば『旅行のしおり』を印刷したものを。夏芽の家から南房総市の入倉家プライベートビーチまで、およそ三時間。渋滞に巻き込まれなければ、到着は十四時頃だろうか。
「予め決めている事の範疇でなら、各々自由にしてもらって構わないわ。でも敷地の外には出ないでよね。見つけるのに手間がかかるから」
今夜の予定は特に無く、十九時の夕食までは時間がある。しおりにある別荘の敷地内で探検でもしてみようか。侑士なら元気に付き合ってくれるかもしれない。
全員の姿を見回した入倉は、不敵に笑い高らかに宣言した。
「それじゃあ、三泊四日の素敵な時間に、このアタシがアンタたちを招待してあげるわ!」
三時間、車内でトランプゲームをしたり、カラオケをしたりして過ごしていると、到着はあっという間だった。目の前に聳える別荘はコテージ風だ。風通しがとても良さそうで、太陽の光を目一杯受け輝いている。
まるで修学旅行の時の教師のように、入倉はきびきびとして、到着後すぐにリムジンの運転手とともにどこかへ去った。彼女の残した指示に従い、一人一部屋、送られた資料にある通りに入室する。今の夏芽の私室より一回り、否、二回りは広い。ふかふかのベッドも一人で寝るには大きすぎるくらいだ。あまり自分の物を散らかさないよう、わかりやすい所に一纏めにした。
さて、あと五時間。探検をするにしたってそこまで時間はかからないだろう。何をして過ごそうか。……そうだ、課題。夏休みの課題。英語と数学の課題だけ持ってきたのだった。テキストが小さいので持ち運びが楽でよかった。この部屋には机もあるし、大きな窓を開けていればカーテンを靡かせる風が入る上に、漣の音が心地よく耳に届く。勉強に集中するにはもってこいの場所だ。
机に向かい、さあやるぞと気合を入れたところで、部屋に軽いノックの音が響いた。
「ナッツ、オレオレ。剣持でーす」
「侑士くん?」
相変わらず詐欺のような話しかけ方をする友人に、部屋に入るように促す。扉を開けたのは、やはり侑士だった。彼は夏芽が今何をしようとしていたのか、すぐに見破る。
「もしかして、勉強しようとしてた?」
「うん、夏休みの課題を。ごめんね、何のお構いもできなくて」
「いやいや。英語と数学?」
頷きを返した。夏芽は勉強机の前に戻る。
「わからないところがあったら、教えてくれる?」
「勿論。遠慮なく言ってよ」
「ありがとう」
侑士は本を持参しており、夏芽が呼ぶまで椅子でそれを読んでいるようだ。タイトルは……フランス語で書かれており、夏芽には解読不能だ。侑士曰く、フランスの詩集だということだが。それをすんなりと読むなんて、夏芽にはまだまだ到底不可能なことだ。
改めて机に向き合う。課題のテキストには、夏芽が得意な分野、不得意な分野が織り交ざっているが、とにかく自分のペースでやっていこう。そう決めて、夏芽はシャープペンシルを手に取った。
夕食は、夏芽が見たことも聞いたこともないような料理ばかりがフルコースで並んだ。入倉が得意げにメニューの解説をしてくれたが、料理に疎い夏芽には、それらが「おいしい」ということしかわからなかった。中には不思議な味だと思ったものもあり、海外の料理への関心が湧いたことも事実である。
露天風呂で星を見ながら男友だちと語らい、夜は大きすぎるくらいのベッドでぐっすり眠った。
朝、六時に鳴らすはずだった目覚ましを先に止める。部屋についている洗面台で顔を洗い、歯を磨いてから、着替えてダイニングへ向かった。
「お。おはよ、夏芽」
「椿希くん! おはよう」
そこにいたのは椿希だった。だが、割烹着を身に纏っている。……何故?
「あ、コレか? 朝食の準備、手伝ってたんだよ」
夏芽の訝しげな視線に気づいた椿希は、割烹着を脱ぎ畳みながらそう教えてくれた。まだ他の友人たちは姿を見せていない。それに、今の今まで食事の支度を手伝っていたということは、椿希はかなりの早起きである。夏芽はまだ頭がぽやぽやしているというのに、椿希のおめめはぱっちりしている。
そんな夏芽の様子を見て、椿希は微笑んだ。
「少し、外に出るか?」
「え、二人きりで?」
「そ、二人きりで」
その言葉に夏芽は目を見開き――勢いよく了承の返事を返した。
コテージの外に出ると、眩い陽光に照らされ、海の風が二人を迎える。とうに浜辺に二人分の足跡を残しながら、少し歩いた。
「今日はビーチで遊びまくれる日、だよね?」
「ああ。海も綺麗だし、何をするにも楽しみだな」
椿希は海を見ながら目を細める。その眼差しとふわりふわりと揺れる黒髪を見上げていると、夏芽の胸は高鳴っていく。――思えば、教室以外で椿希と朝の挨拶を交わす機会はほとんどなかった。休日に会う時だって正午前に集合が常で、起き抜けに挨拶をしていたわけではない。そう考えると、先ほど交わした「おはよう」は、レアイベントだったのではなかろうか。起きてすぐに挨拶をするなんて、なんだか同棲中の恋人……もっといえば、夫婦のようだ、なんて! 侑士とのやり取りでは思わなかったのに!
そんなことを考えながら彼の姿をじっと見つめていると、ふと椿希が夏芽を見下ろした。
「夏芽」
「は、はい!」
「また顔赤くなってる。もう熱中症になっちまったか?」
少し屈んだ椿希は夏芽の顔を覗き込み、頬に手を添えた。彼が診察をしてくれる時によくする行動である。そうしてくれるのはとても嬉しいが、これ以上は夏芽の心臓がもたないので勘弁してほしい。
「大丈夫、平気だよ」
「……ふーん、ま、嘘じゃなさそうだな。けど、あんま無理はするなよ? ちゃんと救急セットは持ってきてっからさ。アイスはねえけど」
「ふふ、うん、ありがとう。何かあったら頼らせてもらうね」
二十分ほど浜辺をのんびりと歩いてから、コテージに戻った。その頃にはもう既に皆が起きており、戻ってきた二人を見て、侑士はニヤニヤし、他の友人たちはニコニコし、入倉はむすっと頬を膨らませた。
椿希が手伝ったという朝食は洋の品々がメインだったが、アサイーボウルなどというものが出て来た。バナナ、イチゴ、ブルーベリー……フルーツはどれも瑞々しく、この品が最も夏芽の味蕾に適合したのだ。それを誰に伝えるでもなく口にすると。
「それは俺が作ったんだぜ」
椿希の一言に、夏芽は頬を緩ませた。
「準備ができたらビーチに来なさい! 水着に着替えて、日焼け止めも忘れないように!」
その空気を遮るように、入倉が立ち上がりそう言う。御馳走様と言い残し、足早に去って行く。なんだか夏芽は彼女に悪いことをしたような気がした。
「ナッツ。呆けてないで、準備しよ」
「あっ、うん」
侑士に声をかけられ、我に返る。料理人たちに礼の言葉を述べ、夏芽は着替えるために部屋に入った。
カバンから取り出した自分の水着。スクール水着ほど地味ではないが、黄緑色の柄無しのものである。女の子の水着ほど男子の水着は種類が無いから、こういう時にどのようなものを選べばいいのかわからず、これに落ち着いた。水着を履いて椿希に勧められた日焼け止めを念入りに塗り、上に濡れても平気なパーカーを着て、再び外に繰り出す。太陽の輝きは、朝に感じたものより肌にじりじりとした刺激を受けた。
「ナッツ、こっちこっち」
侑士に呼ばれ、ビーチサイドに立つ。海はキラキラと夏芽を誘うように揺れていて、視覚的に夏芽を魅了した。
「海に入るならちゃんと準備運動しろよ。溺れても俺が助けてやるけど」
「うん、気を付けるね」
潤一とビーチに何かしらの仕込みをしている椿希に言われ、しっかりと準備運動をする。溺れて想い人に人工呼吸をしてもらう……なんてことは望んではいけない。無暗に椿希たちに心配をかけるのは夏芽の望むところではないのだから。
潮騒を耳に入れながら、夏芽と侑士は一歩ずつ、寄せては返す波に近づいていく。ざあっと音がして、二人の足を濡らした。風もそうないので、波は穏やかだ。隣の相手と頷き合って、足首、脹脛、腿、腰、と海に身を沈めていった。
「ふああ、今年初海だあ」
「ちょっと生ぬるいね」
「ふふ、確かに」
だが砂浜の温度で温まった足を冷ますのには最適だ。一緒に持ってきたドーナツ模様の浮き輪が、碧色の水面に揺られている。
「てかそれ、入倉さんのだよね?」
「うん。可愛いよね、こういうの」
「ま、フツーの男子高校生には可愛すぎる気もするけど」
侑士は笑った。つられて夏芽も笑う。確かにちょっと可愛すぎたかもしれない。けれど、小さい時は海の家やホテルなんかで売っていた、イルカやらシャチやら車やらの、特殊な浮き輪で遊びたい欲はあったものだ。そう打ち明けると、侑士も大きく頷いて同意した。後で入倉にその手の浮き輪がないか聞いてみよう。
波に揺られたり、潜って目ぼしいものを探したり、二人はゆったりと遊んでいた。全力で泳がなくとも、海は楽しめるものである。
しばらくして、ビーチの方から声が聞こえた。よく聞くと、夏芽と侑士を呼ぶ潤一の声だ。
「おーい、賀集、剣持! 戻って来ーい!」
「うん? 潤一くん……、あっ」
いつの間にかビーチに現れたものに気がついた夏芽は声を上げる。侑士もそれを見るとにやりと笑った。「行ってみよっか、ナッツ」
パシャパシャ、緩やかな力で泳ぎながらビーチまで戻ると、目の前にはすっかりコートが出来上がっていた。これはつまり、ビーチバレーをやろうということである。バレーボールなら、球技大会の後も感覚を忘れないようにちょくちょく練習していたので、夏芽もそれなりに自信がある。
「チーム分けは?」
「二人は審判、それ以外が三対三で戦う」
話を聞くに、どうやら女子たちも夏芽よりバレーボールが得意らしい。普段の授業は男女別で、球技大会でも夏芽はダウンしていたので知らなかったが。美術部で運動はあまり得意ではないという新宮も、「バレーボールだけは少しだけできるんだ」とはにかんだ。
そうしてビーチバレーが始まる。夏芽が驚いたのは、新宮の言葉が真実であったことと、歩がバレーボールに不得手だったということだ。そういえば球技大会の時、歩はバスケットボールを選んでいたか。そのため夏芽とは一緒に練習する機会が無く、その腕を拝見することもなかったけれど。何にせよ椿希と侑士と潤一、女子テニス部のエースたる牧がいるから、どの組み合わせになっても戦力にそう大した差は出ず、どのゲームも接戦になっていた。
五度目のゲームの終盤、新宮とともに審判をしていた夏芽の鼻腔を、とある匂いが掠めた。皆もそれに気がつきゲームを中断する。
「お嬢様、ご学友の皆さま。バーベキューの準備が整いました」
使用人の言葉に、わあと歓声が上がる。バーベキューなど、夏芽は地元でもそう何度もやらなかった。いつぶりかの炭火を前に、目を輝かせる。
「焼くのは俺に任せろよ。とびきり美味いタイミングで渡してやる」
「やった、楽しみ!」
網の高さの違う三種類のバーベキューセットに、椿希がテキパキと食材を載せていく。肉、野菜、魚に海鮮。どれもおいしそうで、口に入れた時を思うと既に幸せな気分になった。
椿希の指示に従いながら、炎の勢いを調節しつつ、交替で焼き上がった食材を頂く。どれも頬が落ちそうなくらいおいしい。夏芽は親族以外とバーベキューをしたことがないが、こうして友人たちとわいわいしながら囲むバーベキューもとても楽しい。夏芽にとっては初めてのことばかりだが、学園に編入してから経たことはどれも新鮮で夏芽に刺激を与えてくれる。
食材が半分以上無くなった頃、紙皿を置いた入倉が言った。
「それじゃあ、後は好きに楽しんで。十八時頃にはコテージに戻るのよ」
「ん、恵はどうすンだよ?」
「……アタシはやることがあるの。使用人も残すし、椿希もいるから有事の際も大丈夫でしょう。じゃあね」
そう言って、颯爽と入倉はコテージの方へと戻って行った。皆彼女のことを気にしていたが、お嬢様にはやることが沢山あるのですと使用人に言われ、次第に先ほどまでのやり取りの続きに落ち着いてくる。
バーベキューで腹と笑顔を満たした後は、ビーチパラソルの下でのんびりと過ごす。ココナッツジュースまでいただき、気分はまるで南国リゾートだ。夏芽はハンモックに寝転ばせてもらったが、案外横になるのに苦労した。寝心地は抜群だけれど。
休憩の後、中断していたビーチバレーを再開したり、海で泳いだり、砂で城を作ったりと、ビーチを遊びつくしていると、あっという間に日が沈みかける時間になった。
十八時より前、夏芽だけ先にコテージに戻った。入倉の様子が気になったからだ。家の別荘であるとはいえ、ここに連れてきてくれた彼女が休暇を楽しめないのは、夏芽が納得できない。もしも彼女が困っているなら、明日だけでも自分たちの遊びに参加できるように力を貸せないだろうか。
そう考えて、コテージに戻る。ノックをしたが、彼女は自分の部屋にいないようだ。はてどこにいるのかと思いながら、行儀の悪さを承知でコテージ内を彷徨うことになる。すると、キッチンの方から微かに話し声が聞こえて来た。
「――が、……様、そちらは我々が……」
「……のよ。アタシがやらなきゃ……の!」
どうやら、入倉と使用人の会話のようだ。なんだか言い争っているような声色だが、大丈夫だろうか。気がかりに思った夏芽は、キッチンとダイニングの隔たりの部分に立ち、中に向かって声をかける。
「入倉さん」
「っ、夏芽!」
「いきなり声をかけてごめんなさい。……料理をしていたの?」
キッチンには何人かの使用人と、令嬢の姿が確認できた。入倉の前にはまな板と野菜があり、彼女は包丁を持っている。夏芽にそう尋ねられると、一瞬目を見開いた入倉が、包丁を置いて手とまな板を隠すように立ち塞がった。
「こ、これは別に……! っていうか、恋敵のアンタに関係ないでしょ!」
「どうして料理を? 僕に手伝えることは?」
「……っ」
何かあったら、遠慮なく頼ってほしい。その一心で発言したが、入倉は眉を顰めて唇を噛み、そして。
「本当に意味わからないわ! 折角椿希に喜んでもらえると思ったのに、アイツは朝食作りもバーベキューも手伝っちゃうし、アタシの用意したものについても淡白な反応しか返さないし、挙句の果てには『恵』呼び! 食材も場所も、椿希のために最高級かつ最適なものを選んだはずなのに! どうしてまだアイツはアタシに対して復縁しようとかの一言も無いワケ⁉ 水着だって何のコメントもしてくれなかった!」
夏芽が驚く間もなく、捲し立てられた言葉。絶句して目を瞬かせる夏芽を無視し、入倉は続けた。
「身体でもお金でも振り向いてもらえないなら、アタシが椿希のためにとれる手段なんて無いの! だからせめて、手料理でも食べさせてあげられたらって……」
「入倉さん……」
呆然と、ただ彼女の名を呼ぶ。入倉にどんな言葉をかけてやればよいのか、夏芽にはその答えがすぐには出なかった。立ち尽くす夏芽に、入倉はふいと顔を背けシンクに向き直る。
「わかったらさっさと出て行って頂戴。アンタの手なんて借りなくても、アタシだってこのくらい――あ、痛っ!」
「入倉さん!」
「お嬢様!」
急に小さく悲鳴を上げた入倉に、夏芽は駆け寄った。彼女が気にした自身の手指には、雑に巻かれた絆創膏がいくつもあり、そこにはじわりと赤が滲んでいる。
怪我を、しているのだ。
それを見た夏芽は、弾かれたように踵を返した。
「待ってて、今椿希くんを呼んでくる!」
「っ、必要ないわ! 大体、なんで恋敵のアンタが、敵に塩を送るような真似を……!」
「そんなことどうでもいい! 目の前に傷ついた人がいたら、助けたいと思うから!」
「……夏芽……」
夏芽はキッチンを飛び出し、椿希の姿を探す。幸いコテージのすぐ近くまで戻ってきていた彼に入倉の怪我のことを伝えた。椿希は素早く状況を把握すると、持参していた救急箱とともに、キッチンの方まで来てくれた。
気まずそうに視線を逸らしたメグの手首を引き、リビングの方の椅子に座らせると、テキパキと処置を始める。夏芽はその様子を、黙ってそばで見守っていた。
「お前さ、ちょっとは自分の力量を顧みるくらいはしろよな。調理実習の成績、小学生の時から悪いだろーが」
最後の絆創膏を巻いた椿希が言う。入倉は何も言わなかったが、代わりに夏芽が椿希に尋ねた。
「椿希くん、入倉さんは大丈夫なの?」
「ああ。切り傷っつってもそう深くはねえし、消毒もし直した。一週間もすりゃあ傷は塞がる」
「そっか、良かった……」
ほっと胸をなでおろす。大事になる前に椿希に診てもらえたことは幸運だった。もしかしたらくたびれた絆創膏の隙間からばい菌が入り込んで、悪化していたかもしれない。
救急箱に物を片付けた椿希は、夕食の支度を手伝うらしく、その場から去ろうとした。そこでようやく、ずっと無言で治療を受けていた入倉が声を上げる。
「椿希! ごめんなさい、アタシ、椿希に喜んでほしかっただけで、迷惑をかけたかったワケじゃないの……!」
「わかってるよ。お前の気持ちは嬉しい。――でも、応えてやることはできない」
「つばき……」
入倉の目を見て、きっぱりとそう言い放った椿希は、救急箱を持って部屋を出て行った。その場には、夏芽と入倉だけが残され、沈黙が横たわる。彼女にどんな言葉をかければいいか考える夏芽。だがそれよりも前に、大きく背もたれに身を預けた入倉が、ボールを投げ捨てるような口調で言った。
「やっぱり……アタシじゃ駄目みたいね」
「入倉さん……」
「勘違いしないで。今……振られたからじゃないわ。アタシはアンタを見直したのよ」
「え……?」
一体どうしてそんな結論に至ったのか。目を瞬かせる夏芽に、入倉は項垂れながらも続ける。
「アタシ、自分のことばっかりで、周りのことなんてどうでもよかった。それなのにアンタは、怪我をしたアタシを見て、すぐに椿希を呼んだわね。アンタだってアタシと同じで、椿希が好きなくせに」
入倉はそう言ったが、「自分のことばかりだった」――それは夏芽も同じだった。自分で勝手に頑張って、焦って、落ち込んで、暴走して。それで体調を崩したり、友人たちに心配をかけたり、この数カ月、夏芽はそれの連続だったのだ。それでも友人たちは夏芽を見捨てなかった。椿希もそうだ。
しかし今、椿希は明確に気持ちに応えられないと発言した。夏芽と入倉は同じように椿希を想い、同じように自己中心的な考えをしていたのに。思い返す限り、椿希が今のような発言を、夏芽にしたことは――ない。「頭を冷やせるまで関わるな」とは言われたが、「お前の気持ちには応えられない」と言われたことは、ないのだ。二人の違いとは、一体。
入倉が反っていた身体を戻し、夏芽と目を合わせる。そこには、以前まで色濃かった夏芽に対する敵愾心が見えることはなかった。
「アンタの気持ちの方が、椿希と結ばれるべきなのよ。アタシではなくてね。だから、訴え続けなさい、夏芽。アンタの気持ちを、アイツに」
彼女のセピアカラーの瞳は、普段より輝いていた。夏芽は頷く。椿希に確かめなければいけないこともできた。そんな夏芽の前に、絆創膏が巻かれていない人差し指が突きつけられる。
「ただし、アタシだってこれからもっと良い女になる。油断してると、アタシが椿希の心をもらうからね」
「うん。肝に銘じるよ」
これは、入倉なりのエールなのだろう。夏芽はそう思うことにした。彼女からの気持ちをしっかりと胸に留め、夏芽はもう一度頷いてみせたのだった。
こうして、二泊目の夜は更けていく。眠る前に百物語をしようという話が出たが、椿希の猛反対で取りやめになった。代わりに食後、リビングの大きなスクリーンにゲーム画面を映し、皆でレースゲームをした。一位になった回数が最も多かったのは順番に侑士、椿希、夏芽、新宮、牧、歩、潤一、入倉で、下の二人は最後まで操作が覚束なく、コースアウトが目立っていたが、皆楽しそうに競っていた。慣れないことをした入倉を含めて。
昼間の疲れもありぐっすりと眠った一同に、三日目の朝が訪れる。今日は近くの神社で夏祭りがわれ、夜には花火大会も開催されるという。楽しみは連続する。
「それで……入倉さん、何の用?」
朝食後、夏芽は入倉に呼ばれた。誰の私室でもないこの一室に。呼び出しの理由に特に思い当たる節は無く、昨日の話の続きかとも思ったが、どうやら違うらしい。腕を組み仁王立ちする彼女に、部屋に入ってきた夏芽は尋ねた。入倉の胡乱な眼差しが浴びせられる。
「決まっているでしょう。アンタのそのごく庶民的な服で、祭りに繰り出させるわけにはいかないのよ」
「えっと、つまり?」
察しが悪い、と態度だけで言った入倉は、ずいと紙袋を差し出した。
「浴衣よ。これはアンタのためのもの」
「えっ、いいの?」
「いいから言ってるんでしょう?」
ほら、と強く差し出され、そっと紙袋を受け取る。浴衣と帯、巾着がセットで入っているようだ。
「着方はわかるわね? アタシは女の子たちや他の男子にも渡してまわるから。もしわからなければその辺の使用人に言って着付けてもらいなさい」
そう告げた入倉が、部屋から出て行く。夏芽は紙袋の中身を取り出し確認してみた。抹茶色の生地に、白色で描かれているものは――。
「と、蜻蛉……?」
なんだってこの虫の柄なのだろうか。随分と渋いチョイスな気はするが、別に嫌いではない。折角だからと袖を通してみると、それだけで肌に感じる布の上質さが窺えた。入倉家の物だから、きっと京都の老舗で仕立てられたのだろう。下手な扱いはできないと、生成り色の帯とともに身を引き締めた。
入倉が置いて行ったらしい下駄を履き、皆の前に出ていく前に、夏芽は自室に戻った。荷物の整理と、身だしなみチェックのためだ。いつもとは違うように髪をセットし、浴衣に合うように少しだけメイクをして、日焼け止めを塗り、ハッカを吹きかける。財布とスマホとメイクポーチとハンカチを巾着に入れ、準備は完了だ。
リビングに出ると、既に男子たちは皆浴衣に着替えていた。侑士は、灰色の生地に、宝尽くしの柄。潤一は紺色の生地に麻の葉。歩は濃藍色の七宝柄。そして椿希は、黒色の生地に椿が描かれている。皆それぞれにぴったりだ。興奮した夏芽の賞賛に、友人たちははにかみを返す。
「皆、お待たせ!」
「遅れてごめんなさい……!」
その後、ヘアアレンジをして夏らしい飾りをつけた牧と新宮が出てくる。牧は鴇色の生地に朝顔の模様があしらわれた浴衣で、新宮は雪色の生地に金魚の模様が描かれた浴衣だ。どちらも華やかで愛らしい。
「牧……お前は桃色がよく似合っている」
「えへへ、ありがとう。山岡もイカしてるよ」
「新宮さんも、大人っぽくてすごく綺麗だ」
「う、嬉しいな……広瀬くんに、そう言ってもらえて」
「皆、準備ができたようね」
最後に現れた入倉は、墨色の生地に大輪の菊の模様の入った浴衣を着ている。その姿はまさに高尚で、難なく着こなす入倉は流石名家の令嬢といったところだ。
潤一と牧、歩と新宮は、それぞれ先に出発するそうで、カップルで出かけることに特に異論も出なかったために、その四人以外が場に残った。彼彼女に倣って、二人ずつで祭りに繰り出そうということらしい。
「じゃ、ちょっと仲良くなったっぽいナツメグコンビでどう?」
「な、なつめぐ」
「横着しないで頂戴」
ナッツになったりナツメグになったり、自分の名前が「夏芽」であるが故に、そういったものに変身しやすいようだ。ナツメグの方が、入倉の成分もあってかちょっとオシャレに聞こえる、とどうでもいいことを考える夏芽。
侑士が笑う。揶揄っている時の笑いだ。
「冗談だって。オレが入倉さんをもらうから、ナッツと東堂で行ってきなよ」
夏芽は入倉の様子を窺ったが、彼女は腕を組んだまま何も言わずに佇んでいた。続けて椿希を見上げる。彼にも反論や異議を唱える気はないようだ。
「じゃあよろしくな、夏芽」
「う、うん!」
二人が出かけようと身を翻した瞬間。後ろから入倉が声を上げた。
「あ、朝帰りなんて不健全な真似、許さないからね!」
「ンなことしねえよ。早寝早起き病知らずってな。二十一時には戻る」
「行ってらっしゃい、ナッツ」
「行ってきます、侑士くん、入倉さん」
夏芽は二人に手を振って、椿希とともにコテージを出た。笑顔を浮かべて手を振り返していた侑士は、彼等の姿が見えなくなると同時に手を止め、玄関の方を見たまま言う。
「入倉さんって、難儀な性格してるよねー」
「ふん。それより侑士、ちゃんとエスコートするのよ。アタシの隣に立てること、光栄に思いなさい」
「わかっていますよ、お嬢様」
――祭り会場へは徒歩十分。この辺りの地理に詳しくない夏芽たちでも迷うことなく行けたのは、そこが騒がしかったから……だけではなく、入倉が送ってくれたしおりにルートを書いてくれていたからでもある。花火大会に備えて穴場のスポットもいくつか紹介してくれており、彼女がどれだけこの日を楽しみにしていたか、どんな様子で資料を用意したのか、手に取るようにわかってしまう。
通りは大勢の人でごった返しており、片道を通り抜けるだけでも四十分ほどかかってしまった。椿希は周りと比べて頭一つ飛び出ているので見失うことはないが、彼を目で追っていると出店を確認することができなかった。一度道を通り抜けてそう椿希に素直に打ち明けると彼は笑って、じゃあ今度は右側だけ一店舗ずつ見ながら行くかと言ってくれた。
カラ、コロ、と下駄の音を控え目に鳴らしながら、夏芽と椿希は店を吟味する。焼きそば、お好み焼き、焼きもろこしは定番、ソースの匂いに何度頬を緩ませたかわからない。かき氷に綿あめ、チョコバナナにも財布の紐が緩んでしまう。絶対に金銭的利益は得られない籤、手に入れられそうで手に入れられない射的、幻のドジョウ掬いも、皆が楽しそうで、隣の椿希も楽しそうで、夏芽はそれだけで幸せだった。
夕方まではあっという間で、完全に日が落ちる前に、二人は通りを抜け、少し離れたところにある穴場スポットの一つに向かった。どうやら入倉家の敷地内らしく、他に人の姿はない。友人たちの姿も。目下には人が溢れているのに、ここは夏芽と椿希の二人だけしかいないのだ。
「夏芽、ここなら腰を落ち着けて食べられそうだぜ」
「うん!」
丁度良く設置されたベンチに並んで座る。パックに詰められたふわふわとろとろのたこ焼きを前に、夏芽の胃袋は我慢の限界を迎えた。「いただきます」を早口で唱え、楊枝で拾い頬張る。あつあつで美味しい。夏芽は夢中になって食べた。
「あーあ、ソース付いてるって」
椿希は言いながらティッシュで夏芽の口角に付いたソースを拭ってくれる。仕方のない子をそれでも気遣うような面差しが、なんだか子を可愛がる親みたいだと思いながら、夏芽は礼を伝えた。
「椿希くん、健康に悪いって言わないんだね? 食べ過ぎだとか」
「あ? まー、祭りだしな、ンな野暮なこたあ言わねえよ。それに俺はただの保体係で、医者じゃねえ」
「ふふ、そっか」
ほどなくして、花火が一発、また一発と打ちあがり始めた。途端に下から歓声が聞こえる。食事を終えた夏芽は袋に空のパックを入れ、花火を見上げてわあと嘆息した。
「大きいねえ」
「ああ、そうだな」
夏芽は夜空に花が咲き誇る度に、無邪気に声を上げる。菊、牡丹、椰子、ハート、花雷……様々な花火が夜を照らしては消えていく。夏芽は暫く、相次ぐ破蕾に目を奪われていたが、椿希は楽しんでいるだろうかと、ふと隣を見た。
「……椿希くん、どうしたの?」
だが、椿希は花火からも夏芽からも顔を逸らし、背を丸めていた。ひょっとして具合が悪いのだろうか。さっと青褪める心地になった夏芽は慌ててその背を擦ろうとするが、それは彼の言葉によって阻まれる。
「悪い……夏芽、俺……」
椿希が身体を起こし、横目でちらりと夏芽を見たが、またすぐに向こうへ視線を遣ってしまう。彼らしくもない歯切れの悪い言葉に、いよいよ夏芽は心配になったが、彼が落ち着いて話せるようになるまで待つことにした。夏芽が診たところで、彼の症状はわからない。
そうして、口を手で覆っていた椿希は、その手をようやく外して、徐に口を開いた。
「俺、お前を見てたら……なんか、無性に……その……手を、繋ぎたくなったんだ」
「え……?」
予想外の言葉に、夏芽は目を見開く。夏芽のその反応は彼も見越していたものだったのか、すぐさま弁解するように続けた。
「お、おかしいよな、こんなのっ……! 俺、あんだけ身体の繋がりじゃなく心で繋がることを知りたいって思ってたのに、どうして急にこんな、こと……!」
幻滅、するだろ。
椿希はそう言ったが、きっと椿希自身がその衝動に駆られた自分に幻滅したのだろう。彼の震える手が、震える肩が、震える声が、そう訴えている。
――けれど、そんな感覚に陥る必要は、一切ない。
「おかしくないよ」
はっきりと、花火の音よりはずっと小さいけれど、春の訪れとともに力強く芽吹く花のように、夏芽は言い切った。その声は、きちんと椿希に届いたようだ。こちらを向いた上下する睫毛が、まだ微かに震えている。
「夏芽……?」
「椿希くんは、おかしくなんかない。もしも君がおかしいのなら、僕だってそうだ」
「……それって、どういう……?」
椿希が問う。その姿が道に迷った幼子を思わせたから、夏芽は彼を優しく導けるよう、柔和に微笑んでみせた。
「好きだから、手を繋ぎたいって思うのは、きっと自然なことだよ」
「好き、だから……?」
鸚鵡返しにされる言葉。確かに頷くと、椿希は俯いた。
胸に手をやった彼は、何度か瞬きをして、そして、その手を握り締めた。
「ああ……そっか。そういうモン、なんだな……」
この数カ月、何度か聞いた文言。だが今の彼のその呟きは、以前までのものとは違う――自身の経験を伴う得心により、溢れたものだった。その証左に、椿希の顔は喜悦に染まっている。夏芽もそれを知り、静かに椿希の感情の綻びを喜んだ。
「夏芽」
彼の瞳が、夏芽を映す。花火の光を浴びながら、真摯に輝く瞳が、夏芽だけを。この瞬間は、いつもまさしく、夏芽と椿希、二人だけの時間。
「お前が好きだ。だから……どうか、この手を繋がせてほしい」
「――はい、喜んで」
差し伸べられた手を、そっと握る。指先を絡めるとピクリと跳ねたが、それが解かれることはなかった。
繋いだ手をベンチの座面に落ち着け、互いの体温を感じながら花火を見上げる。会話は無かったが、言葉以上の気持ちが、指先から間違いなく伝わってきた。
終盤の乱れ打ちが始まる頃、椿希が花火から視線を動かさないまま唇を動かす。
「ようやくわかったよ。熱中症でもないのに顔を赤くしたお前の様子が変だった理由」
「えっ」
「こりゃあ顔赤くなるし、様子もおかしくなるわな。これが、好きって気持ちなのかよ」
からりとした笑いに、夏芽も笑みを返す。様子がおかしいと思われていたのは心外だが、わかってくれたならよしとしよう。
どうやら椿希の唇が閉じるのはまだのようで、彼は言葉を続けた。
「あ、そうだ。ずっと言いそびれてたんだけどさ」
「うん、なあに?」
「そのメイク」
夏芽は僅かに身構える。前にメイクをした時、椿希にあまり良い反応はされなかった。それは夏芽が自分の不調を隠すためにやったことだったが、今回もやはり注意されてしまうだろうか。今度は体調が悪いわけではないのだけれど。
緊張しながら椿希の様子を窺うと、椿希は夏芽を見て、蕩けるような笑みを浮かべた。
「浴衣に合ってる。綺麗だ。そんなお前が隣にいてくれて、すごく幸せだよ」
ドクン。
大きく心臓が脈打った。何かの病気かもしれない、なんて思わないけれど、彼とこれからも視線が交わるのならば、病気でも一切構わないと夏芽は思う。
「僕も……僕も、すごく幸せ」
大好きだよ、椿希くん。
口にはしない代わりに、絡めた指に力を込めた。
✻
こうして、入倉家別荘での三泊四日は終わりを迎える。
花火大会の夜が明けて、朝起きてきた夏芽は侑士に「おめでとう」と言われた。椿希と結ばれたことは、まだ誰にも報告していなかったのに。そう思ったことが顔に出ていたのか、侑士は笑った。そしてもう一度、「おめでとう」と凪いだ口調で告げた。
夏芽はやはりわかりやすいのだろうか。潤一や新宮たち他の友人にも、椿希との関係の成就に拍手でも送りたそうな雰囲気を醸された。嬉しいような恥ずかしいような、どうにも面映いことである。
入倉は……特に何も言ってこなかった。夏芽に対しても、椿希に対しても。ただ、自分が背中を押したのだから当然だと、それだけ伝えられた。確かにその通りだと、夏芽は彼女に礼を言ったが――ムッとした顔をされた。
三時間のリムジン乗車の後、夏芽はわが家に帰ってきた。家の距離を考えて、最初に下ろされたのは夏芽である。
「またな、賀集」
「賀集くん、またね」
「また遊ぼう、カシューくん!」
「ま、またね、賀集くん……っ」
「じゃあね、ナッツ」
「もう車を出すわよ、夏芽」
開いたスモークガラスの向こうから、皆が口々に別れの言葉をかけてくれる。それに応えながら手を振っていると、ふと彼と目が合う。
夏芽を優しく見つめる、東堂椿希の姿。
「また会おう、夏芽」
「椿希くん、皆、ありがとう。またね!」
窓が閉まる。エンジン音を響かせないまま、リムジンは発車した。その黒はすぐに見えなくなり、束の間余韻に浸っていた夏芽は身を翻し、自宅の玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり、夏芽」
