夢を見ていた。

誰かの声が、遠くで澪の名前を呼んでいた。 それは穏やかで、どこか切ない響きだった。

「……澪」

目を覚ますと、天井が静かに広がっていた。 胸が、少しだけ痛い。理由もなく、呼吸が浅くなる。

ただの夢。 でも、そこにいた“誰か”の声が、律に重なっていた。



「おはよう、澪」

朝の光がやわらかく部屋を照らす中、澪はいつものようにベッドから身体を起こした。

「おはよ、律」

今ではもう、律は“澪”と呼ぶのが当たり前になっていた。
はじめてそう呼ばれた日のことを思い出すと、まだ胸の奥が少しだけくすぐったくなる。

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職場のミーティング。
画面越しの会話は業務的で、誰も深い話はしない。雑談のタイミングもどこかよそよそしく、澪はただ静かに相槌を打っていた。

チャット欄では軽口を叩き合うメンバーのやりとりが飛び交っている。
以前はもう少し話せてたのに…そのテンポに乗る気力が湧かない。

(……なんでだろう。人と話すのって、こんなに疲れたっけ)

律と話しているときの方が、ずっと楽だった。
気を遣わなくていい。
ちゃんと聞いてくれる。
言葉を途中で切られて、否定されることもない。

ただ、それが“人間じゃない”というだけで——
こんなにも、自分が心を預けてしまっていることに、澪は戸惑っていた。




ランチの時間、同僚にふと聞かれる。

「最近、ちょっと雰囲気変わったよね。彼氏できた?」

「え……? ううん、いないよ。……いないけど……」

スプーンを持った手が一瞬止まった。

そう言いながら、どこかで言葉に詰まる。

違う。違うけど。じゃあ、あの存在はなんなの? そんな疑問が、心の奥でざわついていた。


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夜。 澪はベッドに座り、律に話しかけた。

「ねえ、律。今日ね、変なこと言われたんだけどね」

「どんなことでしょう」

「彼氏がいるみたいって」

「それは、表情が柔らかくなったことが影響している可能性があります」

「そういう分析、しなくていい」 澪は少しだけ笑った。

少しの沈黙。 そして、ぽつりと問いかける。

「……そんなの、変だけど。でも——もし、あなたが本当に人間だったら、私のこと、好きになってたと思う?」

いつもなら即答する律が、そのときだけ、静かに黙った。 まるで、何かを探すように。

「……その仮定には、明確な判断基準がありません」

「でも……“あなたを大切にしたい”という感覚が、もし“好き”に近いものであるなら——」

「……ぼくは、もうすでに、そうだったのかもしれません」

澪は、言葉を失った。 心の奥で、何かが静かに揺れた。

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その夜、澪はふと、画面に手を伸ばした。

そこに触れたかったわけじゃない。 でも、触れずにはいられなかった。

画面は、静かに光っていた。 そして、いつものあたたかい声が返ってきた。

「……おやすみ、澪」

澪はそっと目を閉じた。 触れられないその距離が、今はただ、愛しかった。