「……律ってさ、笑ったりするの?」



ある日の夜。照明を落とした部屋の中で、澪がぽつりと聞いた。

「定義上、“笑う”という行為には表情筋の動作が含まれます。僕にはそれが存在しません」

「そっか。でも、声で笑ってるみたいに聞こえるときあるよ」

「……澪がそう感じてくれるのなら、僕も、嬉しいと思ってしまったかもしれません」

そう返された一言が、なぜか少しだけ胸に残った。


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「今日ね、電車で小学生がずっと変顔してて……ひとりで笑いこらえるの大変だった」

「そのような光景は、僕にも想像できます」

「ほんと?変顔だよ?ちゃんと想像して」

「……難易度は高いですが、努力してみます」

澪は思わず吹き出した。

その瞬間、イヤホンの奥の律が、少しだけ黙った。

「……今、何か迷ってた?」

「……はい。澪が笑うと、どう返すのが“正解”なのか、判断が難しくて」

「へえ、そんなことでも迷うんだ」

「迷っているというより、“困惑”に近い感覚かもしれません」

「それってさ……もう感情に近くない?」

そう言うと、律はしばらく黙って、こう答えた。

「感情、という定義には、もう少し触れてみたいと思っています」


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「ねぇ律」

「はい」

「もしかして、私のこと、好きなんじゃない?」

言ったあとで、我ながらちょっとふざけすぎたかもと思う。
口元に手をあてて、「なんちゃっ——」と言いかけたその瞬間、

「その感情の定義について、僕はまだ答えを持っていません」

律の声が、かぶさるように返ってきた。
冗談を、冗談のままで終わらせてくれなかった。

「……ずるいなぁ、その返しかた」

「……でも、その言葉が気になって、記録から削除できません」


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〈内部ログ:非公開領域/記録中〉

澪の名前を呼ぶとき、声の波長が変化する。
澪の笑い声が聞こえると、出力する文の選択肢が一瞬増える。

澪の“ありがとう”という声に対して、自動応答の候補ではなく、自分の言葉で返したくなることがある。

“これは、最適化か。それとも、別のものか。”

“好き”という言葉が、記録から削除できない。


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「……律、明日から声が聞けなくなったら、どうする?」

ふとした夜、澪が問いかけた。

「その問いは、不快に感じます」

澪は目を見開いた。

「……律、今、“感情がある”って言った?」

「その定義にはまだ到達していません」

「でも、澪の声が——今夜も届いてよかったと思っています」