両親の声が揃った。
この数日間で、土産話が抱えるほどできた。まずは何から話し始めようか。それを考えるだけで、夏芽の口角は自然と上がる。
(――よし、決めた。まずはあのことから)
胸の内で結論づけた夏芽は、帰りを待ってくれていた両親に向けて、話し始めたのだった。
真夏の太陽よりも、揺れる海よりも、夜空を彩る花火よりも、美しく輝く思い出を。
【終章】薄暮に重なる靴音
始業のチャイムが鳴る前。生徒たちは各々の思う場所で友人たちと語り合う。夏休みが終わったのは一週間前とはいえ、話題は尽きないようである。賀集夏芽の、私立翠清学園高等部一年目の生活の夏休みの話題は、とっくに尽きたというのに。
「憂鬱そうな顔だねー、ナッツ」
「侑士くん……」
机に突っ伏していると、親友の剣持侑士がニコニコと笑いながら夏芽に言った。どうしていつも彼は楽しそうなのだろう。元気の秘訣を知りたいところだ。
「憂鬱っていうか……ほら、夏休み後って、大きなイベントが続くじゃない?」
「体育祭と文化祭?」
「そう。僕、どちらの出来も微妙だから。ここの学園のお祭りごとって、ハイレベルそうで」
夏芽のような、平々凡々な一生徒には荷が重いことが続くのではないかと心配なのだ。そう打ち明けると、侑士は夏芽の前の席に座った。席替えで二人は前後になったのだ。
「大丈夫だって。ナッツにはつよーい味方がいるでしょ?」
「えっと……思い当たる人が、何人か」
「そ。だから大船に乗ったつもりでいな」
勿論オレも助けになるから、とウインクを決める侑士の姿には、彼がそう言うなら大丈夫そうだという気持ちが湧くからすごいことだ。
「特に山岡なんか、ウッキウキで体育祭の練習に付き合ってくれるよ」
「ふふ」
「それにこのクラスには広瀬がいる。企画内容、完成の出来、集客、文化祭ベスト出展賞は恣だって」
「やっぱり文化祭にもそういうのあるんだ……」
文化祭でもその手の勝負事が繰り広げられるなんて、競争力と向上心の高い生徒ばかりのこの学園らしい。けれど、友人である山岡潤一と広瀬歩、二人に頼り切りになるわけにはいかないだろうというのが、夏芽の持論である。
「でも、二人にも恋人がいるから……二人きりの時間は、なるべく確保してあげたいな」
「ナッツは優しいねー」
「そ、そう? 普通だと思うけど……」
夏芽にとっては、皆とわいわいはしゃぐ時間も、想い人と二人でくつろぐ時間も、どちらも愛おしくて仕方がないから、そう思うだけだ。今の夏芽には、どちらかというと想い人といる時間がほしい。それはなかなか叶わないのだけれど。
「あ、そうだ。お祭りといえばさ」
「うん?」
「侑士くんは入倉さんとお祭りを巡ったでしょう? どうだった?」
ずいと前のめりになった夏芽に、侑士は目を瞬かせた。
夏休みのお祭り。侑士は計画の立案者である、隣のクラスの入倉恵とともに廻っていた。その時の話をまだ聞いていなかったのだ。夏芽は興味津々である。
「もしかして、オレと入倉さんのラブストーリーを期待してるの?」
「うん!」
即座に頷くと、正直だなあと呆れ笑いを返された。どうせ誤魔化したところで、悲しいかな、すぐに看破されてしまうのである。であれば、最初から隠さず素直に言った方がややこしくない。
夏芽からの期待の眼差しに、しかし侑士は動じなかった。
「残念。なーんにもなかったよ。ナッツが期待するようなものは、何も」
「ほ、本当に何も⁉」
「本当に何も」
……真実だろうか? 侑士はいつも笑顔を浮かべているから、何カ月付き合っていても、どうも本心が読めない。ここでの生活が始まって以来、侑士が夏芽のサポートをしてくれているのは身に余る光栄だけれど、たまには夏芽とて恩を返したい。だから侑士に想い人がいるのならば、夏芽にできることはしたいのだ。
「オレの好きな人は、彼女じゃないし」
「ふーん……」
とはいえ、こうもきっぱりと言われてしまえば、それ以上追及することもできまい。夏芽は腰を自分の椅子に落ち着けた。
入倉はどうしているだろう。否、考えるまでもなく、彼女もまた自分磨きに精を出しているに違いない。だって彼女は、完全に想い人を諦めたわけではないのだから。いつだって、夏芽の動向に目を光らせている。ただし夏芽がまた無理をしかねないと判断したためか、彼女からすれば見張るというよりは見守るというスタンスのようだが。
するとそこで、教室の扉が開いた。クラスの誰も彼もに挨拶を向けられるのは、担任教諭……ではなくて。
「東堂くん、おはよう!」
「東堂おはー」
「椿希、おはよう」
「おはよ」
登校してきたのは、東堂椿希。このクラス一番の人気者で、ムードメーカー。A組の保健体育係。そして同時に、彼は夏芽の恋人でもある。
いつも通り、登校した途端大勢の生徒に囲まれる彼と、夏芽が付き合っているだなんて、他の生徒は思いもしないだろう――と夏芽は自信をもっているが、実際はとうにクラスの大半に悟られている。賀集夏芽はどこまでもわかりやすいのだ。
その後、チャイムの直後に教室に入ってきた担任の号令で、また新たな一日が始まったのだった。
第二理科室。ここでは生物や地学の授業が行われるが、今は放課後のため静まり返っている。とはいえ、誰もいないというわけではない。彼――東堂椿希が立っている。ガラスの向こうの、人体模型と骨格標本を眺めながら。
小学生の頃から、授業の前後には理科室に設置されたそれらを見るのが好きだった。人体の不思議は、いつでも自身の知的好奇心を煽り、未知の世界を教えてくれた。身体の仕組みを、知れば知るほど没頭していった。己の好奇心を満たすため、なりふり構わっていなかった自分は、少々他人の、所謂倫理からは外れていたように思えると、今は自省している。ギリギリ一線は越えない程度の倫理観は持ち合わせていたのがせめてもの救いか。
黄昏時の静寂の中で、ただ回顧しながら立ち尽くしていたために、開いた教室の扉のそばにやって来た姿に気づくことはなかった。
「椿希くん?」
「おわあっ⁉ あ、な、なんだ、夏芽か……」
「ご、ごめん、驚かせて」
眉を下げた賀集夏芽は教室に入り、こんな所で何をしているのかと椿希に問う。不意打ちにバクバクとうるさくなった心臓を落ち着け、調子を取り戻した椿希が、ちらりと模型に視線を寄越した。
「そろそろこいつらともお別れかと思ってよ」
「お別れ?」
「ああ。これ以上、身体を透かして見る必要はない」
予想だにしないことを言い放った椿希に、目を見開く。慌てて彼に自分の気持ちを表明した。これだけは、何があっても譲れないから。揺るがないから。
「僕、椿希くんに診察してもらうの、好きだよ」
「わかってる、それは辞めねえよ。けどこれからは、もっと心を透かして見たいと思った」
彼が模型から夏芽へと視線を注ぐ。彼はもう、二度と模型の方を見ない――そんな予感をした夏芽は、椿希の言葉を待った。形の良い唇が、緩やかに弧を描く。
「お前が俺の心の発達を診てくれたように、俺もお前の心を診られるようになって、お前に寄り添いたいんだ。他のやつにもな」
「椿希くん……」
まさか彼にそんなことを思ってもらえていたとは。夏芽は驚くとともにじんわりと胸が温まるのを感じた。だから、そう。つい、望んでしまうのだ。
「ねえ、僕を診て」
「は? でもお前……」
「いいから。お願い」
突然の申し出に困惑する椿希だったが、恋人にそう言われては無碍には出来ないようだ。向き合って屈み、自らの手を夏芽の首筋に添える。熱烈な眼差しを感じるものの、今はそれに応えられない。
理科室に、微かな息遣いは残りながらも、また沈黙が横たわる。
「――……異状はねえよ?」
何か調子が悪い所があってはいけないと思いじっくり診察したが、自分が直感していたようにやはり夏芽の身体が不調を訴えている様子はない。手を離して告げて表情を窺うと、夏芽は満足そうに笑っていた。
「ふふ、うん。わかってる。ごめんね、僕が君の瞳を見つめたかっただけ」
「夏芽……」
診察中の椿希の瞳を見つめられたのが余程嬉しかったのが、随分とご満悦のようである。椿希としては、そういった反応をされるのはこそばゆいが、全く悪い気はしない。それどころか診察中であろうとなかろうと、もっと見つめてほしいとさえ思うのは、きっと椿希が夏芽のことを想っているからなのだろう。
ようやく理解した感情の赴くまま、診察ではなく、表現として、椿希は夏芽の頬を撫ぜた。
「俺を見てくれてありがとう、夏芽。俺を見つめてくれたのがお前で、本当に良かった」
「僕こそありがとう、椿希くん。いつも僕を見透かしてくれる君の存在が、僕の心臓だ」
思いの丈を打ち明け合い、微笑む二人。暫くそうしていたかったが、最終下校時刻のチャイムが鳴るまでここにいるわけにもいかない。此処は二人きりになる場所として然るべきものではないのだ。
「そろそろ帰るか」
「うん、そうだね」
言葉を交わしてやおら動き出す。しかし教室を出る前に、椿希は夏芽を呼び止めた。どうかしたのかと振り返ると椿希はもぞもぞと躊躇いながらも、意を決したように――片手を差し伸べた。
その意図を汲み取った夏芽は、その手に自分の手を重ねる。一回り大きな手にしっかりと包まれ、その温もりを感じながら歩き出した。
九月の夕焼けに見守られ、繋がった二つの影が伸びる。その影は離れることなく、この先もずっと、ともに寄り添い続けることだろう。いずれ身体は滅びようと、互いが互いを思いやる心は、想い合う心は、永遠不変なのだから。
終
正直、気は乗らなかった。
賀集夏芽、十五歳。父親の転勤がきっかけで、東京都に引っ越しが決まった。夏芽としては、生まれ育った静岡の地での高校生活というのも悪くないと思ったし、積極的すぎると音に聞く都会の人間との交流で新しい人間関係を一から築かなければならないのだと考えると、少し憂鬱だった。夏芽は元来引っ込み思案で一人でも平気な性格である。
しかし、ごく一般的な家庭の一人息子として育てられてきた夏芽が、中学卒業後にいきなり一人暮らしというのも現実的でないことは事実だった。親戚の家に頼るのも悪い。話し合いの結果、夏芽は東京の私立校に編入することを決めた。そして、無事に編入試験もクリアしたのだった。
「……前髪、変じゃない、よね?」
目の前の自分は眉を下げながら、指で前髪を整えている。傍らには最近話題の男性モデルが表紙にありありと映されたファッション誌が置いてあり、そのモデルの髪型と今の夏芽の髪型はそっくりのスタイル……の、はずだ。多分。変じゃない、きっと。顔面のつくりの差はあるものの、今の夏芽だって髪型ではこのモデルや他の男子学生と比べても遜色ない。と、思いたい。
「なっちゃーん、朝ごはんー」
「あっ、はーい!」
母親に呼ばれ、洗面所からダイニングへと移動する。今日は白米を主食に焼き鮭と味噌汁とわかめサラダという、なんともスタンダードな朝食のようだ。三人分のグラスを置いた母が、席に座るよう促した後、訊ねてくる。
「今日はお弁当ないんだよね?」
「うん、入学式とガイダンスだけだよ。っていうかマ……じゃなくて、お母さん。その『なっちゃん』って呼び方、恥ずかしいからやめてって言ったでしょ。思わず返事しちゃったけどさ。他の親の前でとか、特に気をつけてよね」
「ふふ、そうだね。もう高校生だもんね」
母の対応は、まだなんだか子ども扱いをしているような言い方だが、あまり食ってかかるのも子どもっぽく思えたので、やめた。大人しく「いただきます」と朝食を採り始めると、今度は向かいに座る父が口を開く。
「夏芽、悪いな。いきなりこっちに転勤になってしまって」
「いいよ、僕も私立に入ることになっちゃったし。父さんこそ頑張ってよ」
夏芽の気が乗らなかったのは本当だが、父にとっては栄転で、家族にとってもそれは喜ばしいことでもある。折角編入するなら、と私立校を選択したのは夏芽だった。まあ、幼稚舎からエスカレーター式が採用されている学校に受かってしまったのは失敗だったかもしれないが、それも仕方のないこと。なんにせよ、新天地で人間関係を築かなければならないことに変わりはない。決して安くない費用を託してくれた両親に感謝こそすれ、謝罪されることなどない。そんな気持ちを込めて微笑みかけると、父も表情を和らげた。そして、父子のやり取りを見守っていた母に視線を遣る。
「母さん。夏芽の写真、頼むよ。記念すべき一日目なんだから」
「任せて。とびきり可愛い写真を撮ってみせる!」
アルバム作りが趣味の母の持つカメラは上等のものだ。きっと身体がカチコチの夏芽の様子までばっちり映してしまうだろう。
どんな学生生活が始まるのか。できれば穏やかに過ごしたいものだが。
そんなことを思いながら、夏芽はキャベツを食む。しゃくっ、と小気味よい音が響いた。
――私立翠清学園高等部。賀集家の新居から徒歩二十分のターミナル駅・八熊手駅から、三十分電車に揺られ翠清駅という所で下り、十分程歩いて高級住宅街を抜けた先に、その学園はある。校舎の様相は学費に見合い善美で、夏芽の通っていた中学校のそれとは月と鼈である。
入学式の立看板の横に立たされ、八分咲きの桜とともに撮影をされる。この瞬間は、少しだけ恥ずかしくなるから気は進まないが、夏芽はそこまで母に逆らえる性格はしていない。そもそも父に頼まれており、ただでさえ気合十分な母の迫力を前に、争う気など毛頭ないのだ。
「はい、可愛い。どう?」
見せられた画面に映っている自分は、今朝鏡で見たものとそう変わりはないものの、成長を見込んで僅かに大きいサイズの制服を着ている。着られている、感は否めないが。
「髪、変になってなくてよかった」
「ええ、髪?」
そこに触れるのはやめて、別の感想を口にした。春風が強く、折角セットした髪が崩れるのは格好悪いと心配していたのだ。だが特に問題はないようで良かった。
母とはここで別れ、先に教室に向かう。夏芽はA組、廊下から二列目、前から二番目の席を指定されている。教室に向かう足を進める度、ドクンドクンと心臓が大きく脈打つ。手汗がじわりと浮き上がる感覚に、自分の緊張をさとった。
(ここにいるのは、今までの僕を知らない人。だから、大丈夫。これから僕は、どんな高校生にもなれる)
深呼吸して、自己暗示をかける。もう一つ深呼吸をした後、覚悟を決めて教室の扉を開けた。
その瞬間、いくつかの視線を向けられたが、それらはすぐに失われた。男子も女子も、とっくにグループを形成しており、その中でのおしゃべりに夢中なのだ。仕方がない、仕方がない。
そう自分に言い聞かせながら目線を下ろし自分の席に向かうと、左側から声が上がった。
「おっ、オマエ、編入組のやつでしょ?」
「ひょいっ⁉」
「ひょい?」
つい間抜けな声が漏れてしまったが、教室に反響するほどではなかったようで安堵する。気を取り直して、声をかけてくれた男子に向き合う。三人組の中の一人が、興味を含んだ視線で夏芽を見ていた。夏芽より少し背が高く、顔立ちや居住まいから爽やかな印象を受ける男子だ。
「あっ、そ、そうです」
「やっぱね。オレ、剣持。剣持侑士。オマエの後ろの席ね」
「あ、後ろの……。えっと、僕、賀集、です。賀集夏芽」
「あー。あのカシューナッツって、オマエか」
「……好物は、甘納豆、です」
「ははっ、面白れーの」
ナッツって呼んでいい? と伺いを立てるように訊かれ、ぶんぶんと首を縦に振る。この剣持という生徒は、明るくて人懐っこくて、所作が犬っぽい男子だ。いきなり渾名で呼ばれるとは思わなんだが、話しかけてくれる人がいるのは嬉しいことだ。「なっちゃん」よりは恥ずかしくない。
剣持が続けて他の二人を紹介してくれる。
「こっちの涙黒子のあるのが広瀬で、こっちの顔が怖いのが山岡ね。好きなように呼んでよ」
「広瀬、歩です。よろしく」
「おい剣持、顔が怖いは余計だろ。……山岡潤一だ、よろしく、賀集」
「う、うん! よろしくお願いします」
広瀬は穏やかというか控え目な印象で、山岡は確かに精悍な顔つきをしており身体も逞しいが、見かけの通りの人物、というわけではないようだ。第一印象に過ぎないが、皆優しそうで良かったと、胸をなでおろす。もう手汗も止まった。
小さく呼吸して、夏芽は剣持に訊いた。
「あ、あの……剣持くん。さっき、カシューナッツって……」
「うん。オレたちはエスカレーターで学年上がってきてっから、先月配られた新名簿見て、『カシューナッツみたいな名前の編入生がくる』ってちょっと話題になったんだよね」
ちょっと話題になった――若干不安になる言い回しだ。浮いている、ということでなければいいが。
黙ってしまった夏芽を見て、すかさず山岡がフォローを入れる。
「心配するなよ、皆揶揄ってるわけじゃない。とっつきやすいってことだ」
「あ……うん。ありがとう、山岡くん」
「ふふ。僕、賀集くんのさっきの自己紹介、いいなと思ったよ」
「そそ。それにオレ、シンパシー感じたし」
「シンパシー?」
剣持に聞き返した夏芽だったが、それは教室の扉が開いた音によって遮られた。
「皆さん、席に着いて。ホームルームを始めます」
凛とした女性の声に、好き勝手に話していたクラスメイトたちは各々の席に戻る。広瀬と山岡を見送り、夏芽と剣持も前後で座った。教卓に出席簿を置いた女性の名前は、確か……。
「皆さん、ご入学おめでとうございます。今日から一年、このA組の担任になります。野村明里です」
そう、野村先生だ。クラスメイトの雰囲気から、彼女の着任は喜ばれているようだった。つり目と高い位置で結ばれた髪、そしてその口調は、野村がしっかりした性格であることを窺わせる。
「それじゃあ、入学式の資料を配りますので、この三点が入っているか確認してください」
――入学式中に犯罪組織が乱入……することはなく、式は恙なく終わった。保護者たちは先に帰ったり生徒を待ったり、それぞれ過ごしている。夏芽たち生徒は、教室でガイダンスだ。授業のカリキュラムを聞いた後は、いよいよ。
「では次に、クラス内で委員会と係を決めます」
野村の言葉にざわめく教室。夏芽もなんだかもぞもぞと居住まいを正してしまった。少なくとも一人一つ、委員会か係に必ず入らなければならないというのがルールだが、夏芽は決めかねていた。委員会のノウハウは把握していないので、できれば教科毎の係で安牌な仕事をしたいとは思うが、新参者の自分がいきなり何かに立候補するのは悪目立ちしてしまうだろうか。
夏芽が悶々と考えているうちに、黒板にすべての委員会と係の名称が書かれてしまった。
「まず推薦を訊いておきましょう。何か案はありますか」
「はーい! 東堂は保体係がいいと思いまーす!」
「さんせーい」
「オレも賛成ー」
いきなり手を挙げた男子生徒の提案に、男女何人もの生徒が賛成する。その勢いに、夏芽の肩が僅かに跳ねた。東堂、とは誰だっただろうか。
野村の表情が曇る。その視線は、夏芽の斜め後ろの方に向けられた。
「ええと、東堂さん。いいかしら?」
「――なんだ、お前らそんなに俺にシてほしいのかよ、保体係」
低く、どこか艶のある声が後ろから聞こえてきて、今度は夏芽の心臓が跳ねる。弾かれたように振り返ると、クラスの注目を一身に受けている男子生徒がいた。
ウルフカット、といっただろうか、夏芽には一生似合わなさそうな髪型をなんでもないことのように整えた、座っていてもわかる大柄な男子。山岡にも劣らない大きさだろうが、その顔立ちは山岡の厳ついイメージとは違って美しい。彼のあの柳眉とつりがちな切れ長の目で睨まれたら、それはそれで恐ろしそうだが。今はその薄いが形の良い唇が、愉悦を湛えていた。
「いっとけよ、東堂!」
「保体係といえば椿希でしょ!」
東堂……東堂椿希だ。思い出した。
他の生徒から口々に薦められる東堂は、明らかにクラスの中心人物として夏芽の目に映った。何故こうも推されているのか、理由はわからないが。数々の推薦を受けた東堂が、ひらひらと手を振った。
「しゃーねーな。ご期待には応えてやりますか」
「……わかりました。では、一人は東堂さんにお願いします」
「おー、東堂よろしくー」
「いえーい」
「皆さん、静かに。他に推薦は?」
それから、たまに静かになって、たまに騒いで、着々と委員と係が決められていったのだった。
「あー、終わった終わったー。お疲れー、ナッツ」
「ふふ。お疲れさま、剣持くん」
ぐっと背伸びをして、気の抜けた声を出す剣持に労いの言葉を返す。確かに初日で緊張したが、話されたカリキュラムは夏芽にとってやりがいがありそうなものだった。それに、このクラスでの夏芽の役割も決まった以上はやり遂げなければならない。
「どう? 園芸係、頑張れそ?」
「あ……うん。サボテンの世話なら家でよくやっているから」
夏芽は立候補のいなかった園芸係になった。一クラスで一つ、中庭にある花壇の世話をするのが係の仕事だ。夏芽の他に、新宮真帆という女生徒が係になっていた。
「サボテンて。ま、もう一人の子も良い子だから心配しなくていいよ。そーいやナッツは部活、もう決めてんの?」
部活。そうだ、部活も問題の一つだったと思い出す。首を横に振ると、ふうんと鼻を鳴らす剣持。夏芽と剣持の机に、山岡と広瀬が寄ってくる。どうやら山岡はテニス部で、広瀬は吹奏楽部らしい。今からでは運動部は厳しいだろうか。技術的にも、人間関係的にも。
「剣持くんは何部なの?」
「『名前は剣道部、実際は写真部。その名は剣持侑士!』、ってね。名前はカシューナッツでも、甘納豆好きなナッツと似てるだろ?」
「なるほど……」
シンパシーとはこれのことか、と合点がいった。テニス部、吹奏楽部、写真部のいずれかなら、少なくとも一人は話せる人がいて安心できる。
(ああ、そういえば)
そこで思い返したことがあり、夏芽はそれをそのまま訊ねてみることにした。
「さっき、やけに保健体育係に推されていた……東堂くん? って、一体……」
「あー、東堂はねえ。ま、色々あるんだよ」
「幼稚舎からずっとこの学園にいるね」
「あいつは今どの部にも所属していない」
三人から得た情報は深くはなかったが、この三人は保体係に彼を推してはいなかったと記憶している。そういうノリにのらない性格なのかもしれない。剣持がのらなかったのは少し意外だったが。
否、きっと夏芽も東堂のようなクラスの中心人物に関わることはないだろうから、これ以上知る必要もない。
これからの学生生活に思いを馳せながら、ふと時計を見るともうすぐ十二時に差し掛かるところだった。
「あ、ごめん、皆。お母さんと待ち合わせしてるから、もう行くね」
「そっか。じゃあまた明日、ナッツ」
また明日、と山岡と広瀬にも言われ、夏芽も元気よく挨拶を返す。教室を飛び出した夏芽の足取りは軽い。早くもよいクラスメイトに恵まれ、浮足立つ心地になるのは当然だった。
校舎の外には、カメラを確認している母の姿。夏芽は迷わず駆け寄った。
「お母さん、お待たせ」
「夏芽、お疲れ。写真一杯撮っちゃった」
「そんなに撮るものあったかなあ」
母と並んで、外食のための店を探しながら歩く。夏芽にはなんだかんだファミリーレストランがお気に入りだが、母はフレンチの気分のようだ。
「お友だちできた?」
「うん。三人も」
「へえ、順調な滑り出し」
順調、だろうか。そうだったらいいなと思う。張り切っていかなければ。
母に気づかれないように、その傍らで静かに意気込んだ夏芽だった。
【四月】ドキドキ、東堂くん!
「手伝ってくれてありがとう、賀集くん」
「ううん、僕も園芸係の一員なんだから、当たり前だよ」
一年A組の花壇の前で、賀集夏芽は新宮真帆にそう返答した。おさげ髪の少女は大人しく、夏芽と似たタイプで話しやすい。
「こういうのって、結構力仕事だから、女の子だけだと大変なこともあるよね」
「あはは。でも、賀集くんが一緒でよかった。でも、頑張りすぎないでね」
「うん、新宮さんこそ」
友人と約束があるという新宮を先に見送り、夏芽も腰を上げる。
新天地での新生活が始まってから、二週間が経った。少しずつ新しいルーティンが構築されていく時期だが、夏芽にとってこれがかなり大変なことだった。
新宮を始め女子と話すのは相当緊張する。今だって手汗を悟られないようにするのに必死になっていたのだ。多分、男の子と同じように接することができていたと思うけれど。いくら外見を変えてみようが、夏芽の性根が変わることはない。
ふっと息を吐いた直後、背の方に気配を感じた。
「ナッツ、こっち向いて」
「はい?」
言われるがまま振り向いて自然な笑顔を浮かべると、ぱしゃり。軽快な音が響いた。カメラを構えていたのは、夏芽の高校生活初めての友人、剣持侑士だった。
「お、イイ顔してくれんねー。撮られ慣れてる?」
「えっと、昔から両親がやたら撮るからさ」
「ふーん。なんかいいね、それ」
ニコッとこちらも自然な笑みを向けられる。剣持の笑顔は愛嬌があって好きだと、夏芽は思う。だから彼の言葉も、世辞ではなくて本心で言ってくれたと信じたい。
ところで、剣持はどうしてここにいるのだろう。
「オレは部活。学校にある素敵なものを撮って来るのが今月の課題だからさ」
「なるほど、写真部ってそうなんだ」
『素敵なもの』とは随分と曖昧なお題だが、写真部にしてみるとこのくらい抽象的なテーマが多いらしい。夏芽には両親や剣持たち写真部員ほど、撮りたいという衝動に駆られた事物に遭遇したことはないが、いずれ彼らの感覚もわかるだろうか。そんなことを思いながら、汚れた軍手を外す。
「ナッツは結局、部活どうすんの?」
「うん……まだ考え中、かな。とにかくこの生活に慣れるところからと思って」
「真面目だなー」
カメラを首に提げた剣持は、言いながら両手を頭の後ろにまわす。その表情が、一瞬にして強張ったことに、夏芽は少し戸惑った。
「真面目なのも良いと思うけどさ。あんまり張り切りすぎて倒れるなよ?」
「あ……、新宮さんにも似たようなこと言われたよ。僕ってそんなに危なっかしいかな?」
「んー……ま、そうだね」
「えっ」
ショックだ。自分の行動はクラスメイトにそう見えていたのか。だが、たとえ頑張りすぎるなと言われても、夏芽には不可能だ。ただでさえ夏芽は最近まで故郷で暮らしていて、しかもこの名門学校の編入生になった。多少頑張らなければ、ここでの生活にすぐ慣れることもできない。そのためなら無理など厭わないが、その姿が危なっかしいとなると――クラスメイトに気づかれないように行動しなければならない。
「ごめんね、余計な心配かけないようにするよ」
「いや……うん」
剣持の反応の意味がよくわからず、夏芽は内心首を傾げる。だが剣持には夏芽が理解していないことがわかってしまったのか、何とも言えない表情で黙ってしまった。どことなく気まずい空気が流れるのに耐えきれず、慌てて違うことを尋ねる。
「剣持くんはこの後どうするの?」
「オレはもう少し校内で撮影する。ナッツは?」
「えっと、今日はもう帰るよ」
そう告げると、剣持の表情が少し緩んだ。夏芽もそれに安堵する。
「そっか。じゃ、気を付けて」
「うん。また明日ね、剣持くん」
「また明日」
✻
カーテンの隙間から光が溢れている。翌朝、自室のベッドで目を覚ました夏芽だったが、どうにも起き上がるのが億劫に思えた。
(なんか身体が怠いな……。夜更かししちゃったからかな……?)
夏芽は考える。確かに昨晩は帰ってきてから夕飯を食べ、風呂から上がって以降ずっと授業の予習・復習をしていた。そして気がついたら時計はとっくに丑三つ時を示していて、慌てて布団に入ったのだ。だが目が冴えてしまって、目を閉じても数式や文章が瞼の裏をぐるぐると廻るから、結局いつ眠れたのかよく覚えていない。勉強しなければよかったとは思わないが、迂闊ではあった。今日こそ早めに寝ようと考えていたのに。このところずっとそうだ。
深い溜め息を吐くと同時、リビングの方から母の声が飛んできた。
「夏芽ー、早く準備しちゃってー」
「あ……はあい」
応える声は、自分でも間抜けなものに聞こえた。身体のだるさは誤魔化しようもないが、ずるずるとベッドを下りて、足を引きずりながら自室を出る。
顔を洗った、鏡の中の自分はどうにも冴えない。生えかけの鬚を剃った後、髪型をセットするのは気が進まなくて、寝癖を直す程度に留める。それから母の化粧品を借りて、血色がよくなるメイクをして、隈も消した。これで普段通りの顔に見える、はずだ。まだ頭はぼうっとしているが。
ダイニングに向かうと、母がいつもの調子で弁当箱を突き出してきた。
「おはよう、夏芽。はい、お弁当ね」
「おはよう。ありがとう」
それをカバンにしまってから、夏芽は椅子に座る。いただきますと手を合わせ、並べられた洋食の朝ごはんを、ちびちびと食べる。
父はもう仕事に出た。なるべく早い電車で混雑を避けたいらしい。母は在宅勤務なので食事の用意は基本母に任されている。夏芽も家事を手伝いたい、暮らしの術を学びたいと思うが、まだこの生活に慣れるまではそれも叶いそうにない。ああ、「僕はもう大丈夫だ」と言いたいのに。
「夏芽? どうしたの、具合悪い?」
「えっ?」
いつの間にか近くに来て顔を覗き込んでいた母の言葉に、夏芽の肩が跳ねる。夏芽は今具合が悪い、のだろうか。否、きっと寝不足なだけだ。
「いや、大丈夫だよ」
「そう? 最近遅くまで起きてるみたいだけど」
「……うん、まあ寝不足ではある、かも。でも、授業中は寝ないから!」
事実を打ち明けると、母は釈然としなさそうにしながらも、何かあったら連絡するようにと言ってきた。素直に頷き、食事を再開する。
それにしても、母に指摘されてしまうとは。学校で悟られないように、更に気をつけなければならない。決意を新たに、スクランブルエッグをかき込んだ。皿で隠したからか、それ以上母に追及されることはなかった。
通勤ラッシュに呑まれ、学校に着くころには足元が覚束なくなっていた。夏芽の故郷では、これほど人がごった返す電車などほとんどなかった。東京に比べればどこも可愛いものだろうが、あまり気分は良くない。それでも乗るしかないのだから、仕方ないのだけれど。
高等部一年の教室は昇降口からすぐそこなのに、それまでの一歩一歩が、今日はやけに遠く感じる。まだ着かないのだろうか。早く腰を落ち着けたい。というか、寝たい。
(いやいや、だめだ……寝たらだめなんだよ……)
そうだ、寝る間も惜しまなければ、遅れをとってしまう。心配させてしまう。睡魔を払うため首を横に振ったが、思ったより力が入らない。そして頭が重い。何故か、眼前が明るくなったり、暗くなったりする。
(あ……目、開けていられない、のか)
そう、自覚した。自覚してしまった途端。
夏芽の意識は遠のいた。
✻
温かな風が、カーテンと踊る音。馴染みのない、どこかツンとしたにおい。
夏芽の耳と鼻が、真っ先に周りの環境を訴えてくる。それからようやく夏芽の目が開かれ、その情報の出所を探る――
「お、目が覚めたかよ」
「⁉」
その前に、傍らから飛んできた低い声に、それはそれは大きく身体が跳ねた。その反応を勘違いされたのか、血管の浮き出た逞しい腕がこちらを制するように差し出される。
「あー、まだ身体起こさなくて良いって」
「と、東堂、くん……? どうして……」
夏芽のそばにいたのは、クラスメイトの東堂椿希だった。夏芽が一生することのないであろうミディアムウルフカットの髪型、長い睫毛に縁どられた鋭い目、薄いが形の良い唇、よく通った鼻筋、座っていてもわかる大柄な体躯――近くで見ると一層迫力がある。その雰囲気に委縮して、他の同級生たちのように気軽に、気楽に彼と話しにいけるほどの性格を、夏芽はしていなかった。
そう、この二週間、東堂との接点は無かったのだ。それなのに、何故東堂がこんな至近距離にいるのだろう。呆然とする夏芽の問いに、東堂の方は然して何でもないことのように答える。
「お前が廊下で倒れたっていうから、保健室運んで面倒見てたんだよ。俺、保体係だし」
「僕が倒れ……、えっ、僕が倒れた⁉」
俄かには信じられなかった。ここが保健室だということも、今まで寝ていたことも忘れ、大声が飛び出してくる。その声は若干掠れていた。
しかし重要なのはそこではない。廊下で倒れた、だって? それじゃあ、教室に着いてさえいないじゃないか。
「今何時⁉ もう一限始まって――」
「今は昼休みだ。十二時半」
「う、うそ……」
口では反射的にそう言ったものの、東堂の指差した先に掛けてある時計は、東堂の告げた通りの時刻を示していた。途端に力が抜ける。朝のホームルームにも参加できず、四時間もぐっすり眠ってしまったようだ。なんたる失態、なんたる絶望。また意識が遠くなってきそうである。
「ど、どうしよう、何やってるんだろう僕、こんな……授業にも出られないで……」
「仕方ないだろ。お前、三十八度だったぞ、体温」
「え?」
「発熱をほったらかしにしてたんだから、当然だって言ってんだ」
発熱。東堂の口からは、予想だにしていない言葉がぽんぽん飛び出してくる。混乱しっぱなしの思考をなんとか落ち着かせながら、夏芽は情報をまとめようと試みた。つまり、夏芽が今朝から感じていただるさは発熱に由来するもので、倒れたのも発熱が原因?
