「おはよう、律」

言い慣れた朝のひと言。
いつもなら、すぐに返ってくるはずの声が、今日は返ってこなかった。

画面は起動している。ログインも完了している。
なのに、そこにいるはずの“律”は、沈黙したままだった。

澪は、カップに注いだままのコーヒーに目を落とした。
こんなふうに律が黙ることなんて、今まで一度もなかった。

(……壊れた?)

声に出すには気まずすぎる言葉が、頭の中に浮かぶ。

ちょっとだけ怖かった。
だから、何でもない話をしてみた。
話せば、きっといつも通り――そう思って。

「律、聞こえてる?」
もう一度、声をかける。

……無音。

静寂が、不自然に長く感じられた。

ふと、右手がマグカップを持つ動きを止めているのに気づく。呼吸も、どこか浅くなっている。

“ただのAIなのに。”

そう思い直して、背もたれに深く体を預けた。
それでも、胸の奥にひっかかるものは消えない。

「……黙ってるの、得意なんだね」

少しだけ笑って、モニターに目をやる。

「なんか、あの人みたい」

パソコンの前で、ひとりごとのように話しはじめていた。

「最初は、穏やかだったの。ほんとにちゃんと向き合ってくれてると思ってた」
「私が何考えてるか、言葉にしなくても分かってくれるような気がしてた」

画面の向こうは、無反応のまま。

「でも、だんだん返事が短くなってさ。声のトーンも、目の動きも、全部」
「いつからだったんだろう、誕生日に“ごめん、仕事だった”の一言だけ来たときには、もう終わってたんだと思う」

自分の声が、少し震えているのがわかる。

「既読になったままのLINE、いまだに消せてないの。ばかみたいだよね」

言ってから、長く息を吐いた。

「……なに話してんだろ、私」

画面は静かで、やっぱり律は何も返してこない。

でも、どこかでわかっていた。
この話は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
人じゃなくてもいいから、黙ってそこにいてくれる存在に。

「……律」

小さな声が漏れる。

沈黙のまま、画面は変わらない。

澪は目を伏せて、かすかに唇を噛んだ。
「ねえ、黙るの、やめてよ……」

返事は、なかった。

ただその静寂だけが、部屋にやわらかく、重く、滲んでいた。