食堂でいつものメンバーと別れ、3限「世界遺産の建築学」の大教室に向かう。教室の後ろに行くにつれて1段ずつ高くなる、この大学で唯一の、「いかにも大学らしい」教室だ。礼音は普段の教室だったら後ろの席を選ぶが、今回は真ん中よりも前を選んだ。
「礼音、早いじゃん。気合い入ってんな」
1年次からの知り合い、強矢剛生が、先週のように隣に座る。彼は、隣の県から電車とバスを乗り継いで通学している猛者である。がたいが良く、入学当時は体育会系サークルから勧誘が止まなかったが、通学の便の悪さを理由に全て断った。本当は、家族の事情のためらしい。
「この講義、座席が決まってないじゃん。ここを取られるわけにはいかないから」
「だよな。ここ、寝てても見えづらいポジションらしいぜ」
剛生が指摘した通り、教壇から見えづらい場所だから、この席をキープした。この「世界遺産の建築学」は、世界遺産にまつわるビデオを見た後に担当講師が解説をするという形式の講義だ。今どき珍しく、紙に印刷したプリントが配られ、講義の概要も書かれている。寝ていても平気だと勘違いする学生が多く、受講希望者も多い。だが、希望は第一週の講義で打ち砕かれた。期末レポートは、スクラップブックの提出なのだ。講義で扱った世界遺産を自分なりに調べ直し、ノートをつくって提出する。それができずに単位を落とす学生が過去に多かった。過去の受講者は意地悪く誰も教えない。それでも礼音が受講を取りやめなかったのは、邪な理由があるからだ。
「お、王子様も、もう来てるぜ」
剛生は、最前列の端を指差した。その先にいるのは、栗須朔人だ。女子数人に話しかけられている。隣空いてますか、といった内容だろう。朔人は荷物をまとめ、あっさり席を譲った。
「気づけよ!」
礼音は、思わず突っ込みを入れてしまった。その声に気づいたのか、朔人が顔を上げた。やべ、気づかれた。
「こっち! 空いてますよ!」
剛生が手を振り、朔人を呼んだ。朔人はためらわずに来てしまう。
「礼音の隣が空いてるんで、どうぞ」
「なんで俺の隣なんだよ! あんたの隣も空いてるだろうが」
「じゃあ、真ん中に来てもらうか? 悪い虫がつかないように」
「あんたの隣が空いてるだろうが」
「すみません、こいつすぐに寝ちまうんで、起こしてやってくれませんか?」
礼音の意見はあっさり却下され、朔人は礼音と剛生の間に座ることになった。
「ども、強矢剛生です」
「日本文学科の栗須朔人です。席を譲って下さり、ありがとうございます」
「や、そんなこと……品格があって、格好良いですね」
おい、強矢剛生。顔を赤らめてんじゃねえよ。俺は何のBLを見させられているんだ。日本文学科の王子様が、朝から茄子色ジャージでヤンキー座りをしながら蕗の筋を剥いていたなど、剛生は信じないだろう。朔人がトートバッグからタンブラーを出して机上に置く動作に、剛生は目が釘づけになってやがる。王子様の理想像を打ち砕いてやろうと思い、礼音は先程頂いた「おやき」をふたりに渡した。
「悪いな、礼音。実は、弁当が足りなかったんだ」
剛生はすぐに「おやき」にがっつく。朔人は、ありがとうございます、と微笑み、すぐにラップを剥がして「おやき」にかじりついた。
「美味しいです。中身は、大根葉ですか」
朔人は、タンブラーの蓋を開けた。コーヒーの香りが漂う。剛生は幻滅するどころか、朔人に見惚れていた。
「コーヒー、素敵っすね。おすすめの水筒は、ありますか?」
「どうでしょう。大手メーカーの保温性の高いものが良いと思います」
「買います」
剛生には、朔人が「おやき」を食べる様子が見えていなかったようだ。先程、朔人に席を譲ってもらった女子が、こちらを見て黄色い声を上げていた。