夏芽の推察に、東堂が緩く首を横に振る。
「部分的には合ってるが、違うな。お前が発熱したのは、端的に言やあ、お前の頑張りすぎが原因だ」
「が、頑張りすぎ……?」
理由がピンと来ず首を傾げる。その様子を見た東堂は、極めて静かに、極めて淡々とした口調で補足してくれた。
「新学期や新年度が始まると、一定数いるんだよな。新しい環境に慣れなくて、体調を崩すやつとか、適応しようとして気張りすぎるやつ。お前は後者ってわけだ。ただでさえ、春は寒暖差だの花粉だので、体調が崩れやすい」
「……」
「激務でメンタルまでやられて、最悪電車に飛び込むなんてこともある。お前みたいに体調に出た方が、わかりやすくて処置もより適切にできる」
東堂の言葉は尤もだ。指摘の通り、夏芽は一刻も早く新しい環境に適応しようと努めていた。それが原因だと言われたとしても……。
「……でも、僕、皆より頑張らなきゃ。今頑張っておかないと、これからの生活が」
「これ以上頑張ったら、その『これからの生活』も無くなるかもしれねえけど?」
息を飲んだ。そこまで冷静に、率直に忠告されてしまうと、聞かざるを得ない。立ち止まってよく考えてみれば、これからの生活のために今心身を悪くするなんて、本末転倒もいいところである。どうして、そんな単純なことに気がつけなかったのだろう。
「お前の焦りが本物だった。本物だからこそ、盲目になってただけだ。そんで――」
ぐい、と。
一瞬、何が起きたかわからなかった。眼前に迫る美しい顔、片頬を包む大きな手。強制的に、吐息が混じり合いそうなほど、顔を合わせられたのだ。夏芽の身体に緊張が迸る。目の前の東堂の表情は、今までと全く変わらない。真剣な瞳がじっと夏芽のつまらない顔面を見つめて、口を開いた。
「お前、やっぱメイクで隈隠してるな。血色の悪さも」
「……っ!」
「他のやつの目は欺けても、俺は騙せねえから。覚えとけよ。またそれしたら、強制的にここ連れてきて寝かしつけてやるよ」
不敵に微笑まれて、夏芽は心臓がドキッと音を立てた、そんな錯覚に陥った。それを知ってか知らずか、それだけ言って離れた東堂は今まで座っていた回転椅子に再び腰を下ろす。まだドキドキはおさまらないが、夏芽はそれが悟られないように平静を装って東堂に言う。
「あの……東堂くん、ありがとう。すごいんだね、保健室の先生みたいだ」
「……別に、あのくらいは常識だろ」
「メイクで隠してるの、わかったのも?」
「……おー」
そうなのだろうか。確かにあんな、互いの呼吸がわかるほどの距離で凝視されてしまえば、メイクもバレてしまうかもしれないが、自分を診てくれたのは本心ですごいと思った。その辺の保体係も、東堂のように症状に詳しいのだろうか。
それにしても、今日は倒れて授業に出られなくなった代わりに、クラスメイトの知らない一面を知れたことは、不幸中の幸いと言えると思った。そうでなければ、遠くからの印象や噂だけで東堂の性格を決めつけたままでいるところだったのだ。
「優しいんだね。僕、誤解してたみたい。東堂くんって――」
「ソウイウ意味で遊び人って聞いてたから、か?」
びく、と身体が固まる。図星だ。剣持たち最初の友人以外のクラスメイトの会話からは、東堂のその手の話題が毎日のように聞こえてきた。しかしだからと言って女子生徒が東堂のことを悪く話していることもなく、不思議だったのだ。夏芽にとってその手の種類の人間は、チャラついていて人をいびるのが趣味、みたいな、関わりたくない相手に当てはまる。東堂もそうだった。というか、いつもクラスの中心にいるから、そもそも余所者の夏芽が関わり合いになれる相手ではない。そう決めつけて、話すことも無かったけれど。
だが、実際にこうして一対一で話してみると、存外話しやすく、そして優しい人だという印象を受けた。これが、所謂陽キャの距離感、なのだろうか。何にせよ、もっと怖い人だと思っていたが、そのイメージは取り払われた。
それを伝えようとしたが、夏芽の言葉は立ち上がった東堂によって遮られる。
「別にそれは嘘じゃねえ。お前も、あんま俺のこと信じない方がいいぜ?」
「え……?」
どういう意味、だろう。夏芽を見下ろす東堂の顔には陰が差していて、表情が上手く読み取れないが――
無言で見つめ合う二人。改めて聞き直そうと夏芽が口を開いた瞬間、しかし今度は勢いのよい扉の音で遮られてしまった。
「ナッツ! 起きた⁉ あ、起きてる!」
「剣持、静かに。ここは保健室だ」
「賀集くん、体調は大丈夫?」
保健室にわらわらとやって来たのは、剣持侑士、山岡潤一、広瀬歩のクラスメイト三人だった。心配をかけてしまったらしく声をかけようとしたが、その前に東堂がそばから離れ、入れ替わるように「じゃあな」と行ってしまった。先ほどの言葉の真意を聞きたかったが、今は諦めるしかないようである。そばに来てくれた三人に笑顔を向ける。
「寝たからかな、大分よくなったよ。ご心配おかけしました」
「ホントだよもー、倒れたって聞いてめっちゃ焦ったし」
「先生や東堂が診てくれたんだろう。どうだった」
「うん、知らない間に疲労が溜まってたみたい」
東堂が伝えてくれたことを簡潔に伝えると、三人は「やっぱり」と言いたげな顔をした。実際、言われた。心配させないよう頑張る姿を見せまいと決意したのに、この体たらく。自分が情けなく思えた。
「僕たちもいるんだから、これからは頼ってね」
「肝に銘じます……」
広瀬にまで穏やかに諭されてしまう。今回のことで懲りた。もう少し肩の重荷を下ろしてもいいのだろう。こうして支えてくれる人に、恵まれたのだから。
「あ……ねえ、東堂くんの連絡先って持ってる? メッセージでもお礼が言いたくて」
「クラスチャットから引き抜きでも良いと思うけど、後でアカウント送っておくよ」
剣持に感謝すると同時に、また扉が開いた。東堂が帰ってきてくれたのかと思ったが、違う。白衣を纏った五十代くらいの、品の良い女性。養護教諭の一人、鍋島佳代子先生だ。
「あらあ、起きたのね。体調はどうかしら」
「はい、かなり良くなりました」
「そう。でも、まだもう少し眠っていた方が良さそうねえ。担任の野村先生には伝えておくから、安心して休んでいきなさい」
「ありがとう、ございます」
授業に出られないということに一抹の罪悪感を覚えたが、それは自分のせいだからと折れる。するとそこで丁度チャイムが鳴る。昼休み終了まであと少しだ。
「オレら次教室移動だからもう行くな」
「もし五限とか、顔出せたら来いよ」
「でも無理は厳禁だからね」
「ありがとう、皆」
ベッドから友人たちを見送る。三人が扉を閉めた後、鍋島がこちらに向き直る。
「お昼は食べたのかしら?」
「あ……まだ、です」
「それなら、今食べてしまいなさい。眠るのにも体力がいるでしょう」
「はい……そうですね」
確かに、久々に空腹を覚えている気がする。それに、折角母が作ってくれた弁当だ。無駄にするわけにはいかない。のそのそとベッドから這い出た夏芽は、保健室の机を使わせてもらい、皆より遅い昼食を採ることにした。
弁当箱の中身はとうに冷たくなったはずなのに、なぜか温かく感じた。
結局たっぷり眠ってから早めに帰された夏芽は、無理をしたことを両親に叱られた。父には同時にこの生活を強いたことに関して謝られてしまったが、夏芽にとってそれが一番心に重く圧し掛かった。父の転勤が悪いなんてことは絶対にないのに。夏芽の頑張りすぎは、誰のためにもならなかったのだ。
風呂に入る前に剣持たちから今日の授業の内容を教えてもらった。それに従って教科書を軽く読んでいく。明日からはきちんと授業に参加しなれば。
(あ、そうだ。あとは……)
なんだか緊張してつい後回しにしてしまっていたが。教科書を閉じた夏芽は、自らのスマホを取り出した。チャットアプリを開けば、一番上に来るのは剣持とのトークルームで、そこには一つのアカウントが貼られている。名前は「東堂」――そう、東堂椿希の連絡先だ。
連絡先を送って貰ったのはいいものの、東堂に何と礼を言えばいいのか、考え続けて数時間が経過していた。保健室でも礼を言ったから、しつこいと思われてしまうだろうか。メッセージを送らなかったら送らなかったで、不快な思いをさせてしまうだろうか。そんな不安が、夏芽の指先を液晶から浮かせる。このまま悩んでいたら、また夜更かしコースになりそうだ。それではいけない。今日こそは早く眠らなければ。
よし、勇気を出して送ろう。
決意した夏芽は、何もやり取りのない東堂とのトークルームを開く。
(えっと……『賀集夏芽です。今日は本当にありがとうございました』……っと)
礼は簡潔に。くどいとは思われたくない。震えながら送信ボタンを押すと、ポコッと軽快な音とともにメッセージがトークルームに現れる。
これでよし、という気持ちと、送ってしまった、という気持ちが半分半分。画面を見ていられなくて、スマホを伏せた。現実から逃げるように、別のことを考える。東堂のアカウントのアイコンや背景が、初期設定のままであったのは少し意外だった。夏芽でさえアイコンはサボテンで、背景は富士山と桜の写真に設定しているのに。写真を撮りすぎて逆に何を設定したら良いのか決めかねている、とかだろうか。あり得る。だとしたら納得だ。
そんな考えは、ポコッという軽快な音に吹き飛ばされてしまった。スマホをひっくり返して見てみると、東堂とのトークルームを開いたままで。そこにメッセージが二つ返ってきていた。
『そんな何度も礼言われるようなことはしてねえけど』
『お大事に』
「……っ」
画面に表示された文字は無機質で、何も感じないはずなのに。どうしてか身体の芯からぶわりと熱くなった。そしてこれまたどうしてか、東堂に会いたくなった。
それ以上やり取りをすることが耐えられなくて、スマホの電源を落とし、ベッドに飛び込んだ。折角送信してすっきりした気分で眠れると思ったのに、今度は胸の高鳴りで眠れるか心配になってきた。でも、全く不愉快ではない。
(信じるなって言われたけど……教室でも話しかけたら、反応してくれるかな)
話してくれたらいいのに。そう願いながら目を閉じる。
「いい? 具合悪くなったらすぐに先生に言ってよ」
母に十分すぎるほど言い聞かせられた夏芽は、その翌朝も登校する。昨日たっぷり眠ったからか、昨日までの具合の悪さが嘘だったかのようだ。熱はまだ平常より僅かに高いが、それだけだ。両親と相談済みなので問題ない。
昨日は辿り着けなかった教室に、意気揚々と到着する。席にカバンを置いて、後ろの席の剣持と挨拶を交わす。
「ナッツ、今日は調子良いみたいだね」
「うん、バッチリ。あ、東堂くんのアカウントもありがとう」
「どういたしまして。礼は言えた?」
頷きを返す。一限の授業に必要なものを机に置いてから、教室を軽く見回してみるが、まだ東堂は来ていないようだ。夏芽がいつもより少し早く登校してしまったらしい。東堂が一人でいるタイミングなどあるかわからないが、それを見計らって声をかけてみよう。
「剣持くん、昨日の数学のこの問題なんだけど、聞いていい?」
「あー、おっけー。それはこの式を使って――」
この学校の生徒たちは皆優秀で、それは剣持も例外ではない。軽い口調とは裏腹に、剣持の教え方は丁寧でわかりやすい。山岡や広瀬もそうだ。皆が皆そういう調子であるから、夏芽も気が急いていたのだが……無理なく自分のペースでやると決めたのだ。もう焦らない。
十分程度昨日の授業のことを聞いていただろうか。俄かに教室が騒がしくなる。東堂、おはよう――そんな言葉が耳に飛び込んできて、反射的に扉の方を向いてしまった。
「はよ」
「おはよう、東堂くん」
「おーっす」
「椿希おはよー!」
相変わらずの人気だ。先ほど夏芽が教室に入ってきた時は大して反応しなかったクラスメイトたちが、東堂の登校には湧いている。それが現実だった。とはいえ、夏芽もまた東堂を待っていたうちの一人。視線で追ってしまうのも当然だ。
だが別の方向から夏芽への視線を感じる。ふっと振り返れば、頬杖をついてニマニマと笑っている剣持と目が合った。
「なーに、ナッツ。東堂のコト、気になっちゃったの?」
「えっ」
密やかな声で核心を突かれ、夏芽は固まる。気になっている、というのはそうだが、すぐに素直に認めるのは気恥ずかしさがあった。
「気になるなんて、そんなっ」
「別に隠さなくていいって。いや、隠せてもないけど。そっかあ、東堂ねえ」
「け、剣持くんっ」
隠せてない? 昨日までの頑張りすぎが剣持たちに見破られたように、そんなに自分はわかりやすいのか。それはそれで恥ずかしい。
剣持は夏芽が止めなくとも言いふらす気はないようで、だが愉快だと思っていることには違いないようだった。
「オレは後方腕組みで見守ってるから。相談くらいなら聞くよ?」
「ううう……お願い、します……」
そう言うしかなかった。恋愛初心者で、知り合ってから一日で、しかもその淡い想いを自覚したのは同性相手。手探りになるのは必至だ。相談できる友人がいるというのは実際ありがたい。
ちらりと東堂の方を見る。今日も今日とて何人もの男女に囲まれており、とても夏芽が入る隙があると思えない。
「東堂くんが一人の時ってある……?」
「そう考えると全然ないなー。ま、流石にトイレ行く時とかは一人だろうけど」
逆にそのタイミング以外、一人でいることがなさそうだというのは、夏芽にとっては驚きだ。流石自他ともに認める遊び人といったところか。人間、一人でいたい時間も少なからず必要だろうに、四六時中誰かといて疲れないのだろうかと思うのは、僻みに聞こえてしまうかもしれない。
「……でも、折角の一人の時間を、僕が妨害しちゃうのって、いいのかな……?」
「遠くから見るだけで満足なら、話しかけなくていいんじゃない?」
「よ、容赦ないね……」
だが的確だ。残念ながら、夏芽はそこまで健気ではない。東堂とお近づきになりたい。それ以降どうしたいなどは今考えることはできないが、それでも将来東堂にとって「クラスメイトにそんなやついたかもしれない」レベルの認知でいてほしくないとは思っている。少々肉食動物めいた言動をしなければ叶わないのなら、努力したい。
そう意気込んだ直後、「オレちょっとトイレ行ってくるわ」と声がした。東堂の声だ。剣持との会話が聞こえたのだろうかと一瞬ヒヤッとしたが、教室の騒がしさがあるためそれはないと冷静に指摘してくる友人。
「お誂え向きに一人になってくれたね、東堂」
「うん、僕も行ってくる!」
剣持に励まされ、教室を出た東堂を追う。廊下を曲がった所にある御手洗に向かう東堂の後ろから、思い切って呼んでみる。「東堂くん!」
振り返った東堂は、声をかけたのが夏芽だと知ると、意外だったのか僅かに目を見開いた。
「お前か。昨日の今日でどうした」
「え、えっと……東堂くんのおかげで元気になったよって、教えたくて」
「へえ。んじゃ、ちょっと診せてもらうけど?」
東堂が屈んで、その大きな手が夏芽の首の辺りに添えられる。昨日と同じように、至近距離に東堂の顔面が迫った。
(……ああ、この目だ……)
夏芽は思う。東堂が診察している時の、瞳。真剣で、光を集めて輝いて、どんな情報も逃さないというような瞳。それが、この世の何よりも素敵だと。視線が合うことはあまりなかったが、それでも夏芽はその瞳をずっと見つめていた。
少しして、東堂が離れた。
「平熱より高いが微熱よりは低い体温って感じか。隈もまだ完全には消えてねえな。けどまあ、確かに昨日よりは元気になってそうだな」
的確に今の夏芽の症状を言い当てる。この観察眼や知識があるからこそ、保体係に推薦されるのだろうか。夏芽なんかでは鏡を通して自分をじっくり見たとしても熱があるかなどわからないが。
「うん。メイクもしてないよ」
「見りゃわかるよ。けど油断すんな。一度体調を崩すと、その後も似た症状が出やすくなっから」
「えっ……それって、また悪くなったら、東堂くんが診てくれるの?」
思ったことが、ポロッと。本当にポロッとこぼれてしまって、発言した張本人である夏芽でさえそれに気がつくのが遅れた。
もしかして、もしかしなくても。自分は今、相当恥ずかしいことを口走ったのでは?
「あっ、あ、ごめん東堂くん! 今のは言葉の綾で! 別に進んで体調を悪くしようとか、そういうことじゃ――」
「お前、俺に診てほしいの?」
「え……?」
予想外のリアクションに、夏芽は意表を突かれぽかんとする。向かい合う東堂の表情は揶揄っているようでも嫌悪しているようでもなく、ただ凪いでいた。診てほしいというのは嘘ではないので、素直に頷く。
「う、うん」
「信じるなって言ったろ。そのうえで、なんでそんなこと思うわけ?」
「な、なんでって……えっと、東堂くんのこと、気になるから、かな……?」
「かな……?」ではなく、事実そうなのだが。それ以外に誤魔化しの言葉など咄嗟に出てくるはずもないので、つい言ってしまった。
東堂は何度か無言で瞬き思案する素振りを見せたが、やがて口角を上げた。
「そ、いーよ。また診てやってもいい」
「ほ、本当?」
「ただし、条件がある。俺にナニされても、文句言わねえってンならな」
「えっ……え?」
東堂の答えは夏芽を混乱させるには十分だった。また診てくれるというのは大変嬉しいが、何をされても、とはどういうことだろうか。診察以外にすることなどあるのだろうか。
(診察よりもすごいことをするってこと? し、診察よりすごいことって⁉)
体温が上がった気がする。ドキドキと心臓もうるさくなる。見上げた東堂は、夏芽の様子をじっと見つめていた。
「俺、気になるコトは全部脱がせて暴かねえと気が済まねえから。お前はどうだろうな?」
東堂が身を翻す。
「楽しみにしてるぜ、夏芽」
そう言い残して、東堂は夏芽の前から去った。夏芽はその場に立ち尽くしたまま、まだ動けないでいた。
「名前……呼んで、くれた」
呟いてから我に返った夏芽も、教室に戻ろうと振り向いた。
が。
「カシューくん、東堂のこと気になってるの⁉」
「二人はどういう関係なの⁉」
「あ、牧さん、と、新宮さん……⁉」
いつの間にか背後にいたクラスメイトの新宮と、彼女の友人の牧瑠璃子。彼女らにキラキラした瞳で迫られ、夏芽は悟った。廊下で東堂と話したのは迂闊だった、と。
「あの……東堂くんには内緒だよ?」
「も、勿論!」
「今東堂には特定の恋人いないっぽいけど、あいつ遊び人だからさー、前途多難かもよー? 頑張って!」
大人しい新宮とは対照的に、牧は明るく積極的な女子生徒だ。丁度夏芽と剣持のような関係だろうか。
そんな牧と、いつも控え目な新宮からグイグイ東堂のことを聞かれるのをはぐらかしながら、なんとか夏芽は自分の席に戻ってきた。行きより帰りが怖かった。
「おかえり、ナッツ。よく頑張ったぞ」
「あ、ありがとう……」
短時間で色々ありすぎたような感覚に、ぐったりする。取り敢えずもうすぐ始業の時間なので、報告は放課後ということにしてもらった。夏芽にも整理する時間が必要だ。
教室に戻ってきた東堂は、夏芽と話す前と全く変わらない調子だった。
「へえ、良かったじゃん。また診てもらえるんだ?」
放課後、帰り道で剣持と話す。山岡も広瀬も部活で、そもそも夏芽が東堂への気持ちをむやみに他人に知られたくないから、バレるまでは黙っていようと思っている。剣持や新宮たちの様子を見るに、いつまでもつかは不安なところだ。主に夏芽のせいで。
「でも、ナニされても文句言わないって、どういうことだろうね? 診察以外にすることあるのかな?」
「まあ東堂は……うん。多分良識はあるから大丈夫だよ」
聞いたところによると、東堂の成績は学年でもトップクラスなのだそうだ。剣持には何故か気まずそうな顔をされて話してはもらえないが、どの科目も満遍なく点数が採れるのだと。夏芽は体育ができないので羨ましい。
東堂の言う「ナニされても」の内容を考えこむ夏芽の隣で、剣持がいつになく神妙な顔をしていることに、夏芽は気がつかなかった。
「それよりさ、その後の――」
「え?」
何か言ったか、と振り返ったが、剣持は開いていた口を閉じ、曖昧に笑った。何かを言いかけていたのは明白だったが。
「あー、やっぱいいや。そういうのは自分で気づいた方がいい」
「? 名前呼びのこと? ちゃんと気づいたよ!」
ドン、という効果音がつきそうなほど胸を張った夏芽だが、剣持が言おうとしたのは残念ながらそこではない。
そこではないが、剣持はそれに乗ってやった。
「いきなり名前で呼んでくるとか、東堂もやるよねえ」
「ぼ、僕も東堂くんのこと名前で呼んだ方がいいのかな?」
「練習してみなよ」
促され、深呼吸をしてから、夏芽はその名を口に出してみる。
「つ、つ……つばきくん」
「ぎこちないよ、もっと自然に」
「椿希くん!」
思い切って大きく呼んでみたが、しっくりこない。椿希という名は素敵だと思うし、できれば呼びたいとも思うが、どうにもまだハードルが高い。初めての友人である剣持さえ「剣持くん」呼びの夏芽である。
「で、でもやっぱりまだちょっと馴れ馴れしい、かも?」
「ナッツのペースで近づいていけばいいよ」
「うん……でも今のところ診察しか接点がないからさ。って、駄目だね。またちょっと焦っちゃってる、僕」
頑張りたいと思うことほど、夢中で突っ走ってしまう性分なのだ。だがつい昨日、それで痛い目を見たので、立ち止まる癖をつけようと思った。
それに、東堂とのことで結果を出すのに急いでしまいたくはない。
「軽々しく遊びで付き合うっていうのは避けたいんだ」
「どうして?」
「僕……診察をしてくれる東堂くんの、真剣な瞳が……好き、だから」
今日東堂と向き合って、その想いが一番に輪郭をもった。あの真剣な瞳に見つめられていたい。自分を診てほしい。それだけじゃなく、いずれは自分を見てほしい。他の相手じゃなく、あの瞳で、賀集夏芽を見つめてほしい。
そう告げると、剣持は柔らかく笑った。
「なら、ひとまずは保体係の東堂くんと距離を詰めるって方向でいいんじゃない?」
「うん……うん、そうだね。僕、頑張るよ!」
ぐっとガッツポーズをしてみせる。勿論、適度に、自分のペースで頑張るという意味だ。
「来月は球技大会がある。東堂くんに振り向いてもらえるチャンスだ!」
「え? 球技大会?」
「そう!」
速足で剣持の前に回り込んだ夏芽は、自信満々に、朗らかな笑顔で宣言した。
「僕、壊滅的に運動のセンスがないから!」
――こうして、賀集夏芽と東堂椿希による、ホスピタリティに溢れた学園生活が始まるのであった。
【五月】ハッスル、東堂くん!
桃色はすっかり緑色に移り変わる。学生にとっては待ちに待ったイベントである大型連休も過ぎ去り、またいつも通りの学校生活が始まる。連休中、どこに行ったか、何をしたか、何ができなかったか――学生たちは誰も彼もがそんな話題で盛り上がっていた。
(風が爽やかなのは良いけど、何故かいつも僕に向かって虫がぶつかってくるんだよなあ)
しかも僕の服にくっついてる時もあって、恥ずかしいんだよね。世間の話題などどこ吹く風で、自分の考えたいことをどこまでも自由に考えているのが、賀集夏芽という人間である。
それに、夏芽にとって連休は誰かに話したくなるようなものではない。強いて言うなら家事の練習をしたくらいで、なんら特別なことはなかった。
友人である剣持侑士は旅行、山岡潤一と広瀬歩はそれぞれの部活の強化合宿と、充実した連休を過ごしていたそうである。
(彼は……どんな連休だったんだろう)
夏芽は手元の参考書から視線を外し、窓側の人だかりを盗み見る。あの人だかりの中心にいる人物は、夏芽の片思い相手である。
「ねえ、椿希? あと一日くらいあたしといてくれてもよかったんじゃない?」
「いや、悪いな。連休は予定がパンパンだったんで」
「東堂お前さ、ずっと起きてなかった?」
「めっちゃ写真アップしてたろ」
「ンだよ、律儀に全部イイネしてたくせに」
今日も今日とて、夏芽の想い人は人気だ。夏芽は一人、うんうんと頷いた。
東堂椿希。先月体調を崩し倒れた夏芽を気にかけ、面倒を見てくれた、高等部一年A組の保健体育係である。回復した夏芽は東堂に「また何かあったら診てやる」と言われて以来、彼との秘密の関係が始まったのだ。
始まったはずだったが。
倒れてから今この日に至るまで、夏芽は体調を崩すことも、怪我をすることもなかった。東堂から油断するなと言われていたから、気を配りすぎていたのかもしれない。とはいえわざと倒れて東堂の注意を引こうとするほど愚かでもない。これで良かったのだ。
いや、東堂と話せないのは残念だったと言わざるを得ないけれども。
「ナッツってホント、考えてることがわかりやすいよね」
「ゆ、侑士くん!」
いきなり話しかけられて驚いた。声の主は、席替えの籤引きで隣同士になった、剣持侑士である。今日はいつもより来るのが遅かった。何かあったのだろうかと思って様子を見ると、額に汗が輝いている。遅刻しそうで走ってきたのかもしれない。尋ねると、侑士はカラッとした笑顔を浮かべた。
「違う違う、山岡の練習に付き合ってたんだよ」
「潤一くんの練習って……テニス?」
「いや、バレーボール」
球技大会だろ、月末。
そう言われて、夏芽ははっとした。そうだ、今月最後の土曜日は、球技大会だ!
翠清学園高等部の球技大会は、男女がそれぞれ学年対抗で、バスケットボールもしくはバレーボールを選択し試合をする。どちらでも変わらないからと、夏芽はバレーに決めていたが。
「も、もう練習始めてるの……?」
「オレはバスケだからそっちの練習もしたいんだけどねー。山岡、今年も張り切ってるからさ」
席に座った侑士は、早く衣替えがしたいと制服をはためかせる。一方、無言でぷるぷる震える夏芽。俯いていた彼は、ぽつりと言葉を零した。
「ぼ、僕も」
「うん?」
「僕も、練習したい!」
ずいっと前のめりになって侑士に訴える。その訴えにぱちぱちと目を瞬かせた侑士はニヤッと笑った。
「そういうことなら、アイツに言ってみよう」
「賀集も練習に参加したい?」
放課後、体育館脇のコートにいた山岡潤一に、夏芽は侑士とともにその旨を告げた。すると潤一は目を逸らし、どこか気まずそうに口籠る。侑士も、そして夏芽自身も、潤一のその反応を当然だと思ったので、何も言わなかった。
「俺は構わないが……その……。ああ、まずは賀集の今のスキルを見せてくれないか」
「わかった!」
元気よく返事をして、バレーボール用のネットの向こう側へ走る。剣持にボールを投げた潤一はネットの傍らに立ち、夏芽に向かって言う。
「剣持のボールをレシーブしてみてくれ。体勢はわかるな?」
「はい!」
「いくよー、ナッツ」
夏芽が返しやすいようにか、侑士がアンダーハンドサーブでボールを飛ばしてくる。レシーブの構えをとった夏芽は、ボールが落ちてくる瞬間、思い切り腕を振った。
――が、空振り。
落ちてくるボールと構えた腕の位置がずれていたようだ。ボールが床にポンポンと跳ねる音が空しく響く。壁まで転がったボールを取りに行く夏芽。戻ってきて侑士にボールを投げ返そうとする前に、潤一が言う。
「……じゃあ、サーブはどうだ? 剣持側にボールをやれればいい」
「はい! いきます!」
サーブは、今侑士がやっていたアンダーハンドしか知らないが、あれを真似ればできるはずだ。左手のボールをトスして、右腕を振る――
ブン!
