2年前の3月30日も、こんな風によく晴れた日だった。
 東京は世田谷区、世田谷線の松陰神社前駅。数年前まで最寄り駅だった小さな駅前は、知らない店が並ぶ知らない町になっていた。洒落たカフェの前に若者の列ができ、彼らを巻き込まぬよう軽ワゴン車が恐る恐る脇を通る。巨大な肉巻きアスパラに興味があったが買えずじまいだった精肉店も、父に内緒で何度か黒糖蒸しパンを買い食いした小さな和菓子屋も、肩身が狭そうに佇んでいる。松陰神社を通り過ぎて目的地に着くと、待ち合わせの相手はすでにそこにいた。
「サク!」
「碧衣くん、大きくなりましたね!」
 無邪気にとびついてきた少年を抱き上げ、朔人は張り詰めた気持ちが解ける気がした。従弟の碧衣と最後に会ったのは、1年前。父の一回忌のときだ。朔人と同じ、日光の下で焦げ茶色に見える髪は、空気を含んでふわふわ揺れる。柔和な顔立ちは、母親譲りだが、眉目は何となく朔人にも似ている。糊の効いた黒いスラックスに、白いシャツ、ダークネイビーのカーディガンを着せられた少年は、私立小学校の児童だと騙っても通用してしまいそうだ。
「朔人、また大人びたな」
「叔父さん、ご無沙汰しています」
 碧衣を下ろし、朔人は叔父に頭を下げた。
「さっくり終わらせて飯でも行こうや」
 叔父、真野(まの)理比人(りひと)と1年ぶりに再会し、叔父に父の面影を重ねた。碧衣とは似ても似つかない叔父は、朔人の記憶にある父に似ている。朔人の父は、享年50歳。叔父も50歳を迎えたはずだ。叔父の妻、千鶴は40歳くらい。結婚当初は周囲がかなり騒いだらしいが、今はすっかり沈静した。千鶴は今日、来ていない。体調が悪いのかと思われるが、朔人はあえて訊かない。
 叔父の「さっくり」という言葉通り、親戚を呼ばない三回忌は早く終わった。洒落たカフェを通り過ぎ、世田谷線で三軒茶屋まで移動し、昼食にする。三軒茶屋駅周辺は子連れが多いが、成人ふたりと男児の御一行は目立つ気がした。
 ファミレスに入り、4人がけの席に案内されると、碧衣がすかさず朔人の隣に座った。
「碧衣くん、今日は来て下さって、ありがとうございました」
 朔人が碧衣の頭を撫でると、碧衣は大きな瞳をぱちくりさせてから、にっこりと笑った。碧衣は無口だが、表情豊かな子だ。
「碧衣、好きな飲物(もの)持ってこい」
 叔父に促され、碧衣はドリンクバーに向かった。ふたりきりになり、叔父が口を開く。
「朔人、あんなことをメールしちまったが、今日は来てくれて、ありがとな。碧衣の嬉しそうな顔を、久しぶりに見たよ」
「お礼を言うのは、僕の方です。僕の父親の法事なのに、何から何まで、ありがとうございました」
「大したことじゃないさ。それより、七回忌はやらないだろう?」
「そのときは、僕がやりますよ」
「そういうことじゃない。これ以上、こいつの法事はやらなくて良いだろう。兄貴……お前の父親を悪く言いたくはないが、お前があいつに手を合わせるところは、見たくない。あいつの勝ち誇った顔が、目に浮かんじまうんだ」
 叔父がそう思うのも、朔人には、わからなくない。
「あの一件は、朔人は何も悪くない。悪いのは、あいつの方だった。お前を守り切れなかった、俺も悪かった」
「叔父さんは、何も悪くないです。むしろ、僕を住まわせてくれて、感謝しています。今も、家を貸して下さって、居候まで受け入れて下さって」