講義が始まると、朔人はタンブラーをトートバッグにしまった。講義の間、礼音は無意識のうちに、何度も朔人を盗み見てしまった。そのたびに、朔人を盗み見ようとする剛生と目が合ってしまった。朔人は涼しい顔でプリントにメモ書きをする。礼音と面識がある素振りは見せない。礼音はこの講義の間、一睡もできなかった。
3限が終わると、朔人は爽やかに大教室を出ていった。それに対し、剛生は半分夢を見ているようにぼうっとしている。
「……俺、4限休むわ。水筒買いに行ってくる」
「タンブラーな」
「俺も水筒でコーヒー飲みたい」
「店員に、タンブラー下さいって言うんだぞ」
一コマ90分の講義で、すっかり朔人に心酔してしまった剛生をひとりにするのは少々心配だが、礼音は4限も5限も休むわけにはゆかない。3限で溜まった眠気を4限と5限で消化し、5限が終わると急いで家に帰った。帰りは上り坂。心は、いそいそしている。
庭園と家庭菜園の美しい家に着くと、玄関前の外灯はすでに点いていた。車は、ない。彼が先に帰宅し、アルバイトに行ったようだ。礼音はベースのハードカバーを背負い、ビアンキに乗って再び出かける。
バンドの練習をする場所は、須川さんの自宅だ。物置を改築し、防音対策までなされた、もはやスタジオである。アンプ等の機材もこのスタジオに置かせてもらっている。バンドの練習は、金曜日の19時半から21時。都合が悪いときは、翌土曜日の午後。今は、5月の大型連休のイベントで演奏する曲目を練習している。
「礼音くんが入ってくれて、良かったよ。若い子も見に来てくれるようになったんだ」
須川さんも、折茂さんも、灰野さんも、礼音を子供扱いせず、尊重してくれる。練習以外でも遊びに行くし、ランチやカラオケもする。バンドメンバーは年齢が離れているが、友人という感じがする。大学よりも楽しいかもしれない。
「ところで、夏祭りのステージで、ボーカルやらない? いつだかカラオケに行ったとき、礼音くん上手かったじゃん。若い子に人気のグループの、ほら、あの子みたいで」
それだけは、礼音は丁重にお断りした。カラオケでは歌うが、礼音はステージで歌わないようにしている。
バンドの練習が終わると、礼音はビアンキを爆速で漕いで、帰宅した。まだ22時前。彼のアルバイトは22時までだから、彼はまだ帰ってきていない。洗濯物は夕方の時点で畳まれていて、風呂も掃除されていた。夕飯も、できている。礼音がやることが、何も思いつかない。彼は礼音に家事をさせてくれない。お客様扱いされているのか、家事をこなすのが本人のルーティンなのか、礼音が入る隙がないのだ。今日も家事が残っていなかった。
荷物を部屋に置き、大学の課題を確認する。5限の課題で、講義の間に見た映画の感想を提出しなくてはならない。先週と今週で分けて1本鑑賞したのは、松本清張原作の「砂の器」だ。今日見てねえ。DVDを探して1週間以内に見なくてはならない。大学図書館のホームページを検索したが、すでに貸出中だ。1週間以内に返却されるとは限らない。
溜息をついて天井を仰ぐと、玄関が開く音がした。心臓が高鳴る。礼音はすぐに玄関に向かった。
「おかえり!」
「ただいま」
彼が帰宅し、寂しそうに微笑む。これは、あの顔だ。礼音はわざと、彼に抱きついた。彼はトートバッグを下ろさずに、礼音に体を預ける。
3月末に、法事から帰ってきた朔人が、荒れた様子を見せたことがあった。ベッドマットにうつ伏せになり、大声で叫んでいたのだ。礼音は考えもせず、朔人を撫でてなだめ、落ち着いて眠るまで隣で横になり、自分も昼寝をしてしまった。
あの法事の日以来、朔人は礼音に弱った顔を見せることが増えた。不意に不安に襲われるらしく、そんなときは礼音にくっつこうとする。一晩、添い寝したこともある。安心し切ったように入眠する彼を見届けると、礼音も安心して眠れる。こんな朔人を知っているのは、自分だけだ。剛生も、女子大生も、朔人のこの一面を知らない。ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、礼音は優越感をおぼえてしまった。