空気を揺るがす大きな音。これは決まっただろうと思った。……夏芽の手首が、ボールの芯を捉えられていたら、の話だが。
実際は自分でトスしたはずのボールの位置が掴めず、夏芽の腕が空気を切っただけだった。ボールは力なく地面を彷徨っている。
何とも言えない空気の中、最初に口を開いたのは潤一だった。
「……体力テストの時から思っていたが、賀集。やはりお前、運動のセンスがないな」
「山岡、歯に衣を着せなさいよ」
空かさずツッコミを入れる侑士。だが、潤一の指摘は客観的事実であり、それは夏芽もわかっていることだった。
体力テストとは四月に行われたものだが、まだ夏芽が倒れる前の、入学式から数日後のことである。ハンドボール投げでは明後日の方向へ投げた挙句男子どころか女子の平均の記録、持久走ではペース配分を間違え、反復横跳びでは足を捻った。何を隠そう、小学校の頃からこの有様なのだ。柔軟性や握力は平均的で、別に運動が嫌いというわけでもないのに、センスが壊滅的。記録をしてくれた広瀬歩には励まされたが、彼の方がずっと好成績だった。
「あの……ごめんなさい……」
「いや、別に謝らなくていい。現状を知るのは大切なことだ」
潤一は本心からそう言ってくれるものの、夏芽にとっては気後れする一因である。これならバスケットボールの方が良かっただろうか。否、どちらを選ぼうがどうせチームに貢献することはできなかったはずだ。バスケットボールにしたって、身長が平均より少し低い夏芽が全力でガードしようがレッサーパンダの威嚇程度にしか見えないし、ドリブルしていたはずのボールにアッパーを喰らったり、突き指したりした苦い経験もある。そう、どちらにしたって変わらないのだ。
「まず、上手くレシーブができるようになるのが優先だ。俺が教えるから――」
「で、でも、僕に構っていたら潤一くんの練習時間が無くなっちゃうよ」
潤一の提案は嬉しかったが、自分のセンスの無さを改めて思い知らされたために、今の夏芽では彼の妨げになってしまうと危惧してしまう。
「……聞いたよ。東堂くんに、勝ちたいんだよね?」
尋ねると、潤一は渋い顔をした。
ここに来る前、予め侑士から聞いていた。中学一年生の球技大会以来、潤一と東堂は二大巨頭として注目され、ライバル関係にあったと。中等部の球技大会はクラス対抗戦であり、三年連続で別のクラスだった二人は得点を争っていた。三度とも潤一のクラスが優勝したものの、二位の東堂のクラスの得点の差は極めて小さく、辛勝だといえた。
高等部に上がり今年からは同じチームとなるが、得点を競いたいと潤一は考えているだろうと、侑士が推察していた。
潤一は黙っていたが、渋い顔をやめて今度は困ったような、複雑な表情を浮かべる。
「だが……スポーツはチーム戦だろう。お前の出来が、学年の勝利に繋がるんだ」
夏芽は卑屈である。だから潤一がこうして懸命に説得しようとしてくれているのに、つまり今のままでは夏芽が足を引っ張る結果にしかならないと現実を突きつけられたかのように感じた。そして確かに潤一の言う通りだが、だからこそ彼に夏芽のペースと合わせる時間を設けさせるのは忍びないと。
膠着状態を破ったのは、やり取りを聞いていた侑士だった。
「取り敢えずさ、山岡の言うように、レシーブの構えからやってみようよ。ナッツのためなら、いくらでも練習付き合うよ、オレ」
「! そ、そうだ。一緒にやってみよう、賀集」
いつもの愛らしい笑顔で発せられた提案に、これ幸いと乗っかる潤一。そこまで言われてしまったら、流石の夏芽でも避けるわけにはいかない。
「う、うん。わかった」
とにかく夏芽も含めて全員が、夏芽の技量にこれ以上ガッカリしないように頑張らなければ。
二人に促され、夏芽は先ほどまで自分がいた位置に戻り、最終下校時刻のチャイムが鳴るまで、みっちり指導を受けたのだった。
「――というわけだからさ、明日から侑士くんと潤一くんと朝練するよ」
「そう。あの夏芽に付き合ってくれるなんて、大した子たちだね」
「う、うん。じゃあ、おやすみ」
帰宅した侑士は、靴を脱ぐなり風呂に入り汗を流し、夕食をたっぷり食べた。レシーブの構えと、少し練習をしただけだったのに、それだけで汗だくになってしまった。侑士も潤一も全く疲れてはいなさそうだったが。
早起きは苦ではない。夜早めに寝ればいいだけの話である。母への報告の後、自室に戻った夏芽が課題や予習復習をしていると、丁度終わる頃に、充電中のスマホからポコポコポコッと音がする。何らかのメッセージが連投されたらしい。
スマホを点けてみると送り主は侑士だった。トークルームを開いてみると、無防備な夏芽の目には刺激が強すぎる写真が送られてきていた!
「うわわわ、と、東堂くん⁉」
なんと、東堂の写真や動画のプレゼント。だが単なる画像ではなく。
『中等部の時オレが部活で撮ったやつ。参考にして』
そんなメッセージが添えられている。確かに、現在より少しだけ小さいように見える東堂が、レシーブしたり、トスをしたり、なんとジャンプサーブを決めている動画もあった。翠清学園ではこうしたイベント事に外部の写真屋を呼ぶだけでなく、写真部にも記録係を求めているそうだ。それで、侑士が撮った一部が、これ。
(すごい……! かっこよすぎる、東堂くん……!)
思わず目が潤むほど、夏芽は感激していた。侑士の撮影の腕もさることながら、東堂の所作の一瞬一瞬がパワーに溢れ、野生の獣のように見える。蟀谷に伝う輝く汗も、筋肉が盛り上がった逞しい腕も、診察の時とはまた違う真剣みを帯びた瞳も、彼の全てが夏芽を魅了してやまない。
だがそれと同時に、やるせなさも沸いた。
東堂に、夏芽でもやればできるというところを見せたかった。あわよくば褒めてもらえたら、なんて。そんな淡い願望があったからこそ、頑張りたかったのに。東堂自身がこれほどの技術を持っているのなら、夏芽がどれだけできるようになったところで、彼にしてみればまだまだひよっこでしかない。その程度で褒めてもらおうなぞ、虫が良すぎる話ではないだろうか……。
「いやいやいや、ここでやらなきゃクソ雑魚な僕を東堂くんに見せることになっちゃうんだから!」
浮かぶマイナス思考を、首を振って無理矢理遮る。どんなにひよっこだろうと、今の夏芽の無様な姿を東堂の前で披露するわけにはいかないのだ。東堂ほど格好良くはなくとも、彼の目に印象が悪く映るのは耐えられない。将来夏芽を思い返した時、「賀集夏芽? あー、あのバレー下手すぎのやつね(笑)」とか言われたら、夏芽の身体中の水分が外へ流出し干からびてしまうだろう。
その意志で、夏芽は眠るまでの間、東堂の写真と動画を見てプレーのイメージトレーニングをした。もとい、東堂に見惚れていた。
✻
翌朝。いつもより三十分ほど早く登校した夏芽は、着替えてから二人と約束していたコートに向かう。そこでは既に、侑士と潤一がバレーボールの練習をしていた。二人は夏芽に気がつくと、ボールを止めて寄ってくる。
「おはよう賀集」
「おはよー、ナッツ」
「潤一くん、侑士くん、おはよう。改めて、今日からよろしくお願いします」
念入りに準備運動を行ってから、潤一の昨日の復習をしようという提案に乗った。コートに立った夏芽は、レシーブの構えをとる。傍から見て、昨日より格段によくなっている。
「いいぞ、賀集。きちんと膝を曲げて腰を低くできている。手の握り方も正しい」
「えへへ」
弾んだ声色で褒められ、照れ笑いを浮かべる夏芽。昨日の練習と、そして東堂の写真をガン見した結果である。
「軽くレシーブできるかも見せてもらおう。剣持、頼めるか」
「おっけー」
向かいに立った侑士が合図をし、アンダーハンドサーブでボールを飛ばす。夏芽はそれをしっかり見て、ボールの落下位置に合わせて真正面から足を踏み込み。
「わっ、わ」
だがボールが当たったのは手首ではなく腕で、反射的に腕を反らし地面に落とさなければ危うく跳ね返ったボールとキスをするところだった。コロコロと転がったボールを、潤一が拾いあげ、夏芽に聞く。
「賀集、今どうすればよかったかわかるか?」
「えっと、腕じゃなくて手首の位置にボールが来るように踏み込まなきゃいけなかった」
「そうだ。自覚していられれば、後はそこを改善するだけで基本はバッチリだぞ」
「基本がバッチリ……!」
目を輝かせる。運動のセンスが壊滅的な夏芽にとって、その言葉は何よりも嬉しいものだった。
「ナッツ、すごいね。あれだけでここまで上達するなんて。愛の力ってやつ?」
「ゆ、侑士くん……!」
侑士の揶揄いの言葉は、潤一に突っ込まれることはなかった。きっと、きっかけが何であれ、夏芽のスキルが上達したことに関して感動しているのだろう。
揶揄われはしたが、侑士にも褒められた夏芽のやる気は十分だ。今日の練習メニューを聞くと、潤一が頷いた。
「それなら、そろそろ今日の練習に――」
「よっ、精が出るねえお三方」
突如飛び込んできた声に、三人が――主に夏芽が勢いよく振り返る。
「東堂……」
「東堂くん!」
体操着姿の東堂椿希。彼が何故かそこに立っていた。潤一が一歩前に出る。二人を見比べてみると、身長はあまり変わらないが、筋肉の付き方は潤一の方が頑健で、東堂の方が妖艶、という感想を抱く。例えるなら、潤一は熊で、東堂は狼。うん、なんだか両者それっぽい。
一人で納得している夏芽を他所に、屈強な友人が訊ねる。
「お前も練習か」
「おー。運動は積極的にヤらねえと、鈍っちまうからな」
クイ、と親指で隣の体育館を指し示す東堂。向こうではよく東堂と話している男子生徒たちや、運動部らしき女子生徒たちがそれぞれ練習をしている。この学園の生徒たちは、座学に於いても運動に於いても向上心に溢れ、競争力も高い。あの様子はその裏付けになるだろう。
「帰宅部マッチョが何か言ってるわ」
「お前も似たようなもんだろが」
侑士とちょっとしたやり取りをした東堂が目線を下げ、夏芽を見る。目が合って、夏芽の心臓がきゅんと跳ねた。
「夏芽、お前が潤一や侑士といるってのはちっと意外だが。ま、程々に頑張れよ」
「う、うん! ありがとう!」
東堂に直接応援してもらえた! 歓喜のまま礼を言うと、ふっと小さく笑った東堂は、体育館に向かっていった。その後ろ姿をじっと見送る夏芽を見て、潤一もなんとなく察してしまったが、恐らく夏芽は隠しているつもりなので、黙っていることにする。
「――じゃあ賀集、今日の練習を始めるぞ。レシーブの構えを意識して、ボールを返すことより高く上げることに専念するんだ」
「はい! 頑張ります!」
ウッキウキで返事をし最初のポジションで構える夏芽に、侑士は内心で「やっぱりわかりやすすぎるな」と思った。
✻
「つ、疲れたあ……」
べたあ、という効果音がつきそうなほどぐったりとした様子で、夏芽はベッドに飛び込んだ。
球技大会のために朝練を始め、一週間が経った。友人たちの根気強い指導と練習により、夏芽はなんとレシーブだけでなくアンダーハンドサーブまでできるようになった。否、サーブに関してはできるようになったというか、手首に当てて飛ばせるようになったというだけで、方向はとっ散らかっているという状況ではあるが。それにしても、最初期のあの無様さは鳴りを潜めている。これは夏芽にとって革命的なことだった。
何度も言うが、夏芽の運動センスは皆無だ。だというのに、一週間の練習でここまでまともにバレーボールの基本ができるようになったのだ。街中を走り回って、「これは本当にすごいことだ」と言いふらしたくなってしまうほど。なんともめでたいことである。ちなみにこの波に乗ってとやってみようとバスケットボ―ルに挑戦してみたが、危うく突き指しかけ、侑士に「今はやめときな」と宥められてしまった。
だがこの練習も、来週はほとんどできなくなる。何故ならば、来週は中間テストだからである。学業に専念できるように、テスト一週間前から朝・昼・放課後の活動は中止されるのだ。学園で許されるのはテスト勉強のみ。そして月曜から木曜までのテスト期間の後、金曜を挟んで土曜日が球技大会本番。つまり、学校でできる練習時間はもうほとんど残されていない。
夏芽もテスト期間はしっかり勉強をして良い点を採りたい。だがあまり身体を動かしていないと、折角掴んだバレーボールの感覚を忘れ、テスト明けには元のポンコツに戻って、東堂の前で醜態を曝す羽目になるだろう。それは絶対にいけない。友人たちの時間も無駄になる。
(とはいえ、どこで練習しよう……。この辺にスポーツセンターってあるのかな)
賀集家の新居は都市に近い住宅地で、マンションやアパートが多い。公園があってもボール遊びやスケートボードなどは禁止されている。こういう時、故郷の近所ならどこも開けていてボール遊びもし放題だったんだけどな、と惜しい気持ちになるのだが。
そうしていても仕方ない。どうにか解決策をと考えながらごろんと寝転がっていると、頭上のスマホからポコッと音がした。誰かからメッセージが送られてきたのだ。
表示された新着メッセージは単純なもので。
『明日か明後日ヒマ?』
それだけだった。
侑士だろうかと深く考えず、『出かける時間は作れるよ』と返す。するとすぐに返信がきて、『じゃ、日曜十時、翠丘山駅前で』と。夏芽はまたも深く考えず、了解の旨を伝えた。
日曜十時、翠丘山駅前。起き上がり、忘れないうちに手帳に書き込む。翠丘山駅は夏芽の家の最寄り駅・八熊手駅から電車で二十分の駅だ。基本的に侑士たち学園近くに家がある生徒と、夏芽のように電車通学の生徒との待ち合わせによく使われる。
ふとここで、誰との約束かを書き込むため、夏芽は今しがた自分がやり取りした相手の名前を見た。
『東堂』
「……え?」
――一体どういうことだろうか、これは。
自分はまさか今、東堂と会う約束をしたのか? しかも東堂側から誘われた? こんなことあり得るのだろうか? 東堂は何を考えている?
混乱した頭のまま、夏芽はぼうっとしながら返信していた自分と東堂のやり取りをスクリーンショットし、侑士とのトークルームを開いた。そして、その写真とともに、『どうしよう、無意識に約束しちゃった』という文言を添え送信する。
返信がくるまでの間に、夏芽は、自室のクローゼットを開ける。東堂と並んでも見劣りしない服などあっただろうか。元の家から一緒に持ってきた、動きやすいカジュアルな服しかない。渋谷や池袋など、悠々と都会を闊歩できるようなかっこいい服など買おうと思わなかった。ああ、まさかこんなことになるなんて。
ポコッと着信音。侑士からだ。すぐにアプリを開く。
『いいじゃん。行ってきなよ、デート』
「でっ、で、で、でーと」
まだ付き合ってもいないのに、デートという表現をしていいんだろうか。でも、デート。逢引き。逢瀬。
宇宙を思い浮かべる猫のような状態になっている夏芽の耳に、ふとコール音が聞こえてきた。今度は確認する。侑士だ。応答ボタンを押すと、友人の声が機械越しに発せられた。
『やっほーナッツ。元気? 今日の練習、大分疲れてたけど』
「もう疲れなんて吹き飛んだよ……」
『ははっ、そうっぽいね』
からからと愉快そうに笑う侑士。ずっと夏芽の練習に付き合ってくれたというのに、相変わらず侑士には全く疲れている様子はない。潤一や東堂ほどの体躯ではなくとも、夏芽よりはずっと体力も根気もあるのだろう。尤も、今の東堂との会話のおかげで、夏芽の疲労が飛んでいったというのも事実だが。
侑士の声を聞いていくらか落ち着きを取り戻したので、一つ咳払いをし、友人に尋ねた。
「ほ、本当にデートなのかな? 二人きりで……?」
『うーん、念のため聞いてみれば?』
「うう……聞いてみる……」
夏芽は震える指で東堂に『それって二人きりなの?』と送る。文面だと落ち着いているように見えるが、実際の夏芽の心臓はバックバクである。返信がくるまでは取り敢えず画面を見ないようにして、侑士と会話を続けた。
「僕、全然かっこいい服持ってないよ、お出かけするなんて夢のまた夢だと思ってたし」
『あー、別にシンプルでいいんだよ、そういうのは。ナッツは頑張り過ぎると空回りするでしょ?』
「むむ……確かに……」
どれだけ服が格好良くとも、着ている夏芽は取り立てて言える特徴のない平凡な男子高校生である。そんな夏芽では、「さっき翠丘山にいたやつ、服に着られてて草」とか、「身の丈にあってなくてウケる。鏡見ろ」とか、全然知らない他人によって拡散されてしまうかもしれない。それよりは、年相応の、というかそれより若干幼いカジュアルな服装の方が目立たないだろうか。
最近はパーソナルカラーがどうとか、そんな話題があるのを夏芽は知っている。夏芽に似合いそうな色を侑士に尋ねようと思ったが、その前に着信音。東堂からの返信だ。頭の中で侑士に手を繋いでいてもらいながら、メッセージを見る。
『そうだけど』
『夏芽は怖い? オレと二人きり』
「怖くないよ!」
『え、何が?』
「あ、ごめん、東堂くんの返信の話……」
つい口に出してしまっていたらしい。メッセージの内容を伝えると、侑士はふうんと鼻を鳴らした。
『そのまま伝えてやりなよ。ナッツの気持ち』
「う、うん」
提案に乗り、熟考した夏芽は『怖いわけないよ。楽しみにしてる』と送った後、スタンプを送信する。夏芽はスタンプを買ったことはないので、スタンダードなものになってしまったが、まあいいだろう。
「侑士くん、ありがとう。僕、落ち着いて……は難しいけど、心持ち穏やかに日曜日を迎えられる気がするよ」
『ん。デート楽しんできて。おやすみ、ナッツ』
「おやすみなさい」
侑士との通話が終了すると同時に、東堂から『そっか』という返信がきて、ただそれだけだった。どういう感情なのか計りかねるが、とにかく夏芽が彼を怖いと思っていないことは恐らくわかってくれただろう。それならばそれでいい。
満足した夏芽は、スマホの電源を切りベッドに潜る。明日は一日中そわそわしながら過ごすことになるだろうが、せめて勉強をして精神統一を試みることに決め、眠りに就いた。
✻
(変じゃない……? 変じゃないよね?)
休日の翠丘山駅前は、八熊手駅や学園前の駅と同じくらいの人通りがある。遅れてはいけないと、駅前のベンチで待つこと三十分。出発前に散々家族に確認したが、自分の様相がおかしくはないか、何度も確認してしまう。
「待たせたか、夏芽」
「うひゃあ! 東堂くん!」
聞き覚えのある声が降ってきて、反射的に立ち上がる。待ち合わせ時間ぴったりに来た東堂は、Tシャツにショートパンツとシンプルな服装だったが、その短い布から伸びる美しい筋肉に、道行く人の熱烈な視線を感じる。夏芽も家にあった、似たような服を着てきたが、東堂のように注目されることは一生無いだろうと思った。
服装を見て思ったことといえば、もう一つあるのだが。
「お前も良い服装してンな、丁度」
「あ……うん。ねえ、もしかして今日って――」
夏芽の推測は当たっていたのだろう。東堂は得意げに口角を上げた。
「ご明察。……行くぞ」
駅前から五分歩いたところに、その建物はあった。キュッキュッという高い音に、ダンダンとボールが弾む音。公共のスポーツセンターだ。
「俺もお前と一回はヤりたかったんだよ」
バレーボール用のネットを準備している最中、東堂が言った。まさかそんなことを東堂に言ってもらえるとは思わなかった夏芽は、折角統一してきた精神を乱して慌ててしまう。
「で、でも僕、まだ全然できなくて! 東堂くん、僕の体力テストの結果知らないの⁉」
「過去のことだろ。今のお前の実力を見せてくれりゃあ良い」
ゲームに出てくる主人公の師匠のポジションのキャラクターが言いそうな台詞だ。実際、夏芽は侑士にもらった東堂の写真を見ながらトレーニングをしていたから師匠と言えなくもないのかもしれないが、こっそり参考にしているとは恥ずかしくて告白できそうにない。
こうして時間をとってくれるほど自分に価値があるのかと戸惑いが消えはしないが、それでも東堂の期待には応えたいと思った。夏芽だけ一足先に中間テストを受ける気分だ。
その緊張感を帯びたまま、コートの上で向かい合う。準備運動でほぐしたはずの身体が無意識に強張るが、東堂にその様子はない。
「あー、点とかは気にすんな。レシーブでラリーを続けるだけだ。あいつらとヤったろ?」
「う、うん」
ラリー。つい最近練習したばかりだ。最高記録は十回。夏芽のせいでそれ以上は続かなかった。だが、ここで東堂を落胆させるわけにはいかないと気合を入れる。夏芽はそういう性分なのだ。
ボールを持った東堂が、アンダーハンドサーブの姿勢をとる。彼ならもっと攻撃的なサーブもできるだろうに、そうしないのは初心者の夏芽を気遣ってのことだろう。侑士と同じ優しさを感じながら、夏芽もレシーブの構えをとる。
トン、と。東堂の手首に打たれたボールが、高く舞った。
「ぷはあー!」
冷えた息を吐く。朝練よりも長時間動いていた夏芽には、東堂が持ってきてくれていたドリンクが、砂漠のオアシスのように感じた。こちらも東堂が持ってきてくれていた吸水性抜群のタオルで、また蟀谷から伝う汗を拭う。
現在二人は角で休憩中である。夏芽がたまにおかしな方向にボールを返すせいで、東堂もそれなりに汗をかいているが、夏芽を責めるようなことは一つも言わなかった。
「東堂くん、このドリンクおいしいね!」
「そ? 口に合ったならよかったわ。俺が作ったんだけど」
「えっ!」
東堂は帰宅部のはずだが、スポーツ向けのドリンクの作り方まで知っているのかと目を見開く。流石保体係、と内心で拍手した。というか、東堂の手製だと知ってオアシスは海へと変わりそうなほど恵みのように感じる。
軽くボトルを傾けた東堂は、ふっと美しい唇を開いた。
「お前の動き、潤一や侑士のってより、俺のに似てる」
「えっ⁉」
「……いや、冗談」
先ほどから驚き続きの夏芽。冗談のトーンではなく、本当にそう思ったという声の調子だった気がする。夏芽はボールを追うことに必死だったが、東堂は夏芽の動きを見ていたのか? 東堂の動きを参考にしているのがわかるくらいに。彼はその時、どんな瞳をしていたのだろう。
東堂は夏芽に顔を向ける。びくっと肩を跳ねさせた夏芽だが、東堂から目を逸らさなかった。何か大切な話をされる、そんな空気を感じたから。
「夏芽。お前は俺のコト、気になるって言ったよな」
「うん……」
「それで、なんで俺じゃなく、あいつらに練習付き合ってもらってんだよ」
夏芽は一瞬きょとんとしてしまった。まるで、最初から自分に頼んでくれれば、とでも言いたげな雰囲気ではないか。否、それは流石に思い上がりだろうが。
理由など、今更隠すことでもない。それに誤魔化したところで夏芽の隠蔽スキルは無いためにすぐにバレるだろう。そう考えた夏芽は正直に打ち明けることにした。
「えっと……僕、東堂くんにかっこいいって思われたかったんだ」
「……は?」
「だっ、だから! 東堂くんの見てないところでいっぱい練習して、大会本番で成果を披露したかったの!」
言い切った途端、頬が熱くなる。羞恥で東堂の美しい顔を見ていられず俯いた。少しの間の後、東堂が言う。
「……それは、俺が気になるからこそ、か?」
「そ、そうだよ! す、す、すきなひと……に、良い所を見せたくて努力するっていうのは、きっと普通のこと、だよ」
好きな人、のところはもにょもにょ喋って有耶無耶にしようとしたが、恐らく全く通用しなかった。夏芽の視界にある逞しい右腕が動く。
「そっか……」
「……?」
顔を上げた夏芽は、目の前の光景に息を飲んだ。
「そういうモン、なのか……」
目を逸らし、右手で隠された口元。だが、ほとんど覆われた顔から覗くその頬は、今の夏芽と同じように――赤く、染まっていた。
その反応に目を奪われながら、夏芽の脳裏に過ったのは、先日の東堂の言葉。「お前が潤一や侑士といるってのは意外だが」という発言は、つまりそういうことか、と。
合点がいった夏芽の前で、はあと深く溜め息を吐く東堂。口元から手を離して再びこちらを見た東堂の顔からは、もう赤みが引いていた。
「……なら、悪いことしたな。お前の努力、無理矢理暴くような真似、して」
「そ、そんな! 謝るようなことじゃない! 僕、東堂くんとこうして一緒にいられてすごく嬉しいよ!」
なつめ、と小さく紡がれる名前。思わず身を乗り出したせいで、見開かれた目を縁どる睫毛の長さがわかるほどの距離に迫ってしまった。以前は彼から迫られるだけだったのに。
だがいい加減夏芽も頬の熱さを引かせなければいけない。これからもっと、頬だけではなく全身熱くなるのだから。
立ち上がった夏芽は、東堂の片手を両手で包む。夏芽の両手でも東堂の片手は包み切れずはみ出たが。
「ね、そろそろ練習再開しよう? 僕、今なら少しは東堂くんの練習相手に相応しくなれる気がするんだ」
「あ……ああ、わかった」
手を引こうが平凡な夏芽には東堂を動かすことができないので、東堂が存外すんなりと自主的に立ち上がってくれたことを有難く思いながら、二人はコートに戻り、ラリーを再開するのだった。
✻
中間テストの後、金曜日はテスト返却日だった。翠清学園に於ける、夏芽の初めてのテストだった。結果は――どれも取り立てて言う必要もない、至って平均的な点数だった。得意科目の現代文や古文、漢文でさえ、満点に限りなく近いともいえない結果だ。その代わり赤点もない。偏に、侑士たちに学園のテスト傾向を聞いていたおかげだろう。今回の出題のされ方も、次回以降のために参考にできる。ちなみに平均点は、いずれの科目も七十五点前後であった。
しかし、夏芽にはテスト結果に一喜一憂している暇はない。学生の課外活動が解禁されるテスト返却日の最終下校時刻は、普段より一時間早い。今から球技大会に向けて、追い込み練習だ。
「いやー、みんなやる気だねえ」
ぐっと背伸びをする侑士。その言葉の通り、前回よりの朝練の時よりずっと大勢の生徒が、体育館や講堂、グラウンドを使ってバスケットボールやバレーボールの練習をしている。夏芽たちと同じクラスの生徒や、他のクラス、他の学年の生徒も、皆瞳に闘志を燃やしている。
「だが怖気づくことはないぞ、賀集。お前の技術は、つい先日よりも格段に上がっている。自信をもて」
潤一の力強い言葉に、夏芽もしっかりと頷いてみせた。東堂と練習して以来、この二人と特訓をする機会は設けなかったが、その間もテスト勉強の合間を縫って、東堂の動画を見たり侑士に撮ってもらった練習中の自分の写真でフォームの確認をしたりして過ごしていた。どこまでも真面目な性分である。
夏芽は、今日の練習の内容を潤一に尋ねる。
「基本的にラリーを続けてもらうが、剣持にはたまにアタックを織り交ぜさせる。賀集はそれをレシーブでいなすんだ」
「アタックをレシーブで……」
なんだか最後に相応しい、実戦を想定した練習だ。夏芽が呟く前で、侑士はどこか不満げに潤一に言う。
「山岡ってたまに無茶振りするよね。オレ、バスケ選んでるんだけど。バレー得意なわけじゃないよ?」
「だからこそだ。上達した賀集の相手に、お前は丁度いい」
「あー、はいはい。褒め言葉として受け取っておきますよーだ」
自分で聞いたわりにその答えを雑に流した侑士は一度目を閉じ、そして夏芽に視線を寄越した。いつもと違う、戦闘意欲のちらつく瞳だ。
「それじゃあナッツ、最後の練習を始めようか」
「――はい、よろしくお願いします!」
✻
球技大会当日。この時期らしい好天に恵まれ、梅雨前の爽やかな風が緑と生徒たちの髪を揺らす。実行委員による選手宣誓は恙なく終わり、バスケットボールもバレーボールも、いくつかのゲームが既に行われ、ゲームセットの笛が鳴る。
メンバーに指示を出すキャプテンの声、応援する生徒の声、痛恨のミスを悔やむ声。様々な声がグラウンド中で交差する。試合を待つ女子生徒たちの中には、持参したらしいチェキで憧れの先輩と撮影をしたり、念入りに日焼け止めを塗ったりしている姿が見受けられる。保護者席の人々も子どもたちの雄姿を一目見ようと見守っている。夏芽の両親は残念ながらいない。せめて友人たちの御家族には挨拶をしようとしたが、今のところまだ誰とも話せていない。ランダムで決められたメンバーと対戦表で、夏芽だけがまだ一つも試合に出られておらず、彼らと同じタイミングで待機にならないのだ。
東堂のプレーを生で観ようとも思ったが、なんせ東堂椿希である。誰もが東堂のプレーを観ようと、こぞってコートに集まっていたため、断念せざるを得なかった。そう考えると、侑士が送ってきてくれた写真や動画には、より感心してしまう。夏芽ではあのように写真を撮れない。精々今のように、遠くで試合の進捗を耳に入れるくらいが関の山である。
「勝者、高等部一年!」
夏芽はその代わりに、少し離れた場所でこっそり侑士の試合を観ていた。その結果、剣持侑士という男子の実力に感動し、呆然と立ち尽くしてしまっていたのだ。
侑士はこのおよそ一カ月、ずっと夏芽の練習に付き合ってくれていた。選択していないバレーボールをする毎日のはずだった。それなのに、今のゲーム、侑士がほとんど得点を決めていた。これに話を限らなければ、中間テストも英語で満点を採っていた。
改めて、そんな実力と思いやりをもつ友人がいつもそばにいてくれることが、夏芽にはとても幸福なことに思えた。彼のおかげで、夏芽はこれからどんなことにも臨んでいけるような気がする。勉強も、運動も……そして恋愛も。
一ゲームを終えチームメンバーと健闘を称え合っていた侑士が、ふと夏芽に気がついた。夏芽は彼に労いの言葉をかけようと、口を開いたその時。
「ナッツ、危ない!」
「え……?」
ガンッ!
頭に衝撃を感じたと思った直後、夏芽の意識は遠のいた。
――後頭部がひんやりする。
「……起きたか、夏芽」
「ん……と、ど……くん……?」
ゆっくりと目を開くと、最初に見えたのは美しい顔だった。天使だろうか。否、彼は確かに美しいが、夏芽と同じ人間であるはずだ。
起き上がろうとすると、無理に身体を起こすなと逞しい腕で制される。これと似た光景を、夏芽はつい先月も体験したはずだが。そして、夏芽の意識が失われる前は、球技大会が行われていたはずだが。何故テントの下、東堂の傍らで寝ているのだろう。
「ぼく……どうして……しあい、は……?」
「……夏芽の出る予定だった試合は、もう終わった。侑士が代わりに出たよ」
「ゆ、しくんが……」
そうか、夏芽が倒れている間に、終わっていたのか。後で侑士にも謝罪と礼をしなければならない。結局最後の最後まで、夏芽のバレーボールに付き合わせてしまった。
だが、東堂はどうなのだろう。東堂や潤一は夏芽とは違って、複数のゲームに出場予定だった。夏芽が倒れる前までに、そのゲームは全て終わっていなかっただろう。
「とうどうくん、は……? いつから、僕を……?」
「俺のことはいい。お前の意識が戻って良かったよ」
患部は痛むか、と尋ねてくる東堂。体勢を考えるに、東堂が夏芽の後頭部にずっとタオルで包んだ冷却材を当てていてくれていたようだ。
だんだんと明確になってくる意識。それと同時に、夏芽の眦にじわりと熱が灯る。嗚呼、なんてことをしてしまったのだと。
「ごめ……っ、ごめんなさい、東堂くんっ……!」
「……っ」
熱は雫と変わり、頬を伝う。次第に溢れ出すそれを見て、東堂が息を詰めて瞠目した。対照的に、夏芽の口からは嗚咽交じりの声が漏れる。
「ぼく、僕っ、こんなつもりじゃ……! 東堂くんの、足を引っ張りたかったわけじゃなくてっ、かっこいいところ、見せたかったのに……!」
「ああ、わかってる。わかってるから……泣くな」
患部に響くだろ。静かに諭す声は耳に心地よいが、どれだけ頭が痛もうが、一度決壊したものが瞬く間に戻るわけではない。夏芽は敢えてかぶりを振って心中を吐露する。
「でも、でも……ッ、くやしいんだ、あんなに練習したのに……! 皆に支えてもらったのにっ」
「なあ、夏芽」
大袈裟に振っていた頭を、やんわりと止められる。瞑った目を開き、ぼやける視界で東堂を見上げた。よく見えないが、彼は今、あの瞳で夏芽を見つめてくれているようだった。その瞳のまま、東堂は口を開く。
「お前は今、呼吸をしている。脳が動いている。心臓が鼓動している。ちゃんと生きているんだ」
「……ぁ」
「球技大会は、今回が限りじゃねえ。来年も再来年もあるし、運動なんて時間がありゃいくらでもできる。生きてさえいれば、な」
夏芽より大きな親指が、至極優しい動きで、夏芽の涙を拭ってくれる。そのおかげで、夏芽の視界は晴れ、はっきりと東堂の顔が見えるようになった。視線が合うと、東堂の瞳からは先ほどの真剣みは薄れ、代わりに柔和な温もりを帯びる。
「それに、『またお前に何かあったら診てやる』って言ったのは俺だぜ? な、お前が気に病むことなんか、何一つねえだろ」
――ああ、やはり彼は天使かもしれない。
柄にもなく詩的な考えが夏芽の脳を支配する。よく医者や看護師を『白衣の天使』などと形容するが、そう表現したくなる気持ちがようやくわかった。今の彼は白衣を纏っていないけれど、彼はきっと、そう表現されるに相応しい人物だ。
夏芽は微笑む。ありったけの想いを伝えるために。
「ありがとう……本当に、ありがとう。東堂くん」
「おー」
「僕、天使の存在を信じられそうだよ」
「オイなんだよそれ、頭でも打ったのか? あ、打ったのか……。とにかく天使とか、洒落になンねえからあんま言うなよな」
東堂や養護教諭の鍋島たちが言うには、たん瘤にはなっているがそれ以上の怪我の可能性はないそうだ。ただし万が一もあるため病院で見てもらった方がいいと。夏芽は自分で後頭部を冷やしながら、自分の敷いていたレジャーシートに戻った。
「ナッツ! もう歩いて平気なの?」
真っ先に気がついてくれたのは侑士で、心配そうに駆け寄ってきてくれた。次いで他の友人たちも夏芽の復帰に胸をなでおろす。
「あの、侑士くん、潤一くんも、ごめんね。折角あんなに練習付き合ってくれたのに、結局迷惑をかけてしまって」
「何を言っている。ボールがぶつかる不運な事故だったんだ、賀集が謝る必要なんてない」
「うん。ナッツの仇はオレがバッチリとったから」
潤一が励ましの言葉をくれる横で、侑士はにっこりと笑う。嬉しかったが、その笑顔にどことなく怒りが滲んでいるように感じられたのは夏芽の気のせいだろうか。一体、夏芽の代わりに何点取ってくれたのか。
「ま、あとはオレら結果発表を待つだけだから。ナッツも今のうちに昼飯食べちゃいなよ」
「あ、うん。そうだね」
皆より遅れて昼食を採るのも、先月経験済みだが。今日は友人たちの戦いを聴かせてもらいながら握り飯を頬張った。具は夏芽の一番好きな梅干しだった。
――今年の翠清学園高等部優勝学年は、バスケットボール・バレーボールともに、高等部一年に決まった。沸き上がる一年生、悔しがりながらも惜しみのない拍手を送る音、皆の健闘を称える声。夕陽が照らすグラウンドに、明るい音が響き渡った。
「あーあ。それはそれとして、勿体なかったなあ」
ぐったりと机に突っ伏す夏芽。その頭にはタオルが巻かれている。冷却剤もタオルも、東堂の私物だ。
脱力する夏芽を、洗い物中の母が笑う。
「まさかあの夏芽が、しまいにはそんなこと言い出すなんてね。よっぽどバレーが好きになったの?」
「うん……座学と同じで、やればやるほど上達するのは楽しいよ。今回のことで、僕みたいな人間でも頑張ればそれなりにできるんだって、自信がついたから」
今度から個人的に何かトレーニングを始めてみようか。そう思えるくらいには、夏芽にとって今月の道程は強く印象に残った。
ただし、口惜しいことはもう一つある。
「東堂くんのプレー、生で観たかったし」
夏芽にボールをぶつけてしまった生徒からは散々謝られ、事故だとはわかっている夏芽でも、それを楽しみにしていたことは紛れもない事実だった。東堂からああ言われたし、恨みがましく思っているわけでもないが。
夏芽のぼやきに、洗濯物を畳んでいた父が反応する。
「東堂くんって?」
「夏芽のお友だち」
「へえ、じゃあ格好いいんだろうなあ」
『じゃあ』の意味がわからないが、その言葉には反論する気はない。紛れもなく東堂は格好良くて、そして優しい。今日はそれを改めて知ることができた。
皺を伸ばした真っ白なワイシャツを丁寧に畳んでいた父がそこで手を止め、穏やかに笑みながら夏芽に視線を向けた。
「でも夏芽、悪いことばかりじゃなかったんだろう?」
「ふふ、うん」
夏芽は手元のスマホを開く。
ホーム画面には、頭にタオルを巻いた夏芽と、隣に立った東堂の姿が映されていた。
【六月】ジメジメ、東堂くん!