 てこてこ、と碧衣が戻ってきた。トレイに3人分のウーロン茶のグラスを持ってきている。
「碧衣くん、自分の分だけで良いんですよ。重いでしょう。でも、ありがとうございます」
 席に座った碧衣を、朔人は、ぎゅっと抱きしめる。碧衣は、くすぐったそうに体をよじり、朔人にくっつく。碧衣は、本当に可愛い弟みたいだ。ずっとこうしていたくなる。朔人が父の元を離れて叔父の家に身を寄せていたときも、幼い碧衣がこうしてくっついてきた。事情を知らない碧衣が全身で示す愛情表現に、朔人は何度心を癒やしてもらったことか。碧衣がいなければ、朔人は精神を追い詰めて大学受験に失敗していたかもしれないのだ。
 不意に、背後の席の会話が、朔人の耳に入った。朔人は、碧衣を抱きしめるふりをして、碧衣の耳をふさぐ。大声で会話するのは、社会人生活が長そうな女性陣だ。
「……女優の、何だっけ、ほら、あの人。年上の映画監督と結婚した人。最近テレビに出なくなったよね」
「待って。今、検索するから……出た出た、真野千鶴だ! 旦那は、映画監督のクリス・リヒト」
「年の差やばいじゃん! 旦那に騙されて芸能界引退したか」
「だよねー。芸能界、やばいね」
 朔人は叔父の反応が気になったが、叔父はのんびりとウーロン茶を飲み、酢豚のランチセットを食べ始めていた。


 昼食を終えて店を出る。渋谷駅までは田園都市線を利用し、渋谷駅で叔父と碧衣と別れる。碧衣は朔人に元気良く手を振り、朔人も振り返す。朔人は高崎線に乗り、運良く空いた座席に座り、目を閉じた。独りになると、蓋をしていた感情があふれて止まらなくなる。眠っている間は感情を忘れてしまうが、最寄り駅寸前で目が覚めると、忘れていた感情を思い出した。
 駅を降り、初めて駅ビルのカフェに入った。精神を落ち着かせてから車に乗るつもりだが、走った直後のように心臓が脈打ち、落ち着く(きざ)しがない。埒が明かない。カフェを出て、駐車場に向かう途中にある、パティスリーのアウトレットで大容量のミルクレープとロールケーキを買った。帰宅したら気ままに食べよう、と自分に言い聞かせる。
 何とかして車を運転して帰宅し、2階の自室に入る。どかっ、とマットレスに体を落とし、枕に顔を埋める。もう、我慢の限界だった。朔人は、枕に顔を埋めたまま、言葉にならない言葉を、声の限りを尽くして叫んだ。あふれてくる、どす黒い感情に飲み込まれ、何度も、何度も。唾液が垂れるのも、涙が流れるのも構わず、朔人は声を枯らして叫んだ。これが自分の本性だ。弱く、醜く、なりふり構わず喚き散らす。昨年の今日も、こうだった。
 どれくらいの時間叫んでいたのか、わからない。体力が尽きて、ぐったりとマットレスに横たわると、朔人に寄り添う者がいた。セミダブルのマットレスに乗り、朔人の髪を指で梳く。涙で汚れた頬を、手のひらで包む。腰を屈めて、朔人の体を抱きしめ、共に横になる。彼は何も言わない。彼の呼吸が、朔人にも伝わる。彼の呼吸に合わせて、朔人の荒れた息も落ち着いてくる。今、とても心地良い。朔人は目を閉じ、彼に体を預けた。フランス文学論の講義で気づいていないなんて、嘘だ。本当は、気づいていた。爆睡する彼の頭を撫でてみたかった。「聖ヒエロニムスの書斎」に描かれる獅子のように穏やかに午睡する彼のそばに居たかった。こうして、近づきたかった。こうしたかった。
 行かないで。ずっと、ここにいて。
 朔人は礼音の胸に顔を埋め、彼を抱きしめた。