「礼音、早いじゃん。気合い入ってんな」
1年次からの知り合い、強矢剛生が、先週のように隣に座る。彼は、隣の県から電車とバスを乗り継いで通学している猛者である。がたいが良く、入学当時は体育会系サークルから勧誘が止まなかったが、通学の便の悪さを理由に全て断った。本当は、家族の事情のためらしい。
「この講義、座席が決まってないじゃん。ここを取られるわけにはいかないから」
「だよな。ここ、寝てても見えづらいポジションらしいぜ」
剛生が指摘した通り、教壇から見えづらい場所だから、この席をキープした。この「世界遺産の建築学」は、世界遺産にまつわるビデオを見た後に担当講師が解説をするという形式の講義だ。今どき珍しく、紙に印刷したプリントが配られ、講義の概要も書かれている。寝ていても平気だと勘違いする学生が多く、受講希望者も多い。だが、希望は第一週の講義で打ち砕かれた。期末レポートは、スクラップブックの提出なのだ。講義で扱った世界遺産を自分なりに調べ直し、ノートをつくって提出する。それができずに単位を落とす学生が過去に多かった。過去の受講者は意地悪く誰も教えない。それでも礼音が受講を取りやめなかったのは、邪な理由があるからだ。
「お、王子様も、もう来てるぜ」
剛生は、最前列の端を指差した。その先にいるのは、栗須朔人だ。女子数人に話しかけられている。隣空いてますか、といった内容だろう。朔人は荷物をまとめ、あっさり席を譲った。
「気づけよ!」
礼音は、思わず突っ込みを入れてしまった。その声に気づいたのか、朔人が顔を上げた。やべ、気づかれた。
「こっち! 空いてますよ!」
剛生が手を振り、朔人を呼んだ。朔人はためらわずに来てしまう。
「礼音の隣が空いてるんで、どうぞ」
「なんで俺の隣なんだよ! あんたの隣も空いてるだろうが」
「じゃあ、真ん中に来てもらうか? 悪い虫がつかないように」
「あんたの隣が空いてるだろうが」
「すみません、こいつすぐに寝ちまうんで、起こしてやってくれませんか?」
礼音の意見はあっさり却下され、朔人は礼音と剛生の間に座ることになった。
「ども、強矢剛生です」
「日本文学科の栗須朔人です。席を譲って下さり、ありがとうございます」
「や、そんなこと……品格があって、格好良いですね」
おい、強矢剛生。顔を赤らめてんじゃねえよ。俺は何のBLを見させられているんだ。日本文学科の王子様が、朝から茄子色ジャージでヤンキー座りをしながら蕗の筋を剥いていたなど、剛生は信じないだろう。朔人がトートバッグからタンブラーを出して机上に置く動作に、剛生は目が釘づけになってやがる。王子様の理想像を打ち砕いてやろうと思い、礼音は先程頂いた「おやき」をふたりに渡した。
「悪いな、礼音。実は、弁当が足りなかったんだ」
剛生はすぐに「おやき」にがっつく。朔人は、ありがとうございます、と微笑み、すぐにラップを剥がして「おやき」にかじりついた。
「美味しいです。中身は、大根葉ですか」
朔人は、タンブラーの蓋を開けた。コーヒーの香りが漂う。剛生は幻滅するどころか、朔人に見惚れていた。
「コーヒー、素敵っすね。おすすめの水筒は、ありますか?」
「どうでしょう。大手メーカーの保温性の高いものが良いと思います」
「買います」
剛生には、朔人が「おやき」を食べる様子が見えていなかったようだ。先程、朔人に席を譲ってもらった女子が、こちらを見て黄色い声を上げていた。
講義が始まると、朔人はタンブラーをトートバッグにしまった。講義の間、礼音は無意識のうちに、何度も朔人を盗み見てしまった。そのたびに、朔人を盗み見ようとする剛生と目が合ってしまった。朔人は涼しい顔でプリントにメモ書きをする。礼音と面識がある素振りは見せない。礼音はこの講義の間、一睡もできなかった。