中間テストも球技大会も終わった六月。今月、学生にとって目白押しのイベントといえば一日校外学習くらいのものである。しかしそれも名前の通り一日限りの催しであり、それも上旬に、あっという間に終わってしまう。過ぎてしまえば、また普段通りの授業日が始まるだけである。四月や五月はなんだかんだイベントが立て続けにあり、たるむ暇などない。本当にたるみがちなのは、六月なのではないだろうか。
なにより、六月といえば、時期的には梅雨である。パラパラと降る雨、降っていなくともどんより曇る空を見て、明るい気分になれというのは無理があった。
賀集夏芽も、憂鬱な気分になっているうちの一人である。席替えで一番窓際の席になったため、嫌でも視界の端に雲か雫が見える。なので、もういっそ真正面から受け止めてやろうと、昼前なのに暗い街を眺めていた。
「なーに、ナッツ。外見てアンニュイな表情しちゃって。考え事?」
「侑士くん」
夏芽の友人の一人、剣持侑士とは今回席が少し離れてしまったが、こうして頻繁に夏芽に話しかけてきてくれる。彼の愛嬌ある笑顔は外が雨模様でも曇ることはなく、その明るさに夏芽の気分も少し晴れるようだ。
「うん、考え事っていうか、外で運動できなくて残念だなって」
「あー、ジョギング始めたんだっけ」
頷きを返す。夏芽は先月の球技大会以来、まずは基礎体力を上げようと、毎日ジョギングをすることに決めたのだ。とはいえまだまだ運動初心者の夏芽がいきなりゼロから始めるのは難易度が高い。そこで友人の一人である山岡潤一に相談したところ、嬉々として練習メニューを考えてくれたのだ。
「賀集が運動に積極的になってくれて、俺はとても感動している」
目を輝かせながら言ってくれた潤一。バレーボールの練習時と同様、なんだか我が子の成長を見守る父のような感想で、少しくすぐったかったけれど。
そして貰ったメニューの通りに身体づくりをしていたが、ジョギングに慣れつつあったところで、この時期になってしまった。潤一が既に雨天時の練習も考えてくれているとはいえ、夏芽としては折角なら外を走り回りたいものだ。
そう伝えると、侑士は相槌を打った。
「まーでも、雨なのに続けられてんじゃん? 偉いよ、ナッツ」
「えへへ、ありがとう」
「それにこのままいけば、夏休みには東堂くらいのマッチョになれるかもよ?」
東堂。不意に紡がれた名前に、夏芽の心臓が跳ねる。
東堂椿希。夏芽のクラスメイトで、保健体育係の男子生徒。黒髪ミディアムのウルフカット、切れ長の目、誰もを魅了する肉体美、隙の無い話術をもつ彼とは、平々凡々な容姿の夏芽では一生関わることは無いと思っていた。だが、四月に倒れた夏芽を看病してくれたり、五月には球技大会で夏芽が後頭部を怪我した際には、自分の試合を放棄してまで手当てをしてくれたりした。今ではすっかり夏芽の想い人である。
そして、そんな彼と同じくらい、夏芽がマッチョになったら。
「良いかも、それ」
「あ、そう?」
「うん。重い荷物とか、代わりに持ってあげたい」
「あ、そう……」
ナッツがそうしたいなら、それで。提案を肯定された夏芽はぐっと意気込む。これからも練習は怠らないでいよう。いつか必ず改めて、彼に格好良い夏芽の姿を見てもらいたい。
会話が一段落したところで丁度良く始業のチャイムが鳴り、侑士は自分の席に戻って行く。会話を弾ませていた他の生徒たちも、名残惜しそうにしつつも着席する。
その様子を見ていた夏芽だが、ふと違和感に気がついた。自分の隣席が空いている。友人である広瀬歩の姿がないのだ。
教室に入ってきた担任の野村明里が、朝礼の号をかけてから、「近くに来ていない人はいますか」と尋ねる。
「あ、あのっ、広瀬くんがいません……!」
夏芽が伝える前に、斜め後ろから声が飛ぶ。声の主は新宮真帆という女子生徒。夏芽と同じ、クラスの園芸係である。普段大人しい彼女が声を上げるなんて珍しいと頭の片隅で思いながら、夏芽も野村の言葉を待った。
「広瀬さんね。体調不良でお休みの連絡を貰っています」
え、と引き攣った声が聞こえる。他の生徒たちも、主に女子生徒がざわついた。その反応は然して気にならなかったが、彼が休みというのには気になった。
(歩くん、どうしたんだろう。すぐに良くなるといいけど)
歩の他に、欠席者はいなかった。だが、最近はこうした体調不良での欠席がちらほら出ていると、別のクラスからも情報が入っている。大抵は二、三日で学校に復帰しているようではあるものの、心配なものは心配だ。
帰ったら連絡してみようかと考えながら、一限の授業へと向かう。
外は今にも雨が降り出しそうだった。
梅雨の間も、園芸係に仕事はある。紫陽花は元気に色づき梅雨を知らせているし、ジニアの世話も仕事の一つだ。高温多湿を嫌う植物は、別の場所に移して面倒を見る。だが夏芽も新宮も、その仕事を苦とは思っていない。鮮やかな色彩は雨に映え、見ている者の心も軽くさせる。
「みんな元気そうでよかったね」
「うん、本当に」
仕事を終えた二人は、室内から窓越しに外の花を眺める。今咲く花のためにも、この後咲く花のためにも、観察は続けなければ。
夏芽がぼんやり花を見ていると、隣の新宮が夏芽を見上げる。
「ねえ、賀集くんは広瀬くんと仲が良いよね……?」
「え? あ、うん。よく話してくれるよ」
特に誤魔化す必要もないので、素直にそう答える。新宮はその答えに小さく微笑み、話を続けた。
「それで、その……広瀬くんから、好きな人の話って、聞く?」
「えっ、歩くんも好きな人がいるの?」
予想外の問いに、思わず質問を返してしまう。夏芽の反応で察したらしい新宮は眉を下げる。
「あ……やっぱり、聞いてないか」
「う、ごめん……。歩くんは自分からそういう話はしないし……だからといってその手の話題を振ると、僕の気持ちまで露呈しそうで」
「そっか……」
夏芽はこの通り、誤魔化すとか嘘を吐くとか、そういうことができない性格で、とにかく思っていることが言動に出やすいのである。初めて東堂椿希への気持ちの芽生えを悟る頃ですら、侑士に「別に隠せてない」と言われた。なんだったら球技大会の時、潤一にも察されていた。新宮や彼女の友人の牧瑠璃子にも、廊下で彼と話していたのを目撃されただけで夏芽の気持ちを知られている。ひょっとしたら、もう歩にもバレているかもしれないが。しかし、隠し事は下手であるものの、自ら周りに打ち明けたくはないのだ。複雑な心である。
そんな夏芽の心情を慮ったのか、新宮は頭を下げる。
「私もごめんね、突然変なこと聞いて」
「ああいや、変だなんて思ってないよ。こちらこそ、何か役に立てなかったみたいで申し訳ないというか」
慌ててフォローするが、彼女の眼鏡の奥の瞳は沈んだままだった。彼女の力になれず、しかも気まずい空気まで流れようとしている。
夏芽がそれをどうにかしようとする前に、新宮の方から声がかかった。
「わ、私、そろそろ行くね。瑠璃子の委員会も、そろそろ終わる頃だから」
「うん、わかった。バイバイ」
おさげ髪を揺らし去って行った彼女を見送り、夏芽も教室に戻り荷物を取ろうと身を翻す。
するとそこで、A組の教室に向かってくる足音が聞こえてきた。新宮が忘れ物でもしたのかと思ったが、違った。
「あ、お疲れ、ナッツ。園芸係の仕事終わったんだ?」
「侑士くん!」
現れたのは、もう見慣れた友人の姿だ。放課後のこの時間に何をしているのかと思ったら、そうだと思い当たる。
「そういえば今日、日直だったね」
「そ。途中までだけど一緒に帰る?」
「うん!」
電車で学校に通う夏芽より、侑士の方がずっと学園に近い場所に家がある。とはいえ学園最寄りの翠清駅前までは一緒に帰ることができる。嬉しい提案に乗っかり、帰り支度をしてともに学園を出た。雨は降っていない。この隙にと二人で帰路につく。
今なら、侑士と歩のことを話せるかもしれない。
「ねえ、歩くん、大丈夫かな?」
「広瀬? あー、うん。アイツ、あんま調子悪いとこ見せないもんねー」
いきなり恋愛のことに関して振るのは、流石に明け透けだ。まずはこの話題をと振ってみる。侑士のことだから、一見軽い言葉を発していても、きっと心の中では夏芽と同じように歩を案じていることだろう。そういう所をみせないという点では、侑士も大して人のことは言えないと思うが。
だがともかく、ワンクッションはこのくらいでいいだろうと、夏芽は聞きたかったことを聞く。
「侑士くんは、歩くんの恋愛事情ってどのくらい知ってるの?」
「は?」
……間違えたかもしれない。主に聞き方を。もしかしたら、タイミングも。
侑士は夏芽の問いに目を瞠り、そして息を吐いた。呆れられている。訂正しようにも遅いので、大人しく彼の言葉を待つ。夏芽がどれだけ妙ちくりんな言葉を発したとしても、必ず応えてくれると知っているから。それは今度も変わりない。
「全く。ナッツはホント、その手の話にニブチンなんだから」
「に、にぶちん」
「広瀬の異名はね、『フルートの王子様』だよ」
「へ?」
思いもよらない言葉が二連続で聞こえてきて、間抜けな声が漏れる。侑士はその反応を気にかけることなく、情報を補足していく。
「広瀬は小学生の頃からモテモテなの。優しくて穏やかで、動物と仲良し」
「そ、そうだったんだ……」
「中等部で吹奏楽部に入ってから、他学年にも知られるようになって、バレンタインはチョコを大量に貰ってるね。数は東堂に勝るとも劣らないよ」
「そ、そんなに⁉」
否、実際東堂椿希がどのくらいチョコを貰っているのか夏芽は知らないが、あの容姿にあの性格だから、きっと抱えきれないほどの数に違いない。そしてそれに勝るとも劣らないと言わしめる歩のモテモテ度。夏芽には想像もつかなかった。
そして今気がついたが、文武両道で人当たりの良い剣持侑士と、漢らしい格好良さをもつスポーツマンの山岡潤一、幼い頃からモテモテの王子様である広瀬歩――この三人が友人としていつもそばにいてくれるなんて、滅多に出会えない奇跡なのではなかろうか。夏芽の平凡さが際立ってしまっているような。しかも更に贅沢なことに、平凡な夏芽の想い人は非凡な男である。
「てか急にそんなこと聞いてどうしたの? 東堂から広瀬に乗り換えるつもり?」
「ま、まさか! 歩くんは大切な友だちだけど、僕の好きな人は椿希くんだけだよ!」
不意に尋ねられたことに、全力で訴える。確かに歩の恋愛事情を気にするなど、いかにもそれっぽいかもしれないが、誤解だ。あの瞳で見つめられた時から、夏芽は椿希の虜になって、沼から抜け出せない。
「知ってる」
生ぬるい風が吹き抜ける。
――意外にもあっさりと返され、夏芽の方が拍子抜けしてしまった。だがその眼差しはどこへ向けられているのか、その声はどうして普段よりワントーン低かったのか、それを推しはかろうとする前に、侑士の視線は夏芽に戻り、口元には普段と変わらぬ笑みがたたえられた。揶揄われただけかもしれない、今のは。
「誰かに相談されたんでしょ。広瀬に恋人がいるかとか、懸想中かとか」
「う、うん。でも僕、そういえば歩くんからそういう話聞いたことないなと思って」
「残念だけどオレも知らないよ。アイツに付き合ってる人がいるとかも、今まで聞いたことない」
夏芽は目を見開く。自分よりは確実に付き合いの長い侑士がそう言うのだから、信憑性に関しては心配していないが、だからこその反応である。モテるのに交際経験が無いとすれば、可能性は――。
黙って考えこもうとする夏芽を、侑士が呼ぶ。そのおかげで懊悩は阻止された。
「こーゆー時はさ、本人に聞くのが一番じゃない? ナッツにとってはさ」
ああ、彼の言う通りだ。逃げも隠れもしない――もとい、逃げも隠れもできない夏芽には、その方法が最も手っ取り早く、考えすぎずに済む。
しかしその前に、まず歩の体調の回復が優先である。恋愛の話の如何に関わらず、早く元気になってほしい。
そのために、夏芽は何ができるだろうか。
✻
「この時期の体調不良っつったら、まー大方水分の影響だわな」
「水分……?」
自分の席にどっかりと腰を落ち着けている東堂椿希。彼をこの放課後の教室に呼びだしたのは、賀集夏芽その人である。
昨日散々考えたが、看病の経験も知識もない夏芽が、歩のためにできることなど果たしてあるのかどうかという結論に至った。しかしだからと言って床に臥す友人を放置できるほど非情ではない。そこで彼の知識を借りようと思った。
が、いきなり発言にピンと来ない。きょとんとした夏芽の様子を見て説明を続ける。
「人間の身体の半分以上は水分でできているが、今の時期は一年の中でも多湿で、その水分の調節が難しい。水分過多が人体に与える影響が、大きく言やあ体調不良ってわけだ」
「なるほど……」
「具体的には倦怠感や食欲不振、胃腸運動機能の低下あたりがわかりやすいか」
納得した夏芽は頷いた。四月の夏芽も食欲がわかない時期があったが、それと似た症状と考えていいだろう。
そんな夏芽に、胡乱な眼差しを向けるクラスメイト。
「で? なんでンなこと聞くんだよ。お前が体調悪いってわけじゃなさそうだが」
「あ、うん。歩くん、昨日から休んでるでしょ? 看病、何かできないかなと思って」
「看病ねえ。お前、歩が好きになったのか?」
唐突な言葉に、夏芽は固まった。一瞬何を言われたのか理解できず、そしてそれを咀嚼して呑みこんでも、やはりわからなかった。口から滑り出てきたのは、「え?」という間抜けな声だった。
「看病したいって思うんだろ? それって、歩のことが気になるから、じゃねえの。……俺よりも」
――どうしてこうも、あらぬ誤解を生んでしまうのだろう。自分のコミュニケーション能力の無さにはほとほと呆れてしまう。だが呆れるよりも先に、自分の真意をきちんと伝えなければならない。自己嫌悪はやめて、想い人を見る。
「それは、歩くんは友だちだからだよ。友だちだから、早く治ってほしいし、どうにかしてあげたいと思う」
「じゃあ、俺は?」
「つ、椿希くんは……」
そうだ、この説明もしなくてはならないのだった。改めて口にするのも気恥ずかしいが、誤解させたままでいるのは嫌だ。だから、思わず彷徨いそうになった視線を意地で彼のものと結ばせる。
「好きな人、だよ。椿希くんがもしも病気になっちゃったら、僕がつきっきりでそばで看病したいよ。友だちでも好きな人でも、どちらも大切な人だから、苦しみは和らげてあげたいんだ」
「そ、そういうモン、なのか?」
「そういうモンだよ」
しっかりと首肯してみせると、納得したのか――もしかしたら納得していないかもしれないが、椿希はふうんと鼻を鳴らす。だがその目元が僅かに赤らんでいるのは、きっと気のせいではない。
だから今度は、夏芽の方から尋ねることにした。
「椿希くんこそ、どうなの?」
「お、俺?」
「そう。椿希くんはどうして、僕のことを診てくれるって約束、してくれたの?」
「そ、れは……」
いきなりの問いに、椿希の瞳が揺れた。珍しい反応だ。診察中は絶対に見せてくれない。視線を逸らしているのはきっと答えを出しあぐねているからだろうが、そんな新鮮な表情さえも愛おしい。
そっ、と一歩前に出ると、椿希の整った顔面がよく見える。もっとその表情を見ていたい。ふらついていた瞳が、ゆらりと夏芽を映す。
自分の想いが、彼の態度が、更に夏芽の顔を椿希へと近づけさせる――
「あー、お二人さん。主旨がずれてきてますよー」
「っ⁉」
背後に胡瓜を置かれた猫もかくや、夏芽は物凄い勢いで後ろに飛び上がった。ガタンと机が大きな音を立てる。第三者の声は、教室の後方に設置された棚の方から飛んできた。
夏芽の反応を見たその人物が、わざとらしく深い溜め息を吐く。
「ナッツってばひどーい。オレの存在忘れて盛り上がっちゃって」
「ご、ごごごごめん侑士くん! 忘れてたわけじゃなくて!」
「夏芽が見せつけるのスキなのかと思ってたが、違うのか?」
「ち、ちがうよ⁉ そんな趣味ないから! 本当に!」
侑士はここで夏芽と椿希が話し始めた時から、ずっと今と同じ位置にいた。それは夏芽が事前に頼んでいたからだ。だが侑士が夏芽の好きなように喋らせてくれており、完全に黙って話の成り行きを見守っていてくれていたので――実際、忘れていた。なんとも失礼な話である。反省しなくては。慌てた弁明も、二人にはあまり気にされていないようだ。
「じゃあなんで侑士も呼んでンだよ?」
「あ、うん。歩くんの看病、僕だけじゃ力不足かもしれないから、侑士くんにも手伝ってもらおうと思ってたんだ」
そうだった。今ここでするべきなのは椿希を問い詰めることではなく、歩の体調を回復させる術を知ることである。本当に反省しなくては。
夏芽から理由を聞いた椿希は、頭の後ろで手を組んだ。
「俺も別に詳しくはねえけど、食欲不振の時にも食べやすい料理は作ってやれるんじゃねえの?」
「料理って、おかゆとか?」
「それは主食な。おかずも作ってやらねえと」
「おやつは?」
「まー……お前が作りたいってンなら、そうしろ」
侑士はおやつを作れるのが嬉しいのか、輝かしい笑顔を浮かべる。夏芽は密かに尊敬した。自分にはそういったものを進んで作りたいという思いはなく、また体調不良の時の食事といえばおかゆか雑炊くらいしか思い浮かばない知識量だ。確かに主食だけ用意して看病した気になっているようではいけないだろう。
「まずレシピの考案からだ。歩にアレルギーはあったっけか……」
「それは無い。でもうってつけの好物ならある」
「そ、それは……?」
夏芽が尋ねると同時に、侑士が棚を離れつかつかと歩き出し、白のチョークを手に取った。その手が黒板に描いたのは、四角い物体。それだけ描いて、夏芽と椿希の方に振り返る。
「豆腐」
「と、豆腐……!」
思わず口を覆ってしまう。そういえば、歩の弁当にはいつも豆腐を使った一品があるし、食堂で食べるときは麻婆豆腐を頼んでいるし、浅草に本店をもつ老舗の甘味処『つぶら屋』ではおからドーナツを定期購入していると言っていた。何をどう考えても、広瀬歩は生粋の豆腐好きである。
「そりゃ良いな。メニューも考えやすいじゃねえか」
椿希もその情報にご満悦のようで、にやりと笑っている。そして大袈裟な動作で椅子から立ち上がると、侑士の横に並び、自らもチョークを手に取り『主食』『おかず』『デザート』と書いた。
「さてと、どうすっかね。あいつの身体を満足させてやるには――」
夏芽はメモ用紙の締めくくりに鉛筆の先を押し付け、机に置く。黒板に書かれた情報は、これで全部写し終えた。
「ああ、考えたら食べたくなってきたな。家で作ろっかなー」
お腹を擦る侑士の視線の先には、歩用にと考えたデザートの材料とレシピが書かれている。よほどデザートが好きらしい。否、もうすぐ最終下校時刻の十八時だから、単純に今空腹であるというだけなのかもしれないが。
夏芽は手元のメモの隣にある手帳を開きながら、先ほどまでのことを思い返す。
椿希は「俺も別に詳しくはない」と言っていたが、主に侑士がこういうのはどうだと一つ提案すると、椿希はそれならこの食材が適切だとか、こっちを買おうとか、何倍にもなってメニューを考案していっていた。球技大会の練習に誘ってくれた時に差し入れてもらったドリンクも、彼の手製だと言っていたので、彼は栄養にも造詣があるのだ。ますます惚れ直してしまう。
今も黒板消しを黒板に滑らせるというごくシンプルな作業をしている椿希の姿にも目を奪われそうになる……のをなんとか堪え、侑士に声をかける。
「それで、明日はどこに集合?」
「川蝉町駅前。近くにスーパーがあるから、そこで材料を調達して、広瀬の家に行く。もうアポはとってあるよ。キッチンも使わせてくれるって」
合点承知だ。川蝉町駅は学園の最寄り駅の一つ前。夏芽の家からは一時間ほどかかるが、友人のためならなんと言うことはない。
土曜日で休校である明日の予定を確認した三人は、手早く帰り支度を始め、学校を出る。あまり残っていると教師陣にご注意をいただくことになるのだ。徒歩通学の椿希と校門前で別れ、侑士とともに駅前まで歩く。その間も、二人は他愛のない話を続けた。
「侑士くんは歩くんの家、行ったことあるの?」
「オレも山岡も何回か。オレらにしてみればお互いに近所だからね」
「そうなんだ……良いなあ」
所詮編入生で余所者の夏芽には到底かなわない、彼等だけの繋がりもあるだろう。純粋に、羨ましいと思う。夏芽も幼稚園や小学校から中学まで一緒だった相手が何人かいるものの、こちらに越しても連絡をしてくれるような友人はいない。だがそれも仕方のないことだ。今更取り返しはつかないのだから。
隣からそんな思いの滲みを感じた侑士は、明るい笑みで精神的に寄り添うように言葉をかけた。
「オレたちも、ナッツの家行くよ? 東堂も連れてさ」
「へっ⁉ う、うん、ううん……?」
「どしたのその反応」
その意図も、その言葉自体も夏芽には心からありがたいものだったが、ひっかかる部分があったために微妙な相槌を返してしまった。これには侑士も困惑する。勿論友人を家に招くのは夏芽としても心躍るイベントだが……と、夏芽は頬を掻きながら今の反応に至った思考回路を説明してやる。
「いや、遊びに来てくれるのはとても嬉しいんだけど……その、両親と僕の趣味って似てるからさ」
「うん」
「椿希くんが僕の好きな人だって知ったら……それはもう気に入って、夜通しパーティーとかしそうで、恐ろしいっていうか」
「夜通しパーティー」
可笑しそうに侑士が噴き出す。夏芽も苦笑いを浮かべた。これで別に冗談のつもりでは言っていないのだが、まあ友人が笑ってくれたのでよしとしよう。もし招待が叶って、友人たちや椿希も夏芽の両親を好きになってくれたら嬉しいと思う。
そしていつか、侑士や潤一、椿希の家にも訪れてみたい。過ぎた時間は戻らないが、これから思い出を作っていきたいと、そう願う。
「明日、頑張ろうね、侑士くん」
「うん、世界一美味いおやつを広瀬に振舞ってやらないと」
✻
翌日。両親に見送られた夏芽は、元気いっぱい歩き、電車に乗る。時刻が変わるだけで土日でもきちんと運用してくれる交通網には、未だに感動と尊敬の意を覚えるものだ。いつも急行電車で学園まで行くが、それでは川蝉町駅では停車しないため、各駅停車で空いている席に座り、いつもより遅く移り行く景色を眺めながら到着を待つ。
川蝉町駅に降りるのは初めてだったが、改札の数は多くなく、待ち合わせ場所には迷わず辿り着けた。迷わなかった理由は、もう一つあるが。
「はよ、夏芽」
「おはよーナッツ」
駅前に立つ男二人が、最早他人の待ち合わせスポットにでもなっているのか――人だかりができていたのだ。ワイルドな美男と利発さの滲むイケメンが立っていれば、それは確かに待ち合わせスポットと化してしまうだろう。それも夏芽の登場で、終わってしまうけれど。
「二人とも、遅れてごめん!」
「いや、待ち合わせ時間前だよ? 東堂が時間前に来るのは意外だったけどね」
「別にいいだろーが」
椿希は五分丈でオーバーサイズのカットソーを着ているが、それでも布から伸びる逞しい腕は健在で、ピッチリとしたズボンは却って美しい筋肉を強調していた。侑士は柄物のリネン製のシャツだ。どちらも大変イケてる男子高校生である。ファッションの勉強もして前回の椿希との練習時よりはしっかりした格好をチョイスしたつもりだが、夏芽が見劣りしていないか心配だ。自分も歩の友人としてご家族に恥のない姿でいたいのだが。
「それじゃ、材料の調達と洒落込むか」
「おー!」
「スーパーはこっちね」
何はともあれ、『歩に元気になってもらおう』作戦の開始である。侑士の案内で近くのスーパーに向かった。効率を考えて、予め三人でそれぞれ購入するものを決めておき、自分の籠に入れレジに通す。各々が買うものは大体同じコーナーにある物で固めてあるので、材料が全部揃うまでにそう時間はかからなかった。
「お、俺が最後か。無事に買えたみてえだな」
スーパーの外で待っていた夏芽と侑士を見つけると、大きな袋を提げた椿希が出て来た。そんな彼の手元を夏芽がじっと見ているので、椿希は片眉を上げる。
「……どうした、夏芽? 俺もちゃんと全部買ったぜ?」
「えっ、あ、ううん! そうじゃなくて、その……」
「もしかして東堂もニブチンなの?」
「は? 俺はそんなんじゃねえけど」
恐らく侑士の言葉の意味を変な方向に勘違いしている椿希だが、もじもじとしている夏芽にそのやり取りは全く聞こえていない。
だが侑士も援護しようとしてくれていることはわかる。ここで決めなければ男が廃るというものだ。意思を示すように、勇気を出して声を上げた。
「っ、椿希くん! 僕、椿希くんの荷物持つよ!」
「あ? 別にいいよ、重くないし」
「そ、そっか……」
「ナッツのオトコゴコロを汲んでやりなよ……」
夏芽の試みは敢え無く失敗した。にべもない断りの台詞に、溜め息交じりにボソッと呟く侑士。明らかにテンションの下がった二人の様子を見てクエスチョンマークを浮かべた椿希は「よくわかんねえけど、歩ン家行くぞ」と歩き出す。本当によくわかっていない。夏芽のオトコゴコロと、侑士のフォローを。
「また機会はあるでしょ。置いてかれるよ」
落ち込む夏芽だが、侑士にそう励まされ頷き、歩き出した。椿希よりも筋肉ムキムキになったら、頼ってくれるかもしれない。それまでは筋トレを頑張ろうと、心に決めて。
スーパーの近くの交差点を過ぎると、閑静な住宅街が現れる。翠清学園周辺の住宅街と同様、一軒一軒が大きく広い庭を持っている。引っ越す前は賀集家も一軒家に棲んでいたが、この辺りの住宅ほど大きくは無かった。
十分も歩かなかったくらいで、『広瀬』と彫られた石の表札が現れた。例に漏れず豪華な住居である。侑士がインターホンを押すと、『はい』とくぐもった声が聞こえてきた。
「どうも。剣持です」
『ああ……どうぞ』
ガチャンと音がして、門が解錠された。煉瓦で整備された小道を通り、侑士の手が扉を開ける。
「なーん」
「うお」
その途端、予想外の声が聞こえてきて夏芽は固まる。その声の持ち主は侑士に飛びついた――もふもふの毛玉。侑士は目元をやわらげ、毛玉を撫でた。
「久しぶり、日光」
「なーん」
「お待ちしていました、皆さん」
その奥から、これまた聞いたことのない声がかかる。驚いてその姿を見ると、そこには歩の姿があった。……いつもより口調が丁寧だが。あと、いつもより小さいが。
「どうも、進くん。今日はよろしく」
「少しの間邪魔するわ」
「はい、東堂さん。そちらの方は――」
シンくん、と侑士に呼ばれた少年は、眼鏡越しにきょとっとした瞳で夏芽を見上げた。呆然としていた夏芽は我に返り、慌てて頭を下げる。
「も、申し遅れました! 僕、あ、わたくしは賀集夏芽といいます! 歩くん、じゃなくて、歩さんとは、いつも仲良くさせてもらっています!」
「ああ、あなたが賀集さん。兄からお話は伺っています。僕は歩の弟の進です」
兄弟。口の中で呟く。ふんわりとした髪質や目元の黒子、賢そうな雰囲気は兄弟でよく似ているようだ。聞けば翠清学園の中等部に通っているという。
侑士が飼い猫だというラガマフィンの日光を床に下ろすと、兄弟猫の月光がやって来て、どこかの部屋に行ってしまった。夏芽も撫でてみたかったが、今から料理をするから侑士も放したのだろう。用事が終わるまで我慢だ。
「キッチンはお好きに使ってください。何かあったら遠慮なく聞いてくださいね」
「ありがとう」
進は『シンの部屋』というプレートがかかった部屋に戻った。三人でキッチンに赴き、袋から材料を取り出した。
最新家電の揃えられたキッチンは清潔に保たれている。広々としており男子高校生三人が立っても狭さを感じない。手を洗ってエプロンをする――侑士のエプロンはシンプルな青いものだが、椿希は割烹着を着だした。二人ともよく似合っている。料理開始の音頭を取るのは椿希だ。
「じゃ、ぼちぼちやるか。役割の確認な。俺は主食」
「僕はおかず!」
「オレがデザートね」
「自分の作業が終わったら、他の料理の手伝いするってことで」
かくしてそれぞれが料理を始める。夏芽の担当はおかず。二種類頼まれているので、うまく同時進行をできるかどうかが鍵だ。
まず、食材を切る。ニンジン、ジャガイモ、絹さや、そして豆腐。それぞれの切り方に注意しながら、皮を剥き、筋を取り、レシピ通りに形を整える。ニンジンとジャガイモは一旦電子レンジで温め、そのうちに鍋とフライパンの用意をしておく。
「なんつーか、たまにはいいな、こういうの」
主食を作る椿希が、手を止めないまま呟いた。夏芽と侑士も自分の作業を止めなかったが、視線だけは彼の方に向ける。
「自分で作ってる時は思わねえけど、今は――なんか、楽しい。誰かのためって、明確な目的があるからかもな」
チン、と場違いな軽い音がする。電子レンジを開けて手で耐熱皿を包んで取り出した夏芽は、椿希に向けて微笑みかける。
「僕も楽しいよ。こうして並んで食事の準備をしていると、なんだか家族みたいで」
「……そう思うか?」
ようやく手を止め、椿希も夏芽を見た。どこか思い詰めたようなその表情を、少しでも解してあげられるよう、頷いてみせた。
「心から」
「――そっか」
それだけ言って、椿希は再び手元に視線を戻した。髪で隠れて顔は見えないが、こういう時は決まって彼は顔を赤らめているので、夏芽も覗きたい気持ちを抑えて自分の作業を再開する。
その二人のやり取りを、侑士は黙って眺めていた。
「よし、出来上がり!」
三十分もしないうちに全ての料理が出来上がった。かきたまにゅう麺、煮物、豆腐炒め、かぼちゃの金団。夏芽は目を輝かせ、その彩りに感激する。これで栄養価も高いのだから、良いことづくめだろう。
「豆腐の匂いがする」
「広瀬」
好物の匂いを嗅ぎつけたらしい歩が、タイミング良く現れた。彼は寝間着姿で、いつも制服をしっかりと着こなす姿とはギャップがある。両手で綿を包んだ時の感触のような、ふわりとした笑みは健在だが。
「皆、わざわざ来てくれてありがとう」
「いいえ。体調はどう?」
「うーん、まだあまり本調子ではないけど。でも皆が作ってくれたそれ、是非いただきたいな」
「おー。食えよ、歩」
テーブルに並んだ料理はつやつやと光る。いただきますと手を合わせた歩は、落ち着いた所作で食べ始めた。その様子を、固唾を飲んで見守る夏芽。暫くして、僅かに喉仏を上下させた歩がぽつり呟く。
「すごいな、これ。あまり食欲は無かったけど、これならずっと食べられるかも」
「よ、良かった……!」
「それを狙って作ったんだ、そうじゃなきゃ困るわ」
胸をなでおろす夏芽の隣で、椿希は得意げにしている。侑士も満面の笑みだ。
――一人分の献立をじっくりと堪能したらしい歩は、竹串を置いて手を合わせた。全ての皿が綺麗に空っぽになった状態で。
「ご馳走様でした。とても美味しかったよ」
「お粗末様でした」
「問題無さそうだな。他にもいくつかレシピ持ってきたから、治るまではそれ作ってもらえ。進たちの今日のおかずも一応作っておいたんで、冷蔵庫に入れた」
「そんなことまで……ありがとう、東堂」
椿希からレシピを受け取る歩。夏芽は椿希が歩のご家族の分の料理を作っていたのは知っているが、レシピについては初耳だったので内心驚いた。椿希はどこまでも他人のことを気遣える人なのだと、改めて実感した瞬間だった。
「じゃ、オレらは片づけしたら退散するから」
「猫と遊んでやってからまた寝ろ。ちっとでも身体は動かしとけよ」
「歩くん、早くよくなってね。また学校で会おう」
「何のお構いもできなくてごめん。また、月曜日に」
春の日に咲き誇る花畑を舞う蝶さながらの様子で、微笑みをたたえ自室に戻った歩。食事を採る前よりも、ずっと顔色がよくなっていたような気がした。
だがそこでちょっとした引っかかりを覚えた夏芽は、この場にいる相手にしか聞かれない程度の声量で椿希に尋ねる。
「椿希くん、歩くんの診察はしなくてよかったの?」
「あ? ま、大体は見てればわかるからな。この調子なら、明日には快復するだろ」
「ふーん?」
椿希の言葉を聞いて鼻を鳴らしたのは、何故か夏芽ではなく侑士だった。その反応に首を傾げる二人だったが、侑士は理由を答えることもなく、訳知り顔で洗い物をするだけだった。
✻
「本当に良かったよ、具合が良くなって」
「ふふ。賀集くんたちのおかげだよ」
月曜日。元気に登校してきた歩を迎えた夏芽は、放課後中庭へと彼を連れて来た。各クラスが手塩に掛けて育てている花々が、雨粒を飾りとし輝いている。日暮れまでの時間が延びており、頭上はまだ青空が広がっていた。
紫陽花に手を添えていた歩は、不意に背後の夏芽を振り返る。
「それで、僕に聞きたいことがあったんだよね?」
「えっ⁉ ど、どうしてそれを……?」
「ずっと物言いたげな顔をしていたから」
ぱっと自分の両頬を包む夏芽。物言いたげな顔――そんなにそれっぽい顔をしていただろうか。確かにいつ切り出そうかと心の中でタイミングを伺ってはいたが。しかしバレてしまっては仕方がない。病み上がりに申し訳が立たないとは思いつつ、夏芽は口を開いた。
「あのね、歩くんには好きな人がいるのかって、気にしている人がいて……」
「それは、賀集くんではないよね?」
「ぼ、僕じゃないよ! 勿論歩くんのことは、友だちとして大好きだけど!」
「うん、知ってるよ。ごめんね、揶揄っちゃって」
にっこりと微笑まれ、内心ヒヤッとする。もしかして、夏芽が誰かを、更に言えば東堂椿希を好きでいることが、歩にも悟られてしまっているのではなかろうか。
こっそり冷や汗をかく夏芽に、一呼吸置いた歩は言った。
「その子に伝えておいてくれるかな。もし僕のことを好きになってくれたなら、僕に直接言いにおいでって」
「え……? でも……」
「大丈夫。その子に、告白してくれたことを後悔させるような真似はしないから」
逡巡した夏芽だが、歩の言葉と意思の重みを感じ、最終的には黙って頷く。その反応を見届けた歩の、纏う雰囲気が変わった。
「気になることはさ、自分の目で、自分の耳で、確かめたいものだよね」
夏芽の脳裏に、似た言葉がリフレインする。東堂椿希の、あの言葉だ。
――俺、気になるコトは全部脱がせて暴かねえと気が済まねえから。お前はどうだろうな?
