アルバイト先の学習塾では、バイト講師が最後の出勤日ということで挨拶をしていた。
「今日が最後でーす。短い間お世話になりましたー」
 生徒達から惜しむ声は聞かれず、スタッフもすっかり忘れていた。山田(まりん)というバイト講師は、明るく気さくだが、評判はそれほどでもない。皆が当たり障りなく接していたため、波風立たずに最後まで勤務できたようなものだ。
「なんか、寂しいなー。また戻ってこようかな。でも、教員採用試験に受からなかったから、また挑戦するんです。介護等体験で老人ホームの仕事も良いなーって思ったから、4月から老人ホームで介護の仕事をしながら試験勉強します」
 何度も繰り返した話を、山田海はタイムカードを打刻する前に職員室で勝手に始める。
「バイトを辞めるときって、花束とかもらえるものだと思ってたけど、案外あっさりしてるんですね。やり甲斐を搾取されちゃったなー」
 そろそろタイムカードを押すように朔人が促そうとしたところで、塾長が間に入ってくれた。ラガーマンのように大柄だが柔和な塾長は、雰囲気だけでその場を収めてしまう特異な人物だ。塾長直々に最後の挨拶をされると、山田海は大手を振って帰っていった。タイムカードの打刻は、すっかり忘れられていた。
「朔人くんが講師だったら良かったのに」
 嵐のようなバイト講師が去ってから、塾長が一言こぼした。
「朔人くんも、教員採用試験受けるんでしょ? 朔人くんなら、ここの先生もできるんじゃないかな。きみ、生徒達からも先生呼ばわりされてるでしょ。毎回訂正してるけど。朔人くんは、生徒達から慕われているんだよ」
 そんなことないです、と朔人は謙遜した。確かに、やんちゃな生徒からは先生呼ばわりされている。先生でないので、毎回訂正している。スルーされるか、嫌な顔をされるか、生徒の反応は二択なので、嫌われているのだと思っている。生徒に嫌われても、保護者からクレームが来ず業務を誤らなければ解雇の対象にはならないと、考えていた。
「講師だったら良かったのに、は3割くらいは冗談だけど、生徒に慕われているのは本当だよ。生徒達にも心を開いてあげてよ」
 冗談が交ざっていても、塾長はかなり本気に見える言い方だ。自分が慕われているなど、冗談にも程がある。昔から自分は、嘘の内容で褒め気を遣わないとコミュニケーションが取れないと思われている。ふと思い出したのは、礼音が夢中で料理を食べてくれる様子だ。あれは演技だと思いたくない。


 アルバイトが終わる頃には、駅直結の商業施設はとっくに閉店している。学習塾の事務のアルバイトを始めて1年経つが、商業施設で買い物をしたことは、ない。商業施設で遊び歩くような友人もいない。アルバイトに間に合うように駐車場に車を駐め、退勤したら可及的速やかに駐車場に向かい、出庫する。明るい駅前から、寝静まった郊外の家に帰る。
 玄関を解錠して中に入ると、自転車のハンドルにぶつかってしまった。
「ごめん! 邪魔だよね……? やっぱり、外に置く」
 黒ジャージ姿の礼音がすぐに来て、自転車をどかそうとする。
「ここに置いて下さい。盗まれたら大変です」
 朔人はなるべく自転車にぶつからないようにして靴を脱いだ。
「おかえり」
 礼音に言われ、朔人も答える。
「ただいま」
 おかえり。ただいま。このやりとりをしたのは、叔父の家に世話になっていた1年弱の間だけだ。
「夕飯、これから食べるところ。これ、使おうと思って」
 礼音が緩衝材を剥がして出したのは、百均の(どんぶり)だった。
「あ、でも、本当は、つまみ食いした」
 恥ずかしそうに告白する礼音に、朔人は、全部食べても良かったのに、と言いそうになったが、相手を無碍にしてしまう気がして、やめた。こんな朔人を厭わずに一緒に飯を食ってくれるというのだから、拒絶するのは、やめよう。
「食べましょう。お腹空きました」
 丼に米飯と鶏大根を盛り、副菜は冷蔵庫の作り置き。丼に蕗味噌を添えると、礼音の瞳が輝いた。ネコ科の動物みたいだと朔人は思ってしまった。
「うまいー!」
 炬燵に入り、礼音は丼に、がっつく。
「おかわ……」
「どうぞ」
 礼音は丼二杯飯。こんなに喜んでもらえるとは、思わなかった。普段どんな食生活をしたら、こんなリアクションをするのだろう。
「普段から、こんなに美味いものを食ってんの?」
「まあ、普段から、こんな感じです」
「俺、こういう飯を食って育ちたかったな」
 ふと、礼音の表情が翳った。
「ごちそうさまでした!」
「柚子ピールのクッキーもありますが」
「これ以上俺に尽くさないでー!」
 礼音は炬燵にひっくり返った。朔人は、黒ジャージのロゴに見覚えがあった。偏差値の高い都立高校のジャージだ。茄子色に蛍光イエローのラインが入った朔人の高校より断然格好良く、朔人の高校でも話題になった。この久世礼音も、東京の出身のようだ。
「合鍵を渡しておきます」
「あ、ありがと」
 寝転がる礼音の手に、朔人は合鍵を乗せた。
「今月の30日、丸一日出かけてきます。好きに過ごしていて下さい」
「じゃあ、ベースの練習してて良い?」
「夜中でなければ、大丈夫です……ベース?」
 朔人がギターだと思い込んでいたのは、ベースだった。
「すみません! てっきり、ギターかと」
「形が似てるもんな」
「訂正して下さいよー!」
 朔人は、礼音のことをほとんど何も知らない。出身地も、家族のことも、交友関係も。