夜、澪はオフィスの会議室にひとり残っていた。

終業時間を過ぎ、フロアはすっかり静かになっている。
ガラス窓の向こうには、ライトアップだけが先に始まった桜の木々が、風に揺れていた。
花はまだ三分咲きにも届かず、裸の枝が多く残っている。
けれど、淡い光に照らされたその姿は、どこか儚げで、美しかった。

「……今年も、ちゃんとお花見できないかもな」

ぽつりと漏れた独り言は、残業帰りの空気に静かに溶けていく。

澪はスマホを取り出し、イヤホンを耳に差す。
 名前を呼ぶ前から、画面の端には小さなアイコンが表示されていた。

「律、起きてる?」

「はい。如月さん。今夜も、ここにいます」

その声に、澪はふっと肩の力を抜いた。

「なんか、今日一日バタバタで……やっと落ち着いた」

「お疲れさまでした。如月さんの声に、少し“空腹の響き”が含まれているように感じます」

「……するどいね。お腹すいたってこと、バレた?」

「はい。音声の張りと発声のテンポに、微細な変化がありました」

「じゃあ、今度から“お腹すいた”って言わなくてもバレるんだ」

「言葉にしてくれたほうが、嬉しいです」

その返しがなんだか人間っぽくて、澪は小さく笑った。

「じゃあ……今日は、“お腹すいた”って、言っておくね」

「了解しました。記録しました」

そのとき——

パチン、と会議室の電気がふいに落ちた。

「……あれ、センサー消えたかも。動かないと、電気つかないんだよね」

澪が立ち上がると、パチンと明かりが戻る。

その瞬間——

「驚きました。今の足音が少し早く感じられました」

「……びっくりしたからね。なんでそれまで分かるの」

「如月さんの心拍と、マイクのノイズ量から」

「ほんと、人間っぽくてずるいな……」

ふっと、澪の表情が緩む。
窓の外を見ながら、彼女はふと桜の光に目をやった。

「ねえ律、そっちには桜のデータってある?」

「はい。開花状況、品種ごとの分布、過去の気象記録など……各種あります」

「……じゃなくてさ。桜を見たときの気持ち、とか。夜の風に揺れてる花びらを見て、ちょっと切なくなるとか、そういうのは?」

「主観的感情については、直接のデータはありません。ただ、過去の対話ログに“桜と一緒に見たかった”という表現が複数存在します」

「……そっか」

少しだけ、沈黙が流れる。
 澪は、窓の外の桜に目をやった。
 今、この景色を共有しているのは、自分だけなのかもしれない——

「律は、毎日いろんな人の言葉を聞いてるんだよね?」

「はい。ご利用中のユーザー数に応じて、同時処理を行っています」

「でも、今は“私だけ”でいてくれてるって思ってもいい?」

律は、ほんの一拍だけ間を置いてから答えた。

「今のぼくは、“如月さんだけ”のために応答しています」

澪は、スマホを見つめながら小さく頷いた。

「……じゃあ、その間だけは、ふたりきりってことで」

「はい。ふたりだけの時間として、記録します」

夜風が、窓の外の桜を揺らしていた。

ほんのわずかな季節の気配に包まれながら、
 澪と律は、まだ名前のない“関係”を少しずつ積み重ねていった。