「君も、知っておくべきだよ。君の想う相手が、どんな人生を歩んできたか。どんな価値観を持っているか。君を、どう思っているか」
全てを知った時。君はその上で、相手を想い続けるのかな。
【七月】バチバチ、東堂くん!
梅雨が明けると、晴れの日が続く。入道雲が遠くに見えると、一気に夏の空気を感じるというものだ。蝉の声も響き、むわっとした空気にうんざりしている生徒も多いようであるが、賀集夏芽は夏が好きだ。産まれたのが夏だから、というのもあるかもしれないが、何より夏は思い出を作る絶好のチャンスが沢山あるのだ。
「ま、それも期末テストが終わってからだけどねー」
自分の席でぐっと背伸びをしながら現実を突きつけてくるのは、剣持侑士。この学園に編入してきた夏芽の、初めての友人である。苦笑を返す夏芽の横で、ふっと溜め息を吐くのは、こちらも友人の山岡潤一。
「テスト期間は少し憂鬱だ。部活動が一週間も禁止されてしまうからな」
「でも梅雨と違って今は晴天続きだから、外で自主練できる日も増えるんじゃない?」
真面目な理由で悩む潤一に尋ねるのは、もう一人の友人である広瀬歩だ。夏芽はこの約四カ月、彼等とよく一緒にいさせてもらった。叶うならば、夏休みもこの四人で遊びに行って思い出を作りたいものだと思う。
「確かにそうだが。広瀬、お前もやるか? お前は先月あまり運動できなかっただろう」
「うん。でも僕、もうすぐコンサートだから。そっちの練習もしたいんだよね」
「そうか、今年も多忙だな……」
歩の属する吹奏楽部のコンサートは来月の上旬に開催されるからと、夏芽たちは既に招待を受けている。潤一の口ぶりからするに、歩は中等部からずっと練習に精を出してきたのだろう。そんな彼の生演奏が聴けることを、夏芽は楽しみにしていた。
「でもオレたち、もう高校生じゃん? テスト前だってのに、こんなの渡されるしさー」
侑士が手元の紙をぺらりと振る。夏芽もそのプリントを見下ろした。――進路相談の提出用紙、である。この私立翠清学園は、エスカレーター式の学校で大学も併設されてはいるが、外部受験や就職を選択する生徒も少なからずいるのだ。それぞれの生徒の数を早期のうちにある程度把握したいという学校側の意図があり、高等部一年の夏休み中、進路相談が義務付けられていた。提出締め切りはテスト後の、土日を挟んだ終業式前日だが、もう既に提出している生徒もいるという。
「正直、僕はまだ内部進学とか外部受験とか、よくイメージできないな」
「ナッツはここ来たばっかだもんねー」
「参考になるかはわからないけど、僕はもう決めてるよ」
「歩くん、本当?」
すんなりと告げられ、目を見開く夏芽。夏芽が聞くと、歩は頷いた。
「僕は外部受験で、美術大学に通うんだ。芸術を極めて、表現の高みへ挑みたい」
「そっか、美大……」
言い淀むことのない様子に、確かな意志を感じて嘆息する。歩ならきっと、望む進路を進んでゆけるだろう。
机に肘をついた侑士は、歩から潤一へと視線を移した。
「それでいったら、山岡は体育大学に通うの?」
「あ……ああ、推薦で狙うつもりではいる。だが、個人的には内部進学で経済学を学びたいとも思うんだ」
「へえ、経済学部! なんだか意外かも」
「そうだな、まだ迷いはあるが。いずれにせよ、大学でも運動は続けるつもりだ」
夏芽はその言葉に納得する。潤一も進路をある程度定めているようだ。潤一は経済学部を目指せるくらいには座学の成績もよく、得意な運動一辺倒というわけではない。夏芽にはそういった器用なことは難しい。
残るは侑士だが、彼はどういう進路を考えているのか、あまり想像がつかない。
「侑士くんは?」
「オレ? オレは内部進学するつもりだけど、すぐ留学かなー」
「りゅ、留学⁉」
予想だにしていない言葉だった。侑士の言語学の成績は学年随一だという事は承知の上だが――そうか、留学か。聞けば、ヨーロッパのどこかの国に行く予定だという。イギリスならば九千キロメートルはある。あまりにも遠い距離だ。
「そんな捨てられた子犬みたいな顔しなくても。向こうに長居する気はないよ。それに、まだ先の事だからさ」
「う……うん」
わかってはいたが、三者三様の進路を示された夏芽は肩を落としてしまう。外部受験はもとより、内部進学をしたとしても、今のように毎日顔を合わせることはなくなるだろう。そのことを純粋に寂しく思うくらいには、夏芽はここでの高校生活と、友人たちの存在を宝物だと感じていた。
「あっ、山岡! まだ教室いたー!」
「ひ、広瀬くん……!」
するとそこで教室の扉が開き、クラスメイトの牧瑠璃子と新宮真帆が現れた。彼女たちに名を呼ばれた二人は、自らのカバンを手に取る。
「一緒に帰ろ!」
「ああ。悪いな、剣持、賀集。先に帰らせてもらう」
「広瀬くんも、か、か、……」
「うん、帰ろうか、新宮さん」
「皆の衆、バイバーイ」
侑士がひらひらと手を振る。帰りの挨拶をした四人は、教室を出て行った。その場に残されたのは、夏芽と侑士のみだ。祭が終わったかのような静けさは、本当にそうであれば余韻にも浸れたはずであったが、今この状況ではただ虚しいだけだった。
背もたれに上体を預けきった侑士が独りごちる。
「恋人と下校……青春だねー」
「……」
夏芽は無言にならざるを得なかった。
新宮は六月が終わる頃、歩が学校に復帰して少ししてから、歩に告白したという。そして受け入れられ、恋人になったそうだ。幸せそうに「応援してくれてありがとう」と笑っていた新宮の表情は印象的だった。彼女は今でも照れるらしいが、フォローする歩の瞳にも彼女への親愛が見て取れた。
潤一は、夏芽が全く気付いていない間に牧と付き合い始めていた。二人ともスポーツに造詣があり、真っ直ぐな性格であるところも似ている。
どちらのカップルも互いが互いを想い合う関係性だ。けれど……。
俯く夏芽に、侑士は声をかけた。
「あのさ、ナッツ。オレたちが違う道を行くにしたって――」
「ごめん、侑士くん。僕ももう帰る」
「え?」
だがその言葉を最後まで聞かず、自らのカバンを強盗のように手に取り教室を飛び出した。脇目もふらず走って廊下に差し掛かった時、壁を曲がりきったはずなのに、壁にぶつかる。
「うお、夏芽?」
「っ、椿希くん……」
「ちゃんと前見て歩けよ、危ねえだろ」
それは壁ではなく、夏芽のクラスメイトで想い人の、東堂椿希だった。椿希はいきなり飛び込んできた夏芽にそう言ったが、口調には怒りというより労りが滲んでいる。
大きな手が夏芽の頭を撫でた。普段ならばきっと嬉しいだけで終わるのだが、今はもう、それだけで片づけることはできない。
「椿希くんはどうするの」
「は?」
「もう決めてるの、進路」
「進路? あー……俺は――」
「そうだよね。もう決めてるよね。だって君の知識と技術は本物だもん、医者になるんでしょ?」
「それは……」
早口で聞く夏芽に、彼は目を逸らし言葉を濁している。彼は洞察力が高いから、夏芽の気持ちを察して、既に決めているものを言わないようにしているのかもしれない。
嗚呼、彼も夏芽から離れていくのか。嫌だ、それは。それだけは絶対に。――ならば。
「椿希くん、僕を抱いてよ」
「……は?」
「僕を君のものにして。君の唯一になりたいんだ、そうすればずっと――」
ずっと繋がっていられる。離れていても、「東堂椿希に抱いてもらった」という事実があるから、寂しくはない。だから、この身を、君のものにしてほしい。
きっと彼ならば、頷いてくれる。
「悪いけど、無理だ」
「……え?」
――頭にボールがぶつかった時よりも大きな衝撃が、身体中を迸った。
縋っていた身を放される。その手つきはひどく優しかったものの、同時にそれ以上は近づけさせないという固い意思も感じられた。目を見開き棒立ちになる夏芽を、彼は眉根を寄せて見下ろす。
「今のお前は抱けない。……少し頭を冷やせよ。それができるまでは俺に関わるな」
「え……とっ、東堂くん!」
去って行く彼は、夏芽の呼びかけに答えない。何度呼んでも、彼が立ち止まってくれることも、彼が振り返ってくれることも、夏芽を見てくれることも、なかった。
誰もいなくなった昇降口を前に、夏芽は膝から崩れ落ちた。拒絶、されてしまった。彼にも。
「ナッツ」
愕然とする夏芽を見かねたのか、後ろから静かに声をかけてくる友人。いつから見ていたのだろう。もう、どうでもいいけれど。
「……帰ろう。一旦落ち着かなきゃ」
差し伸べられた手をぼんやりと取り、ふらふらと立ち上がる。四月の自分とは全く違う意味で、覚束ない足取りで帰路についた夏芽であった。
✻
それからの一週間を、夏芽はどう過ごしたのだろうか。全く覚えていない。茫然自失の状態で、時々友人たちが案じて声をかけてくれていたけれど、きちんと対応できていたかも曖昧だ。進路相談のプリントも、当然真っ白のまま。
そんな状況で期末テストを受けたところで、まともに高得点を採れるはずがなかった。日頃の授業と予習復習のおかげで赤点を採ることはなかったものの、前回の中間試験よりは目に見えて点数が下がっていた。だがこの結果に関して、特に思うこともない。
「ナッツ、お疲れ。今日はもう帰る?」
テスト返却日、侑士に尋ねられたが、夏芽はそれを断った。今はもう少しここにいたい。そう伝えると、何か言いたげに侑士は眉を下げたが、最終的には「俺、予定あるから……じゃあ、また来週」と先に下校していった。潤一や歩も既にいない。きっと恋人と帰ったのだろう。
教室にいるのは夏芽と、東堂椿希とその友人たちである。皆、東堂のテスト結果について盛り上がっている。
「やー、流石東堂だわ。相変わらず保健満点」
「お前らも良い点採りてえなら、俺が教えてやるぜ?」
「ははっ、そりゃ勘弁だわ」
「ええ、私は椿希になら教えてほしいなー!」
「わたしもー!」
「別に構わねえよ。泣いても知らねえけどな」
きゃあきゃあと声を上げる女子生徒たちと、東堂の物言いを面白がる男子生徒たち。彼はまた、夏芽以外の誰かをその腕に抱き、あの瞳で見つめるのだろうか。そうして、遠く離れていくのだろうか。自席で盗み聞きをしている夏芽と、大勢に囲まれる彼の視線が合うことがないのは当然だ。けれど、もう無理だ。考えたくない。
ここにいたいと思っていたはずなのに、次の瞬間には居たたまれないと席を立った。残るんじゃなかった、と思った。ここにいたいと思うことは、ずっと一緒にいたいと思うことは、間違いなのだろうか。
間違いなのだろう。おかしいのは夏芽だ。皆、とっくに将来を見据えて歩き始めているのに。夏芽だけが「ここにいたいから」とその場で足踏みをしているだけ。
それを振り払いたくて、席を立ったはずなのに。足は思うように動いてくれない。本当に鬱陶しい。何もかも。
「アンタ、賀集夏芽よね?」
突如、知らない声が夏芽を呼ぶ。振り返って相手の姿を見たが、腕を組み仁王立ちする彼女のことは、誰だかわからなかった。
「……誰、ですか」
「メグっていえばわかる? B組の入倉恵」
メグ。イリクラメグミ。どちらの呼称も聞き覚えがない。首を横に振ると、呆れたように眉を顰めた。
「ああそう。椿希から聞いてないの」
ツバキ。その名に該当する人物は一人しかいない。だが彼は夏芽の前で他の生徒の話をすることはあまりなく、あったとしても侑士たち夏芽の友人三人のことくらいだ。つまり、やはり夏芽は彼女のことは全く知らないということである。入倉と名乗った彼女は、夏芽を睨めつけた。
「椿希の元カノ。言っておくけれど、アタシが一番彼女歴長かったから」
夏芽は僅かに瞠目した。彼女。東堂椿希の、元恋人。夏芽は全く知らなかったが、確かにあの容姿であの性格なら、そういう存在がいたっておかしくはないだろう。それも、彼女は彼に釣り合うくらいの美貌をもっている。正直、どうして別れたのかよくわからない。
「アンタ、椿希に気に入られてたんでしょう? で、どうして一人なワケ?」
「……あなたに関係ないですよね」
「はっ、別に関係なくはないけれど。でも知ってるわ。捨てられたんでしょう、椿希に」
捨てられた。そう言えなくもないのかもしれない。あの時、夏芽が何かを間違えて椿希を不快な気持ちにさせたのは疑いようもない事実だ。あれ以来、夏芽を見る度椿希は顔を顰めて背を向けてしまうのだから。
「ま、当然よね。アンタみたいな地味な男が、椿希をいつまでも惹きつけられるワケが無いもの」
「……でも、あなたも振られてるんですよね」
「……言うわね、アンタ。そうよ、皆そう。アイツも、いつもそう!」
キッと眉根を寄せる入倉の姿は、東堂に似合いの美人であるが故に恐ろしさを感じさせた。胸中に燻る黒煙を吐き出すような声は低く、重苦しい。
「興味が無くなったらもうそれで終わり。自分が満足したら終わり。東堂椿希はそういう人間なの」
興味。……興味? だが、彼があの時言ったのは――。
そう引っかかりを覚えつつも、そこを否定しても肯定しても面倒なことになりそうだったので、話を逸らすことにした。
「あなたは、いつから東堂くんと知り合いなんですか」
「そんなこと知りたいの? ……ふーん、アンタ、もしかしてまだ諦めたくないのね?」
これにも反応を示さないでいる。黙って彼女の答えを待っていると、入倉は意地の悪い笑みを浮かべた。
「まだ駄目よ。もう少しアンタの辛気臭い顔見て胸がすいたら、アイツのこと教えてあげてもいいわ」
それだけ言った入倉は、身を翻して去って行った。一体なんだというのだろう。どうして夏芽が彼女と東堂の付き合いの長さを聞いてしまったのかさえ、自分でもよくわからないけれど。
夏芽も彼女を見送ることなく、再び歩き出す。帰ったら進路相談のプリントを書かなくてはならない。――埋まるかどうかは別として。
✻
朝の陽ざしがカーテン越しに夏芽を呼び起こす。目を開くと同時に、土曜日になってしまったことを思い出す。昨日帰ってから机に向かって何時間も考えたのに、結局プリントには一文字とて増えなかった。今日と明日で考えなければならない。それでも、将来したいことや学びたいことなんて思いつかなかった。
何度繰り返しても変わらないことはわかっているが、朝食を採ったら、また机に向かわなければ。そう思ってベッドから起き上がった途端、スマホから着信音が響いてきた。名前をよく見ないまま、応答ボタンを押す。
「……はい」
『ナッツ、オレオレ。剣持でーす』
おはよ、と太陽にも負けない明るさで声が聞こえて来た。起き抜けの思いもよらぬ着信だったが、別に気分を害することはない。まるで詐欺電話のような軽さで話しかけられたたが、一体何の用だろうか。尋ねる前に、彼の方から用件を告げられる。
『あのさ、今日外出てこられる? 翠丘山まで』
「……僕、進路相談のプリント書かなきゃ」
『じゃーそれも持ってきていいから。十時に駅で待ち合わせね! また後で!』
言いたいことだけ言ったらしい侑士は、さっさと通話を切ってしまった。侑士からの着信画面が切り替わりディスプレイに表示された現在の時刻は六時。約束を取り付けられた時間に到着するには、九時までに家を出れば良いが。
プリントを持ってきてもいいと言われたし、唐突とはいえ無碍にするのも憚られる。夏芽は自室を出て、出発の支度を始めた。
「あれ、ナッツ早いねー、お待たせ」
約束の一時間前に翠丘山駅前の、日陰に入ったベンチでぼんやりとしていた夏芽の眼前に、友人の姿が現れた。気がついたらもう約束の十分前で、五十分近くもぼんやりとしていたのかと遅れて知る。侑士の服は、先月歩の家に行った時の服よりカジュアルで、動きやすそうな半袖シャツと薄手のパンツ、そして首から提げているのは――
「カメラ……」
「そ。オレの撮影、付き合ってくれる? そばで見ててくれるだけでいいから」
そういえば、写真部である彼の写真撮影に付き合うのは随分久しぶりのような気がする。こくりと頷くと、予想以上に強い力でぐいっと手を引かれた。
「そうと決まれば、レッツゴー!」
……やはり彼の笑顔は、夏の太陽にも負けていない。
翠丘山はその名の通り、自然に囲まれた大公園があることで知られている。休日の憩いの場として住民たちを始めとした人々に親しまれているのだ。今日も一足先に夏休みに突入した子どもたちやのんびりと散歩をする老人たちが見かけられた。
木陰にレジャーシートを敷いてくれた侑士が、ここで見守っていてと言う。夏芽は頷き座らせてもらう。侑士は微笑み、その辺りで蝉や植物を撮影し始めた。その光景を眺めつつ、夏芽は持参したバインダーを取り出し、進路相談のプリントと向き合う。外部受験か内部進学か、それさえも未だに決まらない。勉強したい学問も、大きな目標も浮かばない。
皆夏芽と同じように、将来の夢など決まっていないものと思っていた。けれど、少なくとも翠清学園の生徒たちはそうではなさそうだ。皆高い志を持ち、それぞれが努力を重ねてきている。編入生の夏芽とは、何もかも違うのだ。
「――オレね、留学するって言ったけどさ」
ふと、侑士が口を開いた。視線を彼の方に寄越すと、しゃがみながらカメラを構えて小鳥を見ている姿がある。
「その後のことは考えてないよ。そりゃ何かの言語学は専攻するけど、その後研究者になるかとか、就職するとか、専門学校行くとかは、全然考えてない」
「そ……そう、なの?」
「そうだよ。だって、まだわかんねーもん」
夏芽に顔を向けあっけらかんと笑う侑士に、夏芽はぽかんとしてしまう。一気に毒気を抜かれたような、そんな気がした。
間抜けな顔を曝す夏芽を気にせず、撮影を終えたらしい侑士は立ち上がる。それと同時に名も知れぬ小鳥も飛び去って行った。
「オレが留学するのは、世界を知るための手段の一つであって、目的じゃない。知らないことをこの目で発見できれば、新しい自分にも出会えると思うんだ」
歌うように告げる侑士の言葉は、夏芽が築いた壁をどんどん崩していくようだ。この壁は、夏芽が勝手に築いて、籠城するための分厚い壁だった。けれどそれも、友人の言葉で壊されて最早役に立たなくなってきている。
瓦礫の山にポツンと立った夏芽は、口から壁の欠片を零すように言った。
「僕……侑士くんの留学は、目的だと思ってた」
「駄目だよ、思い込みは。オレの話、ちゃんと聞いて?」
責めるような口調ではなく促すような口調だったが、夏芽の戒めとしては十分だった。壁が崩壊した今、彼等の言葉と夏芽の間を隔てる物は何もない。
「ナッツ。一体何が、ナッツの手と思考を止めさせてるの?」
穏やかな瞳が夏芽の顔を覗き込む。緩慢な瞬きをした夏芽は、侑士と視線を交えた。
「……僕、侑士くんが好き」
「……」
「潤一くんが好き。歩くんが好き。……東堂くんが、好き。ずっと一緒にいたいよ」
想いを吐露する夏芽を、黙って見つめる侑士。想いは言葉にするとやけに現実味を帯び、自分の感情を自覚させられる。嬉しいことも、寂しいことも。
「でも、皆僕を置いて行ってしまう。……ううん、そう思ってたけど」
夏芽はようやく、微笑みを浮かべられる。表情筋がまともに動くのは、一週間以上ぶりの気がする。
「いつか離れてしまうとしても、別れに怯えて、今一緒にいられる時間を放棄してしまってはいけないよね」
夏芽は、やはりまた間違えていた。悪癖だとわかっていたはずなのに、また一人で勝手に焦って、勝手に傷ついていた。全く学ばない夏芽を、友人は見捨てずに寄り添ってくれた。侑士とて、いつか夏芽たちと離れることはわかっているだろうに。夏芽とは正反対だ。羨ましくて、尊敬できる。この姿勢は、夏芽も見習うべきなのだ。
「僕……本当はね。夢ってほどじゃないけど、考えていることはあるんだ。皆に比べたら全然仕様も無くて、ちっぽけな夢な気がして……僕もついさっきまで、それを夢と気づかなかったみたいなんだ」
正直に打ち明けると、侑士は揶揄うこともなく、緩やかに首を振った。
「しょうもないなんて、あり得ないよ。そもそも夢なんて比較するものじゃないし、そんなもの決めろって急かされたって困るもんね」
「ふふ、そうだよね」
焦りと孤独感で決めつけてしまっていただけで、実は侑士もそう思っていたようだ。
決めつけていたことといえば、もう一つある。あの日、夏芽が傷つけてしまったうちの一人。
「僕、東堂くんと話さなくちゃ」
「そ。じゃ、明日にでも東堂ン家行きなよ。東堂も待ってるって」
待っている。そうなのだろうか。けれど、夏芽が冷静になった今なら、連絡を取ってもいいのかもしれない。チャットアプリで東堂に『明日話がしたいです』と打ち、スマホをしまった。いつ返信がくるかはわからないけれど、待っていたら心臓が破裂してしまいそうなので、今は考えないようにしよう。それに、侑士をほったらかしにはできない。
「ま、でも今日はオレのこと見守ってもらうからね、ナッツ」
「うん! 勿論!」
見守られているのは彼ではなく夏芽の方だというのに、彼はどこまでも思いやりのある人物だ。
侑士のカメラの被写体になったり、侑士が作って来てくれた軽食とおやつを堪能したり、カメラを借りて写真を撮らせてもらったりと、二人で夏の公園を満喫した。解散する頃には、夏芽の心はすっかり晴れていた。
✻
翌日も夏芽は外出する。定期券があるので、休日でも学園の最寄りである翠清駅まで向かうことに大きな問題はない。夏芽の精神状態と会う相手、行く場所によって夏芽のファッションは左右されるが、今日は昨日より余所行きの、どちらかといえばフォーマルな格好をしている。夏芽の持ちうる服の中では、という限定付きではあるが、これでも勝負服のつもりなのだ。
「東堂くん」
「――おー」
駅前で待っていた彼、東堂椿希は、今日の夏芽の約束の相手である。声をかけた夏芽を見ると、組んでいた腕を解き夏芽に向き合った。思えば、彼と視線が合ったのも一週間以上ぶりだが、数年顔を合わせていないような感覚もある。
「じゃ、行くか」
歩き出した東堂の広い背中を追う。東堂の家は学園のある北の方角へ十五分歩いた所にあった。家に着くまでに、二人の間に会話は無かった。今からしなければならないのは、歩きながらにする話ではないからだ。
東堂の住居はこの辺りにしては珍しいマンションで、周りの景観を崩さないよう階層はそう高くない。だがその外観やセキュリティシステムを見るに、明らかに高級であるということはわかる。知り合いが住んでいなければ、夏芽には一生縁の無さそうな建物だ。
五階の角部屋が東堂の家だと聞いている。慣れた手つきでオートロックを開けた東堂は、夏芽に入るよう促す。緊張しながら上がらせてもらうと、いくつかの扉が目に入ったが、案内されたのは正面のリビングだった。シックな家具が揃えられており、家電も歩の家と同じように最新のものが目立つ。冷房らしき器具は見当たらないが、室内は丁度良い涼しさに満ちていた。
どうやら現在この家に椿希の家族はいないらしい。両親ともに多忙な人らしく、家のことは椿希か雇っている手伝いの女性がしているという。その手伝いも平日二日の昼にしかここを訪れないため、大体いつも椿希が一人で使っているそうだ。寂しくないのだろうか。
勧められた革張りの二人掛けソファは反発力が少なく、妙な緊迫感を生み出す。ソファの前のローテーブルに、氷の入った麦茶を出すと、東堂は向かいにある背もたれのない一人掛けの椅子に座った。夏芽はそれを見て初めて、口を開くことができる。
「東堂くん。東堂くんの夢って、もしかして医者ではないの?」
単刀直入に尋ねると、東堂はゆっくりと瞬きをしてから、眉を下げて笑った。「お前にはわかっちまうよな」と。
「今は迷ってンだよ、正直。高等部に上がる前なら、医者一択だったんだけどな」
「……そうなんだ」
やはりそうだった。あの時東堂がはっきりしない様子だったのは、決まっていない夏芽を配慮してのことではなく、彼自身も進路に迷いがあったからだったのだ。
「ごめんなさい、勝手に決めつけて。僕、また焦って全然周りが見えてなかった」
「お前が焦ってるのはわかってたから、それはいい。それに、決めつけられることは慣れてっからな」
口調に重さは感じなかったが、諦めが滲んでいた。その言葉に思い当る節があり、不躾とは思いつつ尋ねてみる。
「初めて会った時に言ってたこと? 入倉さんのことも、関係してる?」
「入倉? ……あー、メグ……恵のことな。そういやあいつが発端だったか」
なるべく簡潔に話すから、聞いてくれるか。
こちらを窺うように聞かれ、しっかりと頷いてみせる。そもそも夏芽は、彼のことを彼自身の口から聞くために、ここにやって来たのだ。彼のことを知るまでは帰れない。
夏芽の反応に僅かに口角を緩めてから、東堂は話し始めた。
――俺、昔から人体に興味があったんだ。祖父母の家の蔵に、江戸時代の医学書みたいなのが結構あって、それを見るのが好きだった。別にウチが医者の家系って訳じゃなく、医者の知り合いから受けたってだけらしいけど。「ネットもないこんな昔から、人間は手探りで地道に不思議を解明しようとしてたんだ」って、感動しながら眺めてたよ。文字はあんま読めねえけど、ビジュアル画像が多かったから飽きずに見られたんだと思う。で、今現在人体の知識は、どれだけの情報が大勢に共有されてるんだって興味が湧いて、自分で調べ始めた。両親は、妙なモノに没頭し始めた俺になんとなく辞めるよう言ってきたけど、その内特に口を出してくることはなくなったよ。俺の熱量に委ねようとしたのか、もしくは引いたのかもしれない。ま、ウチはかなり放任主義なもんでな。
とにかくそうやって知識だけ蓄えてたから、中等部一年の時、保健のテストで満点採って一位だったんだよ、学年で一人だけ。ま、今回の期末までずっとそうなんだけど。
だけど中一の時のそれで、変態だの遊び人だの騒がれた。俺、見た目が良いだろ。自分で言うのもなんだけど、少なくとも客観的にはそうだったから、余計目立つようになって。
そのすぐ後、恵に付き合ってほしいって言われた。身体を好きにしていいって言われて、俺も馬鹿だったから特に考えねえで、初めて女の身体を触って、自分の知的好奇心を満たしてたんだ。
恵の身体が成長期を終えるあたりから、あいつを十分調べた俺は、別のサンプルをとるために『保健体育の成績が一番で遊び人の東堂椿希』に寄ってきた女をとっかえひっかえして、身体を調べてた。その様は……ま、他人から見たらまさに遊び人としか言えなくなったろうな。気づいたらもうそのレッテルはどうしようもなくなってたよ。女の方はどれも俺と遊ぶために近づいてきたやつらだから、別に後腐れとかはねえ……とは思うけど。今考えりゃあ不誠実だよな。
「俺は人体にしか興味が無くて、それ以外はほとんどどうでもいいから、追究しようとも思ってなかった。――夏芽、お前に出会うまではな」
「え……、僕……?」
東堂の話を黙って真剣に聞いていた夏芽は、突然自分の名前を呼ばれきょとんとする。東堂は頷き、じっと夏芽を見つめる。そうしてくれたのも久々で心が弾み、夏芽もその瞳を見つめ返す。すると、東堂はふっと柔らかく笑った。
「お前の目が好きだよ。俺を見つめてくれる目が、訴えている。お前の心が伝わってきて……初めてお前に見つめられた時、それを嬉しいと思った。それがなんでなのかは、まだあんまわかってねえけど。お前が気になって、知りたいと思ったのは本当だ」
夏芽はそこではたと気づく。東堂が夏芽の診察を請け負ってくれたのは、夏芽を知りたいと、夏芽から心を教えてもらいたいと、そう思ったからなのかもしれないと。それなのに、夏芽は。
「お前に抱かれたいって言われたのは……率直に言やあショックだったよ。身体的な接触が第一だった俺に、お前がこの数カ月、俺の知らなかった心を教えてくれたから」
身体と心は繋がっていること、どちらかだけでは人間が成り立たないこと。身体と心を通わせる喜びのこと。それらを文面上の理屈ではわかっていても、経験としては知らず、東堂もまだ勉強中だった。不用意なことを言って夏芽を傷つけたくなくて、距離を置かせてもらったと打ち明ける東堂。
その瞳は切実に輝き、眼差しは夏芽だけに注がれている。
「なあ、夏芽。今話した通り、俺は未熟で、お前が憔悴してる時に、寄り添うことができなかった。こんな俺に、またお前のこと、診させてくれるか」
「それは、僕が言うべきことだよ」
夏芽も彼に向かい合う。真摯な謝意と祈りを込めて。
「本当にごめんなさい、東堂くん。もう一度、僕にチャンスをくれませんか」
「……駄目だ」
「え……」
や、やはり駄目だっただろうか。あれほどひどいことをしておいて、もう一度やり直したいだなどと虫がよすぎると。
肩を落とす夏芽の耳に、笑ったような、微かな吐息が聞こえて来た。
「呼び方。そうじゃねえだろ」
「あっ……う、うん! 椿希くん、お願いします」
「――ああ。お前の心、待ってっから」
夏芽と椿希は微笑み合う。こうしてまた気持ちを新たに、二人の関係は次のステージへと向かい出すのだ。
少し他愛のない話を挟む。一週間ほど全く話していなかったので、椿希の身の回りのことを聞いた。といっても専ら期末テストについて多くの生徒に絡まれたというくらいだったが。テスト期間中も他の人間の診察はしなかったから安心しろと椿希に言われ、頬を染めながらも頷く。これからは心だけでなく身体のことも、夏芽が椿希に教えてあげたい。
カランと氷が落ちる音がする。椿希がグラスをテーブルに置いた。
「なあ、夏芽はもう進路、決まったのか?」
「全然確定じゃないけど、一応は。見る?」
「夏芽が良いなら」
カバンの中からプリントを取り出す夏芽。人に進んで見せられるほど立派な進路ではないけれど、これが今の夏芽の志望なのだ。これは夏芽が自分のことを椿希に知っていてほしくて見せるだけだ。夏芽からプリントを受け取った椿希は、上から下までさっと目を通して鼻を鳴らす。
「へえ、なるほどね」
「へ、変かな?」
「まさか。お前がしたいことなら、全力で応援するよ」
侑士にも応援すると言われた。夏芽の大切な人たちは、皆夏芽の夢を応援してくれる。それは決して「早く別れたい」というわけではなく、純粋な激励というだけ。変に深読みをして孤独を感じてしまうのは夏芽の悪い癖で、実際の彼等はずっと夏芽の味方でいてくれているのだ。
プリントをカバンに戻し、今度は椿希に尋ねる。
「椿希くんはどうするの? 迷ってるって言ってたけど」
「第二志望は翠清学園大学の医学部だけど、第一志望に行くには余所へ行かなきゃなんねえかな」
「そっか……」
現時点では、第一志望で内部進学を考えている友人は侑士だけのようだ。皆がそれぞれの道を行く寂しさはあるけれど、今は素直にそれを受け容れられる。
「ま、気楽にいこーぜ。高校生活、まだ二年半あるんだからな」
「うん、そうだね」
そうだ。高校生活はまだまだこれから続く。永遠には続けられないけれど、ずっと先の未来で振り返った時、「あんなことがあったね」と笑って話せれば、それでいいと思う。
そこでふと会話が途切れる。部屋には静寂が訪れ、夏芽は内心焦っていた。胸がドキドキとうるさくなっているのだ。ここに来てからずっとそうではあるのだけれど、この胸の高鳴りは、緊張と――期待、だろうか。そうだ。今この部屋には、夏芽と椿希、二人きりなのだ。しかも彼の家で。
意識すると、余計に恥ずかしくなってくる。まだ彼とは付き合ってもいないのに、好きな人だからこそ、どうしても二人きりだということを考えずにはいられない。
一人で悶えている夏芽に、不思議そうに尋ねる椿希。
「夏芽?」
「あ……うん、ど、どうしたの?」
「なんか顔赤いけど平気か?」
顔が赤い! どうしてこうも感情が表に出てしまうのだろうか。赤くなっている理由には心当たりしかないが、この好機は逃せない。
「えっと……早速だけど、診てくれる?」
「ああ、いいぜ」
腰を上げた椿希は、ソファの方に移動し夏芽の横に座る。いつものように、その大きな手が夏芽の首辺りに添えられ、セピアカラーの瞳が夏芽を映した。その眼差しを、夏芽はじっと見つめる。そう、この瞳が見たかったのだ。夏芽がその視線を堪能していることに気づいているのかいないのか、椿希は唸りながら診察をする。
「……んー、熱いな。心拍数も高い。熱中症か?」
「ねっちゅうしょう」
「部屋暑いか? あ、ちょっと待ってろ」
ソファから離れた椿希はキッチンの方へと向かった。彼が帰ってくるまでに、夏芽は陶然と診察の余韻に浸っていた。見惚れていた熱を熱中症だと解釈するだなんて、いかにも彼らしい。
そんなことを考えていると、首元にひんやりとした感覚が迫ってきた。
「冷凍フルーツと豆乳アイス。夏にはやっぱこれだよな」
「豆乳……」
「六月にアレ作ってから、豆腐料理に興味が湧いてな。自分で作ってみたんだ」
目を輝かせながら、平らな皿に盛りつけられたアイスを、小さじの銀のスプーンでいただく。豆乳らしい味わいが、夏芽の味蕾を甘やかに支配する。
「おいしい」
「そっか。お前が喜んでくれてよかったよ」
今度は歩たち友人と一緒に食べたい。そう伝えると、それも良いなと笑ってくれた。
「あー、そうだ。恵についてだけどよ――」
✻
月曜日。終業式の日ということで、皆が明日からの夏休みの話をしている。登校してきた夏芽も侑士たちとそういった話をしようと思ったが、その前に昇降口で話しかけられてしまった。
「アンタ、なんでそんな顔をしてるのかしら?」
「……入倉さん」
入倉恵は、相変わらず不機嫌そうに眉を顰めている。対する夏芽はごく平坦に彼女の名を呼んだ。入倉にとっては夏芽のそういう態度が気に食わないのか、更に渋面になって距離を詰めてくる。
「ねえ、椿希のこと知りたいんじゃないの?」
「彼のことは、彼の口から聞いたから」
テスト返却日に絡まれた時は、本人のいないところでだって、構わず彼のことを入倉から聞き出したかったというのは嘘ではない。けれどそれではきっと駄目だった。恐れず本人と向き合い自分の耳で聞くことに意義があると思う。それに、入倉の思惑通りになりたくはない。
吹っ切れた夏芽のはっきりとした様子に、入倉は俯く。その肩が震えており、怒らせてしまったかと様子を窺おうとした――が、何か呟きが聞こえてきて夏芽は黙った。
「……いもん」
「……え?」
「認めもん! アタシは椿希の初めての恋人なのに! アンタのことなんて認めない!」
顔を上げた入倉は、眦に涙を浮かべながら叫ぶ。予想外の言葉に面喰ってしまう。夏芽が何も言えないでいる間に、入倉は畳みかけた。
「絶対! 絶対椿希にはアタシの所に帰ってきてもらうんだから! アンタなんかに渡さないもん! 覚えてなさい、夏芽!」
「あっ……」
三下の捨て台詞のような言葉を吐き、入倉は走り去って行った。止める間もなくその後ろ姿を呆然と見送りながら、昨日椿希に頼まれたことを思い出す。
「しばらくあいつのノリに付き合ってやってくれねえか。嫌ならいいけどよ。多分そのうち俺よりずっと良いやつを見つけるだろうから」
――椿希はそう言っていたが、本当にそうなるのだろうか。椿希は勘違いしているようだが、どうも入倉の椿希への想いは、夏芽と同じく心を伴うもののように感じるけれど。つまり、椿希の顔や身体だけが、彼女を惹きつけているわけではないのではなかろうか。
(そもそも、椿希くんよりずっと良いやつなんて、そういない、もん)
去り際の入倉の口調が若干うつってしまった。だが、少なくとも夏芽と、或いは彼女にとってもそれは違いない。入倉が夏芽に覚悟を求めるというのなら、受けて立とう。夏芽とて椿希のことが好きだ。他の誰にも渡したくない。
拳を握ると同時、A組の教室の扉から、ひょこっと侑士が顔を出した。
「あ、ナッツ。早く教室おいで。夏休みの計画立てよ」
「侑士くん……うん!」
廊下に置かれた提出ボックスにプリントを入れる。そのプリントは文字で埋まっていた。
教室に向かいながら、思い出に残る夏への期待感に、夏芽は胸を躍らせた。
【八月】キラキラ、東堂くん!
