大学2年生になったばかりの、ある日のことだった。バンド仲間の須川さんの発案で、日帰り温泉に行くことになった。須川さんは高齢の両親と農家をやっており、その日帰り温泉の直売所でも野菜を売っている縁で、入場料無料券を何枚ももらったらしい。それを、バンドメンバーにも譲ってくれて、いっそのこと皆で温泉に行こうという話になった。
「オヤジバンド、出発!」
「若い子もいるけどな」
折茂さんの号令に、灰野さんが突っ込みを入れる。いつもの光景だ。
普段の生活では行かないような田舎道を、須川さんの運転する車は進んでゆく。山に入りかけた坂道で、自分の目を疑った。隠れ家のような洒落た一軒家の庭に、フランス文学論の彼がいた。薔薇のアーチを見上げ、こちらを見て、一瞬目が合った。
物憂げな、美しい人。無計画で大雑把な自分は、決して接することがないと思っていたのに。
あれから1年後。自分は彼の元に転がり込み、あの洒落た家に住まわせてもらっている。
目が覚めると、彼の姿が見当たらなかった。もしやと思い、外に出ると、あの彼は茄子色のジャージ姿で、家の外の水道で、蕗の筋を剥いていた。彼は礼音に気づき、顔を上げた。
「おはようございます」
飾らない微笑。思わず、礼音も破顔してしまう。だが、すぐに現実に引き戻された。物憂げな美しい彼は、ことごとくその雰囲気をぶち壊す。首から上と下の雰囲気が合っていない。この茄子色ジャージは、礼音の通っていた高校でも有名な、他校のダサジャージだった。
それに対して、礼音の母校は、黒ジャージで細いラインが入っており、学年によってラインの色が微妙に異なっていた。礼音の学年は、白。他の学年は、シルバーかサックスブルー。デザインが絶妙で、近隣の高校の中ではトップクラスに入る格好良さだった。礼音はその黒ジャージを格好良く着こなせなかったが、今はスウェット代わりに着ている。
「どうかしましたか?」
茄子色ジャージ姿で、柔和に微笑む彼。ジャージはさておき、見つめられると返事に窮してしまう。
「姿が見えなくなって、不安になりましたか」
図星だった。
「どこにも行きませんよ。出かけるときは、必ず伝えていきます。だから、あなたも黙って出ていかないで下さいな」
水洗いした蕗をボウルに入れ、彼は腰を上げた。
「出ていったら、殺してあげます」
彼、栗須朔人は、随分と物騒な、教員志望の学生である。
家に入る朔人に続き、礼音も家に入った。筋を剥いた蕗は、塩をすり込み、鍋で茹でる。茹でたら、再度筋を剥く。朔人はこの作業を、1限の前の朝に行っているのだ。丁寧な暮らしぶりに、礼音は頭が下がる。下処理した蕗は、かつお節と砂糖、醤油で煮る。煮る間に、朝食を摂る。夕食は炬燵でゆっくり摂るのに対し、朝は食卓で済ませる。食事のペースは朝食も夕食も変わらないが、朝から炬燵にどかっと腰を下ろしてしまうと、そのままだらだら過ごしてしまいそうだ。
今日の朝食は、納豆と蕗味噌のどんぶり、セロリのコンソメスープ、新摘菜のお浸し。幼い頃から、こういう地に足のついた食事を摂ってこなかった礼音にとって、朔人の料理は新鮮で、それなのに心に沁みる。この家の料理全てが美味い。
「ごちそうさま! 先に行く!」
クロスバイクを通学手段にしている礼音は、自動車通学の朔人より早く家を出なくてはならない。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
「行ってきます!」
行ってらっしゃい。行ってきます。そのやりとりがどんなに尊いのか、礼音はこの家に転がり込んで初めて知った。
「オヤジバンド、出発!」
「若い子もいるけどな」
折茂さんの号令に、灰野さんが突っ込みを入れる。いつもの光景だ。
普段の生活では行かないような田舎道を、須川さんの運転する車は進んでゆく。山に入りかけた坂道で、自分の目を疑った。隠れ家のような洒落た一軒家の庭に、フランス文学論の彼がいた。薔薇のアーチを見上げ、こちらを見て、一瞬目が合った。
物憂げな、美しい人。無計画で大雑把な自分は、決して接することがないと思っていたのに。
あれから1年後。自分は彼の元に転がり込み、あの洒落た家に住まわせてもらっている。
目が覚めると、彼の姿が見当たらなかった。もしやと思い、外に出ると、あの彼は茄子色のジャージ姿で、家の外の水道で、蕗の筋を剥いていた。彼は礼音に気づき、顔を上げた。
「おはようございます」
飾らない微笑。思わず、礼音も破顔してしまう。だが、すぐに現実に引き戻された。物憂げな美しい彼は、ことごとくその雰囲気をぶち壊す。首から上と下の雰囲気が合っていない。この茄子色ジャージは、礼音の通っていた高校でも有名な、他校のダサジャージだった。
それに対して、礼音の母校は、黒ジャージで細いラインが入っており、学年によってラインの色が微妙に異なっていた。礼音の学年は、白。他の学年は、シルバーかサックスブルー。デザインが絶妙で、近隣の高校の中ではトップクラスに入る格好良さだった。礼音はその黒ジャージを格好良く着こなせなかったが、今はスウェット代わりに着ている。
「どうかしましたか?」
茄子色ジャージ姿で、柔和に微笑む彼。ジャージはさておき、見つめられると返事に窮してしまう。
「姿が見えなくなって、不安になりましたか」
図星だった。
「どこにも行きませんよ。出かけるときは、必ず伝えていきます。だから、あなたも黙って出ていかないで下さいな」
水洗いした蕗をボウルに入れ、彼は腰を上げた。
「出ていったら、殺してあげます」
彼、栗須朔人は、随分と物騒な、教員志望の学生である。
家に入る朔人に続き、礼音も家に入った。筋を剥いた蕗は、塩をすり込み、鍋で茹でる。茹でたら、再度筋を剥く。朔人はこの作業を、1限の前の朝に行っているのだ。丁寧な暮らしぶりに、礼音は頭が下がる。下処理した蕗は、かつお節と砂糖、醤油で煮る。煮る間に、朝食を摂る。夕食は炬燵でゆっくり摂るのに対し、朝は食卓で済ませる。食事のペースは朝食も夕食も変わらないが、朝から炬燵にどかっと腰を下ろしてしまうと、そのままだらだら過ごしてしまいそうだ。
今日の朝食は、納豆と蕗味噌のどんぶり、セロリのコンソメスープ、新摘菜のお浸し。幼い頃から、こういう地に足のついた食事を摂ってこなかった礼音にとって、朔人の料理は新鮮で、それなのに心に沁みる。この家の料理全てが美味い。
「ごちそうさま! 先に行く!」
クロスバイクを通学手段にしている礼音は、自動車通学の朔人より早く家を出なくてはならない。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
「行ってきます!」
行ってらっしゃい。行ってきます。そのやりとりがどんなに尊いのか、礼音はこの家に転がり込んで初めて知った。