3限が終わると、朔人は爽やかに大教室を出ていった。それに対し、剛生は半分夢を見ているようにぼうっとしている。
「……俺、4限休むわ。水筒買いに行ってくる」
「タンブラーな」
「俺も水筒でコーヒー飲みたい」
「店員に、タンブラー下さいって言うんだぞ」
一コマ90分の講義で、すっかり朔人に心酔してしまった剛生をひとりにするのは少々心配だが、礼音は4限も5限も休むわけにはゆかない。3限で溜まった眠気を4限と5限で消化し、5限が終わると急いで家に帰った。帰りは上り坂。心は、いそいそしている。
庭園と家庭菜園の美しい家に着くと、玄関前の外灯はすでに点いていた。車は、ない。彼が先に帰宅し、アルバイトに行ったようだ。礼音はベースのハードカバーを背負い、ビアンキに乗って再び出かける。
バンドの練習をする場所は、須川さんの自宅だ。物置を改築し、防音対策までなされた、もはやスタジオである。アンプ等の機材もこのスタジオに置かせてもらっている。バンドの練習は、金曜日の19時半から21時。都合が悪いときは、翌土曜日の午後。今は、5月の大型連休のイベントで演奏する曲目を練習している。
「礼音くんが入ってくれて、良かったよ。若い子も見に来てくれるようになったんだ」
須川さんも、折茂さんも、灰野さんも、礼音を子供扱いせず、尊重してくれる。練習以外でも遊びに行くし、ランチやカラオケもする。バンドメンバーは年齢が離れているが、友人という感じがする。大学よりも楽しいかもしれない。
「ところで、夏祭りのステージで、ボーカルやらない? いつだかカラオケに行ったとき、礼音くん上手かったじゃん。若い子に人気のグループの、ほら、あの子みたいで」
それだけは、礼音は丁重にお断りした。カラオケでは歌うが、礼音はステージで歌わないようにしている。
バンドの練習が終わると、礼音はビアンキを爆速で漕いで、帰宅した。まだ22時前。彼のアルバイトは22時までだから、彼はまだ帰ってきていない。洗濯物は夕方の時点で畳まれていて、風呂も掃除されていた。夕飯も、できている。礼音がやることが、何も思いつかない。彼は礼音に家事をさせてくれない。お客様扱いされているのか、家事をこなすのが本人のルーティンなのか、礼音が入る隙がないのだ。今日も家事が残っていなかった。
荷物を部屋に置き、大学の課題を確認する。5限の課題で、講義の間に見た映画の感想を提出しなくてはならない。先週と今週で分けて1本鑑賞したのは、松本清張原作の「砂の器」だ。今日見てねえ。DVDを探して1週間以内に見なくてはならない。大学図書館のホームページを検索したが、すでに貸出中だ。1週間以内に返却されるとは限らない。
溜息をついて天井を仰ぐと、玄関が開く音がした。心臓が高鳴る。礼音はすぐに玄関に向かった。
「おかえり!」
「ただいま」
彼が帰宅し、寂しそうに微笑む。これは、あの顔だ。礼音はわざと、彼に抱きついた。彼はトートバッグを下ろさずに、礼音に体を預ける。
3月末に、法事から帰ってきた朔人が、荒れた様子を見せたことがあった。ベッドマットにうつ伏せになり、大声で叫んでいたのだ。礼音は考えもせず、朔人を撫でてなだめ、落ち着いて眠るまで隣で横になり、自分も昼寝をしてしまった。
あの法事の日以来、朔人は礼音に弱った顔を見せることが増えた。不意に不安に襲われるらしく、そんなときは礼音にくっつこうとする。一晩、添い寝したこともある。安心し切ったように入眠する彼を見届けると、礼音も安心して眠れる。こんな朔人を知っているのは、自分だけだ。剛生も、女子大生も、朔人のこの一面を知らない。ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、礼音は優越感をおぼえてしまった。