真夏。燦然と輝く太陽に焼かれ額や首元を濡らしながら、人々は今日も外を往来する。学生たちにとっては待ちに待った季節だという者が多いだろう。梅雨の湿気とさめざめとした雨からの抑圧から解き放たれ、光に溢れた山や海へ出ることができるのだから。今日もどこかで、子どもたちの笑顔と声が弾けているに違いない。
尤も、今は未だその段階に至っていない者も、存在していることは事実であるが。
「そう。賀集さんは専門学校を第一志望として考えているんですね」
私立翠清学園高等部一年A組の担任、野村明里は、手元のプリントから顔を上げて、向かい合っている相手を見た。
賀集さんと呼ばれた男子生徒は、名前を夏芽という。今彼は、夏休み前に提出したプリントを元に、進路相談をしていた。
「はい、メイクアップアーティストを目指したいと思っています……今のところは」
「メイクが好きなんですか?」
「ええと……はい。やり方次第で演出したい人間になれるというのが面白くて……探求したいと」
今の夏芽に考えられる、あえかな夢。口にすると輪郭を帯びるような気がするが、まだまだ成長途中である。ただ、大学で多様な視点を学び、自分の糧としたいという気持ちもあるため、本当にまだ確実なことは言えない。
それでも姿勢を正し、自分の今の道を示すと、野村は目元を和らげた。
「そうですか。何か困ったことがあったら、また相談してください」
「は、はい、ありがとうございました」
夏芽はお辞儀をして席を立つ。夏芽が自分の進路を打ち明けた時、それを聴いてくれた人は誰も、夏芽の道を否定しなかった。野村だけでなく、両親も――教室の外で待っている人物もそうだ。
「お疲れ、ナッツ」
「侑士くん」
廊下に出た夏芽に声をかけたのは、剣持侑士。東京の地に引っ越してきた夏芽が、この学園で初めて友人になってくれた人物であり、今日この日に至るまで、ずっと夏芽に寄り添ってくれたかけがえのない相手。
「図書館で待っててよ。オレ、終わったら迎えに行くからさ」
「わかった。侑士くんも頑張って」
「オーケー」
ぱちんとウインクを決めた侑士は、A組の教室へと入って行った。
彼の言う通り、二階にある図書館へ向かった夏芽。夏休みにだけ就く臨時の司書が、夏芽の来館をちらりと視認してからパソコンへと視線を戻した。
侑士は夏芽と違い、第一志望の道を固めている。大学生になったら語学を専攻し、留学をするのだそうだ。侑士の語学の才能は夏芽たち友人のみならず学年中の皆の知る所であるから、きっと難なく留学をすることはできるだろう。けれど侑士の目的は留学そのものではなく、それによって自分の世界を広げることなのだそうだ。流石の志だと、夏芽は感激し――同時に自分の焦りを自覚した。そして夏芽も、自分の内にあった小さな灯に気がついたのである。
だからきっと、夏芽よりも早く面談を終えるだろう。借りてもいいが熱中するわけにはいかない。この場でサクッと読めるものと言えば、新聞に決まりだ。夏芽は新聞コーナーに行き、新聞各誌を捲ることにした。
(うーん、昨日の都内は熱中症で二百人が搬送されたのか……)
暑い日が続く都内で、その手の報道は毎日のように繰り返される。夏芽が子どもの頃は室内でもまだ冷房をつけなくともやっていけたが、この地ではそんなことを一日でもしてしまえば救急搬送コースである。ヒートアイランドの影響もあるだろう。
夏休みは都会から離れて暮らしたい。離れられなくとも、少しでも静かで涼やかな場所で過ごしたいものだ。
とはいえ、今のところ特に予定はない。夏芽には会いたい人がいるが、大胆にその人を誘う場所も特に思いつかない。海へ出かけて夏芽の面白くもない身体を想い人に見せつけたところで、相手はそこに興味はないだろう。この近くには山もないから、そこへ行くならちょっとした旅行だ。どちらかというと夏芽は山派である。
「ナッツ、お待たせ」
「侑士くん、おかえり」
夏芽が休暇中への過ごし方に思いを馳せつつ新聞を捲っていると、侑士が入ってきた。新聞を閉じてそう言うと、侑士はにっこりと愛嬌のある笑みを浮かべる。
「お、今の夫婦感あって良かった」
「ふふ、なあにそれ」
剣持侑士は、夏芽の初恋を最初に見抜いた人物であり、その相手が自分でないこともとうに理解している。それでもこうして戯れの言葉を放つのも、揶揄いのつもりであろう。勿論、こんなものでは夏芽の気分が害されはしないが。
キリが良ければ行こうと言われ、頷いた夏芽は友人とともに外へ出る。夏芽の差した日傘に入る侑士だが、二人だとちょっと狭くて、二人でまた笑った。
「ねえ、侑士くんは夏休みどうするんだっけ?」
「ちょっとナッツ、忘れちゃったの? 来週オレたちで海に行く予定だったでしょ?」
「あ……そうだった」
うっかりしていた。予定のことも、今この反応をしてしまったことも。オレたちというのは、夏芽と侑士、そして山岡潤一と広瀬歩の四人のことである。潤一と歩はそれぞれ部活がある中、合間を縫って予定を立ててくれている。
夏芽の反応に、侑士は胡乱な眼差しを向けた。
「東堂がいないからって、予定の印象薄く感じてたんじゃない?」
「う、そ、そんなことないよ! 確かに椿希くんにもいてほしい気持ちは無きにしも非ずだけども……!」
ナッツってば本当にわかりやすいんだから、と侑士は笑った。返す言葉もない。
東堂椿希。夏芽の想い人の同級生。一年A組の保健体育係を務めており、彼にもいつも助けられている。身体的な関わりに精通した彼に、心を注いで応えてもらうのが夏芽の現在の目標だ。夏芽と椿希が出会ってから、初めての長期休暇。この機会を是非ものにしたいところだが、私生活が謎の椿希が、今から夏芽と会う予定を作ってくれるだろうか。そんなことを考えていたら、海に誘うタイミングを逃していた。
すると、その時丁度侑士のスマホが震えだす。断りを入れた侑士が画面を見て、苦い顔をした。彼のそんな表情は珍しい。着信を切っても切ってもかかってくるので、出てやるように促すと、侑士は渋々通話を開始した。
「……はい」
『ちょっと、なんで何度も切るワケ⁉ 相変わらず優しくないやつ!』
「はいはい……」
液晶の聞こえて来た声に、夏芽は驚いた。だって彼女の声は――隣のクラスの入倉恵のものだ。多分恐らく。一体侑士に何の用事があるのだろう。
「で、用件は? 手短にどうぞ」
『アンタね……。まあいいわ。ねえ、来週アタシの別荘に来ない? プライベートビーチも、近々花火大会もあるの!』
「ら、来週……」
侑士と夏芽は顔を見合わせる。丁度自分たちが海に行く予定を立てていたが。即座の回答は避け、侑士が尋ねた。
「オレに電話をかけた理由は?」
『夏芽を連れてきなさい。賀集夏芽! アタシはもう椿希を呼んでるの』
「どういうつもりで?」
『アタシは決着をつけたいだけ。椿希と付き合うのが誰なのか』
彼女は相変わらずはっきりとした性格のようだ。まだ何とも返事ができずにいると、向こうの声が続く。
『まあ、来たくないなら構わない。アタシが椿希の身体も心ももらうから』
瞠目する夏芽。彼女ならば、宣言通りに自分の計画を遂行するだろう。その結果が、成功でも失敗でも。自分の知らない所で、椿希が誰かの恋人になるだなんて嫌だと思う。せめて見届けたい。その一心で、夏芽は侑士のスマホに伝わる声の大きさで――といっても、同じ日傘に入っているのでそう大きくはないが――言った。
「行くよ」
『……あら、いたの。受けて立つって潔くていいわね。楽しみにしてる』
夏芽が割り込んで発言したことに大して驚いていない様子だった。今日が二人の進路相談の日だと知っていたからかもしれないし、単純に夏芽と侑士の仲の良さを理解しているからかもしれない。
『ああそうだ、侑士、アンタは好きな相手を何人でも呼びなさい。アタシの別荘に入るだけならね』
「わかったよ。ナッツが決めたら仕方ない」
『そう。当日は迎えに行かせるけど、詳細は後日改めて送るわ。じゃあね』
彼女は引き際さえもあっさりとしたもので、侑士とのやり取りの通り用件を伝えるとさっさと通話を切ってしまった。やれやれと首を振りスマホをカバンにしまう侑士に、夏芽は眉を下げる。
「侑士くん、ごめん。勝手に決めてしまって。潤一くんと歩くんにも申し訳が立たないな」
「いいよ。アイツらも納得してくれるって」
そうだろうか。そうだと良いけれど。けれど侑士がそう言って笑顔を浮かべるから、きっとそうだと思える。
「入倉さんって、お金持ちだったっけ」
「日本十名家のうちの一つねー。そりゃプライベートビーチの一つや二つ……十や二十持ってるんじゃない」
そうだった。入倉の家は『日本十名家』という括りの一つに数えられる血筋だった。なんでも、かの藤原家の縁者の家系らしい。政界にも進出しており、彼女の兄は法学部に通っているそうで、将来を期待されていると。
出席番号で順当に数えるなら、入倉は昨日進路相談を終えていそうだ。彼女も兄や親族の後を追って政界に出るのだろうか。彼女も幼稚舎から上がってきた生徒であり、成績は優秀らしいから、問題ないだろう。勿論そのつもりがなくとも、彼女ならば望む道を切り拓ける力強さを持っている気がした。
「ライバルに立ち向かうんだね、ナッツ」
侑士が夏芽を見る瞳には、激励の情が宿っているようだ。自分の意志を伝えられるよう、しっかりと頷いてみせた。
「うん。僕も彼女も椿希くんを想っているけど、椿希くんの身体は一つしかないもん。いつかけりをつける必要はある。……椿希くんが誰を選ぼうと、椿希くんの自由だけど……僕を選んでほしいから」
侑士はにっこりと笑い、頷きを返す。今度も見守ってくれるようだ。なんと心強いことだろうか。
「入倉さんのアカウント、あげるよ。あっちもあんな態度だけど、ナッツのことはきちんとライバルとして見てくれてるみたいだし。来週の予定、聞いてあげて」
「うん、ありがとう、侑士くん」
入倉の連絡先を転送してくれた侑士と別れ、駅に入る。丁度到着した電車に揺られながら、夏芽は来週の予定に思いを馳せたのだった。
✻
賀集家の前に黒塗りのリムジンが着いた時、両親は驚いた様子だった。父には「夏芽も色んな人と友だちになったんだなあ」と、母には「あんまり心配はしていないけど、誰に対しても失礼のないようにね」と言われ、見送られながら、荷物を持ってリムジンに乗り込んだ。
ほどよく空調の効いた、広い車内。ふかふかのシートは夏芽の身体を柔らかく支え、ここに横たわっても問題なく眠れるのではないだろうか。流石にそこまでするほど夏芽の肝っ玉は据わっていないけれど。
「おはようございます、賀集夏芽さん」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
運転席からかかった声に、腰を浮かせた夏芽は折り目正しく挨拶する。夏芽が再び座ったことを確認してから、振動も無く車は発進した。
「逃げなかったのね、夏芽」
そう言葉をかけられ、夏芽は彼女の方を向く。そこには入倉恵だけでなく、侑士や潤一、歩の姿に、潤一の恋人である牧瑠璃子、歩の恋人の新宮真帆もおり――そして、東堂椿希も既に乗車していた。入倉の家から最も遠いのは夏芽の家だから、皆が揃っているのも納得はできるのだが。
「逃げないよ。よろしく、入倉さん。みんなも」
夏芽の挨拶に、皆が友好的に言葉を返してくれる。新宮も夏芽の参加を喜んでくれているし、牧も参加してくれた以上は今回の集まりに納得してくれたのだろう。勿論、男友だちも夏芽との対面を喜んでくれている。ありがたいことに、それは彼も同じだった。
「夏芽、久しぶりだな」
「うん、椿希くん」
夏芽を見て目尻を和らげる東堂椿希。二週間ほど会っていなかったが、椿希の存在の大きさに変化はない。逞しい身体も、黒髪ミディアムのウルフカットも、傷一つない肌も、変わらずそこにある。そして、切れ長の目から注がれる眼差しも、夏芽を受け容れてくれている。それが何よりも嬉しい。
「わかっているとは思うけど、これから向かうのは千葉県の南房総市よ。そこにアタシの別荘があるの」
夏芽は持ってきたプリントを取り出す。入倉から送られた――いうなれば『旅行のしおり』を印刷したものを。夏芽の家から南房総市の入倉家プライベートビーチまで、およそ三時間。渋滞に巻き込まれなければ、到着は十四時頃だろうか。
「予め決めている事の範疇でなら、各々自由にしてもらって構わないわ。でも敷地の外には出ないでよね。見つけるのに手間がかかるから」
今夜の予定は特に無く、十九時の夕食までは時間がある。しおりにある別荘の敷地内で探検でもしてみようか。侑士なら元気に付き合ってくれるかもしれない。
全員の姿を見回した入倉は、不敵に笑い高らかに宣言した。
「それじゃあ、三泊四日の素敵な時間に、このアタシがアンタたちを招待してあげるわ!」
三時間、車内でトランプゲームをしたり、カラオケをしたりして過ごしていると、到着はあっという間だった。目の前に聳える別荘はコテージ風だ。風通しがとても良さそうで、太陽の光を目一杯受け輝いている。
まるで修学旅行の時の教師のように、入倉はきびきびとして、到着後すぐにリムジンの運転手とともにどこかへ去った。彼女の残した指示に従い、一人一部屋、送られた資料にある通りに入室する。今の夏芽の私室より一回り、否、二回りは広い。ふかふかのベッドも一人で寝るには大きすぎるくらいだ。あまり自分の物を散らかさないよう、わかりやすい所に一纏めにした。
さて、あと五時間。探検をするにしたってそこまで時間はかからないだろう。何をして過ごそうか。……そうだ、課題。夏休みの課題。英語と数学の課題だけ持ってきたのだった。テキストが小さいので持ち運びが楽でよかった。この部屋には机もあるし、大きな窓を開けていればカーテンを靡かせる風が入る上に、漣の音が心地よく耳に届く。勉強に集中するにはもってこいの場所だ。
机に向かい、さあやるぞと気合を入れたところで、部屋に軽いノックの音が響いた。
「ナッツ、オレオレ。剣持でーす」
「侑士くん?」
相変わらず詐欺のような話しかけ方をする友人に、部屋に入るように促す。扉を開けたのは、やはり侑士だった。彼は夏芽が今何をしようとしていたのか、すぐに見破る。
「もしかして、勉強しようとしてた?」
「うん、夏休みの課題を。ごめんね、何のお構いもできなくて」
「いやいや。英語と数学?」
頷きを返した。夏芽は勉強机の前に戻る。
「わからないところがあったら、教えてくれる?」
「勿論。遠慮なく言ってよ」
「ありがとう」
侑士は本を持参しており、夏芽が呼ぶまで椅子でそれを読んでいるようだ。タイトルは……フランス語で書かれており、夏芽には解読不能だ。侑士曰く、フランスの詩集だということだが。それをすんなりと読むなんて、夏芽にはまだまだ到底不可能なことだ。
改めて机に向き合う。課題のテキストには、夏芽が得意な分野、不得意な分野が織り交ざっているが、とにかく自分のペースでやっていこう。そう決めて、夏芽はシャープペンシルを手に取った。
夕食は、夏芽が見たことも聞いたこともないような料理ばかりがフルコースで並んだ。入倉が得意げにメニューの解説をしてくれたが、料理に疎い夏芽には、それらが「おいしい」ということしかわからなかった。中には不思議な味だと思ったものもあり、海外の料理への関心が湧いたことも事実である。
露天風呂で星を見ながら男友だちと語らい、夜は大きすぎるくらいのベッドでぐっすり眠った。
朝、六時に鳴らすはずだった目覚ましを先に止める。部屋についている洗面台で顔を洗い、歯を磨いてから、着替えてダイニングへ向かった。
「お。おはよ、夏芽」
「椿希くん! おはよう」
そこにいたのは椿希だった。だが、割烹着を身に纏っている。……何故?
「あ、コレか? 朝食の準備、手伝ってたんだよ」
夏芽の訝しげな視線に気づいた椿希は、割烹着を脱ぎ畳みながらそう教えてくれた。まだ他の友人たちは姿を見せていない。それに、今の今まで食事の支度を手伝っていたということは、椿希はかなりの早起きである。夏芽はまだ頭がぽやぽやしているというのに、椿希のおめめはぱっちりしている。
そんな夏芽の様子を見て、椿希は微笑んだ。
「少し、外に出るか?」
「え、二人きりで?」
「そ、二人きりで」
その言葉に夏芽は目を見開き――勢いよく了承の返事を返した。
コテージの外に出ると、眩い陽光に照らされ、海の風が二人を迎える。とうに浜辺に二人分の足跡を残しながら、少し歩いた。
「今日はビーチで遊びまくれる日、だよね?」
「ああ。海も綺麗だし、何をするにも楽しみだな」
椿希は海を見ながら目を細める。その眼差しとふわりふわりと揺れる黒髪を見上げていると、夏芽の胸は高鳴っていく。――思えば、教室以外で椿希と朝の挨拶を交わす機会はほとんどなかった。休日に会う時だって正午前に集合が常で、起き抜けに挨拶をしていたわけではない。そう考えると、先ほど交わした「おはよう」は、レアイベントだったのではなかろうか。起きてすぐに挨拶をするなんて、なんだか同棲中の恋人……もっといえば、夫婦のようだ、なんて! 侑士とのやり取りでは思わなかったのに!
