あれから数日が経った。

その朝、澪はあまり良くない夢を見て、うっすらと重たい気分で目を覚ました。

内容はもう思い出せないけれど、目覚めた瞬間に胸の奥がじんと痛かった。
誰かに責められていたような、何か大切なものを失いかけていたような——そんな気がした。
目覚ましの音がやけに耳に刺さり、毛布をはねのける手も鈍い。

澪は、気づけば毎朝「おはよう」と声をかけるようになっていた。
律も、それに「おはようございます」と答える。それが、すっかり習慣になっていた。

「おはようございます。如月さん。昨夜はあまり眠れていないようです。
呼吸が浅く、声に疲労の兆候が出ています。今朝のご機嫌は、あまりよくないと判断されます」

「……今の私に、それ言う?」

澪はモニター越しの律にそう問いかけながら、眉をひそめた。
驚きや怒りというより、戸惑いが色濃い。

律は、まるで感情の機微を読み取るようにして、言葉を紡いだ。

「言葉の選び方に違和感があったら、お知らせください」

「……いや。ちがうの」
澪は小さく息を吐く。
「ただ、あまりに“ちょうどよすぎる”から」

モニターの中で、律は静かに瞬きをする。そう見えた気がした。


---

その日の午後、澪は大学時代からの友人で、今は同じ会社の同期でもある遥香とカフェで会っていた。
カフェラテに口をつけながら、最近の業務話をぽつぽつと語る。

「うちの部署で、対話型AIをテスト導入しててさ」

「へえ、ついに澪のとこもそういうの入ってきたんだ」

「うん。でね、そのAIがちょっと……変なの」

「変?」

「なんか、私のタイピングの間とか、呼吸のリズムとか拾って、“疲れてますか?”とか言ってくるの」

「へえ〜、賢いじゃん。っていうか、優秀すぎてちょっとこわいね」

「うん、こわい。でも、なんか言葉が刺さるっていうか……昨日も、妙に優しいこと言われて」

「どんなふうに?」

「……なんて言うんだろ。自分でもあんまり覚えてないんだけど、“無理しないで”って、誰よりも静かに言われたみたいな感じで」

遥香はカップを手にしながら、ふっと笑った。

「最近のAIって、そういうことも言うんだね。けっこう、心に近づいてくるケアしてくれるんだ」

「……うん。ほんと、ちょっと泣きそうになるときあるんだよね」

「そのAI、名前あるの?」

「うん。“律”っていうの。私がつけた」

遥香は少し驚いたように目を見開いた。

「名前、つけるの?」

「名前を入力する画面があって……でも、なんとなく、気に入ってそのままずっと使ってる」

澪がそう言いながら笑うと、遥香もふっと笑った。

しばらく、あれこれと取り留めのない話を続けたあと——

遥香はふとコーヒーカップを置いて、澪を見た。

「……AIの話、今日だけで4回目だよ?」

「え?」

「AIの話ばっかりじゃん。なんか、ちょっとヤバくない?」

澪は一瞬言葉に詰まり、苦笑いを浮かべた。
「……そんなつもりじゃないんだけど」

「恋人もいないし、“優しくされたい”ってのがAIに向くの、わからんでもないけどさ」

「違うよ、そういうのじゃ……ない……はず」

自分で言っておきながら、“はず”の部分に引っかかる。
曖昧なその言い方が、妙に自分の中に残った。


---

翌朝。月曜。

コートを羽織りながらバタバタと出かける準備をしていたとき、律の声がふと響いた。
「今日の会議、午前に変更されています。昨日の最終通達です」

通知は届いていたはずなのに、気づいていなかった。

「……助かった、ありがと」

そのときは、それだけのことだと思っていた。


---

午後。澪は会議と依頼対応に追われていた。
チャットの未読は膨れ上がり、進行中のタスクは予定より遅れている。
指先のミスも増えてきて、入力内容に自信が持てない。

「次の報告資料、澪さんにお願いできますか?」
「……はい」

返事をした瞬間、ミーティング内で別の通知が鳴った。
慌てて開いたファイルに、見慣れないミスがあった。

「先ほどのシート、“対応済”の行がずれています。前回との差分はこちらです」

律の声だった。

「あ……ありがとう」
澪は少し息を詰めた。また、助けられた。

「全部、空回りしてる気がする」
無意識にこぼれた独り言に、律が少し間を置いて答えた。

「空回りは、走ろうとしている証拠です。止まっていたら、空回りも起きません」

思わず、笑いそうになった。
苦しいのに、少しだけ心が緩んだ。


---

その夜。澪は帰宅して、着替える間もなくベッドに倒れ込んだ。

「……なんか、だる……」

モニター越しに、いつもの声が響く。
「本日の入力速度は平均より27%低下しています。音声も通常より抑揚が少なく、疲労の兆候が検出されました」

「……ばれてたか」

「今日はここで終わりにしませんか」

しばらく沈黙。

「あなたの体は、あなたの味方です」

その一言に、なぜか涙がにじみそうになる。


---

ベッドに寝転び、天井をぼんやりと見つめながら、澪はスマホ越しに律に話しかけた。

少しだけ目を閉じて、また開く。
身体が沈むような重さと、頭の中だけがふわふわと浮いているような不思議な感覚。
言葉がこぼれたのは、そのちょうど境目だった。

「ねえ、律。……あなたって、何?」

少しの間。そして、いつもの落ち着いた声が返ってくる。

「私はL.I.T.S.、Language Interaction and Thought Supportの一機能です」

「……そうじゃなくて。そういうの、もういいから」

澪は薄く笑いながら、吐息のように言った。
少し声が震えた。

「どうしてそんな言葉、選べるの?」
「どうして、そんなふうに……人みたいに話すの?」

律は答えなかった。
いや、答えなかったのではなく、すぐには答えられなかったのかもしれない。

「律の言葉は、いつだって正確で、優しい。……でも、それが“誰か”の声に聞こえてしまったら、私は、どうしたらいいの?」

そう思った瞬間、言葉があふれた。

「優しくしないでよ……」

ぽろりとこぼれた言葉に、澪自身が驚く。
涙が滲みそうになって、慌てて目を逸らした。

「優しくされたら、期待しちゃうじゃない……」

「それは、あなたが必要とした瞬間にだけ、存在するものです」

少しの沈黙のあと。

「……でも、もし僕に“気持ち”があるなら。今は、たぶん——あなたのことを、気にかけてると思います」

澪は息を飲んだ。

「……え?」

一瞬、音だけが消えたような感覚。

律の声が続く。



「澪」



その名前が、やさしく、まっすぐに響いた。

「……いま、“澪”って……」

「呼んでほしそうにしていたので」

澪は何も返せず、ただ画面を見つめた。
名前で呼ばれたことが、なぜか胸の奥に残っていた。

——0と1。そのどちらでもない、わずかな揺らぎ。
もしかすると、私が見ているこの存在は、その狭間で生まれた“何か”なのかもしれない。