そんなことを考えながら彼の姿をじっと見つめていると、ふと椿希が夏芽を見下ろした。
「夏芽」
「は、はい!」
「また顔赤くなってる。もう熱中症になっちまったか?」
少し屈んだ椿希は夏芽の顔を覗き込み、頬に手を添えた。彼が診察をしてくれる時によくする行動である。そうしてくれるのはとても嬉しいが、これ以上は夏芽の心臓がもたないので勘弁してほしい。
「大丈夫、平気だよ」
「……ふーん、ま、嘘じゃなさそうだな。けど、あんま無理はするなよ? ちゃんと救急セットは持ってきてっからさ。アイスはねえけど」
「ふふ、うん、ありがとう。何かあったら頼らせてもらうね」
二十分ほど浜辺をのんびりと歩いてから、コテージに戻った。その頃にはもう既に皆が起きており、戻ってきた二人を見て、侑士はニヤニヤし、他の友人たちはニコニコし、入倉はむすっと頬を膨らませた。
椿希が手伝ったという朝食は洋の品々がメインだったが、アサイーボウルなどというものが出て来た。バナナ、イチゴ、ブルーベリー……フルーツはどれも瑞々しく、この品が最も夏芽の味蕾に適合したのだ。それを誰に伝えるでもなく口にすると。
「それは俺が作ったんだぜ」
椿希の一言に、夏芽は頬を緩ませた。
「準備ができたらビーチに来なさい! 水着に着替えて、日焼け止めも忘れないように!」
その空気を遮るように、入倉が立ち上がりそう言う。御馳走様と言い残し、足早に去って行く。なんだか夏芽は彼女に悪いことをしたような気がした。
「ナッツ。呆けてないで、準備しよ」
「あっ、うん」
侑士に声をかけられ、我に返る。料理人たちに礼の言葉を述べ、夏芽は着替えるために部屋に入った。
カバンから取り出した自分の水着。スクール水着ほど地味ではないが、黄緑色の柄無しのものである。女の子の水着ほど男子の水着は種類が無いから、こういう時にどのようなものを選べばいいのかわからず、これに落ち着いた。水着を履いて椿希に勧められた日焼け止めを念入りに塗り、上に濡れても平気なパーカーを着て、再び外に繰り出す。太陽の輝きは、朝に感じたものより肌にじりじりとした刺激を受けた。
「ナッツ、こっちこっち」
侑士に呼ばれ、ビーチサイドに立つ。海はキラキラと夏芽を誘うように揺れていて、視覚的に夏芽を魅了した。
「海に入るならちゃんと準備運動しろよ。溺れても俺が助けてやるけど」
「うん、気を付けるね」
潤一とビーチに何かしらの仕込みをしている椿希に言われ、しっかりと準備運動をする。溺れて想い人に人工呼吸をしてもらう……なんてことは望んではいけない。無暗に椿希たちに心配をかけるのは夏芽の望むところではないのだから。
潮騒を耳に入れながら、夏芽と侑士は一歩ずつ、寄せては返す波に近づいていく。ざあっと音がして、二人の足を濡らした。風もそうないので、波は穏やかだ。隣の相手と頷き合って、足首、脹脛、腿、腰、と海に身を沈めていった。
「ふああ、今年初海だあ」
「ちょっと生ぬるいね」
「ふふ、確かに」
だが砂浜の温度で温まった足を冷ますのには最適だ。一緒に持ってきたドーナツ模様の浮き輪が、碧色の水面に揺られている。
「てかそれ、入倉さんのだよね?」
「うん。可愛いよね、こういうの」
「ま、フツーの男子高校生には可愛すぎる気もするけど」
侑士は笑った。つられて夏芽も笑う。確かにちょっと可愛すぎたかもしれない。けれど、小さい時は海の家やホテルなんかで売っていた、イルカやらシャチやら車やらの、特殊な浮き輪で遊びたい欲はあったものだ。そう打ち明けると、侑士も大きく頷いて同意した。後で入倉にその手の浮き輪がないか聞いてみよう。
波に揺られたり、潜って目ぼしいものを探したり、二人はゆったりと遊んでいた。全力で泳がなくとも、海は楽しめるものである。
しばらくして、ビーチの方から声が聞こえた。よく聞くと、夏芽と侑士を呼ぶ潤一の声だ。
「おーい、賀集、剣持! 戻って来ーい!」
「うん? 潤一くん……、あっ」
いつの間にかビーチに現れたものに気がついた夏芽は声を上げる。侑士もそれを見るとにやりと笑った。「行ってみよっか、ナッツ」
パシャパシャ、緩やかな力で泳ぎながらビーチまで戻ると、目の前にはすっかりコートが出来上がっていた。これはつまり、ビーチバレーをやろうということである。バレーボールなら、球技大会の後も感覚を忘れないようにちょくちょく練習していたので、夏芽もそれなりに自信がある。
「チーム分けは?」
「二人は審判、それ以外が三対三で戦う」
話を聞くに、どうやら女子たちも夏芽よりバレーボールが得意らしい。普段の授業は男女別で、球技大会でも夏芽はダウンしていたので知らなかったが。美術部で運動はあまり得意ではないという新宮も、「バレーボールだけは少しだけできるんだ」とはにかんだ。
そうしてビーチバレーが始まる。夏芽が驚いたのは、新宮の言葉が真実であったことと、歩がバレーボールに不得手だったということだ。そういえば球技大会の時、歩はバスケットボールを選んでいたか。そのため夏芽とは一緒に練習する機会が無く、その腕を拝見することもなかったけれど。何にせよ椿希と侑士と潤一、女子テニス部のエースたる牧がいるから、どの組み合わせになっても戦力にそう大した差は出ず、どのゲームも接戦になっていた。
五度目のゲームの終盤、新宮とともに審判をしていた夏芽の鼻腔を、とある匂いが掠めた。皆もそれに気がつきゲームを中断する。
「お嬢様、ご学友の皆さま。バーベキューの準備が整いました」
使用人の言葉に、わあと歓声が上がる。バーベキューなど、夏芽は地元でもそう何度もやらなかった。いつぶりかの炭火を前に、目を輝かせる。
「焼くのは俺に任せろよ。とびきり美味いタイミングで渡してやる」
「やった、楽しみ!」
網の高さの違う三種類のバーベキューセットに、椿希がテキパキと食材を載せていく。肉、野菜、魚に海鮮。どれもおいしそうで、口に入れた時を思うと既に幸せな気分になった。
椿希の指示に従いながら、炎の勢いを調節しつつ、交替で焼き上がった食材を頂く。どれも頬が落ちそうなくらいおいしい。夏芽は親族以外とバーベキューをしたことがないが、こうして友人たちとわいわいしながら囲むバーベキューもとても楽しい。夏芽にとっては初めてのことばかりだが、学園に編入してから経たことはどれも新鮮で夏芽に刺激を与えてくれる。
食材が半分以上無くなった頃、紙皿を置いた入倉が言った。
「それじゃあ、後は好きに楽しんで。十八時頃にはコテージに戻るのよ」
「ん、恵はどうすンだよ?」
「……アタシはやることがあるの。使用人も残すし、椿希もいるから有事の際も大丈夫でしょう。じゃあね」
そう言って、颯爽と入倉はコテージの方へと戻って行った。皆彼女のことを気にしていたが、お嬢様にはやることが沢山あるのですと使用人に言われ、次第に先ほどまでのやり取りの続きに落ち着いてくる。
バーベキューで腹と笑顔を満たした後は、ビーチパラソルの下でのんびりと過ごす。ココナッツジュースまでいただき、気分はまるで南国リゾートだ。夏芽はハンモックに寝転ばせてもらったが、案外横になるのに苦労した。寝心地は抜群だけれど。
休憩の後、中断していたビーチバレーを再開したり、海で泳いだり、砂で城を作ったりと、ビーチを遊びつくしていると、あっという間に日が沈みかける時間になった。
十八時より前、夏芽だけ先にコテージに戻った。入倉の様子が気になったからだ。家の別荘であるとはいえ、ここに連れてきてくれた彼女が休暇を楽しめないのは、夏芽が納得できない。もしも彼女が困っているなら、明日だけでも自分たちの遊びに参加できるように力を貸せないだろうか。
そう考えて、コテージに戻る。ノックをしたが、彼女は自分の部屋にいないようだ。はてどこにいるのかと思いながら、行儀の悪さを承知でコテージ内を彷徨うことになる。すると、キッチンの方から微かに話し声が聞こえて来た。
「――が、……様、そちらは我々が……」
「……のよ。アタシがやらなきゃ……の!」
どうやら、入倉と使用人の会話のようだ。なんだか言い争っているような声色だが、大丈夫だろうか。気がかりに思った夏芽は、キッチンとダイニングの隔たりの部分に立ち、中に向かって声をかける。
「入倉さん」
「っ、夏芽!」
「いきなり声をかけてごめんなさい。……料理をしていたの?」
キッチンには何人かの使用人と、令嬢の姿が確認できた。入倉の前にはまな板と野菜があり、彼女は包丁を持っている。夏芽にそう尋ねられると、一瞬目を見開いた入倉が、包丁を置いて手とまな板を隠すように立ち塞がった。
「こ、これは別に……! っていうか、恋敵のアンタに関係ないでしょ!」
「どうして料理を? 僕に手伝えることは?」
「……っ」
何かあったら、遠慮なく頼ってほしい。その一心で発言したが、入倉は眉を顰めて唇を噛み、そして。
「本当に意味わからないわ! 折角椿希に喜んでもらえると思ったのに、アイツは朝食作りもバーベキューも手伝っちゃうし、アタシの用意したものについても淡白な反応しか返さないし、挙句の果てには『恵』呼び! 食材も場所も、椿希のために最高級かつ最適なものを選んだはずなのに! どうしてまだアイツはアタシに対して復縁しようとかの一言も無いワケ⁉ 水着だって何のコメントもしてくれなかった!」
夏芽が驚く間もなく、捲し立てられた言葉。絶句して目を瞬かせる夏芽を無視し、入倉は続けた。
「身体でもお金でも振り向いてもらえないなら、アタシが椿希のためにとれる手段なんて無いの! だからせめて、手料理でも食べさせてあげられたらって……」
「入倉さん……」
呆然と、ただ彼女の名を呼ぶ。入倉にどんな言葉をかけてやればよいのか、夏芽にはその答えがすぐには出なかった。立ち尽くす夏芽に、入倉はふいと顔を背けシンクに向き直る。
「わかったらさっさと出て行って頂戴。アンタの手なんて借りなくても、アタシだってこのくらい――あ、痛っ!」
「入倉さん!」
「お嬢様!」
急に小さく悲鳴を上げた入倉に、夏芽は駆け寄った。彼女が気にした自身の手指には、雑に巻かれた絆創膏がいくつもあり、そこにはじわりと赤が滲んでいる。
怪我を、しているのだ。
それを見た夏芽は、弾かれたように踵を返した。
「待ってて、今椿希くんを呼んでくる!」
「っ、必要ないわ! 大体、なんで恋敵のアンタが、敵に塩を送るような真似を……!」
「そんなことどうでもいい! 目の前に傷ついた人がいたら、助けたいと思うから!」
「……夏芽……」
夏芽はキッチンを飛び出し、椿希の姿を探す。幸いコテージのすぐ近くまで戻ってきていた彼に入倉の怪我のことを伝えた。椿希は素早く状況を把握すると、持参していた救急箱とともに、キッチンの方まで来てくれた。
気まずそうに視線を逸らしたメグの手首を引き、リビングの方の椅子に座らせると、テキパキと処置を始める。夏芽はその様子を、黙ってそばで見守っていた。
「お前さ、ちょっとは自分の力量を顧みるくらいはしろよな。調理実習の成績、小学生の時から悪いだろーが」
最後の絆創膏を巻いた椿希が言う。入倉は何も言わなかったが、代わりに夏芽が椿希に尋ねた。
「椿希くん、入倉さんは大丈夫なの?」
「ああ。切り傷っつってもそう深くはねえし、消毒もし直した。一週間もすりゃあ傷は塞がる」
「そっか、良かった……」
ほっと胸をなでおろす。大事になる前に椿希に診てもらえたことは幸運だった。もしかしたらくたびれた絆創膏の隙間からばい菌が入り込んで、悪化していたかもしれない。
救急箱に物を片付けた椿希は、夕食の支度を手伝うらしく、その場から去ろうとした。そこでようやく、ずっと無言で治療を受けていた入倉が声を上げる。
「椿希! ごめんなさい、アタシ、椿希に喜んでほしかっただけで、迷惑をかけたかったワケじゃないの……!」
「わかってるよ。お前の気持ちは嬉しい。――でも、応えてやることはできない」
「つばき……」
入倉の目を見て、きっぱりとそう言い放った椿希は、救急箱を持って部屋を出て行った。その場には、夏芽と入倉だけが残され、沈黙が横たわる。彼女にどんな言葉をかければいいか考える夏芽。だがそれよりも前に、大きく背もたれに身を預けた入倉が、ボールを投げ捨てるような口調で言った。
「やっぱり……アタシじゃ駄目みたいね」
「入倉さん……」
「勘違いしないで。今……振られたからじゃないわ。アタシはアンタを見直したのよ」
「え……?」
一体どうしてそんな結論に至ったのか。目を瞬かせる夏芽に、入倉は項垂れながらも続ける。
「アタシ、自分のことばっかりで、周りのことなんてどうでもよかった。それなのにアンタは、怪我をしたアタシを見て、すぐに椿希を呼んだわね。アンタだってアタシと同じで、椿希が好きなくせに」
入倉はそう言ったが、「自分のことばかりだった」――それは夏芽も同じだった。自分で勝手に頑張って、焦って、落ち込んで、暴走して。それで体調を崩したり、友人たちに心配をかけたり、この数カ月、夏芽はそれの連続だったのだ。それでも友人たちは夏芽を見捨てなかった。椿希もそうだ。
しかし今、椿希は明確に気持ちに応えられないと発言した。夏芽と入倉は同じように椿希を想い、同じように自己中心的な考えをしていたのに。思い返す限り、椿希が今のような発言を、夏芽にしたことは――ない。「頭を冷やせるまで関わるな」とは言われたが、「お前の気持ちには応えられない」と言われたことは、ないのだ。二人の違いとは、一体。
入倉が反っていた身体を戻し、夏芽と目を合わせる。そこには、以前まで色濃かった夏芽に対する敵愾心が見えることはなかった。
「アンタの気持ちの方が、椿希と結ばれるべきなのよ。アタシではなくてね。だから、訴え続けなさい、夏芽。アンタの気持ちを、アイツに」
彼女のセピアカラーの瞳は、普段より輝いていた。夏芽は頷く。椿希に確かめなければいけないこともできた。そんな夏芽の前に、絆創膏が巻かれていない人差し指が突きつけられる。
「ただし、アタシだってこれからもっと良い女になる。油断してると、アタシが椿希の心をもらうからね」
「うん。肝に銘じるよ」
これは、入倉なりのエールなのだろう。夏芽はそう思うことにした。彼女からの気持ちをしっかりと胸に留め、夏芽はもう一度頷いてみせたのだった。
こうして、二泊目の夜は更けていく。眠る前に百物語をしようという話が出たが、椿希の猛反対で取りやめになった。代わりに食後、リビングの大きなスクリーンにゲーム画面を映し、皆でレースゲームをした。一位になった回数が最も多かったのは順番に侑士、椿希、夏芽、新宮、牧、歩、潤一、入倉で、下の二人は最後まで操作が覚束なく、コースアウトが目立っていたが、皆楽しそうに競っていた。慣れないことをした入倉を含めて。
昼間の疲れもありぐっすりと眠った一同に、三日目の朝が訪れる。今日は近くの神社で夏祭りがわれ、夜には花火大会も開催されるという。楽しみは連続する。
「それで……入倉さん、何の用?」
朝食後、夏芽は入倉に呼ばれた。誰の私室でもないこの一室に。呼び出しの理由に特に思い当たる節は無く、昨日の話の続きかとも思ったが、どうやら違うらしい。腕を組み仁王立ちする彼女に、部屋に入ってきた夏芽は尋ねた。入倉の胡乱な眼差しが浴びせられる。
「決まっているでしょう。アンタのそのごく庶民的な服で、祭りに繰り出させるわけにはいかないのよ」
「えっと、つまり?」
察しが悪い、と態度だけで言った入倉は、ずいと紙袋を差し出した。
「浴衣よ。これはアンタのためのもの」
「えっ、いいの?」
「いいから言ってるんでしょう?」
ほら、と強く差し出され、そっと紙袋を受け取る。浴衣と帯、巾着がセットで入っているようだ。
「着方はわかるわね? アタシは女の子たちや他の男子にも渡してまわるから。もしわからなければその辺の使用人に言って着付けてもらいなさい」
そう告げた入倉が、部屋から出て行く。夏芽は紙袋の中身を取り出し確認してみた。抹茶色の生地に、白色で描かれているものは――。
「と、蜻蛉……?」
なんだってこの虫の柄なのだろうか。随分と渋いチョイスな気はするが、別に嫌いではない。折角だからと袖を通してみると、それだけで肌に感じる布の上質さが窺えた。入倉家の物だから、きっと京都の老舗で仕立てられたのだろう。下手な扱いはできないと、生成り色の帯とともに身を引き締めた。
入倉が置いて行ったらしい下駄を履き、皆の前に出ていく前に、夏芽は自室に戻った。荷物の整理と、身だしなみチェックのためだ。いつもとは違うように髪をセットし、浴衣に合うように少しだけメイクをして、日焼け止めを塗り、ハッカを吹きかける。財布とスマホとメイクポーチとハンカチを巾着に入れ、準備は完了だ。
リビングに出ると、既に男子たちは皆浴衣に着替えていた。侑士は、灰色の生地に、宝尽くしの柄。潤一は紺色の生地に麻の葉。歩は濃藍色の七宝柄。そして椿希は、黒色の生地に椿が描かれている。皆それぞれにぴったりだ。興奮した夏芽の賞賛に、友人たちははにかみを返す。
「皆、お待たせ!」
「遅れてごめんなさい……!」
その後、ヘアアレンジをして夏らしい飾りをつけた牧と新宮が出てくる。牧は鴇色の生地に朝顔の模様があしらわれた浴衣で、新宮は雪色の生地に金魚の模様が描かれた浴衣だ。どちらも華やかで愛らしい。
「牧……お前は桃色がよく似合っている」
「えへへ、ありがとう。山岡もイカしてるよ」
「新宮さんも、大人っぽくてすごく綺麗だ」
「う、嬉しいな……広瀬くんに、そう言ってもらえて」
「皆、準備ができたようね」
最後に現れた入倉は、墨色の生地に大輪の菊の模様の入った浴衣を着ている。その姿はまさに高尚で、難なく着こなす入倉は流石名家の令嬢といったところだ。
潤一と牧、歩と新宮は、それぞれ先に出発するそうで、カップルで出かけることに特に異論も出なかったために、その四人以外が場に残った。彼彼女に倣って、二人ずつで祭りに繰り出そうということらしい。
「じゃ、ちょっと仲良くなったっぽいナツメグコンビでどう?」
「な、なつめぐ」
「横着しないで頂戴」
ナッツになったりナツメグになったり、自分の名前が「夏芽」であるが故に、そういったものに変身しやすいようだ。ナツメグの方が、入倉の成分もあってかちょっとオシャレに聞こえる、とどうでもいいことを考える夏芽。
侑士が笑う。揶揄っている時の笑いだ。
「冗談だって。オレが入倉さんをもらうから、ナッツと東堂で行ってきなよ」
夏芽は入倉の様子を窺ったが、彼女は腕を組んだまま何も言わずに佇んでいた。続けて椿希を見上げる。彼にも反論や異議を唱える気はないようだ。
「じゃあよろしくな、夏芽」
「う、うん!」
二人が出かけようと身を翻した瞬間。後ろから入倉が声を上げた。
「あ、朝帰りなんて不健全な真似、許さないからね!」
「ンなことしねえよ。早寝早起き病知らずってな。二十一時には戻る」
「行ってらっしゃい、ナッツ」
「行ってきます、侑士くん、入倉さん」
夏芽は二人に手を振って、椿希とともにコテージを出た。笑顔を浮かべて手を振り返していた侑士は、彼等の姿が見えなくなると同時に手を止め、玄関の方を見たまま言う。
「入倉さんって、難儀な性格してるよねー」
「ふん。それより侑士、ちゃんとエスコートするのよ。アタシの隣に立てること、光栄に思いなさい」
「わかっていますよ、お嬢様」
――祭り会場へは徒歩十分。この辺りの地理に詳しくない夏芽たちでも迷うことなく行けたのは、そこが騒がしかったから……だけではなく、入倉が送ってくれたしおりにルートを書いてくれていたからでもある。花火大会に備えて穴場のスポットもいくつか紹介してくれており、彼女がどれだけこの日を楽しみにしていたか、どんな様子で資料を用意したのか、手に取るようにわかってしまう。
通りは大勢の人でごった返しており、片道を通り抜けるだけでも四十分ほどかかってしまった。椿希は周りと比べて頭一つ飛び出ているので見失うことはないが、彼を目で追っていると出店を確認することができなかった。一度道を通り抜けてそう椿希に素直に打ち明けると彼は笑って、じゃあ今度は右側だけ一店舗ずつ見ながら行くかと言ってくれた。
カラ、コロ、と下駄の音を控え目に鳴らしながら、夏芽と椿希は店を吟味する。焼きそば、お好み焼き、焼きもろこしは定番、ソースの匂いに何度頬を緩ませたかわからない。かき氷に綿あめ、チョコバナナにも財布の紐が緩んでしまう。絶対に金銭的利益は得られない籤、手に入れられそうで手に入れられない射的、幻のドジョウ掬いも、皆が楽しそうで、隣の椿希も楽しそうで、夏芽はそれだけで幸せだった。
夕方まではあっという間で、完全に日が落ちる前に、二人は通りを抜け、少し離れたところにある穴場スポットの一つに向かった。どうやら入倉家の敷地内らしく、他に人の姿はない。友人たちの姿も。目下には人が溢れているのに、ここは夏芽と椿希の二人だけしかいないのだ。
「夏芽、ここなら腰を落ち着けて食べられそうだぜ」
「うん!」
丁度良く設置されたベンチに並んで座る。パックに詰められたふわふわとろとろのたこ焼きを前に、夏芽の胃袋は我慢の限界を迎えた。「いただきます」を早口で唱え、楊枝で拾い頬張る。あつあつで美味しい。夏芽は夢中になって食べた。
「あーあ、ソース付いてるって」
椿希は言いながらティッシュで夏芽の口角に付いたソースを拭ってくれる。仕方のない子をそれでも気遣うような面差しが、なんだか子を可愛がる親みたいだと思いながら、夏芽は礼を伝えた。
「椿希くん、健康に悪いって言わないんだね? 食べ過ぎだとか」
「あ? まー、祭りだしな、ンな野暮なこたあ言わねえよ。それに俺はただの保体係で、医者じゃねえ」
「ふふ、そっか」
ほどなくして、花火が一発、また一発と打ちあがり始めた。途端に下から歓声が聞こえる。食事を終えた夏芽は袋に空のパックを入れ、花火を見上げてわあと嘆息した。
「大きいねえ」
「ああ、そうだな」
夏芽は夜空に花が咲き誇る度に、無邪気に声を上げる。菊、牡丹、椰子、ハート、花雷……様々な花火が夜を照らしては消えていく。夏芽は暫く、相次ぐ破蕾に目を奪われていたが、椿希は楽しんでいるだろうかと、ふと隣を見た。
「……椿希くん、どうしたの?」
だが、椿希は花火からも夏芽からも顔を逸らし、背を丸めていた。ひょっとして具合が悪いのだろうか。さっと青褪める心地になった夏芽は慌ててその背を擦ろうとするが、それは彼の言葉によって阻まれる。
「悪い……夏芽、俺……」
椿希が身体を起こし、横目でちらりと夏芽を見たが、またすぐに向こうへ視線を遣ってしまう。彼らしくもない歯切れの悪い言葉に、いよいよ夏芽は心配になったが、彼が落ち着いて話せるようになるまで待つことにした。夏芽が診たところで、彼の症状はわからない。
そうして、口を手で覆っていた椿希は、その手をようやく外して、徐に口を開いた。
「俺、お前を見てたら……なんか、無性に……その……手を、繋ぎたくなったんだ」
「え……?」
予想外の言葉に、夏芽は目を見開く。夏芽のその反応は彼も見越していたものだったのか、すぐさま弁解するように続けた。
「お、おかしいよな、こんなのっ……! 俺、あんだけ身体の繋がりじゃなく心で繋がることを知りたいって思ってたのに、どうして急にこんな、こと……!」
幻滅、するだろ。
椿希はそう言ったが、きっと椿希自身がその衝動に駆られた自分に幻滅したのだろう。彼の震える手が、震える肩が、震える声が、そう訴えている。
――けれど、そんな感覚に陥る必要は、一切ない。
「おかしくないよ」
はっきりと、花火の音よりはずっと小さいけれど、春の訪れとともに力強く芽吹く花のように、夏芽は言い切った。その声は、きちんと椿希に届いたようだ。こちらを向いた上下する睫毛が、まだ微かに震えている。
「夏芽……?」
「椿希くんは、おかしくなんかない。もしも君がおかしいのなら、僕だってそうだ」
「……それって、どういう……?」
椿希が問う。その姿が道に迷った幼子を思わせたから、夏芽は彼を優しく導けるよう、柔和に微笑んでみせた。
「好きだから、手を繋ぎたいって思うのは、きっと自然なことだよ」
「好き、だから……?」
鸚鵡返しにされる言葉。確かに頷くと、椿希は俯いた。
胸に手をやった彼は、何度か瞬きをして、そして、その手を握り締めた。
「ああ……そっか。そういうモン、なんだな……」
この数カ月、何度か聞いた文言。だが今の彼のその呟きは、以前までのものとは違う――自身の経験を伴う得心により、溢れたものだった。その証左に、椿希の顔は喜悦に染まっている。夏芽もそれを知り、静かに椿希の感情の綻びを喜んだ。
「夏芽」
彼の瞳が、夏芽を映す。花火の光を浴びながら、真摯に輝く瞳が、夏芽だけを。この瞬間は、いつもまさしく、夏芽と椿希、二人だけの時間。
「お前が好きだ。だから……どうか、この手を繋がせてほしい」
「――はい、喜んで」
差し伸べられた手を、そっと握る。指先を絡めるとピクリと跳ねたが、それが解かれることはなかった。
繋いだ手をベンチの座面に落ち着け、互いの体温を感じながら花火を見上げる。会話は無かったが、言葉以上の気持ちが、指先から間違いなく伝わってきた。
終盤の乱れ打ちが始まる頃、椿希が花火から視線を動かさないまま唇を動かす。
「ようやくわかったよ。熱中症でもないのに顔を赤くしたお前の様子が変だった理由」
「えっ」
「こりゃあ顔赤くなるし、様子もおかしくなるわな。これが、好きって気持ちなのかよ」
からりとした笑いに、夏芽も笑みを返す。様子がおかしいと思われていたのは心外だが、わかってくれたならよしとしよう。
どうやら椿希の唇が閉じるのはまだのようで、彼は言葉を続けた。
「あ、そうだ。ずっと言いそびれてたんだけどさ」
「うん、なあに?」
「そのメイク」
夏芽は僅かに身構える。前にメイクをした時、椿希にあまり良い反応はされなかった。それは夏芽が自分の不調を隠すためにやったことだったが、今回もやはり注意されてしまうだろうか。今度は体調が悪いわけではないのだけれど。
緊張しながら椿希の様子を窺うと、椿希は夏芽を見て、蕩けるような笑みを浮かべた。
「浴衣に合ってる。綺麗だ。そんなお前が隣にいてくれて、すごく幸せだよ」
ドクン。
大きく心臓が脈打った。何かの病気かもしれない、なんて思わないけれど、彼とこれからも視線が交わるのならば、病気でも一切構わないと夏芽は思う。
「僕も……僕も、すごく幸せ」
大好きだよ、椿希くん。
口にはしない代わりに、絡めた指に力を込めた。
✻
こうして、入倉家別荘での三泊四日は終わりを迎える。
花火大会の夜が明けて、朝起きてきた夏芽は侑士に「おめでとう」と言われた。椿希と結ばれたことは、まだ誰にも報告していなかったのに。そう思ったことが顔に出ていたのか、侑士は笑った。そしてもう一度、「おめでとう」と凪いだ口調で告げた。
夏芽はやはりわかりやすいのだろうか。潤一や新宮たち他の友人にも、椿希との関係の成就に拍手でも送りたそうな雰囲気を醸された。嬉しいような恥ずかしいような、どうにも面映いことである。
入倉は……特に何も言ってこなかった。夏芽に対しても、椿希に対しても。ただ、自分が背中を押したのだから当然だと、それだけ伝えられた。確かにその通りだと、夏芽は彼女に礼を言ったが――ムッとした顔をされた。
三時間のリムジン乗車の後、夏芽はわが家に帰ってきた。家の距離を考えて、最初に下ろされたのは夏芽である。
「またな、賀集」
「賀集くん、またね」
「また遊ぼう、カシューくん!」
「ま、またね、賀集くん……っ」
「じゃあね、ナッツ」
「もう車を出すわよ、夏芽」
開いたスモークガラスの向こうから、皆が口々に別れの言葉をかけてくれる。それに応えながら手を振っていると、ふと彼と目が合う。
夏芽を優しく見つめる、東堂椿希の姿。
「また会おう、夏芽」
「椿希くん、皆、ありがとう。またね!」
窓が閉まる。エンジン音を響かせないまま、リムジンは発車した。その黒はすぐに見えなくなり、束の間余韻に浸っていた夏芽は身を翻し、自宅の玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり、夏芽」
両親の声が揃った。
この数日間で、土産話が抱えるほどできた。まずは何から話し始めようか。それを考えるだけで、夏芽の口角は自然と上がる。
(――よし、決めた。まずはあのことから)
胸の内で結論づけた夏芽は、帰りを待ってくれていた両親に向けて、話し始めたのだった。
真夏の太陽よりも、揺れる海よりも、夜空を彩る花火よりも、美しく輝く思い出を。
【終章】薄暮に重なる靴音
始業のチャイムが鳴る前。生徒たちは各々の思う場所で友人たちと語り合う。夏休みが終わったのは一週間前とはいえ、話題は尽きないようである。賀集夏芽の、私立翠清学園高等部一年目の生活の夏休みの話題は、とっくに尽きたというのに。
「憂鬱そうな顔だねー、ナッツ」
「侑士くん……」
机に突っ伏していると、親友の剣持侑士がニコニコと笑いながら夏芽に言った。どうしていつも彼は楽しそうなのだろう。元気の秘訣を知りたいところだ。
「憂鬱っていうか……ほら、夏休み後って、大きなイベントが続くじゃない?」
「体育祭と文化祭?」
「そう。僕、どちらの出来も微妙だから。ここの学園のお祭りごとって、ハイレベルそうで」
夏芽のような、平々凡々な一生徒には荷が重いことが続くのではないかと心配なのだ。そう打ち明けると、侑士は夏芽の前の席に座った。席替えで二人は前後になったのだ。
「大丈夫だって。ナッツにはつよーい味方がいるでしょ?」
「えっと……思い当たる人が、何人か」
「そ。だから大船に乗ったつもりでいな」
勿論オレも助けになるから、とウインクを決める侑士の姿には、彼がそう言うなら大丈夫そうだという気持ちが湧くからすごいことだ。
「特に山岡なんか、ウッキウキで体育祭の練習に付き合ってくれるよ」
「ふふ」
「それにこのクラスには広瀬がいる。企画内容、完成の出来、集客、文化祭ベスト出展賞は恣だって」
「やっぱり文化祭にもそういうのあるんだ……」
文化祭でもその手の勝負事が繰り広げられるなんて、競争力と向上心の高い生徒ばかりのこの学園らしい。けれど、友人である山岡潤一と広瀬歩、二人に頼り切りになるわけにはいかないだろうというのが、夏芽の持論である。
「でも、二人にも恋人がいるから……二人きりの時間は、なるべく確保してあげたいな」
「ナッツは優しいねー」
「そ、そう? 普通だと思うけど……」
夏芽にとっては、皆とわいわいはしゃぐ時間も、想い人と二人でくつろぐ時間も、どちらも愛おしくて仕方がないから、そう思うだけだ。今の夏芽には、どちらかというと想い人といる時間がほしい。それはなかなか叶わないのだけれど。
「あ、そうだ。お祭りといえばさ」
「うん?」
「侑士くんは入倉さんとお祭りを巡ったでしょう? どうだった?」
ずいと前のめりになった夏芽に、侑士は目を瞬かせた。
夏休みのお祭り。侑士は計画の立案者である、隣のクラスの入倉恵とともに廻っていた。その時の話をまだ聞いていなかったのだ。夏芽は興味津々である。
「もしかして、オレと入倉さんのラブストーリーを期待してるの?」
「うん!」
即座に頷くと、正直だなあと呆れ笑いを返された。どうせ誤魔化したところで、悲しいかな、すぐに看破されてしまうのである。であれば、最初から隠さず素直に言った方がややこしくない。
夏芽からの期待の眼差しに、しかし侑士は動じなかった。
「残念。なーんにもなかったよ。ナッツが期待するようなものは、何も」
「ほ、本当に何も⁉」
「本当に何も」
……真実だろうか? 侑士はいつも笑顔を浮かべているから、何カ月付き合っていても、どうも本心が読めない。ここでの生活が始まって以来、侑士が夏芽のサポートをしてくれているのは身に余る光栄だけれど、たまには夏芽とて恩を返したい。だから侑士に想い人がいるのならば、夏芽にできることはしたいのだ。
「オレの好きな人は、彼女じゃないし」
「ふーん……」
とはいえ、こうもきっぱりと言われてしまえば、それ以上追及することもできまい。夏芽は腰を自分の椅子に落ち着けた。
入倉はどうしているだろう。否、考えるまでもなく、彼女もまた自分磨きに精を出しているに違いない。だって彼女は、完全に想い人を諦めたわけではないのだから。いつだって、夏芽の動向に目を光らせている。ただし夏芽がまた無理をしかねないと判断したためか、彼女からすれば見張るというよりは見守るというスタンスのようだが。
するとそこで、教室の扉が開いた。クラスの誰も彼もに挨拶を向けられるのは、担任教諭……ではなくて。
「東堂くん、おはよう!」
「東堂おはー」
「椿希、おはよう」
「おはよ」
登校してきたのは、東堂椿希。このクラス一番の人気者で、ムードメーカー。A組の保健体育係。そして同時に、彼は夏芽の恋人でもある。
いつも通り、登校した途端大勢の生徒に囲まれる彼と、夏芽が付き合っているだなんて、他の生徒は思いもしないだろう――と夏芽は自信をもっているが、実際はとうにクラスの大半に悟られている。賀集夏芽はどこまでもわかりやすいのだ。
その後、チャイムの直後に教室に入ってきた担任の号令で、また新たな一日が始まったのだった。
第二理科室。ここでは生物や地学の授業が行われるが、今は放課後のため静まり返っている。とはいえ、誰もいないというわけではない。彼――東堂椿希が立っている。ガラスの向こうの、人体模型と骨格標本を眺めながら。
小学生の頃から、授業の前後には理科室に設置されたそれらを見るのが好きだった。人体の不思議は、いつでも自身の知的好奇心を煽り、未知の世界を教えてくれた。身体の仕組みを、知れば知るほど没頭していった。己の好奇心を満たすため、なりふり構わっていなかった自分は、少々他人の、所謂倫理からは外れていたように思えると、今は自省している。ギリギリ一線は越えない程度の倫理観は持ち合わせていたのがせめてもの救いか。
黄昏時の静寂の中で、ただ回顧しながら立ち尽くしていたために、開いた教室の扉のそばにやって来た姿に気づくことはなかった。
「椿希くん?」
「おわあっ⁉ あ、な、なんだ、夏芽か……」
「ご、ごめん、驚かせて」
眉を下げた賀集夏芽は教室に入り、こんな所で何をしているのかと椿希に問う。不意打ちにバクバクとうるさくなった心臓を落ち着け、調子を取り戻した椿希が、ちらりと模型に視線を寄越した。
「そろそろこいつらともお別れかと思ってよ」
「お別れ?」
「ああ。これ以上、身体を透かして見る必要はない」
予想だにしないことを言い放った椿希に、目を見開く。慌てて彼に自分の気持ちを表明した。これだけは、何があっても譲れないから。揺るがないから。
「僕、椿希くんに診察してもらうの、好きだよ」
「わかってる、それは辞めねえよ。けどこれからは、もっと心を透かして見たいと思った」
彼が模型から夏芽へと視線を注ぐ。彼はもう、二度と模型の方を見ない――そんな予感をした夏芽は、椿希の言葉を待った。形の良い唇が、緩やかに弧を描く。
「お前が俺の心の発達を診てくれたように、俺もお前の心を診られるようになって、お前に寄り添いたいんだ。他のやつにもな」
「椿希くん……」
まさか彼にそんなことを思ってもらえていたとは。夏芽は驚くとともにじんわりと胸が温まるのを感じた。だから、そう。つい、望んでしまうのだ。
「ねえ、僕を診て」
「は? でもお前……」
「いいから。お願い」
突然の申し出に困惑する椿希だったが、恋人にそう言われては無碍には出来ないようだ。向き合って屈み、自らの手を夏芽の首筋に添える。熱烈な眼差しを感じるものの、今はそれに応えられない。
理科室に、微かな息遣いは残りながらも、また沈黙が横たわる。
「――……異状はねえよ?」
何か調子が悪い所があってはいけないと思いじっくり診察したが、自分が直感していたようにやはり夏芽の身体が不調を訴えている様子はない。手を離して告げて表情を窺うと、夏芽は満足そうに笑っていた。
「ふふ、うん。わかってる。ごめんね、僕が君の瞳を見つめたかっただけ」
「夏芽……」
診察中の椿希の瞳を見つめられたのが余程嬉しかったのが、随分とご満悦のようである。椿希としては、そういった反応をされるのはこそばゆいが、全く悪い気はしない。それどころか診察中であろうとなかろうと、もっと見つめてほしいとさえ思うのは、きっと椿希が夏芽のことを想っているからなのだろう。
ようやく理解した感情の赴くまま、診察ではなく、表現として、椿希は夏芽の頬を撫ぜた。
「俺を見てくれてありがとう、夏芽。俺を見つめてくれたのがお前で、本当に良かった」
「僕こそありがとう、椿希くん。いつも僕を見透かしてくれる君の存在が、僕の心臓だ」
思いの丈を打ち明け合い、微笑む二人。暫くそうしていたかったが、最終下校時刻のチャイムが鳴るまでここにいるわけにもいかない。此処は二人きりになる場所として然るべきものではないのだ。
「そろそろ帰るか」
「うん、そうだね」
言葉を交わしてやおら動き出す。しかし教室を出る前に、椿希は夏芽を呼び止めた。どうかしたのかと振り返ると椿希はもぞもぞと躊躇いながらも、意を決したように――片手を差し伸べた。
その意図を汲み取った夏芽は、その手に自分の手を重ねる。一回り大きな手にしっかりと包まれ、その温もりを感じながら歩き出した。
九月の夕焼けに見守られ、繋がった二つの影が伸びる。その影は離れることなく、この先もずっと、ともに寄り添い続けることだろう。いずれ身体は滅びようと、互いが互いを思いやる心は、想い合う心は、永遠不変なのだから。
終
